第8話 チャラかった

 岩崎尚人は、学生時代のバイト仲間だった。

 頼人ももしかしたら覚えているかもしれないが、外見が余りに変わったのできっとわからないだろう。

 髪はブリーチ、両耳にピアス、眉毛は全部抜いて手書きの男子。服装もびっくりするほど派手で、チャラ男ってこういうのを言うのだろうと思った。顔立ちはどっちかと言えばあどけないようなかわいい系なのに、惜しい気がしたくらいだ。喋り方も態度もそのまま軽薄で、少し軽蔑したくなったけれど、その外見の割に仕事はきちんとしていた。

 正反対とまでは言わないが、比較的硬派な頼人とは対照的で、それほど仲が良かったようにも見えない。仕事のシフト上で話をするかしないか、程度の仲だったと思う。

 人知れず夫の浮気に考え込み、一人で思い悩んでいてもしょうがないと思い、市の相談所などに電話した。

 相談所の人が、良ければ無料の法律相談があるから予約してみないかと誘ってくれたのだ。 

 離婚さえ考え始めていた梨華は、電話予約をする。万が一別れたら、自分一人で二人の息子を育てていけるのか相談したかったのだ。

 市役所の指定された窓口へ向かうと、陽気な声を掛けられた。

「先輩、梨華先輩じゃないすか。」

 振り返ると、かっちりとスーツを着た柔和な笑顔を浮かべた岩崎が手を振っている。

 だが、梨華は誰だかわからなかった。

「ど、どちらさまですか」

 窓口の中年の女性が、明るく紹介した。

「本日の相談員の、岩崎弁護士ですよ。」

「いわさき・・・べんごし・・・?」

 苦笑を浮かべた岩崎が、ちょっと立ち方を変えてだるそうに壁に寄りかかる。

「俺っすよ、俺。青の制服着て唐揚げあげてたっしょー???梨華先輩。忘れちゃったー?三年も一緒にレジ打ってたのに。」

 その軽薄そうな話し方に覚えがあった。

 そう言えば、よくこんなチャラい男が法学部になんかいるな、と思ったことを思いだす。

「岩崎くん弁護士になったの・・・!?」

 驚愕したままの顔で呟くと、スーツ姿の男はすっと姿勢を正した。

「ははは。俺変わったからねー。 ともあれ、仕事しましょうか。相談室お借りします。・・・梨華先輩も変わったんすね。」

 一目で梨華だと気付いたのに、彼は梨華の変化に敏感に気付いていた。


 相談室で事情を話し始めると、梨華は懐かしい顔を見たせいか、あるいは全く関係のない人間に話せたことで気が緩んだのかボロボロと泣き出してしまった。

 今までずっと胸に貯めて耐えて来ていたから、余計にそうなるのだろう。

 岩崎は会議用テーブルの隅に置いてあったティッシュペーパーの箱を引き寄せて、梨華の方へ押し付けてくる。

「結構相談室で泣いちゃう人多いんすよ。だから、いっぱい用意されてるの。」

 軽薄なままの喋り口調が、なんだかとても懐かしくて、そして、何故かほっとした。

 ろくに話を詰められないままに、あっという間に時間の30分は過ぎていく。

「もっと詳しい話を聞かないと駄目っすね。俺、先輩に合わせますから時間取って下さい。どっかで会って情報を整理しましょ。」

「いいの?でも、相談には料金とか・・・無料相談は一人で出来る回数が決まってるって。」

「無料相談でなくて、ちゃんと仕事としてお話しましょう。俺、事務所は持ってないけど、本当に弁護士やってるんすよ?」

 チャラい口調で、でもほっとさせるような優しい声で。

 岩崎は弁護士記章をポケットから出して見せてくれた。





 岩崎は梨華の仕事を知って、それならば職場へ押しかけると言い出し、打ち合わせの度にコーヒーショップへやってくる。

 ショップが暇な時間を指定しているので、場合によっては梨華だけが店番をしていることもあったから、そういう時に彼は来店した。

 七三分けの髪形で、濃紺スーツにビジネスバッグを持った岩崎は、昔の印象が嘘のようにエリート然として見える。

「まだ依頼するって決めたわけでもないのに、いいんですか?」

 コーヒーを差し出して、向かい側に座ると岩崎は手を振っていいのいいの、と言った。

「向井さん、そもそも、今お持ちの状況証拠だけじゃ言い逃れられてしまいます。」

 生真面目な顔で生真面目な声を出す岩崎は、仕事モードにすぐ切り換わる。

「そう、ですか・・・。」

「ご主人に自白させるとかできませんか?」

「多分、追及してもしらばっくれると思うし、・・・それに。」

 口ごもった梨華は一瞬目を固く閉じる。

 そもそも、浮気をしている事を頼人に直接尋ねるなどと言うことをしたら、自分がどうにかなってしまう気がする。

 そして、そうなったら二人の息子にも事情を知られる。

 現在、梨華の忍耐によってかろうじて保っている家庭内の均衡が一気に崩れるだろう。

 崩すのなら、一瞬だ。

 壊した後どうするのかを全て決めて用意周到にしておきたい。

 子供たちとも気まずく夫とも気まずい状態を長く続けたくはない。出来るだけ短く済ませたい。

「・・・本当は、このまま何もせず黙って気付かない振りをしていれば。我慢を続ければ、とりあえず家庭としての形はなしているから。その方がいいのかもしれないと思うのですけど。」

 噛みしめるように呟くと、梨華はテーブルの下の膝の上で堅く両手を握った。 

「確かにそうすれば今の家庭は保たれるかもしれませんね。・・・ただね、奥さん。」

 忠告するぞ、とでも言いたげな視線で岩崎がこちらを見た。

「はい?」

 思わず顔を上げた梨華に、岩崎はつらつらと自分の意見を述べる。

「お子さんは見ていますよ。何も言わなくても全部気付いてます。ご主人が何か後ろめたい事をしていて、それを母親である貴方が黙って我慢している。そうやってどうにか成り立っている家は存在するでしょう。そういうものなのだと、お子さんは思いますよ。」

「・・・あ」

 言われたことの意味に気がつき、梨華は蒼白になった。

「将来、貴方のお子さんはそういう家庭が当たり前だと思うようになります。息子さん・・・でしたよね?息子さんがやがて結婚してお嫁さんを貰い、家庭を築く。そして、貴方のご主人と同じことをするかもしれません。男子は大概は母親に似た女性を求めると言いますからね。貴方のようによく耐えて我慢できる女性と、その女性の我慢で成り立つ家庭を形づくる事になるでしょう。もちろん、絶対ではありません。しかし、親の背中を見て育つのが子供です。我慢する貴方を見てそれが普通なのだと思うようになります。」

「岩崎、さん・・・」

「貴方自身が耐えきれるというのならば耐える。それは貴方の自由です。貴方の人生ですからね。ご主人との仲も貴方次第でしょう。ですが」

「海斗や陸斗がそんなふうになるのは嫌です。・・・あの子達が平気で自分の奥さんを泣かせるような、それが普通だと思うような人になるなんて嫌です。」

 遮る様に言い返す梨華は、もう俯いてはいなかった。

 妻としての梨華は今どん底に居て何も信じるものがない。夫の不貞に身も心もボロボロになっていた。なっていたが、子供のためだったらいくらでも頑張れる。いや、むしろ二人の息子がいるからこそ現在も忍耐が続けていられるのだ。

「奥さん、貴方が戦うのは貴方自身のためであり貴女のお子さんのためでもあるんですよ。」

 岩崎が諭すように続ける。

「はい。はい。・・・でも、離婚するかどうかまではまだ決めては」

「離婚しなくても、慰謝料を請求することは出来ます。別居すれば婚姻費用も取れます。どうです、ぎゃふんと言わせてやりませんか?」

 最後の言葉を言った声は、昔の、チャラかった岩崎のままの声だった。

 だから梨華はまた安堵して、思わず口元に笑いが浮かんだのだ。そんなふうに笑えたのは、随分と久しぶりだったけれど。

 


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