第4話 震える手

 勤め先である梨華のコーヒーショップに、彼女の客が現れたのは午後の三時過ぎだ。客が減り、店内が落ち着いてくる頃だった。

「向井さん。」

「こんにちは。わざわざ来てもらっちゃってすみません。」

 背の高い、エリート然としたスーツ姿の男が軽く手を挙げて挨拶する。

 店内のバイトの女の子たちが、奥で声にならない歓声を上げた。

 女の子達には後で説明するとして、梨華は一番隅のテーブルへ客を案内する。

「岩崎さん、忙しいんでしょ?呼びつけたりなんかしてごめんなさいね。せめて、お好きなものを注文してください。ご馳走させていただきますから。」

「それじゃ、お言葉に甘えて。エスプレッソ。」

「畏まりました。」

 厨房へ戻ると案の定、女の子たちが梨華の周りへ寄って来る。

「チーフのお知り合いですか!?」

「私が注文持って行きます!」

 まあまあ、と宥めて、梨華は苦笑いした。

「エスプレッソだって。持って行ってくれる?あの人は仕事で来てくれてるの。だから、ちょっとの間、店をお願いね。」

「はーい、ワタシ、ワタシが持って行きます。」

「仕事で来てるんですか?どういった仕事で・・・?」

 好奇心に満ちた二人の追及を、ある程度の情報を与えることでどうにか逃れようとする。

「ほら、経営とか市場調査とか、そういうのの相談よ。法律関係。」

「はー・・・お堅いお仕事。」

 二人はちょっぴりがっかりしたらしい。お堅い仕事の男は駄目なのか。よくわからないが、彼女らの好みとは違うようだ。

「でもイケメンですね。独身なんですか?」

「指輪はしてないわね。」

 そう言い残すと、梨華はロッカー室へ戻り自分の鞄を取り出してきた。

 客と仕事の話をするためだ。

「お待たせしました。」

 資料を開いて、仕事の話に入ろうとした時だった。

 店先のドアが開いて来客があった。

 バイト女の子が声を掛ける。いらっしゃいませー、と聞こえたので、安心して岩崎さんの向かい側へ腰を下ろした。

 そして、客席の方を見ると、女の子が席に案内しメニューを見せている。

 男女二人連れの、客だった。珍しくもない、ビジネス街に近いこの店舗ではよくある光景だ。

 だから、梨華が目を瞠ったのは、その客が珍しいからではない。

 若い女の子連れでコーヒーショップに入ってきたサラリーマンの男は、まぎれもなく梨華の夫だったのである。



 今まで夫が梨華の職場へ来たことは一度もない。

 店舗の場所は把握しているだろうが、話題にした事すらなかったのだ。さして興味も無かったのだろう。

 果たして、頼人はここが妻の勤め先だとわかっていて店に寄ったのか。

 しかも、若い同僚らしい女の子を連れている。色白でぽっちゃりした感じの優しそうな女の子だ。二人ともビジネスバッグを手にしているから、仕事の途中に一休みに寄っただけだろうか。夫の仕事は基本的に内勤だが、週に何度かは取引先との打ち合わせなどで外出することがあると聞いている。

 この店は、頼人の会社とは駅二つほど離れているのに、果たして偶然だろうか。

「どうかしましたか?」

 顔色を変えた梨華の様子を気遣って、岩崎が声を掛ける。

「・・・岩崎さんの向こうの席に、主人がいます。さっき来店したみたいで。」

「ほう。ご主人はよくいらっしゃるのですか?」

「初めてです。この場所を知っているとは思わなかった。もしかしたら、気付かずに入ってきたのかも。」

「へーえ。一目顔を拝んでみたいところだけど、振り返らない方がいいですよね?」

 梨華は頷く。

 明らかに動揺が見える彼女の様子を見て、岩崎は小さく息をついた。

「じゃあ、お仕事の話しましょうか。・・・気になるでしょうけど、今はこちらに集中してください。」

 資料を鞄から取り出して広げる。

 その手が、震えていた。

 蒼白になっている梨華の顔をもう一度見た岩崎は、テーブルの上の、震える彼女の手をしっかりと握る。

「しっかりして奥さん。大丈夫だから。」

「・・・はい。大丈夫です。はじめましょう。」

 震えがおさまると、岩崎は手を放した。





 帰宅した海斗が投げるように弁当箱を放って寄越した。

「投げないで海斗。」

「ああ、ごめん。」

 ぶっきらぼうにそれだけ言うと、長男はそのまま風呂場へ行く。汚れたジャージを脱いで脱衣場の籠に突っ込み風呂場へ突入。

 野球部の主将をしている海斗はいつも泥だらけである。ユニフォームだけでなく中学校のジャージも靴下も酷い有様だ。これを洗うのは中々の重労働で、コマーシャルに洗剤の新しいものが出る度に試してみているが、未だにこれと言ったものは見つけられない。

 そしてその後輩である陸斗もほぼ同じだ。今夜は陸斗は塾を早めに切り上げたので先に夕食を食べている。

「おかわりは?陸斗」

「んー」

 どんぶりを差し出して来たので、梨華はそれを受け取ってご飯を新たによそった。

「はい、よそったわよ。」

「んー」

 次男の陸斗は、昨年あたりから返事はずっとこれだ。反抗期だか何だか知らないが、ほとんど両親と口を利かなかった。

 海斗もすっかり口数が減った。陸斗よりは意味の通る会話は成り立っているが、必要最低限の内容だ。

 部活と塾で疲弊しきっている二人だ。喋るのすら面倒くさいのだろう。それはわかっているので、梨華も必要な事しか言わなかった。

 それでも、父親の頼人よりはマシだ。接している時間が長いからなのか、幾分母親に対する態度の方が柔らかい。 

 二人の息子は、父親と一か月以上会話していないのではないだろうか。

 同じ家に住んでいるのだ。顔を会わせることは時々ある。だが言葉を交わすのは稀で、挨拶がせいぜいだ。

 ある意味父親以上に忙しい二人の息子は、両親の関係が良好かどうかなど意に介してないようだった。   


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