第7話 2月22日に灰ネコをひろう
「あっ、あのう、こんにちは。
ビックリしましたか?ビックリさせましたね。
あのう、ネコが、この仔がいたもので」
そう言って彼女は両腕に抱えた仔ネコを少し持ち上げた。
ネコはずっと鳴いていたが、彼女が持ち上げたことに反応して一度だけ少し強く鳴き声を発した。
あたたかい腕に抱かれてようやく落ち着きを取り戻してきたのに、
持ち上げられて、また温もりから引き離される。
そんなの「イヤだ!」とでも言うような鳴き方だった。
ネコは彼女の白いセーターに爪を喰い込ませた。
彼女は私から目を離さずに、キュッと仔ネコを抱きなおすと、続けてこう言った。
「ちょっと、ちょっとだけお時間いいですか?わたし、狩野って言います。
あのう、漫画を描いてます。ご存知ですか?
ご存知じゃなくてもいいんですが、
わたしは今日、あすこ、あすこでやってるイベントを見に来たんですが、
それがもう始まるんです」
抱いた仔ネコを落とさないように、
人差し指だけを伸ばしてイベント会場の方に向けながら、
「あすこ」、"あそこ"のことだろう。
のタイミングで2度ほど背伸びをした。
(出身はどこなのだろう?)
私は
喉元まで出かけた、
「存じております。あなたが狩野さんであることも、
漫画家であることも、今日イベントを見に来たことも」
と言う言葉を口に出すことは無かった。
ただ、彼女に「ご存知でしょうか?」と問われた時に軽く頷いたので、
私が狩野舞生子を認識している事は伝わっているかも知れない。
遅かれ早かれ私が彼女に感謝を、「ありがとう」を伝えるのならば、
きちんと経緯を話さなければならないだろうが、
私は焦っている彼女に理解してもらえるほど、自分の説明力に自信が無かった。
それに私の辿々しい説明でこの貴重な時間を費やしてしまうなら、
もっと彼女の表情を見ていたかったし、彼女の声を聞いていたいと思っていた。
どのみち説明しようとしたとして、彼女の喋りの速さの合間に割り込む事は出来ないくらい彼女は早口だった。
「あすこで今日やるイベントはミュージカルなんですが、元ネタはゲームでして、ゲーム中で使われてる音楽を使ってゲームのストーリーをミュージカル仕立てで魅せてくれるんです」
勝手に脳内変換したが「みせる」はこの「魅せる」で合っているだろう。
私が合いの手を挟むならこの瞬間だったろうが、私はわざと見送った。
動画で見ている、あの楽しそうな姿が生で見れるのだから、邪魔などしようものか。
言葉を選んでいる間も器用に仔ネコをあやしている。
数秒のち、あやしている仔ネコを見ていた目を私に向けた。
「音楽はどの音楽も神曲なんですが、わたしは中学生の頃からこのゲームが好きで、ミュージカルをやる。って知ってからは毎年来ているんです。関西でのイベントにも行ったことがあります。今年はアニバーサリーイヤーなんで、1〜4の主要なキャラクターが勢揃いする、滅多に見られないイベントなんですよ。そう!ミュージカルオリジナルストーリーなんです。あっ、このゲームのシリーズは4まで出てまして、本編でね?本編で4つ。他にサブストーリーが2本とifバージョンが2本の計6本、んっ?は、8本?が出てるですけど、なんと今回はifバージョンのキャラ設定でも演じてくれる予定なんです。ifバージョンは男女が…性別が入れ替わってる設定だから、俳優さんが女装して、女優さんが男装して、あんな事やそんな事を繰り広げてくれるらしいんです。もう、運営さんグッジョブ。1〜4のキャラが勢揃いするだけでも頭を深々と下げたい気持ちでいっぱいなのに、ifバージョンのキャラも出るなんて…だから今日まですごくこの日を楽しみにしてきたんです」
なるほど彼女はオタクなのだ。
分かってはいたがオタク特有の…
オタクが市民権を得て、今や国民が総オタク化している状況で、
オタクと言う括りが存在するのか疑問だが…
いわゆるオタク特有の喋り方とはこの事を言うのだろう。
彼女はまだ話しを続けようと口をパクパクさせたが、別人のように歯切れが悪くなった。
「あの、実はわたしは、あの、ちょっとした関係者でして、あすこの、あのイベントの…」
彼女の眉間に皺はもう無い。
代わりに人前に出る事が多くなった為、特訓に特訓を重ねたと思われる、
今では彼女自身の本来の表情であるかのように、綺麗に作り上げられた笑顔がある。
ニッコリと笑ったその口の形を器用に保ったまま彼女は続けた。
「わたしは今日の公演を見にきたんですが、チケットを買って。
それがもうすぐ始まるんですが、この仔を見つけてしまって。
もしかしたら頼めば、チケット無しで、明日の公演を見ることができるかも知れませんが、
それはチョット違う気がして…
その、好きな人に会いに行くのに、自力で行ってないって言うか、
親に送ってもらっているような。
告白を友達に頼んでいるような。それに似たような感じがするんです」
言葉が止まった。だが、彼女の頭の中でまた言葉達が構築されて行くのが分かる。
TVや動画で考える素振りを見せないのは、本番前にある程度、話すこと…
主題と言う意味ではなくて、話すセリフがかなり詳細に頭の中で出来上がっているのかも知れない。
現実の台本とは別に、頭の中に台本を準備しているのかも知れない。
私はそんな事を考えながら、
彼女の顎の下辺りまでのびた髪が、風に煽られて彼女の口角に何度もくっつき、
彼女がその度に片手で髪を除けても、仔ネコを落とさないようにするため、
そのまま片手で髪の毛を抑えておく事が出来ないでいるのを見ていた。
仔ネコは揺れる髪に気付きジャレつき始めた。
揺れる髪に意義を見つけたのか彼女は手で髪を除ける事をやめ、
むしろ積極的に髪が風にあたる位置に行くよう、小首をかしげた。
可愛い。
再び合いの手を入れるチャンスが来ていたが、
私は彼女が邪魔が入りつつも、概念を言語化している様子が面白くて黙って見ていた。
彼女はまだ何も話し始めていないが、風の音がうるさい。
そう感じた私は右耳を彼女の方に向けて一歩踏み出した。
足の裏に枯れ葉を踏んだ感触があった。きっとガサりと音がしているだろうが、
私には聞こえない。
彼女は黙っているのが明らかなのに、聞こえない素振りを見せた私を不思議そうに見た。
私は左耳を指さしたあと、両手の人差し指をクロスしてバツのジェスチャーを示しつつ、
「左耳だけ聞こえていないんです」
風の音で、声は彼女に届いていなかったかも知れない。
私の仕草だけで理解したかも知れない彼女は
「あぁ、そうなんですか?」
口をポカンと開けて、まだ不思議そうな顔で、興味無さげに、
なにか他に気を取られているように納得する。
その時、私は一瞬だけ、彼女が概念の世界からこちらに戻って来たのを見た気がした。
と同時にこれは…閃きにも似たような何かが走った。
彼女が黙っている、このインターバルが長ければ長いほど、
次に放出される言葉の量は多くなるのではないだろうか?
先ほど器用に仔ネコをあやしていた、たったあれだけの時間であの量の言葉数である。
私はどれくらい彼女に見惚れていたのだろう?
今日は風が強く、大量の枯れ葉が舞っている。私は辺りを見回した。
木々に付いた葉が風に煽られている。
途端に今まで風の音しか捉えていなかった右耳が、
木々の葉の騒めきだけを捉えるようになった。
ここは公園だ、幾本も木が植えられている。一本の木には幾枚も葉が付いている。
子供の頃、夏休みに集団自由研究なる宿題があった、
1人でやるにはテーマの大きな課題をグループになって協力してこなしていく、
協調性と知的好奇心を同時に向上させる事を狙った課題だ。
協調性の無い私にとっては苦手な課題だったので逃げ回っていたが、
皆と一緒にやり遂げた課題の一つに、一本の木に、葉は何枚あるか?と言う課題があった。
木の種類にもよるだろうが、その時の結果は約20000枚。
一本の木にだ。
この公園には何本の木があるのだろう?
彼女と私の周囲5メートル以内でも、かなりの数の木が植わっている。
それらの木にある全ての葉が風に煽られ
私は彼女を見遣った。概念を覗いていた彼女の瞳の色が濃くなりつつあるように見える。
もちろん瞳の色の濃淡が変わる事なんて、現実ではあり得ないことは分かってはいるが、そのように見えるのだ。
木の葉の
ざっと彼女と私の周りを見回して、木は30本くらいか。
60万の言の葉が風に煽られ閃く光景が頭に浮かんだ。60万語か、60万字か。
「新聞」「文字数」で検索すればすぐ出てくるだろう。
新聞紙1部が40ページとすると、文字数にして約20万字くらいになるそうだ。
この時はそんな知識は無かったが、彼女がスゥーっと息を吸いこむと同時に、
私はこれから来る圧倒的な量の言葉を想像して、失礼ながら話を遮る決断をした。
これは彼女のためでもあった。
話を遮らなければ、たぶん開演してしまうだろう。
そして仔ネコのためでもあった。
1匹になってからどれだけ時間が経っているか分からない。
その間、ご飯を食べていないのかも知れないのだ。
だが、彼女は話し始めてしまった。
「このイベントは…」
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