第7話
市長室につながる応接室。梅雨空の雲の合間から時折顔をのぞかせる昼前の日差しが薄いカーテン越しに流れ込むと、部屋の気温が少しだけ上がる。
「佐々木からお聞きでしょう。もう『妖怪』は現れませんよ」
榊原は大きなソファーに足を組み身を沈めていた。テーブルを挟んだ席には、俯いたまま市長が浅く腰掛けている。何のことでしょう――テーブルを挟んで席に着いている市長は、思わず口を開こうとする。だが、この榊原との会合を仲介したのが佐々木であることを理解していたので、俯いたまま口をつぐんでいた。
「これ以上、街に『妙な噂』を流さないで貰いたい。まぁそちらの広報の者が、配信する不審者の通報を吟味するだけだがね。『偉い人』が持ち込むガセを混ぜちまわないように、さ」
市長は下を向いたままだ。
「貴方が『何者』に『妖怪』を頼んだのかは、この通り掴んでいる。そして、この件で。新たに『誰に』脅されているかも掴んでいる」
市長はまだ、下を向いている。
「そして貴方を脅すのは、この俺で二人目だ」
榊原は珈琲を飲み、再びカップをテーブルに置いた。
「そして俺は、何一つ表沙汰になることなく、すべて無かったことにすることもできる」
榊原は膝の前で手のひらを組み、市長を見据える。市長はようやく、老いた顔を上げて、救いを求めるように榊原の目を見る。
「――条件は何でしょうか」
「なに。貴方に迷惑をかけようって話じゃない。ここのところ急に突っ込んだ、小学校絡みの『工事』の話なんだが」
市長は身を強張らせた。
「まず、一つ聞きたい。貴方のお孫さんが通うとこだけ『工事』が軽いみたいだが――妙な噂が立ってる」
「噂? ――どんな噂でしょうか」
「他のクラブと違い、『山手』はグランドが使える。狡い、と」
「――誓って、そんなことはしていません」
市長は狼狽している。
「そうだろうな。貴方が仕組んだことではない」
「私は、今回の『工事』を融通しただけなんです・・・はじめは『妖怪』の見返りとして、ですが――」
「見返り、とは言いようだな。まぁ『妖怪』騒ぎで他の学校、いやクラブを脅そうとするような魂胆だから、つけこまれたんだ」
「ウチを通さないとは何事かと、割り込まれました。我々としても予算は半期ではなく年度でのものだったので、いつ消化してもいい。だから話を聞くことにしました」
「『妖怪の件を表沙汰にされたくなければ』、という前提だな」
「――そうです」
「なるほど。これで全て把握した。では――こちらの言うとおりにしていただこう。もちろん『筋者からの脅迫』と思って頂いても構わない。貴方に選択肢はないからだ」
市長は黙って頷いた。
「工事はそのまま遂行する。発注先すら、変えなくていい。工事も発注通り完了させる。ただし、今度の大会の後に、だ。納期が締めをまたぐだろうから、完了書は『納期』にあわせて出させる。それは俺が親受けに了承させる。貴方はそれを了承さえすればいい。表向きは、何ら変わることはない」
思いも寄らぬ『脅し』に、市長は不思議そうな顔をしている。
「それで――貴方には何をすれば」
榊原は両肩をすぼめる。
「警察には言わないんですか?」
「そうすりゃ綺麗に片付くし、俺にとっても手っ取り早い。ただ、ガキ共がね――『市長杯』に市長が不在なのは締まらないし、第一、貴方のお孫さんが悲しむ」
市長は安堵したものの、どうも腑に落ちない表情を見せる。
「子供のサッカーぐらいで貴方は――どうしてそこまで」
榊原は、両手を広げ、唇の端を少し上げて笑った。
「さぁね。俺にも分からねぇ。案外ロマンチストなのかもな。ただ貴方も――可愛い孫には、正々堂々と頑張って欲しいだろ。母親が食卓に並べた夕食をいただくような勝利なんて、喜ぶとは思えねぇけどな。ガキのうちから正々堂々と全力で戦い、勝ちと負けを何度も繰り返していくからこそ。大人になっても、正々堂々と戦い続けることが出来るんじゃねぇのかな。そんな気がするぜ」
まだ夕方前のはずなのに低くのしかかる厚い雲に覆われ、あたりは薄い闇に包まれている。馴染みのある、大きな日本間。梅雨の湿気からだろう、畳の香りがことさらに強く感じられる。こちらへの敵意に燃える目をした大勢の男達を背にして、榊原は一人の男と正対している。何年ぶりの『家』だろうか――。
「兄貴、ずいぶんじゃねぇか。しかも吉村のとっつぁんまで連れてきて――穏やかじゃねぇな」
榊原の『家出』を受けて、若頭となった聡。欲していた座を実力もありそれを皆が認めた上で得たものとはいえ、ついに敵(かな)いもしなかった兄からタダで譲られたものだという自らへの負い目が、心をかき乱し複雑なものにしている。
「ああ。頼みがあってな――サトシ。聞いてくれるか?」
「俺たちに頼みごとが出来る立場じゃないってことくらい、分かってんだろ?」
「もちろんさ。だから、単刀直入に言うぜ――『妖怪』と『工事』から手を引け」
「あ?」
「工事での『稼ぎ』は今と同じで何も変わらねぇ。『妖怪』もササがケツ持ってる売人も含め、誰もサツに売ったりはしない。ここは鞘に収めて、俺が関わること、黙って見てくれねぇか」
「兄貴――それは無理な話だ。俺たちは『やられた』んだ。分かるだろ?メンツってもんがあるんだ」
「メンツ、ね。そりゃあ十分に分かるさ。きっと『頼みごと』では済まねぇこともな。だからこそ、ここに俺が居る。とっつぁんと一緒にな。これ以上の説明が必要か?」
「兄貴――」
「とにかく、仁義は切った。そして交渉は決裂した。あとは、俺は俺のやり方でやる。オマエ達がどう捉えようと好きにすればいいし、知ったこっちゃない。ただ、邪魔されるのはカンベンだがな」
榊原達が部屋を出ようと襖まで歩み寄ると、聡の側にいた古参の幹部であろう大柄の男が、静かに立ち上がった。
「サカキさん――『家』に楯突いて、生きて帰れるとでも思ってるんですか?」
その言葉を合図に、勢いよく襖が開く。若い衆が十数人、それぞれに得物を携えて、榊原達の行く手を阻んだ。
「――古い映画みたいじゃねぇか。なぁ、とっつぁん」
やれやれ、とばかりに榊原は肩をすくめた。
「若、懐かしいですなぁ」
吉村が眼光鋭く、今にも引き抜かんとばかりに左足を下げ、半身の構えで腰の長物に手を掛けた。
「おやおや。とっつぁんまで役者気取りかよ」
苦笑いする榊原。皮肉を込めて、聡に告げる。
「サトシ――とっつぁんに火が付いたぜ。どうすんだ?」
聡は不動だにせず榊原を睨み、ため息をついて天を仰いだ。
「――分かったよ。おめぇら、下がれ」
榊原達を阻んでいた男達の壁。音もなく割れ、道を作った。
「どうぞお帰りを――とっつぁんだけでなく、兄貴まで相手にするとなぁ――『家』が潰されちまう」
闇の中、建屋から漏れる灯に照らされた日本庭園。雨に濡れて、いっそう艶めかしく浮かび上がっている。
「みんな平等よ――『山手』を除いては、ね」
谷崎は庭を見たまま、凛とした表情で話す。榊原は窓際で煙草をくわえたまま、火をつけずに同じく庭を眺めている。
「工事を差配し、『山手』を『狡い』という評判で貶める」
「アイツらが許せないのよ。うちの子供達に手を出したりして――ただ、彼には気の毒なことをしたわ。『妖怪』の彼ね。怖かったでしょうに。おかげさまで、いろいろとお話しが聞けたけどね」谷崎は続ける。「市長には、うちの子達に手を出したことを、身を以て償って貰うわよ。愛するお孫さんのチームが地に堕ちることで・・・ね。自業自得よ。そのために、ウチの荒れくれ職人たちがアンタがいた『家』の奴らと戦おうとも構わない」
顔を背けている谷崎の肩が震えている。
「子供達は置き去りか。見損なったぜ。アンタらしくもねぇ」
「何も知らなければ何も問題ない――もう遅いのよ。全て」
谷崎は俯き、両手で顔を覆った。
煙草に火をつけ、榊原はゆっくりと、静かに煙を吐く。
「まぁ――残念だったな、女将。まだ間に合うぜ」
「どういうこと?」
真っ赤な目を隠すことなく、谷崎は顔を上げる。
「『妖怪』は俺たちが退治した。もう『妖怪』の噂は流れないし、誰も『妖怪に怯える』こともない。誰にも『妖怪』が見えなくなったからだ。市長にも、『家』にも、アンタにもな。それでお終いだ。それ以上、誰も何も望まない」
谷崎は微かに笑った。
「それで――私をどうするつもり?警察にでも?」
「どうもしねぇよ。ただ、頼まれて貰いたいことがある」
「何かしら」
「今の元請けとして、工事を遅らせてもらおう。坊主どもの大会の後まで、だ。もちろん、市長は『ご存じ』だ」
そこからの説明は特に、複雑なものではなかった。メンツや憎悪で絡まった糸を解してやるだけだ。意地を張って戻れなくなった谷崎も、最後には子供のために折れるのだ。
「丸く収めたわね。やるじゃないの」
谷崎の表情が晴れる。
「メンツを潰されたヤツを説得するのは大変だったがな」
「脅したんでしょ?どうせ」
二人は声を出して笑った。
「色々と――私のために、随分と手を焼かせたわね」
「残念ながら、アンタのためじゃない」
「あら、心外ね。じゃあ、誰のため?」
「正々堂々、威風堂々。真っ直ぐな心の――ただの坊主どものために、さ」
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