第3話 ギスギス
体に付着した汗や体液などを綺麗さっぱり洗い流す。
行きつけと言うのも変だが、よく利用するラブホテルの浴室は広くて快適だ。浴槽は大きく備品も揃っていて気持ち良く入浴できる。
杏奈と性交するようになってから溺れるように身体を重ねるが、相性としては悪くなかった。
元々、頼人はぽっちゃり体型が好きなのだ。柔らかくて張りのある、肉付きのいい女性がタイプである。杏奈は典型的と言っていい。そんな彼女の方から誘ってきたのだから、断る理由も無かった。
妻の梨華だって、そうだった。今は随分と痩せてしまっているが、昔はほんわかとした雰囲気の、ぽっちゃりな女性だったのだ。
急激にギスギスと痩せ始めたのは三年も前の事だろうか。
「具合でも悪いの?病院に行った方がいいんじゃない?」
余りにも一気に痩せていったので、心配した頼人に、
「ダイエット中なのよ。健康診断で言われちゃったの、メタボ最有力候補だって。だからがんばって痩せるのよ。」
梨華は明るくそう答えた。
まあ年齢的にも三十路を過ぎると血圧とか血糖値とか気になるのはわかる。自覚症状がないだけに気を付けるべきだ。
梨華の事だ、自分の健康に関しても生真面目だから、医者の言う事を真に受けて無理なダイエットをしているのだろう。
自分としてはちょっとくらい太っていてもそのままでいて欲しいと思っていたけれど、医者に指導されたと言うのならば仕方が無いし、無理なダイエットは続かないだろう。そのうち元に戻るだろうと思っていた。
あの時も、梨華は笑っていたから。
しかし、彼女は元に戻ることは無く相変わらず痩せたままだ。いつしか細くなった妻の姿が自然になり、違和感を覚えなくなってしまった。
それに実際どのくらい痩せてしまっているのか、妻の裸を見なくなって久しい頼人にはわからない。
杏奈との関係を結ぶ以前から頼人は外に何人か女を作っては遊んでいた。だから妻とは何年もセックスもしていていない。
「良かったのにな」
妻との性行為は良かった。
先程の杏奈以上に、身体の相性は良かった。
それだけに、拒否された時の絶望は深かったのだ。
梨華は、求め続ける頼人に対して「無理」の一言で拒否を示した。そしてろくに言葉を交わす間もなく深く寝付いてしまっていた。
時にはどうにか説得して妻を誘っても、真っ最中に眠ってしまうこともままあった。
そのうちに誘う事も止めてしまった。それに安堵している妻を見て、傷ついた。二人の息子を得て、男としての自分はもう用済みなのだと言われている気がした。
バスルームを出てタオルで身体を拭いていると、バスローブを着た杏奈が脱衣所のドアを開いた。
「先に浴びさせてもらったよ。」
「・・・はい。」
「この後、どこか行く?」
「いいえ。大丈夫です。」
「じゃあ俺が支払いを済ませたら解散しちゃうけど。」
杏奈が、身支度を整えて元のスーツ姿になっている頼人を恨めし気に見上げる。
その視線が、何かのオネダリなのだろうと察した。
髪の毛を両手でなでつけた頼人は、愛想良く微笑んだ。
「今度有休でもとってどこか遠出でもしようか?」
「はいっ!!」
半裸の杏奈に背中から抱きつかれ、慌てて向き直って抱きしめ返す。
あんな名の長い髪を撫でながらふと思う。そう言えば、家族と遠出と言うのも暫くしていない。旅行と言えば子供たちがやっているスポーツの合宿や遠征試合ばかりで、頼人の出る幕など無かったからだ。
ダイニングテーブルに座って家計簿を付けていた梨華は、いつの間にか自分が船をこいでいる事に気がついた。
「ああ~、やばい、寝ちゃってた・・・。」
テーブルの上に涎の跡が。顔にはうつ伏せて寝ていたために皺が。幸いなのは、家計簿帳が無事だった事だろうか。
席を立って洗面所で顔を洗おうと動き出す。じっとしていると眠くなってしまう。
テーブルの上の、スマホの時計を見てため息をつく。午前一時を回っているが、夫が帰宅した様子もない。
二人の息子はすでに夢の中だ。年子の男子二人は、毎日の部活に疲れ切っている上に、塾にも行かせていた。夢中で部活にのめり込んでいるので、学業がおろそかになるだろうと危惧し、半強制的に塾へ通わせている。スポーツはお金がかかるし、他に塾代もかかる。そして食費も莫大だ。家計簿は必ずつけなくてはならない。
共働きだから辛うじてやっていける。進学の資金だって貯めなくてはならない。子供の教育にはお金がかかるのだ。
よその女になんか注ぎ込んでいる余裕など無い筈なのに。
洗面所から戻ってくると、開錠する音がした。頼人だろう。
随分とのんびりのお帰りだ。
「・・・お帰りなさい。遅かったのね、お疲れ様。夕食は?」
彼は、妻が起きている事に狼狽を見せた後、軽く咳払いをしてから応じた。
「ただいま。食べて来たから大丈夫。」
「そう。着替えてお茶でも飲む?」
「いや、疲れてるからもう寝るよ。おやすみ。」
そそくさとその場を離れて寝室へ足を向ける。梨華の横を通りぬけてそのまま寝室へ入っていってしまった。
疲労を訴え早く就寝したいと主張していた頼人。
そんな言葉に騙される梨華ではない。妻の勘は伊達ではない。
残業で午前様になるほど遅くまで仕事していた男が、ソープの香りをさせているのはどう考えてもおかしいではないか。
どこぞのホテルでシャワーを浴びてきたのだろう、家の風呂に入る素振りも無い。
「・・・気持ち悪い。」
自分の夫が知らない場所で知らない女と抱き合って帰ってきた。そう考えるだけでも気分が悪い。吐き気がする。ダンナから匂って来ていたボディソープの香りが気持ち悪くてしょうがなかった。
三年前、最初に夫を疑い始めた時から、梨華はこの吐き気と戦ってきた。
妊娠時のつわりも軽かったのに、どうしてこんな思いをしなくてはならないのだろう。腹の立つ。
吐き気を耐えられなくなった梨華は、再び洗面所へ足を運んだ。
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