第49話 108回の記憶。愛する人のために。そして、友のために。

「……ふふっ、いつも飄々としたブラッドが、ここまで殺意を剝き出しにしてくれるなんて……。でも、まだ駄目。私と踊るにはまだ足りない。スカーレットへ愛をすべて、私への憎しみに変えるぐらいじゃないと、私には届かないわ……」


互いの動きは疾風だった。

アリサはあやしく囁きながら、ブラッドは無言のまま。

対峙する二人の距離がみるまに縮まる。


「愛と憎しみは表裏一体。さあ、おいで。あなたの愛の深さ、私が試してあげる……」


アリサは体重を感じさせない滑るような動きだ。おそろしく速いため、ペンライトを振るように残像がぬるぬると軌跡を描く。蛇行するような独特の足運びのせいで、大蛇が音もなく、けれど雷光の速さで這い進んでいるように見える。


対するブラッドは、ただひたすら愚直に最短距離を直進する。すり足に近い移動だが、おそろしく速い。足元の摩擦熱が白煙を生み、後方に尾を描く。


二人の進行方向には無数の長椅子やパイプオルガンの残骸が散乱していたが、二人の足は止められない。アリサは稲妻の動きですり抜け、ブラッドは傷つくのも恐れず突き進む。互いはさらに加速していく。静で蛇行するアリサ、動で直進するブラッド、対照的な二人が急迫する。


アーノルドはぎょっとした。


アリサが不意に、ぐるんっと華麗に旋回した。軽く障害物を平手打ちする。ダンスのタッチのような軽い動きだったのに、半壊した長椅子が幾つも、ごうっと舞い上がった。自ら跳躍したかのような不自然さだ。それだけではない、空中でめきめきと音をたて、奇妙な形にねじくれていく。まるで歪んだ命が芽生え、身をねじっているような不気味な光景だった。だが生き物の柔軟さは得ていないらしく、ぎいっと軋むとぱあんっぱあんっと次々に炸裂していく。


「……な、なんだよ!! ありゃ……! ?」


「……ふふ、ループのあなた達は見るのははじめてだったわね。これが極めた者の拳よ……私は〝狂乱〟……触れたものすべてを捻じ曲げ、狂わせ、破壊するの。そして彼は……」


アリサが嗤う。


突進するブラッドの前方には壊れた材木が、バリケードのように積み重なっていた。ブラッドは足を止めず、むしろ大きく踏みこみ、拳を突き出した。空気がぶおんっと鳴った。ブラッドの拳の延長線上の光景が一条、陽炎のように揺れ動いた。行く手を遮っていた障害物が、音をたてて粉砕される。舞い散る破片のなか、ブラッドが走り抜ける。


アーノルドは目を見張った。

ブラッドは拳を触れずして、遠くの物体を破壊したのだ。


「……〝伝導〟を使うの。物体のみならず空気さえも伝わり、相手を粉砕する貫通特化の技。相変わらず魅力的だこと。でも女心は城壁よりも難攻不落。さあ、私の心を貫けるかしら……」


恍惚とした表情でアリサが吐息を漏らす。

セラフィが蒼白になって呟く。


「あんな威力をぶつけ合う気か……!! 人間の身体なんてあっという間にばらばらになるぞ……!!」


アリサが舞うように振り回した腕が狂気の渦を生む。

ブラッドが突き出した拳から、空気をも伝導する拳威が、真一文字に突っ走る。


「あはあっ!!」


「……ふッ!!」


ただれた甘い吐息と、鋭い呼気が同時に迸る。

最初の激突は、互いに空気を介してだった。

回転と一直線が轟音とともにぶつかり、鎬を削る。

摩擦熱のためか、空間が蒼白く不気味に発光する。


「……ふふ、二人きりで踊るのに、ワルツどころか手も触れてくれない。初心ねえ……前哨戦は互角かしら……いえ、あなたの方がやや優勢かも……」


目の前の蒼い光に照らされアリサが嗤う。流れる空気に愉し気に目を細める。くつろいでいる豹を思わせた。アリサの金髪がブラッドの拳圧の余波で後方になびく。


「だけどブラッド、私と踊る気なら、その武骨な衣装はいただけないわ。私が衣装を見立ててあげる」


石床には、ステンドグラスの無数の破片が散らばっていた。二人の拳力に押された空気が圧縮されせめぎ合う。耳の痛くなる高音をあげ爆散した。そこに周囲の空気が一気に雪崩れ込んだ。ごおっと吸い寄せられ、足元から浮きあがったステンドグラスの破片がきらきらと美しく輝く。


「あはあっ!! 宝石みたいに綺麗!! 私としたことが無作法ね!! 挨拶を忘れていたわ!! ごきげんよう、ブラッド。まずはお近づきのしるしから!! さあ、受け取って!!」


スカートの両端をつまみ、身を軽く屈める貴婦人の挨拶をし、アリサが華麗にターンをきる。哄笑とともに漆黒のドレスの生地が嵐になって渦巻く。


「……真っ赤な服をプレゼントしてあげる!!」


宙に舞う金、銀、黄、紫、青、色とりどりのモザイクの硝子のつぶてが、流れるアリサのスカートに弾かれ、一斉にブラッドに襲いかかる。まるで榴弾がはじけたようだった。アリサは最初からこれを狙っていたのだ。


「……目潰し!! 汚ねえぞ!!」


アーノルドが憤然として叫ぶ。アリサは冷笑した。


「……馬鹿ねえ。今の彼にそんなもの効くわけないじゃない」


アリサの言う通りだった。

肌や服を切り裂く尖った無数の牙が荒れ狂うが、ブラッドはまったく怯まない。目を閉じようとさえしない。あちこちから鮮血の尾を曳きながら、恐れることなくさらに早く踏み込む。


二人の拳が直接触れ合う寸前、アリサが愉し気に囁く。


「……いいの? 破片……後ろのスカーレットに当たるわよ……」


それまで何をしても止まらなかったブラッドの突進が、一瞬、ほんの一瞬だけ減速した。横目で破片の飛散範囲を確かめたのだ。アリサがにんまり嗤う。真にほしかったのはその僅かな隙だった。


「……他の女に気を取られるなんて、いけない人……今のあなたの相手は、この私よ……」


悪魔が囁く。おそろしい風切り音をたて、アリサの後ろ回し蹴りが入る。蹴りは信じがたいことに、ブラッドの背後から襲いかかってきた。アリサはブラッドの前に立っていたのにだ。


「……化物……!!」


アーノルドが戦慄する。

離れた位置で観戦していたアーノルドには、アリサの奇怪な蹴りの全貌が見えた。


……すっとアリサは地面につくほどに上半身を傾けた。つられるようにぴんと伸ばした左足が、天に向かって振り上げられ、上半身と左足が一本のほぼ垂直の直線のようになった。曲芸師の柔軟を見るようだった。そのまま残った右足を軸にアリサは後ろ回し蹴りを繰り出したのだ。


コンパスの足を限界いっぱいに開いて大きく傾け、針を支点にぐるんっとまわすようにだ。フィギュアのウインドミルスピンをさらに急角度にしたようなその蹴りは、アリサの足の長さと相まって、常識はずれの角度と位置からはねあがってきた。ブラッドの延髄を真後ろから刈りにきた。


ブラッドの視点だと、突然アリサが深く前屈したようにしか見えなかった。屈んだ動きにあわせ、豊かな金髪が滝のように流れ、アリサの腰から下の動きを、ブラッドの目から覆い隠したからだ。金髪をブラッドの視野の死角をつくるのに利用したのだ。


かろうじてブラッドの片腕のガードが間に合う。

死線を何度もくぐり抜けた勘だ。

だが一発で腕が痺れた。

骨が軋む。


さらにもう一発が飛んできた。

アリサはガードされた爪先を支点に、ふわりと浮き上がり、背面飛びの要領でブラッドの背後に跳んでいた。そのままドリルのように回転し、宙に浮いたまま回し蹴りを叩きこんだのだ。


ブラッドの意識がとびかけた。

変則的なのに凄まじい威力だ。

うなじに手をまわすという無理な防ぎ方だったため、ブラッドが前に体勢を崩す。


「……お得意の……天舞か……!!」


ブラッドが嫌そうな顔で唸る。

アリサの攻撃はまだ終わらなかった。


「あはあっ!! よく防いだ!! なぁに。その仏頂面。傷つくわ。女がスカートの中の秘密を見せてあげてるのよ。もっと喜んでほしいわね」


空中でスピンする勢いを利用し、とんっとブラッドの背中に身体をつけると、くるくると回り、正面の懐にとびこむ。アリサのスカートが風をはらむ。広げた黒い傘がブラッドの身体に沿って回転したように見えた。


前傾したブラッドのこめかみめがけ、アリサの横なぐりの蹴りが吹っ飛んでくる。ブラッドがさらに頭を沈めてかろうじてアリサの蹴りをかわす。完全に出鼻をくじかれ、アリサのペースに巻き込まれてしまった。


単に宙返りや空中回転しての連続蹴りなら、ブラッドもここまで苦戦しない。ブラッドも度外れの達人だからだ。蹴り技によってはアリサを凌駕するものさえあるだろう。

だがー、


「……ふふ、もどかしいでしょう。思うように拳がふるえなくて。天舞は非力な女が屈強な男と渡り合うための技。死角とあなたの力が届きづらい位置に私は逃げる。力いっぱい気持ちをぶつけられるとでも思ってたの? 甘いわ。だめよ、女は男を焦らすもの。そう簡単に応じるとは思わないことね」


アリサが嗤う。


さらにアリサのおそろしいところは、アリサにしか出来ない極端に狭い間合いにあった。膝蹴りくらいしか放てない、すり合うような距離なのに、柔軟なアリサはいとも簡単に足で大技を繰り出してくる。むしろアリサのほうから身を投げかけるように密着してくる。


それも地上だけではない。身を縮め車輪のように回って正拳をかわしたかと思うと、いきなり両足蹴りを逆立ちで放つ。そこから更に踏みつけるような連続蹴りを叩きこんでくる。もちろん天地逆のまま、しかも一度も着地せずにだ。まるで見えない翼でも生えているかのようだった


本当なら接近戦は、身長差とリーチの長さでブラッドが圧倒的に有利なはずだ。だがアリサは長い足を手以上に駆使してくる。ありえない角度から攻撃を割り込ませてくる。アリサの柔さにより、ブラッドの利点は完全に潰されてしまった。

そのうえー、


「……隠形技、〝幽玄〟……ふふ、無駄よ……」


ならばと掴んで組技に持ち込もうとしたブラッドの手を、アリサは嘲笑うようにすり抜ける。まるでアリサが巨大にな軟体生物になったかのようだった。


「……焦れて女を押し倒そうなんて、いけない人。でもね、間合いを外す技、〝幽玄〟は、組技でこそ真価を発揮する。使い手のあなたもよくわかってるでしょう……私をリードしたいのなら、炎のように熱く、氷のように冷静になりなさいな……」


ぬめる大蛇に巻きつかれたように、ブラッドは不本意な消耗戦に引きずり込まれていた。


「……アリサの奴、なんて足癖の悪さだ……しかし、なんっうかよ、妙に卑猥な戦い方な気がすんぜ……まるで男と女が抱き合ってるみたいな……いや、悪い。忘れてくれ」


ひとりごちたアーノルドはセラフィの視線に気づき、慌てて言葉を打ち消した。


まるで発情した雌蛇がブラッドにからみついて精を吸い尽くそうとしているように見えたのだ。遠目にはアクロバティックな体位でアリサがブラッドに絡みついているような絵面だ。その手の特技に長けた春をひさぐ曲芸師もいる。二人が密着しすぎているせいでそういう性的な印象を受けたのかもしれなかった。


命懸けで女王のために戦っているブラッドを評するにふさわしくない言葉だったと猛省する。


だから、がっとセラフィに両肩を掴まれたとき、アーノルドはてっきりセラフィに叱られるのだと思い身をすくめた。だが違った。


「……アーノルド、それだ!! ……思い出した。天舞……これは古の暗殺寵姫の技だ。性行為と油断させ、相手を裸身一つで暗殺する女刺客……野薔薇の棘になぞらえ、いばら姫の名で呼ばれていたはずだ。ぼくも文献でしか見たことがないが……」


「……正解よ。よく知っていたわね。いばら姫と言っても、実態は売られてき貧民や奴隷、あるいはみなし子。器量のいい娘に暗殺術と性の手管を叩きこんだのよ。そして、暗殺を成し遂げたら自由にしてやると言い、寵姫として送り込んだの」


セラフィの言葉を継ぎ、アリサが解説する。

その間も曲芸のような足さばきは一時も止まらない。


「……でもね、首尾よく暗殺を果たせても、武器も持たない身ひとつでの敵地。なぶり殺しになる結末しかない。憐れねえ。それでも、いばら姫たちは唯一許された自分達の肉体に、自由の夢を託した。美しさの妨げにならぬよう、筋力でなく、柔軟性と回転の遠心力で技の威力を練り上げてね。それが、この天舞よ」


アリサは歌うように呟き、動きを急回転に切り替えた。

氷上の黒い舞姫のように優雅だった。

が、姿勢が安定しているからそう見えるだけで、鳴り響く風切り音は凶悪無比だ。

それまでも速かったが、まるでギヤチェンジしたように変化は激烈だった。

あっという間に、ブラッドを翻弄する黒い竜巻と化す。


「大空を自由に舞う天女に憧れた女達がつけた御大層な名前。そういえば、暗殺稼業のため不当な扱いを受けた弓のメルヴィル家の秘儀も、雷爬などというやけに立派に名前だったわ。スカーレットの母親のコーネリアは使えたという話だけど……。ふふっ、虐げられた者たちは発想が似るのかしら」


時々宙にふわりと浮き上がるが、自ら跳躍しているのか、回転が速すぎて自然と浮いてしまっているのか判別できない。爪先が接触するたび石床から火花が散る。


「……もっとも、生きて戻ってきたいばら姫など一人もいなかったけどね。メルヴィルの血もスカーレットでおしまい!! あははっ、みんな、かわいそうにねえ!! 男達に歯が立たなかった非力な技、道具として使い捨てられた憐れないばら姫達!! ほら、あなた達の技が今、世界最強の男を追い込んでいるわ。さあ、ブラッド。あなたの命はいつまでもつかしら」


加速したアリサの蹴りがブラッドを襲う。

息つく間も与えず更に次が。

堰を切ったように、変幻自在の膝が、蹴りが、四方八方から嘲笑うようにブラッドに襲いかかる。


「……くっ……!!」


ブラッドが短く呻く。


アリサの華奢な身体から繰り出される攻撃は、一発で巨大な軍馬を宙に浮かす。人の命を蠅のように叩き潰す威力がある。まして連撃ともなると絨毯爆撃にさらされるのに等しい。ブラッドの足は完全に止められていた。


「……あははっ!! もっと、もっと、狂おしく!! 私しか考えられなくなるまで、恐怖と苦痛でいっぱいにしてあげる。スカーレットが心から追い出されるくらい!!」


アリサの攻撃はまったく止まらない。

ブラッドがアリサの蹴りを大きくはじいて距離を取ろうとすると、貫手が目を抉ろうと割り込んでくる。黒い渦となってアリサのドレスが舞う。反撃を一切許さない。驕り高ぶった態度なのに、攻撃は精緻でまったく隙がない。糸車のように淡々と致死の威力を吐き出し続ける。


「……無駄よ。一度回り出したら、相手を殺すまでは止まらない死の風車。それが天舞。残酷な天女の処刑の舞い。「真の歴史」でよく知ってるでしょう?」


楽し気に語りかけながら、アリサがさらに回転速度をあげる。

ブラッドはあっという間に防戦一方に追い込まれた。

その強さは圧倒的だった。


「……あはあっ!! 期待はずれねえ。鬼を見せてくれるんじゃなかったの。逃げるだけじゃなく、追いかけてきなさいな。この〈救国の乙女〉を、ね」


「……おまえが……!! ……おまえがその名を口にするな……!! その名は、あいつだけのものだ!!」


ブラッドの血相が変わった。

真紅の目が怒りに輝く。

ダメージを気にもせずアリサの蹴りを受け止め、そのまま足首を掴んで猛スピードで地面に叩きつけようとする。


「やれば出来るじゃない!! ふふっ、鬼さん、こちら、手の鳴るほうへ。あははっ、貴女の大好きな〈救国の乙女〉として遊んであげる」


アリサは反対側の足で、ブラッドの手を蹴りつけ、激突寸前でするりと難を逃れた。

後ろにとんぼを高速で切ることで、崩れた体勢をジャイロのように安定させた。


鮮やかに着地すると、恥ずかしそうにスカートを押さえ、頬を染めて身をくねらせる。


「……やだあ、ブラッドったらエッチなんだから。……今、見えた? もしかしてアリサのスカートの中身、興味あるの。えへっ!! しかたないなあ。じゃあ、、みんなには内緒で特別に奥の奥も見せたげる……!!」


お花畑令嬢の口調に切り替え、アリサが上目遣いで誘うようにほほえむ。

いかれた小芝居にアーノルドとセラフィの顔がひきつった。


今度は下からアリサの蹴りが跳ね上がってきた。

狙いはブラッドの顎だ。

百八十度以上の信じがたい開脚から生み出された蹴りが半月の軌跡を描く。

スカートの中身を覗くどころか、よそ見したら一瞬で致命傷になる。

ぎりぎりでスゥエーしたブラッドの前髪の先端を焦がし、ごおっと右の爪先が通り過ぎた後、間髪入れず今度は左の爪先が襲ってきた。まるで縦回転する巨大な丸鋸のような二段蹴りだった。


アリサは右蹴りを振り上げながら後方に大きく弓なりにのけぞり、地面に手をついた。

そのまま倒立後方回転をしながら、続く左蹴りを放ったのだ。


かわしきれず十字受けしたブラッドの足が宙に浮く。

苦痛の呻きをもらす。

華奢な身体なのに遠心力を利用したアリサの蹴りの威力はとてつもない。肉を潰し骨をたやすくへし折る。

だが今ブラッドの顔を歪ませたのは蹴りではなかった。


「……〝狂乱〟……!!」


ブラッドの額から、どっと汗が噴き出す。

とんっとアリサが両足で着地した。


アリサの倒立回転は片手でなされた。もう一方の手はかすりあげるように、ブラッドの腹を撫でていった。その一撃こそ曲者だった。アリサの〝狂乱〟は血流を狂わせ、神経系統を損傷させる。


「……ねえねえ、アリサ、結構すごいでしょ!! 回転さえすれば、〝狂乱〟を自由にうてるんだ。アリサの秘密、堪能した? でも、ブラッドも踏み込みさえすれば、あの怖い〝伝導〟がうてるよね。だけど、アリサ負けない。恋する女の子は無敵なんだから」


アリサはマラカスでも振るかのように両手で軽くガッツポーズをした。その手の形のまま、瞬間移動でもしたかのようにブラッドに密着してきた。股間を腿に押し当てるようにされたため、スカートの布に邪魔され、ブラッドは半歩の踏み込みさえできなくなった。ひこうとしてもアリサに両手で膝頭を押さえ込まれていた。


「……くっ!!」


「……んッ……そんな激しく動かさないで。そこ駄目ッ!! やっ、て言ってるのに……!!」


はあっと切なげに吐息を漏らすが、真紅の瞳に隠しきれない残酷さがよぎる。


次のアリサの蹴りはフックのように右側から急襲してきた。

股関節を軸にしたその蹴りを、アリサは上体をぴくりともさせず、軸足もまったく動かさず放ってきた。まるで扇風機の羽根が回るようだった。アリサは太もも分の隙間さえあれば、どこからでも相手に蹴りを当てられるのだ。人間離れした柔軟さだった。先ほどの縦回りの蹴りと違い、今度は横回りの回し蹴りが連続する。


たまらず後退するブラッドに、アリサが不満げに頬を膨らませながら距離を詰める。まるで抱き合って濃密なダンスを踊るパートナーのようだ。


「……ひど~い。せっかく女の子の「柔らかさ」を感じてもらおうって、がんばってるのに。それなのに逃げるなんて……そんな意地悪するブラッドなんて大っ嫌い!! ……アリサ、怒ってるんだよ!」


悪質すぎる冗談だった。


蹴りを空振りした勢いを利用し、旋風のようになったアリサが手を振り当てる。軽く当てただけに見えるのに、どんっと床が揺らぐほどの響きがした。ブラッドの肩が揺れる。鼻孔から血が噴き出す。


〝狂乱〟をうちこまれたのだ。

ダメージはむしろ蹴りよりそちらが大きい。


「……やたっ!! 当たっちゃった!! アリサ、天才かも!?」


アリサがわざとらしくはしゃいで、ぴょんぴょん跳ねる。表情まで幼くなっている。スカーレット以外の同年代の令嬢たちのほぼ全員に小馬鹿にされていたお間抜け令嬢アリサそのものだ。


なのに今駆使する武技は神域だった。そして目の色は真紅だ。


アーノルドとセラフィはそのアンバランスぶりに寒気がした。アリサの本性を知った今、偽装ぶりに背筋が凍る。


お花畑令嬢時代のアリサには、スカーレットの他に友達らしい友達はいなかった。誰もが安心して聞えよがしの悪口で侮蔑できる存在、それがアリサだった。令嬢達など社交界ごと叩き潰せた怪物が、無抵抗に虐められるがままだった。小虫としか思えず黙殺していたのか、あるいは他に思惑があったのか。いずれにしても腹の底がまったく読めず、不気味なことこの上ない。理解を絶した得体の知れなさに吐き気がする。


ブラッドも同じ気持ちだったらしく、咳き込みながら低く呻いた。


「……気持ち悪いんだよ……そのエセっぷり……おまえの配下の七妖衆が見たら泣くぞ」


アリサは両足で跳ねるのをやめ、すっと背を伸ばした。お花畑令嬢の仮面をはずし、傲然たる冷酷な絶対者の表情に戻る。


「……愚か者が。私の七妖衆を舐めるな。私が赤子だろうと、百歳の老婆だろうと関係ない。この程度の外見の変化で揺らぐ不忠者などいるものか……よく知っているでしょう。だって、七妖衆にはあなたの兄もいるのだから。「真の歴史」で骨肉の争いを演じた愛しいお兄様がね。忘れたの?」


冷たく吐き捨てたあと、くすくす笑うアリサにブラッドは歯軋りした。


「……黙れよ……!!」


「ふふっ、なぁに、その恨めし気な顔。あなたの兄が私のもとに走ったのは、あなたのせいでしょう。限られた命すべてをかけ〈治外の民〉最強になろうとした夢、たった一つの願い……それを、あなたが天賦の才能で滅茶苦茶に踏みにじったの。彼、私にしがみついて泣いてたのよ。……そんな兄の気持ちも知らず、あなたときたら事あるごとに、兄貴はすごい、兄貴は最強だって……あははっ、どれだけ彼が傷ついていたかも知らずに。なんて残酷な弟なのかしら!!」


「……黙れって言ってるだろうが!!」


かっとなったブラッドの踏み込みは稲妻の速さだったが、アリサからすれば隙だらけの粗雑なものだった。超スローのテレフォンパンチとかわらない。ブラッドの拳から〝伝導〟が迸ったとき、すでにアリサは旋回しながらブラッドの懐にとびこんでいた。


「……未熟。それしきで心を乱すなど。そこがあなたの限界かしら……?」


〝狂乱〟数発を出し抜けに食らい、ブラッドが後方によろける。

それでもすかさず鉄壁のガードに入ったのは流石だった。

そうなるとアリサでも容易には打ち崩せない。


思ったよりもダメージを与えられなかったことに舌打ちし、アリサが疾風怒濤の追撃に入る。ガードは堅固だがブラッドの足さばきが停止していることを確認し、にんまりとほくそ笑む。〝狂乱〟はブラッドの足を痺れさせ、自由を奪い去っていた。あとはサンドバッグになる未来しかない。


アリサはまさに百戦錬磨の武の天才だった。

それだけにアーノルドは納得がいかなかった。


「……ど汚ねえ……!! そんなに強ええのに、どうして汚い真似なんかしやがる……!! なんで正々堂々と戦わねぇんだ……!!」


アーノルドが悔しさで歯軋りする。

耳聡く聞きつけ、アリサが嘲笑する。


「……正々堂々?  男らしく戦えとでも言いたいのかしら? 笑わさないで。私は女よ。女は恋に命を懸けるの。恋敵相手に恰好つけるなど馬鹿なことはしない。余力があるなら、喉笛を噛みちぎることに全力をまわすわ」


その驕慢な笑みは、アーノルドが絶句するほど凶悪だった。ブラッドのガードをすり抜け、アリサの拳や蹴りがブラッドの脇に何発か入り出す。圧倒的な手数をさばけなくなってきたのだ。頑強な大岩も狂気の渦にさらさ続ければ、少しづつ削れ、やがて砕け散ってしまう。


ブラッドの身体がぐらぐら揺れ出す。


「……あははっ!! どうして倒れないのかしら!! 気合? 根性? それとも男の意地ってやつ? 反撃も出来ないのにおっかしいわ。そんなに苦しみぬいて死にたいのなら、希望通りにしてあげる!!」


血泡がブラッドの口元からあふれる。

異音をたて肋骨が何本か折れた。

肺に刺されば即致命傷になる。


「……おい!! ブラッドの奴、殺されちまうぞ!! アリサの拳はあの〝狂乱〟って奴なんだろ!! あんなん人間がくらい続けちゃ……!!」


アーノルドは先ほどのねじくれ破裂した椅子を思い出し、総毛だった。

ブラッドはもう無数のアリサの攻撃をまともに受けてしまっている。


「おいって……!! セラフィ……!!」


焦って横のセラフィを小突いたが、セラフィは動じず、なにかを探るように死闘を観察していた。

オレンジの髪からのぞくエメラルドの瞳が確信に鋭く光る。


「……いや、ブラッドはなにか狙ってる……!! 懐にアリサを呼び込む気だ。まだ終わらない……!」


アリサに気づかれないよう小さく呟く。


「……ッ!!」


アーノルドの目が見開かれる。

ブラッドの膝がついにがくりと落ちたのだ。

アリサが嗤う。


「……あはあっ!! 男の意地はもうおしまい? 女の執念で……散れ!!」


沈みゆくブラッドの首を刈ろうと、勝利を確信したアリサの手刀が走る。

その刹那、ブラッドの姿がアリサの視界から消えた。

アリサの背筋を悪寒が貫く。

膝が崩れたと見えたのは、身体を縮め、バネをつくるためだったと瞬時に理解したのだ。

屈んだブラッドと目が合う。

耐えに耐えて獲物をとらえた執念の眼光をアリサは見た。


「……!!」


アリサの反応は神業だった。即座に後方に飛び退く動作に入ったが、ブラッドに止めを刺す態勢に入っていたため、いつもより重心が前傾していた。そのため、僅かに切り返しが遅れた。交差するように踏み込んだブラッドの足が石床を踏み砕き、陥没させる。後退するため床を蹴ろうとしたアリサの足場が消失した。


「……罠……!! ……演技……!! いつから……!!」


忌々しげに睨みつけるアリサにブラッドはうそぶいた。


「……さあな? だけど、男の意地ってのも捨てたもんじゃないだろ」


ブラッドが血のにじんだ口元で不敵に笑う。

二人は抱き合うほどの距離で密着していた。

だが、二人の立ち位置は天地の差があった。

アリサは不安定な宙にあり、ブラッドの足はしっかり地を踏みしめていた。

自らの身体をぶつけることで、ブラッドはアリサの回転を封じた。

ぎゃりっと白煙があがり、停止したアリサが歯噛みする。


「ブラッドぉ……!!」


「……悔しいだろ。足場も回転もなきゃ、さしものおまえも〝狂乱〟も天舞も使えねえよな……このチャンス、待ちに待ったぜ……!!」


もう一度ブラッドの周囲の石床がひび割れ、陥没した。


「……おまえはすげぇよ。天才だ。世の中みんなが馬鹿に見えるだろうさ……だけどな、おまえが理解できないことが、一つだけあるんだぜ……!」


ブラッドの二回の踏み込みを起点にし、足元から力の螺旋が駆け昇る。


「……惚れた女に恰好つけるため!! 男は命をかけるんだ!! 沈め!! アリサ!!」


ブラッドの雄叫びとともに全身全霊をかけた拳がアリサに突き刺さった。

防御しようとした左腕ごととぐしゃりと巻き込み、腹にまともにめり込んだ。

くの字になって、ごぼっとアリサは吐血した。

アリサの黒いドレスが衝撃でずたずたに爆ぜた。

苦悶の表情が浮かぶ。

いつもの薄笑いが消えたことが、どれほどブラッドの拳に威力があったかを物語っていた。

ブラッドがぎりっと奥歯を噛みしめる。

アリサの身体が、ぐんっとはねあがった。


「……やった!! あいつ!! ぶちかましやがった!!」


「よしっ、いけっ!! 決めろ!! 二撃め……!!」


勝利を確信し、アーノルドが躍り上がり、セラフィが拳を握りしめる。


だが、ブラッドは追撃しなかった。できなかった。


闘う二人を中心に轟音とともに大気が歪み、撓み、渦巻いた。礼拝堂が鳴動する。埃と塵の煙で視界が遮られる。ブラッドとアリサの姿が白い奔流の向こうに消える。床の残骸が舞い上がり、天井に残っていたステンドグラスがざあっと音をたてて一面に降り注いだ。


「……いけない!!」


何が起きたかは分析するよりも、とにかく長椅子に横たえられたスカーレットの身を守ろうと、セラフィが覆いかぶさって背中を盾にする。


「……これは……まさか……!」


眠っているかのような女王の遺体に密着したセラフィが驚きで息をのんだ。


「……なんだあっ!?」


セラフィがカバーに入ったのを確認し、走り出した足を止めかけたアーノルドもまた驚愕した。


今度はブラッドが煙を突き破り、こちらに向け飛ばされてきたからだ。ぶつかり合い、弾かれた独楽を思わせた。超人的な体術の使い手のブラッドがぐったりし、勢いになされるがままただ。


「相討ち!?……やべえ!! あいつ、気絶してねぇか!?」


アーノルドが弓を放り出して飛び出し抱きとめなければ、ブラッドは背中から尖った残骸の散らばる床に突っ込んでいた。


「……ああ……意識、とんでたのか……恰好つけといてこれかよ。ありがとな。助かった……」


アーノルドの腕の中で、失神から覚めたブラッドが身じろぎし、苦笑する。

アーノルドは戦慄した。

受けとめた手にぐっしょりと血の感触が伝わった。

服の色のせいで顔以外目立たなかったが、ブラッドの身体はずたぼろだった。あの一瞬で満身創痍になっていた。


「おい……!! なにがどうなりやがった!! おまえ、全力でやらなかったのかよ……!?」


アーノルドの問いに、ブラッドは血まみれの顔で苦笑した。


「……やったさ。掛け値なしの……全身全霊をぶちこんだ。アリサの奴が俺の予想よりはるかに化物だっただけだ。あいつ、平気で自分の左腕を使い潰しやがった……!」


アリサもまたブラッドの反対側に飛ばされていた。


空中で身をねじり、勢いを殺し、金髪をたなびかせて床に着地する。

かすかによろけ苦笑する。

完璧な演技のあと着地を決めそこなった体操選手のように、ばつの悪い顔をしていた。あちこちが裂けた黒いドレスと下着はもはや原型を留めておらず、ぼろ切れに近いありさまだ。アリサは半裸だった。コルセットは着けていない。完璧なプロポーションには必要ないからだ。


まとわりつく黒のせいで肌の白さが余計に際立つ。ずたずたの衣類でも、惨めさを寸毫も感じさせない。つけぼくろで肌と色の対比をつくる貴婦人のように堂々としている。


全裸に近くなるほど美しさを増すその化物ぶりにアーノルドはぞっとした。

あの攻防でもアリサの肌に傷がないことに気づいたのだ。

血まみれのブラッドとあまりに対照的だった。


「……平気じゃないわ……肘から先はもう動かない……こんな腕じゃ、もうワルツも踊れないし、淑女の挨拶も出来やしない……傷ものにされた責任、どう取ってもらおうかしら」


アリサはわざとらしく嘆いてみせるが、口元は三日月のようなおそろしい笑みを浮かべていた。

左腕がだらんと垂れ下がっている。肉があちこち爆ぜ、ざくろのような傷口をさらしている。なのに血は一滴も流れていない。血流をコントロールし、即座に出血を止めたのだ。


「……アリサの奴、回転を止められる寸前に、ありったけの〝狂乱〟の力を、左腕に溜め込んで……爆弾代わりにぶちこんできやがった。俺の逆転かけたありったけを、力ずくで相討ちにもってかれちまった……。まともに食らったよ。あいつは左腕だけだが……」


ブラッドが咳き込む。ごぼごぼと鮮血があふれでた。


「……お、おい……!!」


異常な吐血量にアーノルドが顔色を変える。

ブラッドは笑みを浮かべるが、顔色は血の気を失っていた。


「……こっちは瀕死だ。全身の骨と内臓がぐしゃぐしゃさ。ずいぶん不公平な相討ちだぜ……」


ブラッドはゆっくり優雅に歩んでくるアリサを見据え、悔しそうに血を吐き捨てた。


「……不公平? むしろ誇ってほしいわね。この私に左腕まで捧げさせたのだもの。ふふ、スカーレットの気持ちが少しわかったかも……。今すぐ貴方に抱かれたいくらいよ。貴方になら、どんな痴態もさらせるわ。朝も夜もずっと……眠りに落ちてまでも、蛇のようにからみ合って、淫らな夢を見続けたい……ああ、でも……」


アリサの口元は淫靡な笑みを描いていたが、紅い瞳には剣呑な光がぎらついていた。どれだけ人を焼いてもなお飢え続ける、地獄の炎の輝きだった。


「……でも、あなたは私の恋敵ですもの。……だから、愛し合わないで、殺し合うの。とろける快楽を与えあうことも、甘い愛を囁き合うことも許されない。代わりに、お互いの命をすすり合い、苦痛と恐怖を引きずり出すの。恋人同士では出来ない最高の宴だわ。……さあ、おいで。私達にふさわしい血に染まったすてきな悪夢の中へ!!」


嬉しそうなアリサの笑顔こそ、凝縮された悪夢そのものだった。


「……行きたくねえよ、そんなとこ。無茶なリクエストしてくれらあ……スカーレットに執着してるときと同じ、やばい顔してやがる……しまったな。完全に化物女を本気にさせちまった……こっちは死にかけなのによ……」


ブラッドが呻きをあげ、迎え撃つべくよろよろと立ち上がる。


「……それでも貴方は立つ。ベッドの上での私の化物ぶりを味わってもらえないのが心残りだけど……貴方は死んでもその選択はしないわね。……だから、性の快楽の代りにその命、一滴残らず絞りつくしてあげる……」


満身創痍でもなお失われない闘志に、アリサは愛おしげに吐息をもらす。


「……窮地でも諦めない男の意地も悪くないわね。ふふ、お可愛いこと。だけど、急がないと新月が終わるわよ。そうなれば万に一つの勝機も失われる。私の攻撃を受けてるだけじゃ駄目。貴方も積極的に踏み込んできて……命を私のために燃やし尽くすの。失望させないでね……」


アリサが頬を上気させ甘くささやく。


「……新月? たしかに今の月齢は新月だけどよ……あいつは何を言ってるんだ……」


呆気に取られるアーノルドに横のセラフィが答える。


「……新月以外のアリサは、人間を最短で殺す道筋が見えるんだ。その通りに動くだけで、どんな相手も容易く殺せるし、自分の死も回避できる。殺しの天才なんだ。そうなったあいつは無敵だ。だから、ぼくもアリサを新月のうちに叩こうとしたんだが……」


セラフィは白くこわばった顔で苦笑した。


「思い上がりも甚だしかったな。強さのほうが想定をはるかに超えていた……アリサは力押しは滅多にしない。策略と予知だけで、邪魔者は排除してきたんだ。まさか、本人のほうが人外の強さとは」


きょとんとしていたアーノルドが話の内容を理解するにつれ、蒼白になり身震いして唸った。


「……あの強さで予知能力持ちだあ!? まだ底すら見せてねえってのか!! 冗談じゃねぇぞ……化物すぎるにも程があんだろうがよ……!! ……おい!! ブラッド!! おまえ、ふらついてるじゃねぇか!! そんなんであの化物とやりあう気か。勝てっこねぇ。絶対に殺され……」


そこまで言いかけ、アーノルドは言葉を飲み込んだ。

そんなことは死闘を演じているブラッドが誰よりもよくわかっているだろう。それでも彼は命ある限り、何度でも立ち上がって挑む。


身を削り、命を削り、果てに無惨な死が待ち受けていたとしても。


「……たやすく殺されてやる気は……ないけどな。だけど、あいつの相手するには、俺の全部をぶち込んでもまだ足りやしないみたいだ。だから頼む……スカーレットを、女王を連れて逃げてくれ。アリサは俺が食らいついてでも足止めするから……粘って粘って粘り抜いてやる……」


「足止めするったってよ、おまえ、もう身体が……」


言葉を失ったアーノルドを見て、心配するな、とブラッドはほほえんだ。


「……たしかに腕も足ももうまともに動きやしない。体中激痛で燃えそうだ。だけどな、心は痛くない。あのとき……スカーレットをこの手で殺しちまったときの痛みに比べりゃな。……だから戦えるさ、いくらでも……あいつの寂しさ、悲しさを思えば……!! 俺の罪滅ぼしはまだまだ終わってやしないんだ……」


ブラッドの寂しく呟く横顔に息が詰まる。

信念を貫く哀しい覚悟にアーノルドは強く胸をうたれた。

女王を守るため笑って死んでいったマッツオの姿がブラッドに重なる。

信念に殉ずる男達、その覚悟はたとえ死神でも挫くことは出来ない。


〝どいつもこいつも死にたがり野郎どもが!! 恰好よすぎるんだよ、おまえら……!!〟


アーノルドは歯軋りした。続く言葉はアーノルドの震える魂から迸り出た。


「……大馬鹿野郎が……!! だったらよ、俺にも戦わせやがれ……!! 一人で抱え込むんじゃねぇよ!! 俺にとってもアリサは因縁の相手なんだよ!! 勝手に横から出てきていい恰好しやがって!!」


アリサへの恐怖も吹き飛ぶ思いに突き動かされ、アーノルドは床に転がった鉄弓を素早く拾い、アリサに狙いをつけた。アリサがくだらない小虫を見る目つきで一瞥する。


「……邪魔よ。今いい気分なのに水をささないでほしいわ。分を弁えなさい」


「よせ!! アーノルド!!」


セラフィの鋭い制止をふりきり、アーノルドは叫んだ。


「……止めるな、セラフィ!! ……俺はセラフィみたく頭よくねぇからよ。なんで、ブラッドが別人みたいになっちまったか。女王とどういう仲だったのか。なにからなにまでさっぱりだ。俺じゃアリサに届かねえことだって、よくわかってらあ……!! だけどよ、男が惚れた女のために、命を捨てて戦おうとしてやがる。これを見過ごすようじゃ、生きてる意味がねぇんだよ……!!」


ブラッドは一瞬驚いた顔をし、それから少年のようにはにかんだ笑顔を見せた。


「「真の歴史」を思い出すな……あのときのアーノルドはいつもおっかない表情して口数少なかったけど、仲間想いのいい奴だった。無口なのに、ぼそっと心に響く言葉を言うんだ……よく助けてもらったよ……苦虫噛み潰したような顔して、同じことを言われたことがある」


アーノルドは我が目と耳を疑った。

心当たりのない「真の歴史」とやらのせいではない。寡黙でいつも一定の距離を置いていたブラッドから、そんな懐かしげな眼差しと口調で笑いかけられた事がなかったからだ。


「……不思議だな。違う人生送ってても、やっぱり魂っていうか、根っこのとこは同じなんだろうな。だから安心してスカーレットを託せるんだ。どうかお願いだ。俺の一番の宝物を守ってくれ」


穏やかだが強い信頼が、向けられた瞳に宿っていた。戦いの足手まといになるから遠ざけようとしているのではなく、本気でそう思っているのだとアーノルドにも伝わった。


アーノルドは唇を噛みしめ、横たわる女王を見下ろした。

懸命に国のために尽くしたのに、自分を含めた国民に誤解され、憎しみを一身に受け、寂しく生涯を終えた女王。自分にはもう償うことも謝ることも叶わない。女王を守るというマッツオとの約束も果たせなかった。後悔が胸を焦がす。ブラッドもきっと同じ気持ちだろう。いや、直接手をかけただけに、自分とは比較にならない思いのはずだ。悔やんでも悔やみきれまい。

ましてブラッドは女王を恋慕していた。。

アーノルドにはブラッドの頼みを断ることはもう出来なかった。

もう目を開くこともない想い人のため、ブラッドは絶対に勝ち目のない戦いに挑もうとしている。

心が痛む。せめて女王が生きていればまだ救いもあったろうに。


「……わかったぜ!! このアーノルド、たしかに頼まれた!! この身に代えても守り抜いてやる!! 亡骸といえど、女王の身体にゃ傷ひとつ負わせやしねぇ……。わりぃな、女王さん、高貴なあんたをこんな運び方は申し訳ねぇが、ちと俺の腕で勘弁してくれや」


どんと胸を叩き請け負うと、アーノルドは長身を折るように膝をつき、長椅子のスカーレットに敬意を示した。死んでいるとは思えない綺麗な顔に、申し訳なさで胸がいっぱいになる。


「……まるで眠ってるみてぇだな。こんな別嬪さんが可哀そうによ。今まですまなかったな、女王さん。俺の家族のために泣いてくれてありがとうな……失礼するぜ……」


遠慮がちに背中にそっと両手を差し入れようとする。


「……いや、女王はぼくが運ぼう。弓を手放してどうする気だ。アーノルドは援護を」


セラフィが奪い去るように女王を抱き上げ、行き場を失ったアーノルドの手は空を掴んだ。正論だけに反論もできず、いや、だけど話の流れってもんがよ、とぶつくさ言ってしょんぼり弓を拾うアーノルドを無視し、セラフィはブラッドを見つめ問う。


「……女王に別れの挨拶を。……本当にこの結末で後悔しないんだな」


ブラッドはセラフィを見返し、そして頷いた。


「……これでいいんだ。ありがとう。言葉はかわせなくても、こいつの笑顔は、俺の記憶の中に焼きついてる……かわいいんだぜ、ほんとうに。おまえらにも見せてやりたかったよ……ああ、懐かしいな。こいつが小さい頃は、よくこうやって頭を撫でたっけ……」


ブラッドはスカーレットの頭にそっと触れて呟いた。

手のひらが血まみれなのに気づき、指先で軽く撫でる。


「子供扱いするなって怒って追い回してきて……俺はそれをからかって……妹みたいなつもりだったのに、いつからなのかなあ。こんなにこいつのこと好きになっちまったのは……人間の心ってのは不思議なもんだな。だけど、幼い頃と変わらない気持ちが一つだけある……」


ブラッドは名残惜し気にスカーレットから手を離した。

数歩後退しながら、優しく笑いかける。


「……あばよ、スカーレット……俺はおまえの笑顔が大好きだ。そのためになら命だって喜んで懸けてやる。おまえの幸せをずっと祈ってる……行ってくるよ……」


そしてブラッドはアリサに向き直って歩き出した。

その迷いのない背中にセラフィが静かに通る声で語りかける。


「……女王のこと、ぼくら二人が確かに引き受けた。この契約、命に代えても」


ブラッドはもう振り返らず、片手をあげて感謝の意をあらわした。

一連の会話を黙って聞いていたアリサが嘲笑する。


「……幸せを祈る? あなたがその手で、かわいそうなスカーレットを殺したのに? おっかしいわ。図々しく冥福でもお祈りする気?」


「……ま、そんなところさ。気にすんな。妬くなよ、アリサ。……今からはおまえのことだけを考えるさ。望み通り、おまえを斃すことだけを……!!」


アリサはゆらゆらと身体を揺らし、動かなくなった左腕をどうするか思案しながら、うっとりとブラッドの台詞に耳を傾けていた。


「……天にも昇りそうな口説き文句だこと。でも、ほんとうかしら。男はなかなか昔愛した女を忘れられない。女は疑り深い生き物なのよ。……だって、この私にこんなあられもない姿を晒させておいて、あなた眉一筋動かさないじゃない。不公平だわ。貴方ももっともっと私にすべてをさらけ出して欲しいわ……」


会話しているだけなのに、寝床で耳元に甘く囁かれているかのように錯覚する。おそろしく扇情的だ。破れた衣服からのぞく白い肌があやしく誘っているように見える。判断力を失わせる色気、性的な雰囲気が霧のように立ちこめ、厳粛な礼拝堂の景色が歪み、いかがわしい娼邸に思えてくる。


いや、実際に甘いくらくらする芳香が漂っていた。欲情したアリサは媚薬の効果のある香りを放つ。並の男なら我を忘れ、アリサの肢体に夢中でむしゃぶりつこうとしたろう。


いばら姫達は天舞の他に、摂取する食物の組み合わせで体臭を調合する術に長けていた。アリサはその技術をよみがえらせ、己に施していた。


「……俺に色仕掛けはきかねぇよ。そこまで知らない仲じゃないだろ。どうせ何かくだらないこと企む時間稼ぎだろ」


眉をしかめ誘惑をはねのけるブラッドに、アリサは凄艶に嗤った。


「……ふふ、相変わらず変なとこで堅物ねえ。もっと違うところを硬くすればいいのに……正解よ。あなたにめちゃくちゃにされたこの左手、いっそ切り落とすかどうか迷ってたの。でも、使い道がないモノでも、ぶらさげてないとバランスが取れないみたい。ところで貴方、「真の歴史」ではスカーレットと寝たのかしら」


アリサの意味ありげに落とした視線に気づき、ブラッドは心底嫌そうな顔をした。


「……答える義理も猥談につきあう気もねぇ」


アリサにとっては答えを教えてもらったに等しかった。

渋面のブラッドにアリサは愉しそうに笑い転げた。


「……あはあっ、なあに、その不貞腐れた顔。スカーレットも罪な子ね。身体も許してない男に、ここまで命を張らせるんだもの。私よりよっぽど悪女の素質があると思うわ。……パンの恵みには感謝するのに、どうして人は性の快楽から目を背けるのかしら。どちらも神の恩寵よ。鳥も獣も魚も皆行うのだったら、それは罪でなく真理なのにね。……まあ、いいわ。では崇高な人間の営み、心めく殺し合いを再開しましょう……」


アリサの口元は嗤いを刻んだままだったが、淫猥な気配がぐるりと回転するように消え、凍りつく殺気と狂気が渦巻く。


「……服を脱がす代わりに、皮を剥ぐわ。肉だけでなく骨も貫いてあげる。私は出し惜しみするのもされるのも大嫌いなの。一瞬たりとも目を離しちゃ駄目よ……そう、愛しい恋人を見つめるように。さもないと、すぐ死んじゃうんだから……」


言下にアリサの姿が消え失せた。

ブラッドの背中で風が鋭く鳴る。


「……踏み込み技、〝刹那〟。恋人を見つめるようにって忠告してあげたのに……」


ブラッドの脇腹が大きく切り裂かれ、血しぶきが飛ぶ。

アリサは手も足をふるっていない。

ただ横を通り過ぎただけで、刃のように人を切り裂けるのだ。


「……ッ!!」

ブラッドの振り向きざまの肘の打ち下ろしは電光の速さだったが、アリサはそれすら上回った。


「あははっ!! 愛も憎しみも、まだまだ足りないわ……!!」


すでにその姿は後方に飛びずさっている。幻影相手に喧嘩しているに等しい。


「〝刹那〟は攻撃ではなく、回避にこそ真価を発揮するの。まして女は恋の駆け引きをする。生まれながらの躱すことの達人よ……!! 私を捕えたいなら、もっと牙をむきだしなさい。恥も外聞もなく、欲望も、殺意も、愛も、憎しみも、信念も、すべてを叩きこんでおいで……!!」


勝ち誇るように高笑いするアリサに、アーノルドは背筋が寒くなった。


「あはははっ、それとも振り回されるのがお好みかしら!? いいわ、翻弄もまた女の業だもの!!」


「……なんつぅ化物だ!! おい!! ほんとに置いて行くのか!! ブラッドの奴、殺されちまうぞ!!」


力の差は歴然だ。どう見てもなぶり殺しになる未来しか見えない。


「……だからこそ撤退するんだ!! ブラッドがもう限界なのは、最初から決まっていた。ブラッドのダメージは身体の怪我だけじゃない。彼は文字通り、女王のために命をかけた。すごい男だよ、彼は。絶対に気持ちを無駄にしちゃいけない……!!」


セラフィは唇を噛みしめ、女王を抱きかかえる手に力をこめた。


そのわずかな間にも、ブラッドは体中をなますのように切り刻まれていた。

残り少ない血が赤いつむじ風のように舞う。

アリサはヒットアンドアウェイを繰り返しているだけだ。

〝狂乱〟も天舞も使っていない。

左手が死んだ状態で深く踏み込めば、ブラッドが必ずその隙をついてくると確信しているのだ。


それなのに攻撃は変幻自在で厄介極まりなかった。踏み込み技の〝刹那〟を巧みに織り交ぜているためだ。


アリサの拳の威力は異常だった。重く速く身体の芯に響き、意識が吹っ飛びそうになる。〝刹那〟の勢いが乗せられているのだ。それまでのゆらりとした動きが瞬間的に加速する。息が詰まった次の瞬間には、回避の〝刹那〟で後退している。緩急差が大きすぎ、神速をさらに捕捉しづらいものにしている。


手も足も出ず一方的にブラッドは体力を削られていく。


僅かな隙をついて繰り出したブラッドの反撃の蹴りが、アリサの姿をすうっと突き抜ける。


「……隠形術、〝幽玄〟……今の貴方ならついて来られるはずなのに……がっかりだわ」


死力を振り絞っているブラッドと違い、アリサには余力があった。息も切らしていない。幾らでも戦い続けることが可能だ。息も絶え絶えのブラッドとはまったく違う。

それだけではない。

大量の出血により、血を力の源にする〝血の贖い〟が限界を迎えようとしていた。ブラッドの目の赤い色が薄くなっていく。


「……あきれた。〝狂乱〟や天舞を封じ続ければなんとかなると思っていたの? それでは私の心に届かない。……武の原点は基本技よ。崩し、乱し、主導権を握り、相手の急所をつくならば、ただの拳の一突きでも致命の一撃となりうる。〝狂乱〟も天舞もその過程を短縮や強化しただけとも言えるわ。本質は同じこと。いつまでも受け続けられるはずがない。終焉の見えた戦いは興ざめね……」


距離を置いたところで一旦足を止め、アリサは落胆のため息をついた。

身体強化する〝血の贖い〟がなくなればブラッドの勝ち目は零だ。


「……身体をいたぶるのは飽きたわ。女は移り気なの。よくも私の期待を裏切ってくれたわね。これからは心をいたぶることにしましょう」


怖ろしい笑みを浮かべたアリサの姿がごおっと渦巻く血桜の中に消える。


「……私相手では命を燃やし尽くせないのなら、あなたの恋い焦がれる想い人に姿を変えてあげる。あはあっ、でも、この屈辱……高くつくわよ……後悔で胸をかきむしるがいい」


嘲り嗤う声とともに血桜の渦が収縮する。

あらわれたのはスカーレットに姿を変えたアリサだった。

この世のすべてを踏み潰しても平気な暴君の気配を放っていた。

ひとりぼっちの少女を思わす本物のスカーレットの死に顔とは対照的すぎた。

火刑場の記憶がよみがえり、アーノルドは唸った。

ブラッドの顔が怒りと哀しみに歪む。


「……ふふ、いいわ、その表情が見たかったの。この子の笑顔が好きって言ってたわね。奇遇ね。私もそうよ。でも私は宝物は独り占めしたい性質なの。スカーレットのかわいい笑顔は私だけが知っていればいい……あなたの思い出の笑顔を私がぐしゃぐしゃに叩き潰してあげる……」


赤髪を悠然となびかせ、ブラッドに見せつけるように、スカーレットの顔のアリサが嗤う。

その笑顔はハイドランジアの冷酷女王の呼び名そのもので、たとえようもなく邪悪だった。


「……あなたの故郷の〈治外の民〉の里は焼き討ちされ、全滅した。……包囲した女王軍の暴走によって。……女子供一人残らずにね。ああ、かわいそうだこと。……ふふっ、じつは軍の指揮官は、和平の道を懸命にさぐっていたの。少年の頃命を救われて以来、スカーレットを恋い慕い、なんとか役に立ちたいと切望していた。決して口にはすまいと決めていたけどね。相手に気づかれなくても満足している献身的な恋……そんな愛こそ真実と称える人間もいるけれど……ふふっ、私の美意識にはそぐわない、虫唾が走るわ。だから、こんなふうにスカーレットに化けて、彼の寝所に忍び込んであげた。そして、里を焼き払って、とお願いしたの。真実の愛なら、まさか本物とにせものを間違えたりはしないわよねえ……」


「……スカーレットを騙り、俺の里を焼いたのか……あいつの名前を汚し、俺の仲間達を……!!」


ブラッドは歯軋りしてアリサを睨みつけた。


「……あははっ、騙された指揮官の彼が悪いのよ。偽物と気づかず、私が化けたスカーレットをその腕に抱いたのだもの。ふふっ、真実の愛じゃなかったのよ……。それなのに、ずっとお慕いしておりました。貴女の為になら喜んで死ぬ、って涙するんだもの。おかしくって笑えたわ。もっとも、最初全裸で誘ったときは、必死に欲望に抵抗し、断ろうとしてた。自分にとってあなたは女神です、手は出せませんって。……初心で女心をくすぐられたわ……だからね」


アリサは意にも介さず、スカーレットの姿で残酷な真実を喜々として語り続ける。

女優の一人舞台を思わせた。


「……私が〈治外の民〉に凌辱された身体だから抱きたくないの? 汚れているから手を触れてくれないの? って泣いて見せたの。彼、まっさおになって震え出したわ。そのあと、貴女は世界一綺麗ですって泣きながら私を抱きしめて……そして……ふふ、なんのことかわからないわよね。……前にね、スカーレットが直接〈治外の民〉と少人数で交渉しようと里に向かったことがあったのよ。そのときの護衛が彼だったの。でも、交渉は拒否され、立ち入ることさえかなわなかった。〈治外の民〉にまやかされてね、スカーレット一人だけ道に迷い、夜が明けてから泥だらけで帰ってきたの。……貴族達は不幸の蜜が大好きよ。女に飢えた〈治外の民〉に女王はさらわれ、一晩中凌辱されたらしいって、面白おかしく噂しあったわ」


「……ふざけんな……!! うちの里じゃ、女を守れてこそ、一人前の男だって言われてるんだ。女を無理に手籠めにするような奴は、間違ったって一人としていやしない……!!」


怒りで唸るブラッドをアリサが嗤いとばす。


「……あははっ、お馬鹿さん、噂はね、真実かどうかではなく、皆が信じるかどうかなの。実際はスカーレットの身にはなにもなかったわ。〈治外の民〉も古き騎士の出、意外に礼儀正しい一族よ。……でも、人は信じたいことを信じるの。真実なんてその前では無力でしかない。スカーレットの在位中、ずっとその黒い噂はついてまわった。彼は常にそのことを後悔していたわ。人は弱みから崩すとおそろしく脆いの。しかも愛する女性からの抱いてほしいってお願いだもの、抵抗できるはずがないわよねえ」


情事の昂りを思い出し、淫猥な舌なめずりをアリサはした。

獲物の味を反芻する魔性の大蛇を思わせた。


「……あとはなし崩し……一度愛する人との肉の快楽に溺れさせてしまえば、男なんて簡単に虜になるわ。まして私の性戯と匂いは特別製。一回でも味わえば、もう心から追い払うことはできない。あとは首に両手をまわし、お願いごとを囁くだけで、なんでも言うことを聞いてくれるようになる。虐殺を疑問に思い、踏みとどまることさえできなくなる。だって、抱き合った愛する人の言葉を疑いたくなんかないもの……」


運命をもてあそぶ化物が、女王の姿を借りて楽しそうに語る。


「……恋は盲目……愛は麻薬……我を忘れさせ、心を狂わせ、感情を増幅させる。尊敬、憐憫、優越感、独占欲、嫉妬、不満……いいも悪いもすべて含めてね。大きくなった感情はわかりやすく、転がしやすい。そうなれば人間なんて好きに操れるわ。転がる玉は横から軽く突けば、たやすくコースを変える。愚かな反乱軍の人達なんて恰好の獲物だったわ。無理強いなんてしてないのにね。大抵の人間が〝自分の意志”で動いたと思い込み、誰かにあやつられる……それが人生の真理……」


「……アリサ!! てめえ!! いい加減にしやがれ!! それ以上女王の顔で語るんじゃねえ!!」


耐えかねて怒鳴ったのはブラッドでなくアーノルドだった。


「……人生の真理だ!? ふざけんな!! 世の中にゃもっと大事なものがあるだろうがよ!! てめぇは秘めた恋につけこみ、ブラッドの里を燃やした!! ブラッドが惚れた女の笑顔を平気で汚しやがった!! それは全部人としてやっちゃいけねぇことだ!! 非道は許せねぇ!! それが俺の真理だ!!」


怒りに身を震わせ弓を振り絞るアーノルドを、アリサは元の姿に戻り嘲笑った。


「……バレンタイン卿を射殺したあなたがそれを言うの。スカーレットを最後まで見捨てず、亡くなったメアリーへの愛を二十年以上も貫いた彼こそ、本当の善人だったわ。そこまで愛されて、メアリーも殺され甲斐があったでしょう。女として一途に想われるほどの幸せはないわ……」


うっとりとため息をつくアリサに、アーノルドの形相が変わった。


今際の際にマッツオが呟いていた名前が、電光のように脳裏に閃いた。花嫁のヴェールを贈りたかったと死の淵でさえマッツオが切望した相手。メアリーとたしかに小さく口にし、涙を浮かべて穏やかな笑顔でこと切れた……


「……まさか……てめえが……マッツオのおっさんの恋人を……!! おっさんまでも!! マッツオのおっさんが、どんな気持ちで……!!」


「やめろ!! アーノルド!! アリサの言葉に耳を貸すな!! 早くここを離れ……!!」


怒りのあまりアーノルドは言葉をうまくつむげなくなっていた。目の前がまっかに染まり、必死に止めようとするセラフィの言葉さえ耳に入らなくなっていた。


「……あははっ、綺麗な雪の夜だったわ。駆けつけたバレンタイン卿は冷たくなったメアリーに抱きついてて大声で泣いていた。あれから彼の恋心は凍ったままだったのねえ。……恋はうつろうもの。それを永遠に溶けないものにしてあげたのだもの。感謝されこそすれ恨まれる筋合いなんてないわ。ああ、だからアーノルドもバレンタイン卿を殺してあげたのね?  今頃あの世で恋人と仲良く抱き合っているわ。……これで二人の愛は永久不滅よ。いいことをしてあげたわねえ……」


にんまりと嗤うアリサに、アーノルドの中に残っていたアリサへのわずかな想いが焼き切れた。


「……化物が!! くたばりやがれ……!!」


燃え上がる殺意に突き動かされ、アーノルドはアリサに向けて矢を放った。

弦がアーノルドの怒りをのせ、凄まじい音で鳴り響いた。

手加減抜きの鉄弓から生み出された矢は、骨まで射貫く勢いでアリサに襲いかかった。


「……無礼者め。一度は見逃してもらった幸運に気づかぬか。私に歯向かう愚かさを、死んでみないと学習できないようね。鷲どころか鷹にも成り切れぬ役立たずが」


アリサは冷たく吐き捨てると、殺意の塊の矢をこともなげに手で軽く振り払った。

小虫を追いはらうように触れられた矢は空中で木端微塵に爆裂した。

怒りで我を忘れたアーノルドでさえ驚愕で目をむいた。

アーノルドのすぐれた目は、矢羽根、矢柄のみならず、鏃までもがぐにゃりと曲がり、ささらのようになって飛び散ったのを目撃した。


「……物覚えの悪い子だこと。私の〝狂乱〟は、触れたものを歪め、乱し、崩すと言ったでしょう。人であろうと矢であろうと例外はないわ。なによりあなたは私の信条を否定した……。もういい。おまえは邪魔だ。消えろ」


突き刺さるような冷たい口調で言い捨てたときには、アリサはアーノルドのすぐ目の前にいた。首を落とすべく手刀を振りかざしていた。アーノルドが二の矢をつがえるよりも、ブラッドの制止しようとする動きよりも遥かに早かった。


「……アリサ!! よせ!!」


ブラッドは必死に立ち塞がろうとしたのだ。

だが運命の神は残酷だった。

ブラッドの瞳がすうっと赤から元の黒色に戻った。がくんっと身体が傾ぎ転倒してしまう。よりによってこのタイミングで限界がきたのだ。〝血の贖い〟は解除された直後、反動で凄まじい脱力に見舞われる。伸ばした指先はアリサに触れることさえできなかった。


アリサは神速でその横を吹きすぎた。

動体視力にすぐれたアーノルドでも、アリサの姿がぐんっぐんっと二回大きくなったのをかろうじて認識できただけだった。踏み込み技の〝刹那〟を二連続して、肉薄したのだろうとしかわからなかった。アリサの速さは桁外れで、こちらの身体の反応速度と差がありすぎた。急降下する隼を亀が目で追おうとするに等しかった。


アリサの冷酷な紅い瞳と目があった。もう嗤っていなかった。

敵意もなく、獲物を狩る喜びもない。自分の邪魔をするものを絶対に許さず、淡々と斬首する暴君のまなざしだった。人を物としか見ないのではなく、人を人として見ながら、なお自分の目的のために踏みにじる化物だ。


先ほどまでの猫が鼠をいたぶるような態度のほうが、まだ人間味があった。

自分はアリサの気まぐれで生かされていただけだったのだとアーノルドは悟った。

到底人間が太刀打ちできる存在ではなかった。アリサは禍津神そのものだった。

アーノルドの視界いっぱいに死が広がる。もう逃げられない。

迫る死神の手刀に、アーノルドは自分の命が終わることを知った。


「……アーノルド!! 逃げろ!!」


セラフィが必死に叫ぶ声が聞こえる。

走馬灯のように人生の光景の幾つかが流れる。


〝……すまねえな、セラフィ。おまえは頭いいから、こうなるってわかってたんだな。あんなに止めようとしてくれていたのに。無駄にしちまってすまねえ。感情に突っぱしった俺が悪かった。……でもな、いつも冷静ぶってんのに、きっと俺が死んだら、おまえは誰よりも大泣きするんだろうな……俺の家族が死んだときもそうだったもんな。……おまえとのつき合いも長げぇからな。おまえ以上におまえのこと、俺にはよくわかってんだぜ……〟


死を覚悟したアーノルドの顔に申し訳なさそうなほほえみが浮かんだ。

最期が迫っているのに、心は不思議と穏やかだった。

悼んでくれる友がいることを嬉しくすまなく思った。


アーノルドの心はセラフィと出会った昔にとんでいた。

二人がはじめて出会ったのは、まだほんの子供の頃、ハイドランジアの王都にあるオルヒデア王国大使館に、セラフィが取引許可証を申請しに訪れたときだった。


オルヒデア王国は貿易大国だ。オランジュ商会復興を願うセラフィにとって、どうあっても避けて通れない相手だった。父親が急死したため、取引許可証を受け継げなかったのだ。


オルヒデア大使館のあばた面の門番は下衆で有名だった。


金持ちの商人たちを妬み、上への取次に暗に賄賂を要求した。弱いもの苛めが大好きで、自分にぺこぺこ頭を下げる商人たちを見て優越感にひたり、日頃の鬱憤を晴らしていた。


そんな彼にとって幼くして会頭を継いだセラフィは垂涎物の獲物だった。


オランジュ商会の前会頭、セラフィの父親は傑物であり、この門番のような心根の小さな人間はまともに相手にしなかった。袖の下の要求も怒鳴りつけてはねのけた。門番は一声で腰を抜かし、いざるようにそこから逃げ出した。醜態をさらした門番はずっと恨みを忘れておらず、息子のセラフィに復讐する機会を虎視眈々とうかがっていたのだった。


「そんな汚れた姿で高貴な大使館に立ち入る気か。清めてやる。ほらよ!!」


正装して取次を願ったラフィに難癖をつけ、いきなり掃除用の手桶の汚水を頭からかけた。

まだ寒い季節だった。

わけがわからず水びたしで呆然とするセラフィに法外な取次の手数料を要求した。それは他の商人から巻き上げる十倍以上の額だった。そんな高額を持ち歩いているわけがない。


困り果て黙りこんだセラフィを、田舎者と怒鳴りつけ、短い脚で力いっぱい蹴りつけた。

小さなセラフィの身体は毬のように吹き飛び、玄関口の階段を転がり落ちた。

とっさに両腕を後頭部にまわし頭を守ったが、固い石の角であちこちを痛打した。

息が詰まる。今まで修羅場をくぐりぬけ、罵られるのも賄賂も慣れていたが、稼業でもなく、ただ感情のおもむくままに、幼児に暴力をぶつけて喜ぶ人でなしに出会ったのは初めてだった。


それでもセラフィは退くわけにはいかなかった。

取引許可証を得なければ、自分を信じて残ってくれたオランジュ商会の皆が路頭に迷う。普通の幼子なら大人の暴力にさらされれば、大声で泣き叫ぶか、恐怖で凍りつくかしか出来ない。セラフィはそのどちらも自分に許していなかった。痛みをこらえ、階段をよろけながら登った。


「……足りないぶんは後日払いますからどうかお取次を」


と頭を下げたセラフィを門番は再度容赦なく蹴った。

爪先がまともに腹に入り、激痛で目の前が燃えた。

荒海にも船酔いしないセラフィが身を折って嘔吐した。


その頃になるとさすがに通行人たちも異常に気づいたが、オルヒデア王国はハイドランジアより国力がはるか上の大国だ。まして大使館は治外法権で手が出せない。皆、目を伏せ、見て見ぬふりをして通り過ぎるしかなかった。


立ち上がれず苦悶するセラフィの頭を門番は踏みつけた。

体重をのせ冷たい石畳に頬を押しつけた。

玄関口を汚したことを詫びさせ、舌をもってその場を舐めとり、清掃するよう命令した。まともな人間のすることではなかった。

それでもセラフィは屈辱に身を震わせながらも要求にしたがった。

セラフィにとっては自分のプライドより、オランジュ商会の皆の未来のほうが大切だった。

だが、その健気な覚悟は門番には通じなかった。

痛めつけられ乱れたセラフィの前髪からのぞく額の傷を見て、門番は嘲り笑った。


「自分のゲロを舐めるなんてまるで犬だ。そういやおまえの父親は犬にかみ殺されたんだっけな」


彼は人づてでオランジュ商会の前会頭死に様とセラフィの傷のことを聞いていた。

残酷な歪んだ笑みで彼はセラフィに命じた。


「……ほらよ!! ぼくの父親は妻も守れず、子供にみにくい傷を残し、あげく犬にかみ殺された間抜けですって言え!! そうしたらここを通してやる!!」


今まで理不尽な仕打ちに耐えていたセラフィが凍りついた。

身体ががたがた震え出したのは、濡れ鼠になって体温を奪われたからだけではなかった。額の疵のことだけならまだ堪えられた。尊敬する父を貶められたことが許せなかった。しかもその父を自分自身の口でけなすなど、口が裂けても出来ることではない。


絶対に従いたくない。

しかし従わなければオランジュ商会に未来はない。

そんなセラフィの苦悩を虐める人間独特の勘の良さで察知した門番は、ここぞどばかりに笠にかかって、にやにやしながらセラフィを脅した。


「……かんたんだろ。言葉を少し口にするだけで、おまえは念願の許可証を手に入れられるんだ。なにを迷うことがある」


品性下劣な人間は誇り高い人間が穢れることをなにより喜ぶ。清浄な場に糞便をぶちまけることに異様な執念をたぎらせる。この門番も例外ではなかった。


セラフィは拳を握りしめ、血の出るほど唇をきつく噛みしめた。

彼には生きている仲間達を守る義務がある。

死んだ肉親への想いにとらわれ、それを見失ってはならない。

苦渋の決断をした気丈なセラフィの碧の瞳にはじめて涙が浮かんだ。


〝……父さん、母さん……ごめんなさい……!!〟


心の中で泣いて謝りながらセラフィは口を開いた。


「……ぼくの父親は……」


断腸の思いで門番の強要に従おうとしたまさにそのときだった。

目の前がざあっと暗くなった。

それが上空を通過した巨大なフクロウの影だったと知ったのは、ずっと後になってからだ。

勝ち誇っていた門番が腰を抜かした。

彼はその影がなにを意味するか知っていたからだ。


風を切って飛来した矢が、門番の頬をかすめ、後ろの分厚い板の扉に突き刺さった。

矢は妙に短かった。まるで子供の玩具だ。なのにその威力は至近距離のボウガン以上だ。

実際セラフィは矢の短いボウガンかと最初思った。

だが射手の姿はどこにも見当たらない。

ボウガンの射程は短い。それにこの矢には矢羽根がついている。


わけがわからず、セラフィは痛みも立ち上がることも忘れ、怪現象を呆然と眺めていた。


「……そんなゲス野郎の言葉に従う必要はねぇぜ。おい、小悪党。てめえの悪行、フクロウの目を通し、このアーノルドがしかと見届けたぜ」


鉄輪の車輪を軋ませ、蹄鉄を打ち鳴らし、貴族の紋章の二頭立ての無蓋馬車が、大使館のまん前に急停止した。

折りたたんだ幌に片足をのせ、弓矢を構えた貴族の子供が立っていた。

射貫くような金色の瞳、幼いながらも手強さを直感させる浅黒い肌、はねた後ろ髪がなびく。くせっ毛があちこち突き出た髪型は荒野の狼を思わせた。その野性的な風貌は強烈にセラフィの記憶に焼きついた。

馬車の振動にも急停止の反動にも体幹はぶれず、ぴたりと弓は構えられたままだ。

大時代な口ぶりが妙に似合う、まったく貴族らしくない子供。


それがセラフィとアーノルドのはじめての出逢いだった。


馬車の扉が開かれるのを待ちきれず、ひらりと身軽に飛び降り、セラフィの元に駆け寄ったアーノルドはぼろぼろのうえ、汚水にまみれたセラフィの惨状を見て唸った。


「……ひでぇことしやがる」


きらびやかな上着を脱ぐと、座り込んだままのセラフィに頭から投げかけた。

何が起きているのかわからず目をぱちくりさせているセラフィの髪を服でがしがしと拭う。


「タオルは持ってねえんで、これで勘弁な」


セラフィの側に膝をつき目線をあわせると安心させるようににかりと笑った。


「……ここは俺にまかせな。いいと言うまで喋るな。悪いようにはしねぇ」


顔を寄せるとセラフィにだけわかるような小声でささやいた。

きっと顔をあげ立ち上がると門番を睨みつける。


「おい!! 俺の友人にどういう了見だ。てめぇ」


アーノルドの家はオルヒデア王国とつき合いの深い名家だ。

その不興を買ったと知り、卑屈な門番は目を丸くし、震えあがった。


「……すみません……!! まさかご友人とは存じず……これはなにかの手違いでして……すぐにお取次ぎを致しますんで……」


媚びるように背を丸め、自分よりはるか年下のアーノルドにぺこぺこする。

だが目を丸くしたのはセラフィも同じだった。

友人もなにもアーノルドと自分は初対面だ。

戸惑うセラフィをよそにアーノルドは、こんなずぶ濡れにしといて面会もへったくれもあるか、と怒鳴りつけ、身なりを整えて出直してくるから次は必ずきちんと取り次ぐようにと約束させた。


「……あの……どうか、お家のほうにはこのことはご内密に……」


もみ手をしながらお追従笑いを浮かべる門番に、ふんっと鼻を鳴らし、おまえの次の出方次第だ、と吐き捨てると、アーノルドは遠慮するセラフィを無理矢理馬車に引きずり上げた。


「……そう遠くないとこに俺の家の別邸があっからよ。そこで服を着替えんぞ。そのままだと風邪をひいちまう」


セラフィは人を見る目には自信があった。口調は乱暴だがアーノルドの目に悪意はない。信用できる人間だと判断し、言葉にしたがった。すぐに礼を言わなかったのは、アーノルドが目でまだ黙ってろと念押ししたからだ。


「……よし、ここまで来りゃもう聞こえねぇだろ。わりぃな。あの辺道が入り組んでててよ。フクロウの目ぇ通して見下ろしてたから様子はわかってたんだがよ。馬車で到着すんのが遅れちまった。災難だったな」


上着をタオル代りにセラフィに渡していたため、へっくしとくしゃみをしながらアーノルドは一気にまくし立てた。


「……助けていただき、ありがとうございます。ぼくはオランジュ商会の会頭、セラフィ・オランジュと申します。取次の確約まで……感謝の言葉もございません。この恩はいずれ必ず……命にかけても必ず返します」


門番の目がなくなった以上、もう友人のふりをする必要はなくなったので、頭を下げ、向かいの補助席に移ろうとしたセラフィをアーノルドは隣の席に引き留める。


「……礼? いらねぇよ。たまたま町の様子を眺めてたら、気にくわねぇ出来事を見つけたから、ぶっちめに行っただけよ。堅苦しい挨拶は趣味じゃねぇんだ。俺はアーノルド、よろしくな。年の近い同士仲良くしようぜ」


ずいっと顔を無遠慮に近づけながら、アーノルドはまじまじとセラフィの顔を見つめた。


「……おまえの目、エメラルドみてぇだな。綺麗な顔立ちしてるしよ。女だったら、すっげぇもてたと思うぞ。いや男でもか。前髪あげて顔出しゃいいのによ」


普段額の疵を隠すため長い前髪をおろしているセラフィは顔を褒められたことがない。たじたじになり、上手い返しが咄嗟に思いつかず、


「……額の疵が人に気味悪がられますので……」


とつい本音を漏らしてしまった。


「額の疵だぁ。バッカヤロウ。あんな門番みてぇな奴の言うこと気にすんな。男の疵は勲章よ、戦士の証よ。おまえ立派な戦士じゃねぇか。さっきは痺れたぜ。おまえがあんなカスに頭を下げ続けたのは、自分の一家を守るためだったんだろ? あれを見たとき俺は決めたんだ。ぜってぇ、こいつとダチ公になってやるってな……強いて言うなら、礼してもらうってのはそれだな」


アーノルドの物言いにセラフィは思わず吹き出した。


「ぼくは戦士でなく商人なんですが……でも、戦士と呼ばれて悪くない気持ちです。いいですよ。ぼくなんかで宜しければ喜んで。今後ともよろしくお願いします」


権謀術数の世界に生きるセラフィは、にこやかな言葉の裏にひそむ猛毒の読み合いに慣れていた。そんなセラフィにとって、乱暴なのに本質は優しいアーノルドの言葉は、一服の清涼水のように心にしみた。


「……お、いい笑顔で笑うじゃねぇか。いい男ってのは笑顔も人を惹きつけやがる。よろしくな、それからよ、ダチ公になった以上、敬語も様づけも無しだ。いいな」


にかっと笑って差し出されたアーノルドの手をセラフィは両手で握りしめた。祈るように額を押し当てる。


「……わかった。……ありがとう、アーノルド。おかげで、オランジュ商会の未来が開けた。商人は取引に生きる。いつか受けた恩は必ず返す。ぼくの名前と命にかけても」


「かってぇーなあ。ダチ同士は助け合うもんだろ。そういうの無し、さらっと流せよ」


苦笑するアーノルドの弓の鍛錬に明け暮れた手の皮は分厚かった。何度も豆を潰したのだろう。伝わる苦労人の手の感触に、セラフィはアーノルドへの好感をより深くした。


それ以来、セラフィとアーノルドは無二の親友となった。

冷静と直情、水と火のように性格は違うのに奇妙なほどウマがあった。

ずっと行動を共にしてきた。互いの背中を安心してまかせられる相手だった。何度相手の危機を救い、逆に救ってもらったかわからない。悲しみも喜びもずっと分け合ってきた。

だが、それももう終わりだ。


〝……ろくでもねぇ死に方だがよ、セラフィみてぇな友達がいてくれた。それだけでもな……ま、悪くねえ。そんなに悪くねぇ人生だったよな。……ありがとよ、親友……〟


アーノルドは目を閉じ、最期のときを待とうとした。風が鳴った。

だが、それはアリサが自分の首を落とした音ではなかった。


「……言ったろ。受けた恩は必ず返すって……」


友の優しい声が吹きすぎた。

セラフィの赤い船長服が目の前でひるがえった。

アーノルドの人生の隣に常にあった親友のトレードマーク。

セラフィがアーノルドを守るように前に飛び出していた。

抜刀するように鞭を走らせる。

アリサより早く動ける人間がいるはずがない。

アーノルドの後ろにいたため見えなかったが、アリサがアーノルドめがけて襲いかかるより早く、次の行

動を予測し、抱きかかえていた女王を床に素早くおろし、駆けだしていたのだ。


アーノルドは全身の毛が逆立ちそうな恐怖に鷲掴みにされた。

やめろ、と叫ぼうとした。発声が間に合わない。

実際は瞬きほどの間の出来事だったからだ。

時間感覚が遅滞している。


アリサが冷たくセラフィを一瞥し、標的を変更した。

アリサに鞭など効くはずがない。アリサは天災に等しい。セラフィは誰よりもそれを理解しているからこそ、何度もアーノルドを促し、撤退しようとしていたはずだ。そのセラフィがアリサにまともに立ち向かおうとしている。アーノルドを守る、ただそのために計算をかなぐり捨て、自分の命を盾にして。


〝……このバカヤロウが!! どこまで義理堅いんだ!! おまえは!! 恩を返すだ!! ふざけんな!! そんなもんとっくに、御釣りがいくらあっても足りねぇほど返してもらってんだろうが!! 商人のくせにそんな簡単な損得勘定も出来ねぇのかよ!!〟


アーノルドの目に涙が浮かんだ。


「……ぼくの友を役立たずと言ったな!! 取り消せ!!」


セラフィの怒りをのせた乾坤一擲の鞭が稲妻となって閃く。

人間の目に捕捉できる速度ではない。

だが、その想いを乗せた力すらアリサにはまったく通用しなかった。

アリサが鞭をはねのける。〝狂乱〟の力がセラフィの鞭を一撃で根本まで散華させた。


〝やめろ!! セラフィを殺さないでくれ!! 殺すなら、俺を殺してくれ!!〟


アーノルドは声なき絶叫をあげた。

丸腰の人間などアリサの前にはひとたまりもない。

だが、ちぎれ飛んだ鞭の影から浮かび上がるように、新たな鞭がアリサに襲いかかった。

セラフィは右手の鞭を囮にし、アリサに悟られないよう、その裏側に隠して左手でも鞭をふるっていたのだ。細く黒い鞭は、見事に最初の鞭の影に身を潜めることに成功していた。


「……双竜鞭……」


アリサが大きく後方に飛び退いた。


「……驚いた。たいしたものね。……アーノルド、友の真実を選んで正解だったわね。役立たずと言ったのは取り消すわ。感謝なさい、ここまでのお友達には、なかなか巡り合えないわ」


着地しての呟きには賞賛の響きがあった。

呆気に取られていたアーノルドは、ばっとセラフィを見た。


「……すげぇじゃねぇか!! セラフィ!! あのアリサにそこまで言わせるなんて!! 俺も驚いたぜ!! あんな鞭の技、隠し持ってたなんてよ……!!」


命を張って名誉まで取り戻してくれたセラフィに感動し、駆け寄って抱きつこうとしたアーノルドの足が

凍りついた。


セラフィの両頬を伝い、ぽたぽたと鮮血が足元に落ちていた。

アリサが冷たく嗤う。


「……何を勘違いしているのかしら。私が驚いたのは、そんな手品にじゃないわ。目が潰されるとわかっていたのに、友のために避けようともしなかった、その覚悟に対してよ。私の邪魔をした代償に、その綺麗なエメラルドはいただいたわ」


「……セラフィ……おまえ、俺のために……俺なんかのために、おまえの目が……!!」


アーノルドの目から涙があふれ出した。

言葉を失い、がたがたと震える指をセラフィに向けて伸ばす。

セラフィはそっとその手を取り、頬に押し当てほほえんだ。


「……これか? たいしたことないさ。商人は優先順位を間違えない。ぼくの目なんかより、アーノルドの命のほうがずっと大事だ。だから守った。ただそれだけのことだろ?」


「バカヤロウ!! ……なにが、それだけのことだよ!! おまえのほうが、ずっとよ……!!」


セラフィは肩を震わすアーノルドに優しく語りかける。


「……アーノルドの手はあったかいな。ぼく達がはじめて出会った大使館のことを覚えているか。あれは本当に嬉しかった……俺なんか、なんて言うな。あのときから君はずっと、ぼくのヒーローだ。誰よりも誇れるぼくの大事な友達だよ……」


アリサが愉しそうに高笑いする。


「……皆殺しにしようと思っていたけれど、思いのほか楽しめたわ。アーノルド、あなたは見逃してあげる。親友同士、手を取り合って逃げるがいい。限りある命の続く限りね。どこまで逃げられるかしら」


「……逃げる? 勘違いするな、アリサ。ぼくは商人だと言ったろう。借りっぱなしは性に合わない。本領はこれからだ」


セラフィが不敵に笑う。

訝し気に眉をしかめたアリサが、形相を変え、ばっと身をねじって自分の背中を見た。

鉤爪つきの小袋がアリサの後ろ腰に引っ掛けられていた。

白煙が一筋立ち昇る。油が爆ぜるような音がした。


「……ロマリアの焔……いつの間に……!!」


アリサが呻く。


アリサが襲撃してきた一瞬にセラフィはすべてを懸けた。

おのれの目も、隠し鞭さえも囮だった。

セラフィの本当の狙いは、鉄をも溶かす錬金術の発火物をアリサに仕掛けることだった。

セラフィは会心の笑みを浮かべた。


「……商人は非力だ。だから先の先を読んで戦う。……汚れるのも傷つくのも、すべては一矢報いるために!! 弱者の意地を思いしれ!! 燃えろ!! アリサ!!」


じゅおっという音をたて、眩い火柱が立った。

息をのむアーノルドとブラッドの視界がくらむ。

離れていても皮膚をはたく熱風が渦巻く。

超高温の光がアリサの姿をのみこんだ。礼拝堂の内部を白く染める。

輝く火花がぱちぱちはじけ、落下した床に朱色の孔をうがつ。火柱の周りの床は飴のようにとろけ、捲れあがっていく。

輻射熱で周囲の残骸が燃え上がった。

かつて戦艦堕としと恐れられたロマリア文明の遺産が、鉄鎧さえ一瞬で溶解させる高熱で荒れ狂った。

規模こそ小さかったが、地上のいかなる生物の生存も許さない断罪の炎の穂先が、礼拝堂の天井にまで伸び、大穴をあけた。


この世界の文明レベルではありえない超高温の火刑だった。

アリサの強さを誰よりもわかっているブラッドでさえ勝利を確信した。ブラッドの出身〈治外の民〉には、錬金術師を通し、ロマリアの焔の製法が伝わっていたから尚更だ。どんな人間もこの炎の前には無力だ。


セラフィは一矢報いるどころか、我が身を犠牲に奇跡の逆転を成し遂げた。


直視不可能の高温の火柱が徐々に小さくなっていく。

ばちばちと爆ぜる音がおさまっていく。

ブラッドは悲痛な表情を浮かべ、セラフィを抱きしめて号泣しているアーノルドのほうによろよろと歩き出した。

その足取りが凍りついた。

乾いた拍手の音が、礼拝堂に鳴り響いた。

聞く者の心臓を飛び上がらせるその響きは、いまだ燻る炎の中からした。


「……嘘だろ……!!」


呆然とアーノルドが絶句する。

びりびりの黒いドレスが古戦場に残された旗のように揺れた。

金髪の巻き毛がふわりと舞い上がる。炎より紅い瞳が喜悦に輝いていた。

唇が邪悪な三日月の形をくっきりと描く。

無傷のアリサがロマリアの焔の中からゆっくりと現れた。

壊れた左手で拍手は少し無理があったようで、やりそこない、苦笑して取りやめる。


「……ふふっ……あははっ……商人はやっぱり恐ろしい。利益と信頼という相反する二つの車輪を使いこなす。その生き方に命をかける。流通がもっと発達した世界なら、あなた達は国より大きくなれるでしょう。まして利益を度外視してくるときの危険性といったら……殉教者以上に厄介だわ」


アリサは上機嫌だった。

炎の輝きを楽しむように目を細め、乱れた金髪をかきあげた。


「見事よ。セラフィ・オランジュ。私の強さもわからないのに、よくもここまでの奥の手を用意していた。キスしてあげたい気分だわ。あなたなら七妖衆の一人ぐらいは道連れに出来たかもね。でも私には届かない」


アーノルドの腕の中で、セラフィはがたがた震え出した。


「……まさか……アリサは無傷なのか……教えてくれ……!! アーノルド……!!」


目を潰された友の頼みにアーノルドは答えることが出来なかった。

命をかけたセラフィの策はまったくアリサに通用しなかった。

そんなことが言えるわけがない。

アーノルドは嗚咽しながら、セラフィを守るようにきつく抱きしめた。

アリサが無情に告げる。


「お気の毒だけど私は無傷よ。隠形技〝幽玄〟は極めれば、人からだけでなく、炎からも認識されなくなるの。でも誇りなさい。あなたの健闘に心から敬意を表するわ」


「……アリサ……てめぇ……!!」


アーノルドが涙を拭おうともせず、凄まじい目でアリサを睨みつけた。


「……馬鹿な……〝幽玄〟でそんなことが出来るはずが……」


衝撃で唸るブラッドにアリサは穏やかといっていい口調で答えた。


「……できるのよ。私が何回人生をループしたと思っているの。こう見えても私、努力は嫌いじゃないのよ。人間の真の強さは努力して成長すること……三回目のループでこの域に至ったわ。反則みたいなものだから、誇る気にはとてもならないけど。ちなみにこれで七十二回目のループになるわ。今のあなたなら意味がわかるでしょう。卑怯な格差とは思うけど一応知らせておくわ」


アリサは、見込みがあるがまだ未熟な生徒に教えるように語る。

嘲りでも冷酷でもない。星の向こうの闇のような静寂な雰囲気。

ブラッドは戦慄した。

彼だけはアリサの言葉を正しく理解した。


七十二回目のブラッドは、「真の歴史」のブラッドに比べ、経験も肉体もはるかに劣る。以前の七十一回分の記憶もない。そこに「真の歴史」の記憶を足しても、「真の歴史」のブラッド以上の強さは得られない。


対して、アリサは、「真の歴史」の記憶を保ったまま、さらに七十二回分の人生を積重ねた。


彼我の実力差は絶望的だった。


「真の歴史」において、ブラッドは一度もアリサに勝利していない。見逃してもらっての相討ちがいいところだ。今のアリサとは、そのうえに天地の経験値の差がある。もはや勝ち目はまったくない。


「……それでもあなたは戦うわね。悪いけど手加減はしないわ。それが戦士への礼儀でしょう……ああ、あなたもかかってくるのね。実力差はもうわかったでしょうに。セラフィに免じて見逃してあげるつもりだったけど……」


憤怒に震え弓を構えるアーノルドが絶叫する。


「……ふざけんな!! セラフィの目を潰されて引けるか!! 実力差なんか関係ねぇよ!!」


「……目? 私がわざわざ踏み込んだのよ。目だけで済むわけがないでしょう。手加減はしないと言ったはずよ」


言下に座り込んでいたセラフィが身を折って吐血した。


「……セラフィ……!!」


その胸に広がる赤い血を見て、アーノルドが悲鳴をあげた。


「……隠形技〝幽玄〟は攻撃にも使えるの。本気になった私は相手に一切悟られることなく、腕を切り落とすことが出来るわ。痛みも感じさせない。これは一回目のループの初期で習得したかしら。さっき目を潰したときに胸を貫いておいたの。ようやく身体が傷を認識したようね。……致命傷よ。もう助からない」


アーノルドが絶望に顔を歪ませ、膝から崩れ落ちた。


「……だから親友同士、手を取り合って逃げなさいと勧めたのに。生きた友と手を取りあえる最後の貴重な時間だった。……二人っきりで最期のときは迎えさせてあげようと思ったのよ。かわいそうだけど、もうあの時点でセラフィの死は決まっていたの」


「……セラフィ!! おい、目ぇ開けろよ!! セラフィ!! セラフィ!! セラフィよぉ……!!」


項垂れたまま動かなくなったセラフィを抱きしめ、顔を胸にうずめたアーノルドのくぐもった絶叫が、礼拝堂に哀しく切なく響き渡った。


新月のときは、間もなく終わりを迎えようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る