第8話 2月22日に灰ネコをひろう

彼女がそこまで言ったとき、私は動画のチャンネル名を呟いた。

奇天烈な名前のチャンネル名は魔法の呪文のようだった。

風が一瞬やみ…止んだように思えた。

彼女は喋るのを止め、目をパチクリさせた。


「その動画で、狩野さんがこのイベントを紹介しているのを見たんです」

「あぁ、そうなんですか」


左耳が聞こえない事を伝えた時と同じ返答だ。ただし今回は疑問形では無い。

「覚えておいでですか?」


その動画に出ていたことを覚えているか?

そう言う主旨の質問であることを彼女は理解してくれた。

記憶を探るかと思ったが、予想外にも「はい」と即答があった。


「その動画で楽しそうにイベント…のゲームを紹介するあなたを見て、

その頃、私は塞ぎ込んでいたんですが、元気を貰ってファンになりました。

それで、ありがとうを伝えたくて、逢えるかもと思ってこの辺をブラついていたんです。」


ここで言う以外にないだろう。

風の音に負けないように、少し声を張って私は伝えた。

案外、呆気の無いものだ。


どういうリアクションが返ってくるかは怖かったが、

まさかいきなり「なにそれ?気持ち悪い!」とはならないだろう。

彼女は虚空を見つめるような目をしたが、徐々に明るい顔になり、


「そうなんですね。うれしいです」

特訓を重ねたのとは別の笑顔を見せてくれた。


私は、自身は時間の確認の必要は無かったが、

彼女が開演時間が迫っている事を、ど忘れしている可能性を慮り、

かと言って言葉でハッキリと指摘するのも気後れだったので、

それとなく気付いて貰うために腕時計を見ながら


「動画を見たので、どれだけ楽しみにしているのかは知ってるつもりです。

その仔は狩野さんが公演を見ている間に、私が動物病院に連れて行きます」

気遣いが出来るっぽい事や、

俄ファンなのに、昔からのファンだと勘違いしてくれる事を願いながら申し出た。


彼女は先ほどより明るい顔で

「お願いできますか?」

大事そうに抱いていた仔ネコを私に預けた。

明らかにソワソワしている。

開演時間が迫っている事を思い出してくれたのだろう。

すぐに会場に向かうかと思ったが、彼女は私に預けた仔ネコをしばらく見つめていた。


私は「どうしたんですか?」と聞こうとしたが、すぐに軌道修正をし、

「どう…しますか?私は引き取るつもりですけど」

彼女の視線は仔ネコを離れ、私の事をじっと見つめる。

 

吟味されている。

この仔ネコを託すのに相応しい人間かどうか。私は目を逸らした。

彼女は口を真一文字に結んで、「んー」とだけ唸った。

彼女が引き取るつもりだったのかも知れない。


公演まで時間がない。

「公演が終わるのが早いか、動物病院の診察が終わるのが早いか分かりませんが、

後でまたここで落ち合いますか?」

そのように提案する。

彼女は結んでいた口をパッと解いて、

元気よく「はい!」と答えた。

そして走り去ろうとした彼女を、だが私は呼びとめた。


「すいません、自分はこの辺りの地理に明るくないんです。

申し訳ないんだけど、最寄りの動物病院がどこか調べてくれませんか?自分はその、そう言った調べ事が苦手でして…」

 

彼女は、なるほど気がつかなかったと言う顔をして頷いて、

スマートフォンを取り出して調べ始めてくれた。

営業しているかどうかも手早く確認してくれた。


幸い病院は歩いて行ける距離にあった。


私は彼女が調べてくれている間ににあるベンチの座面を机代わりに、

2人が用事を済ませたあと 万が一すれ違いになった時のことを考えて、

自分の電話番号をメモして彼女に渡した。

彼女はそのメモをマジマジと見つめる。

私はとぼけたフリをしてその様子を見ていた。

彼女には時間が無い、ゆっくり判断している余裕はないはずだ。受け取るはずだ。


彼女はそのメモをカバンのポケットに納め、

「どうしますか?私の電話番号もお渡ししますか?」

何かを決断したかのように聞いてきた。

私はよっぽど「はい」と答えようと思ったが、心の中で下唇を噛み切り、

血をダラダラと流しつつも平然とした顔で

「あ、いや、今日あったばかりの素人に電話番号を明かすのは、いろいろ抵抗あるでしょうから…」

一応は断る素振りを見せる。

彼女は少しホッとしたような、少し申し訳なさそうな顔で

「すいません。じゃあ、また後ほど」

そう言い終わった後は、もう楽しみに向かって一直線に走り去って行った。

彼女の本業の漫画の中であれば、私は海に向かって

「オレのバカヤロー!」

と言う1コマが入りそうだが、現実でそれをする勇気は私には無かった。



 

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