鬼灯
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第1話 鬼灯 前編
鬼灯 前編
お腹の底に重く響くような重低音で、東京の夜空に大きな花が咲いた。
間髪入れず、次から次と花火は夜空を七色に照らし出す。
北海道の田舎町から上京して三年、一人前の美容師になる為、昼間は都会の洗練されたサロンで見習いとして働き、お店の営業時間が過ぎれば、来る日も来る日もモデルウィッグを相手にフィンガーウエーブやコールドパーマの基本巻きの練習をした。
帰宅時間はいつだってテッペンを超えて居る。
ヘトヘトになって寮に帰れば、美容学校通信課程のテキストと向かい合った。
だから…東京に出て来たと言うのに、花火を見るのは初めての事だ。
「隅田川の花火大会、行った事ある?」
数少ない私のヘアーカットの練習台になってくれる裕史が言った。
裕史はサロンの近くに有る古着屋の店員だ。
給料の安い美容師の見習い。
流行の服なんて買うお金は無い。
当然のように古着に頼るしか無く、裕史の働くショップに通う内、いつしか友達になり、ヘアーカットの練習台もお願いするようになった。
半人前にも満たない美容師の見習いに、自分の髪を切らせてくれる人なんて居ない。
ウィッグの髪は一度切ってしまえば、二度と生えて来るわけもなく、月に一度、生身の髪を切らせてくれるカットモデルは本当に貴重な存在だった。
「花火かぁ、東京のはまだ見た事ないな…」
「なんで、好きじゃないの花火?」
「ううん、時間が無くて…」
「そうか、朱美ちゃん何時も遅くまで練習してるもんね」
私はそんな裕史の言葉を聞きながら、お互いを見つめる鏡の中で悲しい作り笑いを浮かべた。
花火は大好きだ。
遠花火の重低音を耳にするだけでワクワクする自分が居る。
出来る事ならドアの外に駆け出し、何時迄も夜空を眺めていたいくらいだ。
それでも、三年間は美容の事だけを考えようと心に決めて東京に来た。
だから私は東京の花火を見ていない。
見ていないのに…それなのに…三年経った今も私の美容師としての腕はまるで素人のままだ。
いつ心が折れても不思議ではない…そんな精神状態だった。
「今度の日曜日、あるんだよねぇ隅田川の花火大会」
どこか甘えたように話す裕史の喋り方…。
それが東京弁だと言うなら、世間知らずの私は裕史の話す言葉のイントネーションが素敵に聞こえる。
「日曜日かぁ…お店あるしなぁ…」
北海道訛りを隠し、少しだけ裕史の口調を真似てみた。
「何時まで?」
「早番だから7時の時点で受付が入らなきゃ、8時にはお店を出られるけど…それじゃあ間に合わないもんね」
初めから行く気のない私…今は大好きな花火を見るより、国家試験を一回で通過するための勉強の時間が欲しい。
「俺のバイクで飛ばせば、ここからなら30分も掛からないよ」
いつに無く執拗に誘う裕史。
「裕史君のバイクって一人乗りじゃん」
ハンドルとエンジンとタイヤ、そこに小さな一人掛けのシートが乗ってるだけの裕史のバイク。
「俺のはさぁ、スカチューンにしてるだけで、本当は二人乗りなんだよ」
「スカチューン?」
「そう、昔キムタクがドラマで乗ってた水色のバイク…知らない?」
「ごめん、知らない」
私は笑って誤魔化すしかなかった。
「TWて言うんだ。日曜日に二人乗りのシートと交換して来るから、行こうよ、花火」
「行けるかな…」
「花火大会ってさぁ、ラストの30分がクライマックスじゃん」
裕史の言う通りだ。
無数に上がる花火、切れる事なく響く重低音…行き帰りの時間も入れて一時間半…。
三年間、脇目も振らず頑張って来たんだもん、たった一時間半なら、自分の為に使っても悪くは無いはず…。
「花火見るだけでも良い?日曜日は遅くまでお店で勉強会が有るの。なんか理由付けて抜け出してみるから」
裕史の誘いに乗った。
日曜日まであと二日…私の気持ちは華やいでいた。
私の働くヘアーサロンから少し離れた公園の入り口…裕史はそこで私が来るのを待っていた。
相変わらず走る以外の機能を全て取り除いた伽藍堂のバイク。
一人用の小さなシートだけが二人用のタンデムシートに変わっていた。
見慣れない分だけ、どこか無骨な感じがする。
私のために何だか申し訳ない気持ちになった。
日曜日の夜8時…喧騒を失った住宅街の中にポツンとある小さな公園。
私の履く安物のミュールが、逸る気持ちを掻き立てるようにアスファルトを叩き、静寂を引き裂いていた。
「そんなに急がなくて良いよ」
私を見つけた裕史が、両手をメガホンにして大声で怒鳴った。
人影さえ見えないと言うのに、私は誰かの目や耳を気にしながら、頬を赤らめ歩速を緩めた。
「ごめん、待たせちゃって」
走って来たせいで息が苦しい。
大きく揺れる私の胸元を、裕史に見られるのが恥ずかしかった。
「まずは乗りなよ」
裕史はそう言って、可愛らしいゴーグルの付いたヘルメットを私に渡した。
どう見ても女の子用に違いない…しかも新品でさえないこのヘルメットは、一体誰のものなんだろう。
一瞬だけそんな考えが頭を過ぎった。
だとしても、気にする方が馬鹿げている。
だって…私は裕史の彼女ですら無いのだから。
裕史に促され、タンデムシートに腰掛けてみたものの、何処に捕まれば良いのかが分からない。
戸惑っている私を見兼ねたのか、裕史が私の両腕を取り、自分のお腹の前で結ばせた。
走り終えたすぐ後の私の身体から、汗の匂いがするのでは無いかと心配になった。
「しっかり掴まってろよ」
裕史の言葉に、結んでいた両手に少しだけ力を込めた。
裕史との距離が一段と近くなり、私が切り揃えた襟足が目の前にあった。
バイクが走り出す瞬間、裕史が使う整髪料の香りのその先に、裕史の汗の匂いを感じた。
私はもっと裕史の匂いを感じたくて、風を避ける振りをしながら、裕史の背中に顔を埋めていた。
順天堂の坂を登り湯島の坂を下ると、春日通りは絵に描いたような大渋滞だった。
次から次へと空に上がる遠花火の音ばかりが届き、肝心の花火を目にする事が出来ない。
時間は間もなく8時半になろうとしている。
「花火、間に合わないかもね…」
弱気な私。
「任せろって、なんで俺がこんなバイクに乗ってるか分かるから」
そう言うと、裕史は私の結んだ両の手を一度強く握り、ハンドルを持ち直した。
「しっかり掴まってろよ」
初めに言った事をもう一度繰り返し、裕史は勢い良くバイクを走らせた。
待ち合わせした公園からここまで走って来たのとは明らかに違う運転。
二車線で並んだ、車と車の間をまるで糸を縫うようにすり抜けて走る。
何度も入れ替えるギアや繰り返される急発進と急ブレーキ…。
絶対に車は通れない細い路地を何の迷いもなく通り抜け、右へ左へとコースを変える。
やけに短いバーハンドルも、全ての装飾品を取り払った骸骨のようなビジュアルも、こうやって走るためのものだったんだ…。
ジェットコースターに乗っているような運転なのに、裕史の背中にしがみ付いていると、少しも怖いとは思わなかった。
「俺さぁ$¥€☆¥$€」
裕史が大声で何かを言った。
その声もオートバイの排気音に掻き消され、私の耳には届かない。
「えー、なんて言ったの?」
その排気音に負けないよう、私も大声を出した。
「だからぁ、浅草が地元なの」
そうか…だからこんな迷路の様な道も知ってるんだ…。
民家に反響した裕史のオートバイの爆音で、どうせ私の声なんか届かない。
「分かった」と言う合図に、私はヘルメットを二回裕史の頭にぶつけた。
昔流行った音楽の主人公のように、私は裕史に恋をしている事を自覚し始めていた。
吾妻橋の袂にある古びたビルの前で裕史はバイクを止めた。
テレビドラマや映画の中で、何時もお金に困っている探偵が事務所を開きそうな、何の色気もない灰色のビル。
裕史は道端に落ちている拳ほどの大きさの石を一つ拾い、細い階段を勢い良く登り始めた。
私は置いてきぼりを食わないよう、必死で裕史の背中を追いかけた。
4階建てのビル…最上階から屋上に上がる階段の手前に鉄の柵があった。
立ち入り禁止の張り紙の横に南京錠が一つぶら下がっている。
裕史はその南京錠を手前に引きながら、たった今、道端で拾って来た石をその南京錠の横っ腹に勢い良く叩きつけた。
南京錠は呆気なく解錠した。
私は目を丸くし、とても馬鹿っぽい顔をしていたかも知れない。
鍵も無いのに、一瞬で南京錠を解錠してみせた裕史に、小さな違和感を覚えた。
「ガキの頃、良くこの屋上でタバコを吸ったんだ」
その場を取り繕うように言った裕史…。
「そうなんだ」
納得をするフリをする私…。
「このビル、夜は誰も来ないから平気だよ」
「ほら」と言って差し出された裕史の手を握り、私はこのビルの屋上に出た。
その刹那、目の前で大花火が闇を引き裂いた。
光の後、少し遅れて耳に届く重低音。
風に乗って流れてくる火薬の匂い…。
三年間、忘れたフリをしていた夏が私を包み込んだ。
階段を登るとき無意識に繋いだ手を、私もそして裕史も離そうとはしなかった。
花火大会はクライマックスを迎えようとしていた。
次から次と絶え間なく打ち上げられる花火。
途切れることのない重低音。
立ち込める煙と火薬の匂い。
言葉さえ忘れ、繋いだ手の温もりを感じながら、私はただ東京の夜の光の競演に心を奪われていた。
唐突に音が止み、この花火大会の終わりが近い事を知らせる様に、スターマインが間隔を置いて夜空に浮かんだ。
「こんなの…一緒に見ちゃったら付き合いたくなっちゃうよね」
なんて馬鹿なセリフだろう…でも、気付いた時には私の口からそんな言葉が溢れていた。
「そのつもりで誘ったんだから、多分それで良いんだと思うよ」
からかう様な裕史の口振り…。
「なぁに、その言い方ぁ」
繋いでいないもう一方の手で、裕史の胸を叩いた。
その手を裕史に掴まれ、引き寄せられた。
裕史の胸に抱かれた。
汗の匂いがした。
良い匂いだと思えた。
好きな人の匂いだから…。
東京に来て初めてのキス…甘い味がした。
「裕史君の口…甘いね」
「タバコのせいだよ」
「タバコ?」
「ガラムのメンソールを吸ってるんだ」
「ガラム?」
「フィルターが甘いんだよ」
「ほらっ」と言って取り出したタバコのフィルターは、裕史の唇と同じ甘い味がした。
花火の音は、少し前から完全に聞こえなくなっていた。
お店に戻らなきゃ…意識の片隅に自分の成すべき事がちゃんと座っているのに、私はその一言を口にする事が出来なかった。
今日は…今日だけは裕史の側を片時も離れたくない…女の私が、洗練された美容師を夢見る私を押しのけようとしていた。
「少しだけ外を歩こうよ」
私は裕史の言葉に従った…。
つい先ほどまで人で溢れていた浅草通りから、潮が引いた様に人が消えていた。
屋台の出店をたたむテキ屋の人の怒鳴り声ばかりが耳に飛び込んで来る。
祭りの後の寂しさが、私に現実を押し付ける。
朝から立ちっぱなしの仕事…一人前の美容師になる為の練習…国家試験を受ける為の勉強…今の私に裕史と付き合う時間なんてある訳がない。
今日だけ…ううん…今だけで良い、今だけ裕史の彼女で居られるなら、私は多分幸せだ。
神谷バーの前の歩道に腰を下ろし、裕史と二人で一本のラムネを分け合った。
ただ炭酸が入っているだけの砂糖水が、こんなに美味しいものだとは知らなかった。
ミュールの先から覗く色のハゲたペディキュアが恥ずかしかった。
私は掌でつま先を包みながら裕史の肩にもたれていた。
ふと上げた視線の先に鬼灯売りの屋台があった。
売れ残った一株だけがポツンと縁台の上にある。
母が大好きな鬼灯…買って帰ろうか…でも、私の財布の中に有るのは小銭だけ。
この街で三年も頑張って来たというのに、縁日で好きな買い物もできない。
こんなに幸せな気分なのに、惨めな気分も同じだけ味わう。
東京ってなんだろう…夢を追い掛けるってなんだろう…答えの出ない自問自答。
その一瞬だけ、私は裕史を忘れていた。
「何見てるの?」
裕史の問い掛けに私は自分の世界から舞い戻った。
「ごめん、鬼灯を見てた」
「鬼灯、好きなの?」
優しい喋り方…喋り方だけじゃ無い。
うっかりすると女の子に間違われるほどの線の細さと綺麗な顔立ち。
少し長めの髪にセンスの良い洋服。
ガサツな所など一ミリも無い裕史…。
だから…今日のオートバイの運転には少しだけ驚いた。
私のため?
私に花火を見せたくてあんなに乱暴な運転をしてくれたの?
思い過ごしでも良い…思い上がりでも良い…今日だけは全部私のためだったと思っていたい。
「母が好きなの…何時も実家の庭にあって…私の名前、朱が美しいって書くの…鬼灯の色…」
「朱美の名前は鬼灯から来てるの?」
初めての呼び捨て…それも嬉しかった。
「なんか恥ずかしいけど、そう見たい」
「確かに朱美は鬼灯っぽいかもね」
「えっ、鬼灯っぽいって…」
「なんか可愛いじゃん」
それ、褒め言葉になってないよ。
鬼灯の花言葉…。
「買ってあげるよ」
「いらない」
「なんでだよ、今日無理矢理付き合わせたから何か買ってあげたいんだ」
「ほんとに…」
言いかけた私を置き去りにし、裕史は鬼灯売りの屋台に駆け込み、最後の一株を買った。
「ほらっ」
満面の笑顔…。
今更「いらない」なんて絶対に言えない。
「ありがとう」
私はそう言うしか無かった。
でもね…知ってる?
鬼灯の花言葉…「偽り」「半信半疑」「見掛け倒し」
鬼灯は大好きよ…でも裕史から鬼灯を貰いたくなかったの。
ねえ裕史…貴方を信じて良いの?
私が知ってる昨日までの底抜けに優しいだけの貴方。
今日初めて知った乱暴な運転をする貴方。
鍵を壊して勝手に人の建物に入り込む貴方。
あのヘルメットの持ち主は誰なの?
私みたいな田舎育ちのなんの取り柄もない様な女が、大都会で育った、しかも洗練された貴方のような人とお付き合いしても良いの?
本当に…私で良いの?
夜更けの道を裕史のバイクの後ろに乗りながら、私は声に出せない問い掛けを続けていた。
ヘアーサロンの前でバイクを降りた。
店の電気は消え、もう誰も残っては居なかった。
「鬼灯、ありがとう。今日楽しかったよ」
本当に楽しかった。
それが例え今日一日だけだったとしても、心から楽しいと言える一日だった。
裕史は私の頬に手を当て「おやすみ」と言った。
バイクで走り去る裕史の背中を見つめ、私は泣いていた。
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