第4話

 五月の末。

 梅雨にさしかかりそうな頃。夏には少し遠い涼しげな気温。気候に恵まれた、絶好のサッカー日和であった。

 事務所の窓際。コムが若者と、外を見ながら話している。コムの表情が、どうも冴えない。

 あの日以来。何があったのか分からないが――週末の昼間に事務所にいるとき、コムは窓際から外を眺めることが多くなった。しかも。ああ、とか、そこだ、とか、時に拳を握りナイスシュートとか――喜んだり嘆いたり呻いたり、端から見ると事情を知らない者には情緒不安定にも見える。そして、そんな事情は微笑ましくもあるのだ。

 今日も相変わらず落ち着きは無い。だが、どうも様子が違う。

「若」

 コムは落ち着かない顔のまま、自席で珈琲を飲みながら涼しい顔で新聞を読んでいる榊原の元へ歩み寄る。

「どうした」

 思いの外に落ち込んでいるコムを見て、榊原は少し笑いそうになっている。

「あのガキども、今日はサッカー、やんないんスかね?」

「そういやぁ静かだな。どこかで試合、とかじゃないのか?」

「全部の学年が試合ってこたぁないとおもいますがね。どうしたんだろう」

「確かにそうだな。だけどよ、コム。ガキ共がいねぇと、静かでいいじゃねぇかよ」

「わ、若ッ! そんなのじゃありませんって!」

「心配なんだな」

 意地悪く榊原は笑う。コムは観念し、呻いた。

「――今日はどうしちゃったんですかね」

 榊原は片眉を上げて少し笑った。だが何か思いついたのか、すぐに表情を戻した。

「シノ、市役所のホームページ見てくれ。発信された不審者情報の一覧だ」

 奥の方の席でパソコンに向かっていた篠宮は、調べることなく榊原と篠宮の方へ歩み寄る。

「窓の外を見ているコムが落ち着かないので、さっきから調べてみました。今日だけで3件、朝から今までに出ています。そのうち1件が、ここら周辺です。学校の周りで、12時半――」

「分かった――コム。外に出ている若ぇモンに、ここ二、三日あわせて、何か変わったことがなかったか様子を聞いてみてくれ」

「わかりましたッ! おい、集まれ!」

 コムの部下数人が集まり、指示を仰いで、ある者は携帯電話を取り出し、ある者は外へと散らばっていく。

「ちょっと出てくる」

 榊原は携帯電話をかけながら歩きだす。通り際に篠宮の肩を叩いて、玄関へと向かった。


 一階の駐車場。榊原は事務所の営業車であるワゴンに乗り込む。煙草に火をつけ、大きく吸い込み、ゆっくり煙を吐き出した。

 走り出した車は、いつしか青々と茂る並木道を抜けていく。木漏れ日や青空すらも瑞々しい。

 街中から少し離れた場所。敷地を長く囲う古風な生け垣の切れ目。大きな門に近づき呼び鈴を押す。招かれるままに『谷崎造園』の門を通り、榊原は庭を抜け母屋へ向かっていった。


「サカキ。電話、ありがとう。待っていましたよ」

 家では和装らしい谷崎。応接間である和室の上座、掛け軸を背に座っていた。榊原も思わず背筋が伸びる。

 大きな窓から見える見事な和風の庭園は、沈みつつある陽の光でわずかに赤みを帯びている。

「女将。どうした? 練習を中止するなんて」

 谷崎は、いつになく真剣な眼差しで語りかけた。

「『妖怪』が出たのよ」

 出た? なぜ今更――。

「それで――実際に、被害でも?」

「傷害とかの被害は無いのだけど、走りながら子供たちを大声で威嚇して、そのまま消え去ったそうよ――今まで、そんなこと、なかったのに」

「その『妖怪』は――スポーツマン風、ニット帽、マスク、ご丁寧にサングラスまで――そんな格好で、か」

「そう。練習の始まる、12時半頃に」

 12時半――シノの報告にあった件だな。

「それ以外は?」

「いえ、何も。ただ不審者情報は、他の時間にも流れていたけれど――」

 窓の外。作り込まれた庭園は見事で、そこだけ悠々と時間が流れている。榊原は渋めの緑茶をゆっくり音も立てず飲み干し、湯飲みをそっと茶托の上におく。静かに谷崎の方へと向き直る。

「女将。『妖怪』には、えらく好き嫌いがあるんだな」

「そうかしらね」

 谷崎は庭を見たまま、頷きもしなかった。


 六月に入った。

 いよいよ大会が来月へと迫る。

 ここまで、『妖怪』に関しては確かな手がかり得ている。現時点では、二匹のシッポを掴むまでに至っていた。

 一匹は、隣の学区で工事現場にいたコムの部下が、『見つけた』ものだ。休憩中に『妖怪』らしき人間を発見し、それをコムに『通報』。そこでコムからの命令で、何とその場にいたほぼ全員、十数人が現場を離れ、その男を尾行した。追跡の基本は、篠宮や木村の協力により習得していた。数名単位のチームが入れ替わり立ち替わり先回りすれ違いを繰り返した末、住処を掴んだのだ。配信された不審者情報と重ねるに、ほぼ『妖怪』だと断定できた。

 そこからは篠宮の探偵事務所にて、木村以下の数名が身辺調査などを重ねた。追跡と調査を開始してから三日くらいで、『妖怪』の行動と正体が明らかになった。三十手前の独身。その来歴。日中の行動。つごう三回程度の『妖怪』行動とその地域――。

 もちろん榊原達は、この『妖怪』を警察に通報することも考えた。だが篠宮の提言により、自ら引いたカードを持ち続けることにした。なぜならば。『妖怪』は頻繁に街中に出かけ、同じ男と何回も待ち合わせては、どこかへ消えていたのだ。この待ち合わせた男に篠宮は思い当たりがあり、解決への鍵になると思われたからだ。

 そして、もう一匹。こちらは、捕獲は時間の問題だったのだが、足踏みしていた。谷崎のクラブの子供を威嚇した『妖怪』である。警察にも十分な情報が集まっており、目撃証言などを得るのは容易で、さらに住処まではたどり着いた。だが警察も張り込んでみたものの、一向に姿を現わさない。そして今でもこの『妖怪』は、忽然と姿を消してしまったままなのだ。

 そして、偶然は悪いほどに重なっていく。


 窓の外。平日、小学校のグランド。

 毎日降り続く雨が、時々休まるその合間。昼休みなのだろう、鬼ごっこや一輪車、縄跳びなど、たくさんの子供達が遊んでいる。勿論、サッカーをしている一団もあり、そこにはサッカークラブの子達も何人か見受けられる。だが当然ながら、それは決して彼らのためのクラブの活動ではない。グランドでは楽しそうにボールを追ってはいるが、梅雨空の雲はただ低く立ちこめている。

 事務所では先ほどから、コムが深刻な顔で立っている。

「いったい、どうなるんですかね、若――」

 曰く。急遽、市内全部の小学校で工事が入り、しばらくは週末のグランドが使えなくなるとのことだった。子供達のサッカークラブにご執心なコムにとって、『妖怪』騒ぎで面倒なことになっている上に、このザマだってことで、気が気で無い様子である。

 工事の内容は重機も入る植栽の造園工事で、その完了は6月一杯とのことだった。受注した業者にとっては、急すぎるとはいえ、半期末のまとまった仕事は喜ばしいことではあった。ただコムが心配するように、今回の造園の工事は、サッカークラブの活動に影響を及ぼす。そうなれば、黙っていられない人がいるはずだ。


 榊原は思い心持ちで、出された日本茶を口にする。

 見慣れているとはいえ。あいも変わらず見事な庭園は、梅雨だからこそ映える景色なのだろう。先行きも見えず降り続ける雨は、昼下がりの庭、その色を尚一層に濃くしている。

「待たせたわね、サカキ。最近、良く来るじゃない」

「いきなりですまない。女将、小学校の――これから入る植栽の工事、知ってるか?」

「聞いたわよ。関係ないけれど、クラブにはいい迷惑よ」

「関係ない? いい迷惑?」

「あら、ごめんなさい、関係ないのは、工事について、よ。市が発注元なんだけど――うちには、お声がかからなかったのよ」

「ほう。最大手の谷崎造園様が、そのザマか。市長へのお布施が足らねぇんじゃねぇか?」

「あら、ずいぶんね――まぁ、その工事は市が急に決めて、さっさと発注したみたいで、私も経緯とかは良く分からないの」

 考え込む表情のままで、榊原は再び茶碗に手を出す。

 窓の外、視界を通り抜ける屋根から落ちる雨の滴を二つくらい数えたあと、ふと何かを思いつく。

「その小学校の工事、受けたのはどこだ?」

「あら。業者の名前聞いて、分からないの?」

「公表はしてないだろ」

「そうだったわね、ごめんなさい。市から発注を受けた元請けは、アンタが出ていった、『家』が面倒見てるところよ」

 湯飲みを持つ榊原の手が一瞬止まったが、すぐに動き出した。

「ホント、こんな時期にね――あきれちゃう。ウチが元請けだったら、何とでも出来たんだけどさ」

「――何がだ?」

「決まっているじゃない。サッカーよ。ホント、いい迷惑。絶対に――週末に工事なんかさせないわよ」

 庭に面した窓際、灰皿が置かれた側。椅子から離れてたどり着いた先、くわえた煙草に火をつけることなく、榊原は少し考え込む。谷崎は間髪入れず、強引にその背中に語りかけた。

「それにしても――サカキ、聞いてくれる? 今回の件――あ、工事の事ね。『山手』だけは影響受けないのよ」

 唐突な既視感。榊原は落としていた視線をゆっくりと上げた。

「『山手』だけ? どういうことだ?」

「ほら――大抵の学校は、今回の工事でグランドが使えなくなるじゃない?でもね、『山手』だけは工事の規模が小さくて、グランドは相変わらず使えるらしいのよ」

「随分な待遇だな、『山手』は。そんな噂が立ってるのか?」

「あら事実よ。酷いと思わない?みんな言ってるわ。『偉い人が贔屓してるところは、いいわよねぇ』って」

 榊原の眉間にわずかに皺が寄る。

「――偉い人? 誰のことだ?」

 谷崎は当然、と言いたげに少し肩を揺らす。そして、内緒話をするかのように、榊原の方へ身を乗り出した。

「市長よ。あそこのクラブには、お孫さんがいるんですって」

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