第4話 歌姫
歌姫 三崎伸太郎 01・29・2021
この婆さんがあの歌姫だったなんて、誰も知らなかった。婆さんは背が曲がり腰が曲がり手が曲がり、それでも杖をつきながら歩いていた。
フリーマーケットでの事だ。その婆さんは、無造作に置かれた昔のカセットテープの前に立った。私は、近くに散らばっていた本を丁寧に目で追い、自分好みの本が無いかと探していた。
婆さんの視線が気になり、私はその方に目を移した。婆さんが見ていたのは古いレコードだった。古くなったレコードカバーには白黒の女性の写真がある。まさか婆さんではなかろう。
「取って差し上げましょうか?」私は丁寧に聞いた。老婆は腰を屈める事のできない風体に見えたからだ。
婆さんがコクリと頭を振った。
私は学校のパーキングのフリーマーケットで、青いビニールーシートの上に無造作に並べ置かれていたレコードをつかみ上げた。
婆さんに手渡す前にレコードカバーの写真を見て(あれ?)と思った。似ている。眼の前にいる婆さんに似ているのである。
「まさかと思うのですが、あなたが若いときには、こうだったかもしれないですね」
婆さんは、ニコリと皺くちゃな顔を崩した。
「私よ・・・」小さく言った。
私は手にしているレコードカバーの写真に目を落とした。「メリー・ムーワ。絶世の歌姫」と書かれてある。
婆さんは私の手からレコードを受け取り、椅子に座っていた男に一ドルを渡すと、私達に背を向けてよぼよぼと歩き始めた。
(メリー・ムーワ・・・絶世の歌姫・・・)
私は携帯でメリー・ムーワの曲をダウンロードした。やがて、私の耳にボリュームのある甘い歌声が流れてきた。
(まさか・・・)と、思いながらも私は婆さんを探し始めた。あの足取りでは、遠くには行っていないはずだ。
しばらく歩いていると、婆さんの姿が見えた。駐車場の中だ。婆さんは古いビュイックの車の中にいた。エンジンがかかっていた。
「メリーさん! 歌を聴きましたよ」私は、携帯のボリュームを一杯に上げて婆さんのほうに差し出した。
婆さんは少しの間、耳を傾けた。歌を聞いている様子だ。
しかし、車は動き始めた。
「サヨナラ、乙女よ。永久の愛が冷めぬうちに・・・」この様な歌詞が流れていた。
婆さんは、チラリと私を見て微笑んだ。古いビュイックが音を立てて、ゆっくりゆっくり走り始めた。
01・28・2021
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