2月22日にネコをひろう

神帰 十一

2月22日に黒ネコをひろう

第1話 2月22日に黒ネコをひろう

 春が近い。

工場の詰め所から外来受け付け棟に向かう道を歩きながら、尚記ヒサノリはそう思った。時刻は朝の七時を過ぎた頃で今日は二月二十二日だ。

 もう周りは明るかった。冬至のあたりの頃は天候によってまだ暗く感じる日もあるのだが、春が近いこの時期のお天道様は活動するには充分過ぎる明るさを提供してくれていた。

 特に今日は天気が良い。ときおり風が強く吹くが、昨晩降った雨は上がり 空は完全に青い。建物や木々に残った昨晩の雨の忘れ物がキラキラと光って眩しい。道に出来た水溜まりは空を映し、尚記は八崎に勧められて読んだ本の中に水溜りの情景を「足元にも空が広がっているようだった」と表現した一節があった事を思い出して、足を濡らさないと言うよりも、年甲斐もなく空に落ちないようにしようと言う気持ちで水溜まりをヒョイヒョイ避けて歩いていた。


 尚記の朝一番の仕事は掃除から始まる。特に早く出勤する必要は無いのだが、他の事務員達が出勤して本格的に仕事が始まってから掃除を行うと、ぶつからないように気を付けなければならない。そうなる前に掃除を済ませておきたいので尚記の出勤時間は少し早い。

 現場で作業していた頃からそうだった。作業員も作業前に清掃は行う。清掃をしながら設備やマシンに異常が無いか点検を行なっていく。だが、それは各自の作業範囲だけだ。

 作業員は、基本的に現場でユニットの操作や加工を行うのが主な仕事であり、デスクワークはほとんどない。現場の作業員の清掃だけで良いと考えていると、そう言った現場にある事務関係の設備や備品のメンテナンスが疎かになっていくのだ。尚記は現場にいた当時それを補完するように清掃を行なっていた。

 朝の掃除は、尚記が現場で作業をしている頃からの習慣だったので特に苦は無い。現場にいた頃の朝の清掃は時間外で自主的に行なっていたので、賃金は発生していない。今は倉庫での資料整理が主な仕事で、その他に共通設備の清掃も任されているから、清掃することでちゃんと賃金が発生している。代わりに工場棟、いわゆる現場にある事務系の部屋や什器は掃除しないようになった。

 ––––– 今は誰がやっているのだろう?

 現場の作業を離れ、現在の業務を行うようになって、対価とは?そんな疑問がたまに尚記の頭にポツリと降ってくるようになった。

 だか尚記はそのポツリと降ってくる疑問を、きちんと手に掬い見つめ直す事ができない。この日も春が近いことにワクワクしてポツリと落ちてきたその疑問を、(あれ?昨日の雨の水滴が落ちてきたかな?)くらいに思い。大して気に留めなかった。尚記の頭の上には雨の滴が留まれるような物は無く、空が広がっているだけなのに、なにも不思議に思わずに生きているのだ。


 春が近い。

ピョンピョンと飛び跳ねながら、尚記は再びそう思った。春が近くなると、やはり気持ちも明るくなる。けれど尚記は四季の中では冬が一番好きだった。雪が好きだった。尚記が住む群馬県にも有名なスキー場が幾つもあり、雪はたくさん降る。それはそれで好きだ。しかし尚記が一番好きな雪は、祖父と祖母が住んでいた、あの東北の山あいの風景と雪がつくりだす雪景色だった。いや、景色では無い。その中で見る「雪」が好きだった。

 

 祖父と祖母は山あいの雪がよく降る不便な土地をこよなく愛した。田舎暮らしで巷の暮らし向きや流行、ひいては見聞する世相からも離れた所で生活している事を自覚している節のある二人は、孫の尚記と裕記に対して何かを教える時、己の世界の小ささを知ってるため「己の知っている限り」と言う姿勢を崩さずに、自分達の持つ知識を伝えてくれた。  

 尚記は二人の謙虚とも言える姿勢から、色々なことを知っているような顔をして、偉そうに話している大人達が教える事が全てでは無いことを学んだ。物事を良く知っている人は、己の無知も知っているのだ。祖父と祖母は多くを語る事は無かったが、本当に大切な事だけをポツリポツリと教えてくれた。

 尚記は口数少ない祖父と祖母が、孫たちを大切に思ってくれているのを感じていたし、祖父と祖母が長年連れ添った信頼に甘える事なく、お互いを労りあって愛しあっている事を感じ取っていた。不便な田舎暮らしと、そんな二人に触れて見て、尚記は生きていく上で大切なことはそう多くはない、たくさんの言葉を尽くさずとも、本当に大切に思っているのなら愛は伝わる事を、祖父と祖母と二人の慎ましい生活から言外に教わった。

 

 年に一度か二度、歳を経てからは数年に一度しか行く事はなくなったが、静かな土地に降る雪は、まだ真っさらに近い幼い尚記の心の上に降り積もった。

 尚記は自分に対して「なぜ?」を突き詰めていくと、自分の深奥にはこの幼い頃に見た雪が、まだ溶けずに降り積っているのを感じてしまう。

 なぜその人を好きになったのか?

 なぜ人を嫌ってしまうのか?

そう言った疑問から、もっと他愛のない、

 なぜ空を見たのか?

 なぜ拾った猫を飼う事にしたのか?

そんな疑問まで…その答えを自分の中に見つけようとするとき、尚記の中に浮かぶのは言語化された思いではなくて、幼い頃に見た「雪」だ。  

 雪景色も雪の結晶も含めた、雪の概念のような物が自分の深奥にはあり、尚記はその溶ける事のない雪に触れ、これが全ての答えなのかと思い、人が人を好きになる理由を誰もきちんと説明出来ない事や、自分の行動の理由が言葉に出来ない事に納得した。

 

 雪はまだ遠くに見える山頂に残っているが、春を感じながら尚記は外来受付棟に着いた。外来受付棟の中には待合室がある。待合室には構内に通じる扉と、構外に通じる扉の二つ出入り口があり、尚記はまず構内側からしか鍵を開けられない扉の、ガラス面の部分を鼻歌混じりで拭いた。拭いた後は扉を全開にして待合室の空気を換気しつつ中に入る。

 もう一つの出入り口は外来者を待合室に迎え入れる為の物なので通行は自由だ。鍵がかかっている事は基本的に無い。こちらは構外へと繋がっているが、ここへ来るまでに守衛の前を通らなければならないし、待合室に貴重な物は無い。

 まさか応接セットのテーブルやソファを守衛の前を掻い潜って持って行く強者はいないだろう。鍵はかかっていなくても大丈夫なのだ。

 外来者はこの出入り口から待合室に入り、待合室に備え付けられている内線電話で担当者を呼び出す。尚記が開けた鍵がうっかり開いたままでいなければ、外来者はそこから先、待合室から勝手に構内へ進む事は出来ない。

 尚記が掃除を行う早朝に外来者が居た事は滅多にないが、油断をしていると尚記の調子ハズレの鼻歌を聞かれてしまう。聞かれてしまうが尚記は音量を聞こえないくらいまで下げるだけで、鼻歌を止める事は無い。出来るだけ楽しい気分で掃除を終わらせてしまいたいからだ。

 受け付けに人員は割いていない…ことは無いが、受け付けに人を割かねばならないような、いわゆるお客様扱いの外来者は、この棟を使わず別のルートで入って来る。なので鼻歌混じりで作業をしている作業者と、賓客がうっかり出くわす事は無いような仕組みになっている。

 

 ついで尚記は構外側の扉も開放した。待合室の停滞して強張っていた空気が緩むのを感じる。尚記は驚いたように周囲を見回した、空気が緩んだ瞬間に微かに八崎の香りを感じた気がしたからだ。

 八崎と言うのは庶務課の女性だ。尚記と違って外来者の前で鼻歌などを歌う人ではない。受け付けが必要な外来者の場合、対応するのは八崎を含む彼女が所属する庶務の人達だ。彼女達は外部折衝のプロだ。

 待合室には誰もいない。尚記は微かに感じた香りに振り回されるように、外来受付棟の廊下や、他の部屋も見て回った。八崎どころか、尚記以外は誰ひとりとして居なかった。

 気のせいか…これが恋患いというものか。

 尚記は溜息をついて、こんなに振り回されて煩わしく感じるのに、人はなぜ人を好きになるのだろう?そんな事を考えた。もちろん答えは出てこない。ただ自分のなかに在る雪をいつものように感じた。

 雪か…そう思った尚記はいざなわれるように意識が過去へと飛んだ。

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