第3話 なわばり

「なわばり」は、1982年の作品です。


その朝も婆さんはやって来た。

私は、レンガ造りの古びたホテルの小窓から眺めた。

カラフルなネッカチーフを被り、オレンジ色のくすんだ上着、茶色のスカートに焦げ茶色の前掛けをしている。

その姿は霧の中に二、三の鳩の羽ばたきと同時に、ホテルの裏庭にある垣根よりスッと現れた。

婆さんは、大きなゴミ箱を覗き込むと、手にした火かき棒のようなもので中をまさぐり、アルミ製の空缶を見つけては、足下に置いた黒いビニールのゴミ袋に落とし込んだ。

私は、その一連の動作をたびたび同じ小窓から眺めたはずだった。

しかし、白い霧に包まれたその朝は、婆さんをとりまく無駄な光景が除かれたせいか、いつもより印象強く見えた。

私は、アルミ製の空き缶が、大手のマーケットで引き取られることを知っている。以前、そのことに興味をもったから、価格を調べたことがある。

空缶二個で約一セントが相場だった。――ということは、空缶1,000個で約五ドルと言うことになる。

「千・・・・・・1,000個」

今日、五ドルで何日暮せるのだろうか。いや、暮らすなどともったいぶらない。

一体、五ドルで何が買えるのだろう。

1982年、アメリカ合衆国の大統領はレーガン氏。彼は昔、ハリウッドのスターだったそうな。

婆さんは、その日スターだった。黒いゴミ袋に入れた空缶を背負うと、重い足取りで霧に包まれて消えた。その姿は、以前見た映画のラストシーンに似ていた。

そして数日、私は婆さんを見かけなかった。

朝、その時間頃になるとゴミ箱のほうに注意しているのだが、物音は野良犬とか足早に出勤する、まばらな人達のものだった。

何分、老人だから病気でもしたのだろうかと心配していると、ある日、見知らぬ婆さんがひょっこり現れて、大きなゴミ箱を覗き込んだ。

黒っぽい服装の、いかにもやつれた感じの婆さんだった。ゴミ箱の中をさがす姿は、小さなネズミに似ていた。

現在、私が住んでいる社会は、確か資本主義的民主主義などという、舌のもつれるような制度が取り入れられている。しかし、ばあさんの動作を見ていると、この制度の基本的な理論がゴミ箱あたりで実証されているように感じ、同じ人間として空しくなって来る。

われわれの持つ、将来に対する何気ないぼやけた不安は、こういった場面の、無意識な認識から始まるのではなかろうか。

こんなことを考えていると、垣根よりスッとオレンジ色が現れた。

いつもの婆さんだ。

彼女は、太った体をゆっくりネズミのような婆さんい近づけて行った。そして、なにやら話を始めた。

スパニッシュのような言葉が、とぎれとぎれに聞こえてくる。彼女達が口争いをしていることは感じで分った。

それは一時続いた。突然オレンジ色の服装の婆さんが火かき棒を振り上げた。すると、ネズミのような婆さんは、手に持っていたビールの空缶をコンクリートの路上に投げ出すと一、二言何かを言って、あたふたとそこから去った。

オレンジ色の服装の婆さんは、火かき棒を振り上げたままの姿勢で立っていたが、やがて気付いたように火かき棒をおろすと、空缶に目をやった。

しかし、拾わなかった。

ゴミ箱も覗かない。

オレンジ色の服装の太った体は、ゆっくりと垣根の影に隠れて行った。

あくる日、婆さんは現れなかった。

次の日の朝、鳩の羽ばたきと共にスッとオレンジ色が見えた。



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