第3話 opening phase 3 ~しずく 日常編~
夢。
夢を見ている――と吊舟
ゆっくりと目を開けたしずくは、見たこともない雑木林の中にいた。
誰もいない。
人の気配もない。
足元に広がる枯れ葉が、くしゃりと微かに音を立てた。
ここは月虹町の何処かなのだろうか。
それにしても、あまりに殺風景すぎた。
しずくは辺りを見渡すが、葉を落とした枯れ木の群れしかなかった。
空だけが、何故か異様に赤かった。
底知れない恐怖と不安に駆られたしずくは、思い切って両親の名を呼んでみる。
――お、お父さん……お母さん……?
やっと声を絞り出したが、それが虚しく空に響く。
直後、どさどさと何かが降ってくる音が背後で聞こえた。
突然の物音にしずくはびくりと飛び上がり、ゆっくりと後ろを振り向く。
視線の先には――死体の山が積まれていた。
その信じがたい光景にしずくは釘付けになる。
――お父さん……お母さん!?
血溜まりの中には、何としずくの両親もいた。
――何で……どうして! 一体誰がこんな酷い事を!?
しかし驚愕と恐怖のあまり、しずくは両親に駆け寄るのはおろか一歩も動けないでいた。
――ここは……ここはいったい、どこなの!?
血で塗りつぶされたような真っ赤な空にはカラスが一羽、しずくを嘲笑うかのように鳴いていた。
んみゃあ~、としずくの上で飼い猫が高く鳴く。
「ルーズヴェルト、重い……!」
しずくが呻きながら抗議するものの、“ルーズヴェルト”と名付けられた黒猫はザリザリとしずくの頬を舐め回す。
「分かった……分かったから。今起きるから」
眠い目を擦りながら上半身を起こすと、ルーズヴェルトはしずくの肩にごつごつと頭を擦りつけた。
「おはよう、ルーズヴェルト」
いつものように小さな頭を撫でると、みゃあ~と気持ちよさそうな声を上げながらルーズヴェルトはピンと尻尾を伸ばしている。
ルーズヴェルトのお蔭なのかは分からないが、さっきまでどんな夢を見たのかすっかり忘れてしまった。
手早く制服に着替えたしずくは、部屋の前で待っていたルーズヴェルトと一緒に階段を降りていく。
「おぉ、しずく! 目が覚めたか!」
朝の7時半。ルーズヴェルトと一緒に階段を下りていくと、父の声が聞こえてきた。
「おはよう、父さん」
「あぁ、おはよう!」
庭では道着を着た父が、日課の正拳突きをしていた。
「父さん、朝から元気だね。あまり、無理しないでね」
日差しがあるとはいえ、肌寒い朝である。縁側に立つしずくは苦笑しながら父に挨拶した。
「何、無理はしてないぞ。身体のためにやってるんだからな! お前もどうだ、一緒に!」
笑顔で答えた父は、再び正拳突きをしながらしずくを誘ってみる。
しずくの父は空手の師範であり、自宅近くで道場を経営していた。
「うん。私も健康のためにやってみたいから、後で教えてよ」
いつもは苦笑交じりに断られてしまうが、今回は意外にも色よい返事だった。
思わず正拳突きの手を止めてしまったしずくの父は、パァっと顔を輝かせる。
「ホ、ホントか!?」
しかし、台所で朝食の準備をしている母がしずくに声をかける。
「いいのよ、しずく。この人にそこまで付き合わなくても」
「お母さん……でも、健康は大事だよ?」
しずくは父の日課の体力作りをフォローしつつ、母の用意してくれた食卓の前に座る。
「この人はただの趣味だから」
しずくの母は悪びれる様子もなく、しずくの前に味噌汁を差し出す。
今日の味噌汁は、大好きなジャガイモ入りだ。
「普段道場でも身体を動かしているのに、朝の五時に起きてトレーニング始めるとか、ホント普通じゃないわ」
日が昇る五時前に起き、近所に聞こえるのではと思うほどの声で正拳突きを始める自分の夫に、しずくの母は悩みが尽きなかった。
そんな母のうんざりした顔を見て、しずくはクスクスと笑う。
「確かに、家では少し控えた方がいいんじゃない? お父さん」
「ん!? ん、うむぅ……」
縁側を通してしずくが声をかけると、若干旗色が悪いと判断した父は口をへの字に曲げた。
「その代わり、後から私に教えてよ」
「分かった!」
しかし“しずくに空手を教える”という提案は却下されなかった。
それだけで父の心は歓喜に満ちていた。
「お前の空いてる時間なら、お父さんはいつでもオッケーだ!」
愛娘と共に過ごせる時間ほど、大切なものがこの世にあるだろうか。
しずくの父は嬉しそうに何度も頷いた。
「じゃあ、学校が終わったらね」
朝食を食べ終えたしずくは立ち上がり、さっきから足元でじゃれついていたルーズヴェルトを抱え上げる。
「今日も一日、気合入れていけよ」
「うん、気合入れていくね」
右の拳を突き出しながら父がエールを送ると、しずくも父に倣って胸の前で小さくガッツポーズした。
「はいはい、あなたも早くご飯食べちゃいなさい。はい、しずく。今日のお弁当。あなたの好きな卵焼きとウィンナー、入れといたから」
しずくの母は父を適当にあしらいながらピンク色の弁当袋をしずくに渡す。
「朝からいつもありがとう、お母さん」
「いいのよ。こんなの、あの人に比べたら何でもないわ」
声をかけたにも関わらずトレーニングをやめない父に、しずくの母はうんざりしたようなため息をつく。
「何か最近お父さん少し寂しそうだから、お母さんも優しくしてあげて?」
しずくの提案に、母はにっこりと微笑んだ。
「はいはい、分かってますよ。ま……ずっと、あのテンションだからね」
「それはちょっと……確かにやめて欲しいよね……」
いつでもどこでも全力元気な父親に、母娘は全く同じタイミングでため息をついてしまう。
それに同調しているのか、しずくの腕の中のルーズヴェルトも「ミャ~」と甲高い声で鳴いていた。
「でもあなたの知ってる通り、まぁ悪い人じゃないから」
「……私の方からも、少し言っておくね」
どこまでも気が利く自分の娘に、しずくの母は思わずクスリと笑う。
「そうしてちょうだい。あなたの言う事なら、あの人何だって聞いちゃうんだから」
「ちょっと、何でも聞きすぎだと思う時もあるけど……」
「そうねぇ」
目の中に入れても痛くないほど愛おしい一人娘なのは分かるが、流石に娘本人もどうかと思うほどの溺愛っぷりを見せるのがしずくの父であった。
しかも溺愛っぷりは友人関係にまで及び、つい先日はルチルとるりと一緒にスキー旅行に行ってくれたほどだ。
「あなたが良い子で良かったわ。ワガママな子だったら、ちょっとあたしどうなってたか分からない」
しかし、父の愛を真っ直ぐに受け止め真面目に育ってくれたしずくに、母は内心ほっとしていた。
そんな事を苦笑交じりに話す母に、しずくは思わず吹き出してしまう。
「帰りに何か買う物があったなら、連絡して」
「分かったわ。何かあったらスマホに連絡するわね」
そう答えながらしずくの母は、ルーズヴェルトをしずくから受け取る。
「じゃあ、ルチルさんとるりさんが待ってるから、行ってくるね」
「えぇ、行ってらっしゃい。あんたたち、本当に仲良しねぇ」
そう言われたしずくはにっこりと笑ってみせる。
「たしかに、最近は一緒に居る事が多いかな?」
これは何か隠してる――直感でそれを見抜いた母だったが、片眉を上げて「ふぅ~ん?」と笑うだけだった。
「あ、そういえば……」
何かを思い出したかのようにハッとした母は、しずくに顔を近づける。
「ルチルちゃん、もう大丈夫なの? あの人も珍しくしょげてたから……」
父に聞こえないよう耳元でひそひそと話す母に、しずくは軽く頷く。
「うん、もう大丈夫そうだよ。ギプスも取れて、病院も週一で行ってるそうだし」
「そう? それならいいけど……」
だがしずくがそう説明するものの、母の表情はどこか浮かなかった。
「ルチルさんもお家の人も、そんなに気にしないでって言ってたし、きっともう大丈夫だよ」
「……分かったわ。行ってらっしゃい」
しずくは二度目の行ってきますを言うと、縁側を通って玄関に向かう。
「行ってらっしゃ~い!」
「はい、行ってきます」
近所にまで響く父の声にも律儀に答え、しずくは家を後にした。
肩にかかるほどのセミロングの赤い髪は、母のお気に入りだった。
吊舟朱柚來(しずく) ――十五歳。
“プリズムガール”という秘密以外は、両親の愛情を一身に受けて育った礼儀正しい中学三年生。
彼女の一日は、こうして幕を開けた。
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