第47話 再会
扉を守るように背をあずけ、座っているマッツオと、矢をつがえたアーノルドの二人の視線がからみあう。再び煙がたちこめ、互いの姿をうっすらと覆い隠した。
「はっ、すげえ煙だな。まるで霧の中にいるみてえだ。おっさんを見つけられて幸運だったぜ。さあ、やり合おうぜ。どしたい、座りこんで。まさか、おっさんほどの豪の者が、疲れて立てねえとかはないんだろ」
「……ふん、まさか。あまりにも、おまえら賊軍の歯応えがなさすぎてな。退屈のあまり、居眠りしておっただけよ……」
激痛のおかげで意識を失わないでいることにマッツオは感謝し、ふてぶてしく吐き捨てた。
ゆらりと立ちあがったが、膝にまるで力が入らない。
背中を支える扉のおかげで崩れないで済んでいるだけだ。
だが、視界を遮る煙で、アーノルドはマッツオの命を賭した強がりに気づいていない。
しばらくはここに足止め出来るはずだ。
ありがたい。先の見えた俺の命と引き換えに、姫を逃がす貴重な時間が稼げるとはな。
マッツオの漏らした小さな呟きに気づかず、アーノルドは哄笑した。
「言うねえ!! そうでなくちゃいけねえ!! ……ところで、おっさんよ。ちゃんと得物の鎖つき鉄球は持ってんだろうな。あんた、時々、徒手空拳で戦ってるからな。俺が飛び道具であんたが素手じゃ、不公平がすぎるってもんだ」
高揚した様子を一変させ、気遣わしげに問いかけるアーノルドにマッツオは苦笑した。
この若者の青臭いフェアプレイ精神は嫌いではない。
〝すまぬな。鉄球はもう持っておらぬのだ。おまえの戦士としての誇りを傷つけることになるが、ここは騙させてもらう。許せ〟
心の中で詫びながら、マッツオは両手に握った鎖をじゃらんと鳴らした。
「……若造が余計な気配りをしている場合か。俺の鉄球は一撃でおまえの命を叩き潰すぞ。ここには俺とおまえの一対一。男の戦いに、いらん気持ちを持ちこむものではないわ」
「一対一……じゃあ、女王はあんたの側にはいないんだな。……あんた、まさか見捨てられたのか」
心配して尋ねるアーノルドにマッツオはかすかに笑みを浮かべた。
猛禽の印象だが、アーノルドは人の情のわかる人間だ。
強すぎる正義感と女王への怨みで目がくらんでいるだけだ。
彼は信頼できる。
マッツオは残り少ない自分の命の使い道を決めた。
「……勘違いするな。女王陛下は……スカーレット様はな。誰かを見捨てるなど出来ぬお方だ。泣いて留まろうとしたのを、俺が無理矢理逃がしたのだ。そんなスカーレット様だからこそ、この国も国民も、最後まで見捨てようとせずに……」
「はっ!? 誰も見捨てないだ!? ふざけんなよ!! あの女はな! 俺の親父を! おふくろを! 弟を……! 俺の目の前で焼き殺したんだぞ!! 見殺しどころじゃねえ!! 家族の肉の焼ける臭いはよく似ていると嗤ったんだぞ!!」
アーノルドの形相が一変した。
激昂し、マッツオの言葉を遮って叫ぶ。
「……いいか!! よく聞けよ!! おっさん!! あの女はな!! 俺の親父に無実の罪をかぶせた!! その罪を認めるなら、家族は助けると約束した!! 親父はそれを信じた!! だから、黙って火刑場にひかれていったんだ!! 家族のために死ぬ気だった!! それなのに、あの女はなにをした!!」
アーノルドは絶叫していた。涙が溢れだす。
「……炭になった俺のおふくろと弟を……親父に見せつけたんだぞ!! 二人は逆に自分達の命と引き換えに、親父の助命を嘆願していた! あの女は俺の家族が想い合う気持ちを踏みにじったんだ!! ……親父は血の涙を流していたよ……守りたかったおふくろと弟の残骸を足元に見ながら、焼き殺された親父の無念がわかるか!! ……それを見ているしかなかった俺の気持ちがわかるのかよ……!!」
アーノルドの頬を滂沱と涙が伝う。
「……三人とも、あんな死に方をしていい人間じゃなかった。親父は口数は少なかったけど、背中で俺にたくさんのことを教えてくれた……おふくろは、いつも笑顔とあたたかい手で、俺達兄弟を迎えてくれた。弟は明るくて、親父とおふくろに誇れる人間になろうといつも努力を怠らなかった……! 小さい頃は俺にいつもくっついてきて……! 炎に焼かれながら、俺に心配かけまいと笑ったんだぞ……みんな、最高の家族だったんだよ……俺なんかと違って……あんな死に方をしていいはずが……いいはずがなかったんだよ……!!」
慟哭をおさえこみ、アーノルドは深い息を吐いた。
「……俺は鎖に雁字搦めにされ、猿轡を噛まされたまま、処刑場で、一部始終を見せつけられた。死ぬよりつらかったぜ……あのときの女王の冷たい薄ら嗤いだけは、忘れようとしても忘れられねえ……」
「……そうか。おまえも愛する者を理不尽に奪われたのか。その哀しみわからんでもない」
マッツオは瞑目した。
花が開いたようなメアリーの笑顔と、冷たくなった姿に再会したときの絶望を思い出す。
マッツオは大きく息を吸い込むと、心の中のメアリーの笑顔に語りかけた。
〝……心配するな。奴の気持ちは痛いほどよくわかる。だが、なにを聞かされても、俺は俺の目で見てきたスカーレット姫を信じる。メアリー、おまえの守りたかったものは必ず俺が守ってみせる。だからな、いつものように笑顔でそこにいてくれ。……俺はおまえを守れなかった。だからこそ、思い出の中のおまえの笑顔まで曇らせはせん〟
マッツオは昂然と顔をあげた。
大目玉でアーノルドを見据える。
「おまえの気持ちはわかる。だが、それでも……スカーレット様は断じてそんなことはやっていない。そんな方ではないのだ。おまえはあの方を誤解している」
マッツオの言葉にアーノルドは怒り狂った。
「ふざけるな!! あいつの非道を直接見た俺に、そんな詭弁が通用するか!!」
「……もとより言葉で説得できるとは思っておらん。……貴様の全力の弓技……六連射を、俺に向けて放つがいい。それを俺がすべて受け止め、スカーレット様の身の証と成してみせよう」
「……はっ!? なに言ってんだ!! 狂ったのか? なんで、あの女の証をあんたが……」
唖然とするアーノルドにマッツオは不敵に笑いかけた。
「……いたって正気よ。家来を見れば、主君の人となりは知る事が出来る。そしてな、言葉と違い、命がかかった場での態度は偽れん。貴様も戦士なら理解できよう。……処刑場のスカーレット様はどう考えても、俺の知るスカーレット様と一致せん。女王陛下は老骨の俺に残されたすべてだ。だから、俺は命を賭し、スカーレット様の潔白を証明する。なにもおかしいことはあるまい? わかったら、早くかかってこんか!! それとも自分の思い込みが壊されるのが怖いか。坊主よ……」
「……ほざきやがったな……」
アーノルドはマッツオを睨みつけた。
視線で人を殺せるような凄まじい目つきだった。
激昂を超えた高温の透明な怒りに髪が逆立つ。
それでも、その目にわずかに迷いが生じたのは、以前問い詰めたときのスカーレットの表情をふと思い出したからだ。
唇を引き結び、睨みつけたまま、黙ってアーノルドの非難を聞いていた。
そのときはふてぶていしい態度だと、さらなる怒りに歯がみしたが、今思い起こすと、あのとき、目にかすかに光るものがあった気がする。
だとすると、あれは睨みつけていたのではなく、子供が涙を必死に堪えるときと同じ表情ではなかったのか。
もし泣いていたとしたら、なぜだ……マッツオの言うとおり、覚えの無い無実の罪を着せられたからか。いや、仮にも一国の女王がそんなことで泣くだろうか……
そこまで考えたところでアーノルドはひとつの可能性に思い当り、愕然となった。
まさか同情していたのか、俺に……? ……それで泣きそうに……馬鹿な!!
アーノルドは迷いを振り切るように、マッツオに向きなおった。
素直にマッツオの言葉に耳を傾けるには、彼の心を焦がした哀しみと痛みは深すぎた。
だが、それでもアーノルドは戦士としての矜持は失っていなかった。
「……いいだろう。見事受け止められたら、あんたの言葉に耳を貸そう。だが、煽ったつもりなら後悔することになる。本気の俺の六連射は半端ねえぞ」
煙はさらに濃密になり、二人に互いの姿は認識できなくなった。
「……御託はもうよい。ここよりは言葉は不要。戦士ならば、武にて語るがいい」
マッツオは石床を、どんっと踏みつけた。
それが戦闘開始の合図となった。
脳天に走り抜ける激痛で自らに活を入れ、マッツオは心のなかで咆哮した。
〝……メアリー、頼む!! ……どうか不甲斐ない俺に、最後の力を与えてくれ!! ……今度こそ……愛する者を守れるように!! さもなくば、俺はあの世で……おまえに詫びる言葉さえなくしてしまう!!〟
「……うおおおおッ!!」
アーノルドが雄叫びをあげて矢を放つ。
二人の思いが交差し、閃光となって矢が走る。
ほぼ同時に空気を切り裂いて飛来する六本の矢は、大型の猛禽の群れが襲いかかってくるような凄まじさだった。本気のアーノルドの六連射は、石を粉砕し、鉄をも貫通する。遮蔽物を破壊して突き進んでくる。そして、一度目をつけたが最後、恐るべき正確さで相手を屠る。六連射すべてを生きて受け止めた者はいない。
背筋を這う嫌な感触で、マッツオは死神の鎌にとらわれたと悟った。
絶対の死地に陥ったときだけ感じてきた感覚だ。
過去二回に経験したときは、逃げるか間一髪での友軍の助けがあった。
だが、もとよりマッツオに逃げる気など毛頭なかった。
〝……もう足はまともに動かぬ。腕も上がらん。だが、俺には父母の遺してくれたこの身体がある!! さあ、奮い立て!! 敗残兵よ!! ここが男の最後の踏ん張りどころぞ!!〟
マッツオの選んだ道は、文字通り、身体をもって矢を受け止めることだった。
マッツオは自らを鼓舞し、仁王立ちした。
煙を突き破った矢がマッツオを容赦なく貫通した。
骨がばらばらになるかと思うほどの衝撃が身体を走る。
転倒しないのがやっとだった。
並みの矢と違い、アーノルドの矢は触れただけで吹きとばされる威力がある。
まともに威力を受けたマッツオの口から血泡が噴き出した。
脳震盪まで起こし、一撃で気が遠くなる。
走馬灯となって今までの人生が脳裡に閃く。
世界中を憎んでいた幼年時代。
そこから命がけで救い出してくれた温かい手があった。
養育係だった若き女性は、マッツオをかばって死にかける重傷を負ったのに、マッツオを一切責めなかった。ただ笑顔を浮かべ、頭を撫でてくれた。無私の愛があるのだと知って、その女性にしがみついて号泣し、前非を悔悟した。残りの命を、少しでも世のために役立たせようと決意した。
父や母への誤解からくる怨みを捨て、素直に感謝できるようになった。
鍛練の日々が、王家親衛隊の皆の笑い声が、厳しかった三老戦士の懐かしい怒鳴り声が、耳元を吹き過ぎていく。紅の公爵とエセルリードが笑う。
みんな、すでにいなくなった。
それでも思い出は色褪せない。
自分の心に中に彼らは今も生きている。
「……最後の生き残りとして、不様は見せれんよな……」
持ちこたえたマッツオは嗤った。
二撃め、三撃めの矢が、骨ごとその身体を貫いた。
意識が一瞬とんだ。痛みまでが消え失せた。
暗闇にそのまま意識が散りかけるなか、一筋の光明が差す。
在りし日のメアリーの笑顔が、マッツオの心を繋ぎとめた。
マッツオの身繕いを手伝うのが好きだった。
見送るときは、無事であるようにと、そっと背中にキスをしてくれた。
本人はばれていないつもりの可愛いまじないが、どれほど心を励ましてくれたことか。
どんなにいじらしく大切に想っていたことか。
背中に幸せな感触がよみがえる。
いま、自分の背の向こうには、彼女から託された守るべきものがある。
断じて倒れるわけにはいかない……!!
マッツオは奮い立ち、咆哮した。
激痛が全身に戻り、笑みを浮かべる。
感覚がある限り、身体に意志を通すことができる。
四撃め、五撃めの矢が、内臓と肉を致命的に破損させた。
身体が意思に反し、崩れ落ちそうになる。
平衡感覚を失い、天地がわからなくなる。
幼いスカーレットのはしゃぎ声が、遠くで聞こえる。
「……マッツオ、もっと、はやくはやく!!」
小さい頃のスカーレットは、マッツオの肩の上に乗せてもらうのが好きだった。
怖いもの知らずのお転婆で、マッツオが早足になるよう急かし大喜びだった。
突然頭上の梢から顔を出した蛇に、女の子らしい悲鳴をあげる。
「……姫様、お転婆がすぎますぞ。このように、屋敷の森とはいえ、危険はあるのです……」
片手で蛇をはらいのけ苦笑するマッツオに、スカーレットはふくれっ面で応えた。
「……子供あつかいしないで。わかってるもん。でも、いまはマッツオがまもってくれてるでしょ。だから安心なの。マッツオは、せかいいち強いんだから」
打算のない無邪気な信頼の笑顔に心が熱くなる。
スカーレットは本気でマッツオが世界最強と信じているのだ。
「……あっ、でも、おとうさまも、せかいいち。どうしよう……」
大好きな父親を思い出し、かわいらしく悩むスカーレットにマッツオは破顔した。
「……これは身に余る光栄。では、そのとき姫様を守っているほうが、世界一ということでよろしいですかな。ご期待を裏切らぬよう、某、必ずスカーレット姫をお守りいたそう」
わざと大時代な口調で誓うマッツオに、幼いスカーレットはえへへと照れ笑いした。
「……うんっ!! おねがいね!! おとうさまも、マッツオも、せかいいち!!」
声をはずませ、嬉しそうに頬をすり寄せた。
……その思い出がマッツオに最後の力を与えた。
〝……あの幼き日の約束を違えはせぬ……誓いを果たすは今ぞ……!!〟
倒れかけたマッツオは踏みとどまった。剛毅な笑みを絞り出す。
〝紅の公爵殿……すまぬが、
マッツオの目に意志の炎が燃えた。
心の想いが肉体の限界を上回った。
六本目の矢が、マッツオの身体を貫く。
マッツオは微動だにせず、それを受け止めた。
……一気に六連射を放ったアーノルドは大きく息を吐いた。
本気の六連射はアーノルドにも過度の負担を強いる。
全身が汗でぐっしょりになり、疲労が身体を蝕む。
それでも油断なく次の矢をつがえたのは、マッツオの鉄球の恐ろしさが身にしみているからだ。
単純な破壊力だけなら、ブラッドをも凌駕する。
全身鎧の騎士を馬ごと一撃で戦闘不能にしてしまう。
アーノルドの矢をもってしても、付属の鎖さえ破壊出来ないのだ。
手応えはあった。
だが、マッツオは鎖をもって矢をはじく力量がある。
一撃や二撃は当たったかもしれないが、頑健なマッツオは止まるまい。
加速のついた鉄球は信じられない射程距離と猛威があり、一発で形勢を逆転させてしまう。
アーノルドは緊張に生唾をのみこみ、マッツオの出方を窺った。
再びつむじ風が巻き、煙が吹き散らされた。
視界が晴れ、マッツオの姿が露わになった。
アーノルドの目が大きく見開かれた。
マッツオは不敵な笑みを浮かべ、立っていた。
だが、その身体は槍衾のようだった。
六本の矢すべてが無惨に貫いていた。
「……なにやってんだ……!! あんた、なにやってんだよ……!!」
アーノルドの叫びは悲鳴に近かった。
「……見事な技よ……勝負は……おまえの勝ちだ……だが、矢はすべて受け止めたぞ……約束は……守ってもらう……」
称賛するマッツオの口から鮮血があふれ出した。
「……なんでだ……あんたなら、俺の矢をはじけたはず……!!」
絶句したアーノルドは、そのとき、はじめてマッツオの足元の血だまりに気がついた。
「……なんだよ、その出血……俺の矢の傷の血じゃねえ……!! ……あんた、最初から大怪我してたのか……!! ……なんで言ってくれなかった……こんなの……こんなの勝負じゃねえよ……!!」
全身を震わせ涙を浮かべるアーノルドに、マッツオは息子に向けるような笑顔を見せた。
「……泣くな……誇れ……おまえの技の素晴らしさに変わりはない……騙した俺が悪かったのだ・……そうだ……騙しついでにな……」
マッツオは両手に握った鎖をじゃらんっと鳴らした。
ぐっと強く引き寄せる。その鎖の先は二本の柱に繋がっていた。
「じつは鉄球も失っておってな……この鎖は、こうして使うためのものよ……刮目して見よ……!王家親衛隊隊長が代々、鎖つき鉄球を得物としてきた……そのわけを……!!」
マッツオは鬼の形相になり、身体中の力を絞り出した。
鋼の筋肉がめきめきと膨れ上がる。
傷という傷から血が噴き出し、その身を紅に染める。
鎖がびんっと張り詰め、みしみしと不気味な音が響き、繋がれた柱が根元から折れ砕け、倒壊した。
力を使い果たしたマッツオは満足げにほほえみ、ずるずると背中から崩れ落ちた。
両手から離れた鎖が、物悲しげに、じゃらんと床で鳴った。
天井と床が鳴動し、部屋全体の壁に亀裂が走り抜けていく。
「……これで、俺の成すべき仕事は終わった。……支柱の二本を砕けば、この部屋は崩れ落ちる……こうやって追っ手を食い止めるのが……かつての親衛隊長の役目……スカーレット様は……知らなかったがな……どうか、あの方を……」
次々に連鎖反応を起こし、他の柱も倒れだす。
アーノルドは瞼を閉じ、大きく息を吐き出した。
わだかまりはある。
だが、マッツオほどの男が命を賭した願いを、彼は無下にできなかった。
「……わかった!! あんたの勝ちだ!! 女王をもし見つけても、俺だけじゃねえ、誰にも手出しはさせねえ!! 先入観なしで話をもう一度聞いてみる!! 戦士の誇りにかけて約束する!!」
アーノルドの叫びに、マッツオは顔をあげ、にやりとしたが、その目は半ばうつろだった。
「……かたじけない。ならば……早く立ち去れ……ここは、もう……崩れ落ちる……俺は……最後にすべきこと……が……」
マッツオは呟くと、苦労しながら、懐から刺繍のほどこされたヴェールを取りだした。
震える手はもはやまともに動かない。
それでも今度こそ大切な者を守れた。マッツオはおのれの腕を誇りに思った。
だが血に染まったヴェールに気づき、力なく握りしめて苦笑する。
「……いかんなあ。……あの世でなら……おまえも受け取ってくれると……思ったが……こんなに汚してしまっては……俺はやはり……無粋な男よ……あれから齢ばかり重ねてしまった……メアリーは俺とわかってくれるだろうかな……」
轟音とともに天井の一角が崩れ落ちた。
どこかで燃えていた炎が空気を得たのか、爆風が巻き起こり、マッツオの手からヴェールをもぎとり、宙に舞いあげた。マッツオごと潰そうとするのように柱が倒れかかってくる。
その柱に稲妻のように三本の矢が突き刺さった。
堅牢な大理石の柱にヒビが走り抜け、木端微塵に砕け散った。
矢の威力はそれだけではおさまらず、柱の破片を一つ残らずマッツオの頭上から消し飛ばした。
「……誰だろうと、なんだろうと、俺の尊敬する戦士の邪魔はさせねえ……」
アーノルドは金色の切れ長の瞳で前方を睨みながら、落下物を排除すべく、新たな矢をつがえた。
だが、マッツオには砕け散る柱は見えていなかった。
彼の目には、ただ静かに舞い降りてくるヴェールが映っていた。
ヴェールをかぶった花嫁衣装のメアリーの幻をマッツオは見た。
「……すまんな……わざわざ迎えにきてくれたのか……なんだ……泣いているのか……いつものように……笑ってはくれんのか……」
なによりも愛おしかった女性の目に涙が浮かんでいた。
「……あなたにもう一度、出会えたから……再会の喜びが、笑顔だけでは表せないから、涙になってあふれてくるの。……だから、どれだけ泣いてもいいんです。ほんとうに無茶ばかりして……誰よりも強くて優しくて、少しだけ不器用で……あなたはちっとも変わらないのね……おつかれさまでした。……おかえりなさい」
切望した懐かしい声を聞き、マッツオの目から涙があふれだした。
「……そうか……再開の喜びの涙か……ならば、俺も、みっともなく泣いても……かまわんのかな……」
メアリーが優しくうなずく。
マッツオは震える手を差しのばした。
「……みっともない、ついでに……今度こそ……俺と結婚して……」
マッツオに皆まで言わせず、目にいっぱいの涙をためた笑顔のメアリーが、両手を広げて胸にとびこんできた。それが答えだった。マッツオは幸せに胸がはちきれそうになり、力いっぱいメアリーの華奢な背中を抱きしめた。自分の身体を貫いた矢が見当たらなくなっている事にも気づかなかった。
「……愛してます。マッツオ様……言葉だけでは、私の嬉しさは伝えられません……だから、力いっぱい、その大きな手で抱きしめて……!!……これからは、ずっと……ずっと一緒です。私だけじゃないんですよ。ほら……!!」
頬を染めたメアリーの指し示したほうを見て、マッツオは大目玉を見開いた。
驚きのあまり、メアリーを抱きかかえたまま立ち上がってしまう。
「……隊長!! ご結婚おめでとうございます!!」
「まったく、そんなバカでかい図体して、奥手なんだから……ま、それが隊長らしいとこでもあり」
「……待ちかねましたって! 早くお祝いの乾杯をさせてくださいよ!!」
亡くなった王家親衛隊の隊員達が、親愛の笑顔いっぱいで待ち受けていた。
忘れることのできなかった懐かしい顔ぶれが喜びの声をあげてマッツオを取り囲む。
祝福の紙吹雪が舞う。
「おまえたち……!!」
言葉に詰まったマッツオの喉が嗚咽で鳴った。
城を守って散っていった老兵達が笑顔で拍手している。
そして……三人の髭だらけの老戦士が苦虫を噛み潰した顔で睨みつけてきた。
「……ふん、まあ、戦士として認めてやらんでもないわい。ほれ、成長と結婚を祝ってやるから早くこっちに来んかい」
「まったく、大僧のくせに格好つけおって……気に食わんから、呑み潰してくれるわ」
「こんないい娘さんをずっと待たすとは……わしらが杯で成敗してやらねばのう。一晩ぐらいで解放されると思うでないぞ」
白髪白髭と黒髪黒髭、それに茶髪茶髭の歴戦の戦士たちは不機嫌そうに呟くが、そのまなざしはあたたかかった。峻厳で懐かしい三教官にマッツオの目から涙が零れ落ちる。
彼らだけではない。
次々に時の彼方で失った大切な人達が現れ、祝福の輪に加わっていく。
「愛すべき大馬鹿者に乾杯じゃ!!」
三老戦士が音頭をとり、杯をぶつけ合う音が鳴り響く。
歓声と笑顔と拍手があふれだす。
今は思い出の中だけにしかいなかったはずの彼らに取り囲まれ、マッツオは立ちすくんだまま男泣きした。
その涙を腕の中のメアリーが指で拭ってくれる。
ほほえむメアリーを抱きしめ、マッツオは泣きながら、しあわせな笑みを浮かべた。
たかぶる気持と涙で喉が詰まる。
花びらが周囲に舞う。
「……泣き虫の……みっともない新郎で……すまんなあ……折角の再会なのに……愛しいおまえの顔が……涙でよく見えんよ……メア……リー……」
……その呟きは途切れ途切れで、微かにしか聞こえなかった。
マッツオのまわりに、花びらではなく、灰と粉塵が舞う。
……血だまりの中に座り込んだマッツオの首が、がくりと項垂れた。
爆風がマッツオの髪を揺らす。
全身を矢に貫かれ、彼は静かにひとり事切れた。
その死に顔は涙を流していたが限りなく穏やかだった。
……アーノルドに、マッツオが目にしていた一連の幻は見えなかった。
ただヴェールがふわりと舞い降り、寄り添うようにマッツオの肩にかかったのを見ただけだった。
それでも死に際の呟きから、マッツオの望んだものは窺い知ることができた。
「……あばよ、バレンタイン卿。あんたが惚れたほどのいい女だ。心配しなくても、あんたの良さは見抜いてるさ。プロポーズ……断りゃしねえよ。いつまでも、あの世でふたり仲良くな……」
マッツオが息絶えたのを見届け、瞑目し祈りをささげ、アーノルドは背を向けて歩き出した。
天井と壁がたわみ、柱が歪む。
雪崩のように破片と噴煙がマッツオを呑み込んでいく。
アーノルドは振り向かなかった。
雄々しい勇姿だけを目に焼きつけておくのが、戦士への礼儀だと思った。
喪失感で胸が痛い。
自分はマッツオを好敵手としてでなく、父親の背と重ねて見ていたのだと、アーノルドは今さらながら気づいた。
焼け落ちていく城の上空を、巨大なフクロウが舞う。
昼間でも夜と変わらず飛翔するこのフクロウはアーノルドの相棒だ。
その視界をアーノルドは共有できる。
上空からの俯瞰をアーノルドは地上にいながら見通す。立体的に戦場を把握できるのだ。
お互いをかばい合うようにし、笑みを浮かべて息絶えている老兵達の姿がとびこんでくる。
数少ない女王軍は誰一人逃げ出そうとはしなかった。
盗んだ衣類をふりまわして略奪行為に熱中する自軍の味方達が見えた。
対極の光景にアーノルドは歯軋りした。
反乱軍の大半は烏合の衆だ。
なかには盗賊まがいのならず者達もいる。
セラフィのオランジュ商会が一手に補給と連絡網を担っていなければ、とっくに同士討ちを起こして内部崩壊していたろう。わかっていたつもりだったが、マッツオの死に花を見た今、潔癖なアーノルドに、彼らの浅ましさは許しがたいものがあった。
欲望に目をぎらつかせた連中に、髪の毛を掴まれ引きずりまわされている娘二人を見たとき、アーノルドの苛立ちは怒りに変わった。
見覚えがある二人だった。
女王の側にいつも仕えていた侍女たちだ。
フクロウの目を借りるアーノルドは、攻城戦の前に夜闇にまぎれ脱出する一団に気づいていた。
女達ばかりだったので、反乱軍に報告せずに見逃したのだ。
あの侍女たちもその中にいたはずだ。
女王が心配で引き返して来たのだと気づき、アーノルドの髪が逆立った。
侍女を逃がすため城に残った女王。
その女王を心配し、戻ってきた侍女。
女王を守ろうと絶望的な戦いに笑って散った老兵達。
女王のため命を投げ出したマッツオ。
それに比べ、自分達は……!!
「……恥を知れ!! 下衆どもが!!」
アーノルドはバルコニーの一角に飛び出し、弓をひき絞った。
卑劣なやつばらだけにではない、自分も含む怒りにつき動かされていた。
褐色の肌の下から鍛え上げた鋼の筋肉が浮き上がる。
「……マッツオのおっさんよ。俺じゃ……役不足だけどよ、戦場の女子供の守護者の名、このアーノルドが勝手に引き継がせてもらうぜ……!」
そのまま宙に向け、一気呵成に五本の矢を連射した。
五本の矢は空気を引き裂いて駆けあがり、放物線を描いて塔の向こうに消えた。
アーノルドの得意技、鳥瞰射撃だ。
アーノルドの位置からは通常侍女たちのいる場所は見えない。
だが、フクロウの上空からの目を共有するアーノルドは、山なりに矢を放つ弓技をもって、遮蔽物の向こうの相手を射抜くことができる。
第一矢は侍女を押し倒そうとした奴の手の甲を貫通した。
絶叫しのけぞった暴漢の鼻先をかすめ、ほぼ垂直に飛来した四本の矢が等間隔に地面に突き立ち、彼らと侍女たちの間を遮った。その横一直線に壁をつくる並びは、手を出すなという明確な警告だった。
フクロウが音もなく舞い降り、矢柄を止まり木がわりにし、あたりを睥睨した。
アーノルドのフクロウだと気づいたならず者達は腰を抜かした。
もともとアーノルドは戦場での女性への暴行を毛嫌いすると有名だった。
どんなに離れた場所からでも裁きの矢を降らせ、その矢からは決して逃げられないとおそれられている。彼らはそれが伝説の類いではなく、真実だと思い知らされた。
こちらからは射手さえ見えないのに、確実に射殺されるという恐怖に、火がついたような恐慌に陥った。かすれた悲鳴をあげ走り出そうとし、脚をもつれさせて地面に激突する。擦過傷だらけなことにも気づかず、口を洞穴のようにひろげて喚きながら、必死にはねおきる。
侍女たちを置き去りにし、彼らが転がるように逃げ出すのを見届け、フクロウは再び大空に舞い上がった。
城の上空を旋回させ、他に巻き込まれた女性がいないか探索しながら、アーノルドはため息をついた。このところ親友のセラフィが憂鬱だったのを思い出す。
この攻城戦の前など、
「……アーノルド、この戦は考え直すべきかもしれない。僕達はとりかえしのつかない過ちをおかしている可能性がある……」
と泣きそうな顔で相談してきた。
そのときは、なにを馬鹿なことを、と一笑に付したが、今となってはまったく笑えない。
「あいつの話を、もっと真剣に聞いてやるべきだったかもしれねえ……」
後悔の呻きを漏らしたアーノルドの足が止まった。
水平の飛翔にうつったフクロウの眼が、くるくると舞う黒い花を眼下に捉えたからだ。
瓦礫と血に埋め尽くされた戦場を、黒い花は踊るような足どりで進む。
美しいのにひどく禍々しく、闇空の化身に見えた。
それは花ではなく、黒いドレスをまとった女だった。
アーノルドの背筋が寒くなった。
歩みを止めると女は嗤った。
金髪が戦火に不気味に輝く。
蒼いまなざしは氷壁を思わせた。
口元が三日月のように吊りあがる。
反乱軍の旗印、アリサ・ディアマンディが、フクロウを見上げ、嘲笑を浮かべていた。
いつもの無害で無力な、御神輿の「救国の乙女」のほほえみではない。
はるか上空のフクロウの視界をがくりと揺らすほどの、突き刺すような冷酷な気配だった。
アーノルドは思わず拳を握りしめた。
掌が汗でぐっしょりになっていた。
その冷たい笑みに見覚えがあった。
姿かたちはまったく違うのに、処刑場で女王に投げかけられた冷たい視線が、ぞっとする鮮明さでよみがえった。
アーノルドには聞こえなかったが、アリサは愉しげに笑いながら呟いた。
「……やっと気がついたのね。間抜けな狩人さん。あなたの肉が焼ける匂いはどんなものかしら? さあ、いとしい愚か者たち。悲劇のフィナーレの時間よ。魂の悲鳴をたっぷり聴かせてちょうだい。みんな、みんな、かわいそうねえ……」
アリサは両手を差しのばし、うっとりとした邪悪な表情を浮かべた。
黒煙が舞台の幕のように、ざあっと左右に流れ、アリサに道を開ける。
人の心を踏みにじる、悪夢のラストシーンが始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます