第9話 2月22日に灰ネコをひろう

ネコの健康状態に問題はなかった。

診察中の動物、患畜と言うらしい。

患畜に引っ掻かれ、レンズに傷がついた眼鏡をかけたお医者さんは言った。


「四肢に問題は有りません。

今はヨチヨチですが、ちゃんと元気に歩けるようになるでしょう。

この仔は足が分厚いので貫禄のある猫に育つかも知れませんね」

 

そう言ってお医者さんは、肉球を自分の人差し指と親指で挟んで2回ほど

クイッ、クイッと力を加えた。


「目と耳も問題ありません。ただ、もうしばらくは注意して見てあげて下さい。

普通、猫は動く物にジャレつくので、異常が有ればすぐに気が付かれると思います。

耳の方は警戒心が強いので音がすれば音のする方に耳を向けます。

耳だけ動かす場合が多いので、その方向を見ないからと言って心配なさらないように」

 

そう言いながら手際良く、注射の準備をしていく。

レンズの傷は邪魔にならないのだろうか?

注射の準備は様になっているのだが、傷の入った眼鏡のせいで間抜けに見える。


私は我慢できずに聞いてしまった。

 

お医者さんは少し苦笑いを浮かべ

「ちょっと患畜に、ワンチャンにやられてしまいましてね。

油断しました…顔をパンチされたので、避けた拍子にすっ飛んで行ってしまい、怪我は無かったのですが、飛んだ眼鏡はご覧の通り」

 

お医者さんは両手が塞がっていたので、視線で眼鏡の傷を指し示そうとしたが、寄り目になってしまい、益々 間抜けに見えた。


「新しいのを買おうと思っているんですが、忙しいのを言い訳にして、そのままです」


そう言いながら、尻尾の付け根のあたりにプツンと注射の針を刺した。

仔ネコを押さえている手伝いをしていた看護師がチラッと、

(だから言ってるのに…)

そんな風にお医者さんの方を見て

「先生、2ヶ月くらい経ちますよ?」

冷ややかに言った。


お医者さんはまた苦笑いをした。

 

仔猫はまるで暴れない、キョトンとしている。

診察台に上がる前に、あらかた蚤を落とすため、

温かいお湯の中で看護師にモミモミされてから来た。

ポカポカの余韻に浸っているのだろう。

 

蚤をとってくれた看護師の手つきは手荒く見えたが、命の重さを知っている慣れた手つきだった。


最初その手荒さに私は驚いたが、仔ネコがウットリしていくのを見て、

感心しながらその手つきを眺めていた。

甘やかさず、面倒がらず、蚤を丁寧に取り去っていく。

 

注射を刺した後お医者さんは、仔猫の背中をポンポンしながら、

「猫は腎臓が弱いので…

腎臓の機能は高いのですが、

それと引き換えに耐久性と言えば良いのか、健康な腎臓を維持するのに大きなコストを支払っているんです。

若いうちから腎臓に負担をかける、この注射は本当はあまり使いたくないんですが、状況を考えると免疫力が低下しているでしょう。親猫のお乳は抗生剤…免疫力を上げる役割も担ってますから」


それから仔ネコと同じ目線になるように腰をグッと下げて、仔ネコの瞳を覗きこんだ。


「この仔は特に腎不全を、腎臓の病気を患いやすいかも知れない」


傷越しに見えているだろう、嫌な未来の可能性を告げた。

と、今度はスクッと腰を伸ばして一歩下がり、遠目から仔ネコ全体を眺めまわすように見た。

まるで自分の仕事の仕上がりを確認する職人のようだ。


「これから処方するお薬も腎臓に負担をかけてしまいます。ですが必要な処置ですので必ず飲ませて上げてください。その際は必ず、必ず、用量を守ってくだね」


言い回しは優しいが、威厳のある声を出して、先生は今まで仔ネコしか注視していなかった視線を突然私の方にむけた。


声の変化に驚き、思わず私も仔ネコから視線を移し先生を見た。片目しか見えない。

 

その片目は「はい」の選択肢しか与えない、しかも約束を破って仔ネコを殺したら、一生後悔させる。

そんな呪いをかけて来そうな眼光だった。


間抜けそうに見えたが、命を扱う職業の人なのだ。

尊厳を守るべき時を知っている、その他は余事なのだろう。

眼鏡の傷が光って私を射抜いた。

 

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