第50話 108回の記憶。決着。散りゆく命、されど想いは時をこえて。そして再びループがはじまるのです。

「……セラフィ!! ……俺のせいで!! 俺はどうして、こんなに馬鹿なんだ……すまねぇ……!!」


ぐったりしたセラフィの胸に顔を埋め、悲嘆にくれるアーノルドに、アリサは侮蔑を投げかけた。


「……あら、向かってこないの? 感情にまかせた先走りで、お友達を死に追いやったのに、いいご身分ね。盛り上がるだけ盛り上がって、あとは泣くだけなんて、幼子でもたやすいこと。身勝手な人生ほど楽なものはないわね、お友達のことよりも、自分の気持ちが第一なのね。無駄な謝罪などただの自己満足よ」


壊れかけた礼拝堂で、アリサは床に膝をついて慟哭するアーノルドを見下ろし、まるで聖職者のように静かに語りかけた。語調には罪悪感の欠片も感じられない。セラフィを殺した本人が口にしていい言葉ではなかった。アリサは、諭されたアーノルドがどう反応するのかと、言葉を切って、興味深く様子をうかがった。深く嘆くあまり、アーノルドの耳にアリサの声は届いていない。アリサはあきれ顔になった。


「……興ざめね……。責任感のない、筋を通さない男は嫌いよ。少なくとも『真の歴史』のあなたなら、嘆く前に私をまず射たわ。……ああ、そうだ……私から、あなたたちに一つ謝ることがあったわ……。取るに足らぬ小者にも筋は通さなければね」


アリサは失望のため息をつき、それきり興味を失ったように、ぷいと視線をはずした。

ステンドグラスのモザイク片が、ささめ雪のように光って、ぱらぱらと落ちてくる。

先ほどの死闘の名残だ。天井近くのステンドグラスの天使は、膝から上を吹き飛ばされていた。窓枠にこびりついている破片が剥がれてきているのだ。

破壊がもたらした思わぬ美しい光景を愛でるように、アリサはしばらく上を眺め、それから美しい黄金色の巻き毛を炎できらめかせ、憂いを含んだ睫毛を伏せた。


そうしていると儚げな乙女そのものに見えた。

〈救国の乙女〉という名称さえ、そのか細い肩では背負えなそうに思える。

アリサのそばで燃え続けるロマリアの業火とまったく不釣り合いだ。

紅蓮の炎よりも、薔薇の庭園や美しい庭園がふさわしく見える。


だが、アリサの物憂げな睫毛の下には、炎を上回る灼熱の悪意が渦巻いている。かわいらしい姿の皮一枚下には、獰猛な人食い虎の本性がうずくまっている。それも生きるための狩りではなく、遊びのため殺しに励む、とびきり残忍なやつだ。そのうえひどい気分屋だ。


アーノルドに激昂し、ためらいなく殺そうしておきながら、期待通りの行動をしないと深く失望し、侮蔑する。気まぐれな雷雲のように次の行動が読めない。自分の気持ちが世界のすべてであり、邪魔立てする者には容赦しない。焼き尽くさずにはいられないのだ。通常の人間が持ち合わせる、社会で生きるための妥協というものが欠如している。異質すぎるメンタルだった。


異常な狂気とダイヤモンドのように強固な精神力、それがアリサという化物の本質だ。

美女だから、武の才能に恵まれているから、という理由でつくられた性格ではない。

アリサはとにかく徹底的にアリサなのだった。


柔らかな唇が、冷たく凍りついた冬の三日月の形をとった。

アリサはわざとらしく嘆息し、髪を束ねた頭の黒いリボンに手をやる。


「……私は今までもったいつけて力を出し惜しみしていたわけではないのよ。ループで得た力を使うのは、私の美意識が許さなかっただけ……ゲームは同等のカードで始めなければ面白くない。圧倒的な力で潰すだけでは勝負の醍醐味を味わえないもの。いえ、人をゴミのようにただ殺すのは勿体ないと思っている。そうね、きっとそうよ」


黒いリボンを指先で弄りながら、アリサは突然語りはじめた。

無邪気な子供のしぐさのようだが、本性を知るブラッドの目には、人食い虎が玩具で遊んでいるようにしか見えない。

言動が気まぐれな猫科そっくりなのもあり、余計にそう見えるのかもしれない。

突飛すぎてわけがわからない。

たぶんその場に人間が誰一人いなくても話を続けたろう。

自分の世界がすべてのアリサにとって、返答の有り無しなどさして重要ではないのだ。

他人の意見に耳を傾ける気など、さらさらないのだから。


「……だって私は人間が懸命にもがく姿が大好き、困難にもあきらめない心が愛おしい。だからこそ燃え尽きる最期は美しいもの。そのとき、人は誰でも輝く名優となる。この私の胸を焦がすほどにね。……もっともっと堪能したい。だから私は、みんなが立派に役を演じられるよう、その人生に干渉するの。ときに怒らせ、ときに悲しませ……観ている私の心がもっともっと沸き立つようにね……」


うつむき加減だったアリサの顔があがった。

狂った信念と炎の照り返しが、アリサの双眸にぎらついた。

両手を大きく広げて、炎の中で高らかに笑う。


「……あははっ、誰よりも大きな力を持つということは、決して胸が高鳴ることばかりではないの。思うままに強い力をふるえば、どんな馬鹿でも、たいていのことは実現できるわ。でも、なんでも願いの叶う人生ほどつまらないものはない。だから、ほどかない黒のリボンは、安易に力におぼれないようにという私自身への戒め。私が心のときめきを失わないための道標よ。でも、私はもう弱くなることは出来ない。困難に挑戦する喜びは得られないの。……だから限りある命で、精一杯生き抜く人間を見たとき、私は熱くなる。もっと試練を与えてみよう……ひ弱な力しかないのに、なんて心を打つ美しい人生を見せてくれるのかって……」


思慮深い言葉にも聞こえるが、根本的に狂っていた。

他人を踏みにじることで、心を愉しみで満たそうと思っている時点で。


「……アリサああっ!! ふざけるな!!」


怒りで我を忘れたブラッドが、雷光のように飛び出した。アリサはブラッドの里を焼き、アーノルドの家族を処刑し、セラフィを殺めた。それもやむを得ずではない。アリサが愉しむためだけに散った命が無数にある。美辞麗句をならべ、笑って語ることが許せなかった。


ブラッドの姿が、ふっと消え、コマとばしのようにアリサの側に現れる。十メートル以上の距離を一瞬で詰めた。踏み込み技の〝刹那〟を使ったのだ。その加速をのせ、大きく踏み込んでの拳の一撃がアリサの胸をとらえた。


「……そんなくだらないことで、おまえはどれだけの人の幸せを壊した……!! 人間が死に物狂いで生きる姿を娯楽感覚で語るな!! みんなの人生は、おまえの玩具じゃないんだ!!」


ブラッドは歯軋りした。アリサは真の天才だ。その気になれば、不可能はほとんどない。被害を最小限に抑えることもできたはずだ。なのに、彼女はその能力を地獄を作り出すことに使い続けた。スカーレットは犠牲者を少なくしようと、常に必死で頑張ってきた。歯を食いしばって耐えてきた。罪悪感で一人泣き崩れていた。それをこいつは……!!


〝伝導〟が拳から走り抜ける。だがアリサは避けようともしなかった。

帯電した鉄の塊を殴りつけたような異様な感触がはねかえってきて、ブラッドの拳を軋ませ、身体を大きくのけぞらせた。


「……くだらない? ものの価値のわからぬ愚物が。人の命の輝きに勝るものはないわ。そして快楽の追求に命を懸けられるから、人は文明を発達させてこられたのよ。……私の言葉を途中で遮り、ただで済むと思っているのかしら。ふふ……あははっ、くすぐったいわ。……ブラッド、あなた〝血の贖い〟もなしの〝伝導〟がこの私に通用すると思ってるの……愛撫でもしているつもりかしら」


アリサは冷たく睨みつけたあと、あははっと笑い声をたてた。水滴をとばそうとするかのように、ぶんっと腰から上をねじる。アリサの周囲の空気がぐにゃりと不気味に歪んだ。おおんっと薄気味悪い金切り声のような耳をつんざく音が渦をなす。


「……ふん、二十点というところかしら。愛撫にしては乱暴。攻撃にしてはぬるい。私の主張を覆したいなら、もっと本気できなさいな。弱者の遠吠えほど滑稽なものはない……殺意を抱くなら、全身全霊で来い。うわっつらの拳で私に語りかけるな、無礼者が」


侮蔑と採点を吐き捨て、アリサの目が再び鋭くなる。

破けたドレスが、暗い魔の森のように妖しくざわめく。


「……吹き飛べ……!! 後悔を噛みしめながら……!!」

「……なっ!?」


アリサの唇が弧を描く。ブラッドは高圧電流に接触したかのようにはじかれた。激痛に貫かれ、息が止まりそうになった。目が驚愕に丸くなる。アリサは手も使わず、ブラッドを〝伝導〟ごと吹き飛ばしたのだ。ごおっと竜巻に引き上げられた気がした。奇怪な力の流れに身体が翻弄される。腕を背にねじ上げられたかのように、まったく抵抗できなかった。ブラッドは心の底から震駭した。自分が受けた技が予想通りのものだとしたら、アリサの技量は想像をはるかに超えた高みにある。


「……馬鹿な……!!」


ブラッドは呻いた。信じたくなかった。実力差がありすぎる。勝てる見込みは零だ。宙高くはね飛ばされたブラッドと、見上げるアリサの目が合う。アリサの口は三日月の笑みを描いていた。黒い渦のようにざわざわとドレスの裾が広がっていた。闇空の深淵に見えた。

一瞬遅れて体中が激痛の炎に包まれ、宙を舞いながらブラッドは悶絶した。


「……あはあっ、踊りなさい。嘆きの舞いを。……さすがに気がついたようね。より絶望できるよう、特別に詳細を教えてあげる。今のは〝鬼哭〟……。瞬間的に、〝狂乱〟を倍加し、身体全体にまとったものよ。ああ、それとあなたの得意技の、相手の力をそのまま返す〝流転〟……あの効果も含んでいるわ。攻防一体の絶対の盾よ。九回目のループで習得したかしら。あなたの攻撃はもう私には届かない。ましてそんな出来損ないの〝伝導〟ではね」


アリサはくすくす含み笑いをした。

楽しそうに解説をするさまは、ポーカーで圧倒的な手札を開示するときに似ていた。参加者全員のひきつった顔を眺めながら、わざとゆっくり役を口にするのだ。ブラッドを戦いではなく、精神的に追い込むことに興じていた。ブラッドにとっての死闘は、アリサにとっては余興でしかなかった。


「……ああ、言い忘れたけど、〝鬼哭〟ではじいた相手には、〝狂乱〟数発が同時に入ることになるわ。注意なさい。下手に手を出すと、拳がへし折れるどころかあの世逝きよ。……あら、忠告、遅かったかしら」


アリサはわざとらしく口に手をあて嘆息した。隠された口元は嗤いを刻んだままだ。


「……がっ……!?」


強化された〝狂乱〟を体内に受け、ブラッドの身体が、ねずみ花火のように空中で振り回される。体内で爆弾が炸裂したような衝撃だった。内臓を傷つけられ、吐血が赤い花のように円を描く。見えないパートナーと踊り狂うようなその様を鑑賞し、アリサが嗤う。


「……あなたが踊りを楽しんでる間、解説を続けましょうか。〝鬼哭〟はね。操作した私の血流の渦を力の起点にするの。わかるかしら? あとは〝天舞〟の要領で、力の渦を大きくすればいい。身体を大きく動かす必要もないわ。今のあなたのような不要で派手な動作は見苦しい。礼儀作法と武は洗練よ。……ふふ、ぶざまなダンスだこと、せめて着地ぐらい上手に決めなさいな」


アリサは失笑し、すっと床を指し示した。


「……いつまで私を見下ろしているつもり? いい加減に堕ちなさい」


轟音がした。

瓦礫まみれの床に叩きつけられ、ブラッドは襤褸屑のようになって何度もはねた。まるで透明な巨人に掴まれ、力いっぱい投げつけられたようだった。勢いを殺しきれず、盛大に床の残骸をまき散らし、転がっていく。幾たびもの激突をブレーキ代わりにし、ようやく停止する。象に突き飛ばされてもこうはならないだろう。そのまま全身骨折で死亡しても不思議ではないすさまじさだった。


埃がもうもうと舞う。

割れ砕けた木材が新たなぎさぎざの折れ口をさらす。

樹脂のつんとした香りと、埃の甘い匂いが混ざる。

砂っぽいざらざらしたしっくいの感触がばらばら落ちてきた。


「……ふざけんな……化物っぷりに……磨きがかかりすぎてんだろ……」


それでも、ブラッドは呻きながら立ち上がった。

出血量は尋常ではなく、血潮の鉄くささがこちらまで匂ってきそうだ。

奇跡に近い。百人が百人ともブラッドは死んだと判断するような惨状だったのだ。

アリサの目に軽く驚きがよぎる。

瓦礫と混ぜこぜになっていても不思議はなかったのだ。


「……女っぷりに磨きがかかったと言ってほしいわ。みっともない着地ね。十五点よ。でも、まだ立ち上がれるの。……不思議だこと。私の鬼哭をまともに受ければ『真の歴史』の貴方の肉体でさえ、ただではすまないはずなのに。……ああ……ふふっ、ペテン師さん、なんとなく事情が呑み込めてきたわ」


ブラッドの身体がぼんやりと発光しているのを確認し、アリサは口元をにんまり吊り上げた。


「……やっぱりね。劣化したループの肉体にしては、異常に頑丈だと思った。『真の歴史』ではお馴染みのはらわた煮えくりかえる光景……ふふ、……懐かしいわね。スカーレットのために戦うとき、あなた達五人の勇士はいくら打ち倒しても、不死鳥のように立ち上がってきた」


アリサは目を細める。その奥に氷刃がきらめく。


「……愛しい姫を守るためなら、奇跡をも起こす勇士たち。あなた達はいつも自身の能力以上の力を引き出され、私に挑んできた。あはっ、まるで黴の生えた神話ね。でも敵に回す方としては、これほど厄介な反則技はなかったわ。私も七妖衆もずいぶん辟易させられたものよ。……ともに真祖帝の資格をもつ私達二人なのに……スカーレットだけに許された唯一無二の加護の力……」


途中からほんの少し優しい語調に変わった。

アリサは失われた二人の関係の記憶に思いを馳せた。

彼女には珍しい、郷愁を帯びたような遠い目を、ちらりとだけ見せる。悪意や殺意がすとんと抜け落ちていて、まるでアリサらしくなかった。


奇跡的に無傷の祭壇を背後に、アリサはふわっと跳躍した。そのまま不遜にも祭壇に腰掛け、見せつけるように綺麗な足を組む。

礼拝堂のおごそかな雰囲気を挑発するかのような態度だ。

天界の規律に叛逆する美しい堕天使を連想させた。

すっと右手を前に差し出すと、礼拝堂の屋根に空いた穴から光が差し込んだ。たまたま雲間から日がのぞいただけなのだが、とてもそうは思えなかった。まるで天候まで従える生まれながらの女帝のようだ。目が離せない。奇妙なほどタイミングに愛された人間というのはたしかに存在するのだ。


アリサの視線はその場の誰にも向いていなかった。

彼らの背後のスカーレットの亡骸にのみじっと注がれていた。

その頬が桃色に上気していく。


「……ブラッド・ストーカー、正直に答えなさい。スカーレット、生きてるんでしょう。気を失っているだけだったのね。でなければ、その忌々しい力が発動するわけないもの。どうりでループが始まらないわけだわ」


紅い瞳をえへらと喜悦に歪め、楽しそうに問いかける。

声と息がはずんでくる。喜びで身もだえする。

ブラッドの沈黙を肯定と判断したのだ。


「あはっ!! あははっ!! どうりでセラフィとアーノルドに、スカーレットを連れ逃げてくれと、必死に頼みこむわけね」


不遜で傲岸な雰囲気が一変し、幼女を思わす天真爛漫さで、両足をばたつかせる。スカートの中身が見えるのもお構いなしだった。そうしているアリサはいつもの冷酷さや色気ではなく、子供っぽい無邪気さが強く前面に出てくる。嬉しくて興奮しきった子猫のようだ。

図星をつかれ言葉に詰まるブラッドを見て、ぐいっと身を乗り出した。

得意そうに自分の推理を語り出す。


「ブラッド……あなた、自分の命を使い、スカーレットを蘇生させたわね……可能性は少しは考慮していたのだけれど。嘘泣きに見事に騙されたわ。心臓止めで瞬時に殺したから、心臓そのものは壊れきっていなかったのね。あの悲しみぶりを囮にして、この私を欺くなんて大した役者だこと……ずいぶん悪い男になったわね。私達、やっぱりお似合いなんじゃないかしら」


のぞきこむようにするアリサの頬にからかう笑みが浮かぶ。


「……人聞きの悪いこと言うな。演技なんかする余裕なんざなかった。スカーレットを殺しちまったあと……『真の歴史』の記憶が戻ったときは……絶望で目の前がまっくらになったよ。あわてて心拍同調をかけたけど……蘇生するかどうかは正直賭けだったさ。……生きた心地がしなかった。息を吐くように嘘をつくおまえなんかと一緒にすんな」


むすっとして吐き捨てるブラッド。

スカーレットが蘇らないのではないかと恐怖したことを思い出し、頬が鳥肌だっていた。

その怯えぶりに、アリサは金髪を揺らし、ころころと笑った。

そして思い出したように、再び妖艶な気配をまとった。

だが、足のばたつきはそのままだった。


「……あははっ、おかわいい純愛だこと。そんな坊やだから、スカーレットを抱くチャンスを何度も棒に振ったのよ。ふふっ、そして思い出すわ。……心拍同調ね……他人の血を操り、『血の贖い』さえ再現させるあなたの奥の手だったわね。ただし引き換えにあなたは自分の大量の血液を捧げるのよねえ」


流し目をくれるアリサはひどく魅惑的だった。

男心を手玉にとる花魁を思わせた。

くるくると雰囲気が目まぐるしく変化し、目が離せない。まるで変幻自在の万華鏡だ。

上機嫌の彼女には、人の心を虜にする華やかさがあると、ブラッドも渋々認めざるをえなかった。男に媚びているお花畑令嬢のときとは比較にならない。

アリサは女優の一人舞台のように語り続ける。

ただ話をしているだけで絵になった。


「……実際『真の歴史』では、スカーレットにかけた心拍同調の失血が、あなたの命取りになった。……今回はそれを使い、停止したスカーレットの心臓を再び動かしたのね。……ああ、死体のスカーレットも可愛いけど、生きたスカーレットへの可愛さのほうがやっぱり数段勝るわね」


脚の動きをぴたりと止めたアリサは、視線を戻し、うっとりと頬を染めた。

行儀よく両膝を閉じた。

奥をスカーレットの前でうかつにさらけ出したことを恥じているようだった。


「とても深い眠りは、心臓を蘇生した副作用ね。ふふ、まるで眠り姫だわ」


アリサは女王スカーレットの唇に目をやり、舌なめずりした。

チェシャ猫にそっくりだった。

今や女王が生きていることは明らかだった。耳をすますと、規則正しい微かな呼吸音が聞こえる。薄い胸が上下するのがはっきり見て取れた。


「……でも、蘇生なんて自然の理に逆らった技、代償は……そうね、ブラッドの全血液量の半分といったところかしら。血流操作でかろうじて命を保っていたのね。そこまでのハンデを抱えてこの私と闘ったなんて、ふふっ、なめた真似をしてくれる……。どうりで『真の歴史』のブラッドにしては技の切れに欠けると思った。早とちりで失望しかけた私を怒鳴りつけてやりたいわ。やはりあなたは私の恋敵にふさわしい。……そしてお利口さんのセラフィ・オランジュ、話が聞こえていたようね。さすがね。早速応用するなんて驚きだわ……。褒めてあげる」


アリサがしきりに感心しながら、がっくりと人形のようにうつむいているセラフィに声を掛ける。セラフィを抱きしめ痛哭していたアーノルドが驚きの声をあげる。セラフィの身体がうっすら光ったかと思うと、身を震わせ、咳き込みながら血を吐き出したからだ。


「セラフィ!?」


「……ほんとだ……もう駄目だと思ったのに……女王を守ると強く思った途端……『真の歴史』……まだ信じられない……まさか、ぼくらの使命が女王を守ることだったなんて……」


息は苦しいが、言葉まではっきり口にする。アーノルドはおいおい泣いてしがみついた。


「……き、きたない……」


「バッカヤロウ!! こんな心配させといて、ひでぇ台詞だ!!」


泣き笑いの鼻水まみれのアーノルドに揉みくちゃにされながら、当惑して仰天しているセラフィに、アリサがくすくす笑って告げる。


「……驚いたでしょう? でも、過度に期待しないほうがいいわよ。加護の力なんて名ばかりよ。その力はあくまでスカーレットを守るためのもの。あなた達のための力ではないわ。スカーレットの盾にするため、五人の勇士の能力を限界以上に引きずり出す力よ。……あとで反動で死のうがお構いなし。……『真の歴史』のスカーレットが、自らの力を呪って、封印したいと願ったほどにね。だから、どのみちあなたの命はもう長くは持たないわ。もちろん目が治るわけもない。あはっ、かわいそうねぇ」


「……そんな……!! セラフィ……!!」


残酷な宣告にアーノルドが絶句する。

アリサの言葉を聞かせまいと、彼女に背を向けるようにし、セラフィを強く抱え込む。


「……苦しいよ、アーノルド。お互いにいい年なんだから、やめてくれ」


とセラフィは苦笑し、居心地悪そうにもぞもぞし、腕から抜け出した。

彼は冷静にアリサの言葉を受け止めていた。


「……アリサ、心を崩すおまえの手にはもう乗らない。僕は死を恐れない。海では板一枚隔てていつも死と隣合わせだった。死は腐るほど覚悟してきたんだ。……だから、これが仮初の命だろうと感謝しかない。この再チャンス、必ずモノにしてみせるだけだ」


セラフィは顔をあげ、アーノルドの腕をがっと掴んだ。

目が見えていないので距離をはかりそこない、アーノルドの顎に頭突きすることになった。


「……痛っ!?」


ごちんと音がし、アーノルドがのけぞるが、必死すぎるセラフィは、頭がぶつかったことにも気がつかなかった。アリサが腹を抱えて笑う。


「アーノルド!! 頼む!!  弓を取って、僕とともにアリサと戦ってくれ!! 女王が生きていることがアリサにばれた。もう逃げられない。戦って道を切り開くしかなくなった。……女王の生存を伏せたのは、正直すぎる君に隠し事は無理と思ったからだ。……アリサは強すぎる、気づかれないまま、できればやり過ごしたかった。だけど、決して君を侮ったわけじゃない。君の矢ならアリサにだって通じると、僕は本気で信じている。……僕はもうじき死ぬ。僕の最後の願いを、友としてどうか聞き届けてほしい……!!」


内緒にしていたことをよほど気にしていたのだろう。アーノルドへの信頼を強い語気で口にした。必死だった。口の端から血泡をふきながら、しがみつくようにして一気に語った。


「セラフィ……」


その悲愴な懇願に、泣き顔だったアーノルドの形相が、戦士のそれに変わった。


「……俺には自分程度があの怪物に通じるとは到底思えねぇ。だけどよ、おまえが言うんなら、きっとそうなんだろうよ。俺が一度でもおまえの言葉を疑ったことがあるか? 俺にとってセラフィ・オランジュは世界で一番信頼できる、最高の友なんだぜ……」


セラフィの口の端をの血を拭い、立ち上がり、前に一歩踏み出す。

弓を構えたアーノルドの目には、もはや迷いはなかった。


「泣くのは後にするぜ……おまえの願い、俺が断わるわけねぇだろう。謝るな、頼むな、ただ命じろ。アリサだろうと悪魔だろうと、必ずぶち抜いて、おまえの目が正しかったって証明してやる……とりあえず今はそれだけしか考えねぇ。風読みを頼むぜ……」


ぎりぎりっと弓を振り絞るアーノルドの言葉に、セラフィは嬉しそうにほほえんだ。


「……まかせろ。ぼくは風を肌で感じる。目が見えなくても支障はない。タイミングを合わせてくれ」


アーノルドがうなずく。


「……あはは! すてきね。鼻につく友情ごっこ。いつまで男二人の愁嘆場につきあわされるのかしら」


ブラッドはぞっとした。

アリサが笑っているのは、アーノルドたちの頭突きではなく、死にゆく友との悲痛なやりとりがおかしくてなのだと気づいたからだ。


だが、アリサに茶化されても、アーノルドの心はもう揺るがなかった。

眉一筋動かさない。

そのとき、背後で床に横たえられているスカーレットが身じろぎした。


「……死なないで……マッツオ……」


意識が戻ったわけではない。小さな小さな無意識の呟きだった。子供のように身を丸めたスカーレットをアーノルドは悲しげに見おろした。肺腑をひどくえぐられた気がした。その言葉と目尻に光る涙は、マッツオの命を奪ったアーノルドを、心の奥まで強く揺さぶった。泣き顔に胸が締め付けられる。


「……俺が弓をひく理由がもう一つあったよな。……俺のしちまったこと、許してもらえるとは毛頭思ってねぇ。……けどよ、マッツオのおっさんから託されたあんたの命だけは、なにがなんでも守り通してみせるぜ。……だから、もう泣くな。俺がおっさんの代りに、おまえを守る。盾じゃねぇ尖った矢にしかなれない成り損ないだけどな。ここは俺達に任せてよ……今はゆっくり眠ってな」


健気なスカーレットを守ってやりたいとの思いが、心の底からふつふつと湧き上がる。

涙を拭ってやる代りに、アーノルドはさらに弦を強くひいた。

優しく語りかけた後、きっとアリサを睨みつけたアーノルドの髪がざわっと逆立つ。怒りではない。度外れの集中に入ったのだ。ぼうっと自身の身体が発光したのにも気づかない。金色の目が静かにしかし煌々と射るように底光りしだす。

アリサは、ほうと息を漏らし、目を細めた。


「……ようやく鷲は巣立ちしたようね。……待ちわびたわ。今のあなたなら私と同じ舞台に立つことを許してあげる。……焼き殺されたあなたのお父様、お母様、弟さんも、きっとあなたの成長を祝福してくれるわ。ああ、でも晴れ姿を見届ける目は、熱で白くはじけてしまっていたわね。かわいそうに」


アリサのあおりにもアーノルドは激昂しなかった。


「……セラフィの台詞のパクリだけどよ。もうその手には乗らねぇよ。俺は俺の成すべきことを成す。それだけだ」


「ふん、羽根の生えそろったばかりの分際で、さえずりだけは一人前ね。もっと早くその嘴と爪を見せてくれたら、私も退屈せずにすんだのにねえ」


アリサは鼻で笑ったが、意外にご満悦だった。

ご機嫌の虎がごろごろ喉を鳴らすさまを思わせた。


「……このままあなた達を皆殺しにするのは容易い。新月の終わりまで待てば、私の予知は復活し、あなたたちは手も足も出なくなるもの。……だけど、それじゃ舞台はつまらない。せっかく加護の力で能力を引き出されたんですもの。今の私にどこまで抗えるか試してみたいわ。……特別よ。あなた達が大好きな正面戦にとことんつきあってあげる」


アリサはにんまり嗤い、腰かけていた祭壇から、ふわりと軽やかに着地した。


「ふふ、いつぞやの岬の小城を思い出すわ。あのとき、あなたたち三人は私を出し抜き、見事にスカーレットを救出してみせた。あの奮戦を期待するわ。だけど、今回は乗って逃げるブロンシュ号はない。私もあなたたちを見逃すつもりもない。……目と耳と鼻を潰し、四肢をへし折っても、舞台は終わらせない。最後まで地獄につきあう覚悟をなさい、見せてあげるわ、力の果てを」


アリサはするりと黒いリボンをひく。頭を振り、ほどけた金髪をふわりと広げる。

結んでも整えてもいない自然なままの巻き毛のアリサは、無邪気な幼女の印象を与えた。

天使のような容姿だ。


「……さっきの鬼哭だけどね。強力な反面、瞬間的にしか使えないの。でも、もし戦闘中ずっと身にまとえたら……ちょっと素敵なことになると思わない?」


声をひそめ内緒話のトーンになったアリサに、ブラッドの頬がひきつる。ちょっと素敵どころかまったく笑えない。悪魔の発想だ。冗談じゃないと叫びたくなった。


「……だけど、いくら私が努力してもその願いは叶わなかった。人の域を超えた紅い瞳の私でも、鬼哭の維持は負担が大きすぎた。だから思ったの。じゃあ、さらにその先の領域ならどうかって……私、努力は嫌いではないのよ……」


「……才能の化物で、努力好きで、ループを繰り返してるとか……ほんと勘弁してくれよ……!!」


聞かなきゃよかったとブラッドは心底思った。


床の鳴動が悪夢のはじまりを告げていた。

アリサが、オーケストラの指揮を始めるかのように、すうっと両手を上げた。

目を閉じて顎をつんとあげ、きどっていた。

気圧が変化し、きんっと耳の奥が痛くなる。

鐘楼の鐘がおごそかに鳴り響きだした。

死の告知を思わす不吉な音だ。


アリサが原因なのは、口元の歪んだ笑みからも明らかだった。


「……私はスカーレットと違い、真祖帝の力を限界まで使いこなしている。そこに「血の贖い」を重ねたらどうなると思う……」


残酷にアリサが囁く。背中からゆらりと血煙が立ち昇った。天使の翼のような形になり、大きく羽ばたく。悪魔の赤い翼にも見えるそれは、壊れた礼拝堂によく似合った。


「あははっ!! 綺麗でしょう。スカーレットにいつか見せようと楽しみにとっておいたけど、特別にここで披露してあげるわ。感謝なさい。さあ、絶望の交響曲を奏でましょう」


鐘の音を背後に、アリサが子供のように哄笑する。

礼拝堂じゅうにその笑い声は響き渡った。反響し、無数の笑い声となって飛び交った。

ブラッドは言葉を失い、荘厳で冒涜的な威容に立ち尽くした。

アリサの翼は、ブラッドの最強の技、無惨紅葉の発動時に顕現する翼の、ゆうに十倍以上あった。それは二人の強さの差を残酷にあらわしていた。


「……これが真祖帝のさらにその向こう、神祖の力とでも名乗ろうかしら。……ここからは私だけの領域よ。十回目のループで体得したわ。紅い瞳の力を疑似再現しただけの〝血の贖い〟とは少しばかり次元が違うわよ。今から私が解き放つ技は、すべてがあなた達を絶望させる。……だけど、意外と絶望の底に希望は隠れているものなのよ。……答えなさい、ブラッド。あなたたちが助かる道を。不正解ならば、今すぐ皆殺しにして終わらせるわ」


出血多量で蒼白なブラッドに、アリサは理不尽な問いかけをする。

まるで、虜囚相手に、高所の玉座から答えを強要する女帝だ。

もちろん虜囚は、顔を床に押し付けられ、喉元に刃を突きつけられている。

こちらの都合や体調などお構いなしだ。

気にいらない答えを出されたら、即死刑にするだけだからだ。


「……おまえのそれは、とんでもなく強化された〝血の贖い〟だ。だったら力に比例し、血の量を消費量もとんでもないはずだ。長くは維持できない……きっと効果が切れた後の反動も半端ない。たぶん、疲労でまともに立っていられなくなる。……そこが勝機だ」


自分の実体験と照らし合わせ、断言するブラッドだが、疑惑に眉間が曇っていた。

わざわざ弱点を明かすアリサの言動が、意味不明で不気味すぎる。

アリサはそんな甘い相手ではないと百も承知だ。

冷酷で敵に容赦がない。その上、彼我の力量差は歴然だ。


アリサが口にしたとおり、「血の贖い」は、真祖帝のけたはずれの身体能力を、自分の血液を贄にすることで再現する奥義だ。人外の領域への扉を、強制的にこじ開けるためのものなのだ。だが、紅い瞳のアリサはもともとその扉を開けている。そこからの覚醒は、人外の領域のさらに一つ向こうに踏み込む必要がある。

それを成し遂げたアリサは、ブラッドにさえ想像できない高みに到達した。問答無用で超短期決戦を仕掛ければ、弱点を見抜かれる前に、ブラッド達を皆殺しにできたはずだ。


訝し気なブラッドの様子に、アリサは朗らかに声をたてて笑った。


「あはっ、さすがね、正解よ。キスでもしてあげようかしら」


「……いらねえよ、それより、なんで弱点をばらす?」


「つれない上にせっかちねえ。言ったでしょう、圧倒的な力で叩き潰しても面白くないって。私は人の懸命のあがきが見たいの。処刑ではなく、戦いをする以上、ちゃんと希望は残してあげるのよ」


とアリサは悪びれずに言った。


「この二重覚醒は急速に血液を消耗する。力が大きすぎ、私にとっても諸刃の剣なの。華奢な女の身では、血液量だけはどうやっても増やせない。ふふ、この身体を見れば、わかるでしょう。一定時間耐えしのぐだけで、あなたたちの勝ちよ」


アリサは、胸以外はすべてが折れそうなほどほっそりした身体のラインを見せつけるように、くるりくるりとターンを繰り返した。紅い翼が可憐に舞う。


ブラッドがいやな顔をした。フェミニストの彼は本来女性と殺し合いなどしたくない。アリサという桁外れの怪物だからためらわずに拳を振るえるのだ。アリサの細いうなじを見てしまい、女性を意識し、罪悪感に駆られる。もちろんアリサは計算して嫌がらせをしている。ブラッドの性格を見抜いていて、心を引っかき回して楽しんでいるのだ。


「……華奢……よく言うぜ。世界一、おまえに似合わない言葉だな。今度は何を仕掛けるつもりだ」


アリサの性格を熟知しているブラッドは、おのれを奮い立たせるように乱暴に吐き捨てた。


「心外ね。外見だけなら、私ほど男の庇護欲をそそる女、そうはいないわよ。ふふ、安心なさい。今回に関しては騙したりしない。これはハンデを抱えて戦ったあなたへの、私からのつまらない自己満足のプレゼント。だけど無条件で勝ちを譲るほど私はお人よしではないの。どうせ死ぬのに変わりないなら、後悔のないよう力いっぱい挑んでいらっしゃい」


アリサは踊りながら、鷹揚に答えた。

布切れがまとわりついているだけの無惨なドレスも、その高貴さは損なえない。

礼拝堂の壊れた屋根から差し込む光に照らされ、いまだに回り続ける姿は一枚の絵のようだ。

しかも背中には巨大な翼だ。女神を思わせた。

アリサのことが大の苦手のブラッドでさえ、その美しさは認めざるを得なかった。

ただそれは、気まぐれな氷の女神の美しさだ。

凍りついた山脈の頂のような、ぞっとする畏怖を呼び起こす美だ。

ふいに人間に牙をむき、雪嵐で吹き飛ばし、崖下に突き落としにかかる危険な代物だった。。


「……あはあっ、いい加減に私に見とれるのはやめて、さっさとあなたの最強の技、無惨紅葉を発動なさいな。どうせ無惨紅葉で勝負に来るのでしょう。ふふっ、そんな化物を見る目で見ないで。他の技では鬼哭は破れないと、あなた本人が誰よりよくわかっているでしょう。あとは力の流れで推測できただけよ。なんて悲劇かしら。真逆の性格の私達二人なのに、お揃いの翼で殺し合うことになるなんて」


毒気を抜かれたように立ち尽くしているブラッドを見て、アリサが笑い転げる。


ブラッドが動揺し、必死に心を立て直そうとしていることに気づき、上機嫌だった。自分の魅力が一切通じない冷静なブラッドが、珍しく女性を意識し、それが心を乱す端緒になったことを見抜いたからだ。負けず嫌いのアリサにとってたいそう気分がよいものだった。色欲ではなく庇護欲こそブラッドの弱点であり、珍しいアリサの譲歩に呆気に取られたことが合わさり、戦意がくじかれてしまったのだ。



「あははっ!! なあに、その顔。男と女はお互いの秘密を見せ合ってこそ、仲が深まるというもの。早く翼を出しなさい。女の私だけに秘密のヴェールを脱がせるなんて、紳士の礼儀ではなくってよ。それに加護の力でも、もう命が限界でしょう。逝く前に精いっぱい私を悦ばせてほしいわ。そうね、戦い以外の方法でも別に構わないわ。私を満足させてくれたら見逃してあげる……」


調子にのったアリサが、ぞくっとする上目遣いで挑発する。

性的なニュアンスを言葉に匂わせ楽しんでいた。ブラッドが誘いに乗ったら、実際に応じていたろう。

アリサにとっては、戦いと性行為は同じようなものなのだ。

そして彼女はどちらでも不敗を誇っていた。


「……ふざけんな、何がお揃いだ。翼のでかさが全然違うだろうが。こっちの命懸けの戦いを、遊び感覚で楽しみやがって。やってやるさ。人間の底力なめんなよ……!!」


いやそうな顔をしたブラッドがそう吐き捨てると、残り少ない命を振り絞り、再び〝血の贖い〟を発動させた。血煙が立ち昇り、鋭角な両翼をブラッドの背に形作る。露骨な誘惑に逆に冷めてしまったのだ。アリサは、しまったというふうに苦笑し、


「……ふふっ、やりすぎたわ。所詮殺し合う運命ということなのかしら。ああ、見事な命の形だこと。力量差なんて男と女のぶつかり合いに関係ないわ。自分のために全身全霊をかけてくれる男にこそ、女は強く惹かれるのだから。さあ、命の一滴まで、私のために出し尽くしなさい」


と賞賛した。


だがアリサの巨翼に比すれば、やはりブラッドの翼は雛鳥のそれに等しく、勝ち目は零に見える。

並べてみると一目瞭然だった。ブラッドの顔が哀しげに歪む。


「……すまない、セラフィ、アーノルド……化物女との絶望的な闘いに、結局巻き込んじまった……!! 許してくれ、俺が必ずアリサに攻撃をぶち当てるから…!! ……スカーレット、ごめんな。あのとき最後まで守れなくて……今度こそ俺はおまえを……!!」


ブラッドはよろめきながら悲痛な声でうめく。〝血の贖い〟の再発動は、死にかけの今、あまりに負担が大きかった。特攻の覚悟をした瞳が、ぎりぎりと鋭くなり、額に汗がぶわっと浮かぶ。


「……今度こそ? 今度も、俺はおまえを守れない、の間違いでしょう」


アリサは、鼻で笑い、さっと片手を横に薙ぐ動作をした。上機嫌が、スカーレットの名を耳にし、吹き飛んだ。再び怒気をまとう。背中の長大な赤い両翼が、ごおっと礼拝堂の左右に広がる。壁が動き出したほどの圧迫感がある。大波が崩れる寸前で停止したかのように、ゆらゆらと上部が蠢動する。地獄の炎の舌なめずりを思わせた。


「……その必死な顔、笑えるわ。愛する人を強く思えば、奇跡が起こせるとでも思っているの? あはっ、零点を進呈するわ、だって恋の奇跡は女の特権だもの。男になんか渡さない。……でもね、ブラッド、決め手に無惨紅葉を選んだことだけは褒めてあげる。そこは八十点よ。あれは相手自身の生命力を利用し、相手を内側から粉砕する技。合気と同じだわ。力の差も関係ない。私とてまともに受ければただでは済まないわ」


アリサは、くいっと形のいいおとがいを上げ気味にした。ブラッドめがけ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

紅い翼が長大な緋のマントのように流れる。

戴冠式を思わせるおごそかな雰囲気だ。


「……一人の女をめぐり、恋敵たちが命懸けで争う。動物にも神様にも共通した、ロマンティックな真理よね。愛ゆえに人は殺し合うの。……ふふっ、知ってる? スカーレットまだ処女なのよ。よけいに他の誰かには渡せない。私の翼は彼女にこそふさわしいバージンロードだわ。私は邪魔なあなた達を打ち倒し、スカーレットをこの胸に抱くの。恋敵たちの血こそ、私達の結婚式のいろどりにふさわしい。さあ、かかっておいで」


語っているうちにボルテージがあがったアリサは、花婿の元に向かう花嫁のように幸せいっぱいに見えた。軽やかな足取りは花が咲くようだ。違うのは鬼気も同時に立ち昇っているところだった。

その瞳は、歓びと欲望と殺意が綯い交ぜになり、混沌としていた。とろんだ赤い底なし沼を思わせた。

歩みとともに可憐な唇からこぼれる言葉は残酷だった。


「……あはっ、ブラッド。かわいそうねぇ。たとえあなたが命を捨てて私に一矢むくいても、このスカーレットは『真の歴史』のスカーレットじゃない。あなたのことを愛した彼女じゃない。ただの顔見知りよ。なぜあなたが自分のために命まで懸けてくれたか理解できず、すぐに記憶からも忘れ去られるでしょう。ああ、尊い自己犠牲の果てにあるものは、何も残らない無駄死に!! 悲劇だわ、いえ喜劇かしら。あははっ、無念ねえ。本当にかわいそう!!」


アリサは嘲笑さえもあでやかだった。残酷で魅力的だ。

心を圧し潰す邪悪な気配がほとばしる。

人を引き寄せる食人花があるとしたらかくやと思わせた。

悪意に満ちているのに目が離せない。



だが、ブラッドはなにかに気づいたように、はっとなった。

眠っているスカーレットをちらりと見る。折れそうなほど研ぎ澄まされていた目つきが和らいだ。


「……相変わらずいやな奴だな………だけど、今回ばかりは、いいことを言ってくれた。おかげで目が覚めたよ……」


まとっていた爆発寸前の雰囲気が、すうっと抜ける。


アリサが柳眉をしかめる。

ブラッドが顔をあげ、さわやかな涼風のような笑みを返したからだ。

その風は、アリサの威圧の中をさえ、さあっと軽やかに渡っていった。


「……教えてやるよ、アリサ。無念じゃない。逆だ。惚れた女のために命を懸けられる。しかも俺が死んだあとも、そいつを悲しませずにすむ。これ以上ないくらい最高だろうが。……これで、俺はなにも思い残すことなく戦える」


静かに、穏やかに、ブラッドは口にした。腰を落とす動作をし、大きく右の拳をひく無惨紅葉の構えを取った。

身体がぼうっと白く光る。


予想外の反応に、アリサは様子をさぐるふうに少し首を傾げた。


「……加護の力……そういう発動の仕方もあるの……ふうん……」と鋭く目を光らせ、小さく小さく呟いた。「……切れ目は入れたし、試してみるか……」


なのでブラッドの耳に届いたのは、そこから先のアリサの言葉だけになった。


「……がっかりね。ちょっと好きになりかけたけど、私、やっぱり、あなたのこと大嫌いだわ。この私に悟ったふうな笑顔を向け、よくも臆面もなく、スカーレットへの愛を口にした……」


アリサは苛立たしげにかぶりを振った。

何度も何度も。癇癪持ちの子供がいやいやをするように。

アーノルドはどん引いているが、ブラッドは驚かなかった。アリサの奇行は見慣れている。


「……私とスカーレットの物語に、彼女の相手役といった顔をして割り込まないでほしいわ。この物語の配役はもう決まっているの。彼女の隣にあなたの席は用意してないわよ。身の程知らずが……」


ほどかれていた金髪が、ざんばらに乱れた。

真紅の瞳が輝くように、射貫くように、ブラッドを見る。

アリサの口角が吊り上がった。があっと殺気が渦巻く。

むきだしの牙が見えないのが不思議なくらいだ。

金色のたてがみの般若と化したかのようだった。


「……その透明なほほえみ、いつまで浮かべていられるか、試してあげる。愛する人の死にざまを知ったら、あなたはどんな顔を見せてくれるのかしら。……ああ、楽しみねえ。お聞きなさい。『真の歴史』の結末を。あなたが死んだ後、炎の城の中で何が起きたかを」


炎の熱風にアリサの髪が揺れる。まるでその時を再現するかのように。


「……スカーレットは私と相討ちになったわ。互いに剣で串刺しになってね。信じられないでしょう、この私と相討ちなんて……あなたが彼女を脱出させようと託した〝血の贖い〟を私との決着に使ったの」


アリサは高らかに笑った。

「真の歴史」でスカーレットと決着をつけたときも同じように笑ったと思い出しながら。

アリサはあのとき、はじめてスカーレットを自分のライバルと認めた。

それは天上天下唯我独尊のアリサにとって未知の感覚だった。

雷にうたれたようにショックに、ただ笑うしかなかった。

そこから本気の恋に落ちた。記憶に今でも胸が高鳴る。


「……瞳を閉じると、今でも炎の中で剣をかまえた彼女がよみがえるわ。私にとって大切な思い出よ。恋と剣は稲妻のように私を貫いた」


アリサの言葉に、ブラッドの目が驚きに見開かれた。

唇がわなないた。血が出るほど拳を握りしめた。


「……嘘だろ……」


驚愕のあまり、月並みな呟きしか出てこない。


「……嘘じゃないわ。一対一で私と剣でつばぜり合いをしながら、泣きべそかいてあなたに謝り続けてたわよ。まったく、腹の立つ……せっかく本気の恋に落ちたっていうのに、当の相手から、他の男の名前ばかり聞かされるんですもの……本当にむかつくわ」


「……そうだったのか……俺が〝血の贖い〟を発動するようにしたことが、かえってスカーレットを死に追いやったのか。逃げてくれたとばっかり……なにやってんだ、俺は……責任感の強いあいつの性格を考えればわかりそうなものじゃないか……」


立ちすくんだブラッドにアリサは不快そうに言い放った。


「スカーレットは自分の意志で、私との決着に命を捧げたの。私たち二人だけの戦いよ。神様だって私たちの間には踏み込ませないわ。あなたが彼女の道を定めたみたいな言い方、彼女に対する侮辱だし、私も決して許さない。彼女に謝りなさい」


アリサの言葉に、後ろで横たわるスカーレットをちらりと見たブラッドの目から大粒の涙が零れ落ちた。

「真の歴史」での強がっていても寂しがりやだった彼女の笑顔を思い出していた。不幸な思春期をおくったせいで、人が苦手だった。それが、彼女の努力にひかれ、少しずつ友達が増えていき、スカーレットも心を開き、たくさんの笑顔に囲まれるようになり……

そして、すべての仲間を失った。


最後の戦いのときは、ずっと泣いていた。それでも彼女は歩みをやめなかった。唇を噛みしめ、最後まで歩みきった。


「……ごめんな、最後までおまえに背負わせちまったんだな。スカーレット……たった一人で化物女に挑むなんて、どんだけ怖かったんだろうな……責任感が強いにも程があるだろ。……あんなに逃げろって言ったのに……しかも相討ちなんて……ほんとに賢いのにすごすぎるバカだよ、おまえは……」


アリサの強さを肌で知っているブラッドは、それがどれだけ偉業だったか、誰よりも理解できた。


「……がんばったな……がんばりすぎだろ……よくやったな……おまえを百万回でも抱きしめて褒めちぎってやりたいけど……きっと、今のおまえには気持ち悪がられるだけだよな……」


涙でかすれた声でブラッドはつぶやき、ふっきれた笑みを押し上げた。


「……俺もびびってなんかいられないよな。おまえを抱きしめられなくてもいい。俺のことを思い出さなくてもいい。だけど、おまえに顔向けできないような戦いだけは、絶対に見せられない……」


「……すさまじい子だったわ、彼女は。誇るがいい、あなた達がスカーレットを愛したことを。……私は深手を負っていた、スカーレットに予知を打ち消された。ルビーがスカーレットに力を貸した。でもね、そんな程度じゃ埋められないほど、あの子と私では天地の実力差があったわ。今のあなた達以上に絶望的な戦いだった」


思い出にひたるアリサは、遠くを見るまなざしをしていた。

そうしていると物憂げではかない乙女に見えた。

だが、アリサはアリサだ。それ以外のものにはなれない。

再びアリサの瞳に狂気が渦巻く。


「……でも、あの子は諦めず奇跡を起こした。戦慄するしかないじゃない。この私が恋に落ちるほどにね。……あはあっ、あなたはスカーレットのように私に恋心を抱かすことができるかしら」


髪を耳にかきあげ、挑む視線を叩きこんでくるアリサに、ブラッドは静かにほほえみ、かぶりを振った。


「……無理だな。おまえも俺も、愛する相手はスカーレットのみだろ。おまえのは無茶苦茶に歪んでるけどな。……俺に塩を送ってくれたこと、感謝する。決着をつけよう、アリサ……」


ブラッドが左手で剣印を結び額に当てる。

意識の集中により、背中の赤い羽根がさらに鋭く収束していく。


穏やかで力強い宣戦布告に、アリサは小馬鹿にするように嗤った。


「……塩? はっ、頭にうじが湧いてるの? 男の勘違いは虫唾が走る。あなたをとことん本気にさせるために決まってるでしょう。『真の歴史』のスカーレットの最期を知れば、あなたも技に全身全霊をこめる。それを完膚なきまで打ち砕き、心を根こそぎへし折るためにしたことよ。……あなた、そんなお人よしだから、スカーレットを抱けなかったのよ。私が男なら、とっくにあの子を孕ませていたわ。……この身が女であるばかりに、私たちは……まったく腹の立つ運命だこと……」


アリサは悔しそうに唇を噛みしめた。

馬鹿みたいにまっすぐなブラッドにあてられ、調子が狂ったのだ。

つい本音を漏らしてしまった。

すぐに気を取り直したかのように、えへらと口元をゆがめる。


「……まあ、いいわ。迷いが一切消えたわね。心技体、非の打ちどころなし。私の恋敵なのだもの、それぐらいしてくれなくてはね。加護の力も発動した。叩き潰すには最高のシチュエーションだわ。今のあなたなら、無惨紅葉の威力をばらけさせず、十五歩までは進めるはず。……ふふ、だけど、せっかくだもの。その力、零距離の最強の状態でしゃぶりつくしたいわ。だから、私のほうから歩み寄ってあげる……」


アリサの口元から嗤いが消え、稲妻の気配が立ち昇る。

赤い翼がゆっくりとたちあがり、ごおっと羽ばたきだす。濃密な鬼気が渦巻き、帯電したかのように空気が張り詰めていく。


「……策は弄さず真っ直ぐに行くわ。おまけで回避技の〝幽玄〟も使わないでおいてあげる。そうしないと勝負にもならないもの。セラフィ、アーノルド、あなた達もかかってきていいわ。皆まとめてお相手するわ。魂すべてをそそぎこむことね。私に慈悲を期待するな、千載一遇の好機を与えるのは寛大ではない。私の生き方を貫くためだ。つまらぬ技ならば、即座に皆殺しにしてやる。……人の想いで奇跡を起こせ。私を失望させるな」


アリサの踏み込みは雷鳴の一閃だった。

これまでの滑るような動きではなく、一踏みごとに爆音とともに床が砕け、後方に舞い上がっていく。背中の紅い翼が奔流となって彗星のように尾をひく。踏み込みこそ速いが、歩み自体はそれほど速くない。悠然と進んでくるが、逆に止めることを不可能と思わせる威圧感があった。


「……面白いでしょう。わかるかしら、私の一踏みごとに、まとった鬼哭の威力がふくれあがっていくのが。これが〝狂乱〟を強化する技、〝鬼勁〟……早くなんとかしないと手がつけられなくなるわよ」


アリサの残酷な忠告どおり、それはまさに成長するハリケーンだった。渦巻く〝狂乱〟でアリサの周囲の木材や石の破片が異音を発して炸裂していく。その進む先には、極限まで背中の紅い翼を研ぎ澄ましつつブラッドが待つ。ふうっと呼気を絞り出し、額の左手の剣印を振り下ろし、前方に伸ばした手刀の形を取る。全身の残り少ない力をかき集め、限界まで収束していく。無惨紅葉の発動準備に入ったのだ。もう技が練りあがるまでブラッドはその場から動けない。


しかし、もし十全で技を放てたとしても、迫りくる大嵐に、小さなつむじ風が立ち向かうのと変わりない。頼りなく無謀な自殺行為に見えた。


だが、ブラッドの目に迷いはない。決意は揺るがない。

スカーレットへの愛と、知った生きざまが、彼に無限の勇気を与えていた。


「……鬼勁……一踏みごとに威力があがる……アリサのやつ、〝伝導〟と〝狂乱〟をミックスしやがったのか……!! 底なしの才能の化物め……!! ……だけど、負けるわけにゃいかないんだよ。最高の俺をぶつけてやらあ……!! 悪いけど足止め頼んだぜ、セラフィ、アーノルド……!!」


分析したブラッドは、あらためてアリサの才能に戦慄した。

伝説の真祖帝の強さをはるかに超えている。

はっきりいって勝ち目などないに等しい。

それでも、ブラッドは自分の技を研ぎ澄ますことに没頭した。

結果を考える余力など残さなかった、完全に頭から押しのける。

おそろしいまでの覚悟と集中力だった。

そこまでしないと、アリサに一矢むくいることさえ不可能なのだ。

そして技が発動するときまでは、セラフィとアーノルドが必ずアリサを食い止めてくれると信じた。だから名前を呼んで頼み込んだ。


セラフィとアーノルドは呆気に取られた。ブラッドに名前で呼ばれた記憶など、年に数回ぐらいしかない。二人には何故急にブラッドが自分達を信頼してくれるのかわからない。五人の勇士とまとめて呼ばれこそすれ、ブラッドは常に一匹狼であり、距離を置いて孤独を愛していたからだ。


今のブラッドの二人への信頼は「真の歴史」の二人を通してのものだ。「真の歴史」の記憶をもたないセラフィとアーノルドにその心が伝わらないのは当然だ。ブラッドが詳細を伝える時間もない。


だが、理解できないまでも、今のまっすぐなブラッドには好感が持てた。

愛する女のため、圧倒的な強さの敵に立ち向かう、これほどまっとうな戦いはない。

それに一目置くブラッドに認められるというのは悪い気はしなかった。


アーノルドの胸にさらなる闘志が湧き立つ。


「……応っ!! 任せておけ!!」


「……いや……これは無理だ……!!」


いつになく弱音を漏らすセラフィに、勇んだアーノルドががっくりとする。


「……セラフィ……おめぇよぉ……」


だが、死に臨んで高められたセラフィの超感覚は、ブラッドの無惨紅葉が発動するより早く、アリサがブラッドの元に達すると読んでいた。アリサの足を一瞬でも止めないと、身動き出来ない状態でブラッドはまともに直撃を受ける。〝狂乱〟十発分以上の威力と直感する。ブラッドは赤い飛沫と化すだろう。


破滅の未来を回避しようと、セラフィはセラフィなりに必死だった。

だが、最適解がどうやっても出せない。


「……風が読みきれないんだ!! まるでアリサ自身が嵐の発生源だ!! あいつが動くたびに風が変わる!! 周囲の空気がでたらめにかき乱される!! くそっ!! ぼくがなんとかしなきゃ、はじまらないのに!! このままじゃ、ブラッドが……!!」


焦るセラフィの額から汗がふきでる。アリサの放つ鬼気は、今のセラフィにとって強烈すぎた。竜巻の真っただ中に放り込まれたようだった。援護の道筋をつけようにも、感覚が翻弄され、矢を通す風の隙間をまったく捉えられない。ブラッドの命は風前の灯だ。アリサは無慈悲に距離を詰めていく。


「……焦んじゃねぇよ、セラフィ。あんな化物を人間と思うんじゃねぇ。いっそ嵐そのものと思っちまえ。そして、ここを海と思ってやってみな。そうすりゃ、いつもの嵐の海ってやつだろ。おまえが何度も乗り越えてきた試練さ。俺の友に読めねぇ風はなく、越えられない荒波もねぇんだ」


前に立つアーノルドの言葉に、セラフィははっと顔をあげた。

腹をくくつたアーノルドの意見は、こういうとき誰のものより頼りになる。


「俺がおまえの絶対の矢になってやる。風読みに集中しろ。あとは指示だけ出せ。そこからは俺の仕事よ。どんな難度の注文だろうと、命をかけて成し遂げてやらあ」


「……ありがとう。君はやっぱり、ぼくのヒーローだ。気が楽になった。やってみる……!!」


意識を集中しだしたセラフィの顔色は白を通り越し、蒼白になった。身体は致命傷を負っている。出血多量と臓器損壊でいつ死んでもおかしくない。ブラッドのように血流操作ができるわけではないのだ。アリサの言う通りスカーレットの加護の力、そしてセラフィの気力でなんとか行動可能なだけだ。それも限界を迎えようとしていた。精神集中する負担は、容赦なく生命力を削り取った。麻痺していた痛みが一気に襲いかかってくる。しんと底冷えするぞっとする脱力感が身体をひきずりこもうとする。


死にゆく友の気配を後ろに感じながら、アーノルドはアリサを睨みつけ、弓を構えたままだった。振り向かなかった。涙の代りに、噛みしめた下唇から血があふれていた。

泣くのは後にするという約束を彼は愚直に守っていた。

セラフィの死を早めるのを覚悟の上でアドバイスをした。セラフィに生きざまを全うさせるため、ためらわず辛い選択をやってのけた。


友の誇りを守るため、自ら傷を負うことをおそれないアーノルドの友情に、セラフィは深く感謝した。

ややあってセラフィはにやりと会心の笑みを浮かべた。風を摑んだのだ。

潮の香が鼻をくすぐった気がした。


オランジュ商会の皆と駆け抜けた日々が思い浮かぶ。

人生のほとんどを過ごした愛船ブロンシュ号、その甲板上で笑い合う皆の中心に、何故かスカーレットが微笑んでいた。青空と白い帆の下の赤い髪と瞳がとても綺麗だと思った。彼女は〈治外の民〉の晴れ着をまとっていた。胸がほんのり温かくなる。ありえない不思議な記憶は一瞬の海風のように流れ去ったが、セラフィはかけがえのない贈り物をもらった気がした。セラフィは苦笑した。


「……アーノルド、笑ってくれ。ぼくは、どうやら女王に好意を抱いたらしい……死に臨んで、とうとう頭がおかしくなったようだ……。オランジュのみんなに囲まれる、彼女の笑顔の幻が見えた。……自分の軽薄さに嫌気がさすよ。あんなに敵対した相手に、なにを今さら……」


「……笑えるわけねぇよ。俺もなんとなくわかる気がするぜ。……それによ、人を好きになんのに、理由なんざいらねぇよ。女王さんの笑顔、きっとかわいいんだろうな、俺も見たかったぜ」


先ほどの胸を締めつける感覚を思い出し、アーノルドは優しく答えた。


「……好きになるのに理由はない? では、殺したくなるのにも理由はいらないわね」


黙って耳を傾けていたアリサが、冷たく口を差し挟んだ。

静かなのによく通るのは、殺意をはらんだ響きだからだ。

氷の刃をゆっくり胸に突き立てられた気がした。


「もうすぐ死ぬと思って、好きに話をさせたのが仇になったわ。余計な記憶がよみがえったようね。『真の歴史』のあなたとオランジュの連中は、いつも私の手からスカーレットを奪って逃げ去った。あの子もしょっちゅうブロンシュ号に入りびたっていたわ。ああ、思い出すだけで腹が煮えくり返る」


剣呑な気配がふくれあがっていく。


「……スカーレットが好き? 笑わせるわ。今更どの面さげて、そんな台詞を口にしたのかしら。憶えていなくても、ループを繰り返すうちに、あなた達の手はあの子の返り血で染まっているのよ。……まあ、セラフィは、もう目が潰れているからいいわ。アーノルド、あなたがスカーレットのかわいい顔を見ることは許せない。これ以上不快な記憶を思い出されでもしたら、私、いらだちで狂ってしまうもの。……今の私は手加減できないから、目だけでなく顔ごと吹き飛ぶと思うわ。私の逆鱗に触れたおのれを呪うがいい」


アリサが、ぐるんっと身体ごとアーノルドのほうを向いた。

紅い瞳の輝きが、ぎらつく軌跡を空に描く。

回転の勢いをのせ、鞭のようにしならせた繊手が、斜め上にすくいあげるように閃いた。

アリサにとって、殺意は殺害に等しい。実行に寸毫のためらいもない。


「私の足を止めたことだけは褒めてあげる。ご褒美よ、ためておいた私の力を、自分自身でたっぷり味わいなさい。苦悶に身悶えるがいい」


びいっと布を引き裂くような異音がした。

アーノルドの目の前の空気が、蜃気楼のようにぐにゃりと歪んだ。


「……ッ!!」


それは先ほど見たブラッドの〝伝導〟にそっくりだった。

だが、より邪悪な破壊の波の到来を、びりびりする肌の感覚が知らせてくれた。


「……ちっ!!」


本能で危機を察知したアーノルドは、考えるより先に、アリサを射た。三矢をほぼ同時に放っていた。反射的な動きは電光石火だった。だが、迎撃のため飛び立った矢は、アリサのはるか手前で、ぼんっと四散して消え失せた。まるで、見えない怪物が口を開けて待ち構えていて、一気に牙を咬み合わせたようだった。


「お馬鹿さん。ブラッドの話を聞いていなかったの? 〝狂乱〟と〝伝導〟をミックスしたって……今の私は強めた〝狂乱〟を遠くに飛ばせるわ。鬼弾きだんっていうの。数本の矢なんか粉雪と変わらないわ」


驚くアーノルドをアリサはせせら笑った。


「鬼勁で持続時間を高めた特別製よ。相手に命中するまで消えないわ。見えざる牙に食いちぎられ、体中の血を噴き出しなさい。死の舞踏をエスコートしてあげる」


アーノルドの髪がごうっと後ろになびく。彼が新たな矢をつがえるより早く、アリサの〝狂乱〟の先触れが、熱風のように面をはたいた。アーノルドは息をのんだ。それは死を予感させるものだった。


「……逃げろ!! アーノルド!! それを受けちゃいけない!!」


無惨紅葉の発動のため動けないブラッドの悲鳴がむなしく響く。

アリサが冷たく吐き捨てた。


「もう手遅れよ。叫ぶだけ無駄。散る相手より、自分の心配をなさいな。……よくも私の努力を嘲笑うような真似をしてくれた。せっかくあなたたち自身の手で、スカーレットを何度も殺めさせ、魂に絶望を刻み込んでやったのに……。だけど、あなたたちは、炎に集まる虫のように、すぐにスカーレットに惹かれていく。スカーレットへの愛が、蛆虫のようにぽろぽろこぼれだしてくる。なんておぞましい。まったく男は懲りない生き物だこと。……もう、いい。不愉快だわ。全員消す」


アーノルドたちの理解をこえた言葉を放つアリサは、いらだつ死の女神のように恐ろしかった。

人間の命など小虫も同然に踏みにじれるのだ。


空気がゆらりと歪んだ。殺気が牙を打ち鳴らし、ごおっと動いた。

アーノルドは、見えないはずの鬼弾を見た気がした。

頭を胴体から噛みちぎろうと、がっと上あごと下あごを開き、透明な怪物が視界いっぱいに迫った。


だが、死を覚悟し、思わず瞼をきつく閉じたアーノルドに、鬼弾は届かなかった。


「……そう簡単に思い通りにさせやしない。ぼくのことを忘れるな……!!」


セラフィがアーノルドの前に飛び出し、両手を広げ、鬼弾を身体で受け止めたからだ。見えない牙が荒れ狂う。身代わりになったセラフィが、電撃にうたれたように硬直した。内側からはじけるように、あちこちの皮膚が裂けた。赤い蜘蛛の巣のようだ。ぼしゅうっと音をたて鮮血が噴き出す。がくんっと身体が痙攣した。


「……セラフィ!!」


おそるおそる眼を開けたアーノルドがなにが起きたかを悟り、悲鳴をあげた。


「あら、しつこいセラフィ・オランジュ。まだ生きていたの。ほんとうにあなたたち五人の勇士はしぶとさだけは一級品ね」


呆れ果てたようにアリサが吐き捨てる。


「だけど、もうおしまい。心臓を破壊したもの。いくら加護の力をもってしても、さすがに命は保てない。最後の情けよ。心ゆくまで、大好きな友情を語り合うがいい。それまでは待ってあげる」


「アリサ……!! ……てめぇ……!!」


アーノルドが怒りのあまり、野獣のうなりを漏らす。

殺意に燃える金色の瞳は見るだけで人を殺せそうだ。


「あら、私への恨み言を口にする前に、身を盾にしてくれたお友達に、お礼のひとつでも言ったら? もう時間がないと教えてあげたはずよ」


すさまじい形相で睨みつけるアーノルドを、アリサは冷たく鼻であしらう。

そしてきつい表情を蕩けるような笑顔に変えた。


「……それとも、本心では、死んじゃうお友達のことなんかより、半裸の私のほうが気になる? ずっと私のことが好きだったのだものねえ。いいわ、正直な男は嫌いじゃない。ふふ、相手してあげてもいいわよ。死にゆく友の前で惚れた女と交わる、きっと忘れられない思い出になるわ。価値感のなにもかも壊し、抑圧された心を解放する。そういう衝動も人間にはあるもの。……タブーを犯しての快楽は、気が狂いそうになるほどすごいわよ、天国の悦びでなく、地獄の悦びでこそ、人の心はほんとうに満たされるの」


アリサは唇に自分の指を入れ、見せつけるようにゆっくりとねぶった。くすくす笑い声を立てる。


「……ああ、やっぱり命が消えるさまは昂るわ。人の最期は宝石よりも美しく、心をうつわ。私を愉しませてくれてありがとう。その死と引き換えに、セラフィ、あなたのスカーレットへのよこしまな恋は許してあげることにしましょう」


アリサは身をくねらせた。頬が紅潮していた。

恍惚としたまなざしは、頭がおかしくなるほど色っぽかった。それはまさに、コロシアムの剣闘士たちの死闘に興奮し、胸を高鳴らせた太古の貴婦人達そのものだった。


セラフィの死で快楽を味わい、上から目線で傲然と許すと言い放ったアリサに、アーノルドは怒り心頭に発した。


「……許すだと……!! ありがとうだと……!! てめぇ……何様のつもりだ……この、ど外道が……!!」


「……悪魔め!! ……すまない!! セラフィ……!!」


ブラッドが涙を流し、たえられず、血みどろのセラフィから目をそらした。


「ど外道? 悪魔? ずいぶんね。淑女に言っていい言葉ではなくってよ」


「……ぶち殺す……!!」


「……アーノルド、これでいいんだ。ぼくは目が見えぬ死にかけだ。盾ぐらいにしかもうなれない……アリサに攻撃が通じる君を守るのは当然だ。……優先順位を間違えるようじゃ、商人の看板なんか出してられないんだよ……」


激昂したアーノルドをなだめたのは、セラフィ本人だった。


「……アリサ、よくおぼえておけ……ぼくはここで散るが、他の二人が一級品なのは、しぶとさだけじゃない。鬼弾……まずは一つ……冥途の土産にもらって……いくぞ」


愛用の船長服ごと一瞬でずたぼろに引き裂かれたセラフィが微笑した。ゆっくり崩れ落ちていく。


「……セラフィ!! おまえよぉ……!! ……次から次に、俺に恩を売るんじゃねぇよ。もう、おまえに何も返してやれねぇんだぞ……!!」


怒りを忘れ、涙声ですがりつかんばかりのアーノルドに振り向いて苦笑する。


「……返す必要はないさ。もうじき人生の店じまいだ……だけど、やり残しはごめんだ……きっちり清算はしていくよ。もうすぐ新しい風が起きる……三つ数えるから……僕を、信じて……アリサの前方右二度を狙って矢を放て……誤差半歩内で頼む……。ぼくからの、とびきりの無理な最後の注文だ……やれるか……?」


死にかけてはいたが、セラフィの感覚は風をしっかり捉えたままだった。

どうと床に倒れ伏したが、気の遠くなる集中の果てに掴んだ勝機を、しっかり伝え終えた。セラフィの意識はすでに途切れかけていたが、おそろしいほどの使命感が、彼の残り少ない命の灯を繋いでいた。別れの挨拶で手をあげようとして果たせなかったのか、右手が二度中途な位置でかくんと揺れる。


だが、その一言一句、一挙手一投足に至るまで、アーノルドは聞き逃さなかったし、見逃さなかった。アーノルドは涙を浮かべて笑いかけた。


「……わかった、よく伝えてくれた。やるさ。死んでもやるに決まってんだろ。何度無理な注文を互いに乗り越えてきたと思ってんだ。……いろいろ馬鹿をやったよなあ。だからな、笑ってお別れといこうや。一緒に数えんぞ……なんか言い残すことはあるか」


アーノルドの言葉にセラフィはうなずいた。

ちょっと申し訳なさそうな顔をし、それからおずおずと笑いを浮かべる。


「……女王に謝りたかったな……どうか女王陛下に、今まで苦しめて悪かったと、誤解してすまなかったと……伝えてくれ……。……今まで……ありがとう……アーノルド……」


「おう!! おまえの言葉、きっちり届けてやらぁ!! 俺の詫びと一緒にな!! セラフィって格好つけた奴が、あんたを最後まで守って勇敢に散ったって、必ず伝えるぜ!!」


消え入りそうな声になったセラフィを励ますように、アーノルドがでかい声で叫んだ。

だが、続く呟きは悲痛で震えていた。


「……受け取ったぜ、おまえの心……バッカヤロウが、礼を言うのは俺のほうだぜ……おまえは最高の友で、戦士だったよ……」


「僕は商人だ……戦士じゃない……だけど、悪くないな……心を受け取って、見送ってくれる友達がいるってのは。……無駄にしないでくれよ……さて、。戦士の流儀にしたがって、笑って死ぬとするか……まったく、最期まで無茶な注文だよ……カウント、いくぞ……三……二……」


「お互い様だろ……俺達は出会ったときから、いつもそうだったろうがよ。三……二……」


アーノルドがセラフィにあわせ、数を数える。

だが、最後の一はセラフィの口から発せられることはなかった。

一と発しようとした口の形のまま彼は事切れていた。

成すべきことを成したその口元には、確かに笑みが刻まれていた。


「……一……!! 見ててくれ!! セラフィ!!」


たった一人で数え終わったアーノルドが、涙声の叫びとともに六連射を放った。弦をうち鳴らし、六本の矢がアリサめがけて襲いかかる。


「……あんだけ冷静で、判断力があんのによ。いつだって……こんな俺を馬鹿みたいに信じてくれやがった……バカが……大バカ野郎が……!! ……そんなんされたら、失敗なんて出来ねぇだろうがよ……!!」


つんざく風切り音に、アリサは検分するように目を細めた。


「……いえ、失敗よ。……ふん、威力は及第点をあげる。だけど少し軌道がずれてるわ。頼りの風も吹かない。……目が見えぬうえ、お別れの手も上げそこなうほどの死にかけでは、セラフィの勘も鈍ったかしら。あはあっ、まずはひとり犬死にね」


予知能力はまだ復活していないが、アリサは卓越した読みと経験で、矢がどう飛んでくるかを正確に把握していた。


馬鹿にしきったアリサの嘲笑にも、アーノルドの信念と顔色は揺るがなかった。


「……嗤ってやがれ。だけどな、俺はともかく、セラフィを小馬鹿にしたこと、今すぐ後悔するぜ。俺がセラフィから受け取ったものを、なめんじゃねぇ。きっちりてめぇの喉元に届けてやる」


その雄々しさは、アリサにとって新たな笑いを提供する道化でしかなかった。


「……受け取ったもの? もしかして、それは熱い思い? それとも信念? まさか友情とか。あははっ!! おっかしいわ。……そんなあやふやなもので、この私が倒せるものか」


ころころ笑い声をたて、すぐに飽きたかのように、アリサは飛来する矢とアーノルドから目を離した。

取るに足らぬものと黙殺することに決めたのだ。

戦士にとって、それは死にも勝る屈辱だった。

アリサは、自分を落胆させたアーノルドをあっさり殺すほど寛大ではなかった。


「ここは室内よ。私が起こす鬼勁によるもの以外には、風など吹かない。メルヴィルの変化技のほうがまだ気がきいているわ。私の期待を裏切った罰よ。そこで馬鹿みたいに突っ立って、生き恥をさらし続けなさい」


矢は悲しくも、歩むアリサから六歩分も前を通り過ぎようとしていた。


アリサの意識はすでにブラッドの攻略に集中していた。


だから、ごうっという音をたてて、つむじ風が大きくふくれあがるまで、アリサは不覚にもその気配に気づかなかった。アリサは傲慢な態度とうらはらに、戦場すべてに、緻密に意識を張り巡らせる。珍しい失態だった。


風の渦に突入した矢の軌道が、ぐうんっと大きく変わった。

六本の矢のすべてが、完璧なタイミングと軌道に修正され、アリサに殺到する。


「……つむじ風!? 屋内でどうして……」


驚愕のできごとに、アリサの目が見開かれ、そしてすぐに理由を察した。


「……そうか! ……ロマリアの焔で上昇気流が……!! セラフィめ、とんだ置き土産をしてくれた」


金髪を乱す風に、いらだたしげに吐き捨て、迎撃の姿勢をとる。


つむじ風を発生させた原因は、先ほどセラフィが炸裂させたロマリアの焔だった。

アリサにあっさり〝幽玄〟でかわされた炎は、その代りに、今に至るまで、残り火で床をあぶり続けた。その高熱が上昇気流を発生させたのだ。


セラフィはその萌芽を察知していた。摑んだ風とはこのことだった。


「……なぜだ。細かい打ち合わせなどしている間などなかったはずだ。どうやって、このつむじ風のことをアーノルドに教えた……」


いぶかしげにうなるアリサに、アーノルドは歯をむく笑いで応えた。


「……教えてやるぜ、お嬢ちゃん。俺はなにも教えてもらっちゃいねぇ。俺はな、セラフィを誰より信頼してる。あいつの魂は、今も俺の心の中に生きている。だから、俺はあいつの言い残したことを、迷わず実行できた。ただ、それだけの話よ。……天才さまの、おまえにゃ一生わからねぇだろうがよ。……セラフィの心、生きざまってやつを、受け取りやがれ!! アリサ!!」


雄叫びをあげるアーノルドに、アリサは眉をひそめ、不快をあらわにした。


「……この私をお嬢ちゃん呼ばわりし、無事ですむと思うか。思いあがりも大概にするがいい。たかだか一人の生きざま程度を振りかざし、なにを偉そうに吠える。私が今までどれだけの魂をすり潰してきたと思う!! ……鬼弾……!!」


アーノルドはアリサの逆鱗に触れた。アリサの語尾から紫雷がひらめくようだった。

迫る矢に向け、再びアリサが繊手を振りかざす。

斜め下への振り下ろしは、人間の目には捉えられない速度でおこなわれた。

空気がぐにゃりと歪む。指先から迸った衝撃波が、見えない刃となり、アーノルドの六本の矢と激しくぶつかり合った。つんざく爆裂音をたて、矢が次々に粉々になっていく。矢羽根が舞い散る。一本、二本、三本……最初は余裕の笑みを浮かべていたアリサの口元が、腹立たしげに歪みだす。徐々に矢を粉砕する速度が落ちていることに気づいたのだ。


「……弓威ごときが、私の鬼弾の威力を削り取っているのか……」


五本目になると、矢は完全には粉砕されず、半ばで折れ飛んだ。

六本目はアリサの目前でようやく撃墜された。足元に落ちた矢を、アリサはじっと見つめた。鉄の矢じりは鬼弾によって大きくひしゃげてはいたが、矢のそれ以外の部分はほぼ原形をとどめていた。本来なら、鬼弾は六連射を軽々と粉砕し、そのままアーノルドの命まで奪えたはずだった。それが相殺になり、矢によって鬼弾の威力はかき消された。それも位置的にアリサ寄りでだ。セラフィの遺したつむじ風の力で加速したとしても、弓威が上がりすぎだ。


「……ありえない……。また、あの忌々しい加護の力か。どこまで私の邪魔をする」


アーノルドの身体がぼんやり光っているのを見て、アリサが悪鬼の表情で歯軋りする。


「……へっ、その鬼の顔こそ、おまえの本性にゃぴったりだぜ。ありえないのは、こっからだぜ……!! ……六連射、二回目、いくぜ……!!」


アーノルドは肩から湯気を上らせながら、意気軒昂と新たな矢をつがえた。本気の六連射はアーノルドを疲労困憊させる。今だって全身がぐっしょり汗まみれだ。二連続の六連射など、今まで練習でさえ成功したことがない。なのに、今奥底から湧き出てくる無限の活力はどうだろう。

何度叩きのめされても立ち上がったブラッド。死に瀕しながら不屈の精神力を見せたセラフィ。尊敬すべき二人と同じ奇跡の領域に、自分もまた踏み込んでいることを、アーノルドは驚きと感謝をもって受け入れた。

今なら六連射の二連続どころか、三連続でさえこなせそうだ。


「……そういやセラフィが言ってたっけな、女王さんを守ることが、俺達の使命だったってよ。違いねぇ、俺もだんだんそんな気がしてきたぜ……」


肩越しに軽く振り返り、ちらりとスカーレットを見るだけで、不思議と心が奮い立つ。

今、アーノルドはアリサへの恐怖さえ忘れていた。スカーレットを守るという意志が、矢の先端までびりびり伝わるのを感じる。相棒の白フクロウは今ここにいないが、鳥瞰射撃を使うときと同じ、戦場の端々まで把握できる超感覚が、さらに賦活されて全身を満たしていた。


「……よせ!! アーノルド!! スカーレット関係で、これ以上アリサを刺激するな!! 取返しのつかないことになる……!!」


むしろブラッドのほうが顔色を蒼白にして警告した。


「……へっ、取返しがつかないことだぁ? 出来るもんなら、やってもらいたいぜ。俺らをだまして、女王さんを殺そうとしたのは、この女なんだぜ。きっと女王さんにも誰よりも嫌われてるぜ。いくら女王さんに懸想しても無駄ってもんだぜ、自業自得よ」


「……よくぞほざいた」


アーノルドの挑発に、アリサはむしろ静かに応えた。


アリサの金髪がざわざわと蠢きだしていた。目が吊り上がり、猛禽の爪の形に指が曲がる。口が三日月を描くが、それは嗤いではなく、度外れの怒りによるものだ。紅い瞳に地獄の炎が垣間見えた。アリサの内側の溶鉱炉のような感情を映すのぞき窓のようだった。


「……『真の歴史』の繋がりだけで調子にのるな。スカーレットは私のものだ。今までも、これからも、ずっとだ。ずっと、そばで、哀しみも苦しみも笑顔も見つめてきた。運命ごときに負けてなるものか。そのしたり顔の守護者づら、粉砕してくれる……!!」


怒りに燃え上がる姿と違い、アリサの声色は妙に低かった。それがかえって不気味極まりない。憤怒にのまれないよう、感情を強固に押さえつけているのだ。なのに怒りが鬼気になって漏れ出ている。大地震の予兆に似ていた。

ブラッドが息をのむほどだった。胸が恐怖でしんと冷える。


アーノルドはあまりに無謀すぎた。噴火寸前の火口をのんきに散歩しているに等しい。


「ぐたぐだ御託並べてないで、とっとと来な。ほんとは自信ねぇんじゃねぇのか。おまえはおしゃべりがすぎるんだよ。日が暮れちまうぜ。俺の六連射で正面からぶち破ってやるから、さっきの鬼弾とやらを、早くうってこいよ」


アーノルドは得意げにまくし立てた。無謀どころか自殺行為に近い。


アリサは雷雲のように気まぐれだが、妙に寛大なところもある。敵対行為をしても、笑って見逃す場合さえある。だが、侮辱だけは決して許さない。お花畑令嬢に擬態しているときはともかく、本性をあらわしているアリサを侮り、生きて帰れた人間をブラッドは知らない。


「……望みどおりにしてやろう。ばらばらになるがいい」


アリサの噛みしめた皓歯から、死刑宣告の蒼い炎が漏れる。

アリサの美しさが殺意の塊に転ずる。隙のない美しさには、滑稽なところがまったくなく、純粋なすごみになった。ただひたすらに怖く笑えない。


大きく後ろにひいたアリサの右手に、スズメバチの群れの羽音のようなうなりが集まる。背中の赤い巨大な翼が、ぐうんっととアリサの周囲に渦をなす。逆鱗に触れられた暴龍を思わせた。狂おしい怒りがアリサの心で渦巻いているのだろう。先ほどの鬼弾とはまるで違う。


離れた位置のブラッドでさえ、肌で異常を感じ取った。鬼気にぞわっと鳥肌だつ。自分でもあれは防げない。放たれた場合、たぶん成す術なく消し飛ぶことになると直感する。

アーノルドを制止しようという喚きが、ブラッドの喉の奥からせりあがってくる。だが、今のアリサは歩く爆薬庫だ。ちょっとした刺激で暴発しかねない。自分の声掛けがその引き金になるかもしれない。苦慮するブラッドと、ちらりと横目で見るアーノルドの目があった。その金色の目は予想に反し、とても落ち着いていた。身の程知らずの人間の目の色ではなかった。深い森を照らす満月を思わせた。

その目がブラッドを思いとどまらせた。そしてブラッドの受けた印象は正しかった。


「……右手が……しびれて……!?」


アリサの口元から驚きの声が零れる。アリサは右腕を振り抜けなかった。

しなやかに滑り出した腕が激痛とともに、がくんっと急停止した。筋肉のあちこちが麻痺し、力の流れが滞る。痙攣する指先で、行き場を失った鬼弾の威力が、切なげにぎちぎちと鳴った。


アーノルドは金色の瞳で、その様子を冷静に観察していた。獲物を追跡する猟師の目だった。

加護の力で舞い上がったように見えたのは演技だったのだ。


「……そうさ、幾らてめぇの技が怪物でも、身体は女のそれだ。無茶な動きを繰り返したツケを払う時が来たのさ。化物じみた技はそれだけ反動もでけぇ。鋼の塊みてぇなマッツオのおっさんとは違うんだ。強すぎたてめぇは、そんなことにも気づかなかった。無理すりゃ残った右手もぶっ壊れんぜ」


冷たくアリサに告げる。冷徹に相手を追い詰める狙撃手がそこにはいた。


「……そして、一つ教えてやるぜ。セラフィが手をあげたのは別れの挨拶のためじゃねぇ。おまえに鬼弾をあと二回使わせろって合図よ。だから言ったろ……セラフィを馬鹿にすると後悔することになるってよ」


アリサは、先ほど死に際のセラフィがよろよろと片腕をあげていたのを思い出した。あのときから二人は罠を張り巡らせていたのだ。一連の二人の行動は、別離を惜しむためのものではなかった。アリサを嵌めるためのものだった。アーノルドが口にした、セラフィから受け取ったものをアリサに届ける、といった言葉は、薄っぺらい友情ごっこではなかった。


咬牙切歯していたアリサの表情が少しずつ和らぎ、ついに声を立てて笑い出した。


「……ははっ、あははっ!! 見事よ。侮ったことを謝るわ。お詫びにこの右腕を捧げるから、勘弁なさいな」


アーノルドとブラッドがはっとなったときには遅かった。


「……鬼弾」


アリサは一瞬のためらいもなく、右手を振り下ろしていた。ぶちぶちと腕の腱と筋肉が断裂した。骨が軋み、枯れ木をへし折る音をたて、数か所で砕けた。皮膚が内側からざくろのようにはじけ、ぱっくりとあちこちに傷口が開く。アリサは自壊した右腕を見ようともしなかった。空気が金切り声で叫ぶ。わだかまっていた震動が一気に解き放たれ、ぶおんっとうなりをあげ、アーノルドを飲み込んだ。


「アーノルド!!」


名状しがたい背筋の寒くなる咀嚼音が、ブラッドの悲鳴をかき消した。〝狂乱〟数発分の威力が、アーノルドの肉体を競い合うように食いちぎっていた。血の華が咲いた。鮮血が舞う中、アリサはアーノルドを褒めちぎる。


「……よくぞ、加護の力頼りでなく、人の知略で奇跡を起こした。男の意地、たしかに見せてもらったわ。ならば私も女の意地を魅せなきゃあね。たかが女の身を理由に敗れるぶざまなど、さらせるわけがない。七妖衆に嗤われてしまう。女は愛する人を奪うためなら、すべてを犠牲に出来るの。右腕一本ぐらい惜しくもなんともないわ。おやすみ、アーノルド」


両腕をだらんと下げ、なお美しさを損なわないまま、アリサは優しく語りかけた。

彼女は認めた敵には敬意をはらう。


慈母のようなまなざしの先で、アーノルドは血煙をあげて、ぐらついた。

弓はまだ構えている、矢はつがえている。奇跡だな、とアーノルドはぼんやり思った。彼の身体の半分は爆ぜているのだから。

巨大なミンチ機に巻き込まれ、右半身を潰されたような酷いありさまだった。視界の半分が血に染まっている。右の眼窩がまっかなものであふれている。眼球ごと潰されていた。小指がおかしな方向に曲がっている、大きく裂けた右腕から白いものがのぞいている。骨が露出していた。アリサの放った鬼弾は、アーノルドの鍛えぬいた肉体を大きくむしり取った。一瞬だった。何がどうなったかさえわからなかった。たとえ鎧で全身を守っていても同じ結果になったろう。


〝……ははっ、笑えるぜ。なんてぇ強さだ……利き腕砕けちまった……もう弓もひけねぇ……〟


あまりの惨状に乾いた笑いが浮かぶ。

自分は間もなく死ぬのだと悟った。

よくもブラッドやセラフィは、こんなすさまじいアリサの技を受け、何度も立ち上がれたものだと、他人事のように感心する。すでに意識が朦朧としていた。脳か神経のどこかが損傷したに違いない。激しい耳鳴りがする。やがて、それは人の声に変わった。眠りに落ちるときのように、ぐにゃりと思考の流れが歪む。意識が現実から遊離していく。


……身体中が燃え上がるように痛い……なぜ自分はこんな激痛に、歯を食いしばって耐えているのだろう。もう十分ではないか。すでに何百回も矢を射ているのだ。手の平の豆は潰れ、弓籠手からぽたぽた血が滴っている。早く解放されたい……


アーノルドの激痛は、いつの間にか、稽古中の手の痛みにすり代わっていた。

心がここではない、どこかに飛んでいた。


「……師匠、もう無理です……せめて、少しだけ休ませてください。ほら、こんなに手の皮が破けて……」


アーノルドは夢を見ていた。気がつくと子供の声で泣き叫んでいた。鼻っ柱の強そうな声色が、子犬のような哀調を帯びていることを、アーノルドは我が事ながら少しおかしく思った。アーノルドは、八歳ほどの子供の姿に変わっていた。それ自体は、不思議には思わなかった。何故なら、夢とは突拍子もないのがお決まりだからだ。自分が、さっきまでの燃える城の中ではなく、陽光のふりそそぐ緑の庭園にいて、弓の修行に励んでいることも当然のことと受け入れた。


大人のアーノルドの意識も少しだけ残っていて、やけに鮮明な夢だとぼんやり思っていた。


師匠である長身の女性が、傍らに立ち、じっとアーノルドを見つめていた。森の精霊を思わす儚げな美女だが、弓に関してはおそろしく頑固だ。意固地な職人の親方でさえ裸足で逃げ出すだろう。


「……まだ、あなたの限界は先です。続けなさい」


それだけ告げ、あとは無言でグリーンの瞳で見つめられ、アーノルドの泣き言は喉の奥に引っ込んでしまった。


……彼女の名は、コーネリア。弓の名家、メルヴィル家の出の彼女は、弓が盛んなハイドランジアの長い歴史でも、おそらく五指に入る達人だ。メルヴィル家の始祖の、魔弓の狩人の通り名と戦装束を許された天才だ。不幸な諸事情により一度は弓の世界から引退したが、再び弓を手にしてからの神業は、以前にもまして冴えわたり、すでに大陸一ではないかと噂される。いまや弓を手に取る者で彼女を知らない者はいない。挫折を乗り越え、より高みに上った強さはアーノルドの憧れだ。伝説の戦装束をいつか着てみてほしいとアーノルドは願っているが、彼女は戦装束に一度として袖を通そうとはしない。森の女神を思わすメルヴィルの戦装束は、弓の神域に到達したものだけがまとう資格がある。きっと師匠はまだ自分本人の腕に納得がいっていないのだろうとアーノルドは思っている。これだけの弓の名手でありながら、慢心をせず、向上心を忘れない彼女を、心から尊敬する。


アーノルドは涙をごしごし拭い、再び矢をつがえた。


コーネリアが満足そうにうなずく。彼女の指導の厳しさは常軌を逸しているが、少女時代に本人がこなしてきた訓練しか課さないことを、アーノルドはよく知っていた。


相棒の巨大な白フクロウが、頭上の巨木の梢で身じろぎした。アーノルドを心配しているのだ。アーノルドは、フクロウの視界を共有する秘術、鳥瞰射撃の使い手だ。人間にはありえない広角の視界と俯瞰、山なり射撃の組み合わせは、百発百中の精度を誇る。だがアーノルドは、コーネリアに師事している間は、鳥瞰射撃をおのれに禁じていた。フクロウ頼りでは、ある程度以上の高みで頭打ちになってしまうことは痛いほどよくわかっている。アーノルドは自分の力で強くなりたかった。少しでもコーネリアに近づきたかった。

しゃくりあげながら、アーノルドは弓の練習を再開した。


コーネリアの無言の圧力は、大男が斧を持って脅すよりも、はるかに恐ろしかった。

さらに五十回ほど矢を放ったあと、アーノルドは疲労困憊し、泣き声もあげられなくなっていた。コーネリアはほんのわずかな気の緩みさえ見逃さない。王様の御前で弓技を披露するほどの緊張を、一矢一矢に強いられるのだ。子供のかぼそい神経にはあまりに過酷な試練だった。


アーノルドの手からついに弓が落ちた。まだ弓をもっているつもりで矢をつがえようとし、一瞬弓がどこにいったのかわからず、呆然とする。あまりのぶざまさに涙があふれでた。かろうじて保っていた気力がくじけ、アーノルドは崩れ落ち、地面をかきむしり、声をあげて泣き出した。


そのそばにコーネリアが膝をついたことを気配で察し、アーノルドは顔をあげた。弓の稽古のとき以外のコーネリアはとても優しい。疲れ果てたアーノルドをおんぶして帰途につくことも多々ある。いつものように慰めてくれるのかと期待したのだ。だが、すがるようなアーノルドの目は、峻厳な緑のまなざしの前に凍りついた。


「……アーノルド、あなたはどうして弓を引くのです。自分を高めるため?  強い相手と闘うため? 矢には射手の心が宿ります。あなたにとっての信念……芯になるものは何ですか?」


アーノルドの両肩を手で摑み、コーネリアは問いかける。

真実の泉のように澄んだ緑の瞳に、みっともない泣き顔の自分が映っていた。


「……師匠……俺は……」


突きつけられた醜態を情けないと思った。胸の奥からぐうっとこみ上げてくる感情の塊を、なんとか言語化しようと、幼いアーノルドは四苦八苦した。


そうだ、自分はこの師匠のようになりたい、だけど師匠らしくってなんだろう。強さ、精神力、努力、どれも少し違う気がする。うまく言葉に出来ない。自分と師匠の最大の違いはなんだろう、もう少しで答えが見つかりそうなのに、あと一歩で届かない。


もどかしくて身もだえする子供のアーノルドに、


「……あーっ!! また私に内緒で、お母様に弓の稽古をつけてもらって!! おのれ、アーノルド。許すまじ!! さっさとお母様から譲られたその弓籠手を私に渡しなさい!!」


かわいらしい抗議の声とともに、女の子が毬のように突進してきた。

いつもの三倍ほどの猛スピードで坂道を駆け下ってくる。

途中で三度ばかりこけたが、転がりながら、めげずには跳ね起きた。

コーネリアの娘、スカーレットだ。


目の覚めるような赤い髪と、世にも珍しい紅い瞳、紅潮した頬をぷっくり膨らませたその姿は、一目見たら決して忘れられないほど印象的だった。整った顔立ちは、四才ぐらいの背格好でありながら、将来絶世の美女になることを予感させる。勢いを殺しきれず、どんっとアーノルドの胸に飛び込んでくる。もつれあう形になり、弓籠手をもぎとろうと密着され、アーノルドの胸が不覚にも高鳴る。遠慮なくのしかかってくるスカーレットの重みと体温は、アーノルドを落ち着かない気持ちにさせた。


「ねえ、アーノルド……」

「な、なんだってんだよ」


ぴたりと動きを止めての上目遣いでの問いかけに、どぎまぎする。


「……『私に』『渡しなさい』……今日も私のエスプリは絶好調だと思わない?」

「……思わねぇよ」


幼女スカーレットは、自分の発言を振り返り、得意げにうなずいた。アーノルドはがっくりした。

胸の高鳴りは二秒で終わりを告げた。エスプリではなくただの駄洒落だ。妙な言葉遣いとくだらない笑いのセンスのせいで、ときめきが雲散霧消した。


「ぬおおっ!? 髪がっ!! 髪がボタンにっ!! いたたっ!! おのれ!! はかったな、アーノルド!! さては私のエスプリに恐れを抱いて殺意を……!?」


「……てめぇの頭ん中に恐れを抱くぜ……」


弓籠手を脱がそうと悪戦苦闘していたスカーレットは、赤髪をアーノルドのボタンにからませてしまい、涙目で悲鳴をあげはじめた。顔に似合わず、いそがしい立ち振る舞いの女の子だった。まとわりついたあげく、鳴きながら、足をもつれさせて坂道を転がっていく子犬を思わせた。


「……じっとしてやがれ、今取ってやる。ったく、ボウズ頭にゃなりたくねぇだろ」


「はぁい」


スカーレットは、しゃちこばってぴたりと停止した。

アーノルドは苦笑し、綺麗な赤髪を傷めないよう注意しながら、そっとボタンからほどいてやった。


「……あ、ありがと。ごめんね、怪我してるのに指を使わせちゃって。痛くなかった? ……だ、だけど、こんなことで恩を売ったと思わないでよね。あんたは私の弓のライバルなんだから!!」


びしっと指を突きつけ、幼女スカーレットはふんぞり返った。


決めているつもりらしいが、自爆して転げ回ったせいで、スカートの後ろ裾がまくれ、下着の尻が丸だしになっていた。てんで締まらない。アーノルドはため息をついた。大騒ぎされたせいで、気分に水をさされ、泣いていた自分が馬鹿らしくなった。


「……おい、髪にゴミがついている。取ってやるから背中を向けやがれ」


「はぁい」


素直に従ったスカーレットに気づかれないように、そっとスカートの裾を引き下ろして整える。乱暴な言葉遣いに似合わず、アーノルドの心は紳士だった。


「ほらよ、もういいぜ」


「……ん、ばっちり決まってる? ありがと。……お母様、アーノルドばかり弓を教えてずるいです!! こんな奴ほっといて、かわいい娘に、弓の秘術を伝授してくださいな。お・ね・が・い」


「……スカーレット、あなたの魂胆はわかってるわ」


あざとくおねだりするスカーレットを見下ろし、コーネリアは困ったように語りかけた。スカーレットの肩がびくりとはねる。


「アーノルドが可哀そうと思い、見かねて、助けに入ったのでしょう。母の目は誤魔化されませんよ。母は、あなたの言うことならなんでも聞きます。あなたは、私よりずっと賢いし、いつも自分より他人を優先する優しい子だもの。だけど、弓の道は別です。たとえ愛娘のあなたでも、口出しは許しません」


ぴしゃりとはねつけるコーネリアは、二の句を告げさせぬ厳しい雰囲気をまとっていた。


あー、とか、うー、とか言い訳しようとしていたスカーレットは、やがて肩をしょぼんと落とし、観念したかのように「……はい」とうつむいた。


一連の大騒ぎが、すべて自分を思ってくれての演技だったと悟り、アーノルドの耳がかっと熱くなった。疑いもなくスカーレットの言葉を丸のみしていた自分が恥ずかしい。年齢は半分ほどだが、スカーレットは自分なんかよりずっと大人だった。


「……そうだったのか……すまねぇ、下着まで丸出しにして、俺のために……!!」


「えっ!? 下着!? 丸出し!? 私、知らないよ、なんのこと!?」


スカーレットは焦りまくって、お尻をまさぐっている。首を曲げて振り向き、確認しようとし、そのままくるくる回り出した。すべてが演技ではなかったらしい。自分のしっぽを追い掛け回す仔犬みたいだと、アーノルドは思った。


「……母は鬼と思われてもかまいません。メルヴィル家は、祖先からの弓の業を、次代に引き継がせることに命を懸けてきました。親子の情よりも、その使命を優先してきたのです。母にもその鬼の血が流れています。母は、アーノルドにすべての技を授け、自分よりも高みに上ってもらうつもりです。そのためになら鬼にも悪魔にもなりましょう」


コーネリアは決然と言い放った。張り詰めた凛とした美しさは息をのむほどだった。

控え目な普段とは別人のようだった。


烈しい師の愛に、アーノルドは座り込んだまま、痛みと疲労を忘れ、はらはらと落涙した。尊敬する師の評価が心に沁みる。死んでもいいと思ったほどだ。しびれる感動が全身を包みこんだ。スカーレットが心配して、しゃがみこんでのぞきこむ。


「……だいじょうぶ? 痛いの? アーノルド……」


感激の嗚咽でまともに返事ができないまま、アーノルドは必死にかぶりを振った。


それを見たスカーレットは意を決したように、アーノルドの弓籠手に手をかけ、あっという間に、引き抜いた。アーノルドが抵抗する暇を与えなかった。一度決断したスカーレットの動きは電撃の速さであり、体術の天才のブラッドでさえ虚をつかれるのだ。そのまま自分のスカートをばっとまくり、白いシュミーズを引っ張りあげ、端をくわえると、びりっと音をたてて引き裂いた。


「……わかりました、お母様。でも、どうか傷の応急手当てぐらいは許してください」


コーネリアがうなずく。


スカーレットは裂いた布地を包帯代わりにし、アーノルドの血まみれの手に巻き付けた。生地の白さと、のぞく脚の白さが目を射る。


「……わ、悪ぃな。ありがとうよ……」


目のやり場に困り、そっぽを向きながら、どもって礼を言うアーノルドに、スカーレットは不敵に嗤いかけた。


「勘違いしないでよね。お母様が立場上できないことを代行しただけよ。あんたと慣れあう気なんか、これっぱかしもないんだから。お母様に評価されてるからって、いい気にならないで。ライバルとして正々堂々、いつかあんたを越えてみせる。……あんたがどう思おうとね」


もちろんその言葉を額面通り受け取るほど、アーノルドは馬鹿ではなかった。

この言葉はスカーレットの照れ隠しだ。

母娘の優しさは形は違えど同じだった。二人の愛に照らされ、自分の目指すはるかな道が目に浮かんだ気がした。

最後に言い淀んだ寂しげなところにだけ、本音がちらりとのぞいた。スカーレットにはアーノルドほどの弓の才能はない。残念ながらメルヴィルの名は継げまい。


だが、アーノルドにとって、のぞきこむスカーレットの瞳は、胸にさげた大きなルビーよりもずっと綺麗で価値あるものに思えた。弓の才能なんかなくたって、おまえは……とアーノルドは心の中で呟いた。アーノルドは自分の気持ちに気づいてしまった。


「……俺は、おまえのことを……」


つき動かされるように口にしかけ、アーノルドは言葉をのみこんだ。


そこから先は、半人前の自分が口に出していい言葉ではない。今はそんな資格もまったくない。だけど、いつか師のコーネリアに認められ、自分自身に納得がいったそのときは、きっと……


「……俺も、おまえのことは……最高のライバルと思ってるぜ。おめえにゃ、俺ほどじゃねぇが弓の才能がある。へっ、追いつけるもんなら、追いついてみろや。そんときにゃ、俺はもっと高みにいるけどよ」


わざと悪たれ口を叩き、鼓舞する。途中で言い直したアーノルドの真意に、コーネリアは気づいたようで、優しいまなざしでうなずいた。スカーレットはその手の話に鈍いらしく、きょとんとしていたが、気を取り直し、すっと手を伸ばした。


「……約束よ!! だけど、あんた子供なんだから、くれぐれも無理はしないでよ。……ありがとう、弓の才能があるって言ってくれて」


「おうよ、待ってるぜ。約束だ。へっ、なんだよ、その似合わねぇ、しおらしい言葉は。いつもみてぇに、食ってかかってこいよ。調子狂うぜ。……それと、ありがとよ、いろいろ心配してくれて。……んだよ、その顔は。これでおあいこってやつだろ」


二人はどちらからともなく、顔を見合わせて笑い出した。


笑顔とともに差し出されたスカーレットの小指に、おのれの小指をからめ、アーノルドは誓った。


〝俺はぜってえ、おまえに追いつかれねぇよう努力する。だから、ずっと追いかけてこいよ。俺がいつもそばにいて、おまえのこと守ってやるからよ〟


それは口に出さないアーノルドだけの約束だった。心の中では彼女の手の甲に口づけをしていた。屈託のない笑みに、胸が切なく絞めつけられる。思い出の花のようにいつまでも心に残った。


……大人のアーノルドの意識が、子供のアーノルドの意識と重なり合う。幼いスカーレットと、眠っている女王の姿もだ。


〝……ああ、ブラッド。おまえの言った意味がよくわかったぜ。スカーレットの……ちびの笑顔は最高だ。そのためになら死ねるって言ったわけがよ。まったく、まいっちまうぜ。その通りだよ……〟


現実とともに激痛も戻ってきた。


半身が爆ぜた責め苦にも屈せず、アーノルドはぎりぎりと弓をひいていく。


〝……師匠、俺が弓をひく理由がわかりました。……俺はこいつを守ってやりてぇ。……あなたの娘の、こいつの笑顔を……〟


ほほえんだアーノルドは小さく呟いた。


もちろんアーノルドは、早逝したというコーネリアに師事したことも、幼い頃の女王スカーレットに出会ったこともない。

現実の記憶ではなく、死に瀕し、混濁した意識に、先ほどアリサの見せた幻が投影されたと考えるほうが自然だ。凍死寸前などの極限状態でそういう幻を見ることを、経験としてアーノルドは知っていた。それでも自分の見たものが幻であったとアーノルドに片づけることはできなかった。生々しい感覚が残っている。


いや、残っているだけではない。アーノルドを勇気づけるように、今も自分の前に立っているのだから。


「……よく答えにたどり着きました。さあ、弓を引きなさい。誰かを守ろうとするとき、メルヴィルの矢は無敵です」


弓を構えた師匠のコーネリアが、首を曲げ、肩越しにアーノルドに優しくほほえむ。

背中にまとった毛皮が揺れる。ほっそりした脚を長い革ブーツが覆う。緑色を基調にした服は、まるで森の守護精霊のようだ。噂にきくメルヴィルの戦装束とすぐにわかった。

森と同じ緑色の瞳が、私の娘を守ってあげて、とアーノルドに語りかけていた。


「……姫さまを頼むぞ」


マッツオの深い声が後ろからかけられた。大きな手の感触が、勇気づけるように背中を押す。

アーノルドにしか見えない、彼らの姿と語りかけが、アーノルドに最後の力を与えてくれた。


嘲笑っていたアリサの目が、驚きに大きく見開かれる。


「……馬鹿な。砕けた腕であの強弓をひくだと……いくら加護の力があっても、ありえない……」


人体破壊に精通したアリサだからこそ、受けた衝撃は立ちすくむほどだった。


弓をかまえたコーネリアの幻が、きっとアリサを睨みつける。

肩幅よりやや広く脚を開き、深く呼吸し、大きく弦をひく。


「……続きなさい、アーノルド。正射必中……」


見たこともない技なのに、コーネリアが何をしようとしているのか、アーノルドは一瞬で理解した。導かれるように同じ構えをとり復唱する。


「……はい、師匠……正射必中……」


アリサが訝し気に眉をひそめる。

彼女にはコーネリアの姿は見えていない。アーノルドが奇妙な独り言を呟いているようにしか思えない。重傷を負ってせん妄でも併発しているのかと確かめる目つきだった。


アリサの反応など頭になく、アーノルドはただ無心に、眼前のコーネリアの動きをトレースしていた。二人の動きと呼吸が完全に一致する。言葉が重なり合う。

繰り出すは、弓のメルヴィル家が最高峰……!!


「「……貫け……!! ……雷爬……!!」」


限界まで弦をひいたアーノルドの剛腕から、凄絶な矢音が放たれた。風切る音は、まるで爆発音だ。弓威の塊は、アーノルドとアリサの中間に瞬く間に到達した。そこにはセラフィの置き土産、ロマリアの焔の残り火によるつむじ風があった。風に吸い寄せられることによって矢はさらに加速し、閃光となってアリサに襲いかかった。矢羽根が激しく摩擦され、静電気が発生した。蒼白い電光をひいて矢が迫る。


「……雷爬、だと……?」


はじめて見る技にアリサは最大限の警戒をした。


「……鬼哭……!!」


アーノルドを嘲っているように見えて、百戦錬磨のアリサは油断なく、体内で〝狂乱〟を練り上げていた。アリサほどの達人になると、体内の血流を起点にし、外からはわからない無動作で〝狂乱〟を発生できる。だから瞬時に〝狂乱〟で全身を覆う鬼哭を発動できた。まさに強さとしたたかさを兼ね備えた難攻不落の怪物だった。


〝狂乱〟の壁とアーノルドの矢が激しくぶつかり合った。異音が轟き、火花が散る。一瞬〝狂乱〟が押し込まれ、矢じりはアリサの目前までたどりついたが、次々に押し寄せる新たな〝狂乱〟にのまれ、木端微塵に砕け散った。


だが、矢が帯びていた雷気は〝狂乱〟をすり抜けた。


蒼白い雷光に身を貫かれ、アリサが愕然とする。


「……雷……だ……と……!?」


電気によって痺れ、わずかに硬直したアリサの瞳に、さらに襲いくる五本の矢が映った。アーノルドは雷爬を六連射していたのだ。雷の尾が絡み合い、蒼白い網目を描く。それは巨大な雷の翼のはためきか、雷獣の群れのようだった。


アリサは舌打ちした。


彼女にとってそれは裁きの雷に思えた。忌々しい加護の力、スカーレットと五人の勇士の絆が、自分の前に立ち塞がったように見えた。


「……忌々しい運命め、壊しても壊しても……どこまで私の邪魔をすれば気がすむのか……!!」


人食い虎の獰猛なうなりを喉の奥でさせ、アリサは〝狂乱〟の力をさらに強めた。五本の矢が雷をまとった鷲のように飛翔し、アリサがまとう渦に同時着弾した。


「……ぐっ……!!」


度外れの弓威を一度に叩きこまれ、アリサの身体ががくんっと揺れた。息が詰まる。鬼哭でも衝撃を吸収しきれなかったのだ。憤怒の呻きが漏れる。投石機による大石攻撃さえもあっさり打ち砕くアリサにとって、一人の人間の弓にここまで追いつめられるなど、屈辱以外のなにものでもなかった。


「……七妖衆を束ねるこの私をなめるなっ!! 砕け散れ!!」


アリサの怒りに呼応し、〝狂乱〟が吠え狂う。礼拝場に嵐が巻き起こる。轟音が耳を聾す。まさに鬼哭の技名そのものだった。不可視の巨大なグラインダーが高速回転したかのようだった。追撃の五本の矢は一本残らずひしゃげ、矢羽根を舞わせ、散華した。矢じりの金属が摩擦で溶け崩れ、線香花火のようにオレンジの輝きをまき散らす。


だが最初の矢と同じく、五本の矢のまとった蒼白い雷光は、蛇のように執念深かった。


「……がッ……!!」


矢を退けるのに〝狂乱〟を使い果たしたアリサを、五方向からの稲妻が直撃した。アリサの全身を蒼いアークが覆いつくす。アリサの金髪がぶわっと逆立った。がはっと息を吐き、アリサの目が飛び出しそうになる。ぶざまにたたらを踏む。身体を幾度も雷に突き刺され、アリサは全身麻痺していた。


はじめて見せる化物の醜態に、アーノルドは満ち足りた笑いを浮かべた。


「……へへ……ざまぁ、みやがれ……最高の技、ぶっぱなせたぜ……化物に一泡吹かせてやった……」


命の炎を一滴残らず燃やし尽くし、アーノルドは崩れ落ちた。矢筒に矢は一本も残っていなかった。彼はおのれの持ちうるすべてを振り絞ったのだ。

床にどうと倒れたアーノルドは、ありったけの優しさをこめたまなざしでスカーレットの寝顔を見た。


「……なあ、あの指切りのとき、俺はおまえを守ってやるって、こっそり誓ったんだぜ……ちっとは果たせたよな……へっ、夢での約束なのに、何言ってんだよって話だよな……だけど、いい夢だったなぁ……」


それからセラフィのそばに這っていこうとした。


「……おい、ブラッド、悔しいけどよ、こっから先は譲ってやらぁ……俺は、あの世にセラフィ追っかけてって、自慢話すんのに忙しいからよ。……女王さん……かわいいな……守ってやんな……」


だんだん声が小さくなった。友に伸ばしかけた指が床に落ちた。アーノルドは途中で息絶えた。友のもとで死ぬつもりだった彼の目は、そちらを向き、見開いたままだった。


金色の虹彩には、おだやかなセラフィの死に顔と、硬直したアリサに迫るブラッドの姿が映りこんでいた。


アーノルドの奮戦は、無惨紅葉の発動時間を十分に稼いでいた。満を持し、アリサめがけ、ブラッドが踏み込む。


「……アーノルド……セラフィ……ありがとう……!! おまえ達の気持ち、無駄にはしない!! 受けろ!! アリサ!! 人の想いを!!」


ブラッドの赤い翼が鋭角に走る。

万感の思いをこめて、ブラッドの拳が突き出された。


「……お……のれ……!!」


いまだ雷光はアリサにまとわりつき、その自由を封じていた。アーノルドとセラフィの意志が乗りうつったかのようだった。

身体は雷撃でこわばり、〝狂乱〟も使い果たした無防備な状態で、アリサは無惨紅葉の直撃を受けることになった。


ブラッドの拳がすうっとアリサの左胸に吸い込まれた。


アリサの頬がこわばった。完璧な無惨紅葉は、音もなく、まるで静止画のような技の入りから始まる。ブラッドの技は文句のつけようがなかった。


アリサが雷撃で身動きできなくても、ブラッドはいっさい油断しなかった。二人の犠牲を無駄にしないよう、一撃に全身全霊を傾けていた。ブラッドの拳を頂点に三角錐の衝撃波が発生した。もはやアリサに逃れる術はなかった。


無惨紅葉は、相手の心臓を強制的に暴走させ、血液の水圧をもって、身体を内側から破壊する。発生する血の刃は、内臓や筋肉のみならず、骨まで分断する威力がある。一度暴走しだした心臓は、アリサをもってしても止めることは不可能だ。


「……これで終わらす……!!


異様に乾いた音が響き渡った。血飛沫が飛んだ。


鐘の音が礼拝堂に降り注ぐ中、ブラッドとアリサは重なり合うように停止していた。


「……馬鹿な……!! ……どうして……!!」


驚愕の呻きを漏らしたのはブラッドのほうだった。右拳は無惨に潰れ、はじけたトマトのようになっていた。異様な音はブラッドの拳がひとりでに砕けた音だった。

アリサが嗤う。


「……あら、残念。終わったのはあなたの方だったわね」


無惨紅葉は寸前で不発に終わった。拳一点に集中していた力は、拠り所を失い、空中に散華した。背中に背負った血煙の翼が崩れ、ブラッドの紅い瞳がふうっと元の黒色に戻った。

〝血の贖い〟が解除されたのだ。


アリサは何もしていなかった。〝狂乱〟どころか、反撃ひとつ出来ず、棒立ちで拳の直撃を受けたはずだった。命中の最後の瞬間までブラッドは警戒を怠らなかった。いかにアリサでも絶体絶命だったはずだ。何が起きたかまるで理解できなかった。


大きくよろけ、狼狽するブラッドに、アリサが冷たく微笑む。胸にべったりついたブラッドの血に目を落とし、指先ですくいあげ、口紅がわりに唇にすっとひいた。


「……ふふ、戦いで化粧が落ちた私に、口紅をプレゼントしにきてくれたのかしら。いい心がけよ。女はどんなときも美しくあらねばね。でも、絶望と戸惑いをよそおったあなたの顔もとても素敵よ」


乾坤一擲の技を打ち砕かれ、呆然自失しているブラッドに身をすり寄せ、アリサは無惨にはじけた両手を彼の背中にまわした。電撃による麻痺から解放されたのだ。


「……ねえ、聞かせて。二人の友を犠牲にし、愛する女性への思いを胸に抱き、おのれのすべてを懸けた一撃が、かすり傷もつけられずに砕け散った気持ちを……受けろ、アリサ、人の想いを……だったかしら。あははっ!! あはっ!! 何をプレゼントしてくれるつもりだったのかしら」


アリサははじけるように笑った。ブラッドは呆然と立ち尽くしていた。

「……ああ、おかしい。ふふ、さすがに心が折れたようね。これからゆっくりと魂をすり潰してあげる」


胸板に頬を寄せ、淫靡にささやく。

アリサの巨大な紅い翼が、恋人たちを包む寝具のように渦巻いた。ブラッドの目には、大蛇が自分を呑み込もうとからみついたように見えた。


「……お馬鹿さん、まだわからないの? そうね、アーノルドの言葉を借りるのなら、無茶な動きをしたツケを払うときがやってきたの。同じ肉体で気づかなかったのでしょうけれど、『真の歴史』と、今のループのあなたの身体では、強度がまるで違うの。とっくに限界を迎えていたのを、加護の力と気力が繋ぎ留めていただけだったのよ。でも、最強技の無惨紅葉には、さすがに拳が耐えられなかった。威力がありすぎたことが仇になったのよ。念のため、壊れやすいよう、鬼哭で拳の骨に切れ目を入れておいたのだけど、気づいてくれたかしら」


甘えるような声が残酷に囁く。ブラッドの額から頬を冷汗が伝う。


アリサが鬼哭を発動し、ブラッドが〝伝導〟を叩き込もうとした瞬間、拳が異様な力ではね返されたのを思い出したのだ。アリサはあのときから罠を張っていたのだ。いや、あるいは無惨紅葉で決着をつけるよう誘導したときから。


「……でも、まさか、私があなたにしようとしたのと似たことを、先に私自身がアーノルドに仕掛けられるなんてね。自分の足元は見えないものなのね、今回の失態はとてもいい経験になったわ」


アリサはうっすら苦笑いを浮かべた。


「……くそったれ、何が騙す気はないだ……馬鹿か、俺は……!!」


ブラッドは、アリサの言うことを真に受けた自分を呪ってやりたかった。

ブラッドの後悔の呻きに、アリサは悪びれずに答えた。


「……ふふっ、騙したわけではないわ、無惨紅葉以外では、私の鬼哭を貫けなかったのは本当よ。ちゃんと約束どおり〝幽玄〟も使わなかったし、正面からいったでしょう。それに一発勝負でなく乱打戦にもつれこんでいたら、あなたとっくに死んでいたわよ。切れ目を入れておいたのは、拳だけじゃないのよ」


ブラッドの胸に顔をうずめたまま、アリサはくすくす笑った。


ふくれあがる不穏な気配に、ブラッドはアリサの抱擁から脱出しようとしたが、脚が動かなかった。脚だけではなく、腕も、いや、それどころか、首から下がいっさい動かせなくなっていた。


「……むだよ、他人の体調を自分のもののようにコントロールする心拍同調、じつは私も密着すれば使えるのよ。ただし私のは、相手を壊すほう特化だけれど……まずは首から下を麻痺させておいたわ。これでもう逃げられない。さあ、次はどこを奪おうかしら。スカーレットを愛おしむその目を見えなくしましょう」


先ほどからブラッドがアリサに抱きつかれたままなのは、すでに自由を奪われていたからだった。

うたうようにアリサが告げると、ブラッドの視界が暗黒に閉ざされた。


「……ぐっ……!!」


低く呻いたブラッドは後方に倒れ込むことでアリサの腕から逃れようとしたが、アリサはぎゅっと抱きすくめ、それを許さなかった。


「……女の抱擁から逃げようなんて悪い男ね。罰として、スカーレットの甘い香りを嗅ぐ鼻を封じるわ。それから優しい声を聞く耳もね。あなたには、恋敵の私に抱きしめられる感触だけ残してあげる」


上目遣いでアリサは舌なめずりをした。

嗅覚と聴覚を封じられたブラッドは、突然全身から血を噴き出し、ぐらついた。

鮮血を浴びながら、アリサはうっとりとした表情を浮かべた。


「……ふふ、超一流の戦士の血のシャワーなんて、最高の贅沢だわ。……言ったでしょ、切れ目を入れておいたのは拳だけじゃないって。とうとう身体全体が崩壊しだしたの。……鬼哭はね、ほんとうは忌々しい加護の力への切り札として、編み出したものよ。おぼえているかしら。「真の歴史」の、岬の小城でのスカーレット争奪戦の直前、あなたの全身の骨にひびを入れた技を。鬼哭はあの完成版よ」


アリサは、壊れねじ曲がった指を、ブラッドの背にゆっくり這わせた。

鬼哭のもたらした肉体の損傷を冷徹に確かめているのだ。


「……加護の力の特徴は、肉体の限界を超えた力を発揮すること。身体にかかる負荷は半端ではないわ。だったら、あらかじめ〝狂乱〟で、骨や肉のつなぎ目の組織を劣化させておいたらどうなると思う? わかるわよねえ。要所を砕いた石橋のように一気に崩壊するのよ。……ふふ、綺麗に裂けめが入っている。我ながらうまくいった。実戦での実験台ご苦労様。……ブラッド、あなた、もう間もなく死ぬわ。この私を、あと五手しか残っていないところまで追い詰めたこと、あの世で誇っていいわよ」


アリサのささやきはブラッドの耳には届かなかった。

聴覚はすでに封じられていたし、ブラッドの意識はすでに消えかかっていた。

それはあるいは幸せなことだったのかもしれない。残酷な真実を知らずにすんだのだから。

アリサは、無惨紅葉を無効化するいくつかの方法を手短に語り、ため息をついた。


「……耳を早く潰しすぎたわね。もっと絶望する顔を見れたはずだったのに。性急すぎるのは私のいけない癖だわ」


追い詰められたように見えたアリサは、まだ幾つもの打開策を隠し持っていた。結局、戦士たちの命を賭した戦いも、アリサにとっては余興でしかなかったのだ。それどころかアリサの新技の実験台として利用された。残酷すぎる結末だった。


それでもブラッドは諦めなかった。


「……俺は……負けない……スカーレ……ット……たとえ……この身が……消え去っても、魂だけになっても……今度こそ……おまえを守って……」


よろよろと動き出そうとするブラッドを、アリサは嘲笑った。


「五感と運動神経を破壊したのに、よく動ける。しつこい男は嫌われるわよ。ああ、私としたことが、スカーレットへの愛をささやく声を奪うのを忘れていたわ。あははっ、酸欠のお魚みたいね。とってもみじめだわ」


言葉を失い、ぱくぱくと声なき叫びをあげるブラッドから身を離し、別れる恋人にするように、とんと両手で胸をついた。成す術もなく、ブラッドは床に両ひざをついた。礼拝堂の屋根に開いた穴から、空がのぞいている。哀し気な表情で天を仰いだブラッドの目から、大粒の涙が零れ落ちた。


「……いくら空を眺めてもむだよ。歌を忘れ、翼ももがれたカナリヤには、這いずる地面がお似合いだわ。恋をうたう資格はもうないの。……さようなら、奈落へ堕ちなさい」


アリサは、えへらと凄絶な笑いを浮かべた。

くるりと華麗に身をひるがえし、ブラッドに背を向ける。アリサの真紅の瞳が、氷壁のブルーに戻った。血の翼が解除され、羽毛のように紅いきらめきが舞う。輝きが降り注ぐ幻想的な光景の中、息絶えたブラッドがゆっくり床に倒れ伏した。


「……ふふ、思ったより手こずらされた。だいぶ血液を消耗したわ。あと一分ほど神祖状態を続けさせれば、私を戦闘不能に追い込めたのに。惜しかったわね」


アリサは、ステップを踏むような足取りで、男達と死闘を演じた床を突っ切っていく。

頬を染め、息を弾ませ、殺し合いをしたことなど忘れたかのように。

ここが廃墟のようになった礼拝堂ではなく、青春の詰まった学び舎であるかのように。

恋に恋する純真な乙女の顔をして。

ほんとうは神祖状態の反動で、まともに立てないほど疲労困憊しているのだが、高揚が活力を与えていた。

その視線の先には横たわるスカーレットがいる。


歩むアリサは誰かに挨拶するかのように、すっと身を屈めた。床から何かを拾い上げる。鈍い金属の光沢に、うっすらと月の弧が落ちる。白昼の空に、極限まで研ぎ澄まされたような極細の月があった。


「……ああ、残っていたのは、五手ではなく、六手になったわね」


アリサは邪悪な表情を取り戻して嗤った。


新月の期間は終った。それはアリサが予知能力を取り戻したことを意味していた。


巨大な翼が音もなく羽ばたき、かすかな月光をかすめた。

礼拝堂の屋根の穴から、大人ほどもある鳥影が、逆落としに飛び込んできた。アーノルドの相棒の白フクロウが、復讐と殺意に燃え、黄金の目をぎらつかせた。アリサの背後から、死角をついて襲いかかる。

その戦闘力は大鷲以上で、凶悪なかぎづめは、人間の頸骨をたやすく粉砕する。


「……畜生の身なれど、その忠義見事。褒めてもらえる主のあとを追うがいい」


アリサは振り返りもせず、手にしたものを後ろに放り投げた。それは真鍮の重い燭台だった。ゆっくりと宙で回転する中央の鋭い先端に、白フクロウは頭から突っ込むはめになった。必殺の飛翔の速度が一点に集中した。投擲された槍の穂先ほどの力がかかった。急所の眉間を砕かれ、血と脳漿と羽毛をまき散らし、白フクロウはあさっての方向に鋭角に墜落した。ほぼ即死だった。


アリサは後ろを確認さえしなかった。

死の道筋を与えてやることは、予知能力がある彼女にとり、日常の行為でしかなかったからだ。


目の前の気を失っているスカーレットに、アリサの意識のほとんどは向けられていた。


「やっと二人きりになれたわ。少しやつれたのね。でも、そんな貴女も愛おしいわ。今回はまだ残り時間がたっぷりある。いつもと趣向を変え、哀しみでなく、快楽に顔をゆがめる貴女を見るのも悪くないかもね……」


だから、巨大なフクロウの後ろに隠れ、急接近していた人影に気づくのが遅れた。

はっとなったときには、舞う羽毛の向こうから、ブラッドが飛び出し、懐にもぐりこまれていた。

ブラッドの引き連れてきた風が、ごうっとアリサの金髪を舞い上げた。そのせいで目の前が遮られ、視認がさらに遅れた。


「……がっ……!?」


どんっという肉をうつ鈍い音がした。

脇腹をブラッドの左拳にしこたまえぐられ、足が浮いた。アリサの金髪が舞うのと拳の命中は同時だった。アリサははね飛ばされた。枯れ木が折れるような嫌な響きがした。肋骨が何本か持っていかれ、肺に折れ口が突き刺さり、口から血泡があふれた。まともに受けてしまった。


起きたことがとても信じられなかった。

ブラッド同様、アリサも、相手の状態を血流をもって見抜くことができる。その精度は極めて高い。あのとき、たしかにブラッドは絶命していた。

アリサの目を欺くことは七妖衆でも容易ではない。驕慢な態度とは裏腹に、アリサはおそろしく用心深い。自らが策士なだけに、裏の裏を読む。アリサに対し、死んだふりをし、隙をついて逆襲など、犬の嗅覚をだますことなみの難事だ。それだけの自負がアリサにはある。だが、プライドを折られても立ちすくむことなく、事実は事実だとアリサはすぐにあっさり認めた。


瞬時に反撃のプランを頭の中で組み立て終える。


「……驚いた。まだ動けたの。さっきのお返しのつもりかしら? まあ、いいわ。少し浮かれすぎていたもの。あのままだと興奮してスカーレットを壊してしまところだった。ちょうどいい熱さましになったわ。だけどね……」


空中で身をひねり、体勢を整えながら、口元の血泡を手の甲で拭い苦笑する。

先ほど自分の金髪でブラッドの視界をふさぎ、変則的な蹴りを叩きこんだことを思い出したのだ。


ブラッドは無言で応じた。アリサが着地するより早く、ブラッドは落下地点にとびこむ。降下してくるアリサめがけ、拳が唸りをあげる。殺人マシーンのようにためらいがなかった。


「……だけど、私とスカーレットの再会を邪魔したことは許せない。翼と声をなくしても、まだあきらめないカナリヤは、脚も首もねじ切るしかないわね……」


アリサの形相が変わった。想い人との二人きりの時間を邪魔され、激怒していた。蒼い瞳の色素が、高熱の炎のように透明がかった。


アリサは地面ではなく、踏み込んできていたブラッドの膝の上に降りた。


「……あはあっ!! 足一本もらったわ!!」


アリサの落下速度と全体重、蹴りつける力、それと突進してきたブラッドの勢い、それら全部をひとまとめにし、ブラッドの膝頭に瞬間的に集中させた。厳寒の雪山の木がはぜるような、背筋の寒くなる音がした。ブラッドの膝関節が、アリサによって砕かれたのだ。


アリサはさらに念を入れた。もう一方の足の爪先をブラッドのみぞおちにめり込ませた。横隔膜に衝撃を与え、呼吸を一時停止させるためだ。二つの蹴りを同時に放ちながら、アリサは大きくのけぞった。顔面を狙ったブラッドの拳をかわすためだ。そのまま後方にゆっくり宙がえりしながら跳んだ。

攻撃と回避をかねた芸術的なカウンターだった。


アリサは、ブラッドの脚と動きを封じたと、空中で確信していた。少なくとも、天舞の態勢に入る距離は稼げるはずだ。だから、ブラッドの影が一瞬の遅滞もなく追いすがってきていることに気づいたとき、ぞっとした。得体のしれない違和感を感じる。あのブラッドがためらいなく女の顔を殴ろうとしたこともだ。前髪で隠れ、ブラッドの表情は見えない。


「……この死にぞこないが!!」


アリサは舌打ちし、白フクロウと同様に、ブラッドにすみやかに死を与えようとした。

その顔が凍りついた。驚きで表情が失せ、能面のようになった。


「……死の予知が……できないだと……!?」


ブラッドを殺す道筋がまったく見えなかった。アリサにとり、予知は、生まれたときからともにあるものだった。新月期以外で働かなかったためしなどない。健常者の目が急に見えなくなったほどの衝撃で、アリサの頭の芯はかっとしびれた。


呆然としているアリサに、ブラッドが追撃をかける。機械の容赦なさだ。黙々と標的を射貫き続ける「真の歴史」のアーノルドの狙撃を彷彿とさせた。


身を投げ出すように着地し、アリサはなんとかブラッドの目測を狂わすことに成功した。あのアリサがカエルのように地面に這いつくばった。

金髪をふり乱し、転がるようにして、かろうじて攻撃をかわす。


「……もういいわ。予知がどうしてきかないかなんて。しつこいハエは叩き殺す、ただそれだけのことだもの」


アリサはすぐに意識を切り替えた。アリサのおそろしさは、策に溺れず、特殊能力にも依存しないところにあった。あらゆる手段には必ず破る手立てがある、との想定のもと、アリサは戦場を駆ける。臨機応変に動ける適応力こそがアリサの真価だ。動じない精神力と経験がそれを支える。先ほどの予想外のブラッドの襲撃へも、即座に対応してみせた。


今もまた、回避の回転を利用し、アリサは片脚をぐんっと大きくはねあげた。


「……ふうっ……!!」


鋭い呼気とともに、逆立ちする形で、ブラッドの延髄に回し蹴りを叩きこんだ。ぎりぎりで天舞が間に合ったのだ。まともに入った。ブラッドの身体ががくんっと傾いだ。いつものブラッドならたやすく食らうはずがない。少なくとも直撃は避けようとするはずだ。逆さになったまま、アリサはにやりとした。


「……無意識で動いていたようね、どうりで単調な攻撃だと思った。予想外の最初の一撃はもらったけど、そんなもの簡単にカウンターを合わせられるわ。最後の愛の試練としては拍子抜けね」


アリサは勝利を確信した。

頸椎を砕いた感触がつま先に伝わったからだ。

頸椎の神経を損傷すれば、そこから下の身体は麻痺する。虎が獲物の首筋をかみ砕くのはそのためだ。だが、アリサは信じがたい体験をすることになった。


ブラッドの動きはまったく止まらなかった。

アリサの足首を摑むと、濡れた布を振り下ろすように床に叩きつけた。


「……がっ……!?」


背中をしこたま強打し、アリサの息が詰まった。胃の腑がひっくり返された気がした。目の前に火花が散る。かばいきれなかった頭の芯がじいんと痺れた。損傷した肺から再び血泡がせりあがってくる。鉄臭さと酸味が、鼻腔と口いっぱいに広がった。咳き込む間もなく、身体がぐうんっと持ち上げられる。再び叩きつけられた。


もちろんアリサとて成されるがままではない。彼女は怒り狂い、四肢でかきむしる女豹のように凶暴だった。何度もブラッドの手首を蹴りつけ脱出をはかったが、先ほどと違い、ブラッドの手は万力のように離れない。アリサは凍りつく恐怖を味わっていた。動く石像かなにかと戦っている気がしてくる。とてつもない握力で、アリサの足首の骨が軋む。このままだと足首を握りつぶされるか、床に叩きつけられて殺される。そう悟ったアリサは、捨て身の脱出に転じた。


振り下ろされる勢いに逆らわず、逆にそれを利用した。身体全体をふりこのように大きく振り、自ら床に向けて加速することでさらに遠心力をかけた。引き込んでバランスを崩し転倒させようとしたのだが、ブラッドの足腰は鉄でできているかのように、びくともしない。

作戦変更したアリサは大きく身をひねった。ブラッドの手首に強烈な負荷を上乗せする。ブラッドは片手でアリサの体重を振り回している。両手でないところに突破口があった。

アリサは、片手で振り下ろした重い鉄の棒が急に向きを変えたような状況を作り出したのだ。アリサが鉄の棒とすると先端はアリサの足首だ。ブラッドはその先端を握りこんだまま離そうとしない。たまらずブラッドの手首が伸びきった。


その機を逃さず、アリサはブラッドの手首の骨を蹴り折った。だがブラッドは止まらない。頸骨のときと同じだ。おそろしい勢いでアリサは床に叩きつけられた。衝撃で意識がとびかけた。内臓が口から飛び出るかと思った。鮮血が、口からだけでなく、鼻孔からもあふれ出た。自ら加速し、無理な姿勢で蹴りを繰り出したため、ほぼ受け身が取れなかったのだ。


しかしわずかにブラッドの握力がゆるんだ隙をアリサは見逃さなかった。仮に痛みを感じなくても、手首の骨を破壊されれば、構造上、必然的に力は緩む。


アリサは身体を独楽のように高速回転させた。ブラッドに掴まれ固定された足首が激しくねじられるが、かまわず身をひねった。アキレス腱が音を立ててちぎれたが、アリサはようやく脱出に成功した。


だが、これで足を封じられた。もう飛んだり跳ねたりで攻撃はかわせない。

神祖状態を解除してしまったアリサは、そもそも反動で、しばらく身体をまともに動かせない。踏みこみ技の〝刹那〟や回避技の〝幽玄〟は使用不可能だ。天舞はかろうじて使えるが、威力は大きく落ちる。片足でしか地面を蹴れない今はなおさらだ。


ブラッドに語った、神祖状態のあとの弱体化は嘘ではなかった。

白フクロウを死の予知で葬ったのは、今のアリサには、一撃必殺レベルの武技を使う余力がなかったからでもあった。だが、なぜかブラッドの死の予知はできない。

両手は半壊し、得意の〝狂乱〟は放てない。がた減りした血流では、鬼哭の起点になる渦も作り出せない。しかし、狂乱〟なしの天舞では、このブラッドは止められまい。

八方ふさがりだ。


身をひるがえし、魔神のように襲いかかってくるブラッドを、アリサはおそれることなく睨みつけた。悪徳の塊のアリサだが、どんな不利な状況でも勝負を投げ出したりはしない。その誇り高さだけは美徳だった。


〝……まさかこの私が、先ほどのブラッドの真似事をすることになろうとは……!!〟


アリサは一撃のカウンターにすべてを賭ける決心をした。

ふうっと大きく息を吸い込み、意識を集中する。


単純なフィジカルでは、アリサは、マッツオやブラッドには遠く及ばない。速さとしなやかさはあっても、筋力と重さとリーチ、打たれ強さで大きく劣る。そのままぶつかり合えば、どれだけ完璧なタイミングでカウンターを決めても、力ずくで押し切られてしまう。


だからアリサは、肉体のリミッターを外した。あとを考慮することを一切やめ、身体中から力をかき集める。筋肉が裂け、骨が軋む。毛細血管がはじけ、皮下のあちこちが内出血する。完璧に力をコントルールするために、アリサはいっさい痛覚を切らなかった。

激痛の雷光が全身を焼き焦がすが、アリサは苦痛のうめき一つ漏らさなかった。


百戦錬磨のアリサから見ても、今のブラッドはおそろしくタフで素早く容赦がない。だが、先ほど見抜いたとおり、攻撃自体は単調だ。やはりブラッドも意識が朦朧としているのだろう。


アリサは、全身のバネと体重をのせた肘で、ブラッドの頭蓋を破壊するつもりだった。肘ならば、壊れはするが、アリサの力を余すことなく伝えてくれる。間接を傷めることを憂慮し実戦では滅多に使わないが、肘の攻撃はアリサの得意技だ。

意識を断ち切るなどという生ぬるいことでは、このブラッドは倒せない。先ほど白フクロウを殺したように、脳そのものを頭蓋から叩き出さねばならない。


迫るブラッドに向け、アリサは用心深くカウンターのタイミングをとった。

うなずく。リズムを完全に把握した。これなら百パーセントの精度でブラッドの攻撃をすり抜け、カウンターを決められる。片足ではどうしても踏み込みが甘くなる、身を前方に投げ出すようにして体重を利用しようと、アリサの身体がぐうっと前のめりに傾く。


「……名残惜しいけど、これで終わりよ。……さようなら、恋敵さん」


アリサは全身の力を一瞬に集中し、爆発させようとした。

アリサは勝利を確信していた。そのとき、がくんっと膝から力が抜けた。


「……馬鹿な……足が……どうして……!?」


らしからぬ驚愕の呻きをもらしたアリサの脳裡に、これまでの三人との戦いがひらめく。アリサは息をのみ、すべてを悟った。


先ほど左腕を犠牲にして相殺したつもりだったブラッドの渾身の一撃、その威力はアリサの身体の奥深くに到達し、予想以上のダメージを負わせていたのだ。気がつかないだけで、ずっと深奥でくすぶっていた。それが今になって一気に牙をむいた。


引き金になったのは、アリサが全身のリミッターをはずしたことだった。


アーノルドの声が耳奥によみがえる。


〝……幾らてめぇの技が怪物でも、身体は女のそれだ〟


アリサがはっと顔を上げたときには、ブラッドの拳がすでに目前に迫っていた。


アリサはほぞをかむ思いで自分を呪った。

嘲笑はしたが、心底彼らをあなどっているつもりはなかった。その考え自体が驕りだった。

窮鼠猫を噛むどころか、アリサは今死の危険に瀕していた。


身をねじってかわそうとしたが、視界に広がる鉄拳は、それよりはるかに速い。

アリサは顔面を砕かれることを覚悟した。


ごうっと空気を鳴らし、ブラッドの拳が、アリサの髪数本を焼き切った。焦げるにおいと拳圧がアリサの面をはたいた。


アリサは奇跡的に無事だった。脱力した膝は予想以上に大きく沈んだため、幸運にもブラッドの拳はぎりぎりで頭上を通り過ぎたのだ。


だがアリサは体勢を大きく崩した。脚はまだ地面に溶け込んだように動かせない。鉛のように重く、言うことをきかない。もう奇跡は起きまい。アリサはとっさに両腕を交差するように顔をガードした。けれど、素の状態のアリサの腕など、ブラッドの拳は苧殻のようにへし折るだろう。盾にさえなるまい。


しかし、いつまでたっても、追撃はこなかった。


「……ブラッド……?」


いぶかしげに目線を上げたアリサと、ブラッドの目があった。


アリサの目が衝撃に見開かれた。


ブラッドは悔しそうにかたまった表情を、顔に刻み込んでいた。目尻に悔し涙が光っていた。

先ほどアリサが死の抱擁で、ブラッドを沈めたときの顔のままだった。その顔をし、拳を突き出そうとした姿勢のまま停止していた。

見上げてアリサは息をのんだ。


「ブラッド、あなた……」


アリサはよろよろと後退し、ブラッドから身を離した。

満身創痍だが、敬意をこめて背筋を伸ばす。感無量で恋敵と呼ぶ男を見つめた。


「……もうとっくに死んでいたのね……死してなお、スカーレットを守ろうとしたの……」


ブラッドの死の予知ができなかったのも、脊椎の破壊でも止められなかったのも当然だった。

彼はとうに息絶えていた。死人を殺す術はない。


アリサはよろめきながら、ブラッドの背後に横たわるスカーレットのほうに動きかけた。

だが、足を止め、ブラッドの死に顔をじっと見つめた。

くすくす笑う。


「……なあに、その悔しそうな顔。あなたは、このアリサ・ディアマンディをここまで追いつめたの。もっと誇らしい顔をしなさいな。もっとも死んでいるあなたに、わかるはずもないわねえ」


アリサはすっと顔を寄せると、髪を耳にかきあげ、ブラッドに優しく唇を重ねた。


「……今回は奪うのは、これだけにしておいてあげる。でも、目を開いたままキスをするのはマナー違反よ。おぼえておきなさい」


そっとアリサは手を伸ばし、ブラッドの瞼を閉じた。目尻の涙を拭ってやる。


ブラッドの肩越しに、アリサは眠るスカーレットを見つめた。瞳にその姿を焼きつけようとするかのようだった。


「……せっかく貴女に壊れるほどの快楽を教えてあげられるチャンスだったのに。とても残念だわ。でも、死んだ人間はいかに私でも倒せない。そして恋敵も倒さずに愛する人に駆け寄れるほど、私は恥さらしではないの。いいわ、今回は見逃してあげる。果実と楽しみはあとに取っておくほど、美味しく熟すものだしね……」


アリサは思いを振り切るように視線をはずし、くるりと背を向けた。その背後で、ゆっくりブラッドが床に崩れ落ちる。


「……おいで、黄金蟲たち」


アリサの呼びかけに応え、戻ってきた金色の甲虫たちが、うやうやしくアリサの周りを飛ぶ。乱れ飛ぶ羽音に包まれながら、アリサは両手を差し伸ばし、彼らを歓迎した。その手が無惨なさまになっていることに憤り、黄金蟲たちの羽音が大きくなる。甲高く怒り、激しくアリサのまわりを旋回する。


「……ありがとう、私は心配いらないわ。見た目ほど痛くはないの。それにもうすぐループがはじまるわ。そうなれば、また一からやり直し。傷ついたこの身体ともお別れよ。これでも丹精こめて育てあげてきたのだけれどね……」


アリサはいまいましげに、礼拝堂の壊れた屋根からのぞく空を見上げた。


空にはいつのまにか得体のしれない黒雲が渦巻きだしていた。青やら白やら赤やらに雲の底が明滅する。朝焼けや夕焼け、冬の色、嵐の前触れの色、ぐるぐると目まぐるしく移り変わる。雲海を幕代りに、舞台のホリゾントライトで子供がいたずらしているかのようだ。明らかにこの世の光景ではない。


「……ブラッド……ループを引き起こしているのは、たしかに私よ。でもね、たとえあなたが私を殺せても、スカーレットが死ななくても、ループは止められないの。死んでもスカーレットを守ろうとしたあなたの心意気に免じ、ループから脱出する方法を教えてあげる。だけど、生きているうちに口にしなかったのは、私の慈悲と知りなさい……」


床に倒れ伏したブラッドに背を向けたまま、アリサはその方法を口にした。


アリサは嘘を言わなかった。もしブラッドが生きて耳にしていたら、絶望に顔をゆがめ、身を震わせただろう。ループの輪を解除し、スカーレットがその先の人生に進む条件は、あまりに過酷だった。


黄金蟲たちは主を傷つけたのが、血まみれで息絶えた男達と判断した。

ぶうんっと低く羽音を唸らせ、かたき討ちをしようと亡骸に殺到した。

死んでいるだけでは飽き足らないといわんばかりに群がり、肉と骨を食らい尽くそうとする。


「……やめなさい。おまえ達の気持ちは嬉しいけれど、とてもあきらめの悪い男達だったから、きっと胃もたれするわ。この私をここまで苦しめたのよ。不服はあるでしょうけど、花で送ってあげて」


黄金蟲たちはアリサの言葉に動きをぴたりと止めた。

そのあと、戸惑ったように、内翅を畳んだり、のそのそ這いまわったり、互いの触覚を突き合わせたりした。だが、彼らはどこまでもアリサに忠実だった。ほどなくすべての黄金蟲たちが意志を統一し、美しい黄金色の背中をきらめかせた。


ぶわっと床に色とりどりの幻影の花が咲き乱れた。無惨に壊された礼拝堂を瞬く間に覆い尽くしていく。眠り姫のスカーレットと、スカーレットを守って息絶えた男たちの亡骸を、花々が優しく撫でる。


その出来栄えにうなずき、アリサは少し寂しそうにほほえんだ。


「……ありがとう、おまえ達とはここでお別れよ。ごめんね、たとえおまえ達でも、私の最後のときは見せたくないの」


切ないキーキーという鳴き声を黄金蟲たちがたてた。


「……次のループでまた会いましょう。さようなら、私のかわいい子供たち……」


アリサは腱のきれた片足をひきずって歩き出した。

一度だけ立ち止まり、ちらりと背後を振り向き、いまだ静かに眠るスカーレットを見た。


「……またね、ねぼすけのスカーレット。世界で一番憎くて愛おしい人。私達は時のはざまでいつまでもダンスを踊り続けるの。次はどんな貴女の顔に酔いしれようかしら。ああ、とても楽しみだわ」


そしてアリサはえへらと凄まじい嗤いを顔に浮かべ、前を向き、ゆっくりと礼拝堂を出ていった。奇怪に轟く空には、最初に一瞥したきり、目を向けようともしなかった。まるで取るに足りない些事と言わんばかりだった。世界の主役は自分たちであると、どんなに傷ついても崩れない姿勢で宣言していた。


「……ねえ、おぼえてる?  私たちがお互いを剣で貫いたとき、あなたの言ってくれた言葉……私はずっと忘れないわ……たとえ、どんなにループを繰り返しても……」


最後にぽつりと言い残し、アリサは礼拝堂から姿を消した。


狂ったように礼拝堂の横の鐘楼の鐘が鳴り響く。

地鳴りのような音が、空と大地の両方から押し寄せてくる。

燃え落ちていく城で略奪行為に夢中になっていた反乱軍の連中も、馬鹿みたいにあんぐりと口を開き、空を見上げていた。鈍感な彼らもようやく異変に気がついたのだ。


世界が終焉を迎えようとしていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る