第48話 108回の記憶。哀しみを越えて。運命を弄ぶアリサという怪物に、男達は命を賭して挑むのです。
城を焦がす炎はますます強くなり、業火の舌は無遠慮に石壁を這いまわり、焦げた舐めあとを広げていく。黒煙の刺激臭は目だけではなく、脳髄を直接殴りつけんばかりに強まり、否応なしにアーノルドの火刑場の悪夢の記憶を、心の奥底から引きずり出した。
垣間見たアリサの冷笑が最後の引き金になった。
「……アリサ、なんであんな笑い方を……まるであの女みたいな……!! ……ありえねえ……」
アーノルドは顔をまっしろに強張らせ、固く握りしめた拳をこみかめに押し込んで、喚きだしたい衝動に抗った。一瞬頭をよぎった考えは、アーノルドに足元が崩れるかのような衝撃を与えた。まともに立っていられなくなり、肩を壁に預けるようにし、荒い息を吐いて眩暈をこらえる。
火刑場で負わされた心の古傷は今でも血を流し続けている。
忘れたのでも癒されたわけでもない。
外からわからないよう克己心でおさえこんでいるだけだ。
ひと一倍強かった家族への愛情が悲しみに変わったのだ。
年月を経ても忘れられるわけがない。
野放図な言動からは想像もつかないが、アーノルドは傷つきやすい少年の繊細さを隠し持っている。絶やさない不敵な笑みは、それを覆い隠すためでもある。
夜中に家族の死を夢に見て、汗まみれで飛び起きることを知っているのは、同じ〈五人の勇士〉の一人親友のセラフィと、〈救国の乙女〉アリサだけだ。
理由を知ったアリサは大泣きしながらアーノルドを抱きしめ、涙を拭い、額にキスをしてくれた。自分を抱くことで少しでも癒されるならば、と美しい肢体を惜しみなく投げ与え、慰撫してくれようとした。その無償の愛はアーノルドの傷だらけの心に染みわたった。
アリサが性的に奔放なのは知っていた。
そのことに批判的でもあった。
だが、それは彼女流の見返りを求めない、地母神のようにおおらかな無私の愛なのだとアーノルドは知った。
アーノルドはアリサに手を出さなかった。
代わりにアリサは一晩中アーノルドの手を片手で握り、うつらうつらしながらも必死に起き続け、もうひとつの手でアーノルドの頭を優しくなで続けた。亡くなった母を思わせる仕草に、アーノルドは静かに涙を流し続けた。それはアーノルドにとってアリサの美しい肉体と交わるよりも価値あることだった。
「……うんうん、つらかったんだねえ。優しいお母さまだったんだねえ。アリサ、馬鹿だから言葉で上手な慰め出来ないけど、一緒に泣いたり、ずっとそばにいてあげることは出来るから。だからね、悲しくなったら、いつでもアリサを呼んでね。……そのときは遠慮しないで、抱えてること、悲しいこと、みんなアリサの中に……吐き出していいんだよ。……アーノルドのやりたいこと、なんだってしてあげる……だって気持ちをため込んで生きるには世の中ってつらすぎるもの」
その夜からアリサはアーノルドの女神になった。
以降も肉体の繋がりは持たなかったが、その優しさだけでアーノルドには十分だった。
聖なる娼婦と陰口を叩く連中は睨みつけて黙らせた。
心を許してから、アリサがよく髪にくくっている黒い細長いリボンについて、ふと尋ねてみたことがあった。アリサが好んで身に着けるドレスはブルーやパステルカラーの可愛らしいものばかりだ。リボンだけそれに合わせないのが不思議だったのだ。アリサは恥ずかしそうに肩をすぼめて答えてくれた。
「……喪章のつもりなんだ……アリサのお友達、たくさん亡くなっちゃったから……」
その優しさにアーノルドは強く心をうたれた。
リボンについた小さな髪飾りも実は鎮魂のつもりなのだとアリサは教えてくれた。
黄金蟲と呼ばれる伝説の甲虫を模したものだった。
その虫は冥府の黄金の化身であり、正しき人間が死ぬと迎えに来て、あの世での魂の富裕と幸せをもたらすと言われている。
リボンと髪飾りのことみんなには内緒にしてね、お花畑キャラの私に似合わないから、と照れ臭げに舌を出すアリサをアーノルドは心から愛おしく思い、尊敬した。アリサへの恋のさや当ての輪に加わることはなかったが、アリサはずっとアーノルドの心の支えだった。
「……なのに、どうなってやがる……!! どうして、あいつの顔が女王に重なるんだよ……!!」
アーノルドは食いしばった歯から苦悶の呻きを押し出した。
女王スカーレット、自分からすべてを奪った憎むべき女。
刑場の出来事を思い出すと震えが止まらなくなる。
父と母と弟を焼く炎を背に、美しく驕慢に冷笑した絶対権力者。
あの冷酷な笑みは忘れようとしても忘れられない。あんなに恐ろしく美しい女は見たことがなかった。
この世のものならぬ狂った存在だった。
「……いいことを……教えてあげる。あなたのお母さまと弟さんが二人そろって火炙りになるのはね。あなたのお父様の身代わりだけじゃなく、あなたを助けるためなのよ。お父様だけなら、どちらか一人の命だけで許してあげるつもりだったのに。……ああ、かわいそうねえ。たった一人で囚われのお父様を助けようとした勇敢なアーノルド。捕らえられた間抜けな狩人さん。その目に焼き付けなさい。あなたの勇気とはき違えた無謀さ、それが家族を焼き殺すのよ」
鎖で雁字搦めに拘束されて地面に転されたアーノルドを見下ろし、女王は教え諭すように語った。
ぼろぼろと子供のように涙を零すアーノルドを見て、はじけるように笑い声をたてた。
炎の照り返しで赤髪がまるで金髪のように豪奢に輝いていた。
王者の尊大さで平然と人の運命を踏みにじる化け物だった。
「……あははっ!! おかしいわ!! 大きななりをして、小さな子供みたいに泣いて……あなたのお母さまと弟さんを見習いなさいな。炎に包まれてるのに馬鹿みたいに笑顔だわ。優しさはときに戦士の覚悟を超える。死ぬ間際なのに、あなたに心配かけまいとしているのねえ」
しみじみと語る女王に、はっと顔をあげたアーノルドとほほえむ母と弟の目があった。
優しくうなずく二人の目に恨みも苦痛も浮かんでいなかった。
アーノルドの目からあらたに涙が流れ落ちた。
「……アーノルド、あなたは誰よりも高く羽ばたける私の自慢の息子。どうかお父様をいつまでも支えてあげて……ああ、あなた達親子はほんとうにそっくり。不器用で傷つきやすくて意地っ張りで……誰よりも優しい……私の愛しい宝物たち……」
「……兄さん……俺、兄さんみたいに弓の高みには登れなかったよ……少しでも兄さんの視界に入るよう……必死に勉強したけど……仰ぎ見る兄さんの背中はいつも遠くて眩しくて……だけど俺はもう天に上れるんだ……空から兄さんを見守るよ。だから……空を見上げたら、どうか……俺のこと……思い出して……」
柱にくくりつけられた二人の別れの挨拶を耳にし、アーノルドの目に悲憤の炎が燃えた。
気管を内側から焼く苦悶に耐え、母と弟は笑顔で気持ちを伝えてくれた。
幼い頃、癇癪持ちで泣き喚いてばかりだった自分を決して見捨てず、育て上げてくれた母親。
たおやかなその内面に秘めた激しい愛と優しさこそ、アーノルドのひそかな自慢だった。
気高い弟は弓の才能こそなかったが、決して人生を諦めず、文官の道でその才能を開花させた。
アーノルドが苦手にし逃げ回っていた道に果敢に挑み、結果を刻んでいく生きざまは、常にアーノルドを誇らしげな気持ちにさせた。
その素晴らしい二人が無残に炎に包まれていく。
しかも俺のせいで……!! そんなことが許されていいわけがない……!!
俺は二人に自分の気持ちを伝えられてさえいないんだ……!!
号泣するアーノルドの筋肉が膨れ上がり、鎖がみしみしと異音を発した。
皮膚が破れ、鎖は肉に食い込み、血が噴き出した。
このまま二人を殺させたりするものか……!!
俺の腕なんか二度と動かなくなってもいい!! 待っててくれ!!
まだ逝かないでくれ!! 俺が今、助けに行くから……!!
アーノルドは心の中で咆哮し、狂ったように暴れた。
限界をこえた力の駆動に、骨がきしみ筋繊維がぷちぷち音をたてて断裂していく。
慌てて棒でアーノルドを地面に押し付けようとした刑吏達が、ひっと喉の奥で小さな悲鳴をあげて後退った。彼らはアーノルドの凶暴な燐火のまなざしと目を合わせてしまったのだ。
今のアーノルドは手負いの野生の虎ほどに危険だった。
アーノルドは愛する母と弟を助けようと、自壊するほどの狂気の力を振り絞っていた。
束縛した鎖が悲鳴をあげて弾け飛びかける。
「……私の楽しみを邪魔しないでほしいわね。せっかくの美しい散り際よ。余計な蛇足は不要だわ。貴方らしくみっともなく泣きながら見送りなさい。それが敗者のさだめよ」
女王は恐れ気もなく近づくと、じりじりと上半身を持ち上げるアーノルドの顎を、いきなり爪先で蹴った。アーノルドの怒りと哀しみでにまっかになった視界が、がくんっと揺れた。
一撃で意識と肉体が切り離された。
顔面からぶざまに地に叩きつけられアーノルドは茫然自失とした。
おのれの身に起きていることが信じられなかった。
肉体の頑丈さだけには自信があったのに、当たり所が悪く脳震盪でも起こしたのか、身体は電池切れの玩具のようにぐにゃりとし、いくら奮い起こそうとしても力なく地に伏したままになった。指一本動かせない。アーノルドはおのれの不甲斐なさに慟哭したが、それさえも頑丈な猿轡に阻まれ、くぐもった呻きにしかならなかった。女王が愉し気に嗤う。
「……ああ……素敵な泣き顔だこと。勝気な貴方が心をへし折られて子供のように泣きじゃくる様は、とても私の心を揺さぶるわ。……だから、もっと地獄を見せてあげる……」
女王に命じられた刑吏達が、倒れたアーノルドの髪を鷲掴みにし、逆海老ぞりにするようにして上半身を持ち上げ、火刑の様子を見せつける。
項垂れたままの炎の向こうの母と弟はもう動かない。
無慈悲な炎が大切な母と弟の思い出を、見慣れぬ黒くねじくれた炭の塊に上書きしていく。
首を振って抵抗することも瞼を閉じることも出来ず、アーノルドは悪夢の一部始終を目に焼き付けることになった。いっそ気が狂ってしまえばいいと願ったが、女王の囁きはアーノルドにそれさえ許さなかった。
「……あら、見事な死に様のお母様と弟さんから目をそらすの? 二人ともあなたの浅はかさが原因で、あなたを助けるために死んだのに? せめて二人の死を余さず見届けて、一生罪の意識に苛まれるぐらいしてあげなさいな。ずっと愛する二人を忘れないでいられるわよ。それぐらいの家族愛は持ってあげてもいいでしょう?」
すべての元凶の女王は慈悲深くアーノルドの肺腑をえぐるような言葉を吐いた。
アーノルドの傍にしゃがみこみ、睦言をささやくように毒を吹き込み続ける。
その美しいほほえみは悪魔にしか思えなかった。
悪意に耐えきれなくなりアーノルドは身を震わせて嘔吐した。
革の猿轡で出口を塞がれた吐瀉物は行き場を失って逆流した。
鼻から汚物を噴き出し、粘膜を胃酸に焼かれてのたうつアーノルドを見て、女王は無邪気に笑い転げた。
「……あははっ!! きったないわねえ。自分の吐いたもので息が詰まって死にかけるなんて、今のあなたにぴったりじゃなくって? 汚物にまみれて家族を看取るなんて、ほんとにひどい男だこと。でも、その絶望しきった顔は嫌いじゃないわ。私を楽しませてくれたご褒美をあげなくちゃね……さっそく第二幕を開けましょう。愛するお父さまのご登場よ……!」
カーテンコールに応える女優のように華麗に立ち上がり、両手を広げて振り返る女王に、アーノルドの体毛は恐怖で逆立った。地獄はまだ終わらなかった。
無造作にどかされた母と弟の残骸は、刑場の炭と泥と混じりあい、ほとんど見分けがつかなくなっていた。ぱちぱちと物悲しげに熾火が瞬く。
まだ燻っている地面に真新しい処刑用の柱が建てられた。
血を吐くような叫びをあげながら、アーノルドの父が刑場に引き出されてきた。
後ろでに縛られた両手は紫色に腫れあがり、不自然な角度を向いている。父の両手の骨は砕かれていた。
「……おお……!! ……ナターシャ!! ……セドリック!! なぜだ!! なぜ、こんなことに!!」
女王の指示により縄を解かれた父は、膝から崩れ落ち、ばらばらになった二人の遺骸の傍に膝まづいた。
肩を掴んで立ち上がらせようとする刑吏達を女王が止める。
「……好きにさせておあげなさい。せっかくの感動の家族の再会だもの。水をさしてはいけないわ……ほら、あなたを助けるために命を捨てた立派な奥様と息子さんよ。力いっぱい抱きしめて褒めてあげなきゃ……」
アーノルドの父は血の涙を流し、両手で炭を掬おうとするが、砕けた両腕はだらんと力なく垂れ下がったままだった。女王はそのために父の両手を使えなくしたのだと悟り、アーノルドは絶望の呻きを漏らした。
アーノルドの父は身を屈め、燻る二人の亡骸に直接頬ずりした。
白煙があがるなか、彼は愛おし気にいつまでも身を離そうとはしなかった。
女王がわざとらしく拍手する。
「……家族愛ってほんとうに素敵。人生はお定まりの
「……貴様……! どの口でそんなことを……!! よくも……よくも……!!」
怒りのあまり言葉を失い、頬をただれさせたアーノルドの父は、ゆらりと立ち上がった。
呪詛を吐きながら女王に襲いかかる。
「……殺してやる……!! 地獄に帰れ……!! ……この化物が……!!」
だが獄中で萎えた足はもつれ、アーノルドの父は女王の足元に転倒してしまった。
「あはははっ!! なあに? 私の靴に忠誠のキスをしたいの? 黒焦げになった家族の前で……たいした父親ぶりだこと。これは喜劇への御褒美よ」
嘲り嗤うと女王はアーノルドの父の顔面を蹴った。
執念で飛び起き、女王の喉笛に噛みつこうとしたアーノルドの父の機先を偶然にも制するカウンターになった。鼻梁を砕かれてのけぞる父を刑吏達が乱暴に押さえ込み、火刑場の柱に引きずっていく。
喚き暴れる父に女王は困ったようにため息をつく。
「……しかたない人ねえ。私は確かにあなたの罪を許すと、そこの炭になった二人に約束したわ。でも、約束あとに犯した罪は対象外よ。……あなた今、私を本気で殺そうとしたわね。女王への殺害未遂と不敬。ふふっ、死刑になるには十分すぎる理由ね。かわいそうに二人はまったくの犬死だわ」
かわいそうなど欠片も思っていない含み笑いをしながら、女王はアーノルドに囁いた。
「……お母様が死に際に言ったとおり、あなたとお父様はそっくりね……自ら罠にはまりにくるのだもの。それとも早く家族とあの世で再会したくて、わざと愚かな行動をとったのかしら。じゃあ、あなただけ置いてけぼりね。かわいそうなアーノルド……」
思い通りにことが運んだことを満悦するおそろしい笑顔だった。
騙した契約者の魂を収穫する悪魔の表情だった。
女王は最初からアーノルドの家族を生かして帰すつもりなどなかったのだ。
アーノルドの母と弟を炭に変えておきながら、死を賭した二人の願いを、その魂の残る刑場で平然と踏みにじった。
アーノルドは呻いた。
涙を流しながら神に祈った。
神よ!! もうやめてくれ!! こんな悪夢はもうたくさんだ!! いっそ俺をこの場で殺してくれ!!
アーノルドの心を読んだかのように女王が笑う。
「……駄目よ。殺してなんかあげないわ。簡単に楽にはさせない。私に反逆したことの烙印、それを魂に焼きつけなきゃいけないもの。よくお聞き、アーノルド……」
女王が息がかからんばかりの近くに、ぬうっと顔を寄せた。
炎の余熱がたちこめる中、アーノルドの背筋を氷柱が貫いた。
「……悪夢は覚めないからこそ悪夢。もう平穏な眠りは訪れないわ。これから先の一生、あなたは家族を助けられなかったことを悔やみ、夜中に悲鳴をあげて飛び起きるの。傷を癒してくれるのは、頼れる戦友? それとも心優しい乙女かしら……ふふっ、傷ついたあなたの心は、さぞ癒しがいがあるでしょうねえ……楽しそう……いいえ、そんなものでは悪夢は終わらないわ。わかっているでしょう。あなたが悪夢から目覚めるたった一つの方法は……私を殺すことだけよ」
女王は嬉しそうに華麗にほほえむ。あやしく囁く。
甘い吐息が耳朶をくすぐる。
おぞましく血塗られた憎しみの世界に誘う。
「私を追ってらっしゃい。アーノルド。ずっと私のことを考え、殺す日を夢見て胸を焦がすの。私を殺すそのときまで、あなたの心は私の虜よ。愛と憎しみは表裏一体。たとえ鉄の鎖がほどかれても、私と悪夢の鎖から逃れることは出来ないわ」
女王は屈めた身を離すと、すっと立ち上がり、数歩歩き、ダンスに誘うように手を伸ばした。一枚の絵画のようにぴたりと嵌る美しい所作だった。だが、背後の光景は対照的に酸鼻を極めた。
さきほど母と弟が焼き殺された場所に今度は父がくくりつけられていた。
父は心が折れてしまったのか、抵抗をやめ、ぐったりと項垂れている。
涙を零しながらの小さな呟きが、母と弟への謝罪だとわかり、アーノルドの胸は張り裂けそうになった。
家族を守るためあえて罪をかぶったのに、守りたかった者達が逆に自分を助けるため死んでしまった。
その気持ちを考えると涙が止まらなかった。
無情にも新たな薪と柴が父の足元に手際よく積まれていく。火がつけられた。
だが強すぎる風に火はたちまちかき消された。
刑吏達が焦るがどうにもならない。
突風の煽りで柴が蹴散らされ、刑吏達が足をとられてひっくり返る。
ぽつぽつと雨が降り出し、刑場を濡らしていく。
まるで母と弟の魂が父を守ろうとしているかのようだった。
母さん……!! セドリック……!!
二人の名前を呼び、アーノルドは号泣した。
女王は雨天を見上げ、邪魔者を目にするように不快げに眉をしかめた。
「……あなた達の出番は終わったの。未練がましくしがみついていないで、さっさと退場しなさい。どく気がなくてもどいてもらうわ。こちらの舞台はまだ続いているの」
女王は種火が先端で燃える棒を刑吏から受け取り、大観衆を圧倒する大女優の足取りで、刑場の中央に進み出た。突風に心地よさげに髪をなびかせ、なんの躊躇いもなく、炭になったアーノルドの母と弟を踏み砕いて歩いていく。火の粉が悲鳴をあげるように足元で散る。風と雨が抵抗するかのように女王に押し寄せた。
「あはははっ、魂の残り火かしら。蝋燭の代りにもならないわね。……なあに? 生きているときに手も足も出なかった相手に、死んだら対抗できるとでも思ったの。死者が生者に勝るなら、この世はとうに死者で溢れかえっているわ……どけ、亡霊風情が私の道を遮るな」
女王の眼が冷酷に行く手を睥睨する。
口元をゆがめ微かに舌なめずりした。
絶対の捕食者の鬼気が渦巻く。
雨と風が哀しみの声をあげるように一瞬強まり、身を震わせて四散した。
「……ふん、他愛もない」
と女王が鼻を鳴らす。
家族を二度殺されたような無残な光景に、悲鳴をあげた父の首ががくりと落ちた。
目がうつろになっていた。
つぶやく言葉はもう意味をなしていない。心が完全に砕けてしまったのだ。
「死んだほうがましと思うほど、心が苦しいでしょう。火刑の慈悲を与えてあげる」
縛られたアーノルドの父を見上げ、女王はおそろしい慰めの言葉をかけた。
父はそれに反応する気力も失っていた。目の光は死んだもののそれだった。
それははじめてアーノルドが見る、尊敬する父が敗北でうちひしがれた姿だった。
お互いが思い合った結末がこれでは、あまりに救われない。
父さん!! 駄目だ!! あきらめるな!! 顔をあげてくれ!!
必死のアーノルドの叫びももう届かない。
「……そう……もう諦めたのね。残念だわ。では、さっさと炭になって、愛する家族と仲良く混じりあうがいい。これは私からの手向けの花よ。受け取りなさい」
花束のようにふわりと放り投げた火のついた細い薪が、オレンジの炎の光跡を描いて、アーノルドの父の足元に落下した。
くるりと女王は背を向けた。
着火を確認もしなかった。
それなのにあれだけ燃え渋っていた薪や柴が、自ら火を噴いたかのような唐突さで燃え上がった。
炎の悪魔がキスでもしたかのような狂った不自然さだった。
あっという間に父の姿は炎にのみこまれて消えた。
女王の狂ったような高笑いが響き渡る。
「あははっ!! 最後まで報われない人生、ご苦労様!! あの世で家族水入らずで仲良くなさい」
アーノルドは腸がねじくれるような悲憤に悶えた。
この女だけは絶対に許せない。
石に噛付いてでも、指の一本となり果てようと必ず復讐してやる……!!
睨みつけるアーノルドに、女王は軽く顎をあげた。
「……おぼえておきなさい、アーノルド。運命の神々は無慈悲で気まぐれ。こちらのラブコールを何度でも知らんふり。いつ笑いかけてくれるかなんか誰にもわからない。でもね、生きることを捨てた者に嬉しそうに微笑むのは死神だけよ。諦めちゃ駄目。執念のみがか細い未来を手繰り寄せる。……さあ、あなたはどう生きるの」
ふきつける殺意に目を細め、ゆっくりアーノルドに近づきながら、女王は問いかける。
揺蕩うたように染まった目元がおそろしい色気を放っていた。
「飼われたネズミのように安全な檻の隅で、外に目をそむけ生き続けるか。それとも雛鳥の翼をもって、危険にあふれた広い大空に羽ばたくのか。……私を追わないのなら、もうあなたに手は出さないわ。……そう……鬼になる覚悟を決めたようね……期待しているわ。立派な爪と嘴を生やして私を殺しにいらっしゃい。……再会、……楽しみにしておいてあげる」
そう艶やかに笑い、女王は歩み去った。
すれ違いざまに見せた笑みは、復讐の誓いに燃えるアーノルドでさえ一瞬凍りつくほど邪悪だった。
「……あなたのお父様の焼ける匂い、あなたのお母様と弟さんにそっくりだわ。家族の匂いが似ているのは、同じ食べ物を口にし、同じ屋根の下で暮らしているからかしら。それともお互いを思い合う気持ちと家族の絆がそうさせるのかしら。……これから独りぼっちで復讐に生きるアーノルド、巣立った雛鳥さん、これからあなたは家族の愛ではなく、私への憎しみを糧に成長するの。どこまで化物になり、優しい家族とかけ離れた匂いに変貌していくのか、ふふ……とても興味深いわ」
離れ際に、ぞっとする言葉をアーノルドの耳の奥にこびりつかせて、女王は赤い髪をなびかせて刑場を後にした。
……………………………………………………………
その恐ろしい女王の笑顔と、愚直だが心優しいアリサがなぜ重なるのか。
冷静に考えれば二人に共通点などない。
天啓のように頭をよぎった可能性こそありえない。十人が十人とも否定するだろう。
だが心の奥が、その閃きを絶対に手放すな、と警鐘を喚きたてる。
重々しい管楽器の音が鳴り響いた。
戦士としての直感とアリサへの想いがせめぎ合い、額に汗を浮かべて苦悶していたアーノルドは、はっと顔をあげた。管楽器ではなく、荘厳なパイプオルガンの音色だった。無人の焼け落ちていく城に、高らかに葬送曲が流れる。
「……そんな馬鹿な……」
アーノルドは呻いた。
無人の廃屋でピアノが鳴ったとしてもここまで驚きはしなかったろう。
ピアノと違い、パイプオルガンは演奏者だけでは鳴らせない。
大がかりなふいごで絶えず空気を送り込む人間が必要だ。
これだけ複雑にからみあい、長く重々しく響く音色は、たくさんの人間の補助があってはじめて成せる。
火に包まれた滅びゆく城で鳴り響くはずがない。
悲壮なメロディーは、悪夢の世界に迷い込んだようだ。
足元がぐらつく錯覚をアーノルドは覚えた。
曲が流れてくる礼拝堂に、アーノルドは吸い寄せられるように立ち入った。
歴史を感じさせる礼拝堂は、落城の危機に瀕しても、まだ威厳を失っていなかった。
天窓からステンドグラスのモザイクの輝きが射す。
縦長の空間には、ずらっと両脇に柱が列なり、巨人用の廊下を連想させた。
赤い長椅子がさざ波のように幾重にも並べられていた。
何百人も収容できそうな広さは、ここが礼拝だけでなく、城の儀式にも使われた歴史を物語っていた。
一段高くなった暗い奥には祭壇があった。無人だった。
アーノルドは首を捻じ曲げて天井を見上げたまま、おそるおそる礼拝堂の半ばまで足を踏み入れた。
パイプオルガンは音響の関係で、奥の祭壇の真向かい、礼拝堂の入り口上部に設置されることが多い。
中二階ほどの高さに、両脇を石柱に挟まれるような形で楽廊があり、音はそこから降ってきていた。
どうか予想がはずれてほしいというアーノルドの祈りは聞き届けられなかった。
銀色の無数のパイプがぎっしりと押し込まれた前衛的な印象と、重厚な礼拝堂の装いを融和すべく、天使像や意匠をこらした彫刻がまとわりつく。その真下に鍵盤と奏者の席はある。
豪奢な金髪と不吉な漆黒のドレスが揺れていた。
「……アリサ……どうして、おまえが……」
アーノルドは慄く唇で口にしたくなかった名を呟いた。
そこに座っていたのは〈救国の乙女〉アリサ・ディアマンディだった。
アーノルドの悲痛な呻きをよそに、アリサは口元に笑みを浮かべ、鍵盤に指を滑らせる。
貴族階級、特に令嬢にとって音楽の素養は必修だ。
だがアリサはダンス以外は才能の欠片もなかった。
指一本のぎこちない演奏で常にまわりの令嬢たちの嘲笑を浴び、小さくなって愛想笑いで機嫌をうかがっていた。いじめでわざと合同演奏会の中央に引き出され、目の肥えた貴族たちの侮蔑に長時間さらされ、涙目になって震えていたこともあった。
なのに今のアリサは解き放たれた圧倒的な演奏で、巨大なパイプオルガンを軽々とねじ伏せていた。
鍵盤の横のストップレバーが目まぐるしく出し入れされ、無数の楽器の響きを生み出す。
足先が魔法のように強弱の波を作り出す。
素人のアーノルドでさえ一目でわかる傑出した演奏だった。
アーノルドは呆然とし、礼拝堂の床に崩れるように膝をついた。
どうやってアリサがここにたどり着いたかなど念頭から消し飛んでしまった。
アリサを馬鹿にした貴婦人達など足元にも及ばなかった。
宮廷楽師と共演できるレベルだ。演奏と背中だけで聴衆に息をのませる超一流の演奏家のオーラを放っていた。いや、もっと禍々しい冬の夜のような魔性の冴えだった。
パイプオルガンが軋む。アーノルドは呻いた。
アリサは無能な令嬢を自演していただけだったのだ。
アーノルドは自分が騙されていた残酷な現実をつきつけられた。
「……ふふっ、久しぶりに遠慮なく弾けて、少々昂ってしまったわ。さあ、おまえの存在のすべてを懸けた音色を聞かせてちょうだい」
城中を揺らすほど高まるオルガンの音色の中、なぜかアリサの冷たい声がはっきり聞こえた。
アリサが両手を鍵盤に叩きつけるのが見えた。
猛獣の咆哮と子供の甲高い悲鳴が混ぜこぜになったような狂気の曲が轟く。
それはオルガンの断末魔だった。
地獄の音楽に金髪をふくらませ、アリサが立ち上がり、哄笑した。
「……あははっ!! 愛おしいわ。おまえの楽器としての最終楽章を私に捧げなさい!!」
「……っ!?」
アーノルドが不穏なものを感じ、反射的にばっと腕で顔をかばい飛びのいた瞬間、パイプオルガンが異音を発して破裂した。鍵盤が空間を閃き飛び、頑丈な骨組みが歪曲してはじけ飛んだ。文字通り木端微塵になったのだ。落雷が直撃してもこうはなるまいという凄まじさだった。
中二階の位置の爆発だったのに、礼拝堂全体の石造りの壁と床に、弾雨のように破片がめり込む。
爆心地にいたアリサは血みどろの肉片となって原型も留めなかったろう。
だがアーノルドにそれを確認する余裕はなかった。
ぎぃぎぃと悲鳴をあげながら、十メートルを超えようかという金属管が壁をはずれ、次々に倒れかかり、視界を覆いつくしたからだ。巻き込まれたら命はない。
最初の一本が、かろうじて回避したアーノルドの耳元をかすめ、髪を数本もぎ取った。
金属音と落下音と吹き口からの排気音が無茶苦茶に交錯する。
不規則に襲いかかり、落下途中の突起物や床でバウンドする違う長さの金属管は、動体視力にすぐれたアーノルドでも転がるようにかわすのが手一杯だった。矢で迎撃など不可能だった。
「……アリサあっ……!!」
それでもアーノルドは跳ね起きるなり、アリサを助けようと走り出した。
騙されていたと知ってなお、彼はアリサへの愛を失っていなかった。
だが、その想いと足は凍りつくことになった。
奇跡的に崩れず残った楽廊に、アリサは無傷で佇んでいた。
見慣れた金髪に蒼い瞳、そして黒いリボンに黄金蟲を模した髪飾り。
いつもと寸分違わぬアリサだが、まとった雰囲気は別人のものだった。
漆黒のドレスのせいではない。
爆心地にいたにもかかわらず、ドレスのほつれ、髪の乱れ、冷や汗の一つもなく平然としているさまは、断じて人間ではありえなかった。
いや、アーノルドは一人だけそんな女を見たことがある。
人の生き死にでさえ微塵も揺るがない悪魔の心を持った女。
アーノルドの家族を弄び、愉し気に死地に追いやり、復讐の十字架をアーノルドに背負わせた化物。
炎を背に嗤う絶対権力者。アーノルドに一生消えない心の傷を刻んだ存在。
アーノルドはしばらく言葉を失っていた。
アリサはほわっとした笑みをアーノルドに向けた。
「……ねえねえ、どうだった。アーノルド。アリサの演奏。結構すごかったでしょ。じつはアリサねっ、楽器大得意なんだ。……思い出すねえ、あの火刑場の昂り、あの匂い。アーノルドの大切なお父様とお母様、弟さんが命を散らしたときを。ものはやっぱり壊れる瞬間が一番美しいよねえ。……どうして黙ってるの? まさか大好きな家族だけじゃなく、自分の声まで焼き尽くしてしまったの? 駄目だよ。体は大事にしなくちゃ。悲鳴も怒りの叫びも、どうせなら力いっぱいあげてほしいもの。……あれ、アーノルド、泣いてるの? いいんだよ、悲しかったら我慢しなくても。おいで、アリサの胸で泣かせてあげる……」
それはアーノルドの聞き慣れたアリサの口調だった。
恋焦がれた女性の心配げなまなざしだった。
辛いときにアーノルドの心の支えになった言動そのものだった。
だが唇がつむぐ言葉はアーノルドの心を抉った。
広げられた両手は鉤爪のよう悪意に満ちていた。
アーノルドの心は、思い出ごとずたずたに引き裂かれた。
「……アリサが……火刑場の……女王だったのか……!! 今まで俺を騙して……!!」
ようやく喉の奥から絞りだした震えたかすれ声に、アリサはにんまりと凄まじい笑みを浮かべた。
「……騙すですって? 女は化粧する生き物よ。仮面のひとつやふたつ被るのは当然でしょう。馬鹿ねえ。だから格好つけないで私と寝床を共にすればよかったのに。そうすれば女というものを少しは学べたのにね。まっかになって欲望に耐える坊やに、無邪気なふりをして胸を押しつけるたび、笑いを堪えるのに大変だったのよ」
わざとらしくため息をつくアリサは、まさしく火刑場での女王と同じ表情をしていた。
人の運命を玩具として楽しむ化物だ。
アーノルドは戦慄した。
こいつに比べればアーノルドが敵と思い込んでいた女王スカーレットなど、冷酷なふりを必死にしている小娘でしかない。
「……黒いリボンをいつも喪服がわりにしていると言ったのも嘘だったのかよ……」
アーノルドはうつろな声で問いかけた。我ながらくだらない質問だと自嘲した。自分はまだアリサの人間性を信じたいのかと情けなかった。アリサの正体があの女王なら、返ってくるのは無惨な答えしかないに決まっていた。
アリサは小首をかしげ、黒い長いリボンをいじりながら微笑む。
「私は情事のときもこの黒いリボンをはずすことはないわ」
そして、はっと顔をあげて希望にすがりつきかけたアーノルドの心を、容赦なく突き落とした。
「……あははっ!! なにを勘違いしているのかしら。喪服を着たまま男に抱かれる女が、死者を悼んでいるわけがないじゃない。親の仇にもすがる哀れな純朴さ……ぞくぞくするわ。御褒美に答え合わせをしてあげる」
はじけるように笑い転げたあと、アリサは金の甲虫の髪飾りに手をかざした。
アーノルドの目が驚きで飛び出さんばかりに見開かれた。
アリサがすっと撫で上げると、甲虫がのそのそ這いまわりはじめたからだ。
金属の作り物が生命をもった。
がちがちと太い牙が噛み合わされる。
羽根を広げると耳障りな音を立てて舞い上がった。
煌めく金の軌跡を描いて、力強く飛翔する。
衝撃に硬直するアーノルドに、アリサは楽しそうに語りかける。
「……作り物ではないわ。黄金蟲は伝説ではなく実在する昆虫よ。ただし死者の魂を迎えに来るのではなく、死者の肉を貪るの……金色の輝きで獲物を引き寄せるのよ……そして、ね……」
アリサの囁く言葉の意味に、アーノルドがはっと気づいたときにはもう遅かった。
黄金蟲がアーノルドの弓の先端にとりつく。
内翅をあっという間に畳み込み、金貨のように光る背中を見せつけた。
アーノルドが目をそらすより早く、あやしい煌めきがとびこんできた。
黄金の輝きが髑髏のように変貌した。
げたげた嗤う幻影が、アーノルドの視界いっぱいに広がる。
あわてて黄金蟲を振り飛ばそうとしたアーノルドは、足をもつれさせて転倒した。
跳ね起きようとして、顔から床に突っ込んでしまう。
目の前がぐるぐる回り、天地の位置が掴めない。
一瞬で平衡感覚を奪われたことに気づき、アーノルドの額に冷汗が噴き出した。
小さな鉄鉤を思わせる黄金蟲の前肢の先が、かりかりと頬を引っかき、目のふちにかかる。
食らいつきやすい箇所を探しているのだと悟り、アーノルドの顔から音をたてて血の気がひいた。
アリサの笑い声が響く。
「あはははっ!! 理解したかしら。黄金蟲の輝きは、麻薬のように人間の感覚を狂わせるの。この子達は、そうやって動けなくした人間を食い荒らすのよ……ほら、あなた達も行っていいわ」
アリサの袖や襟元から無数の黄金蟲が、ぞろぞろと這い出すのを見て、アーノルドは絶叫しそうになった。百年の恋もいっぺんに覚めるおぞましさに全身が鳥肌たつ。黄金蟲は一斉に飛び立ち、アリサのまわりを乱舞した。アリサは愛おしげに蟲達と戯れながら、アーノルドに解説を続ける。
「……この子達はね。見た目、動き、臭い、羽音、そのすべてで相手を眩惑するの。勤勉な殺し屋なのよ。私の得意技とはとても相性がいいわ」
アリサの姿が陽炎のように霞み、無数の赤い花びらと化してざあっと渦巻いた。
それはブラッドの得意技、分身技の血桜胡蝶を思わせた。
違うのはそこからぐるんっと渦が反転したことだ。
広がった渦が高速回転で再び小さくなる。アーノルドはひきつった息をのんだ。
血桜が収束したあと、そこにはアリサではなく、火刑場の女王スカーレットが冷たい眼差しで立っていたからだ。悪夢の記憶と寸分違わぬ姿だった。邪悪な笑みを浮かべ、見せつけるようにぐるりと一回転した。まとわりつく黄金蟲の輝きが車のヘッドライトのように尾をひいて流れる。
薄々勘づいていたとはいえ、衝撃的な光景にアーノルドの頭の芯がしびれた。
アリサは愛おしげにスカーレットと化した己の身体を両手で抱きしめた。
「……これが答えよ。ふふっ、本物と見分けがつかないでしょう。私でも胸が高鳴ってしまうもの……この子達はね。血桜胡蝶の幻術を強化してくれるの。私一人でも出来なくはないけれど、長時間はさすがに堪えるから助かっているわ。共生……ってご存じ? 私と黄金蟲は共生の関係にあるの。黄金蟲は私に力を貸し、見返りに私は彼らに……ふふっ、想像はつくでしょう? 今からあなたがその身で体験するのだから……」
恍惚とした夢見る表情で彼女は続ける。
「……ねえ、知ってる? 本当のスカーレットったらとっても健気で優しいのよ。なるべく人を傷つけまいと一生懸命なの。あなたのお父様のこともそう。処刑の十日も前に赦免状を発行していたわ。お母様と弟さんの身代わりの件なんか知りもしなかった。あとで処刑の報告を受けたときの顔は見ものだったわ。どうして……ってまっさおになって涙目で絶句して……抱きしめたくなるほど可愛いの。そんなスカーレットをあなたは親の仇と罵り続けたのよ。可哀そうに……でも不思議ねえ。そうするとあなたの家族を殺したのは誰? もしかしてスカーレットの偽物でも現れたのかしら」
「……アリサ……!! ……貴様は……!!」
くすくす笑うアリサにアーノルドは歯軋りした。
全身の血がざあっと逆流した。
怒りのあまり黄金蟲への恐怖が消し飛んだ。
自分が責め立てたときの女王スカーレットの哀しい表情が脳裏によみがえる。
彼女は無罪だった。あの涙は自分と家族のために流してくれたものだった。
そんなスカーレットを自分は反乱軍となって追い詰めてしまった。
後悔で胸が軋む。マッツオの話は本当だったのだ。
俺はずっと道化として踊らされていたのか……!!
元凶が真横にいたのにも気づかずに……!!
俺たち家族のために泣いてくれた本物の女王を、見当違いに殺したいほど憎み続けて……!!
屈辱と悲痛でアーノルドの顔が歪む。
「……ふふっ、泣くほどつらいの……思い出すわ、アーノルド。家族を失った悪夢にうなされ、とびおきたあなた……私が髪を撫でて慰めた夜……悲しみの涙を流すあなたは、母を思わす手に安心して眠りについた……それが本当は仇の手とも知らずに……あわれねえ」
憤怒で言葉の出てこないアーノルドを嘲笑し、再びアリサは血桜となって旋回する。
その下から現れたのは、アーノルドの知らない背の高い細身の女性だった。
束ねたプラチナブランドに緑の目は森の妖精を思わせた。
薄幸そうな寂しげな美貌は、どこかスカーレットの面影を感じさせる。
「……これはスカーレットの母親、若くして亡くなったコーネリアよ……スカーレットの父親の紅の公爵を殺すときは、いつもこの姿を使ってあげるの。面白いわよ。私でも手こずる冷静で隙のない公爵が、馬鹿みたいに棒立ちになるんだもの。涙までぼろぼろ零してね。ふふっ……火刑場でのあなたの表情にそっくり……そうだ、あなたのお母様の姿になって慰めてあげましょうか」
コーネリアの姿で薄笑いするアリサに、アーノルドは怒髪天をついた。
アリサは死者を冒涜した。人の想いを踏みにじった。絶対に許せなかった。
怒りが爆発的な活力を与え、アーノルドは黄金蟲の呪縛を振りほどいた。
頬に噛付く寸前の黄金蟲をはらいのけ立ち上がる。
元の姿に戻ったアリサにアーノルドは弓を振り絞り、狙いを定めた。
この距離で六連射を放てば、いかに超常的なアリサとて逃れる術はない。
アリサがわざとらしく目を見張る。
「……ひどいよ……アーノルド……どうしてアリサに矢を向けるの。アリサ、いつもアーノルドのために頑張ってたのに……もしかして、それが嫌だったの? アリサのこと邪魔って思ってたの?」
いつもの口調になり小鳥のように震えるアリサに、アーノルドは胸苦しくなった。
アリサは涙を浮かべていた。
緊張したときに見せる黒いリボンの端を握りしめる仕草に、アリサと語り合った思い出がよみがえる。
決意がくじけそうになり、アリサに向けた矢の先ががたがた揺れる。
「……やめろ!! やめてくれ!! 俺はもう騙されない!! その声に!! その顔に!!」
アーノルドは躊躇いを振り切るように叫び、再びずれかけた狙いをつけようとした。
「……そう……だったら迷わずすぐに射るべきだったわね……黄金蟲は一匹ではないのだから。私が戯れるためにこの子達を舞わせていたとでも思っていたの?」
アリサが冷たく吐き捨てるより早くアーノルドの身体は自由を失った。
鉄弓が手を離れて落下し、澄んだ音を立てて転がった。
蛍の群れのようにアリサの周りを飛び交う黄金蟲の輝きが、無数の髑髏になって嘲笑する。
「……馬鹿な……どうして……!?」
どっと床に倒れてアーノルドは呻いた。
わけがわからなかった。
アーノルドとて黄金蟲を何度も直視するほど間抜けではない。
用心深くアリサだけを見るようにしていたのだ。
「言ったでしょう。黄金蟲は勤勉な殺し屋だって。人の話は注意深く聞いておくべきよ」
今までなにもいなかった床に浮かび上がるように数匹の黄金蟲が現れた。
冷たい金属質の光がぬめる。
無機質な目と至近距離で向き合うことになってアーノルドは肌が粟だった。
「この子たちはね、鏡のように周囲の景色を体に映し出して同化できるの。黄金蟲の輝きを見ようとしない用心深い相手に備え、二段構えで獲物に奇襲をかけるのよ。そして無臭の毒液を至近距離で撒くの。集団で狩りをする黄金蟲から逃れる術はないわ」
アリサはせせら笑い、ドレスの両脇をつまみ上げ軽く身を沈め、アーノルドに挨拶をした。
「……ではごきげんよう。間抜けな狩人さん。私に届く嘴と羽根は生えなかったようね。蟲に食い荒らされるのがあなたにはお似合いよ。お行き、お前たち。食事の時間よ」
アリサの合図でアーノルドに黄金蟲が殺到する。
指一つ動かせない苦悶の中、アーノルドは声なき絶叫をあげた。
涙があふれた。恐怖ではない。悔しさからだ。
大切な人たちを奪い去った悪魔に一矢も報いることのできない無念に震えた。
もっと早く気づいていれば、女王と共闘してこの化物を駆逐できたかもしれないのに……!!
女王に誰にも手出しはさせないというマッツオとの約束すらもう守れそうになかった。
「……すまねえ……マッツオのおっさん……俺はもう……ぶえっ……!?」
「……馬鹿!! なにやってるんだ!! 弓を取れ!! 諦めるな!! アーノルド!!」
アーノルドが諦めかけたそのとき、叱咤とともに、刺激臭のする液体が頭からぶっかけられた。
目と鼻に沁みるそれは度数の極めて高い酒だった。
まともに吸い込んでアーノルドは激しく咳き込んだ。手足に力が戻る。
黄金蟲が泡を食ったように四散する。
逃げ遅れた何匹かが腹を上にして床にひっくり返り、肢を激しく痙攣させて動かなくなる。
「……黄金蟲は封じさせてもらった。この酒は黄金蟲を麻痺させ、眩惑を無効化する。たかが蟲ごときに取らせるほど、ぼくの親友の命は安くないんだ。彼を侮るなよ!! アリサ・ディアマンディ……!!」
アーノルドを守るように立ちはだかり、アリサを睨みつける頼もしい船乗りの姿がそこにあった。
オレンジの前髪がはだけ、額の傷跡とエメラルドの瞳がきらめく。
見慣れた赤い船長服に、萎えかけたアーノルドの心が奮い立つ。
涙と笑みがこみあげてきた。
「……またオランジュ商会特製のあやしい効果つきの酒かよ……くそ不味いんだよ、この酒……勘弁してくれよ。まったく……たまには違うパターンできてほしいぜ……だが、本当に助かった。ありがとよ、セラフィ……」
窮地のアーノルドを救ったのは、五人の勇士の一人、セラフィ・オランジュだった。
「……オランジュの酒を美味しく感じないのは、アーノルドの味覚が子供だからだ。ぼくのせいじゃない。それに戦士と船乗りの再会を祝するのに、酒以上にふさわしいものがあるか? 他にあるなら、是非教えてくれ。うちの新商品として検討したいからな」
空容器を投げ捨てて苦笑するセラフィにアーノルドは破顔した。
戦士……まったくこの友はどうしてこうも何気ない一言で、自分に勇気を与えてくれるのか。
女だったら両手いっぱいの花束をプレゼントしたいくらいだ。
「……違いねえ……だがよ、再会の乾杯はあの化物を倒したあとだ。こうやって助けてくれたってことは、おまえもアリサの正体に勘づいてたのか」
アーノルドの問いにセラフィは頷いた。
碧の目に一瞬稲妻のように激情がひらめく。
「……知っている。アリサの本当の出自も、策謀してきたことも……。ぼくらは騙されてきた。あの女は平然と人の運命を弄ぶ悪魔だ。面白半分でこの国を焼き尽くす気なんだ。本当は名君だった女王スカーレットにすべての悪名を押しつけて……いきなり言われても信じられないかもしれないが……」
躊躇いがちに切り出したセラフィの肩をアーノルドはぽんと叩いた。
「……いや、俺は信じるぜ。アリサは俺の目の前で、女王そっくりに化けやがった。御神輿の〈救国の乙女〉なんてとんでもねえ。おまえが来てくれなきゃ、俺は手も足も出せずに殺されるとこだった。なんなんだ、あいつは。人外か?」
「人間だよ……あれでもね……同族殺しの人の闇が生んだ怪物さ……アーノルドが信じてくれて嬉しい。家族を処刑された君の女王への恨みは深い……説得するのは不可能だと思ってたよ。君はアリサに傾倒していたから特にだ。あのアリサが真の黒幕だなんて話、誰も信じるわけがない。ぼく一人で戦いを挑む気だった。だけど、やっぱり君は闇を見通す目をもつ狩人だった……さすがだ、親友。君はいつもぼくに勇気を与えてくれる」
ほっとしたように呟くセラフィにアーノルドはおおいに照れた。
「……おま……よく真顔でそんな恥ずかしいことを……そりゃ、まあ、女の嘘か友の真実、どっちを取るかっていうと、友の真実のほうだろうよ……」
照れ隠しに吐き捨てるが耳が赤くなる。
先ほどまで闇を見通すどころか、思い出のアリサへの恋慕の情をつかれ、嵐の中の小舟のように心を翻弄されていたのだ。今は足の裏に地面をしっかり感じる。信頼する友人がアリサの邪悪を指摘したことで自分の考えに自信が持てたからだ。勇気を貰ったのはむしろ自分のほうだった。
「……ふふっ……熱い男同士の友情だこと……友がいればどんな危機も乗り越えられると、無邪気に信じている。馬鹿ね……女の可愛い嘘に騙されていたほうが幸せだったのに。……後悔するわよ。嘘は甘く真実は苦い……真実を知ることには代償が必要なのだから……」
暗い楽廊から二人を見下ろし、アリサはせせら嗤った。
虫けらを見る目つきだ。絶対者の気配をもう隠そうとはしていなかった。二人の抵抗など歯牙にもかけていないのだ。もはや恋心など微塵もわいてこない。対峙するだけで汗が全身を濡らす化物だ。
「……私の黄金蟲に可哀そうなことをしてくれたわね。ひどいわ、非力な女から装身具をはぎ取るなんて。お気に入りだったのに……もう眩惑も使えない……お詫びとして貴方達からなにを貰おうかしら。……そうねえ……金の猫目石とエメラルドでも貰うことにしましょう。……私を不遜にも睨んだ生意気なその目をね」
にんまりと三日月のように口元が吊り上がる。
アーノルドはぞおっと総毛だった。
アリサは二人の目を抉り出すことに決めたのだ。
「……やばい!! 射て!! アーノルド!!」
血相を変えたセラフィに言われるまでもなかった。
恐怖でアーノルドの攻撃抑制がはじけとんだ。
生存本能が全力で警告をがなり立てる。
殺されるという予感が、殺すかもしれないという怯えを消し飛ばしてしまった。
弓の弦が鳴り、手加減なしのアーノルドの矢が放たれた。
冷静なときなら、自分の所業に背筋が寒くなったろう。
アーノルドの強弓は鎧ごと背中まで貫通する威力がある。
ドレス姿の女性に向かい殺意をこめた矢を飛ばすなど正気の沙汰ではない。
だが正気を失わせる事態はそこからだった。
アリサの姿が楽廊から消え失せていた。飛翔しているはずの矢ごとだ。
「……それが本気? 期待はずれねえ。もっと昂らせてちょうだいな」
茫然とするアーノルドの耳元を吐息がくすぐった。
甘い薔薇のような匂いに息が詰まりそうになる。
金髪が視界の端で揺れ頬を撫でる。
アリサがいつの間にか脇に距離を詰めていたと気づき、アーノルドの心臓が飛び上がりそうになった。
移動がまったく見えなかった。
アリサの立っていた楽廊はここから十メートルは離れていたはずだ。
しかも高さ三メートルほどの中空にあり、近場に降りるための階段もない。
到底人間技ではなかった。
「……がっかりさせた罰ゲームよ。矢っていうのはね、こうやって身体に刺すの……」
アリサが睦言のように囁いた。背筋を寒気が貫く。
「……うおおっ!?」
「……化物!! アーノルドから離れろ!!」
はねのこうとしたアーノルドの左肩を激痛が貫くのと、セラフィの叫びとともに空気が爆ぜるのは同時だった。セラフィが隠しもっていた鞭をふるったのだ。
黒いドレスがざあっと影のように後退する。
「……あら、二人の内緒話に割って入るなんて無粋ねえ。せっかく骨ごと貫かれる痛みを教えてあげようとしたのに、中途半端で終わってしまったじゃない」
二十メートルほど向こうで、アリサが不服そうに口を尖らせた。
アーノルドの肩先には自分が今放ったはずの矢が突き刺さっていた。
アリサは楽廊から飛び降りながら、アーノルドの矢を宙で掴み取り、一息で接近を果たしたのだ。
そして信じがたい力で矢をアーノルドの肩に押し込もうとした。
セラフィの鞭の援護がなければ、アーノルドは左肩を完全に貫かれていた。
「……アーノルド、大丈夫か」
その反撃したセラフィも顔面蒼白だった。
「……おまえのおかげでかろうじてな……刺さりが浅くて済んだ……なあ、あれ本当に人間か。血の贖いを使ったブラッドより速かったぞ……!」
渋面で矢を引き抜いたアーノルドの問いに、セラフィは引き攣った笑顔で応えた。
「……正直自信がなくなったよ……ぼくの奥の手の鞭を、素手であっさり払いのけた」
「丸太を両断するあれをかよ……やになるぜ……! なにがお花畑令嬢だ。悪い冗談がすぎるぜ。……素手で人を引き裂ける正真正銘の化物じゃねぇか。いつわるにも程ってもんがあるぜ」
戦慄の呻きを漏らすアーノルドにアリサは嫣然とほほえむ。
「……いつわることの何が悪いの。女はね、愛する人の心をひきつけるため、全身全霊をかけて相手を騙そうとする生き物なの。そこまで気持ちが入った嘘は、もう真実と変わらない。その努力を嘘と蔑むか、けなげと愛おしむか……そこで男の度量は分かれるわ。あなた達はどちらかしら」
乱れ毛をかきあげながらの微笑は、一瞬アーノルドが怒りと恐怖を忘れるほど魅力的だった。
可憐な唇がつむぎだす言葉にひきこまれそうになる。
「……耳を貸すな、集中しろ。アーノルド。アリサは人を惑わせる。この女はぼくたちより遥かに上手でしたたかなのを忘れるな。言葉に気をとられていると一撃で殺されるぞ」
セラフィにぴしゃりと警告され、アーノルドは慌てて気を引き締めた。
アリサは苦笑する。
「……ずいぶんな言われようだこと。エセルリードの遺した手記を読んで、私の秘密を色々知ってしまったようね。女の内幕を暴くなんていけないわ……でも、ここを切り抜けて、たとえば私を倒せたとしてもその後どうするの。スカーレットをまた女王にしてこの国を立て直す? でも、スカーレットはもう死んでるわ。……あははっ、うどの大木のバレンタイン卿では、あの子を守るには役不足だったわね……」
アリサのあおりにアーノルドは激昂した。
血にまみれても気高く雄々しかった死に顔を思い出し、胸が締め付けられた。
「……その笑いをやめろ!! マッツオのおっさんは命をかけて女王を逃がした。本物の戦士だった。その生きざまを嗤う奴は、俺が断じて許しちゃおけねぇ……!! ……俺はおっさんから女王を託されたんだ!!」
歯が砕けんばかりに歯軋りするアーノルドを見て、アリサは笑い転げ、セラフィは片手で顔を覆い、はああっとため息をついた。
「……馬鹿。だからアリサの言葉に気を取られるなと注意したのに……女王の生存をわざわざばらしてどうするんだ」
アリサに嵌められたことに気づき愕然とするアーノルドに、アリサは愉し気に語りかける。
「少しは嘘をつくことも覚えなさいな。素直すぎると、人の言葉の裏が読めないわよ。素直も戦乱においては悪徳になる。バレンタイン卿ほどの男を私が悪しざまに言った時点で疑いを持つべきね」
「……すまねえ、セラフィ……」
しゅんとするアーノルドにセラフィは苦笑した。
「……いいよ、もう。どうせアリサには筒抜けだ。ここに来る途中、仕掛けが発動して抜け道の入り口が塞がれてるのを見た。だったらバレンタイン卿ほどの人間が、護衛の最後の役目を果たしていないはずがない。ぼくが気づいたんだ。アリサだってとっくに気づいてるさ……バレンタイン卿に女王を託されたと言ったな。卿は亡くなったのか」
「ああ……傷ついた体で俺の矢を全部受け止めてな。立派な最期だったぜ。俺がもっと早くアリサの正体に気づいてりゃな……全部俺のせいだ……!! バレンタイン卿が亡くなったと知ったら、女王どんだけ悲しむんだろうな……あの人は、俺の家族のために本気で涙してくれてたんだよ。それなのに俺は取返しのつかないことをしちまった……」
良心の呵責に苦しむアーノルドをセラフィが慰める。
「自分だけを責めるのはよせ。アリサに踊らされたのはぼくも一緒だ。共に罪を償おう。バレンタイン卿の遺志を継ぎ、女王を助けてこの国を立て直すんだ。バレンタイン卿も君を見込んだから、女王を託した」
セラフィは油断なくアリサを睨みつけながら続けた。
「……アリサさえここに足止めすれば、入り口の潰れた抜け道に入れる者は誰もいない。出口はオランジュ商会とエセルリードさんゆかりの人達で固めている。残念ながら女王とバレンタイン卿には連絡が間に合わなかったが……あとはブロンシュ号で脱出させれば、四大国だろうと女王に手は出せなくなる。アリサを倒せなくても、足止めすればぼくらの勝ちだ。たとえどんな化物女だろうと……ぼくたち二人が命を捨ててかかれば……なんとしてでもアリサを食い止めよう」
そう言って唇を引き結ぶセラフィにアーノルドは顔をほころばせた。
「……ありがとよ、俺もまったく同じ気持ちだぜ。一人じゃ歯が立たない化物女相手でも、二人いりゃな……奇跡の勝利の確立だって倍になるってもんよ」
セラフィとアーノルドは悲壮な覚悟で頷きあい、アリサに向けて構えをとる。
命を賭した二人の眼差しをアリサはえへらと嗤ったすさまじい笑顔で受け止めた。
「……まったく化物女、化物女と……ずいぶんと懐かしい呼び名を口にしてくれるわね……「真の歴史」の〝彼〟を思い出すわ……ふふっ、その化物女が、抜け道になんの手もうってないわけないでしょう。あなた達にも化物に近いお仲間がいたわね……彼は今どこにいるのかしら」
アリサの言葉にセラフィとアーノルドは蒼白になった。
ブラッドの姿を見ていなかったことに愕然とする。
神出鬼没で一匹狼気質なので、いつものことだと気にとめていなかったのだ。
二人から見てもブラッドは超人的な体術をもつ。
抜け道の洞窟で一対一で遭遇すれば、女王の命運は間違いなく尽きてしまう。
「……しまった!! アーノルド!! 出口からまわろう!! ブラッドを止めなくては……!!」
焦って身をひるがえすセラフィに、アリサは冷たく笑う。
「……もう遅いわ……!! ほら、聞こえるでしょう……」
足元がびりびりと震えた。地底から声が響く。
最初それは獣の遠吠えかと思われた。
やがて耳が慣れてくると、人が叫んでいるのだとわかった。
獣と勘違いしたのは、人が出す声とは思えぬほど哀切で、狂おしく、苦悩に満ちた声だったからだ。
耳を塞ぎたくなるほどのむき出しの悲痛の叫びが、礼拝堂に響き渡る。
「……なんなんだ……!? 地下からか……お、おい、この声ってもしかして……」
聞き耳をたてていたアーノルドが驚きに目を見張る。
その声に聞き覚えがあったからだ。
普段無口でぶっきらぼうな物言いしかしなかったが、間違いなく……
アリサが嗤う。
風もないのに衣服と金髪が命をもったように、あやしくはためく。
「……そう……ブラッドの泣き声よ。彼がスカーレットを仕留めたの。……ふふっ、五人の勇士ねえ……スカーレットを殺した瞬間、あなた達は「真の歴史」の記憶と感情を取り戻すの。手をかけてしまった本人だけがね。……そこからがお楽しみよ。運命も酷いことをするわねえ。……ああ、こんなに哀しくて面白い見世物、他にない。……二十八年も待った甲斐があったわ……」
自らの身体を抱きしめ、恍惚としてアリサは息をはずませた。
嗤う口端から涎を垂らさんばかりだ。
艶やかにぬめる唇は、淫猥にして獰猛だった。
生贄の血を塗りたくったようだ。
なのに目の光は極北の星のように凍てついている。
アーノルドとセラフィは絶句し、後ろ髪を逆立てるようにして後退っていた。
彼らの目の前には女の形をした得体の知れない狂気が渦巻いていた。
「……最愛の恋人を殺してしまった男の叫び……なんて切なく胸をうつのかしら……パイプオルガンの断末魔も素敵だけど、愛を自ら壊した男の絶望はもっともっと……? ……どういうこと……? なぜ逆行がはじまらない?」
アリサは笑いを引っ込め、思案するように眉をひそめた。
「……ループが解除された……? そんなはずがない……。こちらに昇ってくる……そうか、「真の歴史」の彼は閉鎖されたこちらの旧道も知っていたわね」
アリサはぱちりと指を鳴らした。
死んだように床に転がっていた黄金蟲達が一斉に羽根を震わせ舞い上がった。
自分達の背後からも羽音が昇るのに気づき、セラフィとアーノルドは全身が粟立った。
黄金蟲どもは麻痺から覚醒しており、擬死していただけだった。
アリサは圧倒的な自分の強さを囮にし、そ知らぬ顔で包囲網を完成させていたのだった。
「……命拾いしたわねえ、アーノルド、セラフィ……。今回は見逃してあげる。覚えておくといいわ。真の強者は自分さえ囮に利用する。……もういいの。おまえたちはお逃げ。彼が来る。今の彼と私の戦いに巻き込まれたら、一瞬でばらばらになってしまうわ」
アリサの言葉の後半は、名残惜しげに周囲を飛び交う黄金蟲たちに向けられたものだった。
退避をうながすと、アリサはとんと軽く数歩退いた。
アリサを追うように地鳴りのように床が揺れた。
礼拝堂の頑丈な石床に亀裂が走り抜ける。
がりがりと石の角がこすれる音をたてて盛り上がり、圧力に耐えかねたようにはじけ飛んだ。
「……なんだあっ!?」
仰天するアーノルドと対照的に、
「……ずいぶん過激なノックね。礼拝堂は静かに祈りを捧げる場所よ。石床を下から突き破るなんて、マナー違反にも程があるわ。だけど、技だけは認めてあげる……。どうやら完全に「真の歴史」の記憶を取り戻したようね……」
降り注ぐ石の塊をするすると舞うようにかわし、アリサが愉しそうに呟く。
礼拝堂の長椅子が連続で落下する石材の直撃を次々に受ける。
拉げた音をたて、ささくれた断面をさらし、無惨に潰されていく。
石が吹き飛びめくれあがった床下にはぽっかり空洞が空いていた。
地下の暗闇に続く階段が下方に伸びている。
女王スカーレットを両手で大事そうに抱きあげ、ブラッドがゆっくりとのぼってくる。
舞い散る白い粉塵がスクリーン代わりになり、ステンドグラスの色とりどりの光条を幻想的に映し出す。
雲間から光が差し込むような光景の中、女王の赤髪と細い手足が力なく揺れていた。
血の気を失った横顔はもう呼吸をやめていた。
頬には涙のあとがあった。
アーノルドとセラフィは激しく胸をつかれた。
瞼を閉じた顔は齢よりずいぶん幼く見えた。
実際はずいぶん小柄だったことに今さらながら気づく。
そのか細い肩に重責を背負い、国を立て直そうと奮闘し、国民に裏切られ、報われないまま生涯を終えた小さな女王・・・・・・この華奢で健気な女性を、自分達が追い詰め殺してしまった事実が、焼けつく悔悟となって胸を締めつける。
女王を抱き上げたブラッドの手は震えていた。
微笑みかけるその頬をとめどなく涙が伝う。
「……バカだなあ……スカーレット……女王なんてやってんじゃねえよ……責任感の強いおまえが国なんか背負っちゃダメだろ……死ぬまで頑張っちまうに決まってるのに……。……一人でつらかったろう……こんなに軽くなっちまって……俺がいたら……おまえをさらってでも無理矢理……やめさせて……」
奇跡的に無事だった赤い長椅子の上に、ブラッドはそっとスカーレットの遺骸を横たえた。
蒼白いスカーレットの頬をブラッドの涙がうつ。
乱れた髪を直してやりながら語りかける背中の哀しさに、アーノルドとセラフィはかける言葉もなかった。いつもぶっきらぼうなブラッドからは想像もつかない、言葉以上の悲痛が全身からあふれていた
女王とブラッドが恋人だったはずはない。
敵同士として旧知の間柄だっただけだ。
だが今の二人には余人の立ち入れない雰囲気があった。
スカーレットの横に跪き、肩をふるわせ、ブラッドは血の出るほど自分の膝を握りしめていた。
「……ごめんな……俺は……やめさせるどころか、おまえだと気づきもしなかった……!! 傍にさえいてやれなかった……!! それどころか、おまえを追い詰め……この手でおまえを……!! お前を守るって決めた……この手で……おまえを……!!」
「……そうよ。あなたがその手でスカーレットを殺したの。今回だけじゃないわ。もう何度も何度も。……この子の傍で泣く資格なんて、もうあなたにはないの」
冷たく吐き捨て、黒いリボンを揺らし、アリサがゆっくり近づいてくる。
「もうお別れは十分でしょう。スカーレットを渡して下がりなさい。ここは礼拝堂。この子が眠るにふさわしい場所よ。これ以上恋人気取りでいるのなら……魂ごとうち砕くわよ」
ブラッドはアリサに振り向きもしなかった。
背を向けたまま、スカーレットの頬を撫でる。
「……違う。こいつの安らぐ場所はこんな寂しいところじゃない。死んだらここで眠りたいって言っていたあの丘に……俺達が再会を約束したあの美しい花の咲く場所に……俺はスカーレットを連れていく。そこで俺は死ぬまでこいつを守り続ける……」
アリサの形相が一変した。碧眼が冷たい虚空の凄愴な色を帯びる。
「……自分こそが一番スカーレットをわかっているっていうその態度。癇に障るわ。男のロマンティックは度をすぎると滑稽よ。……どうしても諦める気はないのね。……じゃあ、その愛どこまで貫けるか試してあげる。愛に試練はつきもの……そうでしょう?」
アリサが嘲笑うとその姿が消え失せた。
「……あははっ!! 体から切り離されても、首だけで愛を語れるかしら……!!」
勝負は一瞬だった。
アリサは魔法のように間合いを詰めていた。
アリサの手刀をブラッドが居合抜きのように振り向きざまに受け止めた。
アリサの嗤いが歪む。火花が散った。
稲妻の閃きに照らされた光景のように、二人が静止して見えた。
強大なパワー同士が激突し、せめぎ合い、拮抗したのだ。
一拍おいて空気が爆発した。
鬼気が走り抜け、ステンドグラスが木端微塵に砕け散る。風が渦巻く。
石床がぼこんっと陥没し、煽りを食らった周囲の長椅子がばらばらになって吹き飛んだ。
礼拝堂の中に突如嵐が出現したようだった。
ブラッドは片膝をついていた。
安置したスカーレットを守るように、そこからほとんど動いていなかった。
弾き飛ばされたのはアリサのほうだった。
金髪を揺らし十メートルほど後方にふわりと着地し、頬についた血をぬぐって苦笑する。
「……驚いた。殺す気で襲ったのに、逆に傷つけられるなんて、いつぶりだろう……褒めてあげる。鬼神の宿った拳だわ。さすが愛するスカーレットを何度も殺してきただけはあるわね」
アリサの煽りにもブラッドは取り乱さなかった。
鎮痛な表情で静かに答える。
「……そうだ。おまえの言う通りだよ。俺は最低の地獄の鬼だ。俺にはもう、こいつを愛する資格なんてありゃしない……だけどな……」
哀しげな背中に血煙が出現し、ごおっと渦巻く。
立ち上がり、振り向いたブラッドの目は真紅に輝いていた。
身体強化技の「血の贖い」を発動したのだ。
アリサを睨みつけるその目から涙があふれていた。
「……たとえ悪鬼に成り果てても、アリサ!! おまえだけは倒す!! それが俺がこいつにしてやれるたった一つの償いだからだ……! ……こいよ。化物女。血塗られた怪物同士決着をつけようぜ……!!」
その視線を受け止め、アリサが艶やかに冷たく嗤う。
「……御指名ね。いいわ、相手してあげる。今のあなたは私と踊るにふさわしいわ。……私のことしか考えられなくなるほどに……恐怖であなたを塗りつぶしてあげる。大好きなスカーレットの目の前でね……。私を本気にさせたこと、後悔なさい……」
アリサの金髪が生き物のようにぶわっと舞い上がる。
氷河を思わす蒼い目が更におそろしい底なしの青になり、そして……
アーノルドとセラフィは驚愕に息をのんだ。
アリサの瞳の色が……燃えるような真紅に変わっていく……!!
「血の贖い……!! アリサも使えたのか……!!」
衝撃に唸るセラフィをアリサは一瞥し、口元を吊り上げた。
「……違うわ。失礼ね。あんな紛い物と一緒にしないでほしいわ。この真紅は私の本当の瞳の色。……スカーレットと同じ色よ。いつもは無理に青色に変化させているの。反動を我慢してね。……あなたはよく知ってるから今さら驚かないわよねえ。ブラッド」
表情を変えないことで肯定するブラッドに、アリサは嬉しそうにほほえんだ。
「……紅い瞳のときの私の強さを知って、なおその顔ができる人間がこの世に何人いるかしら。……ときめくわ。今のあなたとなら、素敵な思い出がつくれそう……恋い焦がれた人の亡骸の前で、恋敵の男女が殺し合う。それもまた一興。さあ、……お互いの気持ちに決着をつけましょう」
……そして雌雄を決するため、人の域を超えた二人が同時に石床を蹴った。
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