第9話 どう思う?
頼人は基本的に内勤だが、週に何度かは外出する。銀行や取引先を回ることがある。せいぜい二時間から三時間程度のものだ。
取引先会社の一つが、梨華の職場と同じ駅で降りる沿線にある。寄ったことは無いが、通りかかって店舗を見たことは何度かあった。。
外からはほとんど店内の様子はわからないけれど、客の注文に笑顔で答える妻の様子が見えることもある。ショップの制服に身を包んで、てきぱきと働く様子は家での彼女と同じだ。
たまたま同僚の永原を連れて取引先回りをした帰りがけ、偶然見かけた店内には妻の向かいに座っている男の姿があった。
思わず、言っていた。
「喉が渇いたな。ちょっと寄っていいかい?」
「はい。わたしも飲みたいです。」
本当は外回りの最中に喫茶店に寄るなどご法度だが、それは有ってない法律のようなもので大概本人の裁量に任されている。外回りがパチンコをしてたり酒でも飲んでようものならば大変な事だが、コーヒーの一杯くらいなら忠告で済む話だ。
「いらっしゃいませ。お席にご案内いたします。」
大して広くもない店内だが、妻と男の席とは随分と離れた席に通される。
確かに、梨華が座っている席はスタッフルーム入り口のすぐ脇で、バイトの採用面接などのために使われるような場所だ。余程店が混雑してない限り案内されることは無いだろう。
そう考えれば、梨華の向かいに座っている男は仕事の相手だろうか。
遠目から見た限りだが、大きめのビジネスバッグをテーブルの下に置いて、分厚い資料ファイルを弄っている。男の顔は見えないが、スーツを着た堅い商売の印象だ。
「主任、どうかなさいましたか?さっきから上の空ですけど。」
「ごめん、ちょっと疲れたなと思ってね。」
しきりに話しかけている目の前の若い娘には適当に相槌を打っていたが、適当なのがバレていた。
「今度の有休にはテーマパーク行きたいって前に言ったでしょう?いいですよね?」
どうして若い娘はもう子供じゃないはずなのに遊園地が好きなんだろう、と思いながら、頼人は頷いた。
杏奈は可愛い。身体の相性も最高だ。
でも、時々妙に疲れる。
身体目当てなのだと最初に言っておいたはずなのに、恋人気分でいたがる。それが楽しくないわけでは無いのだが。
妻の梨華は遊園地に行きたいと主張したことなど一度も無かった。誕生日や記念日も、自分から強請ったりしたことのない女だった。それは付き合っていた若い頃からそうだった。
頼人が祝おうと言えば喜んでくれる。それに、頼人の誕生日は毎年プレゼントをくれていた。頼人が梨華の誕生日を忘れていても、彼女の方は忘れたことは無い。今年は、靴をくれた。今日も穿いている。
お返しに外食へ連れて行ったりバッグを買ってあげたりはしていたが、梨華はブランド物には興味がないので高価なものである必要もなかった。
安上がりな女だった。若い頃からバイトして自分で稼いでいたので、お金の使い方は地味なのだ。無駄遣いをしない。だから金の管理は任せている。
杏奈は自宅から会社へ通っている箱入り娘だ。まだ若い彼女の親から見れば掌中の珠のごとき扱いなのだろう。
万が一にも、自分が杏奈と不倫していることがバレたら、彼女の親にぶん殴られる。それは間違いない。自分に娘がいたとして、こんな中年の所帯持ちのオヤジと不倫していると知ったら相手をぶっとばすだろうから。
杏奈の方は、最初に断って置いたにもかかわらずそれでもいいと付き合っている。
しかし、付き合いが長くなるうちに、なんとなく普通の恋人でいたいような振る舞いが増えた。
旅行したいだの、朝まで一緒にいたいだの、リクエストが多くなった。セフレはそういうことは言わないのではないだろうか。
可愛いが、やっぱり同僚を相手にしたのは失敗だったなと、最近はよく思う。
職場で噂になる前に、適当な所で別れておかなければ。上司にでもバレたら降格ものだ。
「ありがとうございました。」
レジに立つ若いホールスタッフが、レシートと一緒にチラシを手渡してくれる。
年頃は、ちょうど杏奈と同じくらいか少し上か。
男と向かい合って何事かを話している梨華を尻目にそんなことを考えたりもする。
この店の女の子を相手にしたら、梨華はどう思うだろうか。
頼人は特にイケメンでもないし凄く羽振りがいい訳でも無い。所謂フツメンと言う奴だ。身長も顔も収入も普通。真面目で堅そうに見えるので誠実っぽいが現実は違っていた。
杏奈ももうすぐ三十路になる。そろそろ本気で婚期を考えている年齢だ。
交際した男性が今までいなかったわけではないが、二か月、持って半年というところだろうか、別れてしまっていた。
それはきっと親が厳しくて外泊が出来ない事とか、理想が高過ぎていたのだとか、そういう理由だろうと思っている。
杏奈は高望みをしているわけではない。相手は普通の男性でいいのだ。俳優ばりのイケメンとか富豪の息子だとか、そういうのを求めているわけではない。
ただ普通に、杏奈のことを可愛いよ、と言ってくれて大切にしてくれる人であれば、それだけでよかった。
頼人は真面目そうで、普通に優しい同僚だった。年齢は少し上だが、だからこそ杏奈の甘えを許してくれる包容力がある。
だから惹かれたのだ。
彼が既婚者であることに気付いた時には、もう後戻りできない程思い詰めていた。
思い切って告白をすると、頼人の返事は想像を超えていた。まさか、この真面目そうな男が、『身体目当て』なんて言うはずもないと思っていたのだ。
でも、もう後には引けない。
それに、そのギャップもたまらなく魅力的に映ってしまった。
一見誠実そうな草食系男子が隠している肉食の牙を見つけた気分だった。実は悪い男だったのだ、と知ってなお。
その男を自分のものに出来たら、たまらなく気分がいい。手のひらで踊らせることが出来たら、最高だ。
ましてや、他人のものだと知った今ならば余計に。
彼の奥さんよりも若いだろう自分になびく頼人。その優越に酔った。
家に帰れば早くお見合いでもしろと口煩い両親の小言とは別に、杏奈は他人の夫を奪う恍惚に浸っていた。
このまま離婚させてしまえば自分のものになる。
そうすれば、両親もやかましい事は言えないだろう。過程はどうあれ、結果が全てだ。頼人を自分のものにして結婚してしまえばいい。
この頃はよく杏奈の言う事を聞いてくれて、甘やかしてくれる。あと一押しだ。
いいや、いっそのこと、離婚に追い込むには、頼人の妻が自分の存在に気付いて、頼人を問い詰めればいい。そして揉めればいいのだ。
揉めれば揉めただけ夫婦の仲はギクシャクする。そんな関係に、男は長く耐えられないはずだ。
自分と会った夜は必ず頼人は夜中に帰宅している。そして必ずシャワーを浴びた後なのだ。彼の妻が馬鹿でなければ、絶対に勘付いている。
残業後の男が、石鹸の匂いをさせている矛盾に。
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