第18話 2月22日に灰ネコをひろう
その短い眠りの中で私は夢を見た。
白いローブを羽織った兄の尚記が、光を背負って宙に浮いている。尚記は半眼で無表情だ。
その表情は普段の尚記と変わりなかったが、厳かに見えた。
尚記は片目をチラッと開けて私を見てから、これまたチラッと後ろに目だけをやって、
「後光の演出は五郎さんと、房子さんだ」
私たちしか居ないのに、なぜか小声でヒソヒソと言った。
私が尚記の後ろを見ると、尚記の足元近く、靄がかった辺りから房子さんがヒョコっと顔を出して手を振った。
尚記が視線を私に戻す。
「トウ」
その呼び方で私を呼ぶ時だけが、唯一、尚記が兄らしい瞬間だ。
滅多に呼ばない呼び方で私を呼んで、指を伸ばして真っ直ぐに私へ向けた。
「お前が奇跡の出会いだと浮かれている、その仔も彼女も何の変哲もないただの命だ。ちょっとした事で潰えてしまう非力な存在だ」
何だ?御託宣か?
ちょっとした事って…御託宣っぽく言うなら、なんかもっと良い言い回しがあったろう。
夢は続く…
夢は続くが、尚記は喋らない。どころか俯いてしまった。
まさか…飛んでしまったのだろうか?御宣託を受けたのに、
ありがたいお言葉を飛ばしてしまったのだろうか?
「わかるか?トウ」
わかるかっ!
現実の尚記は生真面目で、覚えた言葉を飛ばすような事はしないが、
身内だけで話す時は突発的に茶目っ気を発揮する。
身内でも理解出来ないタイミングで発揮するので困るのだ。
「つまり茂みの中で迷って絶望していたのはトウ、少し前のお前の姿でもあるのだよ。お前が飴や彼女に救われたのだとしたら、絶望しているお前でも、生きてるだけで誰かを救えるんだ」
いきなり「つまり」と、まとめられても困るが、分かる…ような気がする。
私が理解し切れない顔をしていると、一言
「脳筋が」
酷い事を言う神の遣いである。
尚記は居住まいを正した。
「だがそれにはお前が生きていることを、世界に伝えなければならない。飴が茂みの中で辿々しくも彼女に、自分が生きて茂みの中に居る事を伝えたように、お前もお前が生きている事を伝えるんだ」
尚記は私が理解しているか、確認するように私を見つめている。
私はまた酷い事を言われるのが嫌だったので、力強く即答した。
「分かった」
「嘘を付け」
瞬く間に…瞬く事も出来ぬ間に否定して、尚記は続ける。
「もう一度言おう。飴は特別なネコではないし、彼女も女神ではない、普通の女の子だ。出会いが普通では無かったし、就いてる職業が普通じゃないから特別に思うかもしれないが……お前と同様、非力な一般人だ」
それは嘘だ。今度は私が否定する。
少なくとも彼女には世間に認められている才能がある。
それは特別と言っても差し支え無いはずだ。
しかし、それを見越したように尚記は
「非力な一般人だっただろ?少なくともお前は最近まで無関心だったはずだ」
私を黙らせた。
「いいか、トウ?飴も彼女もお前みたいに苦しむ、ごく普通の猫と人だ。でも無自覚ながらもお前を助けてくれただろ?それは非力な一般人のお前でも、いつか誰かを助けられるって事だ」
尚記が黙る。黙って私を見る。
「分かっ……た」
理屈は分かったが、私はどうしても私と彼女とアメを同列に置く事が出来ない。
私には彼女達ほどの価値は無いだろう。
「分かってないよ、裕記」
尚記は私の近くまで降りて来ていた。
私の隣に肩を揃えて座り、「トウ」と兄貴風を吹かして、私を呼ぶのをやめた。
分かったよ。理屈は分かったんだ。ただ彼女やアメのような一生懸命さは無い。
一生懸命に生きて来なかったのに、彼女達と一緒の価値…は、
尚記は尚記自身の唇に人差し指をあてて、静かに。と言うジェスチャーをする。
そうやって私を黙らせてから、
「価値なんて最初から無いんだ。完成された人間なんていないんだ。皆などっか壊れてるんだよ。飴も彼女も。それでもだ、非力で価値が無くて…」
そこまで言って、尚記は私の目をじっと見つめた。
それから、しょうがないとでも言うように溜息をつき
「非力で、価値が無くて…お前が父親の資格が無いような男でも、
いつかお前の言葉は誰かを救える。
それはもしかしたら未来のお前の娘かも知れない。
だから残しておけ、お前の言葉を」
尚記はもう尚記だった。
登場した時の大仰な厳かさは無くなっていた。
いつもの、頼りないのに、どこまでも甘えて良いような優しい声だった。
突然、
「格好よう出来たのう!」
今まで隠れていた房子さんが、急に大きな声を出して現れた。
寝ていても体がビクリとなったのが分かる。
尚記は予定には無いのに出て来ちゃった房子さんに苦笑いをしながら、潮時であるように半身を引いて、
「いいか、彼女もアメも特別じゃ無いんだ」
出番が少なくて不満そうな房子さんを引っ張りながら、手を上げた。
私は薄れて行く夢の中、尚記が最後に
「いつか俺の事も助けてくれ」そう言ったのを聞いて目を覚ました。
起きた直後は夢の内容が良く思い出せず、
「飴じゃねぇよ」
尚記のイントネーションが、飴だった事ばかりが気になった。
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