入厨(いりくりや)

どうにもこうにも雨が多く、稼ぎも碌にありゃしない嫌な日の事だった。人の多い町の方で、金回りが悪くなったらしく、泥棒稼業の儲けが少なくなっちまった。そんなもんで、たまにゃちょいと遠いとこで何かお宝でも見つからねぇかと軽く考えたのが悪かったらしい。町からちょいと離れちまうと、やっぱり散々で、吹いたら壊れちまいそうな家ばかり建っている。あぁ着回しの一着がもうずぶ濡れだ。どうせ着替えの方もこれじゃぁダメだろう。野宿しようと思っていたが、この雨じゃあこりゃ眠れやせんと、男はぽつんと海沿いに建った一件、人気の無いボロ屋を見つけて入って行った。


 入ったはいいが中は酷く臭って、自慢の耳で探れば人の息の音がするような気がする。大雨でばれなぇでくれと思いながら少しばかり辺りを確認すると、床で病人が一人寝ているらしい。他に気配は感じねぇがこりゃ今夜が山にちげぇねぇ。流行り病だと困るが雨が凌げるだけ外で雨に打たれるよりはましだろう。気持ち悪いがとっとと裸になって、床らしき板にごろりと寝転がらせてもらうことにした。病人から布団をぶんどろうかとも思ったが、いくらなんでもそりゃ仏さんが許しゃしないし、生憎この汚物の匂いは病人からするらしい。あぁ、最悪だ。寝れやしねぇと思ったが、雨に打たれて体は限界だったらしい。知らねぇうちに寝落ちたようだった。


 朝ぼろぼろの戸から零れる光で目が覚めた男は、ごっほごっほと大きく咳をした。喉はがらがらで、おまけに家じゅうにある埃が更に男の喉に刺さるようだ。昨日は疲れてとっとと寝ちまったので気付かなかったが、雨漏りもひどく所々に水溜まりが出来ている。家がある癖に俺の暮らしよりひでぇじゃねぇかと思いながら、男は男の近くに垂れた、一番綺麗そうな水を一掬い口に含んだ。ここらは海水ばかりで井戸が少ねぇ。生ぐせぇ雨水だって無いよりはましである。喉が少し潤うと、何だか無性に腹が減った気がする。ゴロリと横に頭を転がすと、老婆が目を瞑ったまま荒い息を立てたまま布団に寝転がっている。目も開けられねぇくらい目ヤニが溜まっていて、今生きているのでさえやっとだろう。


 くたばりかけの婆ぁだ。貯めこんでも仕方あるまいと、とっとと食えそうなもんをいただいて家から出よう。小せぇ釜戸のある厨のような場所を見つけて、まぁこんな狭ぇ家に生意気なもんだと思いながら、暗所を覗いてよくよく見ると、干からびた山菜と大根があった。生意気なことに茶色くなってひび割れちゃいるが小さな袋の中に米まで置いてあるときた。よくよく探しゃあ味噌まであるじゃぁねぇか。婆ぁの一人暮らしにしちゃ贅沢だ。この味噌と米を煮たらとっととずらからねぇとなぁと考えながら、久々の米の飯を食えるとなりゃ今すぐ逃げる気には更々なれなかった。男に生まれたがいい暮らしなんざした事が無ぇので、男はガキの頃何度か炊事を手伝わされたことがあった。ちび助の頃に奉公先から逃げ出して以来久々だ。米を洗って適当に水につけている間、暇を持て余した男はほっぽっておいた着物を軒に吊るすと、ぼろぼろの板の上にごろりと寝転がった。考えてみると不思議だったのだ。食い物の具合や汚く汚れ切った老婆を見ると、もしかしたらこの老婆は2,3日前に家人に捨てられたのかもしれぬ。


 薄情なもんだなぁ。散々ガキの頃はお乳をもらって育ててもらったろうに。捨てる餞別がこの干からびた古ぃ米かぁと盗人は途端に老婆が哀れになって、ふしふしと苦しそうに息をする老婆に首を向けて眺めた。口が動いているのを見ると、何か言っているらしい。「ふぅぃず・・・。ふぅいず・・・。」老婆は喉をヒューヒューと鳴らしながら必死にこちらに何か訴えている。もしかすると数日飲まず食わずでいたせいで、水を欲しがっているのかもしれねぇ。先程米を漬けるために水瓶の中の水を半分程使っちまったが、くたばり損ないの最期の願い位聞いてやろうと椀に水を汲み、古い匙にちょんちょんと水をつけて、口目掛けて一滴一滴垂らしてやった。老婆は何とか飲み込んでいるらしい。数滴たらした後に口を閉じると喉をぐっと動かしている。老婆が満足したのかくぅくぅと寝始めたので、男はやっと米のことを思い出した。


 米をぐつぐつ煮ていると、いい匂いがして来て、腹が減って鼻歌を歌いたくなっちまう。鍋の蓋を少しばかり開けて覗き込むと、大きな匙で米と煮汁をちょいとばかりすくってみた、米をちょいとつまむとどうやひび割れている分、水の通りが早いらしくもう芯がなくなっていた。男は米の飯のおこげが大好物だったが米が食えるだけ満足として炒ろうと思っていた大根とくたびれた山菜を入れて煮溶かすことにした。元は婆ぁへの餞別だ。どろっとした重湯位くわしてもいいだろう。ならせっかくのお味噌さんだ少しくらい使わしてもらって・・・。味は落ちるが今味噌を溶かして、野菜に火が通るまでに婆ぁに重湯をくわしてやるか。さっきの水を飲ませた椀に、味噌を溶かした重湯を入れて、男はご機嫌に老婆の元へ向かった。


 老婆が揺すっても中々起きなかったので男は先に自分の飯に有り付くことにした。どろどろに溶けちゃいたがそこは味噌を溶かした飯だ。中々には旨い。お侍さん達が格好つけて厨に入らず、それを真似する町人もいたが、自分で飯を作って食ってみると他人に作らせるより何倍も旨く感じる。あいつらは可哀想だなぁと思いながらガツガツと飯を平らげていく。すると音か匂いにつられたのか老婆が身じろきをしたので「おい。婆様飯だぞ。口を開けなぁ。」と声を掛けてやった。その瞬間、あぁ、しまったなぁと後悔したが、誰かと勘違いしたらしい老婆は、仰向けになりゆっくり口を開けたので、数刻前と同じように匙からゆっくり重湯を垂らしてやった。少し垂らすと旨かったかふふっと笑ったので少し多めに垂らしてやる。すると少し苦しそうにしだした。体が臭くて出来れば触れたくなかったが起こして少しずつ口に入れてやる。椀をほとんど平らげたところで首を振っていやいやをしたので「あと二口だ。婆様。頑張りなぁ。」と口に入れてやった。その後、満腹になって満足したのかまたすぅすぅと行儀よく寝だしたので男はまた自分の飯をガツガツと食いだした。そういや人と食う飯なんて久しぶりだ。鍋底に少しばかりのおこげを見つけ、やはりいいことはするもんだと。ぺりぺりと丁寧に剥がし、いくらか食ってから残りは腹が減った時の為にとっておいた。


 さぁて、飯も鱈腹食った事だし、とっととここらから離れて良さげな家を探すかぁと思った所、老婆がまた唸りだした。汗や海風でべとついた額に手を添えると、人がこんな熱くなるのかと思うくらいには熱い。呼吸がひゅうひゅうと小さくなり、今度はどうやら意識を失ったらしい。やっぱりこりゃ老衰でなく、何かの病に違いねぇ。俺の飯を食ったせいで死んだと思われちゃあ寝ざめが悪いと、他の布団と交換してやることにした。布団を代えてやるにも、今寝ているおんぼろより酷く薄い布団しかなかったが、これでも無いより大分ましだろう。男は老婆の近くに寄っていって、老婆のおんぼろ布団を剥がすと、まぁそこは想像以上に地獄絵図のようだった。いやはや蛆まで湧いている。こりゃぁこの敷布団はもう駄目だろう。着物も交換してやらなならねえ。色々な意味で吐き気に耐えながら、汚ねぇもんは全てでかい石を重しにして海に突っ込んでやった。しばらく時間がたったら一度引き上げてやろうと思ったのだ。汚れが落ちりゃまだましになるだろう。男は自分の布団など奉公先で借りたもんしか知らないので洗い方の検討もつかなかった。


 すさまじい吐き気に耐えながら、男は老婆の体を海につっこんでジャブジャブ洗い、水瓶の水を少し温めてぼろきれに含ませ、この糞婆ぁと思いながら体を拭いてやった。同時にこんな状態の母親を放置した息子か娘は随分な鬼畜野郎共だと胸糞が悪くなった。すると婆ぁが無ぇ歯でなにかふしゅるふしゅると言葉のようなもんを紡いで、一筋涙を流した。粗方他所の男に裸にされて、婆ぁの癖に恥じらっているんだろう。辞めろと言っているに違いない。うるせぇ。泣きてぇのはこっちだと自分の勝手にやっている事なのに理不尽に文句を言いながら、何とか拭き終えた。「おら、クソ婆ぁ。死んだ旦那か誰かが迎えに来るのに最期位綺麗にしておけや。飯の借りは返したからな。」と軽口で勝手な事を言いながら、着物を着せておしめを巻いてやった。これでまぁまぁ死に姿も前よりはましだろう。それにもしかしたら、家族が帰って来て、生きた婆ぁを見つけて腰を抜かすかもしれねぇと男は一人想像して噴き出した。

 

 その家を出てから次の日、町外れをぐるりと洗ってみたが、少しの銭しか盗めず、男は不機嫌なまま、やはり盗みは人の多い町でやるに限ると町に向かって歩いて行った。まだ日は高い。この調子で歩きゃぁ夕暮れまでに着いて、相部屋になるかもしれんが、安宿にでも泊まれるだろう。しかし、どうにも昨日寄った老婆の家が気になる。もうくたばっているかもしれんが、生きていても水が持つのは数日だ。一口二口しか残っていない水は、盗みにしても死にかけから命の半分以上ごっそり盗んだようなもんだ。ふむ。と男は一人考えると、あまり良い思い出のない、あの海沿いの家まで歩いて行った。


 家までたどり着けぬなら、それはそこまでの縁だと思っていたのに、幸か不幸かあのボロボロの吹いたら壊れそうな家はすぐに目の前に現れた。婆ぁの家に入る時、近くを一人の爺ぃが通りがかったが、特にお互い気にせず、ペコリと会釈をしてすれ違った。近くに家などあったか不思議だったがあの婆様の知り合いかもしれねぇ。ならお役御免かと泥棒は、厨の窓から中を眺めた。婆ぁは相変わらず動けず、お上品に布団に仰向けになっている以外は特に違いは見られない。やはり誰もいないようだ。泥棒はするりと戸から入ると水瓶の蓋を開けてみた。どうやらさっきの爺ぃが水瓶の水を一杯にしていったらしい。少しばかり山菜と塩も増えている気がする。だが、米や味噌は増えていないところを見ると、元々あの爺ぃからの物じゃなかったらしい。何だ俺以外に面倒を見てくれる奴がきちんといるんじゃねぇかと思い、婆ぁに近付くと、何やら小水の嫌な臭いがする。この婆ぁと思いながら、男はまた押おしめを代えて、体を拭いてやった。ついでについさっき銭と共に盗んだ干し魚と大根を煮て、汁とぐちゃぐちゃに煮潰した大根を冷ますと、この間の重湯のようにゆっくり口に含ませてやった。美味いのか、こくりこくりとこの間より飲み込む勢いが早い気がする。自分は干し魚と大根を煮た形のまま食ったが確かに確かにこりゃうまい。大根の葉からからに炒めて塩を振り、また後で食う事にした。それにしても不思議なもんだ。あの爺ぃは飯の継ぎ足しだけしかしねぇんだろうか。まぁ、ちょっとした菜が手に入るなら、ここにこっそり通うも悪くない。


 それから時々男は、婆ぁの家にちょいちょいと通うようになった。しぶとい事に、虫の息の癖に中々くたばらない。その内目を開けるようになったが目が濁って何処を見ているかわからないところを見ると、目は見えちゃいないらしい。また、最近町の方で大きな火事があり、大工仕事に男手が必要なようで、暫く男の懐は温かくなった。仕事はきついが一回仕事をするだけで結構な給金がもらえる上に、道具も貸し出してくれるとなっちゃ働かない理由もない。泥棒稼業は儲かる時は儲かるが、危険でスカも多いと来た。それに俺みたいな小者は、伝手が無ぇから値の張りすぎる名匠が作った品なんかも宝の持ち腐れで売り出せやしない。縄張りなんてものもあるし、この仕事は婆ぁの世話したお礼に天神様がくれたに違いねぇと、男は暫く仕事のあるうちはこれに励むことにした。温まった懐で、婆ぁの土産に米と食えそうな野菜を買って、町外れの家に向かって駆けて行く。泥棒の時の緊張も好きだが、今の汗をかく仕事も男にとっちゃ気持ちがよかった。婆ぁの世話をし始めて、自分が料理好きと思い出したのも良い傾向な気がする。


 どこの誰かも知らぬ婆ぁの世話に、泥棒はすっかり慣れて、少々楽しささえ感じてきた。初めのうちは、いつになったらくたばるんだなどと嫌なことを考えていたが、老婆が自分の作った汁物を決まって全て食うのを見ると、何だか気持ちがほんわかとする。それに顔も知らぬが、自分の母親と暮らしていたら、こんな気分だろうと思うのだ。まぁ自分の親だったらこんなしわくちゃな程の歳でもないかと思いながら、男は好き勝手ぺちゃくちゃ今日あった事や、ここへ来る途中の。季節の移り替わった景色などを婆ぁに聞かせてやった。聞いてるのか聞いていないのかわからないが、婆ぁの口角はいつも少し上がっている気がする。体力を使うので相槌は上手く打てないのだろうがこういうのも悪くない。

 

 男は何やら最近良い事尽くめで、その器用さも相まり、大工仕事の棟梁にも気に入られ始めた。皆仕事を引き延ばそうとダラダラやるのに、この男、仕事の最後に残る数人の席に入ろうと、誰よりも丁寧に、出来るだけ速くと頑張った。棟梁以外の男衆も、初めは仕事を張り切る男を疎んではいたが、愛想も良いし、話も面白いんでこの男に段々と好感を持つようになった。それに女房がいい女なのか、他の男達の簡素な粟や稗の入り混じった不格好な握り飯よりも、遥かに旨そうなおかずのついた弁当を持ってくる。仕事が終わると飛んで帰るのもこのせいだろうと益々男と話したがった。


それが話してみれば、飯は自分で作っており、年寄りの介護をしている孝行息子ときたもんだ。元は泥棒とは知らず、皆は苦労人のこの男の世話をしてやりたくなって、あれやそれやと土産を持たせてくれるようになった。お返しにとおかずを一品わけてやりゃ、大層喜んでくれるので、素人ながらも男は嬉しくなって、貰った土産を使って、分ける用のおかずを多めに作って配り歩くのも常になった。


 婆ぁの家に帰る道すがら、時々2回目に老婆の家に行った時にあったあの老人とすれ違う。前は、会釈をし合う程度だったが、最近は一言二言挨拶を交わす程度にはなった。こちらに何も言って来ないあたり、あの婆ぁの孫か何かと思っているのかもしれない。男に疑問を持たないあたり血縁者では無いのだろう。

 

 大工仕事も少しずつ減ってきた頃、昔の仲間内の一人から、良い儲け話があるから一口乗らないかと誘われた。買取先が決まっているお宝を盗む仕事だそうだ。今回は、良い金になりそうだが、任されるのが囮役であるから、捕まれば打ち首ものだ。懐も今は十二分に潤っているが、金はいつなくなるかわからない。下手すりゃ婆ぁよりも先にくたばる事になる。そしたらあの婆ぁの世話係はお役御免だ。などとまた勝手なことを考えていると、焦れたらしい仲間が舌打ちをして「答えは、また聞く。日和やがって。」とぶつくさ言いながら駆けて行った。まぁ確かに一枚噛んで、この話が上手くいけば、少しは泥棒としての名も上がって、質の良いお宝の買い取り手を客に付ける事が出来るかもしれねぇ。美味しい話と言えばそうだと思う。男はこれも良いかもしれんと思いながら、どうにも煮え切らない気持ちで手土産を片手でぶぅらぶぅらと振り回し、老婆の家に帰っていった。

 

 老婆の家に帰るとまた、土産にもらった豆腐と葱で味噌汁を作る。棟梁のおかみさんが作ったらしい自慢の味噌で、豆の甘い匂いが残った出汁いらずの一品だ。そこいらの豆の絞りかすで作ったような安物とはわけが違う。婆ぁの飯はこれに柔く炊いた米を混ぜて豆腐をぐちゃぐちゃに潰せば良いだろう。どうやらこの婆ぁは味噌が好きなようだ。この味噌汁を飲めば泣いて喜ぶかもしれねぇ。そういやいくら丈夫といえど、そろそろ肌寒くなってきたし、俺の分の布団も買ってもいいな。と男は思いながら、今日貰った魚の尾にまでたっぷりと塩を付けて焼いて、前に漬けておいた糠漬けを出して、自分の分の簡単な御膳を作ると、老婆の近くまで行く。自分の飯を食いながら、丁度よく冷めたおじやをまた、少しずつ老婆の口元に持っていった。どうにも犬や猫を飼うより自分にはこの婆ぁを飼う方が楽しい。泥棒になるような変人なのだから当然かと妙に納得して黙々と箸を進めた。


 婆ぁが飯を飲み込んでふふっと笑うので、男は嬉しくなって「旨いだろう。おっかぁ。これは棟梁のおかみさんが作ったそうだよ。」とふざけて声を掛けてやった。すると婆ぁは喉だけでクスクス笑うと、出会ったはじめの晩のようにふしゅるふしゅると言ってまた、一筋涙を流した。何でぇやっぱり美味くて泣いたじゃぁねぇか。何だあん時のあれも一丁前にありがとうなんざ言ってやがったのか。「よせやい、照れるじゃねぇか。」と言って婆ぁの口元を手拭で拭いてやり、食った食器を片付けると外も十分暗くなってきたので、気持ちのよさそうに眠る婆ぁの隣で古ぼけた袢纏をひっかけてごろりと横になった。


 寝落ちてからしばらく経った頃、厨の方からガタガタと音がして男は目を覚ました。どうやら随分と時が経ったらしい。こんなところに入ってくるような奴だ。金目当てではないだろとは思うが、いよいよ天寿を全うしようとしているのに、強盗に惨殺されるのは哀れだと婆ぁを連れて逃げられるように抱えようとしたが、そこには誰もいなかった。いつの間にかどこかに転げちまったんだろうか。一人で寝転がれるとはずいぶんと回復したんだろう。手探りで婆ぁを探していると、人影が近づいてきて、厨から入って来たのが件の婆ぁだと解った。


 婆ぁは穏やかな顔をしてこちらにゆっくりとした動作で腰を下ろした。どうにもこの暗闇の中、婆ぁが白く光っているような気がする。「なんだぁ。あんた起きられたのか。もしかして今迄の文句か?何だぃ俺は謝らねぇぞ。」と少し腰を引きながら婆ぁに軽口を叩いた。婆ぁはゆっくりと首を振るとボロボロの床板の1箇所を指さした。そして口を少しも動かさずに男に語り掛けた。「今迄世話になったねぇ。少ないが、少しずつ貯めておいた金がここにある。元は見つからぬ我が子の為に貯めておいた金だ。もう今生で会える希望もない。」老婆は少し悲しそうに微笑んで男の方を見る。「何でぇ喋れたのかい。そんなもん解りゃしねぇだろう。最近は飯もしっかり食えるようになったんだから、このまま回復して探し出して渡してやれや。」男がそう言ってやると、また首をゆっくりと振るので、そういう事かと男もようやく理解した。


 どう声を掛けるかと考えあぐねていたところ、婆ぁが今度はぐっと顔に力を入れて真剣に訴えかけてきた。「それとね、あんた次の仕事はあんたが今度こそ本当にやりたい事にするんだよ。」余計なお世話と思ったが、最期くらい大人しく説教を受けてやるかと頷いて、頭の隅に留めておく事にした。男が頷くと老婆は今度は口を開けて、またあのふしゅるふしゅると言う音を出した。礼くらい口に出して言いたかったのであろう。「気にするなよ。じゃぁな。」と言って男も老婆に笑いかけてやった。


 朝日が顔にかかり、あまりにも眩しくて男は目を開けた。いつの間に朝になったのか、先ほどのことは夢だったのか皆目見当もつかない。だが、男にはただ一つ確信している事があった。老婆の方に首を向けると、老婆はいつものように床に入っちゃいるが、苦しそうな顔ではなく、どことなく幸せそうに見える。額をちょいと触ってみると、案の定冷たくなっていた。

 

 本当はすぐに埋めてやりたいが、今日は最後の大工仕事がある。今回で最後の家が完成するのだ。ここではけちゃ棟梁に悪いのももちろんだが、自分の仕事の仕上がりをこの目で確認したいのも確かだった。どうしてか男は老婆におっかぁと言いたくなって、「仕事を終えたら直ぐに帰って来てやるからなおっかぁ。」と言って、老婆の体が傷つかないように包丁を手拭で厚く巻いて、老婆の胸に置いてやった。今日は走って行かないと仕事に遅れるかもしれねぇと男は急いで駆けて行った。

 

 今日は最後に建てる家の仕上げのみだったので、昼飯時までには最後の仕事も終わった。神主様が家になにか祝詞を呼んでいるのを聞きながら、あぁこの仕事ももう終わりかと思っていると、同僚の数人に次の仕事はどうするのかと聞かれた。まだ、決めちゃいないと伝えると、皆それぞれに案を出してきたり、紹介してくれると言う。金にはなるしありがたいが、興味のある仕事がどうも浮かばない。そうすると棟梁が、「おめぇさんは真面目だし、手先も器用だ。料理もうまい。料理人になったらどうだい。」と言ってくれた。話を聞くと、小料理屋だが、真面目な若い男を一人探しているらしい。給金は安いが、飯と寝床は与えてくれて、料理も一から教えてくれると言う。小料理屋と言ってもそこそこ良い飯を売る店なので、賄も期待できそうだ。給金等正直無くとも、男の以前の生活を思えば、飯が食えるだけ有り難いというものだ。


 だが、以前紹介された泥棒仲間からの仕事も、金や名を上げるせっかくの機会だ。少しばかり気になるというもの。正直金だけで言や、誰の仕事よりも儲かる。男は少し答えに時間をくれと棟梁に伝えた。棟梁はおっかさんの事を心配してくれたが、今朝の事を話すと、心ばかり最後の給金に色を付け、俺も手を合わせに行っても良いかと言ってくれた。同僚達も同じように言ってくれたが、勘繰りがあったら困るのと、あの家が見られるのは何だかこそばゆい感じがするので、葬式はひっそりと二人でやると礼を言っておいた。


 家に帰ると、男は、車で引いてきた大きな桶に老婆を入れて、腕を縛って、守り刀の代わりの包丁入れてやった。誰かに悪さはさせねぇが、足には自分の子を探せるように縄を掛けずにおいてやった。人一人分が入る穴を掘るのは大変だったが、早く寝かせてやりたくて、その日のうちに埋めてやった。腕も足も腰も大工仕事より酷使した。小さな墓石を置いて、知りもしない経と今日聞いた神主様の祝詞を適当に真似して唱えてやった。こんなふざけたもんでも少しでも慰めになりゃ良いと思う。疲れたので、墓の前で呆けていると、実の子供でなく、他人の、しかも悪人の自分が老婆を看取ったということが段々おかしくなってきて、暫くの間笑ってしまった。体は疲れりゃいるのに、気分はとてもすっきりとしている。

 

 一通り笑い疲れて、そろそろ一度家に帰るかと思うと、いつもすれ違う爺様が通りかかった。丁度あの家から戻ってきたようだ。男と墓を見ると、目を丸くして寄って来る。「その墓はおハルさんのかい?」あぁ、婆ぁの名はハルというのか。と思いながら、こくりと男は頷いて、どうぞと言って爺様の為に、墓の前からどいてやった。そうして手を合わせると、爺様がぽつりぽつりと婆様の事を話し出す。「この人は子供に恵まれなくてねぇ、やっと年子で男の子を生んだのさ。それはそれは可愛がっていたんだが、ある日、旦那が倒れて世話ができなくなったんで、泣く泣く遠くの親戚に預けたそうだよ。旦那を看取ってから子に会いたいと親戚を訪ねると、そこはもうもぬけの殻で子もいなくなっていたらしい。その子にやっと会えたんだねぇ。」目を細めて爺様が自分の顔をじっくりと見てくるので男は二の句が継げなくなった。「重兵衛ちゃんや。よく戻ったね。」と爺様がこちらを見たまま笑った。ふしゅるふしゅるという婆ぁの鳴き声はどうやら人の名前だったらしい。男は目を見開いて固まった後、「母が世話になりました。」と頭を下げた。


 聞けば、あの老人は、昔近くに住んでいて、子を求めて嘆く老婆が放っておけず、食い物の余分を分ける程度の援助をしていたらしい。床に臥せるようになってからは、もう旦那の元に行く方が幸せだろう。と放っておくようになったが、どうやら若い男が出入りしているらしいのを見て、とうとう息子が帰ってきたと勘違いをしたようだ。子の頃は、人の手を散々渡って逃げてを繰り返したので元の自分の名などは思い出せぬが、そんな話を聞いたら何やら懐かしい気がして、これからは重兵衛と名乗ろうと男はひっそり心に決めたのだった。

 よくよく人生を振り返れば、何をして貰った訳ではないのに、親と呼べそうな女はこの婆ぁ位だったかもしれぬ。この婆ぁのおかげで、今は自分の人生を歩み出している気がする。男は爺様が帰ると、何となくまた墓に手を合わせ、こっそり「じゃあなおっかぁ。」と言ってみた。ひゅるりと吹く風が、男の声を隠して運んで行った。さて、婆様のくれた少しばかりの金を足しにして、支度を整えるとしよう。話は早くするに限る。




 それから幾日か経ったある日、大きな風呂敷を背負った男が町中を歩いていた。どうやらどこかへ引っ越して行くようだ。町中に飾ってある一つのさらし首を見て、一度立ち止まり、すっと一度だけ手を合わせて町の外れへあるいて行った。どうやら引っ越し先はここから数里離れたところにあるらしい。男はもう振り返らずに、真っ直ぐ歩を進めていった。


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