第52話  外伝 廃城の吸血夫人(前編)

「……アリサ、あんたねぇ……」


私は荒野でため息をついた。


だいたい私のトラブルは、いつもこのお定まりの台詞で幕をあける。

私の気苦労も知らず、アリサはにっこにこで金髪をゆらし、上目遣いで私を見あげていた。


あー、はいはい。

アピールしなくてもわかってるって。

あんたは確かに花みたいに可愛いよ。

頭の中はもっと満開お花畑だけど。


私の名前はスカーレット。

スカーレット・ルビー・ノエル・リンガード。

血で血をあらう王位継承権争いの休戦期間に、バカンスをむさぼる、花も恥じらう乙女だ。


いつもにも増しての命がけの戦いを切り抜けたこともあり、安堵した私は妙なハイテンションになっていた。


そして、くされ縁の友人のアリサからの行楽の誘いに、ついうかうかと乗ってしまったのだ。

ハイドランジア屈指の武門の家柄であるアリサの実家、フォンティーヌ家が護衛につくということで、安心しきっていたのだが、私は、彼らがアリサの暴走に慣れきってることを忘れていた。


真の敵は外でなく内にいた。


アリサときたら、旅先で始終、私にしなだれかかり、過剰なスキンシップを要求してきた。

独占欲の塊であり、私に近づく小鳥まで威嚇しているのには呆れてしまった。

フォンティーヌ家の連中は知らんぷりだ。

止めてくれない。

というより、これがアリサの平常運転なのだ。


アリサは超がつく美少女で、しかも男好きだ。

家柄も優秀だ。

なのに縁遠いのは、常識はずれの言動と、真の本命は私であるという噂のせいだ。


私にとっては、とんだ濡れ衣+とばっちりだ。


おかげで私はレズ疑惑がかけられ、良縁の春のおとずれは遠ざかり、一部の淑女令嬢たちからの秋波ばかり受ける羽目になっているのだ。


もっともアリサのトイレの付き添いまでしている今の私を見られたら、誤解されるのも致しかたなしではある。


「だってえ、馬車の中にはおトイレないんだもん。アリサ、悪くないよ」


舌ったらずな甘え声で、不服そうに頬をふくらますあほ娘。


うん、まあ、生理現象はしょうがない。

殿方の近くで用を足したくないから、少し皆から離れるというのもね。

そこを責める気はない。でもね。


「……だからって、なんで、私があんたのトイレの介添えしなきゃいけないの!?」


こればっかりは声を大にして反論したい。


「ええー、アリサとスカーレット様の仲でしょ。いいじゃない。大じゃなく、小なんだし」


あほ娘め。私の心の中でも読んだかのような返答をしおって。

誰がうまいこと言えといった。腹立つわ。


私達のドレスは大きくふくらんだロングスカートだ。


おしゃれだが、実用性は大きく損なわれる。


中の骨組みが邪魔し、椅子には深く腰かけられない。やや前傾姿勢になり、浅い腰かけをしなければならない。しかも見苦しくないように背すじをぴんとしたままだ。硬い上半身のコルセットは体形矯正だけでなく、貴婦人らしい姿勢を維持するための支えでもあるのだ。


と、ちょっと脱線したが、なにが困るといって、外出時のトイレほど貴婦人を悩ますものはそうはない。ゆえに我々女子は、その強敵への対策を怠らない、はずなのだが……。


「……あんた、『おーぷん・どろわーず』履いてるでしょ。ちょっと注意したら、クリノリンなんだから、用ぐらい足せるでしょうが」


核心にせまる話題のため、アリサしかいなくても私は声をひそめた。

令嬢たるもの常におしとやかにあらねばね。


なんの呪文か、と思われる方のために……。


はばかりながらご説明申しあげると、「おーぷん・どろわーず」はお股部分ががっぱり開いた……というかない下着。


クリノリンは別名鳥かごフープとも呼ばれる、金属の輪をひもで繋いだスカート内部の骨組みだ。折りたたみ可動式である。それに提灯のようにスカート布地をかぶせているわけだ。つまり中身はすっからかん。いたずら風で足首が見えがちなのが悩みぐらいで、外から足の動きは見えないし、うちには十分な空間も確保されたすぐれものだ。


つまり慣れれば下着を脱がずトイレも可能!!


ごてごてドレスなんか着て、パンツを女一人でずりおろせるわけがない。殿方への誘惑的なエッチな意味はまったくなし。清廉な淑女としてのマナーと切羽つまった知恵袋である。


なのに、あほ娘アリサは私の予想の斜め上をいった。


「……アリサ、あんなださい下着、はいてないよ。だって、スカーレット様と旅先でえっちな雰囲気になったとき、可愛いパンツじゃないと恥ずかしいもん」


うーん、頭が痛い。

未来人かなんかと話してる気がしてきた。


「わかったから、とっとと用を足しちゃいなさい」


私は諦念の悟りの域に達し、花嫁の付き添いよろしく、アリサのスカートの後ろ裾をかかげもち、不快……もとい深いため息をついた。


なにせアリサときたら爛々と目を輝かせ、

「スカーレット様は、おまたが開いた下着つけてるの? 参考にちょっと見せてもらっていい?」

とにじり寄ってきたのだ。


背筋が寒くなった。

こいつは、やる。

エロに関しては有言実行の権化だ。

実際、過去に何度も私のスカートの中にもぐりこんだ。


女の子同士のスキンシップに目くじらを立てすぎと言われるかもしれない。だが、アリサは性の技巧に関しては魔性で、何人もの男性が骨抜きにされている。一度でも行為を許すと、どこまで堕とされるかわかったものではない。このあほ娘とベッドでからみあう自分なんか想像したくもない。


我が貞操は断固守り抜かねばならぬ。

侵略を許すな。

私は拳をにぎりしめ、決意を固くした。


「……スカーレット様のコルセット、なんか硬すぎてつまんない。形もいまいちだねえ。もしかして、お胸がぺったんこのせい? アリサがもんで大きくしてあげる。……あいたぁっ!?」


私は力いっぱい固めた拳を、勝手に人の胸をまさぐりだしたアリサの頭のてっぺんに落とした。


「よけいなお世話。私のコルセットは対暗殺用に薄い鉄板入れてるの。でっかい胸をアピールするためのあんたのコルセットとは用途が違うのよ」


でかいばかりが能じゃない!!

私は腹立ちまぎれに、アリサの巨乳をコルセットの上からわし摑みにしてやった。


「……え? やわらかい? なんで……」


「だって、アリサ、コルセットなんてつけてないもん」


呆然とする私に、いけしゃあしゃあと奴はのたまわった。


おのれ、プロポーションお化けめ……!!


私は喉の奥でうなった。


コルセットの矯正なしに、この蜂みたいなくびれ体形かよ!? 


アリサの裸を見た男達は狂喜乱舞したろう。

包みをほどいたら、本物の黄金像が飛び出てきたほどの衝撃だったはずだ。普通はパッケージにいつわりありが当然なのだ。


神はどうしてかくも不平等なのか。


私は内心の動揺をおし隠し、アリサに排泄行為をうながした。


いくら遠巻きに護衛がついてくれているとはいえ、見知らぬ土地で令嬢がいつまでも二人きりでいるのは危険すぎる。


私も、まあ、人並み以上の容姿の持ち主ではあるし、アリサにいたっては、頭はシュークリームでも美貌は傾国レベルだ。野盗たちがいたら、金塊がむきだしで転がっているように見えるだろう。


それに……。


私は不安なこころもちで、背後にそびえる廃城を仰ぎ見た。

夕闇が忍び寄るなか、まるで命を取り戻しつつあるかのように、威容が黒く染まりつつある。

岩山になかば埋没するような形のその城は、吸血女城主の伝説の残るヴェンテ城だ。

真下には濃霧がアメーバーのように不気味に蠢いている。


おのれの美を維持せんと、領地の娘たちを殺し、その血の風呂につかったという殺人貴族エリザベータ・シルヴァニアのかつての居城である。


肖像画の写しを見たことがあるが、病的なまでに白い肌と尊大なまなざしが印象的だった。

犠牲者は六百六十六人にも及び、エリザベータはその罰として、窓を塗り込められた一室に閉じ込められ、城もうち捨てられた。

もう二百年以上も前の話だ。


なのに城はいまだ人が住み続けているように朽ち果てない。城には無数の怨霊がさまよい、残酷に殺された娘たちの泣き声が、今も風にのって時々聞こえてくるという……。


〝……たすけて……たす……けて……誰か……!!〟


そう、きっとこんなふうに、かぼそい声で。

……って、えっ!?


「……ちょっとアリサ。ふざけないで。みえみえなんだから」


私は引きつった笑みを浮かべた。

アリサは頬を赤らめもじもじした。


「みえみえ? もしかして……アリサのお尻見えちゃった? でも、スカーレット様になら見られてもいいよ。ううん、おっぱいだって、もっと秘密の場所だって……」


自分の顔から音を立てて血の気がひいたのがわかった。


今の声アリサじゃないの!? じゃあ……!!


「……ああー、すっきりした。スカーレット様もおしっこする?」


私の懸念にも気づかず、アリサが立ち上がり、のん気に伸びをする。


風がごおっと私達の髪を巻き上げた。

風は廃城の方角から吹いてきている。

つんとした酸っぱさと鉄分の入り混じった、むわっとした生臭い匂いがまとわりつく。


ぞっとした。


王位継承権争いの暗殺騒ぎに慣れっこの私には馴染みのもの、これは血と臓物臭だ。かちんと私の中の緊急事態のスイッチが入り、意識が切り替わる。痴話喧嘩もどきをしている場合ではない。


「……いたい……たす……けて……たすけ……」


今度は幻聴じゃない。はっきりと聞こえた。


「なんか変なにおいがするねえ……」


アリサもくんかくんか鼻を鳴らしている。


「アリサ!! 静かにして。私から離れないで」


私はアリサをかばうように抱き寄せた。


おい、こら。目を閉じて唇をとがらすな。

そんなことしてる場合じゃないんだってば。


オカルト話もこわい。

だが、これが現実だったらはるかに危険だ。

すばやく目線を走らせる。

岩があちこちに転がる。草がまばらな寂しい地形だ。岩ひとつひとつはさほど大きくない。子供でも完全に身を隠すことはむずかしいだろう。


だが、油断はできない。

助けを求める演技をし、近づく善意の人間に襲いかかる奴や、岩地や砂地に見せかけた布をかぶり、待ち伏せする連中だっているのだ。

両方のパターンを過去に私はやられている。


私には敵が山ほどいる。

そしてアリサは名うてのトラブルメーカーだ。

二人そろったら、何が起きても不思議はない。


私はスカートの横の裂けめから内側に手をいれた。腰にまいたポシェットの鉄扇をにぎりしめる。短剣ぐらいならはじきとばす特別製だ。


暴漢数人なら制圧できる護身術もある。


だが、完全武装した騎士団くずれやプロの傭兵複数が相手だとしたら、まず勝てない。まして足でまといのアリサを抱えている。


「……馬車に戻るよ、アリサ!! 走って!!」


そう促し、私たちは五十メートルほど向こうの馬車に後退を開始した。


「スカーレット様、なんか怖い……。アリサ走るの苦手だし、腕くんで一緒に走って~」


「甘えないの!! 緊急事態なんだから!!」


のろのろアリサのお尻を引っぱたいて追い立てる。


馬車と分断されたら、私たちは足を封じられる。護衛が私たちのほうにまわっているすきに、馬車の車輪が壊されてもダメだ。私は馬に直接のってでも逃げられるが、アリサは相乗りでさえ馬に乗れないのだ。


ああ!! まったく!! ドレスって走りづらい!!


「誰かいる!? 怪我でもしてるの!?」


いちおう本当に要救助者がいることにそなえ、呼びかけはしておく。


同時に馬車の周囲で待機している護衛達にも手をふって、こちらに来るように知らせた。

フォンティーヌ家の連中はさすがに優秀で、私の叫びを聞いた時点で、すでにこちらに向かって馬を走らせてきていた。


ほっとしたのも束の間、突然の白霧が、ごおっと私達の視界をさえぎった。

近づいていた護衛達の姿がかき消える。

ヴェンテ城を取り囲んでいた霧が、吹きおろしでここまで雪崩れ込んできたんだ。

まずい!!


「アリサお嬢様!! スカーレット様!! どこです!! お返事を!!」


一寸先もわからないほどの異常に濃い霧に、馬蹄の音が右往左往し、護衛たちが私たちの声を頼りに接近を試みようとする。


「ここよ!! こっちに二人ともいます!!」


私も声を張りあげたが、なにせ岩くれだらけの地面なのに、足元ひとつ見えやしない。

無理をおしたら骨折しかねない。馬も私達も慎重に動かざるをえなくなり、合流は遅遅として進まなかった。


その焦りがさらなるミスを呼んでしまった。


私はアリサを見失わないよう、彼女のドレスの後ろ腰の布を摑んでいた。そこへの注意がおざなりになっていた。急におそろしい力でアリサの身体が引っ張られ、私の指がすっぽ抜けた。


「アリサ!?」


必死にもう片方の手を伸ばしたが、間に合わなかった。


「スカーレット様!! 助けて!! きゃあっ!!」


悲鳴をあげたアリサの後ろ姿が、あっという間に霧の向こうに消える。


まさか斜面から滑り落ちた!? 

私のせいだ!! 

アリサはあんなに怯えていたのに!! 

せめて頼みどおり腕を組んでおけば!!


「アリサ!! お願い!! 返事をして!!」


「……スカーレットさまぁ……あいたた……おしりぶったあ……」


私の呼びかけにアリサの声が小さく答える。

ずいぶん下のほうから聞こえた。

やはり私たちは知らないうちに斜面に足を踏み入れていたのだ。


相変わらずののん気な声で、アリサは無事だとわかった。さすが豪運娘。この距離を転がり落ちて怪我なしとは。ルールも知らないままカードゲームで独り勝ちするだけのことはある。


「今そっちに降りていくから動かないでよ」


安堵した私はあわててまなじりに浮かんだ涙をぬぐった。

こんなものを見られた日には、

「アリサのことそんなに心配だった? もう、しょうがないなあ。じゃあ、ずっと一緒にいてあげる。一生大切にしてね。ちゅっ」

とかぬかして、私に抱きついてくるに決まってるのだ。


苦笑して傾斜を手探りで下りだした私は、アリサの金切り声に凍りつくことになった。


「離して!! アリサ、スカーレット様と帰るの!! あんたなんかと一緒に行かないってば!!」


アリサの隣に誰かいるの!?


「アリサ!!」


「……スカーレットさまぁ……」


アリサの声がだんだん遠くなっていく。


アリサを拉致しようとしている人間がいて、しかも、この霧の中でも目が見えている!?

このままでは追いつけなくなる。

危険を承知で急行するしかない。


私は覚悟を決め、へっぴり腰を起こした。


スカートの両端をつまんでクリノリンごとたくしあげ、アリサの声だけを頼りに、全速で霧の斜面を駆け下りる。五秒もたたないうちに踏み込んだ先の足場がぐらつき、危うく捻挫しそうになった。むきだしの脛をなにかにこっぴどくぶつけ、目から火花が飛び散った。あっという間に、私の膝下は、痛みと擦り傷と打ち身だらけになった。あとで状況を確認するのがおそろしい。


だけどアリサには代えられない。あの子はバカでアホで空気読まなくて大迷惑ばかりかけてくるけど、打算なく私を慕ってくれる。妹みたいなかけがえのない存在なんだ……!!


なのにアリサの声がどんどん離れていく。

岩場のせいで乱反射し、所在が摑みづらい。


「アリサ!! できるだけ大声あげて!! 今夜は一緒に寝てあげるから!!」


私は声をはりあげた。

頭のネジがとんだわけではない。


「……エッチなことは禁止だからね」


いちおう釘を刺すことは忘れない。


「やったあああっ!!!! スカーレット様との初夜だああっ!!!」


耳をつんざく大音声で、アリサが歓びの雄叫びをあげた。びりびりと空気が鳴った。


だから、エッチなことはしないって言ってるのに。人の話はちゃんと聞け。


普段どんくさいのにエロがかかったときのアリサのパワーは尋常じゃない。頭の中身だけではなく、身体能力まで非常識になるのだ。


私とお風呂に入りたいがために空中で一回転してみせたり、キス目当てで壁を縦走りして二階のバルコニーにとびこんできたこともある。ギャグキャラのくせして、ダンスの腕前だけはトップクラスだし、この子、ほんとは運動神経の塊なのに、あほさで宝の持ちぐされにしてるんじゃ……。


大声で霧がぶわっと動き、薄くなった。


おなじみのツインテールのアリサと、彼女の手首を握りこみ、連行しようとしている誰かの影が見えた。形から見て女性だ。フリーズしている。


私はきんきんする鼓膜の痛みに耐え、突撃を敢行した。


アリサの声は、離れていた私にさえ被害を与えた。まるで空気爆弾だ。


ましてアリサをさらおうと密着していた不審者はこれを至近距離で浴びたのだ。

ただで済むはずがない。

訓練をしていない限り、人は突然に予想外の大きな音や光にさらされると、脳が対応しきれず、一瞬棒立ちになる。それは私にとってアリサを取り戻すのにじゅうぶんすぎる時間だった。


全体重とバネをのせた私の頭突きを脇腹にくらわせてやると、そいつは悲鳴をあげ、もんどりうつように吹っ飛んだ。私の石頭には定評がある。そして予想以上に襲撃者の体重は軽かった。


男のように頑丈な拳をもたない私用の三十三の護身術のひとつだ。


ご存命だった頃のお父様がなかば話のネタで教えてくれたものだったが、今まで何度も私の命を救ってくれた。


私は手加減はしなかったが手心は加えた。

他の三十三の技には、閉じた鉄扇の先端で喉元を潰したり、刃のような縁で頸動脈をかき切る殺法だってあるのだから。


そいつが呻きながら身を起こそうとしたタイミングに合わせ、私は下顎を蹴りあげ失神させようとした。


野蛮なんて思わないでほしい。

むしろ殺さないための慈悲だ。


だが、私はあわてて蹴りに急ブレーキをかけることになった。


爪先がじんじんするが、顎すれすれのところでなんとか止まり、ほっとする。


そいつは……いや、その子は、正面の顔だけ出し、髪や耳、首まで白布を巻き隠していた。ウインプルというやつで、ヴェールこそないがそんな格好をするのは修道女だけだ。いくら私でも、神様に仕える者を蹴っ飛ばすのは目覚めが悪い。

それに顔立ちもまだ幼い。

十二、三歳だろうか。

年下の女の子の顔面をキックするのは、聖職者以上に遠慮こうむりたい。


そして、それ以上に目をひくのはその娘の顔の右半分だった。


私は息をのんだ。


「……あなた、怪我してるの?」


瞼の腫れで右目はほとんど潰れていた。

、肌はひきつった傷跡だらけで、数か所が破れ、鮮血が滴っていた。


わ、私の蹴り、ちゃんと止まったよね。

私のせいじゃないよ……。


「ス、スカーレット様が、女の子の顔を蹴りつぶしちゃった……」


こら、アリサ!! 顔面蒼白でどん引きするな!! 私じゃないってば!!


私はあわてて懐から常備している血止めの塗り薬を取り出し、その子の顔に薬をつけた指先を近づけた。その子はさっと顔の右半分を手で隠し、首をねじり、私から顔をそむけた。震えてる。まあ、報復で何塗られるか知れたもんじゃないし当然よね。


「心配しないで。ちゃんとした薬だから」


材料費があほみたいに高すぎるのがネックだが、シャイロック商会秘伝の処方箋をエセルリードが改良しただけあり、効果は抜群だ。王位継承権争いで生傷が絶えない私が珠のお肌を保てるのはこの薬のおかげだ。


「それねー、すっごい効くんだよ。金貨二十枚もするんだから」


アリサが我がことのように自慢げに胸をそらす。

女の子の肩がびくっとなった。

うん、私だってエセルリードがくれるんじゃなければ、常備薬にするのは腰がひけたと思う。


「それにスカーレット様はお人好しだから、だいじょうぶだよ。いつもアリサが泣き真似すると、最後にはなんでも言うこと聞いてくれるんだ」


あほアリサが鼻高々に語る。


おい、アリサ、後でちょっと裏庭に来てもらおうか。


女の子の目は驚きでまん丸になっていた。

おどおどする小動物を思わせた。


「そんなお高い薬、恵んでもらう理由がないですだ……それに、あたし、とってもひどいことを……」


心苦しそうに視線をおとす女の子を見て、私のお姉さん魂に火がついた。


この子、たぶん悪い子じゃない。


「女の子の顔が傷ついてるのに、ほっとけるはずがないでしょ。さ、早くその手をどけて。協力してくれると助かるんだけどな」


私はつとめてざっくばらんに振るまい、女の子の顔をなかば無理矢理こちらに向けさせた。

この手合いは押しに弱い。

生き馬の目を抜く修羅場が日常茶飯事の私は、人間観察にだけは自信がある。

そうしなければ生き残れなかった。


それにしても……と私は考えこんだ。


よく見ると、この子、ずいぶん古い時代の恰好をしている。

長袖ワンピースみたいなものに、袖なしで両脇が大きく開いた服を、すぽんと頭からかぶるように重ね着している。これってエプロンじゃないよね。前面だけでなく、背中の布地もあるし。


昔の絵画でしか見たことがないけど、たしかコットとサーコートだっけ。そういえば、修道女がするあの白布のウィンプルも、二百年ぐらい前は一般の女性もしてたんだよね……。


そう、ちょうどエリザベータ・シルヴァニアが生きていた頃の人間なら……。


まさか!! そんなね……。


私は頭を振った。

ふくれあがった恐怖を追い払った。


地方には驚くほど旧い衣装形態が残っていることがある。これもその類に違いない。


「……あなた様は、あたしのこの醜い顔、こわくないんですか……」


女の子は薬を塗る私におずおずと問いかけた。

私は、はっとなった。

思案していたため、いらぬ誤解を与えたかもしれない。


「私には戦場帰りの知り合いがたくさんいるの。顔の傷なんて慣れっこよ」


これは慰めではなく本当だ。


後見人の一人が、元王家親衛隊隊長マッツオなので、私の交友関係は、「戦場傷こそ男の勲章よ」と呵々大笑する武闘派ぞろいだ。それに私も感化されたらしく、痕を見ると他の淑女のように慄くどころか、これは槍傷、これは刀傷、これは矢傷、ほう、歴戦……と舌なめずりして鑑定するようになってしまった。なんかレディーの正道からますます遠ざかっているようで不安だ……。


それにしても、この子の傷はなんか妙だ。


顔を歪ませるほどの傷あとは、おそろしいほどの力がかかった証明だ。人間ではなく、馬とかなにかしらの重量物による事故かもしれない。そして相当古いものだ。


だけど、その上に新しい傷が浅くたくさん走ってる。これは非力な女が乗馬鞭をふるったときにできる傷だ。


「あなた、女主人か誰かに折檻されてるの?」


私の問いかけに女の子はうつむいた。


「……奥様は、ぐずぐずしてるとあたしを鞭うつだ……。だども、奥様には逆らえませんだ……。まだ子供ん頃、あたしの家族は、面白半分で貴族の馬車につっこまれただ。おっ父もおっ母もひき殺された。独りぼっちになったあたしも、こんな化物づらになっちまった。村の誰からも怪物扱いされ、飢えて何度も死にかけた。けんど、奥様は、あたしを人間としてやとってくれただ。大恩人だ。だから……」


「だからといって、女の子の顔を鞭うつ理由にはならないでしょ!!」


憤慨する私に女の子は呆然としていた。


「……こんなあたしを……みんなに化物扱いされたあたしを……女の子と言ってくださるだか……? あなた様のようなお綺麗な方が」


私はうなずいた。


私が綺麗かどうかはともかく、この子は、どっからどう見ても女の子でしょうが。多少傷ついたくらいでリンゴをリンゴと認識しない奴はバカなのだ。私よりずっと年下みたいなのに、胸のふくらみがだいぶ上だし。


うう、なんか悲しくなってきた……。


「……あたしのために涙ぐんでまでくださるだか」


いや、これはただの自己憐憫です……。


女の子はがっと私の両肩を鷲掴みにした。


「ここから逃げてくだせえ!! お願えですから、早く!! 今すぐに!! 奥様に見つかったら殺されちまうだ!! あなた様みたいな優しいお方に、家畜みてえにバラされて死んでほしくねえ!!」


血相を変えて訴える女の子に、私は目を白黒させた。


聞き逃せないほど、えらい物騒なこと言ってるんですけど!?


「あたしは……奥様に命令されて、貴族のお嬢様方をさらいにきただ!! 奥様は、乙女の血を浴びたり、皮膚をはりつけたりして、若返りの儀式をされますだ……!! でも、もう……村の娘っ子たちじゃ効果が足りないから……もっと高貴な血をって……だけど、だけど……あたしには、とてもできねえ……!!」


とんでもない告白だ。

私はアリサと顔を見合わせた。


嘘でしょ。それって、まるで……。


さすがのアリサも深刻な表情をしている。


「……うーん、スカーレット様は、女の人ばっかりにモテるから、百パーセント処女だけどさ。アリサはとっくに乙女卒業してるんだけどなあ?」


この脳天気娘が!! 

あんたの悩みはそっちか!! 

男性と縁遠くて悪うございましたね!! 

半分以上はあんたのせいでしょうが!!


っと今はアリサのボケにツッコミしてる場合じゃない。それよりもっと問題なことが……!!


「……その奥様って、まるで、伝説のエリザベータ・シルヴァニアね。笑えない冗談よ……」


私の口元はひきつっていた。

ちょっと誰か笑いとばしてよ……。

だが、次の瞬間、私は顔全体を盛大に引きつらせることになった。


「……ほう、小娘のくせに、わらわの名前を知っているとは殊勝」


ふいに尊大な声が響いた。

霧の中から、長身の中年女性が歩み出た。

足音さえしなかった。

信じられない。

勘の鋭い私が接近に気づかないなんて。

ぬうっと出し抜けに大蛇が現れたようだった。


「……ずいぶん奇抜なドレスよの。だが、質は上等だ。そなたら、外国の貴族の娘か?」


現れた長身の中年女性は、値踏みするように、私とアリサの頭からつま先まで観察した。

獲物を見おろす冷たい蛇の視線を思わせた。

割れた舌先で値踏みされているようで、ぞわりとなる。


そして、そういう彼女こそ、変ったドレスを着ていた。


私達を逃がそうとした女の子の服とよく似ているが、はるかに豪華で、足元近くまである上着の脇の切れ込みもとても深い。下半身はともかく上半身が特徴的すぎる。デコルテが広いせいで、前から見るとまるでTの字をまとっているようだ。上着の横布がほとんどない。内側のドレスの布地が、身体のラインを見せつけるように、腰下まで露出している。マントのように長い後ろ裾をひきずっていた。スカートも膨らんでいない。


これはコタルディにシュルコ・トゥベールってやつじゃない……!! 

200年前の最先端のファッションだ。


「わらわに敬称をつけなかったことは特別に見逃してやろう。なにせ今日はとても気分がよい」


上機嫌なのが不気味だ。

鷹揚にも聞こえるが、それはこちらを人間とさえ思ってないからだ。

食材に腹を立てる奴はいない。

権力と奉仕に慣れ、自分が世界の中心と信じて疑わない口ぶり。


「赤の貴族」にはたまにこういう貴族がいる。私の大嫌いなタイプだ。


だが、私は反発心も忘れ、唖然としていた。


女性の顔立ちは整っているが、病的な肌の白さだ。高い鼻と鋭い目つきは癇の強さを思わせる。その姿は、まさに私が肖像画で見た、エリザベータ・シルヴァニアそのものだった。


背筋が寒くなった。

私をはめる芝居にしては大がかりすぎる。

そんなことをする相手もいないし、必要もない。

なにより私の心の中でけたたましく警報音が鳴り響いている。

信じがたいけど、これは……!!


「ハンナ、愚図のおまえにしては上出来だこと。ふふ、これでまた私は若さと美貌を……」


うっとりと瞼を閉じる自称エリザベータの中年女性に、ハンナと呼ばれた顔傷のある女の子は、這いつくばるようにして懇願した。


「お、奥様!! おそれながら、こんなことはおやめください……!! 奥様はもう十分に美しゅうございますだ」


「黙れ!! おまえごときが大貴族の私に美を語るか!!」


エリザベータは激昂すると乗馬鞭を取り出し、ハンナの顔を滅多打ちにした。

目が吊り上がっている。


瞬間湯沸かし器か、こいつは!! 

血飛沫がとぶ。


「……すいません!! すいません!! すいまへん……!!」


ひたすら謝りながら耐えているハンナの首ががくんがくんと揺れた。こぼれる血泡のせいで語尾が不明瞭になる。まったく容赦がない。


「ねえ!! スカーレット様!! あの子、殺されちゃうよ!?」


のん気なアリサが顔色を変えるほどだった。


アリサに言われるまでもない。

大貴族だろうが亡霊だろうが、こんな凶行を見すごせるもんか……!!


私は飛び出した。

懐から愛用の鉄扇を抜き出しながら、乗馬鞭をふるうエリザベータの右大外にまわりこむ。

一気呵成に距離を詰めた。


エリザベータが眉をひそめた。

人体の構造上、素人でも自分の身体の内側への腕の振り下ろしはたやすい。だが、とっさに外側に振るにはある程度の訓練が必要だ。


まして私は鉄扇を開いたり閉じたりすることで、相手の遠近感を狂わせる術を身につけている。戦士職でないエリザベータの鞭をかいくぐるなど児戯に等しい。


私は懐に飛び込むと、開いた鉄扇を一閃し、縁の刃で乗馬鞭をたやすく両断した。

顔がぱんぱんに腫れたハンナが解放され、がくりと崩れ落ちた。死んではいないが失神していた。


私は怒りで髪が逆立ちそうになった。

エリザベータの首筋に押しつけた刃を引きそうになるのを抑えこむのに苦労した。


「……最低よ。あんたは。あの子は……ハンナは、あんたに感謝してるって言ってたのよ。それをよくも……!!」


私はよく人に裏切られる。慣れっこだ。

人の忠義がどれだけ貴重か身に沁みている。

それを踏みにじるなんて許せない……!! 


「あの子に謝りなさい……!!」


だが、エリザベータは私の憤りなどどこ吹く風だった。


「謝る? なにをじゃ。わらわが美しさを求めるのだから、他の者はすべてその犠牲になるのが当然よ。おまえもじゃ。気の強い娘。その生きのいい血潮はさぞ美味だろうて。……しもべたち!! ハンナに槍を投げよ!!」


はっとなったときには、無数の槍が霧の中から飛び出し、倒れたハンナめがけて降りそそいだ。


「……ちっ……!?」


私は歯噛みし、エリザベータを突き飛ばし、ハンナに飛びついた。


さすが伝説の吸血貴族様だ。

信じがたい暴挙をやらかしてくれる……!! 

平然と忠臣を囮にしやがったよ!!


ハンナを抱きかかえ、転がるようにして、かろうじて槍を回避する。

気絶してぐったりした人体はおそろしく重い。

一人でかわす十倍の難度だった。


あっぶな!! 何本か穂先が髪先を散らしたよ。


だが、ほっと一息つく間も、私にはなかった。


「……スカーレットさま!! たすけてぇ!!」


アリサが悲鳴をあげた。

風をきって伸びてきた鞭が、大蛇のようにアリサの胴体に巻きついたのだ。

直前に、鞭の先端を返したときの、ピシシイッというクラップ音がした。


しまった!! 侮っていた!! 


エリザベータの手に、乗馬鞭じゃなく、牛追い用のとても長い鞭があった。

五メートル以上の長さだ。あれを自在に操るなら、エリザベータは鞭の達人だ。

私を油断させ、アリサを確実に捕えるため、技量を隠していたのか!!


エリザベータは勝ち誇った表情で、アリサを引き寄せ、首筋に舌を這わせた。


「……ひゃあっ!?」


「ふふ、染み一つない。天上の絹のよう……。村娘の荒れた肌とは比較にならないわ。おまえの皮膚を全身に貼りつければ、わらわも潤いと若さを取り戻せよう。ああ、待ち遠しい」


「スカーレット様!! 助けて!! アリサ、美容パックの材料にされちゃう!!」


エリザベートに引きずられ、アリサが助けを求めながら、霧の奥に連れ去られていく。


「アリサ!!」


もちろん私だって手をこまねいて傍観していたわけではない。

すぐさまアリサのもとに駆け寄ろうとした。

だが、霧を隠れ蓑にし、いきなり鼻先に出現した矢の雨が、私の行く手を阻んだ。


「……っ!! このっ!!」


音を頼りに鉄扇で矢を叩き落とすが、断続的に空気をつんざく鞭のクラップ音のせいで、耳が痺れ、探知が思うようにいかない。エリザベータの妨害だ。だけど、このままじゃ、アリサが……!!


被弾覚悟で突っ込もうとした私は、足首を誰かに摑まれて派手に転倒した。


「……ここで戦っちゃなんねえ。……なぶり殺しにされちまう。城で暮らしてる人間じゃねえと、この霧の中じゃ、なんも見えねえだ。戦うなら城ん中にしなんせえ」


失神からさめたハンナが苦しい息をおして、顔を伝う血を拭いもせず、私に語りかけてきた。


「あなた様が追わなければ、みんな急いで城に引き返すはずですだ。あたしなら気づかれず、城にもぐりこむ道を知ってます。道案内しますだ……。奥様は儀式の用意を整えるまで、あのお嬢さんには手は出さねえです。どうか信じてくだせえ……」


腫れあがった顔の痛みをこらえ、懸命に押しとどめようとするハンナの頼みを、私はとても振り切ることはできなかった。


「……わかったよ、ありがとう。道案内をお願い。でも、どうしてここまで親切にしてくれるの?」


心の中で、アリサに少しの間だけ辛抱してもらうことを謝り、私はハンナを手当てしながら問いかけた。


ハンナはつらそうに俯いた。


「今まで何百人もの近隣の村娘たちが、騙されて城に連れてこられましただ。侍女になっていい暮らしができるって……。でも、みんな、奥様に血をしぼり取られ、皮をはがされて殺されましただ」


ハンナの目からぽたぽた涙が落ちた。


「あたしは、みんなに『騙されてるから逃げろ』って、警告しただ。でも、こんな化物の言うことなんか、誰も耳を傾けてくれねえ。あたしが昔いじめられた仕返しに嫌がらせをしてるんだろうって……。あたし、そんなつもりなんてなかったのに……」


ハンナの肩が震えていた。


「……醜いってのはそんなにいけないことだか……!? 人を助けようとすることさえ許されないくらいに……!? あたしはいっそ、人間じゃなく、虫にでも生まれたほうがよかった……!! 虫だったら、悲しみで胸が張り裂けそうになることもねえ……!! あたしは人になんか生まれたくなかった……!!」


切なすぎる叫びは悲鳴に近かった。


私はたまらなくなり、ハンナを抱きしめた。


〝……あなたは誰よりも立派な人間よ!!〟


そう大声で叫びたかった。

だけど、語りたいことが多すぎた。

言葉は喉に詰まってしまった。

出てくるのは涙ばかりだ。

私は言葉の代りにハンナの顔に頬ずりした。


ハンナの見開いた目から、あらたに涙があふれでた。


「……あたしのために……一緒に泣いてくれるだか……!! ……ああ……あったけぇ……あったけえよう……夢ならさめねえでおくれ……。……神様、ありがとうごぜえますだ……!! あたしを理解してくれる人がいた……!! あたし、あたし、もう、死んでも悔いはねぇ……」


そう声をしぼりだすと、ハンナは幼女のように大声をあげて泣いた。


美しい魂を持っているばっかりに、ハンナは孤独な悲しみに耐えてきた。

そして、いわれのない差別にあっても、その気高い優しさを失わなかった。

私はこの手の話に弱いのだ。


私達はしばらく抱き合って泣いた。


ややあって私はハンナに切り出した。


「……ねえ、ハンナ、あなたさえよかったら、ここから出て、私と一緒に来ない? 私、あなたのこと気にいったの。身の回りの世話をしてくれる人を探していたのよ。お給金はそれなりに出すし、それに友人として、あなたがつらいときには抱きしめてあげることも……」


真心のある人材は貴重だ。

裏切られまくりの私には特に……。


「私はスカーレットっていうの。あなたのことはハンナって呼べばいいのよね」


私が熱心に口説きにかかると、ハンナは恥ずかしそうに私から身を離した。


「……あなた様は、どこまで、あたしを喜ばせてくださるおつもりだか……」


ハンナは照れ臭げに頬を染め、涙をぬぐった。


「……スカーレットさま、いいお名前ですだ。あったけえお日様の色……あなた様にぴったり……。……一緒に行きてえ……もっと早くあなた様にお会いしたかった……そうしたら、あたしは……」


ハンナがとても寂しそうに笑ったのが、妙に印象に残った。


「……スカーレット様のお薬のおかげで、だいぶ傷の痛みもひきましただ。お連れ様を早くお助けせねば。手遅れになっちゃならねぇです。城に案内しますだ」


ハンナがうながす。

私はあわてて立ち上がった。


手応えはあった。

ハンナは後でゆっくり口説こう。


空気読めない娘のアリサでは、あの激情家のエリザベータの勘気をこうむり、儀式とやらの前に殺されてしまうかもしれないし。


「……あの……霧の中で、はぐれるといけねえですだ。スカーレット様がお嫌でなければ、あたしが手をひきますだ……」


「ありがとう。お願い。頼りにします」


もじもじと遠慮がちに差し出されたハンナの手を、私は笑顔で握り返そうとした。


ハンナの袖が肩口まで大きく裂けているのに気づいた。エリザベータの鞭を無意識に防ごうとしたのだろう。幸い傷はないようだが、肌が露出している。


「よかったらあげるから、これ使って」


私は肩に羽織ったショールをほどき、ハンナにかけた。


「……ありがとうございます。宝物にしますだ」


ハンナは嬉しそうにショールをにぎりしめ、顔を埋めた。


「おおげさねえ」


その明るい笑顔とまっすぐすぎる好意に、私まで赤面してしまった。


いい子だなあ。


私達は笑いあうと、手を繋いで霧の中を急いだ。

私には一寸先も見えないが、ハンナの歩みには迷いがなかった。

速足で傾斜した岩場を抜け、あっという間にヴェルデ城の巨大なシルエットの側までたどり着いた。


ハンナの警告にしたがって正解だった。


もし私一人でアリサを追っていたら、殺されるか、霧で迷ったあげくに墜落死していた。

思った以上に城の周囲には小さな崖が点在していることを教えられ、私は自分の幸運に感謝した。この霧と地形こそ、ヴェルデ城が難攻不落と言われた理由の一つだったのだ。


城への抜け道は、丘にトンネルを掘ってつくられた氷室用の中にあった。


もう長いこと使っていないそうで、灌木におおわれていた。はじめから場所を知っていないと、入り口さえ見つけるのは容易ではないだろう。元氷室だけあって、中は鍾乳洞のようにひんやりしていた。じめじめした粗末なレンガ造りの通路をおっかなびっくりで進む。


濃密さを感じるほど闇が深い。

水滴の落ちる音がいやに響く。

もしこのまま生き埋めになったらと思うと、柄にもなく身がすくんだ。


私を勇気づけるように、ハンナがぎゅっと手を握ってきた。灯りなどないが、霧の中同様、暗闇でもハンナの足どりは確実だった。


通路の出口は、城の中庭にある風車小屋の真下だった。


周囲の様子を窺い、人がいないのを確認し、私達は通路から這い出した。

二人ともワラ屑まみれでひどいことになっていた。灰かぶりでなく、ワラかぶりだ。


おかしくって、私たちは声を殺してくすくす笑うと、互いの手の届かないところについたワラ屑を取りあった。いつも掃除しているであろう城の内部にワラ屑など落としては、侵入がばれてしまう。


忍び足で礼拝堂に向かう私たちに、突然、複数の黒い影が猛然と襲いかかってきた。


それが番犬だと気づき、私は青ざめた。


鼻面にしわが寄り、牙がむきだしだ。

噛み癖のある犬でもたいていは人に手加減する。

彼らは集団生活をする獣だからだ。

だが、城の番犬は抑制のリミッターが解除されている。吠えもしないで急迫してくる。

威嚇する手間なんかかける気がないのだ。


本気の殺意をこめた犬の牙は、肉をつらぬき骨まで届く。ちんぴらよりはるかに手強く、瞬殺はむずかしい。なんとか制圧はできても、確実に騒ぎで侵入に気づかれる!!


「……スカーレット様、あたしにおまかせくだせえ」


せめて先手必勝を期そうと踏みだした私をハンナが止めた。


ちょちょちょっというふうに軽く舌を鳴らし、かがんで両手を広げると、驚くべきことに番犬たちは尾をちぎれんばかりに振り、ハンナにまとわりついた。


「……あたし、人にはろくに話してもらえなかったから、よくこの子達に相手してもらってたですだ。まさか誰かのお役に立つ日が来るなんて……」


なごりおしげに去って行く犬達を見送りながら、ハンナが苦笑した。私は黙って、この頼り甲斐のある新たな友人を抱きしめた。


私はヴェンテ城を見上げた。

この中のどこかにアリサが捕えられている。

きっと、恐怖に震えながらも、バカみたいに私を信じ、助けを待っているんだろう。

あの子は、いつもいつもそうだ。

まったく勝手なんだから、あのあほ娘は。

そんなことされたら、信頼を裏切るわけにはいかないじゃない。


アリサ、待っててね!! 今すぐ行くから!!

余計なこと口走らないで、おとなしくしていてよ!!

もし、私を泣かすようなことになったら、絶対に許さないんだから!!

だから……どうか無事でいて……!!

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