第10話 切らなくては

 夜の八時半を過ぎると、バイトの子達は店を出て帰途につく。店舗は八時で終わるので、後片付けが済めば仕事から解放されるのだ。

 最後の戸締りと翌日の準備は梨華の仕事で、それが終わると息子たちの塾が終わる時間とちょうど折り合いがいい。

 施錠を行って店舗を出る時に、梨華のスマホが鳴った。

「こんばんは。岩崎です。今お時間有ります?」

「こんばんは。すみません、子供の塾が終わる時間が・・・」

「10分ほどで済むんですけど。」

「そのくらいなら。」

「奥さん、今、写真や動画を見る勇気は有りますか?・・・まあいずれ見なくちゃならないんですが。」

 思わず黙ってしまった。

 岩崎が撮影してくれた夫の不倫現場を撮影した証拠である。

「・・・はい。」

 沈黙の後に静かな返事が聞こえ、岩崎の方が安心したようなため息をついている。

「では、奥さんのスマホにデータを送ります。これを見て今後の事を考えてみてください。見たら、すぐに削除してくださいね。データの本体はこちらに保管してますから、ご心配なく。辛いでしょうけど、頑張って。なるべく当たり障りないのを送りますから。」

 当たり障りがないわけがない。

 証拠写真など見たら、梨華の体調は急変するだろう。また激しい動機と吐き気に悩まされるのはわかっている。

 それでも、見なくてはいけないのだ。

「わかりました。送ってください。・・・見るのは自宅に帰ってからにします。」

「旦那さんに見つからないようにね。」

「はい。ありがとうございます。」

 通話が切れると、次々に送信されてくる画像データのアイコンがスマホに並ぶ。

 梨華はスマホをバッグにしまった。

 今日はまだ終わっていない。帰宅してから子供たちの夕ご飯と入浴、明日の朝の準備が残っている。

 送られてきたショッキングな映像を今見たりしたら、とてもじゃないが家に帰れなくなりそうだ。

 ふと、店舗のガラス窓に映った自分が目に入る。

 すっかり痩せてしまった今の自分も見慣れてしまった。今では、この姿と現在の体重が梨華のスタンダードになりつつある。

 髪に白髪が目立ってきた。美容院の予約をしなくては。

 夫の不貞の相手は、若い子だと聞いている。きっと白髪や皺に悩むにはまだ早いのだろう。そう思うと、夫がそちらへ走ってしまったのは仕方のない事なのだろうか。

 己の老化が厭わしい。自分の脆弱さが許せない。鼻の頭が痛くなる。涙が溢れそうだ。

『不倫をしていい理由にはならない。』

 岩崎の言葉が頭に浮かんだ。 

 そうだった。

 梨華が老化するのだ、夫だって老化しているはずだ。息子を産んだ直後からちらほらあった梨華の白髪が圧倒的に増えたのは、頼人の浮気が発覚してからだ。

 皺が増えたのは、急激に痩せたせい。顔色が悪いのは寝不足のせい。

 自分が劣化してしまった理由の殆どは年齢ではなく、夫の浮気のせいだ。

 だから、梨華は悪くないのだ。

 どうにかそう思い込ませ、意志の力でこぼれそうになった涙を引っ込める。

 大丈夫。自分は一人ではない。

 軽く手の甲で顔を擦ってから、梨華は歩き出した。



 頼人が帰宅した時間は午前二時。

 時には妻が起きている事もあるが、大概は家族の全員が寝静まっている。

 リビングの明かりを点けて荷物を置くと、ソファにすぐに沈み込んだ。

 やたらとくたびれている理由は、三駅分、徒歩で帰ってきたせいだ。

 今夜はどうしても家まで送ってくれと杏奈がしつこく食い下がるものだから仕方なくそうしたため、終電を逃した。

 郊外にある杏奈の実家近辺は、道路で立っていてもタクシーは来ないため駅まで走って戻った。しかし、終電は行ってしまった後だった。

 杏奈の実家の傍でタクシーを呼びつけるのはさすがに気が引けたのだ。

 この頃の杏奈は本当に厄介だった。ホテルに行かないなら家に帰る、という頼人を強引に連れ出したり、今夜のように家まで連れて行こうとする。連れていかれた所で、彼女の親に会わせる顔など有るはずもない。門前で自分からスタコラと逃げ出す。家まで送ると言う役目は果たしたのだ。

 以前の杏奈はそういう我儘をいわない娘だったのだが、最近はすっかり恋人気取りである。前は家まで送れなどと言わなかった。ホテルを出た後サヨナラである。せいぜい、軽く食事をするかコーヒーでも飲むくらいで、シた後にしつこくされなかったのに。セフレ扱いであることを忘れているのだろうか。

 可愛いと思っていたけれど、鬱陶しく感じてきた。どうにか穏便に秘密裏にうまいこと別れることは出来ないだろうか。

 大きなため息を吐いた時、寝室のドアが開いた。

「・・・おかえりなさい。」

「・・・ただいま。」

「夕食は?」

「食べて来たから。」

 モスグリーンのルームウェアを着た梨華が顔を擦りながらキッチンの方へゆっくりと歩いていく。

 眠いからだろうか、目も真っ赤だ。顔色も悪い。

 冷蔵庫を開ける動作もなんだか鈍い。夜中を過ぎているのだから当然だろうが。ピッチャーに水を注いで飲んだ後、再び寝室へ戻ろうと頼人の背後を歩いていく。

「起こしてしまって悪かったな。俺の事は構わなくていいから。」

 そう言って頼人がソファから立ち上がった拍子に、何か小さなものが落ちた。 

「・・・ん?」

 頼人が屈んで拾う。パールピンクの口紅だった。

 明らかに頼人の服のポケットから落ちたと思われるそれは、どう考えても梨華のもののはずはない。

 一瞬頼人の顔色が変わったが、だまって再びポケットへねじ込む。

「どうかした?何か落としたの?」

「・・・印鑑ケース」

 とっさに思いついたそれが、ちょうど口紅と同じくらいのサイズだったのは不幸中の幸いだ。

 だが、明らかに色が違う。頼人が持つ印鑑ケースはパールピンクでなく黒だ。それに、そんな大事なものをポケットに無造作に突っ込むことがおかしい。

「そう、無くさないでね。」

 すぐに興味を失ったのか、梨華はこちらを見ることも無く寝室のドアの向こうへ消えていった。

 一緒に寝ることは有っても、抱き合う事のない寝室のベッドへまっしぐらに向かっているのだろうか。

 もう一度息をついて、ポケットに手を突っ込む。

 こんなことをするのは杏奈しかいない。何故頼人の上着のポケット口紅などを放り込んでおいたのか。理由はわからないが、これだけははっきりした。もう杏奈は不倫の相手としては不適合だ。近いうちにどうにかして切らなくては。

  





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