第2話 鬼灯 後編

鬼灯 後編



バチンッ!


私の手の甲を先生がセットコームで思い切り叩いた。


その痛みで私はワインディングコームを床に落とした。


「やる気がないなら止めろ!ここから出て行け!」


鬼の形相で先生がお店の玄関を指差した。


一緒にワインディングの練習をしていた彩香が、凍り付いたような目で私と先生を見ている。


「黙って見てれば欠伸ばっかりして、大体お前この店で何年働いてるんだ?基本巻きが時間内に終わらないなんて、集中してない証拠だろ」


ワインディング…美容師の国家試験では20分で60本以上のロットを巻き付けなくてはいけない。


ただ巻き付けるだけではなく、その見た目も採点の対象になる。


綺麗に巻けないのは仕方ないとしても、時間内に規定の数を巻き切れないのは致命的だ。


私は顔を上げることも出来ず、俯いたまま先生の苦言を聞いていた。


「お前、寮にも帰ってないらしいな。お前みたいな女が居るから、美容師は尻軽だなんて世間から言われるんだ!」


ショックだった。


信頼している先生に、そんな風に思われて居たのか…そう思うと、私はもうその場に立ってはいられなかった。


床に落ちたコームを拾うこともせず、私は店を飛び出した。


「朱美ちゃん!」


彩香が叫んだ。


「放っておけ!」


先生の声が重なった。




裕史と一緒に花火を観た日、あの日一日だけが幸せなら良いと思っていたはずなのに、私の頭の中はあのキスの後から裕史の事でいっぱいだ。


今の私に、恋なんか邪魔なだけなのに…そんな事は初めから分かってた事なのに、私は裕史の誘いを断る事が出来ない。


勤め先の古着屋が9時に終わると、裕史は私の働くヘアーサロンの前をゆっくりと通り過ぎていく。


私と目が会うまで何度も何度も店の前を通り過ぎ、目が合うと決まって変顔をして笑わせる。


私は可笑しくて…そう…可笑し過ぎて早く裕史に逢いたくて仕方ない。


お店の閉店後、居残りで練習しているのは私だけでは無い。


同じ見習いの彩香や麗羅が遅くまで一緒だ。


毎日練習をしているのは私だけ…勤勉な訳でも無い。


私だけ不器用で、器用な彩香や麗羅に遅れを取っているから。


夜型の裕史に合わせるには、睡眠時間を削るしか無かった。


あの花火の日以来、私は仕事中も欠伸ばかりしている。


先生が怒るのも当たり前だ。


だからと言って、私は尻軽なんかじゃ無い。


彩香や麗羅は合コンやクラブなんかにも出入りしているらしいけど、私は裕史だけ…。


裕史との時間を作る為だけに私は自分の身体を酷使しているのに…あんな言われ方をされて、私は店を飛び出すしか無かった。


財布も持たず、お店を飛び出した。


裕史と付き合い出して3ヶ月…お店の制服一枚で夜の街を歩くには寒さが勝った。


お店のすぐ近くにある寮に帰る気にはなれなかった。


二駅先の裕史のアパートまで泣きながら歩いた。


小雨がパラついて居た。



何時もより2時間も早い裕史の部屋への訪問…居なかったらどうしよう…。


それに…裕史になんて説明しよう。


今日の出来事をそのまま説明すれば、優しい裕史の事だ…責任を感じて私との距離を置くかもしれない。


何時もの時間が来るまで、何処かで時間を潰そうか…でも、こんな雨の中、こんな薄着で居られる所なんか…。


そんな事を考えながら歩いていると、都会の二駅なんか直ぐに歩いてしまう。


裕史のバイクがアパートの階段の下に止まっている。


見上げると、二階の裕史の部屋に灯りがともって居た。


「居るんだ…」


小さな声が溢れた。


私は意を決し、涙だけを拭いて裕史の部屋に続く階段を上がって行った。


裕史の部屋の前に立った。


インターホンのボタンを押す前、少しだけ躊躇いが有った。


人の気配を察知したのか、裕史が玄関のドアを開けた。


「遅いよ」


言いながらドアを開けた裕史が、私の顔を見て驚きの顔を浮かべる。


「えっ?」と驚いた私に、裕史が気まずそうな素振りで部屋の奥に行き窓を全開にした。


部屋の中に立ち込める煙り…。


何時もとは違うタバコの匂い。


違う…これはタバコなんかじゃ無い。


確かに裕史の吸うガラムは匂いがきつい。


それに、若いくせに裕史にはお香を焚く趣味がある。


だとしても、この匂いは違う…そして…私はこの匂いを知っていた。


部屋の中に入り、立ち竦む私…。


「どうしたの?座りなよ」


何処か投げやりな裕史のセリフ。


お酒を飲んだようにトロリと瞼が半分降りていた。


「誰か来るの?」


「友達が届け物持ってくるんだよ」


「何を届けにくるの」


「朱美に関係ないだろ」


「関係なくない!この匂いマリファナでしよ?」


初めての喧嘩だった。


私の問い掛けに何も答えず横を向く裕史に、私の推測が間違ってない事を確信した。


「何時もこんなの吸ってるの?」


「野菜くらい誰だってやってるよ」


「野菜ってなに?」


「野菜は野菜だよ」


「そんな言い方に変えたって犯罪は犯罪なんだよ」


「犯罪じゃねぇよ」


何時もの裕史からは想像もつかない乱暴な話し方…。


「犯罪じゃ無かったら、どうして何人も芸能人が引退させられたり、消えたりしてるの?」


「アイツらは馬鹿なんだよ」


「裕史君は馬鹿じゃないって言えるの?」


「言えるさ、大麻は吸うだけなら犯罪じゃないんだよ」


「犯罪に決まってるじゃ無い!」


「何も分かってないのに口出すなよ」


どうして…どうして分かってくれないのだろう…それに…私の髪の毛やブラウスが濡れてる事なんか、気付いてもくれないんだね…。


こんな人だったんだ…。


そう思うと涙が止まらなかった。


開け放たれた窓から夜の冷気が流れ込み、濡れたブラウスが私の身体を凍えさせていた。


心の中まで凍え切った私は、体の震えを止める事が出来なかった。


こんな時、抱き寄せてくれたら少しは安心出来るのに、裕史は何も言ってくれない。


インターホンの音が鳴った。


「チッ」と舌打ちを一つして裕史が立ち上がった。


誰かが何かを届けに来たんだろう。


「今、女が来ててさ」


小声で話す裕史の声…ワンルームの狭いアパートの一室…どんな小声で話したところで、二人の会話はまる聞こえだ。


それに…私の事、友達には「女」なんて言うんだ…。


「彼女」って言ってくれたら…今日は、裕史の話す言葉の一つひとつが癇に障った。


「サンプル持って来たけど」


「銘柄は?」


「インポートのスカンク」


「マジかよ!幾ら?」


「30グラムあるから、まとめて買ってくれるならサンゴーで良いよ」


「10万5千円か…直ぐ返事するからサンプルだけ取り敢えず置いてってよ」


「分かった」と言って、その訪問者は帰って行った。


なんの話をしているのかは、いくら私が世間知らずでも察しは付く。


「吸うだけじゃ無いじゃん」


「知り合いに頼まれてんだよ」


「嘘よ」


「なんで嘘って決めつけてんだよ」


「全部聞こえてたもん」


「大体さ、なんで匂いだけでマリファナなんて分かるんだよ。お前だってやった事が有るからだろ?」


「やった事なんかないよ」


「じゃあ前の男かよ」


「前の男なんか居ない!裕史君が初めての彼氏だって知ってるでしょ!」


声を出して泣いている私に、その日初めて裕史が優しく寄り添ってくれた。


「泣くなよ…悪かったから」


私が泣き止むまで、裕史はそのまま私を抱き締めてくれていた。


「私の田舎ね…その辺に大麻草が生えてるの。だから学校で大麻草を見つけたら先生や警察に報告するように教えられるのよ。そうしたら直ぐに消防の人が来てその大麻草を焼くの。その時に匂いがするのよ。だから直ぐに分かったの。学校中に大麻草の写真のポスターが貼ってあるわ」


私の告白を聞いて、裕史は驚いたようだった。


でも、それが真実だから…。


何時もの優しい裕史に戻っていた。


だから私の話しを理解してくれたとばかり思っていた。


でも…違っていた。


「朱美さ、5万円持ってない?直ぐに返すから」


立ち直りかけた心が一瞬で冷えて行った。


「買うの?」


「いや、インポートのスカンクなんて滅多に出回る物じゃ無いからさ、右から左に動かすだけで金になるんだよ」


悲しくなった…悲しくなったけど、お金になるなら仕方ないと思えるほど、私も裕史も裕福では無かった。


5万円なら寮に帰ればない事はない。


ただ、明後日にはデプロマの講習を受けるために1万円の出費が有る。


その5万円を渡して仕舞えば講習を受ける事が出来ない。


迷った…迷ったけど、渡すしか無かった。


裕史に嫌われるのが怖かったから…。


裕史に電車賃と傘を借り、私は少し強くなった雨の中を暗い気持ちでお店に向かった。


誰にも気付かれず、お財布と寮の鍵だけを持ち出して帰りたかった。


お店のドアを静かに開けた。


車の往来も途絶えた静かな時間…入口のカウベルがやけに大きな音に響く。


「朱美ちゃん」


彩香が私に駆け寄り抱きついた。


「もう戻って来ないかと思ったよ」


薄っすらと浮かべた涙も、作り物には見えなかった。


「ごめん」


呟くような小声で、私は彩香に謝った。


「先生は?」


「あれから直ぐに帰った。先生も言いすぎたって言ってたよ」


「そう…」


言った方は悪かったの一言で済んだとしても、言われた方の心の傷は取り消しが効かない。


それでも、言わせたのは私…悪いのは私なんだと自分に言い聞かせるしかない。


私の夢の実現の為には、洗練されたこの店で働く事が一番の重要事項だから。


「なんか美味しいもの食べに行こうよ、私奢るから」


彩香の優しい誘い。


「ごめん、これから裕史君のとこ行くんだ」


「そっか…そうだよね。こんな時は彼氏だもんね。でもさ、裕史君って大丈夫?」


「えっ?」


「なんか危なっかしいっていうかさ、クラブとかでも時々見掛けるけど何時もハイじゃん。麗羅とちょっと心配しちゃってるんだよね…朱美ちゃん初心うぶだから」


そっか…彩香や麗羅は、私の知らない裕史の事も知ってるんだ。


「全然大丈夫だよ。すごく優しくしてくれるもん」


「はいはい、ご馳走さま」


「ごめん、先に帰るね」


私は彩香をお店に残したまま急いで寮に戻り、なけなしの5万円を持ち、裕史のアパートに戻った。


「直ぐに戻る」と言って裕史は雨の中をバイクで出かけて行った。


私は、そのまま裕史の部屋で眠ってしまった。


朝起きた時、裕史はまだ帰って来ては居なかった。



デプロマを和訳すれば単に卒業証書の事を指すが、美容の世界でデプロマと言えばマニュキュアやフィンガーマッサージなどを行うエステシャンに近い資格の事だ。


今の時代はエステやネイルも明確に分かれている為、特に美容師に必要な資格とは思えないが、総合的な美容のアーチストを目指す私にはどうしても欲しい資格だった。


同じ夢を追い掛ける彩香も、一緒にこの資格を受験する。


翌朝、お店に行くと私と彩香、麗羅の三人が先生に呼ばれた。


「2、3日夜の練習は禁止する。だらだらやってても結果なんか出せないからな。一度ゆっくり休んで気持ちをリセットするように。特に朱美、目の下のクマ、なんとかしろ。全寮制の女子高生じゃ無いからうるさい事は言わんけど、邪魔になるような男だったら俺も口煩く言うしかないぞ。お前の親御さんから大事な娘を預かってるんだからな」


嬉しかった…。


時に、誰かに叱ってもらう事が堪らなく嬉しい時がある。


昨日言われた事に心は大きく傷付いたままだけど、今日言われた事はそのまま心に響いた。


「すみませんでした」


素直に謝る事が出来た。


まだこの洗練されたヘアーサロンで働ける事が、何より今は救われる気持ちになる。


「ねぇ、朱美ちゃん明日のデプロマの講習、行くよね?」


ドキッと胸の奥が波打った。


裕史からお金が返ってくれば、もちろん講習には参加するつもりだけど…お金を渡してから裕史にはまだ会っていない。


直ぐに返すと言ってはいたが、裕史の直ぐが何時なのかが分からない。


「人にお金を貸す時は、あげるつもりで貸しなさい」


いつかお母さんから教えられた事。


裕史だって直ぐにお金になると言って出掛けたのだから、例え全部じゃなくても今夜には幾らかは返してくれるだろう。


でも…今夜も帰って来なかったら…。


信じたい気持ちと信じきれない気持ち…「半信半疑」と言う鬼灯の花言葉が頭に浮かんだ。


「多分行けるとは思うんだけど…」


「あのさぁ、あたし金欠でちょっとヤバいんだよね」


また胸の奥がドキリと波打った。


お金の無心だったらどうしよう…。私が借りたいくらいなのに。


でも、彩香が言ったのは私の後の人生を変える、もっと意外な事だった。


「今日さ、練習無いじゃん。一緒に体験行かない?」


「体験って?」


「えっ、朱美ちゃん体験行った事ないの?」


「だからなんなの、体験って」


知ってて当たり前と言う彩香の話し方に、少しだけ苛立ちを覚えた。


「もしかして朱美ちゃんって仕送りとかして貰ってるの?」


私は何も言わず、ただ首を振って見せた。


「もしかしてここの給料だけでやってる?」


今度は縦に振った。


「三年間ずっと?」


もう一度縦に振った。


「マジ尊敬するわ」


彩香がため息混じりに言葉を吐き出した。


「キャバクラの体験入店よ」


「キャバクラ?」


「一日だけ働いて、その日にお金くれるの」


「いくら?」


「お店によるけどまあ大体1万円ちょいとか」


「彩香ちゃん、そんなの良く行くの?」


「麗羅と時々ね」


赤い舌を出して笑った彩香に悪怯れるところなど一つもない。


1万円有れば…。


明日確実に講習を受ける為なら、腹を括って行くしか無いと思った。


「私にでも出来る?」


「誰でも出来るよ。酔っ払いの横でヘラヘラ笑ってれば良いんだから」


8時から12時まで…たった4時間で1万2千円が簡単に手に入った。


東京に来てからの3年間を、否定されて居る様な悲しい気持ちに成った。


一度寮に帰り、暑く塗った化粧を落としてから裕史のアパートに行った。


深夜1時をとっくに過ぎて居ると言うのに、裕史はまだ帰宅して居なかった。



少しづつ裕史は壊れて行った。


体験入店と言う物を知って簡単にお金が入る事を知った私は、裕史の求めるままにお金を作り、そしてそのお金を裕史に渡していた。


一度たりとも裕史から、渡したお金が帰って来る事は無かった。


仕事も辞め、私の目の前でさえ裕史はマリファナを吸う様に成った。


マリファナは怖い…。


副流煙を吸った私の体にも作用して居る。


裕史がマリファナを吸った後…抱かれる私はいつも以上に感じて居た。


裕史がマリファナを吸う事を、止められない私がそこに居た。


裕史と付き合い出してから丁度1年が過ぎた8月……。


私は夢にまで見た美容師の国家試験を通過する事が出来なかった。


裕史のせいにする事は出来ない…全部自分が選んで自分が進んで来た道だから。


先生の蔑むような眼が、私を委縮させている。


私は、大好きだったこのヘアーサロンを去るしか無かった。


彩香も、麗羅も…そして先生までもが私を引き留めたが、私にはもう限界だった。


これ以上この店で憐れみを受けながら毎日を過ごして居れば、私の心はきっと壊れてしまう。


そして…裕史とも終わりの時が近づいて居る。


裕史の言う事に逆らえない以上、私が居れば裕史はどんどんダメになってしまう。


髪結いの亭主…お金の出所はキャバクラだとしても、私が裕史をダメ人間にした事には変わりは無い。


お店の寮を出た日、私は裕史の携帯の番号を着信拒否にした。


裕史が警察に捕まった事を聞いたのはそれからすぐの事だった。



2月…私は念願の美容師に成った。


シャッター通りと呼ばれる寂れた街の商店街に有る小さな美容室で、私は指名の入る人気ものに成って居た。


夜のアルバイトは今も続けて居る。


裕史のためではなく、今度は自分のお店を持つ夢の為に…。


今でも私の中で裕史との思い出が色あせる事は無い。


あの隅田川で見た花火…裕史との初めてのキス…初めて抱かれた時の裕史の匂い…夏が来る度、私はあの日に帰ってしまう。


今も裕史の事が好きだ…他の誰かなんて考えも及ばない。


でも…私がそばに居たら、きっとまた裕史をダメにしてしまう…。


7月…彩香と麗羅が私の働くお店に遊びに来た。


今も変わらずあのヘアーサロンで働く二人は、洗練された都会のヘアーアーティストだ。


でも、羨ましいとは思わない。


私はただ出遅れているだけ。


いつか必ず、自分のお店で二人を超えて見せる。


「あのさぁ、話すべきかどうか迷ってるんだけど…裕史君の事聞きたい?」


言いずらそうに話したのは麗羅だ。


「聞いてまずい様な事なの」


「逆って言うか…」


「何なのよ、そこまで言ったら話しなさいよ」


未練を引き摺っているくせに、今更笑い話にしかならない風を装い、私は話の続きを麗羅に促した。


「裕史君、何度か内の店に来てるのよ」


「お客さんで?」


「て言うか、客を装ってみたいな感じで」


「で?」


「必ず私を指名するんだけど、朱美の事ばかり聞いて来るって言うか、やり直したいみたい」


「やり直すって言っても、もう1年も前に終わってるし、それに…私が裕史君の側に居たらまたダメにしちゃうよ」


「それがさ…」


横から彩香が口を挟んだ。


「この前見ちゃったのよ。裕史君さ、ニッカボッカ穿いて鉄筋屋の仕事してるの」


「裕史君が…」


女の子にも見間違う様な線の細い裕史が、建設現場でも一番きついと言われる鉄筋屋で働いて居るところなど想像も出来なかった。


「よう、なんて声かけられて、あんまり日焼けしてるから最初は気付かなかったんだけど、何時までもバカやってられないからな、なんて言って」


俄かには信じられなかった。


「それで…」


「なによ」


「それで最後にね、朱美に会ったら伝えてくれって」


「なんて?」


「もう一度、花火から始めないかって」


「………」


泣くまいと思っても、涙が溢れて来る。


次から次と溢れる涙は、幾ら友達の前でも自分の本心を隠してはくれなかった。


「初めての日、鬼灯をくれたの…鬼灯は人にあげる物では無いのよ。偽り、半信半疑、見掛け倒し、あの大きな房の中から、赤い小さな実が一つ出て来るだけ…昔の人はその事に騙された気持ちに成ったのね」


「それが朱美の中の裕史君なの?」


麗羅の言葉に、私は大きく首を振った。


「鬼灯は私…私が裕史君をダメにしてしまったの。夢も追えず、貴方たちにも後れを取って、楽にお金を稼げる方へ自分から流れて行って、見掛け倒しなのは私の方なのよ」


明日は隅田川の花火大会だ…。


裕史がもう一度花火から始めようと言うなら、きっとあの灰色のみすぼらしいビルの上の事なのだろう。


鬼灯は、赤い実の中に僅かだけれど毒がある。


その毒は、僅かな故に時に薬に成る事も有る。


私は裕史と出会い、苦しみの中で女として少しは成長した様に思える。


裕史はどうなのだろう…。


私と出会って…私の放つ毒に翻弄され、自分を失った後に何かを得たのだろうか…。


「今度は私から鬼灯を裕史君に送ってみる」


「だって鬼灯は人にあげちゃダメなんでしょ?」


彩香が言った。


私は頷いた。


そして…。


「でもね、女の子は大切な人にあげても良いの。鬼灯には隠された花言葉がもう一つ有るのよ…」


「隠された花言葉?」


彩香と麗羅が怪訝な顔をして居る。


「そう…私を誘ってください」



二人と別れた後、私は鬼灯の鉢を買った。


その鉢を、今も同じ所に住んで居るあの裕史のアパートの部屋の前に置いて来た。


裕史は気付いてくれるだろうか…。


気付かなくても良い…もし気が付かなかった時は、きっと裕史とはそれだけの縁だったと諦めよう。


たとえ一人でも、もう一度隅田川の花火大会を観に行きたかった。


あの夏の匂いを感じに行こう。


お店の閉店後、急いで浅草に向かった。


人混みの中、あの灰色のビルの前に辿り着いたのはあの日と同じ8時半。


今まさにクライマックスを迎えようとしている。


重低音が絶え間なく響き、咽かえる様な火薬の匂い、空には大輪の光の花が咲き狂って居る。


私は一歩ずつ、確かめるように古びた灰色のビルの階段を上り始めた。


最上階の屋上に通じる階段には、あの日と同じ様に立ち入り禁止の紙が貼られている。


横に有る筈の南京錠は、開錠されたままぶら下がって居た…。




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鬼灯 sing @Sing0722

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