第2話

 記憶の中では、遠くで弟がはしゃいでいるのが見える。冬になると大人の身の丈を超えて降り積もる雪の平原に、弟は倒れ込んで自分の小さな体を象る遊びに夢中だ。

 そんな弟の笑い声を聞きながら、自分のまだ多くに触れた事が無い非力な手の、その掌の上に降り、溶けては消えていく雪を、尚記は涙が出る寸前の気持ちで飽きることなく眺めていたのを覚えている。

 後から後からやむことを知らない雪は、世界を静けさの中に包んで行く。尚記の手や頬に触れれば簡単に溶けて消えていくそれは、しかし確実にこの見渡す限り一面の白い世界を作り上げているのだ。

 こんなにも脆いのに。

 尚記が生き、時には恐怖をも感じさせる世界を、尚記がどんなに静けさを願っても喧騒鳴りやまないこの世界を、雪は白い静けさの中に包んでしまう。尚記は手の中で消える雪と果てしない一面の雪景色を交互に見て、やはり泣きそうな気持ちになるのを幼いながらに自覚していた。

 そして、きっと世界には同じような気持ちで涙をこらえている誰かがいるだろうことを思い。僕等はやがて大人になったら出会えるだろうか?出会った時に気付くだろうか?一人ぼっちの魂はお互いに鳴り響いて、まだ見ぬ君がいる事を教えてくれるだろうか?そんな事を考え、また泣きたい気持ちになっていた。

 大人になってからも尚記は雪の中に佇むことがあり、同じように泣きたい気持ちになることがある。しかし大人になってから感じる泣きそうな感覚は、幼い頃を思い出すと言う、懐古的な感情も加味されての泣きそうになる感覚なのだろう。昔とは違う。もうあの頃には戻れない。

 尚記は外来受付棟の来客用の低いテーブルを拭きながらそんな事を考えて、もう感じる事の出来ない感覚があることを切なく思った。

 

 外来受付棟を1時間ほどかけて清掃し、外に出ると明るさと眩しさが増していた。だか風が吹くと寒い。昨日の夜の雨には雪も混じっていたらしい、そんな事を出勤して来た事務員や作業員の一団が話し合っているのが聞こえた。この時間になると出勤する人の数も増え、そこかしこから談笑や機械的にやり取りされる朝の挨拶の音が聞こえてくる。尚記は他人は気付かない程度に、尚記自身も気付かないうちに顔を顰めた。しかしすぐに出勤者の中に八崎の姿が在るのではないかと思い、口角を上げて人の流れが多い幹線道路の方に歩いて行った。

 それにしても明るい。ここまで明るいとあからさま過ぎて尚記の春に対する好意の思いも薄れていく。冬は夜が長い。それも冬が好きな理由の一つだ。特に夜明け前、夜と朝とが混じりあうあの一瞬が見れるのが良い。春が近づくと夜明けが早過ぎて、早起きの尚記もなかなか夜明け前を拝むことが出来なくなる。

 尚記は大抵、午前4時頃には起きている。それでも春近くになると準備をして出かける頃には、夜明け前と呼ぶには明るくなり過ぎているのだ。冬であれば夜と朝が混じりあい、空がアメジスト色に染まるひとときを眺める事が容易にできた。

 弟の裕記が亡くなってから、尚記は出来る限り夜明け前の空を眺める時間を作るようにしている。夜明けを眺めることによって、夜明け前の悠久さと人の歴史の長さ。夜明け前の短さと人の命の短さ。それらを照らし合わせ、自分を含めた小さな人間達を、夜明け前と言う壮大な現象の中に溶け込ませ一緒くたにする事によって自身の安定を図り、どうにかこうにか一日を乗り越えるように生きていた。

 もう8:00過ぎだ。アメジスト色の部分など何処にも残っていない事は分かっていたが、尚記は記憶に残っている幾つかの夜明け前の風景を思い出して反射的に空を見上げた。

 

 空を見上げた場所は外来受け付け棟から伸びる、工場内の支線道路と言われる、人しか通れないような細い道が、トラックや重機も往来できるほどの道幅のある幹線道路とT字に交わる場所だった。幹線道路の両脇には無災害の記念樹などが植わっている。尚記の目の前に横たわった幹線道路を右に行けば通用門、つまり構内外への出入り口となり、今は続々と出勤者の塊りが流れ込んできている。そして尚記の前を通過し、左側に立ち並ぶ各工場棟に向かって歩いて行き、分散して吸い込まれて行く。

 尚記は空を見上げて、そのままグルリと一周、空を見回した。外来受付棟の方を向いた時、外来受付棟から人が出てくるのが一瞬視界に入ったがそのままグルリと一周した。一周したあと工場棟区域の方を向いて止まった。視線は空に向けたままである。空と尚記の視界の間に、幹線道路に植えられている梅の木の枝が割り込んできた。空にヒビが入ったように見えた。


「何をしているの?」

 外来受け付け棟から出て来た女性事務員が尚記に尋ねた。

「ほら、ハチサキさん。」

「ヤサキよ。」

 女性事務員は八崎であった。

 尚記は八崎と会う時は必ずと言って良いほど、このやり取りをする。このやり取りをする瞬間がとても好きだからだ。

 このやり取りは2人にとっては…厳密に言うと尚記にとっては、挨拶のようなものだ。八崎がどのように思っているのか尚記は訊いた事がない。ただ八崎は何度やっても「いい加減にしてちょうだい」と言った事が無い。最初のうちこそ、本当に八崎の名前を覚えないのか、わざとなのか探るような目を向けて来たが、わざとだと分かると受け入れてくれた。諦めたとも言うが、嫌な顔をしない。顔見知りの2人が「おはよう」と言っているような当たり前の顔して受け答える。だから2人にとっては挨拶のようなものなんだと尚記は思っている。

 実際、尚記と八崎は2人の間で他の挨拶を交わすことはほとんど無い。

 例えば朝なら、「ハチサキさん、今朝は寒いですね」「ヤサキです。車のフロントガラスが凍って大変でした」

 昼なら「ハチサキさん、お昼ご飯は何ですか?」「ヤサキです。今日は手抜きでコンビニのサンドイッチです」

 帰宅時なら「ハチサキさん、暗くなるのが早いから気をつけて帰って下さいね」「ヤサキです。ありがとう、沢田さんも気をつけて」

 無論、毎回やるわけではないし、八崎は無視して訂正せずに会話を続ける事もあるが、こういった具合のやり取りをする。

 文章として思い起こすと諄く感じるが、2人にとっては「おはよう」や「こんにちは」の感覚なので、何の違和感も無いのだ。尚記は試しに「ハチサキさん」と「ヤサキです」の部分を「おはよう」や「こんにちは」に言い換えて想像してみた事がある。日本語教本の文例に出て来そうなテキスト感はあるが、諄くはないのだ。

 この、2人にしか分からない感覚を共有できていると思える事が、尚記にとっては何より嬉しかった。

 嬉しかったし、嬉しく感じてしまうのはどう言う事なのかも分かっていた。挨拶のように八崎の名前を二人のあいだで遣り取りするたびに、心に優しい温もりが広がって行くのを否応なく感じてしまうのだ。尚記は八崎と挨拶を交わすたびに自分の想いに気付かされた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る