第51話 108回のアリサとスカーレット。女王と救国の乙女。悪意は燎原の火のように。

暖炉で薪がぱちぱちと燃える。

いつの間にか夜は更けていた。


「……長かった。これで、私は今日から、女王に……」


二階の自室に戻って一人になった私は、壁にとんっと背中をあずけ、天井を仰ぎ、小さく息をついた。


ついさっきハイドランジア議会のお偉方たちが、この公爵邸に集まり、臨時会議を開いた。会議は紛糾したが、私はそこでようやく女王即位を認められたのだ。まだ皆のざわめきが無人の広間に残っているかのようだ。意識しなかったが、思ったよりもずっと長く会議の時間は続いたのだ。


私の足が今になって震えてきたのは緊張の糸が切れたからだ。会議中はずっと気を張っていた。味方になる議員と敵になる議員を見極める必要があった。いや会議中だけではなく、今までもずっとそうだった。常に命懸けの戦いの連続で、気の休まる間などなかった。


「……駄目よ、スカーレット。戦いはまだこれからなのだから」


私は自らに言い聞かせ、唇をかみしめた。拳を握り、こめかみをぐりぐりとし、気合を入れる。

こんなことではいけない。気を引き締めなきゃ。一か月後の戴冠式も終わっていないのに気を緩めるなんて話にもならない。私の女王としての道のりはまだ始まってさえいないんだ。


……それでも今までの歩みを振り返れば、感傷的にもなる。


長い、あまりに過酷な王位継承候補者争いだった。血と謀略が日常茶飯事だった。毎日のように暗殺を仕掛けられた。未遂を入れればその数は百を超えた。私の珍しい容姿を利用しようとし、四大国の四王子がことあるごとに私を拉致しようとした。さらえないのなら私を殺してもかまわないという乱暴な命令を受けた部下たちは、ときに刺客に早変わりした。何度命の危機にさらされたことか。ここまで無事に生き残れたことだけでも奇跡だ。まして女王の栄冠を手にするなど……。


伝説の真祖帝と同じ紅い瞳と赤髪をもつ私は、特例により、王族に次ぐハイドランジア王位継承権を得ていた。それでも私の王位継承順位は一桁台でさえなかったのだ。分が悪すぎるスタートだった。


ハイドランジアの英雄であった私のお父様、「紅の公爵」が存命ならまだ話は別だったが、残念ながらお父様は私が少女時分に、雪崩に巻き込まれて、お亡くなりになってしまった。本当に苦しい道のりだった。

「……お父様、私、女王陛下になれました……一目だけでも、見せてあげたかった……」


大好きだったお父様……私が女王になったことを知ったら、どんなに喜ばれたことだろう。きっと私の脇に両手をお入れになって、少女時代にそうしてくれたようにご自身の頭上に差し上げ、その場でくるくると回ったことだろう。


「さすがはスカーレットだ。誰よりも自慢のぼくたちの娘……君は、ルビーの名の通り光輝くぼくの最高の宝物だ」と私を褒めてくれた懐かしい声が脳裏によみがえる。


外では澄ましていたが、二人きりのときのお父様は、親馬鹿ぶりを隠そうともしなかった。

頭を撫でてくれたあたたかい手、静かな深い声、私は……ひとときも忘れたことがない。忘れられる

ものか。突然奪われたあの幸せな日々を。


鼻の奥がつんとした。

お父様を失ったときの悲しみを思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。

訃報を知らされた時、私は悲痛で気を失った。後を追って死のうと何度も思った。お父様は、幼い私の世界のほとんどすべてだったのだ。


とても優しく凛々しかった私の自慢のお父様……お父様と同じ紅い瞳と赤髪は、私の誇りだった。娘として理想の父親だった。亡くなったお母様だけを一途に愛し続け、どんなに周囲に勧められてもついに後添いは取らなかった。私たち親子三人はずっと一緒だと、他に家族はいらないと、そう断言し、男手ひとつで私を育て上げてくれた。私のことを、ぼくの小さなレディと呼び、私が独り立ちするまでは、魂と命にかけて私を守ると、お母様のお墓の前で誓ってくれた。今まで私が奇跡的に生き延びられたのは、きっとその言葉のとおり、死してなお、お父様の魂が私を守ってくれていたのだろう。


「ねえ、お父様……私、これでもう一人前だよね。だから、安心して、天国のお母様のところに行ってあげて。私は……もう大丈夫だから」


お父様はずっとお母様のところに逝きたがっていた。私のことも同じくらい大切に思ってくれていたから、思いとどまっていただけだ。亡くなられた日だって、恒例のお母様のお墓参りに行っていた。いつも、生きている人にするように、優しくお墓に語りかけていた。


私は姿見に映った自分を見た。同年代に比べると小柄だが、お父様のダンスのパートナーはつとめられるだろう。お父様は私が十歳になる前に亡くなられたので、ままごとのような踊りの真似事につきあってもらったことしかない。私がデビュタントする日を心待ちにされていた。


「ぼくはダンスが苦手だからね。でも愛娘と踊れるというのなら、恥のひとつぐらいかくのも悪くはない」、そう笑っていた。一番最初に私のパートナ―をつとめるというのが口癖だった。


実際は、お父様は誰もが見惚れるダンスの名手だったと、私がある舞踏会で教えられたのは、お父様が亡くなられた後のことだった。。お母様が亡くなってから、二人の思い出としてダンスを封印したのだ。誰にも思い出に触れせないように……。


ただ一人、私だけがお父様の大切な思い出に触れていい特別だった。お父様は、お母様と私をどこまでも愛してくれた。その舞踏会を早々に辞し、帰りの馬車の中で、私は声を押し殺して泣いた。


……私は屈み、予備の薪を暖炉にくべた。

炎の色はお父様の瞳と髪の色、私たちをつなぐ色だ。

壁奥に取り付けられた暖炉の炎の照り返しが、部屋にできた影を揺らす。

暖炉の開口部をくるりと囲む大理石の飾り枠が、新雪のように白く輝いていた。


私はしばらく、ぱちぱちと燃える炎を見つめたあと、立ち上がった。

張り出した炉棚の上に置いてある薔薇の造花に、手を伸ばしそっと胸に抱き寄せる。

赤いガラスの花びら、真鍮の葉と茎はまるで生きているかのように見事な細工だ。

……お父様の遺品だ。


雪崩にのみこまれたお父様は遺体さえ見つからなかった。

現地に飛んだエセルリードが必死に探し回り、やっと見つけ出してくれたのが、この造花だった。お父様が私への誕生プレゼントとして用意してくれていたものだった。地形を変えるほどの大雪崩だったのに、脆い細工物のこの花だけが壊れもせず、奇跡的に私の手元に届いた。


「……このちいさな花には、あなたに生きてほしいという御父上の願いがこめられています。御父上はあの雪崩の中、必死にこの花を守られた。今まであなたを守ってこられたように。……愛する人を失ったつらい気持ちは、俺にもよくわかります。ですが、お願いです。御父上のあなたへの想いを、無駄にだけはしないでください」


花を手渡してくれたエセルリードはそう諭してくれた。

私に花を渡すとき、彼の指は震えていた。彼の目はまっかだった。


お父様とエセルリードは盟友に近い間柄だった。それでも、娘の私がお父様の形見を手にするまでは、自分は涙をこぼせない、律儀な彼はそう思い、大きな背中を震わせ哀しみに耐えていた。


私は、その場に泣き崩れた。


お父様は最後まで私を心配してくれていた、愛してくれていた。

その記憶は、くじけそうになったとき、私を何度も救ってくれた。

私は再び女王即位めざして歩き出した。


エセルリードもマッツオも私をいつも支えてくれた。

二人ともお父様が私に遺してくださったかけがえのない人たちだ。


「……お父様、今までありがとう……私は、これからは女王として歩いていくから、国のために生きるから……もう自分のためだけに泣くことはできません……だけど、今夜だけは、お父様のただの娘として泣かせてね……」


私はガラスの薔薇を抱きしめて嗚咽した。


感謝しています。大好きでした。あなたの娘として生まれて本当によかった。

だから、今だけは、あなたの愛に包まれていた少女の頃の気持ちで……幸せに満ちていたあのときに戻って……お父様に抱きあげられていた思い出の中で……泣かせてもらっていいですか……!!


「……スカーレットさまあ!! 女王さまになって、おめでとうっ!! とおっ!!」


鼻にかかった甘い掛け声とともに、金髪とブルーのドレスが真正面から飛びついてきた。

むにゅうっとやわらかい双丘が押しつけられる。


「……オアアアッ!?」


感傷にひたっていた私は、まともに不意打ちをくらい、少女の頃どころか赤子のときのような奇声をあげた。体勢を崩され、尻もちをつきそうになり、両手をふりまわし、二人分の重量にたえる。


お父様の形見のガラスの薔薇が手から滑った。

私は悲鳴をあげたが、ガラスの薔薇は、私に抱きついてきたアホ娘の胸の谷間に、ホールインワンよろしく、すぽんっと挟まって停止した。


バカな、そんなことが可能だと!? これは人類の革新か!? 

私は自分の胸に目を落とし、格差に愕然とした。ちょっと神様、解せぬのです……!!


「あ、アリサ!! あんた、どうして……」


「ほえ?」


私におっぱいを押しつけ、上目遣いの蒼い瞳が、きょとんとして私を見上げている。

うん、神出鬼没で本能のままに生きるあほの子に問うだけ無駄だ。

理性という言葉が辞書にないのだから。


私はため息をつき、アリサの双丘の間にずぼっと手を差し込み、大切なお父様の形見を取り戻そうとした。私の思い出の品が、あほ娘のおっぱい圧で粉砕されては、泣くに泣けない。


「スカーレットさまったら、いきなりおっぱいタッチなんて……えへへ、せっかちなんだから。先っちょは優しくさわってね」


こんにゃろ、いっそつねってやろうかしら。

いや、こいつの言うことは聞こえないふりをするのが賢明だ。

こら!! 嬉しそうに身をくねらすな。

げっ!! おっぱいプレスで手がぬけない!! 

こいつ、言葉を無視したら、ボディランゲージに切り替えやがった。


あわてておっぱい魔境からガラスの花をとりもどした私の指に、ピンクの細縄がからまっていた。


「なに、これ……」

不吉な予感しかしない。


「……えへっ、いっけなあい。アリサ、おっぱいにいろんなもの入れて持ってきたの忘れてた」


とアリサは胸の隙間に手を入れ、するすると絹製の縄を取り出した。続いて鞭も……。他にももろもろ……。なんなの、この卑猥なマジックショーは……。


呆然と立ち尽くす私の胸に、アリサはちらりと目をやり、ぺこりと頭を下げた。


「スカーレットさま、かわいそう……ごめんなさい」


今日はまたストレートだな、おい……!! 私の闘争本能に火がついた。


「……そんなに、おっぱいがいっぱいなのが偉いの!! 劣敗なちっぱいで悪かったね!! どうせ私の胸は、神様の大失敗作よ!!」


同情するなら胸をくれ!!

怒りの早口シャウトをかまし、私はため息をついた。

自分でもなに言ってるのかわからなくなってきた。

頭がちかちかしてくる。アリサと会話すると私の知能指数はいつも下降線をたどる。

女王即位決定後に、あほ娘とおっぱいがらみの頭の悪い口喧嘩……私の女王道、しょっぱなからケチつきまくってるんですけど……。


「……あのね、いいこと教えてあげる。いらいらするときは、女の子をぎゅっとすると落ちつくんだよ。スカーレットさまになら、アリサ、なにされてもいいよ。思いきって……縛りプレイする?」


アリサが私に密着したまま、耳に顔を寄せ、睦言のようにささやく。


……私も一応女の子の一員なんですけど。

そして、なんで縛りプレイにもってくの。


私は暖炉の炉棚の上に、ガラスの薔薇をそっと戻し、ため息をついた。よし、これで自由に両手をが使える。


「……縛っていいのね。じゃあ、アリサ、しばらくじっとして目を閉じててね」


「……はい……むちゅーっ……」


なにを勘違いしたのか、瞼を閉じ、唇を突き出したアリサを無視し、その身体を縄でぐるぐる巻きにした。ついでにアリサの胸の谷間に、あやしいエログッズをねじこんだ。闇から生まれしものは闇に、おっぱいから生まれしものは、おっぱいに還すのだ。


「やん、目隠しプレイして、アリサの中に、いろんなもの突っ込むなんて……!! スカーレットさまが女王さまにめざめちゃった……!!」


そっち方面の女王さまに、私を勝手に即位させるな。

あー、だから縛りプレイだったのか。

なるほど。これは気がつかなかった。こんのあほ娘が……!!


私は、勘違いして、頬を上気させて息を荒げているアリサを突き飛ばし、長椅子の上に転がした。

こんな危険生物、私の私室で放し飼いにしておけない。かつて私の留守中に部屋にあがりこみ、箪笥から私の下着という下着を引っ張り出し、バスタブの中でパンツ浴を楽しんでいたド変態な前科持ちなのだ。私が発見したときは、せっせと下着で乾布摩擦に励んでいた。ほんとうは縄でなく、鎖でがんじがらめにして深海に沈めたいくらいだ。


「アリサ……縛られて、転がされて、これから女王スカーレットさまにむちゃくちゃにされちゃうんだ……!! あんなことや、そんなことや……もしかして、こんなことまで……!! あ、よだれが……」


恍惚としたアリサのたわごとは、目を閉じてぐるぐる巻きにしても止められなかった。

しまった、口にも猿轡をかますべきだったか。


もっとも、奴の言動にいちいち目くじら立てていたら、身体と堪忍袋がいくつあっても足りないとわかっている。あんなことやそんなことも、本当はもっと際どい台詞なのを、私の脳内で無難な言葉に翻訳し直している。


……この能天気娘の名前は、アリサ・ディアンマディ・ノエル・フォンティーヌ。


ひとことで表すなら、超絶美少女にして、超絶あほ娘だ。

ド級の災厄とエロとからっぽ頭に、何を間違ってか神様が冗談みたいな美少女の殻をかぶせてしまった子爵令嬢である。男がらみでいつもトラブルを起こしては、私のところに泣きついてくる。それもオール刃傷沙汰レベルの代物だ。巻き込まれて私が殺されかけたのは一度や二度ではない。なのに、アリサ本人は、美貌と豪運にステータスを全割り振りしていて、常に無傷で切り抜けてしまう。無意識に危機回避してしまうので、あとのことや周囲のことなど何も考えない。たいてい隣にいる私ばかりがひどい目に遭い、戦後処理に奔走することになる。なんたる不平等条約……。


当然、私も奴との縁を切りたくて仕方ない。

アリサに関わるとろくなことがない。

だけど、アリサは私に影のようにまとわりついてくる。危険物なのと、あほすぎるので他の令嬢に相手されないんだ……。しかたないので面倒見てたら、いつの間にか妙に懐かれてしまった。しかも、ただ懐くのではなく、私の貞操をしストーカーのように執拗に狙ってくるおまけつきだ。夢は私のお嫁さんという、恐怖の爆弾娘なのだ。


武勇をもってして鳴るフォンティーヌ子爵家に、どうしてこんなとんでも変態令嬢が生まれたのか不思議でならない。武門の家柄ゆえ、殺してきた敵の呪いでもかけられているのかもしれない。娘の不始末で東奔西走し、全方位にぺこぺこ謝り倒すフォンティーヌ卿を見ると、気の毒で涙が出てくる。


アリサはぞっとするほどの美貌の持ち主だが、言動がぶっとびすぎていて、いまだに嫁の貰い手がない。男連中と浮名は流しまくっているが、誰も本気では娶ろうとしないのだ。


「あんたね、そんなことばっかり言ってるから、結婚できないんだよ。せっかく可愛いのに勿体ない」


「……かわいい!? スカーレットさま、アリサのことかわいいって言った。これはもう愛の告白だよね。プロポーズだよね。アリサ、スカーレットさまのお嫁さんになる。式はいつする? アリサもスカーレットさまのことが大好きだよ。嬉しくって、蝶に孵化して飛んじゃいそう」


がばっと上体を起こしたアリサは、目をきらきらさせた。


そのまま星空の彼方に飛び去ってくれ。

恋愛宇宙人か、こいつは。話がまったく噛み合わない。

そもそもドレス着て、さらに縛られているのに、なんでそんなポーズ取れるの?

どういう腹筋してるんだろ。


常々疑問に思っているのだが、私たち貴族の着ているドレスはコルセット、パニエといった骨組みが内側にあり、その上にペチコートやらスカートやらローブやらまとっている。結構がちがちに固まった服装で、気軽に動き回れるはずがない。なのにアリサはノミのように飛んだり跳ねたりする。まさかギャグキャラ補正というやつじゃないでしょうね……。


「……孵化じゃなくて羽化でしょ。孵化は卵から孵ること。永久に幼虫のままのたくってなさい」


「はあい。スカーレットさまあ、赤ちゃんアリサにお乳くださいな」


縛られたままのイモムシ状態で、長椅子の上でぴょんぴょんするアリサに、私は嘆息した。


そんな堂々とした乳の赤子がいるか!! 

ゆれる乳を見せびらかすな。

富める者が貧しき物から搾取しようとするんじゃない!!


……こほん、貴族夫人になるということは、領の女主人になるということだ。いくら人形のように綺麗でも、人形に屋敷をまかせることは出来ない。


仮に屋敷のことは優秀な執事がなんとかしてくれるとしても、上流階級同士で交友を結び、彼らを招待しての饗宴を取り仕切ることは、夫人にしかできない役目だ。そこは身分が下の執事の踏み込めない領域だからだ。女主人は、マナー、料理、力関係を考慮しての席順の設定、最低でも諸事に二流以上には通じていないといけない。


だが、残念ながら、アリサは特A級の美貌とダンスをのぞけば、すべてが三流以下だ。

貴族同士の結婚を終着点とするのなら、どう考えても恋のハッピーエンドにはならな……


「……えへへ、今夜はスカーレットさまが女王になったお祝い記念日だもん。アリサ、がんばってスカーレットさまを天国に連れてってあげる。アリサ、夜のおつとめ、すっごい上手なんだよ。男の人、みーんな腰が抜けちゃうんだから……」


アリサが後ろから私にしなだれかかり、ふうっと首筋に息を吹きかけてくる。


「……ほぎゃあああっ!?」


私は悲鳴をあげて震え上がった。恐怖で腰が抜けそうになった


拘束してたはずなのに、いつの間にか縄抜けしてる!? 

どうして!? 脱皮でもしたのか!? あんたは!!  


アリサのせいで、私のほうこそバッドエンドに突き進んでいる気がする。


「……アリサね、スカーレットさまのベッドにいろいろ運び込んで、初夜モードにセットしといたんだ……。忘れられない夜にしようね」


不吉なささやきにあわてて寝室に駆け込んだ私は立ちすくんだ。


寝室の中心には、私のお気に入りの天蓋付きベッドがある。天然の木目の美しさと年月が醸し出す風格は、私の自慢だ。そこに金粉入りの胡粉がぬりたくられ、きらきらと下品に光っていた。まるで悪趣味な金粉ショーだ。


四隅の柱にはピンクのリボンがくくられ、森の蜘蛛の巣のようにあちこちで交差している。カーテンはすべてレースとフリルびしばしなものに変えられ、まるで巨大なおパンツがぶら下がっているようだ。吐き気のするような乙女趣味だ。


「……見て見て!! お揃いだよ」


アリサがスカートをたくしあげ、自分の下着と同じデザインであることをアピールする。


私にあんたのパンツに包まれて眠れっての!?

私は唖然を通り越して愕然となった。


さらにベッドの上には、タキシードとウェディングドレスの巨大な熊のぬいぐるみが、寄り添って座っていた。ずっと前にアリサの寝室で見せられたおそろしい光景だ。タキシードの熊には赤髪の、ウェディングドレスの熊には金髪のかつらがかぶせられていた。言うまでもなく、私とアリサを模しているのだ。さらにおぞましいことに、二頭の間にはベビーバスケットがあり、数頭のベビー服の子熊のぬいぐるみが詰め込まれていた。熊の家族だけで野球チームがつくれそうだ。


ベッドルームテーブルにはあやしげ色合いの強壮剤の瓶があり、ハート型のアベックストローが突っ込んであった。もちろん枕は二つ用意されている。裏表ともにイエスのみ刺繍されていた。子づくりに懸ける確固たる決意表明だった。


「……あ、仲良しポーズさせるの忘れてた」


いそいそとカップル熊を折り重ねたアリサの金髪頭を、私は扇子で引っぱたいた。


なにが仲良しポーズだ!! 

どう見ても体位じゃないの!! 

人のベッド上で生殖行為を再現するな!!


「……アリサ!! 私が下で議員連中と必死に渡り合っている間に、こんなもの用意してたの!? そもそもなんで、この部屋に普通に出入りできてんのよ!?」


仮にも女王に即位した私の屋敷と寝室にフリーパスなんて、いくらなんでもおかしいでしょ!! 

この家のセキュリティどうなってんの!? 納得いかぬ!!


私は堪えきれず、とうとう悲痛な金切り声をあげた。


「えへ、スカーレットさまの恋人のアリサが来ましたよーって言ったら、みんな黙って通してくれたよ? 不思議だねえ」


アリサは能天気に小首を傾げる。

私は開いた口がふさがらなかった。こいつ、あほ娘のくせに私の権威を逆手に取りやがった。四六時中私につきまとっているアリサは、傍から見ると恋人と誤認されていたらしい、ショックだ。だが、立ちすくんでいるだけでは、状況は好転しない。前へ、一歩でも前へ。私は女王になるのだから。


「……わああん!! アリサ、せっかく一生懸命、スカーレットさまに天国を味わってもらおうと用意したのにい」


いや、これ天国じゃなくて色欲地獄だから。

泣き叫ぶアリサを押しのけ、麻袋にぬいぐるみ一家を押し込んだ。無理に詰め込んだので、もこもこ不気味にふくらみ、死体でも入っているかのようだ。私、深夜になにやってるんだろう。考えてみれば、女王即位してのはじめての仕事が、このエログッズの片づけということになる。不穏すぎる門出だった。


ごめんなさい、お父様。やっぱりもう少し見守っていただいてもいいですか……。


私は天国に向かうはずだったお父様を必死で心の中でひきとめ、見守り続行をお願いしつつ、ベッドまわりを復旧した。木材部分に丹念にぬりこまれた金粉だけは除去できなかったが、これは後日にプロに任せるしかない。おそらく洗いに近いことをしたうえ、下処理と蜜蝋の塗り直しだ。しばらくは寝室は使えまい。女王就任しょっぱなから、私の安眠権は風前の灯に追い込まれた。


「アリサ、あんたね……!!」


後始末が一段落した私は、だんだん腹が立ってきた。私は議会の老人たちと論戦してへとへとなのだ。一刻も早く眠りにつきたいのに、なんでこんな理不尽かつ無駄な労力を割かねばならないのか。


「……スカーレットさま、ひどい!! アリサは!! アリサは……スカーレットさまが女王さまになっても!! このお屋敷から去っても!! せめて、アリサのこと忘れないでいてくれるようにって、思い出いっぱい作りたかっただけなのに!!」


憎むべき当の犯人はへたりこみ、床を叩いて号泣している。

私はだんだん気の毒になってきた。

アリサの言わんとしていることがわかったからだ。


女王になった私は近い将来、ここを引き払い、王宮に居を移す。そうなれば今までのように気軽に私のもとには遊びに来られなくなる。女王業務に忙殺され、アリサと顔を合わせることすら難しくなるだろう。

アリサは、私に忘れられるかもしれないと怖くなったのだ。


「……バカね。アリサみたいなあほ娘、忘れようったって、忘れられるわけないじゃない……」


私は身を屈め、鼻をまっかにしたアリサの涙を拭った。

やり方は無茶苦茶で、迷惑千万どころか億兆だが、それでもアリサの私を好きという気持ちは本物だ。


こいつも大概だが、私だってアリサに負けず劣らずトラブルメーカーだ。常にダース以上の人間が私を亡き者にしたがっている。いつも私にくっついてくるアリサは、何度も私の巻き添えで危険な目にあっている。普通の神経の持ち主なら耐えられない。現に、私と交友を結ぼうと近寄ってきた人たちは、私につきまとう危険が洒落にならないことを知ると、ほぼ全員が私から遠ざかっていった。

なのに、アリサだけは、いつまでもたっても私のそばから離れていかない。何度殺されかけても、満面の笑顔で私にとびついてくる。もう十年以上もだ。


急にアリサへの愛おしさがこみあげてきて、私はアリサを抱きしめた。アリサが私の背中におそるおそる手をまわしてたずねてくる。


「……ほんと!? ……ほんとにアリサのこと、忘れないでいてくれる!?」


私はため息をついた。


「あんたね、私をあれだけひどい目に遭わせておいて、忘れてもらおうなんて虫が良すぎるのよ。心配しなくても、たぶん死ぬまで忘れないよ……」


「……ズガ―……レッド……ざまぁ……!!」


あとは言葉にならず、私にしがみついて、わんわん泣くアリサの背中と髪を、私はそっと撫でた。


……なんで、あんたは、私なんかをこんなに好きでいてくれるんだろうね。

ほんとに、バカなんだから。

もし、私が男なら、あんたを引き取って、一生の間くらいは面倒みてあげてもいいけど、私は女だもの。だから、早くいい良人を見つけて、身を固めなさい。私はね、あんたのことすっごく迷惑に思ってるけど、同じくらい幸せになってほしいって願ってるの。


「……ねえ、アリサ、私になにかしてほしいことはある?」


私は一瞬ためらったあと決意し、アリサに語りかけた。


もし、一線を越えるような願いごとでも、私に我慢できる範囲ならば、叶えるつもりだった。庇護者であるお父様やマッツオ、エセルリードをのぞけば、アリサほど私を一途に愛してくれた人間はいない。最後くらい、その気持ちに応えてあげたくなったのだ。


だが、アリサは予想に反し、性的な願いはしなかった。いつもとは別人のような真剣な表情でじっと私を見つめた後、


「……じゃあ、膝枕して。そのまま少しの間でいいから、私とお話しして」


とうつむき、ぼそっと呟いた。

一世一代の覚悟を決めていた私は、思いっきり拍子抜けした。多分ぽかんと間が抜けた顔をしていたろう。処女である私にとっては、清水の舞台から飛び降りるほど勇気がいったのだ。

……だから、アリサが「私」と口にしたことに気がつかなかった。


「ほんとに膝枕でいいのね?」


聞き間違いかと疑い、私は念押ししたが、アリサはこくんと肯いた。


「……ちょっ、ちょっと待ってね。準備するから……」


さすがにこの膨らんだスカートのドレスのままでは、膝枕はできない。

私はローブとスカートの裾を大きくたくしあげて、服についているボタンでとめ、ずれ落ちないようにした。スカートの膨らみをなくしたとき、布が床に垂れるので、ひきずらないようにするためだ。後ろ腰に手をまわし、ドレスを膨らませている内側の骨組み、パニエをはずす。本来貴族令嬢のドレスは気軽に着脱できる構造ではないが、以前レディースメイドに化けた刺客に襲われたことに懲りて以来、私のドレスは自分一人で身に着けられるように改造している。紐ではなく、出回り出したボタンを多用しているのだ。スカートを激しく振り、足元にパニエを落とす。


な、なんか恥ずかしいな……。


「……はい、どうぞ……」


仮眠用も兼ねた長いソファの端に私は腰をおろし、膝を叩いてアリサをうながした。


「……あはっ、ありがとう……」


アリサは唇の両端をつりあげた。

私はぞくっとした。

あれ、この子、こんな笑い方をしたっけ? 今、なんだか怖くなかった?


アリサは滑るように私の隣に横座りすると、ソファに横たわり私の膝に頭をのせた。動作の要所要所で裾をさばいたので、ドレスにはしわ一つ寄っていない。アリサのスカートもパニエで膨らませているはずなのだが、横になることの妨げにはならず、うまく膨らみの形を変えていた。ハイドランジアではあまり一般的ではないが、よく撓る良質の竹で骨組みを作っているのだろう。頭をのせる直前に金髪を片側に寄せるためにかきあげた。形のいいうなじの白さが目を射た。


私は呆気に取られ、目をこすった。


ただソファに横になっただけなのに、私が見惚れるほど、すべての所作が流麗だった。なにより華がある。まるでひとつながりのダンスのようだ。いつものぽんこつアリサとは思えない。


おかしい。私、疲れすぎなんだろうか。アリサにどぎまぎするなんて……。


アリサもいつものようにきゃあきゃあ能天気に喋りかけてくればいいのに、変に押し黙ったままなものだから、余計に調子が狂うのだ。


「……もうっ!! ちょっと、アリサなんかしゃべってよ。女同士でずーっと無言で膝枕なんて、気まずいじゃない。まさか私の匂い嗅ぐのに夢中だとかじゃないでしょうね。あはははー……」


私は笑い話に持ち込もうとしたが、アリサは黙ったままだ。


「あはは、あは……あはは……」


私の空笑いは、アリサの沈黙の前に尻すぼみに消えた。


……や、やめてよお!! これじゃ、私が自意識過剰のバカ女みたいじゃない!!


豊かな金髪に隠れ、静かに横たわるアリサの表情は見えない。


「……アリ……サ……?」


私は急に背筋が寒くなり怖くなった。


まったくアリサらしくないアリサ。私が膝枕しているのは、本当にアリサなのだろうか。

実は闇から現れた得体のしれない何かがアリサに成りすまし、金髪の向こうがわでほくそ笑んでいるのではないか。本物のアリサはこいつに食われてしまったのではないか。


そんな奇怪な妄想に不意に取りつかれ、私は緊張で喉の渇きを覚えた。夜の闇と二人きりの空間が、私の想像力を嫌な方向にかきたてる。

私は身を屈め、アリサの顔をのぞきこみたい誘惑にかられた。


今でも思う。もし、このとき、アリサの表情をすぐに見ていれば……私は何かに気づくことができたのだろうか。今となってはわからない。すぐに沈黙は破れたからだ。


私が逡巡している間に、アリサはかすかに身じろぎし、言葉を発した。


「……ずっと、このときが続けばいいのに。時間なんて流れなければいいのに……」


アリサらしからぬ物憂げな響きだった。

それでも私はアリサの声が聴けたことで安堵し、アリサの髪をなでた。


「バカね。アリサ、時間が流れなかったら、哀しみも生まれないけど、喜びも生まれないんだよ」


私はアリサと二人の思い出話をした。


ほとんど私が語り、アリサはうなずくだけだったが、懐かしい気持ちでいっぱいになった。私の青春時代は、ずっと女王をめざす過酷な戦いの連続で塗りつぶされた。常に気を張り、理想の私であろうとした。


けれど、アリサといるときだけは、この子に振り回されてぎゃーぎゃー叫んでいるときだけは、私は短気で気分屋の素の私でいることができたのだ。


「……あんたとどたばた過ごした時間は、大迷惑だったけど、けっこう楽しかったよ。女王になっても、私、あんたのことは忘れない。だから、あんたも私のことを忘れないで。今までありがとう」


ひとしきり話したあとの私の言葉に、アリサは答えなかった。安らかな寝息が聞こえる。


あどけない寝顔は幼女のようで、私はほほえましい気持ちになった。もし妹がいたとしたらこんな気分になるのかもしれない。私とアリサは同い年にして同日同刻の生まれなので、その場合、双子の姉妹ということになる。


……こんな手のかかる問題児と双子……やっぱり御免こうむろう。


私はくすっと笑った。


まったく、あんたにどれだけ迷惑かけられたことか。なのにバカの一つ覚えみたいに、私のこと好き好き言ってくるから、とうとう縁を切るタイミングを逃しちゃったじゃない。このあほ娘が。


「……ばかアリサ……私がいなくなったら、ちゃんと自分のことは自分でやれるようになりなさいよ。でなきゃ、私、あんたのことが心配で、おちおち女王業もやってられないじゃない……。がんばって幸せになるのよ。応援してるから。……ばいばい、アリサ……」


私は背もたれから起こした上体を屈め、アリサの頬にそっと感謝と祝福のキスをした。

やはり疲れていたのだろう。

アリサが眠りにおちてすぐに私も睡魔に襲われた。


こくりと首が傾いた私は、アリサの頭が私の膝から落ちないよう深くソファに腰かけ直した。

背もたれのてっぺんにぼんのくぼを載せ、頭の重さを支えた。いささか品位に欠ける姿勢だが、安定性はばつぐんだ。どうせ誰も見ていないからいいのだ。見てくれよりも機能重視。


そうだ。私が女王になったからには、王宮のあの無駄な装飾部分ももう少し改良して……。あの居間のシャンデリアは、思い切って常に扉を開け放てば、別に蝋燭をともさなくても、光量は足りるのではないか。それから……。


いろいろと思索しはじめた私の意識は、しかし眠気には抗えず、考えがまとまる前に、ぷつりと途絶えた。


……だから、気がつかなかったのだ。


私が眠ってしばらくしてから、アリサが影のように音もなく起き上がったことに。


「……あはあっ、スカーレット、あなたと過ごした少女時代、私も堪能させてもらったわ。あなたはとても凛々しく勇敢だった。自分自身のことならば、どんな苦難も乗り越えられる人だわ。……でも、かわいがっていた妹のような『アリサ』に、自ら死刑宣告をする試練ならどうかしら。優しいあなたは、自分が殺されるよりもずっと苦しむことでしょう。ふふ、あなたは誰よりも悲しく孤高な女王にならなくてはいけない。私が手助けしてあげる。そして国民に裏切られ、むくわれることなく人生を終えるの」


アリサは優雅に身を屈め、眠る私に唇を重ねた。


「……これが、私からあなたへの宣戦布告。さあ、第二部の悲劇の幕を開けましょう。〈救国の乙女〉の私と〈悪の女王〉のあなた。光は闇、闇は光……ふふ、真実に気づく人間はどれほどいるかしら。ばいばい、スカーレット、世界で一番、愛しくて憎らしい人。次は地獄で会いましょう。あははっ……!!」


そしてアリサは口元を三日月の形につりあげ、毒蛇のようにしめやかに部屋を出て行った。

         

           ◇


その襲撃者たちは徹底的に不運だった。


議員たちの馬車が公爵邸を出ていくのを確認し、黒装束の彼らはすみやかに行動を開始するはずだった。だが、突然たちこめた濃霧が彼らの視界を遮った。夜目がきく彼らでも、十歩先の仲間たちの位置さえ把握できなくなった。ここが深山幽谷ならまだしも、公爵邸の敷地の林の中でだ。ありえない怪現象に、彼らは不安げに顔を見合わせた。

禁域に足を踏み入れてしまったような悪寒を誰しもが感じていた。

いや、ただ一人、場違いに意気軒昂としている人間がいた。


「……スカーレットが女王だと。ふざけるな、希薄な王家の血しか入っていない下賤な女が。みてろよ。あの女に俺の高貴な血を恵んでやる……喜んで泣いて感謝しろ。そうだ、これはおまえのためでもあるんだぞ……」


彼らの雇い主は歯軋りしながら、あさましい笑みを浮かべるという器用な技をやってのけた。相手の都合など考えない偏執的な目はぎらついていた。


彼は心の中ですでにスカーレットを屈服させ、彼女に勝ち誇って語りかけていた。口にしたことはざれ事ではなく本気で思い込んでいるから性質が悪い。不摂生で吹き出物だらけのその顔は、心の醜さも相まってガマガエルそっくりだった。


下賤な女と言いながら、彼はスカーレットに狂的なほど執着していた。

彼女を見るたび、その美しさにじりつくような欲望をおぼえた。


彼は、王位継承候補の一人ではあるが、能力的にまったくスカーレットに及ばなかった。他人にマウントを取りたい彼は、常に彼女への劣等感にさいなまれた。


彼が唯一スカーレットに優越感を覚えられたのは、自分のほうがハイドランジア王家の血が濃いという、ただその一点のみだった。


血統以外に取り柄のない彼は、その愚鈍さゆえに、王位継承候補者同士の凄絶な潰し合いを免れた。早い話がゴミ芥扱いで、敵とさえ思ってもらえなかったのだ。スカーレットと死闘を演じた他の有力な王位継承候補者たちは、王家の血筋など、継承候補戦に参加するチケット程度にしか思っていなかった。スカーレットも含め、血統ではなく、おのれの才覚でもって道を切り開こうとした。


それも当然だ。ハイドランジア王家の権威などとっくの昔に地に堕ち、ほとんど威光を失っていたのだから。血筋にすがるのは、あわれな彼ぐらいなものだった。


「……おい、ガマ。レースに出馬する騎手は、他の騎手に負けないよう必死で努力するだろう。レースで馬を走らそうともせず、スタートでふんぞり返る騎手がいたら、救いがたい馬鹿だ。あんたはまさにその馬鹿だ。王位継承戦は命がけの競争だ。血筋しか取り柄がない無能殿、どうだ、我々を見ろ。戦える相手に思えるか? 分を弁えろ。さっさと継承権を破棄するんだな」


王位継承候補をかたくなに辞退しない彼に、そう辛辣に吐き捨てた候補者さえいた。候補者たちの冷笑の的になった彼のプライドはずたずたにされた。


優秀な王位継承候補たちの中でただ一人、彼に笑顔を向けてくれたのがスカーレットだった。あまりにひどい扱いをされているときなどは暗にかばったりもした。


それは単にスカーレットの人の良さからくるもので、よく注意して観察すれば、アリサをはじめとするたくさんの友人たちのために彼女はいつも東奔西走していたとわかったはずだが、視野狭窄の彼はすっかりのぼせあがった。スカーレットが自分を好きだと思い込んだのだ。


彼はスカーレットに求婚じみたことをしたが、王位継承候補戦の真っ最中であり、しかも恋愛オンチのスカーレットは、彼の求婚にさえ気づかなかった。彼は男心を弄ばれたと逆恨みし、しかもスカーレットへの執着を断ち切れず、やがておそろしい妄執を抱くにいたった。


スカーレットが女王に決定したとき、彼女をむりやり犯し、自分のものにしてしまえば、王配として君臨できるのではないか……。


狂った欲望に取りつかれた彼は、虎視眈々と機会をうかがい、ついに今夜を凶行のときと定めた。スカーレットが居を王宮に移すと、もはや手を出すことは叶わなくなる。女王即位後の公爵邸にいる間にスカーレットを強姦しようとしたのだ。


……スカーレットはまだ処女であるという社交界の噂を全身を耳のようにして聞いた彼は、それを心の拠り所にした。手籠めにさえしてしまえば、はじめての男に逆らえなくなるはずと、厚顔無恥にも都合よく考えた。


スカーレットが四大国の四王子という怪物たちにいつも狙われており、その凌辱をはねのけ続けているほど気骨のある令嬢だということは、彼の色欲で曇った頭では理解できなかった。


彼が財産をかき集めてやとったのは、近隣でもっとも恐れられている盗賊騎士団だった。騎士団を名乗ってはいるが、食い詰め者たちの集まりだ。


かつてハイドランジア最強とうたわれた王家親衛隊の入団試験に、強すぎて落とされたという首領がつくりあげた部隊だ。傭兵や略奪をして生計を立てている。たしかに彼らの腕はたしかであり、依頼された貴族を暗殺したことも一度や二度ではない。夜襲にも慣れている。


だが、その彼らにしても、突然庭先に湧き出した濃霧で一歩も進めなくなる経験は皆無だった。獰猛な彼らに少しずつ恐怖が伝播しつつあった。死線をくぐりぬけた何人かには危機を察する勘がそなわっていた。そういった連中が尻込みし、即時の撤退を主張しはじめたのだ。


「……あんたにゃ悪りぃが、ここはやべえ。俺の勘がそう言ってる。今すぐ引かせてもらいたい」


恐れを知らぬまま生まれてきたような風貌の首領が額の汗をぬぐい、契約破棄を申し出た。


「廃城で霧が迫ってくるとき、こういう嫌な気配を感じることがある。霧にまぎれて太古の邪霊がうろつくことがあるって、爺さん連中は言ってたよ。ロマリアがこの国に来るよりも前に呪術師やってた家系の奴らだ。そういう化物には、如何なる剣も槍も通用しない。だから逃げろってな」


突然昔話を語り出し、実際にくるりと背を向け、仲間たちに退却をうながしだした首領に、依頼主はぽかんとした後、怒り出した。


「何が強すぎて王家親衛隊に入れなかった男だ!! たかが霧に怯えて退却だと……恥を知れ!! とんだ評判倒れだ!!」


憤慨する依頼主に、首領は歯をむいてせせら笑った。

頭から馬鹿にしきっているのだ。


「なんとでもぬかせ。王家親衛隊うんぬんかんぬんは、周りが言ってることで、俺が口にしたこたねえんだよ。俺はマッツオの旦那やおっかなかった三老戦士ほど強くないんでな。ヤバい予感がしたら、すぐケツまくることにしてる。用心深くあることが生き延びるコツよ。受け取った金は全額返す。それで他の奴らを雇えよ。じゃあな」


だが、悪夢は彼らを逃してあげる慈悲など持ち合わせていなかった。


「……あはあっ、すてきな満月の夜だこと」


冷たい嘲りの声が、残酷に響いた。

その場の全員が息をのんだ。

唐突に画面が切り替わったかのようにアリサが出現し、金髪と羽織った軍服のジャケットを夜風になびかせていた。蒼い目がぞっとする光をたたえている。高台から見下ろす絶対君主のオーラを放ち、悠然としている。通していない軍服の両袖の袖飾りとエポレットの房が優雅に揺れる。荒くれたちに取り囲まれた美少女の取る態度ではない。その非現実な光景に足元がぐらついた気がした。


盗賊騎士団の首領は唸った。


数メートル先の景色すら摑めない霧の中、しかも深夜なのに、アリサの姿だけはくっきりと浮き上がって見えたことを認識したからだ。まるでアリサ自身が発光しているようだ。霧で互いは見えないが、散開した団員たち全員が一様に驚きの声をあげたことから、距離に関係なく、全員がアリサを認識したことは明らかだった。断じて常識ではありえない。


そして、アリサから吹き寄せる鬼気が心臓をきりきりと締め付ける。

溶鉱炉の炎よりも危険で、勘の鋭い人間なら視線をあてられただけで、気絶しかねない代物だった。首領は恐怖で髪を逆立てた。これは少女の形をした人外だ。ただ伏して許しを乞うべき圧倒的な強さそのものだ。命の危機を知らせるシグナルが頭の中で激しく閃く。


「……おまえら、死にたくなければ、今すぐ武器を捨てろ……!! なにがあっても逆らうな」


彼は躊躇わず腰の剣をはずし、地面に放り投げた。

指と声が震え、仲間達に警告を発するのが精いっぱいだった。膝をつき、首をうなだれ恭順の意を示す。

非合理だが、それしか生き残る道はないと直感した。


すぐに十か所ほどで武器が地面にぶつかる音と、しゃがむときの防具ずれの音がしたが、あとはそれきりだった。それは最古参の連中、この霧に違和感をおぼえていた人数とほぼ一致していた。首領への忠誠か勘かはわからないが、彼らが従ってくれたことに首領はふうっとふいごのような息を吐いた。彼の盟友といっていい連中は、とりあえず死を免れた。これほど緊張を強いられたのは戦場で追い詰められたときでさえ経験したことがない。


「おいおい、この霧の中、すてきな満月だと? この女、頭がおかしいのか。おまえらも、なんでこんな変な女にびびっている!! 大事の前の小事だ!! 早く切り捨てろ!!」


こともあろうにアリサに指をつきつけて喚きだした依頼主に、首領は腸のねじれるような怒りと恐怖をおぼえた。漂流する海でばしゃばしゃ大騒ぎし、血を垂れ流し、わざわざサメの群れを呼び寄せる行為に等しかった。


〝馬鹿が!! 死にたいのなら、自分一人で死ね!! おまえの愚行に俺達を巻き込むな!!〟


かっとなった首領は依頼主を斬り飛ばそうと本気で動きかけた。


だが、それより早くアリサが優雅な仕草で指を鳴らしたため、首領は剣に手を伸ばしかけた姿勢のまま凍りつくことになった。ぶわっと白い霧がかき消え、煌々たる満月が、彼らのひそんでいた林を照らしていた。彼らは今まで幻覚の霧の中をさまよっていたのだ。


見たこともない金色の甲虫が梢のあちこちを這い、月の光に不気味に照り返る。その輝きは精巧につくられた黄金の髑髏のようだった。


「……ね、すてきな満月でしょう。たまには浮世を忘れた月光浴も悪くないわ」


あやしく微笑むアリサに首領はぽかんと口を開いたまま、魅入られたようにこくこくと頷いた。アリサは月の女神のように美しかった。人の論理と枠の外にいる超越的な畏怖すべき存在だった。


「なんだ!? なにが起きた!?……霧はどこに……がっ!?」


滑稽なほどうろたえる依頼主の騒ぐ声がぷつんと途絶えた。

泡を口の端からふいてがくがく痙攣する彼に振り向きもせず、アリサは冷たく吐き捨てた。


「うるさい。おまえごときに、この美しく蒼い月の光を浴びる資格はないわ。よくもスカーレットの眠りをさまたげようとしたな。あの子は私との青春時代をふりかえりながら眠りについたの。きっと夢の中でも私に出会ってくれている……。ここからはあの子と私の物語よ。第一幕の端役はさっさと退場なさい」


哀れな依頼主の首が、ぎりぎりとひとりでに捻じれていく。

ばきんっという胸の悪く音とともに真後ろに向いた。


彼はおのれの背中を呆然と見下ろし、それから水揚げされて死にゆく魚のように口をぱくぱくとさせた。何が起きたか理解できず、必死に問いかけようとするまなざしを、首領は真正面からのぞきこむ羽目になった。首領と目をあわせた依頼主の呆然とした表情は絶望にかわり、救いを求めるようによたよたと首領に向かって歩き出そうとしたが、真後ろに顔が向いているため、逆に遠ざかることになった。どんっと木の幹に抱きつくようにぶつかってはねかえる。そのまま無様に尻もちをつく。普通なら笑える光景だが、首が反対に曲がっているさまはシュールすぎた。


アリサは笑い転げたが、盗賊騎士団は全員が凍りついていた。


手段はわからないが、アリサがやったのは明らかで、気まぐれひとつで自分たちも同じ目に遭わされると理解したのだ。一人残らず武器を放り出し、身を震わせて地に平伏した。それしか生き残る術がないと悟ったのだ。


「あはは!! 愚かものにふさわしい末路だわ。スカーレットは王家の血が希薄ですって? 血統など才能や人物の前にはなんの価値もないわ。おまえの価値は、最期に私を笑わせたことだけ。あとはその不快な姿が二度と私の目に入らないようにしなくてはねえ。ついでにちっぽけな拠り所の血を一滴残らず絞り出してあげる」


アリサは、ぱちりと指を鳴らした。

依頼主の手足がありえない角度に曲がっていく。

目や鼻、穴という穴から血を噴きながら、ばきばきと骨が砕け、身体が折り畳まれていく。ほどなく依頼主は衣類の切れ端をまとわりつかせ、あちこちから骨のささくれた折れ口を突き出した奇怪に縮んだオブジェと化した。人の尊厳が指一本で潰される瞬間を見せつけられ、盗賊騎士団たちは、恐怖で嘔吐しそうになった。


アリサはひとしきり笑ったあと、跪く首領にゆっくりと近づき、問いかけた。


「……おまえたちは私の正体を見た。だから、もうおしまい。願いがあるのなら、ひとつだけ聞いてあげるわ」


アリサは愉しそうに指先で首領の額をなぞった。


「折る」「窒息」「斬」「出血」……。


書かれる指文字は、どのような死を迎えたいかという残酷な質問だ。首領の額からどっと汗が噴き出した。ギロチン台に首をのせられた気分だ。答えひとつでこの場の全員が全滅する。


「……どうか御身の御手に、忠誠のキスをする機会を……」


気絶しそうな恐怖のなか、首領は喉の奥から苦労して声をしぼりだした。理不尽極まりない相手だが、隠しきれない品格があると嗅ぎ取ったのだ。これは依頼主などより、よほど尊い血筋の者なのではないか。心を動かせれば、死地を脱することができるかもしれない。真の貴人なら、残酷でも粗野ではない……。興味がわけば無碍に命は奪わないはずだ。


……それは教養というより、勘に近かったが、結果的に正解だった。アリサは首領の額からすっと指を離した。手は目先に伸ばされたままだ。首領はあわててその手を取り、手の甲に恭しく口づけした。


「……出会ったばかりの私に忠誠を誓うと? そんな軽薄な人間を信用しろと言うの?」


もっともな氷の問いに、首領はごくりと唾をのみこんだ。


「我らの主はいまだ定まってはおりません。仕えるべき主を捜しておりました。我ら野蛮で下賤なれど、逆にそちらの世界には通じております。役に立つこともあるはずかと」


王家親衛隊の入団試験を受けるため、騎士風の物言いを習っていたことを、首領は心から感謝した。アリサから殺気が薄らぎ、ころころと声をたてて笑い出したからだ。


「……いいわ。見え透いた嘘だけど、のってあげる。そうね、「今回」はそういう趣向も面白いかもね。そこの愚か者と違い、最低限の礼儀をまきまえていたことに免じ、生かしておいてあげる。だけど、私がいつでもあなた達を殺せるということを忘れないで」


アリサは無造作に傍らの樹の幹に手を突き入れた。

盗賊騎士団たちの顔がひきつり、驚きで目玉が飛び出しそうになった。アリサの繊手が肘のなかばまで軽々と埋没したからだ。


「ふふ、隠形技〝幽玄〟は、極めれば、すべてをすり抜ける回避技になる。そして、その気になれば、物体を透過し、攻撃を加えることもできるの。よく目に焼き付けておきなさい」


手を引き抜きぬくと、幹の皮には傷一つついていなかった。だが、アリサが掌を開くと、そこには年輪が刻まれた木の芯の塊があった。アリサは穴さえあけずに、木の中心部だけを摑み取ったのだ。頭がおかしくなりそうな光景だった。握りしめた木片は音もなく粉砕され、砂煙のようになって風に流れた。


「あ、あなたはいったい何者なのですか……」


呆然として思わず首領は問いかけた。

アリサの口元が三日月の弧を描く。


「教えてあげる。私の名前は、アリサ・ディアマンディ・ノエル……」


思いもよらぬアリサの真の名前を耳にした盗賊騎士団は驚愕した。

その名が嘘ではないと直感し、首領はおののいた。それが恐怖よるものか高揚によるものか自分でもわからなかった。


おのれの選んだ主は、正真正銘の規格外の化物だった。これはもう悪党などという生易しいものではない。こめかみが痛いのは血が轟轟と流れだしたからだ。理屈抜きで服従できる存在に出会い、仕えられることに歓びが湧き上がる。横目でちらりと見ると、同じようにうっとりとアリサに見惚れている何人かが目に入った。


自分も含め、この盗賊騎士団は社会のあぶれ者だ。境遇のせいではなく、生まれつきモラルに欠けるため、まともな集団に属せないのだ。首領が王家親衛隊入団審査役の三老戦士に拒絶されたのも、心に巣食った悪が矯正不可能と見抜かれたからだ。飄然とした部分は世渡りのため身につけた擬態だ。自分でも飼いならせない欲にまみれた獣が、心の奥底にいるのだ。


だが、アリサなら、悪も善も超越したこの怪物になら、獣も無条件で膝を屈する。邪悪な自分たちの絶対的な主になってくれる。ただれた安心感があった。


「……ひとつ言っておくけど、私は権力にはなんの興味もないわ。出世を求めても無駄よ。そうね、悪か善かもどうでもいい。他人からの評価など、私の知ったことではないわ」


盗賊騎士団は息をのんだ。アリサに心を読まれたと気がついたのだ。


「……私が本当に興味があるのは、スカーレットだけ。だから私は〈救国の乙女〉として、女王のスカーレットの前に立つの。この国すべてを炎にくべ、その中で、あの子と踊るために。……それでもいいなら、ついておいで」


アリサは嫣然とほほえんだ。

まるで慈母の笑みであり、堕ちるように惹きつけられる。

それだけに底なしにおそろしかった。


「……あなたたちに世界が壊れるさまを見せてあげる。立派な人間たち、優しい日常、そんな真っ当な世界が憎いのでしょう。あぶれ者のあなたたちでは望んでも輪に入れないから。……ふふ、お馬鹿さんたちねえ。入れない輪なら砕いてしまえばいいのよ。命も世界も思い出も、砕け散るときが一番美しいわ……」


アリサはくすくす嗤った。鬼気が渦巻く。

アリサはびゅんっと手を振った。その延長線上にある森の木々の梢の繁みを拳威が貫通し、黒々とした長いトンネルを穿つ。まるで漆黒のレーザービームが走り抜けたようだった。


彼方の公爵邸の二階の壁に、音もなく小さな亀裂が入った。細く鋭い衝撃波は、部屋の暖炉の上に置かれた、スカーレットの父親の形見のガラスの薔薇の花を直撃した。真鍮の茎と葉を微かに揺らし、花びらだけがぱあんっと粉微塵になった。ソファーでうたたねをするスカーレットのまわりにきらきらと降り注ぐ。


もしこの場に「真の歴史」のブラッドがいたら、驚愕で言葉を失ったろう。

それはまさしく彼の得意とする〝伝導〟だった。

しかも、威力はともかく、精度と収束性においては、本家のブラッドをも凌駕していた。紅い瞳なしでそれを使いこなすということは、アリサがすでに〝伝導〟を自家薬籠中の物としていることを意味していた。


「……スカーレット、あなたに父親の形見などもはや不要よ。私とあなたの間には、死者さえも立ち入らせない。さあ、キスのかわりに、二人だけの愛と憎しみを交わし合いましょう」


断じて人にできる業ではなかった。だが、盗賊騎士団の半分以上は、当初の怯えきった顔ではなく、陶酔した表情でアリサを見つめていた。アリサの中に、恐怖だけでなくカリスマ性を見出したのだ。


小さな影は、より大きく濃い影に惹かれていく。


影はこれより先、急速に育っていく。そしてハイドランジアすべてを覆い尽くさんと蠢動することになる。新女王即位にわく国民たちは、まだ誰も気づかない。この国が奈落に向かって突き進みだしたことを。祝福の声で迎えた女王スカーレットを、あと数年で、怨嗟の叫びとともに糾弾することを。


「……あはあっ、この前の戦いで嫌というほど〝伝導〟を喰らったおかげで、完全にこつが摑めたわ。ふふ、どうする、かわいそうなスカーレット。まごまごしてると、ループのたびに私、どんどん強くなっていくわよ」


美しい月夜に目を細めるアリサだけが、はるか破滅の結末を嬉しそうに見つめていた。


「早く『真の歴史』の記憶を取り戻しなさいな。万に一つの勝機はそこにしかないのだから」


……怪物は、まだ止まらない。


        ◇


「あーっ、もう、いっそサインは全部ハンコに変えようかな」


私は目の前に積みあがる書類にいらいらし、髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。片づけど片づけど、なお我が仕事楽にならざり。次々に運び込まれてくる新たな案件。これじゃ、際限のないいたちごっこだ。


栄えあるハイドランジアの女王の私は、今日も書類と睨めっこだ。


女王のイメージといえば、みなさん何を思い浮かべるだろう。

華麗な舞踏会? 煌びやかな衣装選び? とんでもない!! 

そんなものに余計な時間を取るぐらいなら、睡眠にポイントを割り振りたい。


食事は食事で社交と交渉と接待の場だ。みんなとじゃなく、たまには一人でゆっくり食べたい……。私の食事の速度に合わせて、コースの皿が一斉に下げられるから、むちゃくちゃ気を遣って、ちっとも安らげない。私の性根は小市民なのだ。


常に激務で疲れ果てているので、衣装替えのときは、アクセサリーや髪型の指示をだしたあと、半目半口開きで即寝落ちだ。おかげで背筋首筋をぴんと伸ばしたまま眠る特技をマスターした。コルセットの背中の紐を締め直してもらってるときも、髪結いをしてもらっているときも、微動だにせずにグーグー……。傍から見るとさぞや異様な光景だろう。


絶対によそ様には見せられない「ハイドランジアの宝石」の舞台裏だ。


カードゲームも絵を描くことも楽器の演奏も、この数カ月はやった記憶がない。

ひたすら、書類の目通し、決裁の繰り返し。


トイレに行って戻ってくるわずかな間に、侍従がものすごーく申し訳そうな顔をして、新たな決裁書を盆にのせ、すっと足を踏み出してくる。用を足したばかりなのに、絶望でちびりそうになる。   


あまりに案件が多すぎ、瀟洒なライティングテーブルとはずっとご無沙汰だ。作業面積がとても足りないのだ。大きな丸テーブルを運び込み、もっかそこを主戦場にしている。それでも戦場は拡大の一途をたどり、手がつけられない。強大化する書類仕事に対抗すべく、私は厨房用の大きく武骨な長机を執務室に持ち込もうとしたが、みっともないと臣下に泣いて止められた。上に綺麗なテーブルクロスをかけるから、と言っても駄目だった。


私は権力なき女王なのだ。

いつか必ず巨大な長机をお迎えできるほどの独裁者になるという大いなる希望を胸に、今日も髪を後ろにひとまとめにし、目の下にくまをつくり、日々書類と格闘している。


御供として喉湿しのお茶がのったオケージョナルテーブルが付き添っている。喫茶は私に許された数少ない自由のひとつだ。いちいち淹れるのが面倒くさいので、抽出したものをポットにそのままぶちこんでいる。砕いた砂糖の塊でドーピングし、今日も身体を酷使する。


指先はインクまみれだ。爪先の手入れは忘れた。令嬢時代のほうがまだお洒落してたよ……。腱鞘炎の恐怖が常にのしかかる。


座りっぱなしでお尻と腰が痛い。目がかすみます。瞼が重い。首と肩ががちがちです。ぼろぼろです。私、まだ二十代前半なんですけど……。


まるで強制労働させられる囚人です。気取ったドレスなんか着ません。居間着に冷え対策で分厚いショー

ルを巻き付けています。種族は女王ミノムシです。


夢は優秀な白馬の王子さまが迎えにきてくれることです。王子さまを身代わりにし仕事を押しつけ、青空の下に白馬で逃亡するためです。早く仕事から解放されないと死神が迎えにきちゃいそうです。


……いかん、変な妄想はじまった。疲れすぎだ。末期症状だ。私はため息をついた。


いつも仕事を手伝ってくれるバレンタイン卿が不在なのがまじできつい。書類の山で過労死する女王なんて洒落にならない。生まれ変わったら二度と女王なんかしないと、本日三度目の決意をした。


「だいたいなんなのよ!! この救国の乙女ってのは!!」


私は怒りのシャウトをあげた。このとこの忙しさはすべてこいつが悪い。ハイドランジア各地で多発する暴動の裏に見え隠れする扇動者だ。エセルリードが懸命に正体をさぐっているが、いまだに尻尾をつかませない。


「暴動なんか連発したら、国がダメになるってなんでわかんないかな。女王の私への不平不満を訴える!? 正義をこの国に取り戻す!? そんでもって、やってることが焼き討ち、略奪、外国への内通って、脳みそ腐ってんじゃないの!? 国を救うなんて偉そうなお題目唱える前に、まず人として恥を知れ!!」


激昂した私は一気に叫び、肩で息をした。


叫びながらも、目は文字を追い、手は黙々とサインする。目と手は私であって私でないスカーレット独立部隊なのだ。習慣って怖い。傍から見ると、まるで笑えないコメディーだろう。いかん、情緒不安定になっている。


私はため息をついた。


……調査によると「救国の乙女」は、ハイドランジア侵攻をもくろむ四大国と通じている可能性が高い。売国奴が内側から国を食い荒らし、さらに扉を開き、外敵を招き入れる最悪のシナリオだ。しかも四大国いずれもハイドランジアよりはるかに強大な軍事力をもっている。内と外から同時に攻められては、今のハイドランジアではひとたまりもない。


隣の間に控えていた侍従が驚いてのぞきこんだので、私は笑顔で大丈夫アピールをしつつ、机の上の山盛りの書類を指さした。納得した侍従はうなずき、私の健闘に敬意を表し、恭しく腰を屈めると数歩後退して姿を消した。


「……よし、私は今から二十分ほど仮眠を取る」


睡眠は疲労を取る最良の特効薬だ。時間を悪魔に売り渡し、代わりに体力と理性を回復する。私は悪魔と取引することを決意した。まさに神をも恐れぬ冒涜的な行為だ。だが、疲れすぎて頭が回らないようでは本末転倒だ。私は長椅子にごろんと寝転がった。来客用だが、今はもっぱら私の仮眠用として使われている。


だが、疲れ切っているのに、頭の芯は変にさえ、眠ることさえできそうにない。


落ち着かねば……。なにか楽しいことを思い出そう。


「……アリサ、あんた、今なにしてんのよ……」


ぽろっと口からついて出た言葉に、私ははっとし、震え上がった。よりにもよってアリサの名前が真っ先に出てくるなんて……!! 呪いか、これは……。


私は蒼くなり、それから急に恥ずかしくなり、まっかになった頬を両手で覆い、両脚をばたつかせた。


最後にアリサに会ってから、まだ数年しかたっていない。なのに、もうずいぶん昔のことのようだ。あの子には本当に迷惑を掛けられ通しで。気がつけば、いっつも私の隣にいてはしゃいでてて……。

目を閉じると、今も見慣れた金髪がそばに揺れている気がする。


「あんた、あんなにむちゃくちゃな鉄砲玉娘だったんだから、王宮の私のとこに潜り込んでくるくらいしなさいっての……バカ、大バカ、バカアリサ……。私、あんたのこと、たくさん怒ったけど、ここまでいなくなっていいなんて、言ったことなかったでしょ……!!」


私は左ひじを握りしめた。そこはいつもアリサの特等席だった。私の左腕を両手で抱え込んで独占し、私に近づく令嬢や紳士を威嚇して追い払うのがアリサの日課だった。随分辟易させられたものだ。いつも私を困らせて……今だって……!!


「……私を寂しくさせないでよ……バカ……」


私の目が潤んだのは疲れ目のせいだ。そうにに決まってる。


私が女王に即位してから、アリサはぱったりと社交界に顔を見せなくなった。私はエセルリードに頼んでアリサの消息を調べてもらった。健康ではあるが、フォンティーヌ家に引き籠ったまま出てこないらしいとのことだった。


アリサは社交界に私以外の女友達がいなかった。

別にアリサなんか心配ではなかったが、私がアリサの側を離れたのが原因で、表に出てこれなくなったのではないかと思い、現況確認の手紙を送った。すぐに下手くそな字の能天気な手紙が帰ってきて安心した。相も変らぬお花畑な内容に私は笑い転げた。しばらくは手紙のやりとりが続いたが、ある日、アリサの父のフォンティーヌ卿から丁重な詫びの手紙が届いた。アリサは少しの間外国で見分を広めてくるので、留守致します。帰ってきたらまた連絡さしあげます。陛下の御高配に感謝と忠誠を、と流麗に記されていた。それきりアリサとの文通は途絶えたままだ。


私は寝転がったまま、側机に手を伸ばし、置いてある小箱を取った。胸にぎゅっと抱きしめる。小箱の中には、ブローチやネックレスや指輪とともに、アリサの手紙の束が入れてある。別に大切にしているわけではない。貴重品を保護する下敷きにちょうどいいのだ。だが、これでは枚数が足りない。もう十枚くらい。いや、二十枚くらいないと、収まりが悪いんだよ。


「……もっと手紙くらいよこしなさいよ、バカアリサ……!! ハイドランジアに帰ってきたら、顔ぐらい見せないと許さないんだから……!! 私、女王業で難件山積みで死ぬほど忙しいんだよ。これ以上よけいな心配かけないでよ……!!」


私の独り言が感情を抑えきれずかすれたのと、「失礼します、女王陛下」と側近のマッツオが巨体をかがめるように入室してきたのは同時だった。公人である女王にプライバシーなどほぼ皆無だ。寝室や肌を露出する更衣室などをのぞけば、王宮の各部屋の扉は基本開け放しに近い。各部屋を廊下代わりに通過する形で人々は移動するので、そうしなければ扉の開け閉め役をする小姓が過労死する。もちろん不埒な輩が侵入できないよう要所要所には衛兵が詰めている。


私は毛布を頭からかぶり丸くなって身を隠すふりをした。

泣きかけていたのを見られたくなかった。私にだって意地があるのだ。


「……女王陛下はただいま留守にしております。お日さまが恋しくて、外に逃亡しました。上質のウィスキーと美味しいブドウを餌として用意すれば、業務復帰も考えんでもないとおっしゃってます」


と私は毛布の中からくぐもった声で答えた。


気心のしれたマッツオとはいつもこの手の冗談を交わす。

だが、今日は雰囲気が違った。マッツオが侍従たちに席をはずすように言うのが耳に入った。張り詰めた響きに、私は眦の涙をぬぐい、毛布をはねのけた。嫌な予感がする。凶報だ。


「……どうしたの、マッツオ」


マッツオは一礼すると、沈痛な面持ちで答えた。


「女王陛下報告致します。どうかお気を落とさずにお聞きください。各地の暴動の首謀者である『救国の乙女』の身元が判明しました」


私は呆気にとられた。何故そんなつらそうな顔をしているかわからない。それは凶報ではなく、吉報ではないか? いや……!!


「……まさか『救国の乙女』は、私の知っている人なのですか」


マッツオは重々しくうなずき、床に視線を落とした。


「はい、アリサ・ディアンマディ・ノエル・フォンティーヌ。……フォンティーヌ子爵家のご息女が、反乱の首謀者です……」


「……あのアリサが『救国の乙女』!? 冗談にしたってありえないでしょ!!」


みなまで聞かず、私は笑いだしてしまった。

マッツオは笑わなかった。

そのしかつめらしい顔を見ていると、余計に笑いがこみあげてきた。


「……どうせ伝言の途中で、本物の『救国の乙女』の名前が、アリサにすり替わったのでしょう。あの子は超ド級のトラブルメーカーだったから、ありえないことじゃない。知ってる? 令嬢時代、私はいつもア

リサの尻ぬぐいをしてまわってたのよ」


「存じております。御二人はいつも一緒でいらっしゃった。本当の姉妹のように仲睦まじく見えました」


「アリサと姉妹? おそろしすぎる冗談ね。絶対に願い下げよ。心労で寿命が半分になる。私はあの子のダメっぷりを誰よりも知り尽くしているの。その私が断言します、アリサが『救国の乙女』なんて天地がひっくり返ってもありえない」


「……エセルリードも某も、御二人の仲を知ったうえで、アリサ殿が首謀者と申し上げております。このようなご報告、我々とてつらいのです。お気持ちは拝察しますが、このまま『救国の乙女』を放置しては取返しがつかないことになります。至急ご判断を」


それはアリサの処分を求めるうながしだった。

私は凍りついた。


「救国の乙女」は無数の暴動をおこし、街を焼き、人死にを出した。それもハイドランジアの女王の私を殺すことを堂々と宣言してだ。四大国にも裏で通じている。国家反逆罪と大逆罪をおかしてしまった。見つけ次第、殺害か見せしめを兼ねた死刑だ。


マッツオの大目玉が炯々と光る。いつもの優しいマッツオではなく、幾多の戦場を駆け抜けた戦鬼の貌をして、ぐっと私に決断を迫る。


「お辛いでしょうが、ここが勝負どころです。ご決断を躊躇えば、ハイドランジアは内戦に突入いたします。国民同士が殺し合う地獄がはじまりますぞ」


……「救国の乙女」を中心にした暴動は、ハイドランジア全域に燎原の火のごとく広がりつつある。もし各地でばらばらに起きている反乱がひとつに束ねられ、組織化されたら、ハイドランジアはまっぷたつに割れる。国の屋台骨を揺るがしかねない事態になる。


わかっている。私だって十分わかっている。国内の反乱、そして反乱に同調しての四大国のハイドランジアへの介入、もしこの流れになってしまったら、はかりしれない数の犠牲者が出る。


それだけじゃない。国民同士で憎しみあい、複数の外国勢力を招き入れなどしては、ハイドランジアそのものが崩壊する。疑心暗鬼におちいり、主権を失った国民たちは、ただ土地に住んでいるだけの集団になる。国のない民が国民でないように、国民のいない国もまた国でなくなる。侵攻を指揮する四大国の四王子は全員が残酷だ。容赦なく彼らから搾取し、邪魔なら殺すか、土地から追い出すだろう。

のっぴきならない事態なのはわかっている。


だけど、だけどアリサは……!!


「……そうよ、きっとアリサは、誰かにいいように利用されてるんだ。あの子、ぼーっとしてるもの。またいつものように私が助けに行って、お尻引っぱたいて、連れ戻して……」


救いのように思いついた私の言葉を、マッツオは巌のような貌で見おろし、無言で否定した。私はがたがた震え出した。


だって、アリサは私のことが大好きだって……!!

いつもいつも、困るぐらいに私に抱きついてきて……!!

きっと今だって、私の顔を見たら、嬉しそうに、愛くるしい笑顔で「スカーレットさま、会いたかった」って飛びついてくるに決まってて……!!


私は気づかないうちに立ち上がっていた。

無意識にマッツオを押しとどめようと彼の胸に両手でしがみついていた。

握りしめた私の拳がまっしろになっていた。

マッツオは哀しそうな顔をし、なされるがままになっていた。


「……前にローゼンタール伯爵夫人に殺されそうになったときも、アリサは命がけで私をかばったんだよ。自分は殺されてもいいから、私だけは助けようと……!! アリサは……!! あの子は、バカばっかりやってる子だったけど、いつだって、私のことが一番大好きだって……!!」


私は叫んだ。頬を涙が濡らす。

アリサの無邪気な笑顔と笑い声が脳裏によみがえる。


わかってはいた。もう、わかってはいたのだ。

だけど、残酷な事実を認めたくなかった。それ以上に残酷な結論を口にしたくなかった。


マッツオは、私の両肩に大きな手をそっとあて、私を引き離すとかぶりを振った。


「……あの慎重なエセルリードが、首謀者と断定した物言いをしたのです。陛下が傷つくのは覚悟のうえで。アリサ・ディアマンディは誰かの傀儡ではありません。本人の意志で陛下に反旗をひるがえしたのです。もう友人ではなく、滅ぼすべき敵です。この国を守るために殺さねばなりません」


彼は優しい。

私が言うべきことをすべて先回りして口にしてくれた。


私は呆然と自分の手を見つめた。

何度もアリサを守ってきた。

アリサの手を引っ張って、二人で追手から逃げた。

悪戯がすぎたときは、軽くげんこつをしたこともあった。

いたずらで金髪をぐしゃぐしゃにかき回してやったこともある。

泣きじゃくるあの子の背中を撫で、慰めた。涙をぬぐった。

手をつないだまま眠ったこともあった。


その私の手で、アリサが両腕で愛おしそうに抱えていたこの手で、アリサを殺すためのサインをしろというのか。


「……いやだ!! ……私、できない……!!  やりたくない……!!」


「……お辛いでしょうが、どうか賢明なるご判断を。これ以上騒ぎが大きくなれば、『救国の乙女』を公開処刑しないと、おさまりがつかなくなります。彼女の名誉ある死を望まれるのなら、一刻も早い事態の収束が必要なのです。アリサ殿の首を、民衆たちのさらしものにすることをお望みか」


「……そんな言い方って……!!」


私はマッツオを睨みつけたが、彼の思慮深い瞳を見て、目を伏せるしかなかった。マッツオは私のためにあえて汚れ役をかってでてくれているのだ。彼は本物の紳士で戦士だった。


私はソファーに崩れるように身を沈め、深く息を吐き、気を落ち着かせようとした。


「……忠義に感謝します。マッツオ、あなたは返り血を浴びることを恐れず、臆病な私のために道を示してくれたのですね」


「あなたは臆病ではない。私の百倍は勇敢だ。だが、同じくらい他人への愛をお持ちだから、苦しまれる。尽くし甲斐がある女王陛下です。あなたにお仕えできることは、私の誇りです。そのためになら、屍山血河の道も厭いません。戦士は誇りと優れた主への忠誠のために、命を賭して戦います。そして、女王は国のために……」


マッツオの言葉に、私は唇を噛みしめ、顔をあげた。


「わかっています、私の人生は国に捧げたことを忘れていました。泣くのは、自分の責務と役割を果たしてからにします」


「……やはり、あなたは勇敢で聡明だ。陛下の国を背負われる覚悟に敬服いたします」


マッツオが差し出した「救国の乙女」討伐許可証を、私は震える手で受け取った。内容を確認し、そのうえで署名しなければいけない。なのに涙で視界がにじんで、文字をまともに見ることができなかった。


「……マッツオ……ごめんなさい……!! 女王としての戦いに背を向ける気はありません。ただ仕事のしすぎで……目がよく見えないの。代わりに内容を読んでもらってもいい?」


私はかすれた声で哀願した。


マッツオは深くうなずき、一礼すると、アリサの罪状とそして処分について……書類の内容をゆっくり読み上げた。


……「救国の乙女」には国家反逆罪と大逆罪が適用される。死罪のみで減刑はない。よって裁判も、虜囚生活も、情報を引き出すための拷問も必要なし。すみやかに殺害、もしくは死刑を執行すること……


「……「救国の乙女」はかつての私の友です。捕えても、死刑執行まで大切に扱ってください。そして死刑方法はなるべく苦痛の少ないやり方で。この二つを女王の名において命じます。私を情におぼれた愚か者と笑いますか」


全文を聞き終わった私は嗚咽をこらえ、マッツオに問うた。


「思いません。陛下のご寛大さは、世の女性たちの尊敬を得つつ、反乱軍の恨みを和らげることができるかと。賢明なご判断ですな」


マッツオの静かな答えに、私は彼がわざとその部分を記していなかったのだと気づいた。私が罪悪感を少しでも減らせるよう、気配りしてくれたのだ。


「……ありがとう。それとアリサの父親のフォンティーヌ卿に出頭命令を。くれぐれも手荒なことはしないでね」


私は涙を拭い、感謝の一礼をして、羽根ペンで追記とサインをおこなった。手の震えを必死で抑え書き終えたが、今度は嗚咽が抑えられなくなった。


……アリサ……!! 私はね、あんたに大好きって言われて、ほんとは嬉しかったんだと思う。だって、今、胸が張り裂けそうなぐらい悲しいもの!! ……なんでこんなことしたの!! こんなつらいことを私に選択させないでよ!! 馬鹿!! 大馬鹿!! 馬鹿アリサ!! 


「……私、あんたを何度も助けたよね……!! こんなことのために……私の手で殺すために、あんたを助けたわけじゃない……!!  ……私……もう、あんたを抱きしめてあげることもできないんだよ……!! こんな終わりかた……やだよ!! ひどすぎるよ……!!」


もう限界だった。耐えきれなくなった私は、机に突っ伏し、髪を振り乱して号泣した。 


「……よ、よくぞ耐えられた……!! 姫様の悲しみを背負ってやれぬ我が身の不甲斐なさよ!! 腸が怒りでねじきれそうです……!! せめて、せめて、今は女王の責務を忘れ、気が済むまでお泣きくだされ!! 誰にも泣き声は聞かせませぬ!! そのあいだはこのマッツオ、命にかけても何人もここには通しませぬぞ!!」


マッツオの形式ばった物言いが崩れた。大目玉をまっかにし、肩を大きく震わせると、大声でおいおい泣きながら部屋を飛び出していった。蝶番がちぎれそうな勢いで扉が締められる。侍従や小姓に、しばらくここから離れていよ、と涙声で怒鳴るのが聞こえた。情に厚い彼は、義務的にふるまうことで激情をこらえていたのだ。


ざわめきが遠ざかる。しんと周囲が静かになった中、私はアリサの手紙の入った小箱を抱きしめた。もうアリサ本人を抱きしめることは叶わない。そう思うと、あの子の書いた手紙でさえ、とても愛しく感じた。


「……ごめんね……!! ごめん……!! 私、あんたをもう救ってやれない……アリ……サ……!!」


私はしゃくりあげながら、アリサの名前を途切れ途切れに何度も呼んだ。

天を仰ぎ、立ち尽くし、子供のように声をあげて、いつまでも泣き続けた。


       ◇


三間離れた衛兵の間にまで、スカーレットの泣き声は届いた。悲しく細く長く、泣きなれていないことがわかる、不器用な寂しい泣き方だった。天涯孤独になった孤児を思わせた。


どうしてなの、アリサ……!! という切ない呼びかけが混じっていて、マッツオは両耳を覆ってうずくまるようにして呻いた。


「……これは……たまらん……!! 刃物で胸をえぐられるほうが、まだマシよ……!! なぜ、姫様ばかりが、こんな悲しいめに……!!」


苦悶の声を漏らす彼もぼろぼろと涙を零していた。


スカーレットは悲しみを押し隠そうとする。声をあげて泣くのを聞いたのは、父親の「紅の公爵」を亡くしたとき以来だった。心の中ではスカーレットを娘のように思っているマッツオにとって、身を切られるよりも辛いことだった。


「……なぜだ!! このような理不尽!! 納得がいくものかあッ!!」


憤怒の形相のマッツオは、腹立ちまぎれに壁に拳を打ち込もうとした。


空気をごうっと鳴らした剛腕は、しかし、壁を粉砕する前に、分厚い両掌によって止められた。マッツオと変わらぬ巨漢が、そっと拳を押し戻す。マッツオに負けず劣らずの強面であり、顔の右側の猛獣の爪に切り裂かれたような傷跡がさらに印象を猛々しいものにしていた。商人風の服を着ているが、魁偉すぎてまるで似合わない。熊が子供服を着こんでいるようだ。だが、鋭い目つきの底には、深い理知の光があった。


「……落ち着いてください、バレンタイン卿。あなたらしくもない。耐えるのもまた戦。スカーレット姫様はお優しい。あなたが壁を壊せば、その気持ちを思い、きっと泣くのを我慢してしまうでしょう。あの方から泣く権利まで奪うつもりですか」


ひどくしゃがれた声は、かつて拷問を受けて、声帯を潰されたせいだ。


「我ら二人はスカーレット様の盾になると、「紅の公爵」様の墓前で誓ったはずです。怒りのままに拳をふるうより先に、やるべきことがありましょう」


「……エセルリード、帰ってきたのか。遅いぞ。おかげでアリサ殿の報告を、俺がする羽目になった」


盟友の帰還にマッツオは深いため息をつき、そっと拳をひいた。


「だが、助かる。正直、一人では背負いきれん。おそれながら、俺はメアリーの面影を、スカーレット姫様に重ねて見ておる。あんなふうな泣き方をされると、まことに辛いのだ……。メアリーと姫様は、身分も顔もまったく違うのに、とんだ笑い話よな」


「……笑いません。俺も、亡くなったマリーの笑顔を姫様の向こうに見ることがあります。メアリー様もマリーも、自分よりも人の幸せを願うすばらしい女性だった。姫様もそうです。俺は……俺を愛してくれたマリーに不幸しかもたらさなかった。ずっと悔やみ続けていますが、償うことさえできやしない。だからこそ、俺は姫様には誰よりも幸せになってほしいと願っている。たとえ俺の身を犠牲にしようとも」


亡き恋人を思い出したエセルリードの目に、情念の炎が燃える。


「……うむ、俺もまったく同じ気持ちよ」


冷静さを取り戻したマッツオがうなずく。


「だがな、俺はマリー殿が不幸だったとは思わん。たとえ短い間でも、おぬしにそこまで愛されたのだ。マリー殿はきっと幸せだった。あまり自分を責めると、マリー殿が悲しむぞ」


親愛の情をこめてエセルリードの肩を叩く。


エセルリードはほんの一瞬だけ、唇を引き結び、泣きそうな表情を浮かべた。苦労で年齢以上に老けた顔に、純粋で若かった頃の面影がかすめる。エセルリードは今もなお、マリーをひたすらに愛している。幸せだった頃を昨日のように思い出せる。だから、失ったときの心の傷がふさがらず、いつも血を流し続けている。二十年以上たっても、エセルリードの心の中にマリーは生き続けている。彼にとってマリーは過去の人ではないのだ。


そして、それはマッツオも同じだった。


「……ありがとうございます。メアリー様も、きっと幸せだったと思います」


「……だといいのだがな。あの世に逝ったとき、どれだけメアリーに謝ればいいのかと、いつも戦々恐々としておるよ……おお、やっと姫様も泣きやまれたようだ。このまま少しお眠りになれば、その間だけでもつらいことを忘れられよう」


マッツオは照れたように呟いたあと、ほっと息をついた。


マッツオとエセルリードは二人きりでいるときは、スカーレットを、女王陛下ではなく姫様と呼ぶ。スカーレットの父親の「紅の公爵」の逝去以後、親代わりに彼女を見守ってきた二人にとって、その呼び方のほうがしっくりくるのだ。もちろん他の誰かがいるときは、決して姫様呼びなどはしない。


二人は衛兵の間の隣の居間に移った。マッツオが暖炉の向かいの長椅子に腰をおろす。巨体すぎて普通の椅子には身体がおさまらないのだ。

エセルリードは直立したままだ。


「……で、エセルリード、帰還が遅れたわけはなんだ。『救国の乙女』がアリサ殿という証拠はとっくに摑んでいたのだろう? まさか、おぬしほどの男が物見遊山というわけでもなかろうが」


からかうようなマッツオの問いに、エセルリードの表情が険しくなった。マッツオも緩みかけた顔を引き締めた。


「……なにかあったのだな?」


「……フリーダ王国の猛虎元帥、シュタインドルフ様が身罷られました。フリーダ王国ではまだ伏していますが」


マッツオの目が見開かれた。


シュタインドルフは九王国でもっとも名高い武人の一人だ。用兵術だけではなく、武術の達人としても名を轟かせている。その苛烈な戦いぶりは猛虎になぞらえられている。黄金虎と呼ばれる堅牢無比の全身鎧は、剣ややじりをまったく通さない。常人では装備して三歩も歩けぬ超重量だが、シュタインドルフはまるで平気だ。紙の鎧でもまとっているかのように平然と動き回る。全身鎧は見かけはきらびやかだが、中は熱気と湿気がこもる地獄だ。実際に全身鎧の貴族が何人も戦闘前に熱中症で死亡している。

だからこそシュタインドルフは畏怖すべき存在なのだった。もうかなりの老齢だが、その武名は四半世紀にわたり健在であり、鉄球を装備した若き日のマッツオを一敗地にまみれさせた相手でもある。


「惜しい方を亡くしたな。叶うならば、もう一度戦場で相まみえたかった。殺しても死なないような御仁であったが……御病気か?」


誇り高き戦場の大先輩の訃報に瞑目したマッツオだったが、エセルリードの次の言葉に驚愕した。


「いえ、シュタインドルフ元帥は、黄金虎をまとわれた一対一の対決で殺害されました。相手は素手でした」


「……馬鹿な!! 鎧を着たあのご仁を一対一で破れる人間などいようはずが!! まして素手だと!? い、いや、あのブラッド・ストーカーなら、持久戦に持ち込めばあるいは……?」


黄金虎はおそるべき装備だが、全身鎧は視界が極めて悪い。小回りもきかないし、時間が経てば経つほど内部に熱がこもる。素手と聞いたマッツオが、〈治外の民〉の長の息子、神速の天才と名高いブラッドを想起したのは当然だった。あの人間離れしたフットワークでかき回し、シュタインドルフを疲労させたうえで、〈治外の民〉の秘術でとどめをさせば、あるいは……。だがー、


「シュタインドルフ元帥を倒したのは、ブラッドではありません。ご遺体に遺された手形から見て、おそらく相手は……女性……! それも黄金虎を一撃で粉砕し、シュタインドルフ元帥を死に至らしめたと、検分した者が教えてくれました」


「そんな芸当が出来る人間がいるはずかない!! 黄金虎は俺の鉄球を数発当てて、ようやくわずかに歪ますことができた鎧だぞ!! それを素手の一撃で粉砕だと……!! しかも女……!? 誰だ!! そんなたわけた検死をした奴は」


マッツオの額からぶわっと汗が噴き出た。

エセルリードが憂鬱な顔をしているわけを理解したのだ。


そんなことが女の身で可能なら、それは人間ではない。まさに魔神のしわざだ。自らが飛び抜けた猛者であるだけに、マッツオは話だけで相手の力量をおおよそ予測できた。今のマッツオはシュタインドルフよりも強い。鉄球を持てば、地上最強の候補として名前が挙がるだろう。だが、シュタインドルフを一撃で倒せる手練れが相手では、おそらく数分と地面に立っていられまい。それだけに信じられない。検分が間違っている可能性を考えるのは、むしろ理知的な判断だった。だが、エセルリードはさらに衝撃的な答えをした。


「……検死をしたのは、今お話しに出たブラッドです。たまたま居合わせた彼は、シュタインドルフ元帥の最期を看取ったがために、元帥の殺害容疑をかけられ、フリーダ王国をあげて追われる羽目におちいっていました。彼の脱出の手引きをしたのが俺だったんです」


「……なんと……!?」


マッツオは言葉を失い、大目玉をぱちくりさせた。


ブラッドの出身である〈治外の民〉は血流を操り、人体構造に精通している。その検死は並の医師よりはるかに信頼がおける。しばらく沈思黙考したあと、マッツオはようやく言葉を喉の奥から絞り出した。


「おぬしの帰国が遅れたのは、それが原因か……。ブラッドは犯人の顔は目撃したのか?」


「いえ、いくぶん深い霧の中だったため、ドレス姿の人影が遠ざかるのを見ただけだそうです。ですが身のこなしと輪郭から見ても、女装ではなく、女性であるのはまず間違いないと……」


「……ドレス姿……まるで怪談だな、ぞっとせん」


豪放磊落なマッツオが背筋の悪寒にぶるるっと身を震わせた。


「いずれにしても、シュタインドルフ元帥が亡くなられたことで、小康状態を保っていた国々は、また乱世に逆戻りだ。あの御仁は不戦派の重鎮だったからな。これで四王子の暴走をいさめられる者は、誰もいなくなってしまった。嫌なタイミングよな。『救国の乙女』の乱で弱体化しているハイドランジアがまっさきに狙われるぞ」


マッツオは嘆息し、貌を片手でおおった。


「またスカーレット姫様に心労をおかけすることになるな。申し訳なくて胸が締め付けられるわ。だが、もう一刻の猶予もない。我らも奮起せねばな」


「俺もそう思います。ですが、我らだけでは手が足りません。この国にこれから必要なのは若き人材。声をかけてみたい男達がいます。さきほどのブラッドも含め、オランジュ商会のセラフィ、闇の狩人アーノルド、呪薬師の一族のソロモン、それにもう一人……彼ら五人ならば、スカーレット姫様とこの国の未来を託せると、俺は見込んでいます」


「そして、我ら老兵は去るか。だが、立つ鳥跡を濁さずだけではつまらん。老兵の面目にかけて、若者たちの未来をさえぎる泥を全力で排除していかねばな」


「……いいですね。泥沼に咲くスイレンのように、見事に花開いてから散るとしましょう。スイレンはマリーが好きだった花でした……」


「……そうか……花言葉は、清浄だったかな。我らロートルにとっては気恥ずかしいが、あの世で待つ愛しい女達に捧げるにはふさわしい花よな。向こうで顔向けできるよう、一頑張りせねばな。頼むぞ、戦友」


マッツオは座ったままぐっと拳を突き出した。

エセルリードは驚いたように目を見開くと、にやりとし、拳をあわせた。


「よろこんで。沈みゆく老兵の最後の輝きというものを、若手に見せつけてやりましょう。さっそく若き星たちに声をかけてみます」


志を同じくする、ともに亡き恋人の面影を永遠に忘れられない二人の戦友たちの拳がぶつかりあい、鈍く重く決意の音を響かせる。


だが、彼らは知らない。

本来なら歴史を変えるはずになったかもしれない拳の音が、すでに無意味になっていることを。

エセルリードが見込んだ五人の若者たちの運命は、すでに悪魔の手中に握られており、やがて彼らがスカーレットに牙をむくことを。老兵たちを待ち受けるのは悲劇だけということを。


「……あはあっ、もう遅いわ。すでにすべての種は植え終わった。転がり出した運命は、誰にも止められない。悪意の狂い咲きのはじまりよ。人の思いなど、みな腐れはて、大地の養分になるがいい。すべてはスカーレットという哀しみの大輪の花を開かせるために。あはっ、あははっ!!」


ハイドランジア滅亡の足音が、悪魔の嘲笑に率いられ、ゆっくりと包囲の輪を絞り始めていた。


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