第21話 3月29日に初めての投稿をする
いつの頃からか物書きを夢見ていたが、夢に向かって情熱が燃え盛っていた頃、ネットは今ほど整備されていなかった。数回、公募やコンテスト、出版社にいきなり送りつけたり持ち込みをした事はある。今よりも敷居…壁と言った方がしっくり来る。立ちはだかる壁は高く、乗り越える情熱を燃やす為に必要な薪はいくらあっても足りなかった。今思えば無駄に必要だった。
コピーを取らなければならない。切手を貼らなければならない。投函しなければならない。電車に乗らなければならない。他人と会わなければならない。初対面の人から冷笑、憐憫を受けなければならない。
私は今回、部屋でクリックしただけだ。人差し指をちょっと動かすだけ、それだけで良い。そのちょっとを動かす為に、彼女に手を添えて貰わなければならなかったが…
ネットが整った後も一人では、そのほんのちょっとが出来ずに今まで敬遠して来た。
大勢の人間に、いきなり寄ってたかって叩かれるなら、1人の人間からの憐みの方がよっぽどマシだ。
だから、サイトに投稿するのは今回が初めてだ。そもそも私はSNSをやらない。
「でしょ?動物病院の場所を調べた時に、調べ物が苦手って言ってたでしょ?あんまりスマホを使わない人なんだなって思って。
だからネットの世界へようこそ。今日が…正式には今日じゃないけど…沢田さんがネットの世界に生まれた日だよ。沢田トウって名前でね」
人は決めつけられると、不愉快な時と楽で身を委ねてしまう時がある。今回は後者だ。
そうなのか、今日 私は新しく生まれたのか。
彼女に呼ばれると厨二臭く感じるペンネームをいきなり言われたので、羞恥に襲われたが、彼女の声でその名を呼ばれ、生まれ変わった思いを強くした。
「沢田さん、ネットは広大よ」
彼女は突然、大きな声を上げた。
「うわぁ!少佐みたいなこと言っちゃった。知ってますか?少佐」
知らない。何しろ今日、たった今生まれたばかりだ。少尉なら分かる。はいからな人の想い人だ。
「えーと、なんて言えば良いんだろ。法を守る側の非合法な事もするハッカーだよ」
彼女の言い方から、完全にこちら側の住人である事が分かる。いや、あちら側。ん?どちら側だろう?私は自分の立ち位置が分からなくなった。立ち位置を見失った私は黙った。
「沢田さんはリアルの人なんだね。あまり、ネットとか2次元に触れて来て無いなら、たぶん価値観がぶち壊れると思うよ」
彼女は私の戸惑いに気付いたように言う。
「なんて、わたしも大した事ないけどね。でも沢田さんが、また壊れてしまわないようにするのも、水先案内の務めだと思うから、少し語っても?」
「あぁ、はい。大丈夫です。でもチョット待って下さい」
私はイヤホンを繋いで、ハンズフリーにした。キャリーバックを抱えて帰る準備をする。一通り準備を終えて、
「もしもし、スイマセン。聞こえますか?」
帰る準備をしていたことを伝える。
「えっ?昼間っから公園にいたの?ムショ…え〜と、何なさってるんです?お仕事。あっ、別に嫌なら…」
若い美人の女の子に気を使われる。情けないが満更でもない。
私は、しがない配管工である事と、今はアメが心配なので休暇中である事を伝えた。
「あぁ、Brothers。えぇ?すごい。アメちゃんの為に有給休暇を取ったんですか?そう…ですか、なら、ぶち壊れる心配は無いかも知れない。でも語らせてください」
彼女は改まった。
「いいですか?」
私は一瞬、彼女の瞳を思い浮かべたが、声のトーンとピッチから大丈夫であろうと判断した。彼女の瞳のハイライトが失われる時は、声も平坦になる。
私は彼女の話を促した。
「あのぉ、三角錐を思い浮かべて下さい」
促す前に、身構えておくべきだった。彼女は話が飛びすぎる。
「あっ、ごめん。やり直し。ヒエラルキーって分かりますぅぅよね?」
彼女の気遣いが面白い。当然の事を知っているかどうか質問する場合、聞き方が難しいのだ。彼女は語尾を伸ばす事で気遣いを示した。そして彼女の気遣いは正しい。
ヒエラルキーは分かる。三角形のヤツだ。けれど上手く説明は出来ない。
「アレですよね。三角形の…社長がいて、副社長がいて、その下がいて、とか、金持ちがいて、中流家庭があってみたいな…」
「そうそう、それ。日本語だと、階層組織って訳されてる事が多いと思う。沢田さんは会社にお勤めだから身近だよね。ピラミッド型の段階的構造組織。上が社長さんで、下が平社員さん。立場的な上下も三角形に当て嵌まってるし、数量的にも三角形に当て嵌まってる」
「数量?」
「人数。社長さんて、細かい事は置いといて1人でしょ?」
下の方の平社員はたくさんいる。
「じゃあ、社長さんがたくさんいたら?」
「えっ?」
「あっ、ごめん今のも無し。黒い炭酸飲料の…」
「えっ?はい?」
また飛んだ。彼女の中では繋がっているのだろうが、私は非力な一般人なのだ。何を言いたいか分からないが、まだ「社長がたくさんいたら?」から説明に入った方が、話の流れとして良いのではないだろうか?黒い炭酸飲料は流石に飛び過ぎである。
「あっ、ごめんなさい。いきなり」
やっぱり、飛びすぎなのだ。
「沢田さん、この話しも文章に起こして、上げる気でしょ?だから表記には気をつけてね。たぶんコーラはセーフ。コカを付けたらアウトになるかも。わたしは間違いが起きないように黒い炭酸飲料って言うね。
で、その黒炭酸のレシピって、一部の役員しか知らないって都市伝説があるの」
この時、私はただ黙って、何処へ行くか分からない彼女の話しを聞いていた。けれど今はゆっくりと文章を書いている。だから落ち着いて、このとき言いたかった事を書いておこう。
まず、謝ったポイント。突然、耳馴染みの無い固有名詞を使った事に対してであって、結局「黒い炭酸飲料」の話しは続いていった事。
もう一つは「黒い炭酸飲料って言うね」そう言ったそばから「黒炭酸」と略してしまう事。
私は年の差をヒシヒシと感じていた。なぜなら彼女はすぐに
「皆んながお家でコーラを作れるようになったら、そのレシピに価値は無いよね。だって皆んな知ってるんだもん」
呼び方を変えた。私は彼女に好意を待っている、自然言葉も好意的になる。彼女は若くて柔軟なのだ。
「皆んなが知らない事を知っている。だからレシピを知ってる少数の役員さん達には価値がある。けどね、そのレシピ通りに調合出来るのが、たった一人の平社員だけだったら?でも、その人はそれしか出来ないの。調合しか出来なくて、その他は無能。鼻水を垂らしてる」
なるほど、方向性が見えて来た。ただ鼻水垂らしてるは極論だ。少数の役員に価値があるのもレシピを知っているからだけ、は現実からかけ離れてしまっている。
極論だと分かっていたが、導かれるままついて行く。
「それでさ、そのコーラ会社の中で働いてる人って何人居ると思う?そのぉ、まともに、手を抜かずに、一生懸命に利益を出している人って意味で」
心なしか耳の痛い質問だ。
そんな痛みを感じている私に、当然 気付く事なく、彼女は私の答えを待たず続ける。
「これも『働きアリの法則』って言うのだから知ってるかもしれないけど、ちょっと我慢して聞いてね……え〜とね。忘れちゃった」
語彙を失う可愛さだ。目の前にいたら抱きしめているかもしれない。
「あっ、そうそう。2:6:2だって。超働いてる人 : まぁ普通に働いてる人 : てんで働かない人。知ってたけどね」
「本当ですか?」
やっと、自分への質問以外の所で合の手を挟む事が出来た。さっきは質問にも答えさせてもらえなかった。
「ホントウ、ホントウ。忘れてなんかいませんよぉ〜。それで、じゃあ2:6:2を形で思い浮かべみて」
すぐには思い浮かべられなかった。2:6:2という数字の形を思い浮かべたが、彼女が次に
「割合として、どこに1番厚みのある形が思い浮かびますか?」
そう言ったので私は、「菱形?」疑問符をつけながら答えた。
彼女が訂正する事なく、次の質問をしたので、どうやら正解だったらしい。
「どっちを上にしました?働く人と働かない人」
「働く人です」
「ね、普通、働く人の方が偉いもんね。そのぉ、役職的な意味じゃなくて。いっぱい褒められるって意味で、偉いもんね」
確かにそうだ、私は社会に出てから一度も褒められた事が無い。
「じゃあ、働かない人はダメ?なんで下?」
「えっ?ダメでしょ?ダメだから下なんじゃないですか?」
彼女の矢継ぎ早の質問と、速いテンポの話し方は思考を奪う。
「調合しか出来ない人はどっち?良く働く人?働かない人?」
「働く人ですね」
ちょっと迷ったが、働く人だろう。
「ヘェ〜、想定外!わたしは働かない人にしたよ。沢田さんにとって働かない人ってどんな人?」
「例えばコピーしか取れない人ですかね。要は誰にでも出来る事しか出来ない人です。調合しか出来ない人は、誰にも出来ない事が出来る人です。やっている事に価値があります」
「沢田さんはやっぱり大人なんだね。すぐに答えが返ってくるし、ムキにならない。なんか、なんか…落ち着いてて悔しいんで、話しは逸れるんですけど、少しイジめていいですか?」
「はい」
喜んで、思う存分、ご褒美です。
「沢田さんは、いま出来る以外の仕事が出来ますか?」
その質問はズルい。覚えれば出来るだろうが、「出来る」と答えて、じゃあ、やって下さいと言われたら困る。もうちょっと条件を整えて貰わないと答えようがない。しかし私は虐めて欲しい誘惑に負けて答えた。
「出来ないですね」
「じゃあ、沢田さんはコピーしか取れない人と一緒だね。それしか出来ない人だ。働かない人だ」
そう、私は働かない人だ。菱形の働かない下側の2割だ。現にアメが心配なだけで、復職してすぐ、また長い休暇を取った。私は笑いながら「そうですね」と答える。
「アレ?効いてないな。もしかして沢田さんコピーしか取れない人とはレベルが違う?わたし配管工の仕事って詳しく分からないけど、沢田さんのやってる事は、誰にも出来ない特別な仕事なの?」
確かに特殊な技術は必要である。配管技能士の資格は国家資格だ。でも無くても良いし、覚えれば誰でも出来る。
「そか、沢田さんは配管工だから、あまり上手くイジめられないな。あっ、でもでも、いま長期休暇中なんでしょ?じゃあ、会社には居なくても差し支えないって事だ。会社にとっては必要のない人間だ」
居なくても良いと、必要が無いは大きな違いがある。虐められたいと思ったが、予想以上に心は大きく抉られた。私が居なくても会社は回る。それは会社にとって私は必要無いと言う事なのかも知れない。
「ごめんね。やり過ぎた。え〜と、今からフォローするね。沢田さんの会社の社長さんは良く働く人?」
ウチの社長?一般的な社長じゃなくて、ウチの社長か。
私の会社は最近では珍しくなって来ている有限会社だ。今の社長が1代で築いた。若い頃は、それはもちろん働き者であっただろう。人を雇えるようになってからも、自ら現場に出向いて、陣頭指揮だけでなく、一線で実際に作業していた。そうでなければ会社は安定しなかった。
だが、安定して来ている今はどうだろう?現場からは身を引いた。活力だけは相変わらず、そこいらの若者には引けを取らないが、最近は空調の整った部屋で大声で笑っているだけだ。尊敬はしている。
「でも、どちらかと言うと働いて無い人ですね」
彼女の笑い声が耳をくすぐる。
「社長が齷齪働いてたらヤバイからね。どっかり座って、笑ってるくらいがちょうど良いって。私の事務所の社長も言ってる…わたしは納得してないけどね。
チョット待ってね、移動する。
最近ゲーミングチェアを買ったんだけどさぁ。座り心地が凄い良くてビックリした。
ネムイ。こっちおいで。
でも、ソファで横になってる方がやっぱり幸せ。失礼して横にならさせて貰うよっと」
彼女は色々と妄想を掻き立てる事を言う。加えてソファの軋む音が妄想を色付けして行く。
部屋着だろうか?どんな部屋着なのだろうか?衣擦れの音もするのだ。
「要素はだいたい出揃ったかな。じゃぁね…
調合しか出来ない鼻垂れ小僧、コピーしか取れない人、笑ってるだけの社長さん、そして沢田さん。それぞれが「ヒエラルキー」と「働きアリの菱形」の何処に位置するか考えてみて。あ、わたしも。今日は久しぶりの休みだけど、平日の昼間からソファで寝そべっているわたしも入れて考えて」
図で思い浮かべるのは簡単なのだが、文章にするのは大変だ。
ヒエラルキー 働きアリの菱形
社長 (上) 下
鼻垂れ 下 (上)
コピー 下 下
私 下 下
彼女 ?上? 上
この時は図を思い浮かべていた。
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