生きる

天野 帝釈

夏影

 春が来て桜の舞う頃だった。妙に色っ白い女が煙をくゆらすと、降りられない窓から外を見る。風の心地よさに目を細め、客からの小遣いで買った紅を指してみる。最近は羽振りの良い客が多いもんだ。年季が明けるも近かろう。手鏡を拾い上げて紅を塗った顔を見ると女特有の色気が増したように思える。こんなに美しいならば金持ちから話が来て、年季明けより先に囲われちまうかもしれぬ。それもそれでうまくやればいい暮らしができるだろう。鏡にニヤリと妖艶に笑って見せて、灰を受け箱に落とす。外に見える名も知らぬぽつねんと生えた木の新緑も生き生きとして、ご機嫌な朝霧太夫には益々外が美しく見えた。


 その時だった。眺めた木の下にちょろりと変な動きをした物が見えた。何かと目を留めてみると、髪の短い十四、五の男子がこちらを見上げて固まっている。耳まで真っ赤にしてぽかんとした顔でこちらを見上げているのはどっかの店の丁稚だろうが何ともまぁかわいらしい。ちょいとからかってやろうとゆらりゆらりと笑顔でゆっくり手を振ってやった。するとハッと気づいた少年は頭をペコリと下げて足早に逃げるように去っていった。可愛いもんだとカラカラご機嫌に笑うと、また煙を吸って、鏡さんの中のきれいな自分ににこりと挨拶をした。


 それからそんな子供のことなどすっかり忘れていたある日、客にもらった旨くもない金平糖を花柄に綺麗に彩られた箱から摘み上げて口のなかでころりころりと転がしていると前にこちらを覗いて真っ赤になっていた子供がまたこちらを見ている。木陰に少し隠れているのでバレやしないと思っているようだ。クスクスと笑いながらまた手をユラユラと振ってやる。そうするとまた真っ赤な顔をして観念したように木の下から出てくる。声を出せば追い払われるのをこの子もわかっているのだろう。

 先ほど一粒口で遊んでいた金平糖も次をそんなに食う気が起きぬもんだから、ザラザラと小さな紙に包んでぽいとその子に投げてやった。その子はひょいと少し器用に飛んで包みを捕まえると不思議そうに開ける。中から覗く金平糖に目を輝かして赤い顔で嬉しそうにこっちを見て、輝かんばかりに笑った。器量よしではないのに幼子のようでなんだか面白くなって太夫はまたクスクスと笑ってしまった。


 するとふと、「可愛い人。」と少年の小さな声が聞こえた。声変わりで少し低くなったばかりの瑞々しい若い声だ。真っ黒い顔で白い歯が見えるそんな子供にいわれたもんだから朝霧の動きはぴたりと止まった。少年も自分の言ったことに驚いたようで、ビクリと肩を揺らすと、またぺこりと頭を下げて真っ赤な顔のまま急いで駆けていった。なんだか朝霧は自分の顔が熱い気がしてパタパタと手で仰ぐ。大好きな自分の顔を見ようと鏡を出そうとしたがなんだか今は顔を見ちゃいけない気がして少し開けた引き出しをすっと戻した。金平糖は高級品だ。自分の小さな禿達にも滅多に食えないこいつをやろうと思っていたのにもう一粒ころりと口にいれてしまった。「あぁ。甘い。」嫌だ嫌だと首を振ると、禿が入って来たので支度をするのに窓をするりと閉めた。


 それからなんだか朝霧は客に買われても気が乗らなくなってしまった。今まで磨いてきた艶やかしく洗練した仕草も声も、少年の顔が浮かんでは、浅ましいものに思えて急に呆けてしまうのだ。太夫になってからというもの羽振りの良い客を少し取ればよいだけで、そこまで疲れもあらず、文は少し面倒だったが良いことずくめのはずだった。客も太夫の愛想が他のお高くとまってるのと違って良いもんだから、可愛がって高いもんや良い小遣いを渡していたのに最近は心ここにあらずというもんだから。ちょっとは時間を空けて会いに来てやるかと間を開けるようになってしまった。だから太夫も躍起なって足繫く通う客には余計に擦り寄るようになった。


 そうすると愛しくなってしまった流行りの呉服屋の旦那が、浮かれて太夫の他の客への呆けは恋煩いで、自分にやたらすり寄るのは太夫が自分に惚れてるからと思うようになった。この男、そこそこ年は取っているが、流行りの簪屋や歌舞伎役者がもつ化粧屋と組む程のやり手である。そんな男が朝霧太夫を囲いたいと言い出した。こんな機会はまたとあるまい、幼い頃からここで暮らした朝霧には年季が明けた後の生活など自分には想像できぬし、どう生きればよいのかなどわからぬ。そうであるのにどうにも乗り気にはなれず、暫く焦らすことにした。


 自分は運が幼い頃から良かった。ほんとは単に売られるだけで一生廓の中で過ごすはずが親父が必死に頭を下げたお陰で朝霧だけは同期で一人年季があった。病気の母の薬のために親父は朝霧を売ったそうだが廓の親方と幼馴染みであったため、朝霧の借金は何とか返せるものらしい。親方は幼馴染の親父に義理立てて、父母が死んだ後でも約束を守り、無茶な客とりを朝霧にさせなかった。それでも10やそこらの頃は、朝霧は自分を売った親父が許せなかった。たかが顔も覚えておらぬ親だ。今は別に構いやせぬ。


 ただ年季が明ける日まで、生きていてくれれば帰る場所もあったものをと時々悔しくなってしまうだけだ。父は母の薬代のために無茶をして殺されて、その後母もすぐに逝ったそうだ。男ではないので敵などとという気持ちはさらさら湧かず、ただ自由を憧れていた自分にとって、忘れていた感情が蘇るようで鬱々とした気分になる。男や女の惚れた腫れたなど馬鹿らしいと思っていたのに。これは恋というものだろうか?否、違うはずだ。ただ純粋なあの子の言葉に自分が汚いと思っちまっただけだ。まさかまさかあの一言で惚れちまう訳がない。暫く窓は閉めるに限る。悪いもんはこれで入ってこないだろう。


 そうして太夫の日常は普段通りに戻り、元の通りにこにこと笑えるようになった。調子が戻った太夫に、元の客が少しずつ戻ってくる。そん中には、太夫が自分に惚れているものだと思い込む客もあり、年季明けも余計に近くなった。太夫にはそれが面白くてたまらない。あの小僧もきっと太夫の事など初夏の夢と忘れて、仕事で番頭に厳しくしごかれているものだろう。朝霧はあの少年をすっかり頭から追いやって、元の飄々とした美しい太夫に戻っていった。


 しかし、ある日の昼下がりの事、面倒をよく見てくれる太夫に懐いている禿が太夫を心配して、部屋を換気しようと窓を開けてしまったのだ。太夫はまさかいないもんだろうとちらりと窓の外に目をやった。「あっ・・・。」朝霧はついに扉の外にあの少年を見つけてしまったのだ。少年も驚いたように朝霧を見た。窓が開いていないので諦めていたが、窓の下だけは彼も無意識に通っていたのかもれない。

 

 少し窓から遠い所に少年がいたので、禿も太夫が見ているものが何なのかわからないらしく、不思議そうな顔をして外を伺っていたが、やがて太夫に向き直ると「姐様何かございんしたか?」と可愛らしく訪ねて来た。太夫は禿に優しく微笑むと「いんや、何でもありんせん。ただ夏らしく眩しくなったと驚いただけでありんす。」そう言って窓の外を愛し気に眺める太夫に禿は余計に不思議に思った。外には人通りが少しばかり多くなった小さな道があるだけだ。いい男もチンドン屋なんかもいない。きっと太夫は陽の光が好きに違いないと思って、禿はなんだか嬉しくなった。


 この夜、あの少年のことを思い出した朝霧は、少しばかりの間にちょっと男らしくなったなぁと、客とともにあるのも忘れて呆けてしまった。太夫が惚けている隣で、客が酒を口に含んでから、太夫を見てクスリと笑った。「仕事人の朝霧太夫にしては珍しいねぇ。何だか恋する乙女のようだ。」この男は、少しばかり成功した商人には34と若く、他の客と違い遊女に対しても気遣いの出来る男だった。


 「あら。旦那申し訳ありんせん。あちきとしたことが・・・。」朝霧は顔を少しばかり赤くさせて男が呷った酒の代わりを注ぐ。「普段涼しい顔で飄々とした朝霧太夫も美しいが、こんなあんたも可愛らしいねぇ。何だかあたしも若かりし日を思い出すようだよ。」男も細い眼をさらに細めて香の煙を見つめている。どうにも誰しも色々な事を経験するらしい。朝霧は今の客の中では少し古株のこの男を案外居心地の良い相手だと思っていた。顔やら何やらがそっくりという訳では無いのだが、飄々とした態度と、恵まれて見える立場とは相反して、少し憂いて見える姿が似ているのだ。自分のような彼にそう言われると、何だか少しばかり自分のむず痒い思いを受け入れても良い気がした。


 それから暫く、開け放した窓の外の景色を、いつの間にか朝霧は楽しみにしていた。忙しい日はちょろちょろと走り回るその人に目をやって、クスクスと笑ったり、禿のいない日だけちょろりと手を振ってやったりと、言葉も体もかわさぬが何だか胸が温かくなるようだった。


 そんなある日のことだった。いつものようにあの人が見上げて来て、自分が手をひらひらと振ってやる。そうすると彼は喜んでにこやかに手を振り返してくれる。まるでお天道様のようだ。あぁ可愛らしい。男に可愛いなどとおべっかで使う以外は考えた事がなかった。そんな事を考えていると、彼の後ろからひょっこりと女の子が現れた。彼の着ている着物の生地とは大分違った質のいい明るい色の着物を着ている。

 

 「三太さん。こんなところで何を?」と可愛らしい声で彼を呼んだ。あぁ彼の名は三太と言うのか。今の今まで彼の名も知りゃしなかった。彼が酒樽を運んで通るのを見るので酒屋のお嬢さんだろうかと思った。「あぁお嬢さんこそこんなところで・・・。」思った通り、彼が少女に対してそう言った。やはり・・・。でも何だか彼女の彼への視線が気になった。じっと彼を見る様は、何だか焦れるような・・・。


 嫉妬というものかも知れない。仕事をさぼっていると思われるのも可哀想なもんだから、そっと彼に目配せして窓を静かに閉めた。窓を閉めて暗い部屋を眺めていると何だか自分が惨めに思えた。外では何かお説教が始まっているようだ。少女の歳は彼と同じ頃だろう。顔は自分の方が美しい。それでも彼女の方がずっと、彼にはお似合いだった。それに年はきっと自分の方が、彼らよりもずっと上だ。それにそれに太夫とは言え、とっくの昔に汚れている。


 きっと少女の説教も遊女に騙されているだのなんだのと彼に好き勝手吹き込んでいるのだろう。この頃手も触れなかった煙管に触れて、葉も入れてないのに口にゆっくり含んでみた。あぁ何でこうまで寂しいのか。胸が熱くもないのに冷たく脈打っている。禿が来るまで少し時間がある。着物の合わせをぎゅっと掴んで葉のない煙管をふかして少し時間を潰してみよう。太夫はまた窓を開けなくなった。


 窓を開けずに暫く立って、そろそろ年季が明ける頃、焦ったように廓の店主と女将さんが太夫の元までやって来て太夫の元で土下座をして来た。何事かと思うと、どうやら例の呉服屋の旦那が太夫を囲わせろと言ってきたらしい。この夫婦はそいつに借金があって、頭が上がらぬので太夫を頼りにやってきたのだ。


 元より太夫に選択肢などないのだろう。ずっと二人は太夫に良くしているようで、普通に働かせはせず、遊女をやらせたのだ。同期に年季明けが無いのも元より女達を逃がす気などない店主のがめつさが見える。父が借金をしたのも本当はこの店の先代だったはずだ。見世が少し傾いて来たのは、太夫も代が代わってから薄々とは気付いていた。他の女達と比べると、ずっと良い待遇を受けていたのは事実だが、本当は自分の借金などもっと少なく、何も知らぬ女だからと足元を見られていたのは知っている。


 傾きかけている店が、看板を簡単に手放す訳がない。自分は年季明けの名の元に、年取るまで安い給金で遊女として働かされることになるのだろうと少しの覚悟はあった。死んだ幼馴染への罪悪感など自分の生活のために捨てられるのが人間だ。それに・・・。と太夫は考えた。呉服屋の旦那は妙な博打屋や浪人たちと通じているため、断っては自分の身も危ういだろう・・・。太夫は薄く、二人に向かって笑って見せた。


 鏡を見ながら太夫は、気に入りの紅を軽く引いて、自分の顔をじっくりと眺めた。以前と大して変わらず、美しい顔に見えたがなんだか陰がついたようだ。いやに不思議な気持ちがするのだ。この夏はむしむしと体にまとわりついて熱いのに、心だけは何だか肚の方までにずしりと落ちて、ザワザワと凍えるようだ。こんな街のどこで鳴くのか、セミの声がうるさい。部屋があんまり暗くて暑くてジメジメと湿るので太夫は窓を開けたくなった。期待など決してしていた訳では無いのだ・・・。期待など・・・。あの娘さんに怒られてきっともうここになど来ないに違いない。最後に見た時だって、ここをこんなところと呼んでいた。どうか彼がいませんように・・・。


 「あっ・・・。」眩しい中に、目を見開いた彼がそこにいて、太夫を見ると嬉しそうに目を細めた。期待などしていないと思っていたのに表裏に揺れていた希望の一つが思いもせずにかなってしまった。またあの木陰だ。通りで立ち止まると目立ってしまうと解ったのだろう。嬉しそうにこちら見ると、何か投げてよこした。それが折り紙の鶴と解ると余りにも可愛くて泣きたいのにクスリと笑ってしまう。


 きっと、彼に逢うのもこれが最後であろう。あまりに嬉しく寂しい贈り物だ。朝霧は彼をじいっと見つめてみた。段々と男の色が出て来て、初めの頃より体もしっかりしたように思う。美男などではないのに高い頬骨にくりくりとした目が愛おしい。黒く汗ばんだ肌も若く輝いて、何だか自分には眩しい。声変わりの仕切った声もホントは聞いて見たかった。名前だって他の女の口からでなく、その口からこぼれおちるところを耳で目で感じたかった。筋ばって来た手に少しだって触れて・・・。見れば見る程色々な欲が出てくる。子供相手に浅ましいと自分に言い聞かせて不思議がっているあの子にいつものようにきれいに笑って太夫は窓をそっと閉めた。部屋に闇が落ちる。


 夜の闇の中、商売柄もあってあまりに眠れぬもんだから、少しだけ蝋燭をつけて、また吸い始めた煙草に火をつける。そういえばこの可愛い折り紙の鶴も早く燃やしてしまわなければならない。禿にやれば喜びそうだと思ったけれどもやはりどうしても手放せなかった。あんまりかわいいもんだから、ちょっと意地悪がしてみたくなって、掌の上で煙管で突っついて転がしてやった。そうすると、赤い鶴の内側になんだかちょっとだけ黒色が見えた気がした。


 何かあるのかと気になってちょっと可哀想だが紙を解いていく。内側に何か書いてあるようだ。火を近づけて照らして見ると「あなたが好きだ」と書いてある。手が震える。こんな単純な言葉なのに、どんな睦言より恋文より胸が苦しくなった。若い彼の気持ちがその一言に青臭く溢れてくるようだ。


 まさかまさか他の男の元へ行く前夜にこんな気持ちになるなんて。太夫は小さく声を上げてカラカラと笑って、鶴をそっと火にくべた。少しずつ灰になる鶴に気落ちした心もとても晴れやかになる。鼻が少しつまって目元がちょびっと暖かい。冷えるはずの頬も鶴のおかげで熱くて痒い。何を自分は迷っていたのか、全て思い通りにならぬなら最期位自由に生きてやろう。


 あぁ認めたくはないけれど、自分はとても幸福だと思う。あんなに青臭い気持ちを向けられて恋というものを知ってしまった。彼の元に行くにも、きっと世間知らずで年の違う自分は稼ぎの少ない彼の重荷になるだろう。彼にはどうになるにも期待すべき未来があるのだ。これからあのお嬢さんか、若くて可愛いどこかの娘が彼に寄り添って、彼を支えていくに違いない。少しばかり寂しいが、幸せな彼の未来を創造するととても楽しい。きっと少しずつ出世して、いつか自分の所帯をもって、優しい女房と彼似の子供達と幸せに暮らしていくのだろう。


 遊女が一生の中でこんな子供みたいな恋をできるものと誰が思うだろう。あぁ、神様。いやしないと思っていたけれどこんな幸福をくれてありがとう。誰にも伝えられぬ恥ずかしい気持ちを持ってさぁ参ろう、苦しくて後悔するかもしれないが・・・。きっとあの子を思えば幸せだろう。












 次の朝、姐様に良く懐いた禿が一人、部屋まで起こしに来た。煙草の灰受けに赤い灰が混じっている。姐様は幸せそうな顔をして静かに眠っている。そうか富豪のうちに行くからこれからは旨い物が食えるし綺麗なお洋服や簪を好きなだけ買ってもらえるに違いない。嬉しいんだろう。もう少し寝かせてやりたいがもうすぐ支度をせねば。禿は覚悟を決めて姐様を揺り起こすために手を伸ばした。


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