明日檜(あすなろ)の風
速水俊二
第1話
眼が痛くなるほど、眩いまでに輝く世界。
そこに臨む窓は開け放たれ、さらりと風が流れ込む。
その風は、室内を力なく漂う埃や光の届かない陰に沈積する闇を、ぐるりと世のしがらみを断ち切るように掻き混ぜていく。
外に広がる世界、そして自らが留まるべき世界。
決して交わることは無かったその境目を、今――風が掻き乱そうとしている。
突然。
鈍い衝突音――直後にガラスが割れる破壊音と破裂音が重なり連なる。
スローモーション。
変わり果てた蛍光管の星屑が、砂となり音もなく天井から静かに降り注いでいく。
「なんじゃ?!」
「カチ込みかオラァ!」
迸る怒声。
風体が尋常でない強面の男達が、感情を沸騰させ荒れ狂う。
拙速なまでに懐に忍ばせた得物や飾り掛けた長物に手を掛ける者までおり、皆が臨戦態勢――音のした方向を一斉に睨み付けている。
土建業『藤建設』――その黒い看板。
地域の皆が勝手に「裏の顔」を想像し噂し怖れを抱くその七十坪程度の事務所は、今、噂に違わぬ本性も露わに、張り詰めた空気で爆発寸前になっていた。
「やかましいッ!」
大部屋の奥。机に脚を投げ出していた男が、眼光く一喝した。
後ろに流した、短めの茶色がかった髪。少し彫りの深い顔、左眉の上側から頬骨の辺りまで、うっすらと一本の古い切り傷。少し下がった目尻に流れてくる、鳶色の瞳。ライト・ブラウンのベスト、ピンストライプの白いシャツの襟元、指を差し込み深いエンジ色のネクタイを緩めながら、四十代半ばながら無駄の無い中背で引き締まった体を立ち上がらせる。
「何を騒いでんだ、全く――よく見てみろよ」
「わ、若ッ!」
一同、若と呼ばれた男に言われるまま――改めて音のした方向、その付近の床へと移す。
粉々に砕けた二本の蛍光灯、ガラスの海。
その中に――サッカーボールがひとつ。ぽつねんと佇んでいた。
「まぁ、そういうこった――窓の外、見てみろよ。そっと、だぞ」
一階が駐車場となる、このビルの2階にある一室。
普通より高さのある窓から一同、そっと下をのぞき見る。
眼下に広がる小学校のグランド、たくさんの小さな瞳が不安げにこちらを見上げている。
スポーツ少年団サッカークラブ、そこに所属する少年達だった。
だが窓の内側。
その不安をさらに踏みつぶすが如く。
スキンヘッドの大男――野太い叫び声を喉元から徐々に押し出しながら、開いた窓の際に向かって駆け出した。
「あンのくそガキ達ッ! 何を――」
――しやがるんだと叫び尽くす寸前。すでに青白くなった顔面は、その声すらをも喉の奥へと押しとどめていた。
無理もない。
いつの間やら、彼の鼻の先。
ぬらりと鈍く光る刃――日本刀が、視線を横切っていた。
「若は、『そっと』だと言うたろうが」
視線だけを下げたその先。屈み込んだ肩越しに長刃を差し出しているのは、時代遅れにも見える着流しの老人。物静かに、だが眼光鋭く睨みつけている。
二人を横目に、若は面倒くさそうに机の端に腰掛ける。
「とっつぁん。外から見える。ソイツを引っ込めな」
「こりゃあ、若――申し訳ない」
五月のはじめ。
春霞の残っていた空が次第に高くなりはじめていた。
そんな土曜日、のどかな昼下がり。のんびりとした五月の太陽が窓一面から射し込んでいる。小学校に隣接した、雑居ビルの2階。開け放たれた窓から心地よい風が流れ込み、張りつめていた空気を冷ましていく。ようやく事務所は、平熱を取り戻そうとしていた。
若は、スキンヘッドの大男に命じる。
「コム。ボールを窓から返してやれ。優しく、だぞ」
「でも、若! これで何も無しってのは――」
「ボールが飛び込んできた。それだけだ――二度は言わせるな」
「は、はい」
コムと呼ばれた男は、鉛色の刃から解き放たれようやく血の気の戻った顔、そこに浮かぶ不満を覚られぬよう、ゆっくりした動作でボールを拾いあげた。
窓から見下ろすグランドの上。時間が凍り付いていたのは無理もない。皆が絶対に起こしてはいけないと注意を払っていたはずの事態が起き、さらに皆が見上げた先の開けた窓越しに、何かを叫ぼうとした大男が尋常じゃない様子で動きを制されたところまで、あたかも紙芝居のように見て取れていた。
だが、グランドからは見えないところで。
人知れず彼らの時間は動いていた。
まだ騒然としている事務所。玄関のチャイムが鳴る。皆が視線を一斉に向ける。
ドアの向こう。子供の声。
「あの――すみませーん」
緊張から安堵に移った感情を揺り戻すように、コムはいきり立つ。先ほどからの憂さを晴らさんと、何やら大声を出しながら、玄関へと突進を始める。
だが、その行く手に、するりと若が割り込む。
「若!」
「オマエは出ちゃいけねぇな。子供が脅くだろ」
言葉と頭を掻くコムを置き去りに、若は玄関に立つ。注意を払って、優しくドアを開ける。予想外に下げた視線の先、ドアの隙間から次第に姿を現す、青黒ストライプのユニフォーム。小学三年生くらいの男の子が立っていた。
「おう、坊主。どうした?」
察するまでもなく何故そこにいるのかは分かってはいるのだが、その微笑ましさに尋ねずにはいられない。
「あの。ほんとうに、ごめんなさい。けったボールがとんで、入って、なんかいっぱいこわれたみたいで――」
先程のコムに向けた威圧感を微塵も感じさせない様子で、腰あたりにある小さな顔に、若は少し屈んで近づいた。
その笑顔に、少年は少し安堵する。
「坊主。あれ、オマエがやったのか?」
「――はい」
「そうか! あれ、すごいキックだったぞ!」
「ごめんなさい」
「いいさ、気にするな。次はゴールにぶち込みなよ」
はは、と笑い声をあげたその瞬間。
上下に紺色のピステ・ジャージに身を包んだ二十代半ばの若い男が、玄関に至る階段を駆け上がって来た。しなやかな動きで息も乱さず辿り着くと、その子供の頭に手を掛け、優しく諭した。
「だめじゃないか優作。勝手にグランドを離れちゃ。こういうのはコーチに任せなきゃ」
そのまま若のほうに向き直り、深々と頭を下げて詫びた。
その瞬間、若の後ろから怒声が飛んでくる。
「ンだぁ、コラァ! きちんとガキぃ躾ろやぁ!」
部屋の奥。コムだ。若者は一瞬だけたじろいだが、すぐさま歯を食いしばり、表情を引き締めた。
「申し訳ございません!」
部屋の奥からコムが飛び出そうとする。
「ンだとコラァ! 『申し訳ございません』で済まされると……」
そして再び、予定調和な静寂。
唾を飲み込む音。
コムの喉元――後ろから回り込むように。バタフライナイフが突きつけられている。
喜劇舞台のように繰り返すコムの災難に、さすがの若も苦笑いする。
「シノ。カタギの前だ――下げろ」
「はい」
シノと呼ばれた、三十半ば、短い髪をリーゼント風に整えた、スーツ姿の細身で肩幅の広い大柄な仏頂面の男。若に命じられるまま、再び降りかかった悲喜劇に悪態をつくコムには構いもせず、スルリと離れた。
意を決した若者は、少年を守るために歯を食いしばる。
「この子はグランドに戻させてください。私はもう一度、戻ってきます。そこで改めて、色々と話をさせて下さい」
若者は優作と呼ばれた子供の肩に手をかけて、一度はその場を離れようとする。
「まぁ、待ちな」
若は、両手を軽く上げて制した。
「アンタが来る前、この坊主、何て言ったか分かるか?」
「いいえ」
「開口一発、元気な声で『ごめんなさい』だ。変な言い訳も全くぜずに、健気に頑張ってたぜ」
「そうでしたか」
ならば、今度は自分が頑張らねば――若者は腹に力を込める。
だが。若は、全て言い終えた顔をしている。
「まぁ、話はこれで終わりだ――坊主を連れて帰んな」
若の意図がくみ取れない若者は、ただ困惑する。
「言いたいこたぁ分かってる。だからアンタんとこの偉いさんに伝えてくれ――『次に気ぃつけてくれりゃあ、それでいい』と」
「いや、代表に報告した上で、後ほどに――」
責任を果たそうとする若者を、若は視線で鋭く遮った。
「要らない。しっかり一人で謝った、坊主の男気に失礼だ」
「――分かりました。重ねて、すみませんでした」
意味を理解した若者は、深々と頭を下げる。
その足下から、甲高い声が飛び出す。
「ほんとうにごめんなさい、おじさん」
申し訳なさそうだが人懐っこさの現れた少年の視線に、若も表情を崩す。
「ああ。いいってことよ」
「こんどはちゃんと、ゴールに決めるから!」
「はは。期待してるよ」
呼び寄せたバツの悪そうなコムから受け取ったボールを、若が手渡しをする。
一件落着と思われた瞬間、飛び出る意外な一言。
「ねぇ、おじさん。こんど、しあい見にきてよ」
「ん?」
「やくそくだよ!」
「はは、まあな」
苦笑いする若を後目に。再び深々と頭を下げた若者に連れられた優作は、階段の途中で「絶対だよ!」と振り返り、その度に段を踏み外し――を二度ほど繰り返す。そして二人は、ビルの外、白一色の日溜まりの中へと溶け込んでいった。
事務所は既に平常を取り戻し、後片付けを始めていた。
窓際に立ち外を眺める若は、側にコムを呼んだ。
「コムよ」
「は」
「とっつぁんやシノが悪かったな」
「いえ。カタギに対して、あんな――いや、若の顔に泥を塗るところでした。身内に刃を向けられるのも、しょうのない(仕方ない)こって」
すっと頭を下げ踵を返して若から離れゆくコムは、着流しの老人と仏頂面の男とすれ違う度、互いに打って変わった明るい声で二三言ばかり交わして、苦笑いと共に丸坊主の頭を撫でながら事務所の奥にへと消えていった。
コムと入れ替わりに、とっつぁんが若の方へ、ゆっくりと側まで歩み寄ってきた。
「とっつぁん。悪かったな。『抜かせ』ちまって」
「コムの野郎も分かってまさぁ」
そうだな――若は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつける。窓の外を眺めながら、大きく煙を吐いた。
「若――あの坊主と約束しちまったんで?」
とっつぁんは側に並び立ち、視線を交わさず語りかける。
「随分と意地が悪いじゃねぇか、とっつぁん」
目線はそのままに、ゆっくりと煙を吐いた。
「若。そうでさぁ、な」
開け放たれた窓、そこから見下ろすグランドの上。ようやく戻った優作が、こちらに気づいて大きく手を振る。軽く手を上げる若、その横、やけくそ気味に目一杯の作り笑顔で激しく両手を振るコム。それを見て大笑いをする子供たち。その様子に安心したのか、窓の外でも、ようやく時間が動き出していた。こうして子供も、続いて大人も、元気に満ちた日常へと戻っていく。
若はただ、遠い目で見ている。開けた窓から風が流れてこようとも。あちらは陽が当たり、こちらは薄暗いままで、決して交わらない世界なのだ。
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