第2話

 五年ほど前。

 若と呼ばれる榊原は、『とっつぁん』である吉村や『シノ』である篠宮たち数名と共に、ここに居を構えた。皆が榊原を『若』と呼ぶ、その呼び名。それが示す身分は事実本当のものではあったが、一方で、それは既に過去のものでもあった。本当のそれは、袂を分かち『家』に残った弟が担っていた。

 榊原は『己が道』を極めるために生きてきた。だが世の理(ことわり)として彼の抱くものが彼の中では正しかろうとも、時代を経るにつれ、渡世のしがらみを解くことを『稼業』として営む存在自体が許されない世の中になっていた。そして、もはや『その稼業』では生きては行けず、多少の『筋違い』はやむを得ないという『家』と、頑なにそれを良しとしない榊原との溝は、年月を追う事に深まっていく。いつしか、その歪みが極限へと向かう徴候を感じ取った榊原は、『家』を出ることを決意した。『家』にとってはもはや榊原という存在が、様々な思惑を生みかねなくなってしまい、果ては『家』の平穏を名実共に揺るがしかねないと悟ったからだ。自分の信念だけでなく、ある意味、『家』を守るためでもあった。そのため自ら勘当されるという形で『家』から放逐されることを望んだ榊原だが、榊原を止めるだろうと思われていた者達のほとんどが、榊原の後を追うように『家』を去った。それが、吉村や篠宮達である。

 『家』から離れ、自由になった榊原。もちろん『稼業』だけに頼らないよう、いくつか『表の顔』を持つことにした。この事務所で地場の土建業を営むという今の姿も、そのひとつである。土建業を営むため新たに雇われた十数名の者達が、この事務所を拠点に様々な現場へと飛び回っている。コムと呼ばれる小向などは、そのような『表の顔』の人間であり、工事現場で荒れくれ者達を統率する毎日を送っている。そして。そんな皆が榊原を『若』と呼ぶのは、親しみを込めた愛称にしか過ぎず、だから榊原はそれを拒まない。

 だがそれでも。榊原は、頑なまでに弁えようとしていた。

 自らはあくまで、陰で生きているということを。


 その日の夕方。

 昼間の『小学生によるカチ込み騒動』を肴にした笑い混じりの雑談で満たされる中、事務所の皆はその日の仕事を収めようとしていた。コムが半ば怒りつつも笑いながら昼間の出来事を振り返る一方で、主に吉村から嘲笑の標的にされ、しばしば絶叫するかのように恥を偲んでいた。

 話が盛り上がる中。席を外していた榊原が、喧噪を余所に窓際でのんびり外の景色を見ている篠宮のところへ歩み寄る。


「――シノ」

「なんでしょう?」

「悪いが、今からオマエの事務所、貸してくれねぇか」

「構いませんよ――なんなら、送りましょうか?」

「すまない。頼む」

 篠宮を従え、榊原は事務所を後にする。

 

 ビルの一階。地下と地上、上下二段のリフトが数機並ぶ、機械式の駐車場。篠宮はリフトを操作し、地下から車を引き上げる。車に乗り込みリフトから降ろしたあと、また車から降りて、空になったリフトを再び地下に沈める。その間、主の側で。小柄なアルファロメオの古いセダンが、抑え気味ながらも威嚇するような低い唸り声をあげている。

 榊原は助手席のドアを開けようとする篠宮を制し、自らで乗り込んだ。反対側に回り運転席に滑り込む篠宮。シートベルトを締めながら、毎度のごとく榊原に詫びる。

「すみません、狭くて」

「毎回毎回、聞き飽きたよ」

 こちらも毎度の如く、榊原が笑い飛ばす。すっかり仏頂面が崩れた篠宮が、アクセルを煽る。Vの上にFが乗る小気味の良い咆哮を二度ほどあげて、車は滑り出していく。


 三角窓から流れ込む風。夕闇に包まれた街は、気温よりも少しだけ冷たく感じる。

「サキさん」

 篠宮が両切りのゴロワースが一本だけ顔を覗かせた箱を、榊原に差し出した。榊原は引き抜いたタバコの片方をゆっくり軽く絞ってから口元に運び、篠宮が今度は自分の分を引き抜いたのを見計らうように、ライターを差し出した。オイルライターの揺れる炎に照らされた篠宮の表情は、榊原からの気遣いに幾分ならずと驚いていた。だが、すぐに進行方向へと視線を戻す。

「昼間は――コムの奴に悪いことを――」

 視線の隅に榊原を捉えながら、篠宮が話しかける。

「あぁ。アイツも分かってるさ。だからアイツも、オマエに謝ったんじゃねぇのか」

 前を見たまま、榊原は煙をゆっくりと長く吐いた。

 篠宮が煙草を深く吸い込む。明るさを強めていく火に照らされた表情は、物憂げさが一層深まっていく。

「『お手間を掛けました』とは言ってましたが」

「まぁ激情的で真っ直ぐなところも、アイツの良いところさ」

 単純なだけかも知れんがなと榊原は笑いながら煙を吐いた。

「そうですね」

 篠宮も釣られて、吹き出すように煙を吐いた。

 車内を巡る二人の煙草の煙。少し開いた三角窓から全て吸い出された頃、車は目的のビルに辿り着いた。


 ガラス戸を開け、古ぼけた蛍光灯に照らされたロビーに入る。篠宮がエレベータを呼ぶべくボタンに手を伸ばそうとするが、それを榊原が階段で行こう、と制した。

 ゆっくりとした足取りで階段を上っていく。所々で蛍光灯が備え付けられてはいるのだが、窓から入り込む街の灯りに随分と助けてもらっている。三階に辿り着き、古い診療所のような全面目隠し加工のガラスのドアを開け、篠宮は榊原を中に招き入れた。


「榊原さん! お久しぶりです!」

 スチールの机に向かって端末仕事をしていた三十手前のメガネを掛けた男が、勢いよく立ち上がる。

「木村か! まだ辞めないのか。シノなんかと、よく続くなぁ」

 そりゃああんまりじゃないですか、と珍しく笑顔で文句を言う篠宮。無愛想で世話が焼けるんですよ、と木村と呼ばれた男の言葉に、三人は朗らかに笑った。

 連絡を受けたとおりに奥の応接室を使う榊原と篠宮をそこに案内しながら、木村は尋ねる。

「どうしたんですか?今日は」

「シノにも言ってなかったな。すまない。人が訪ねてくる」

 篠宮の目の色が、わずかに変わる。

「――録りますか?」

「いや、そんなんじゃねぇから大丈夫だ」

「吉村のオジキは、呼びますか?」

 雰囲気を察したのか、榊原は高らかに笑い飛ばした。

「いやいや、それこそ無用だよ。相手は一人だ」

 篠宮の表情を読みながら、一呼吸置いた。

「ここに来るのは、ただのバーサンだ」

 片目を閉じて合図する榊原に、篠宮は全てを理解した。


 木村が台所で珈琲を淹れていると、事務所の入り口のドアがそろりと開いた。

「ごめんください。榊原さんを訪ねてきたのですが――」

 女性、七十手前。上品なリネン混じりのスーツ。まっすぐな姿勢。それなりの身分か――一人で来るはずじゃないのか。まぁ、いずれにせよ『無害』だな――木村は職業柄、心の中でプロファイリングを行いつつ、『お客様』を応接室に案内する。

「榊原さん、いらっしゃいましたよ」

 ドアの前で木村が止まる。

「どうぞ」

 榊原が応えたのを受けて、木村はゆっくりとドアを開けた。応接室に入ろうとするお客様――いやお客『様たち』が予想外だったのか、榊原は少しだけ片方の眉をつり上げ、それでも笑顔で立ち上がり、先頭の老女に歩み寄った。

「お久しぶりです。いつ以来でしたかね、谷崎さん」

「そうね、ウチの子供達に近隣を掃除させる『クリーン作戦』のときあたり、かしら」

 谷崎という女性は、笑いながら、榊原の差し出すままに握手をして応えた。榊原は握手をほどくやいなや、谷崎の腕を掴み、共に部屋の中の皆へ背を向けて小声で話しかける。

「ばーさん。先に言わせて貰うが――本来ならアンタにすら会うつもりはなかった」

「あら。『ばーさん』だなんて、失礼だこと」

「しかも問題は、それどころじゃない。アレは何だ」

 肩の向こうへ振った目線で指し示しながら、榊原は苛立たしげに谷崎を問い詰める。

「あら。ついて来ちゃったんだから、仕方ございませんこと?」


「ねぇ、たんていじむしょだって! すごいね、コーチ!」

「ああ、探偵事務所だなんて、コーチも初めてだよ」

 昼間の『カチ込み』の張本人、優作とコーチだった。事態の大きさを飲み込むつもりもなく、優作は本革のソファーを堪能し、無邪気にはしゃいでいた。


「何考えてるんだ、アンタ。彼には昼間、『偉いさんに言っておくだけでいい』って言ったんだ。なのに、それを――」

「『代表が行くなら、俺たちも行く』ってうるさいのよ。それに、あちらの『事務所』じゃないから、いいじゃない。私は向こうでも全然構いやしませんでしたのに」

 困惑する榊原を見て、不意に老女の声が下がる。

「サカキ。アンタ、足、洗ったんだろ?構いやしないじゃない」

「――ご存じなはずだ。『家』を出ただけだ」

 口ぶりは穏やかながらも、珍しく血色ばむ榊原。

「あら、違いはございませんことよ? ――で、榊原さん。いつまでレディーを立たせておくのです?」

「失礼しました」

 榊原は目頭を右手の平で覆いながら、天を仰いだ。


 篠宮と木村は部屋から去り、残された皆がソファーに座る。谷崎が改めて話を切り出す。コーチは対外試合で使う物ですが、と早見と記された名刺を差し出し、改めて昼間の件を詫びた。

 しばらく優作も交えて談笑し、最後に榊原が切り出した。

「昼間にも、また先ほどにも申しましたとおり、既にお詫びは頂いておりますので、それだけで結構です。もしそれでもご納得頂けないということであれば、『次は気をつけて下さい』とだけ、改めて申し入れさせていただきます。引き続き、皆様のご健勝をお祈りしております」

 まだ恐縮しきりの早見に、谷崎は、用が済んだでしょうから遅くならないうちに優作を連れて帰りなさい、と命じた。早見が深々と礼をし、まだいたいと嫌がる優作を引き摺るように退散するのを見送る。優作が振り返りながら、昼間と同じように三度ならずと試合に見に来るよう切望したが、榊原は方眉と唇の端を持ち上げた簡単な笑顔で手を振り返すだけだった。

 微笑みながら見ていた谷崎が、頃合いを見て話しかける。

「あら。誘われちゃったわね。見に来ればいいじゃない」

 わざと無神経にふるまう谷崎に、苛立ちを隠せない榊原。

「それは無理な相談だ。俺が『関わりあい』になれないのは、お分かりのはず」

「相変わらず、堅いのね。まぁ一度、見にいらっしゃいな」

「答えは差し控えます」


 榊原の顔色を伺いながら、谷崎は話題を変えた。

「それでね、ちょっと話を聞いて欲しいんだけど」

 初めは、小学校近辺によくある『不審者』の話だと思われた。

 数ヶ月前、年も明けた頃。小学校のグランドで、谷崎が代表を務めるスポーツ少年団サッカークラブが練習をしていた際。校庭の隅には、随分前から、何やらトレーニングをしていた男がいた。スタッフあわせて警戒はしていた。何より男は、ニット帽にサングラス、ご丁寧にマスクまでしていたのだ。その怪しい風体に、保護者達は大げさならずと恐怖におののき、ざわめきや囁きなどが沸き起こり始めた。そんな場の雰囲気に押し出されるように、怪しい風体のその男は何事もせずグランドを後にした。

 だが、その次の週。彼は再びグランドを訪れて『くれた』のだ。今度は、素顔のままで。

 その顔を一目見て、皆は彼が誰だか分かった。割と有名なプロのサッカー選手で、近所に居を構えていた。次のシーズンに備え、軽く体を動かすために、近くの小学校―すなわちこのグランドを使っていたとのことだった。素顔を隠すような怪しい格好も、体調を崩さぬように備えていただけであった。わざわざ素顔で尋ねてきてくれたのは、雰囲気で読み取る限り以上に与えてしまったであろう誤解を解くだけでなく、時間の許す限りサッカーが大好きな子供達と交流したいという、全くの善意だった。保護者は安堵するどころか歓喜し、同様に喜びを爆発させる子供たちに彼は囲まれながら、騒ぎとしては一件落着となった。

 それからしばらく、練習の度。彼は時間を割いて、子供たちにサッカーを教えてくれた。谷崎のクラブだけではなく、呼ばれるままに都合の付く限り、各地の小学校へと、市内のサッカークラブを尋ねていった。彼はよく、それぞれのクラブのコーチ達に言っていたそうだ。子供たちはいいですね、未来を感じられて。私も子供達からパワーを貰えて、頑張ろうって気になります――。繰り返されるパスの交換、言葉と心のふれあ。彼らにとって、どれほど幸福な時間であったのだろうか。


「そのサッカー選手って、もしかして――」

 榊原は、ある事実を思い出した。

「そうよ。ニュースでも報じられたものね」

 谷崎は、さらに話を続けた。


 三月。悲劇が街を襲う。

 駅から少し離れた斎場。冬の名残が強く残る風に吹かれながら、軽く百人は超える喪服に身を包んだ人々が、最後の別れを告げに次から次へと押し寄せていた。

 数日前。中心地を通る大きな国道、そこから近くの交差点。相手は大型トラックだった。右折を待つ左ハンドルの外国車が、タイミングを見計らい、右折を始めた。反対車線、状況を見落とした大型トラックが、ほぼノーブレーキでその外国車の側面に突っ込んだ。いわゆる右直事故。ほぼ即死だったそうだ。

 亡くなったのは、サッカーに触れたことのある人ならば、名前を聞けば分かるほどの選手であり――『その』サッカー選手だった。斎場へ至る道。伏せた目線で挨拶もなく歩道の上でただすれ違う、親類、彼のチームメイトや関係者。そして、わずかながらに交流したサッカークラブの子供たち。みなそれぞれの思い出と、同じように大きな悲しみを心に抱いていた。

 そして。春が近づく喧噪を余所に、街全体が悲しみの鉛色の空気に包まれたまま。事態は予期せぬ方向へと流されていく。


 市が提供する、『不審者情報配信サービス』。小学生の保護者などが主に利用し、登録したメールアドレスに通報された事案が随時で配信される仕組みである。

 三月も半ばを過ぎた頃。そこに特徴のある、小学生への声かけ事案が配信されはじめる。まずは隣同士の地域で同時に発生した二件、その数分後には、別の地域で同時に三件。そこから毎日、一日あたり三回程度、いずれも目撃情報から、同じ格好をした不審な男によるものであった。この頻繁に発生し収まる様子のない不審者情報に対して、小学校はPTAと共にパトロールなどの対策を検討し、市と教育委員会は警察と連携して動き出すなど、まさに市を上げての対応を迫られた。

 だが、いつまでも配信が減らない。神経衰弱のような日々がすぎると、いつしか街には妙な噂が流れ始める。『声かけ』の被害者、すなわち『不審者』のターゲットは、近隣の小学生、いやサッカークラブの子供たちに限られている――と。

 その噂は燎原の火のごとく広まり、人々が根拠のない感情的な憶測を始める。恐怖が恐怖を呼び、もはや限界まで心身がすり減りつつあった。

 そして、しばらく後。見計らったかのように、誰もが戦慄した『事件』へと発展した。いくつかの地域で同時多発的に。目撃情報から配信された、『同じ格好』-スポーツマン風、ニット帽、マスク、ご丁寧にサングラスまで。それぞれの場所で、同じ姿の男が。それぞれの場所で、道行く小学生の腕を掴み。それぞれ同じように、カバンに何かの紙を押し込んだ。そして、その紙には全て。同じ文章が、おどろおどろしい墨文字で書かれていた。

 未来、その全てが憎い――と。

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