第5話 opening phase 5 ~路乃部診療所と妖精ミドルン~

 月虹町商店街を抜ける手前で、一軒の診療所が見えてくる。


 “路乃部ろのべ整形外科”――つい最近、出来たばかりの小さな診療所だ。

 

 その診療所から、白衣姿の青年が出てくる。


 しかしその姿を見るや否や、ルチルはそそくさとるりの背中に隠れてしまった。


「おはようございます、路乃部先生」

「おはようございます」

「……やぁおはよう。しずくちゃん、るりちゃん。今日もいい天気だね」


 濡羽色の長髪を緩めのポニーテールで纏めた青年の名は、路乃部はく。月虹町に越してきた若い医師だった。


「それと、おはよう。ルチルちゃん」

「お……! おはよう、ございます……」


 るりの背中に隠れたルチルの姿も、背の高い彼にはお見通しだった。


 観念したかのようにおずおずとるりの背中からルチルが顔を出す。

 

 さっきまでの元気はどこへ行ったのか、ルチルは借りてきた猫のように急にしおらしくなっていた。


「ところでるりちゃん、しずくちゃん。今朝のルチルちゃんは、まさか寝坊して全力疾走してしまって関節をまた痛めた、だなんて……そんな事、まさかしてないだろうね」


 まるで今朝から今までの一部始終を見てきたかのような路乃部の口調に、ルチルはギクリと強張る。


「そ、それは――」

「いいえ。全力疾走してましたわ、先生」


 ルチルが言い訳する暇もなく、るりが真っ先に告発する。


「それに大急ぎで来たものだから、腕も痛めてましたよ」

「る、るりちゃん! しずくちゃん!」


 不幸にもるりに続いて、しずくにも裏切られるルチルだった。


「おやおや、それはいけないね。ルチルちゃん」


 やんわりと落ち着いた声色で、路乃部は屈むとゆっくりとルチルの腕に触れた。


「ちょっと失礼」


 少し節くれだった長い指と広い手が、ルチルの二の腕をすっぽりと包み込む。


「ふむふむ……」


 触れられている部分がやけに熱い。それを意識してしまった途端、ルチルの顔が一気に火照りだした。


「なるほどね……」


 長くて艶のある黒髪から覗く中性的な顔立ち。


 固まっているルチルと目が合うと、路乃部はにこりと微笑んでみせた。


 たったそれだけなのに、ルチルの心臓は今にも爆発寸前だった。


「うん、これは念のために診た方がいいかな。夕方に診てあげるから、放課後に来るといいよ。ルチルちゃん」

「ふぁ、ふぁい……」


 この穏やかな笑顔の前では、ルチルに拒否権はなかった。


「おはようございます、先生」

「おや、キミヨさん。腰の調子はどうですか?」


 そんな上の空のルチルに気付くことなく、路乃部は通りすがりのお年寄りににこやかに挨拶を返す。


 子どもからお年寄りにまで誰にも優しい診療所の若き医師は、ルチルの“憧れの人”だった。


「……ルチルさん、ルチルさん」


 夢心地のように気の抜けた顔をしているルチルの目の前で、しずくが手を振る。


 しかし反応は何も返ってこない。


 赤面しながら硬直してしまっている親友に、るりはふぅっと息をついた。


「今日もルチルは先生にお熱ですわね。まさかルチルに春が来ようとは……」

「……そ、そんな事ないもんっ! 何でそういう言い方するの、るりちゃん!」

 

 るりの言葉でやっと我に返ったルチルは、顔を真っ赤にしながらぽかぽかとるりを叩く。


 が、るりはそれを微笑まし気に受け止めるだけだった。


「ふふふ。ルチル可愛いですわ」

「はいはい、るりさんもそんなに揶揄わないで……」


 しずくが苦笑しながら仲裁していると、近くの茂みがガサガサッと不自然に揺れる。


 二、三度茂みが揺れたかと思うと、中から勢いよく飛び出してきたのは一匹の小動物だった。


『しずく~、るり~、ルチル~!』


 犬のような子熊のような“空を飛ぶぬいぐるみ”としか形容できない緑色の生き物が、しずくたちの許にふらふらと飛んでくる。


『うわぁ~! 助けてほしいミド~!』


 それはルチルたちのよく知っている、ちょっと頼りない妖精“エメラルディオ・ミドルーン”――通称ミドルンだった。


「待てっ!」


ミドルンを追いかけるように茂みの中から飛び出してきたのは、ランドセルを背負った小学校低学年の少年たちだった。


 普段、妖精はプリズムガール以外の人の目には見えることはない。


 しかし、ごく稀に幼い子どもにも見えてしまう時があった。


『やめるミド~! なにするミド~!』


 少年たちの持つ木の棒に叩かれながら、ミドルンは為す術なく逃げ回っている。


 それに見兼ねたしずくは咄嗟に少年とミドルンの間に割り込み、少年の視界からミドルンを隠してあげた。


「あれっ? どこ行った?」

「あれ~、何処行ったかな~?」


 木の棒を振り回しながら少年たちが辺りを見回すが、しずくは素知らぬ顔で首を傾げる。


「きみたちは、何をしていたのかな?」

「あ、師範ん家のお姉さん! あのね、空飛ぶ犬がいたんだ!」

「違うよ! クマだよ!」

「い~や、猫だった」


 しずくが尋ねると、少年たちは我先にとしずくに答え始める。


『ミドルンは、ミドルンは犬でもクマでも、猫でもないミド~。“にじのくじら”復活の使命を預かった誇り高き妖精“エメラルディオ・ミドルーン”ミド~……』


 ふらふらになりながらも無事にるりの腕の中に避難したミドルンは、ガタガタと震えながら屈辱に耐えていた。


「空飛ぶ犬なんて、そんなのいるワケありませんわ。きっと見間違いよ」

「あ、さんごちゃんのお姉さん!」


 ミドルンを鞄の中に仕舞ったるりが隣に立ち、しずくに加勢する。


 小学生男子の間で密かに人気のるりに諭された少年たちは、少々頬を染めながらばつが悪そうに口ごもる。


「さっきまでたしかにいたんだけどな~……」

「でも、どっちにしろ動物をいじめちゃいけないですよ」


 屈んだしずくが目線を合わせながら少年たちに諭す。


 それには少年たちは何も言えなくなってしまった。


「は、はい……」

「ごめんなさい……」


 項垂れながら少年たちは素直に二人に謝る。


「分かったのなら、それでいいんです。きみたちはいい子ですね」


 そう言いながら、しずくは気軽にリーダー格の少年の頭を撫でる。


 てっきり叱られると思いきや撫でられるとは思ってもみなかった少年は、照れ臭そうに帽子の下で視線を横に逸らす。


「べ、別に……いい子じゃないし」


 そうは言うものの、まんざらでもなさそうだった。


「おい、そろそろ行こうぜ」


 しずくが手をどけると、少年は学校に向かって走り出す。


 リーダー格の少年が駆け出すと、他の子たちも後を追うように走り出した。


 一部始終を眺めていた路乃部はため息をつく。


「あぁ、田中くんだね」

「先生。知ってるんですか?」


 振り返ったしずくが路乃部に尋ねると、路乃部は顔をわずかに顰めながら頷いた。


「あぁ。サッカーをやってる子でね。この前、足首を捻ったからウチで診たんだよ。普段はいい子なんだけどね……」

「最近は違うのですか?」

「……最近、仲の良かった友達が、引っ越しちゃったみたいでさ」

「引っ越しちゃった……?」


 るりとルチルの問いに、路乃部は再び頷く。


「それで、ちょっと落ち込んでるみたいなんだ」


 路乃部たちはランドセルを背負った後姿を見送るが、ちらりと見えたその横顔はどこか寂しそうだった。


「きっと寂しいのね……」


 四人と一匹は小学生の集団を見送っていたが、ふと路乃部は腕時計に視線を落とした。


「おっと……立ち話してしまったけど、キミたち学校はいいのかい? そろそろ、危ない時間じゃないか?」


 それを聞いた三人はハッと目の前に聳え立つ学校の時計を見やる。

 

 時計の針は八時二十分を指し示していた。


「もうこんな時間……! 早く行きましょ、ルチル。しずく」

「はい、るりさん」

「わぁ、ホントだ! もう行かなくちゃ! 先生、行ってきます!」


 路乃部に見送られながら、三人は早歩きで学校に向かう。


『うぅ……今日はこのまま皆んなと一緒に行かせてもらうミド……』


 るりの鞄からひょこりと顔を出したミドルンは、半分泣きそうになっていた。


「ミドルンは男の子たちのスケープゴートになったんだね!」

『ミドルンは羊でも山羊でもないミド~! ルチルはいつも一言余計ミド!』


 覚えたての難しい言葉を使いたいだけのルチルだったが、そんなルチルにミドルンはぷんすかと腹を立てる。


「あ~ぁ、あたしも揶揄いたかったなぁ~」

『ルチルは性格が悪いミド~! 助けてミド~、るり~』


 まるでチェシャ猫のように意地悪く笑うルチルに、ミドルンはウルウルの上目遣いでるりに助けを求めた。


「ルチル、あまりミドルンを困らせてはいけませんわよ」

「そうですよ。遊びたいなら、私たちと遊びましょ」


 二人の模範的な答えを聞き、何故かミドルンが自信満々に胸を張る。


『二人は話が分かるミド~。ルチル、聞いたミド!? これが正しいプリズムガールの在り方ミド!』

「え~? あたしよく分かんな~い」

『都合のいい時だけ分かんなくならないでミド!』


 にししと意地の悪い笑みを浮かべるルチルにミドルンはツッコミを入れる。


『こんな調子で、本当に“にじのくじら”は目覚めさせられるのかな~……』


 盛大なため息と共に呟いたミドルンのぼやきは、クジラ型の白い雲が浮かぶ空に吸い込まれていった。

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