第19話 3月29日に初めての投稿をする

それからだいたい一ヶ月後の3月29日、私は書いた物を初めて投稿した。


内容は彼女との出会いをそのまま書き起こした100頁に満たない小編だ。


目的が彼女の目に止まれば良いだけだったので、不特定の人に読まれてどんな風に批評されるのだろうと怯えたり、逆に誰にも読まれなかったらどうしよう、などと思って投稿を気遅れする事は皆無であった。

 

投稿後も読者の反応やコメントに一喜一憂する事も無かった。


只々、彼女からの反応が有るか無いかだけが気になった。

 

彼女から何かしらの連絡が有れば、そのことを物語の続きとして綴るつもりでいた。

しかし暫くの間、彼女からの連絡は無かった。

 

連絡の無い間、私は書く事を失った。

何も考えずに彼女と一緒にアメを拾った時の出来事を書いて、彼女からの返信を物語りの続きとして書こうとしていたのだから、彼女からの返答が無いと物語は続かない。

 

そう考えるのは怠慢だろうか?

 

彼女から音沙汰が無いのは予定に折り込み済みだったはずだ、だいたい初めて投稿した物がいきなり彼女の目に止まるはずが無い。 


私は無計画な気質だが、流石にそんなに甘く見積もってはいなかった。

 

見積もっていなかったが、彼女からの反応が無い時はどうするのか?具体的な事は何一つ考えていなかった。


根本的に無計画なので、彼女からの返信が無い現実に直面してから、


では、どうしようか?


平日の昼時の公園をブラブラと歩きながら考え始めた。

 

彼女からの連絡が無くても、思い描ける未来や、残しておきたい想いがあったから、私は何か書こうと思ったのではなかっただろうか?


"生きた証" は大袈裟だが、残しておきたい想いがあったはずだ…


彼女はなぜ、を残しておきたい欲求があったのだろう?

 

そんな疑問を思った時に、無計画に走らせ始めた思考は知らず知らずのうちに横道に逸れて行った。

 

彼女の場合い、欲求だから理由など無いのだろう。

眠りたいのは眠いからだ。


同じように『好き』を残しておきたいのは、残しておきたいからだ…と思う。


もしかしたら理由があるのかも知れないけれど、少しだけ彼女と話した印象だと、彼女の行動の根源は言葉で表せられる様な物では無く、もっと感覚的な物を拠り所にしている様な感じがした。


「それがしたいから、それをする」


本能に近い。

したいか、したく無いかは気分次第。ネコのようだ。

 

彼女に対してそんな勝手なイメージを押し付けつつ、

自分はどうなんだろう?

横道から本線に戻り、振り返って見ると遠くで彼女が何かを言っている姿が思い起こされた。


彼女は何と言っていただろう?


私は彼女のどんな言葉に突き動かされて、行動を起こそうとしたのだろう?


物語りを書き始めた動機を忘れている事実を突き付けられて、たった1ヶ月ほどの日常なのに、日常はこんなにも情熱を削る物なのかと驚いた。

 

「ミャー」

 

アメがキャリーケースの中から前足を出して、私のズボンのポケットからハミ出しているスマホをチョイチョイと悪戯している。


あぁ、なるほど。


物語りを書いておいて、記録を取っておいて良かった。

これを読み返せば当時の想いを思い出せる訳だ。


ありがとうアメ。


などと、自分のうっかりさ加減を誤魔化しつつ、投稿サイトの自分のページを開いた。

 

なるほど、なるほど、私はどうやら彼女の


『私は私の好きな気持ち達を殺したくない。ちょっとでも生きて欲しい。ちょっとでも誰かの中で生きて、出来れば優しい気持ちなれるように、一歩を踏み出せる勇気になるように、その人の心に働きかけて欲しい』

その言葉に感銘を受けたのだった。


ただ、私の場合は『誰か』と言う不特定多数では無くて、『彼女』と言う特定単数である。


私の言葉が『ちょっとでも彼女の中で生きて、出来れば彼女が優しい気持ちになれるように』

そんな物語りを作りたかったのだ。


改めて自分の動機を確認した私は、だいぶ遠回りをしたが、何か新しく書く事を決意した。


私とアメの物語り。


単調になってしまうが、穏やかで微笑ましい日常を書き留めておこうか?

私はキャリーケースの中のアメを覗き込んで見た。

 

アメと私の昼時の公園散歩は日課になりつつあった。


私はアメが目を離しても大丈夫になるまでは有給休暇を取ったので、昼下がりのこの時間でも悠々と散歩が出来る身分になっていた。とても贅沢な時間だ。

 

会社には良い顔をされなかったがどうでも良かった。アメとの散歩は、会社での立場なんてどうでも良いと思えるくらい満ち足りている時間だ。


「アメ、クビになるかも知れない」

 

アメに言ってもどうしようもない事を語りかけながらベンチに座る。


この公園はアメと出会った公園とは違って木が少ない。


都会ではお目にかかれないだろう広い原っぱ、と言ってもきちんと手入れをされた芝生の原っぱが広がっている。


公園の施設情報によると南北に200メートルくらいの幅で、東西に1000メートルほどの広がりが有る、長細い公園だ。

 

公園の前の道は、そのまんま「公園通り」と名付けられており、私が今居る公園を含めて3つの公園沿いを走っている。


3つの公園は全て隣接していて、何故一つの公園にしなかったのか不思議だ。


航空写真で見ると3つの公園は鉄アレイのような形をしている。


私がいま居る公園が持ち手の部分に相当する。


片側の重しに相当する方には、野球やサッカーのグラウンド、陸上トラックがあり、もう片方の重しには子供用の遊具や、軽い飲食の出来る休憩所がある。


鉄アレイの形に似ている事に最初に気が付いたのは尚記だった。

尚記は3つの公園を併せて「鉄アレイ公園」と呼んでいた。

 

尚記…

自分の兄の事を、鉄アレイ公園と言う固有名詞と一緒に思い出したら、尚記とは最近会ったばかりなのに、何だか懐かしくなった。


物語りにするのは兄弟の話しでも良いかも知れない。

 

でも、無い…書く程の思い出が直ぐに浮かばない。

 

決して仲が悪い訳ではない。寧ろ良い方だと思う。

尚記は兄だったが、兄っぽく無かった。

こうやって考えてみて初めて気が付いたが、私は尚記を兄だと思っていないようだ。 

 

もしも尚記が私の事を弟だと思っていたのなら、物凄く生意気な弟だと思っている事だろう。

でも尚記も私を弟だとは思っていない気がする。

 

兄っぽく無いので何でも相談できる。

上から目線で兄貴風を吹かすところが無いので、相談し易いのだ。


頼み事もし易い。頼み事をすると無遠慮に、舐めればさぞ渋かろう酷く嫌な顔をするが、最後は引き受けたり、手伝ったりしてくれる。


普段、兄だとは思っていないが、相談と頼み事をする時は兄だと持ち上げるのを忘れた事は無い。

 

尚記は私に言わせると繊細だ。

断わった後の事をアレコレ悩んでしまって、断れないのだろう。

私もそれほど図太い方では無いが、尚記は繊細な上に複雑な心の持ち主のように思う。


私は弟なので慣れてしまっているが、普通の人は尚記が頼み事を引き受けてくれたとしても、尚記の何を考えているか分からない反応に気持ち悪さを感じてしまうかも知れない。


私も尚記も残念ながら健やかな心の持ち主では無い。

起きた事象に対して捻れた反応をしてしまう。ように周囲には見られているようだ。


2人はいたって素直な反応をしていると思っているのだから、生き難くてしょうがない。

 

私は世間と自分にギャップが存在すると思春期の頃に感じたので、その頃から無暗に体を鍛えた。思春期の頃は集団から浮くのが怖くて普通でいたかった。


普通とは健全である事だと思っていたし、健全とは普通である事だと思っていた。


健全な心は健全な肉体に宿る。


その言葉を盲信して、普通であるために、ひたすら体を鍛えた。

 

行き過ぎた鍛錬の結果、行き過ぎて歪になった心を得るハメになったが、筋肉はある程度の困難なら、考えずとも抉じ開けてくれたので、考え込んで立ち止まったり、悩んだりする機会が減った。


あと、尚記は変だ。そう思える程度の価値観を手に入れる事が出来た。


そんな事を書いていると、弟にイジられて、不愉快なのか面白がっているのか分からない、尚記の顔を思い出してしまいニヤニヤする。

 

自分の顔がフヤけているのに気付いて、ハッと辺りを見回した。


大丈夫、フヤけた顔は見られていない。


平日の昼時の公園は意外と人が多い。

お昼休憩は終わっている時間だが、休憩中?のサラリーマン。散歩している老夫婦。レクリエーションに勤しむ大学生くらいの集団。そして何より小さな子供を連れたお母さんが多い。

 

彼女と出会ってアメと共同生活を始めるまでは、公園に来る事が出来なかった。

娘と同じくらいの歳の子供が楽しそうにはしゃいでいるのを見ていられなかったらだ。

 

本当なら自分もああやって子供を追いかけていただろう。ああやって思わず舌鋒鋭く子供を呼んでしまい、そんな自分に嫌気がさしていただろう。

 

子供を育てられない私と同様、子育てに苦しんでいる人はいるだろうし、子供を授けて貰えなくて苦しんでいる人もいるだろう。

 

不幸の背くらべがバカらしいのは頭では理解しているが、あの頃の私は子育ての苦しさも醍醐味だろうと思っていた。


公園に居る楽しそうな親子はもちろん、子育てに疲れ、倦んだ顔をしている人を見ても羨み妬んだ。

 

羨み妬んで、楽しそうしている人には

「こっちは子供と一緒に居られないんだ、これ見よがしに笑ってんじゃねぇ」


疲れている人には

「こっちは子供と一緒に居られないんだ、一緒に居られるだけありがたく思え、疲れた顔してんじゃねぇ」


怒鳴りつけたくなっていた。八つ当たりも良いところである。筋肉だけでは心の均衡を支えられなかった。

 

悍しい闇を抱えた自分が近くにいる事も知らず、無邪気な子供達の声は眩しく光かがやく。

 

汚すのが怖かったのか、醜い自分を照らし出されるのが怖かったのか、私は出歩いている時に、娘と同じ歳くらいの子供の笑い声が聞こえると、用も無いのに脇道にそれたり、引き返したりした。

 

そうしている内に心の均衡は完全に崩れた。外に出ると子供の笑い声を聞いてしまう。

そのように考えると、怖くて外出できないようになった。

 

引き籠った部屋には負の感情も籠って行く。


唯一の救いは犯罪を犯さなかった事と、自殺しなかった事だ。


筋肉は心の均衡を支えてはくれなかったが、筋肉に湧き上がる負の感情をぶつけ、体を鍛える事で発散して最後の一線を守っていた。

 

だが、湧き上がる負の感情は枯れる事を知らず、やがて体も許容量を超えた。

耳を壊した、平衡感覚を無くして運動出来なくなった。

筋肉は細くなり、これはもういよいよだと思った時、彼女の動画を見た。


公園の風に吹かれながら、つらつらと物思うまま文章を作っていたら、前回の粗筋あらすじのような内容になってしまっている。


これが勝手気儘に投稿出来ない物なら、「ここの文章は内容が重複してますね。カットしましょう」などと言われ、4000字近くが殺されていたかも知れない。

 

しかし、相手もプロだろう。その4000字を犠牲にしていれば、後に続く何万字が生きていたのかも知れない。


実際、展開に進展が無くてここまで読んでくれずに脱落してしまった読み手もいるだろう。

 

私は彼女にさえ届けば良いと思いつつ、投稿してみたら色気が付いてしまったらしい。


出来るだけ多くの人に読んでもらう事を考えてしまっている。

 

彼女が近くに居てくれたなら、


「別にいいんじゃない?皆んなが面白いと思う物は、私も面白いと思うだろうし。話題になってれば、私の目にとまる可能性も高くなると思うよ。

それよりも私にだけ面白いと思ってもらえれば良い。ってのが、逃げなんだよ」


などと言って、叱咤してくれるかも知れない。

 

そんな妄想をしていたら、彼女と話しがしたいと言う想いが込み上げて来た。


私はなんで意地なんて張ったのだろう?


転がりこんできた奇跡を素直に喜んで享受すれば良かった。


連絡を取り合えるようにしておけば良かった。


これではまるで宝くじを神棚に載せて、願いが叶ったら換金すると言っているような物だ。

しかもその願いはいつ叶うか分からない。

 

私はバカだ。そう思って天を仰いだ時に、ショートメールが届いた。

 

 

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