第46話 これは108回の落城の記憶のひとつ。炎に包まれる城のなか、私は思いがけない、しあわせの呪文を耳にするのです。

城は炎に包まれていた。


長い歴史が一瞬で燃えて消えていく。

人のつくりだした文化と建物は、人の手によって大抵終わりを迎える。

勝者に敗者は踏みにじられ、人権を奪われ、ものに堕す。

殺し合いは人の性だ。平和な日常やモラルという檻がなくなれば、平然と弱者を犯し、奪い、殺す人間があらわれる。神は人を自分の姿に似せてつくったいう。だが、人の魂はいったい何に似せたのだろう。悪魔だろうか。獣だろうか。それとも。

そう思い、マッツオは深いため息をついた。

こんな際に感傷的になるなど自分も齢をとったと感じる。

かつて戦場無双、女子供の守護者とうたわれ、ハイドランジアを守り抜いてきた戦士は、国民に落胆していた。


「・・・・・マッツオ、侍女たちは皆、無事に逃げられましたでしょうか」


彼の主君、若き女王スカーレットは煙に咳きこみながら、家臣たちの身を案じていた。

いや女王だったというべきか。

この城ももう間もなく落ちる。

彼女に側につき従う者は、もうマッツオ一人しか残っていない。


マッツオの胸が痛む。

右手にもった松明の炎が、ぱちぱちと爆ぜた。

二人は足早に無人の回廊を歩く。

城の隠し扉を何か所か抜けないと、この場所には辿りつけない。

だが城内に蔓延した煙の流れで、隠し通路が見つかるのは時間の問題だった。

もうすぐここにも反乱軍が雪崩れ込んでくるだろう。


それでも、女王でなくなっても、スカーレットの美しい赤い髪と紅い瞳は、なお気高さを失わない。

真の誇り高さは、地位や力に関係なく、心の内面から滲み出るものだからだ。

運はなかったが、たしかにスカーレットは女王にふさわしい資質の持ち主だった。

ほんとうに呪われたように不運だった。

まるで悪魔がスカーレットの評判を落とそうと常に裏で手を回しているように思えるほどだった。


「女王陛下の見事な御采配のおかげで、滞りなく」


悔しさをこらえ、うやうやしく低頭するマッツオに、スカーレットは苦笑した。


「・・・・よかった。けれど、私を陛下と呼ぶ必要はありません。王冠はさっき脱ぎ捨ててきました。だって逃げるのに邪魔ですから。ちびの私には少しばかり重すぎました。私には野の草の冠ぐらいがお似合いだった。もうただのスカーレットです。だから、マッツオも、もう・・・・・」


スカーレットの足が止まる。肩が震える。


「もう・・・・・逃げていいのよ・・・・・私なんか気にしないで・・・・もう・・・・・」


言葉を詰まらせ、拳を握りしめる。

マッツオは哀しい気持ちで主君の寂しげな背中を見た。

迷子になった小さな女の子に見えた。


優しく聡明な、名君と呼ばれるのに相応しい女王だった。

いつも自分のことは後回しにし、他人の幸せを優先した。

常に国民のことを考え、寝る間も惜しんで奮闘していた。

か細い肩に、滅ぼうとするハイドランジアの未来を背負い、強大な四大国相手に渡り合った。

彼女を見れば、神が人の魂も自分に似せてつくったとしても納得がいった。

だが、神は彼女の努力に報いてあげなかった。


「私・・・・・どこで間違えちゃったんだろ・・・・・・どうして、こんなことになっちゃったんだろう・・・・!・・・・・どうして・・・・・!」


嗚咽するスカーレットの肩に、マッツオは優しく大きな手を置いた。

そのぶ厚い温かさが、傷ついたスカーレットの心にしみる。


「御身にふれ、語りかけることをお許しください。たとえ他人がどう評価しようと、スカーレット様は、私が認めるただ一人の女王陛下です。・・・・・不遜ながら、お尋ねします。あなた様は、私を取るに足らぬ者とお思いですか」


マッツオの問いにスカーレットは涙を浮かべた顔をあげた。


「・・・・・いいえ! いいえ! マッツオは誰よりも立派な戦士よ!! さっきだって五人の勇士のルディと魔狼ラルフを見事に撃退してみせた!! 私をかばって、誰よりも勇敢に戦ってくれた!! 取るに足らぬ者などありえません!!」


懸命な否定にマッツオは相好を崩した。


そうだ。この人はいつも、自分への悪口は笑って見過ごすのに、他人への悪口に怒れる人だった。少女の頃からなにも変わっていない。


「ならば、御自分を卑下するのはおやめください。戦士の私が保証します。あなた様は聡明な君主でした。この国を愛し、国民を慈しんだ。このマッツオ、ずっとお側でそれを見てまいりました。胸を張ってください。あなた様には名君の徳がおありでした。ただ少しだけ運がなかっただけです。運がないときは、どんな英雄でもどうしようもないものです」


父親が幼い娘を諭すように、マッツオは語りかけ、頭をなでた。


「・・・・・もうっ、やめてよね。私、あなたに肩車されてた頃の小さな女の子じゃないんだから・・・・」


少女時代の口調に戻り、ふてくされてみせるスカーレットに、マッツオは大笑いした。


「なんのなんの・・・・心は女王陛下でも、まだまだあなた様の体重など、私にとっては子供とさして変わりませんぞ。ほれ、このように」


「・・・・・きゃっ!? ちょ、ちょっとマッツオ・・・・・!!」


マッツオはスカーレットの身体に左手をまわすと軽々と肩にかつぎあげ座らせる。

首をまたがせる肩車ではない。

そのまま左の肩にスカーレットを座らせる離れ業だ。

巨躯の肩は成人女性が腰掛けられる広さがあった。

そのままスカーレットの重さなどないかのように悠然と歩き出す。

慌ててしがみつくスカーレット。

まるで巨大な熊かなにかに乗っている気がした。


「・・・・・軽いですなあ。そんな軽い小さな御身体に、あなた様は誰よりも重い責任を背負って歩いてこられた。ずっとこうやって手をお貸ししたかった。お一人で歩かせて申し訳ございません。さぞ、お辛かったでしょう。・・・・・頑張りましたな」


深く優しい声に、マッツオにしがみついたスカーレットの手が震えた。


「・・・・・私、この国をなんとかしたかった・・・・みんなを救いたかった・・・・・でもっ、なにも出来なかった・・・・・無力だった・・・・国民のみんなは、私を怨んで・・・・・なのにっ・・・・・こんな私に・・・・頑張ったって、言ってくれるの・・・・・?」


嗚咽が混じり、声が途切れ途切れになる。

マッツオは大きく頷いた。


「・・・・・もちろんです。国民どもは、見る目がありませんなあ。それがしは最後までおともしますぞ。美しくけなげな女王陛下を最後まで守りぬくというのは、時代に取り残された騎士にとってはこたえられない役目でして。あの世で再会したとき、かつての王家親衛隊の部下どもが、さぞ羨ましがるでしょうな。あいつらは、そんなカビの生えた騎士物語が大好きでした。ははっ、古ぼけた親衛隊の最後の生き残りとして、騎士の意地とはなんたるかを凡百どもに見せつけてやりませんと。そう思うのは、某だけではありませんぞ。城に踏みとどまった老兵たちも同じ気持ちです」


悪戯っぽくウインクし、哄笑するマッツオに、スカーレットはついに声を殺して泣き出した。


「みんな・・・・・私なんかほっておいて逃げてよかったのに・・・・だって、私、もうなにもお礼なんか出来ない・・・・・なのに、みんな、私のために命をかけて・・・・・」


今まで堪えに堪えてきた涙が決壊し、スカーレットはマッツオの頭に抱きつくようにして幼子のように泣きじゃくった。


「・・・・・ご自分のためでなく、他人のために泣ける。そんなあなた様だから、彼らは喜んで命をかけるのですよ。その気持ちをくんでやってください」


手にした松明が静かに燃えていく。

スカーレットの数少ない味方の老兵たちの顔が、マッツオの脳裏に浮かぶ。

彼らの顔と名前をスカーレットはすべて記憶していた。

彼女を逃がすため、彼らは命がけの守備につき、今も反乱軍を食い止めてくれている。

覚悟を決めた老兵達は死にも怯まない。

笑みを浮かべ、雄叫びをあげ、次々に戦場に散っていっている。

死地に赴くとわかっているのに、少年のように目をきらきらさせて、笑いさざめきながら、老いた戦士達は配置場所に歩みさった。年齢の合計は、押し寄せる敵に負けないと豪語し、あるものは足を引きずり、あるものは戦友に肩を貸してもらいながら。

本当なら引退して子供や孫に囲まれて幸せな余生を送っていられたはずの彼らは、スカーレットの危機に今一度戦士として駆けつけてくれた。


〝・・・・・その覚悟、見事なり。先に待っていてくれ。旧き友たちよ。俺も、もうじき、そちらに行く。時代に取り残されたもの達同士、仲良く酒でも酌み交わそうな〟


マッツオは静かに心の中で語りかけた。

スカーレットは老兵たちを送り出すとき、一人ひとりを涙を浮かべて抱きしめた。

老兵達は誇らしげに笑っていた。顔が輝いていた。

その瞬間、彼らは舞台の主役だった。

褒美も賞賛もなくても、老いて死ぬのではなく、誇り高い男として死ねることを心から喜んでいた。


〝・・・・そうよな。男とは馬鹿な生き物よな。だが、その愚かさが、今の時代には小気味いい〟


傷の激痛に顔を歪め、マッツオは気合いでそれを打ち消し、スカーレットに笑顔を向けた。


「・・・・・気に病むことはありませんぞ。彼らは老人ではなく、戦士としての死を望んだのです。スカーレット様は、彼らを名もなき兵とは思っていない。一人ひとりを憶えていてくださる。本物の戦士にとってのはなむけは、それだけでよいのです・・・・・」


スカーレットは俯いて嗚咽し、数少ない味方を死に追いやる悲痛に肩を震わせていた。

気丈な彼女がどれだけ辛い気持にたえ、無理をしてきたかを思い、マッツオは唇を噛みしめた。


スカーレットが愛し守ろうとした国民は、今、彼女を殺そうと城に押し寄せてくる。

淫売、浪費家、悪逆非道、聞くにたえない罵詈雑言をまき散らしながら。

根も葉もない噂を真に受け、彼らは日頃の鬱憤を晴らすべく暴れる。

愚者の群衆が狂気にとりつかれると、抑えのきかない暴徒と化す。

それがまるで悪魔に導かれるように一方向にまとまり、城に向かって襲いかかってくる。


今のハイドランジアの国民に守る価値はない。

お人好しのマッツオでさえ、とうに恩知らずの国民を見限っていた。

スカーレットが女王の座を降りて逃亡すれば、国土は四大国に蹂躙され、地獄と化す。

今までは必死に彼女が支えていたから、なんとか国としての体裁を保てていたのだ。

滅びても因果応報だ。

愚かな国民が自ら招いたことだ。

もはやスカーレットに彼らを救う責任などない。


なのに彼女は最後まで逃げなかった。

誰にも理解してもらえず、いわれのない非難を受け、孤独に耐え、それでも女王としての責務を果たそうとした。その高潔さが逆にあわれだった。

スカーレットは泣き事ひとつ言わず、最後まで自分の職務をまっとうした。

今日の落城を覚悟したうえで。


いよいよとなると見事な采配で城から待女達を逃がした。

先手をうって逃走手段をすべて手配していたのだ。

自分のためにではない。

自分を見捨てず残ってくれる家臣たちのためにだ。

泣いてすがりつく侍女たちを、自分も後から合流するからと優しく説得した。

スカーレットは悲しい嘘をついた。

はなから自分は城に残るつもりだった。

侍女達の道中の安全のため、敵の目をできるだけ自分にひきつけるために。


マッツオは心の中で今は亡き友や、愛していた人達に語りかける。


〝・・・・・紅の公爵殿、ご覧ください。エセルリード、見ているか。スカーレット様は最後までご立派だったぞ。誇ろう。我らの目は正しかったのだ。不運だったが、この方は稀に見る名君だった。そして・・・・・ああ、おまえは、スカーレット様が赤子の頃からその資質を見抜いていた。そして一番大切な宝物を、俺に託してくれたのだな。ありがとう〟


誰よりも愛しながら、添い遂げられなかった恋人、メアリーの顔をマッツオは思い浮かべた。

今は亡きメアリーが優しくほほえんだ気がし、胸が切なくなる。


彼女に出会った日のことを今でも夢に見るときがある。

紅の公爵邸を所用で訪れ、スカーレットの乳母をしていたメアリーをはじめて見た時から、強く心を惹かれた。不思議と目が離せなかった。


いつも幸せそうに笑っているその明るさに興味をもち、生い立ちを調べ絶句した。

メアリーは、父も母も早くに亡くし、天涯孤独だった。

幼馴染の夫と結ばれ幸せになろうとした矢先に、夫は事故死した。

それでもけなげに一人で息子を育てていたのに、目の前でその子を魔犬に噛み殺されるという凄まじい人生だった。どんなに蹴り飛ばされても、息子を取り戻そうと諦めず、残骸になった息子を生き返らそうといつまでも離さなかったというくだりに、マッツオは手が震え唸った。

十代半ばにして、メアリーは人生の艱難辛苦を味わいつくしていた。

それだけ辛い目にあいながら、それを微塵ものぞかせず、他人を優しく気遣える強さに感嘆した。

尊敬はすぐに愛に変わった。


もっとも恋愛に関して奥手のマッツオは、メアリーが公爵邸に乳母として勤めているあいだに、声はほとんどかけていない。齢もずいぶん下ということもあり、遠慮がちな挨拶や他愛ない世間話で満足していた。目立った会話といえば、彼女がはじめて本名を明かしてくれたときぐらいだ。。


「・・・・・ええ、フタリーチナヤ・フストリェーチャ・・・・それが私の本名です」


あの日、木漏れ日のなか、振り返ったメアリーは微笑んで教えてくれた。

なにかの拍子にメアリーの出身地では女性は二つの名前をもつという会話になった。

その胸には安らかな寝息をたてる新生児のスカーレットが抱かれていた。

教えてもらった名前を絶対に忘れまいと、マッツオは心の中で何度も反芻した。

集中しすぎていて、続くメアリーの話がろくに耳に入っていなかった。


「・・・・・私の生まれたクロウカシス地方では、女性は通俗名の他に長い本名をもつんです。とても憶えづらいでしょう。でも、ちょっとロマンチックな言い伝えがあるんですよ。人さらいの悪魔が恋人に化けてかどわかそうとやってきたとき、自分の本名を正しく言ってくれるかどうかで、本物の恋人か贋物か見抜くんです。愛している女性の名前なら、きっとどんなに長い名前でも忘れないでいるはずだからって・・・・」


メアリーの言葉が終わらないうちに、下を向いてぼそぼそ呟いていたマッツオは、がばっと面をあげた。


「・・・・・うむっ!! フタリーチナヤ・フストリェーチャ!! しかと憶えた!! もう忘れん」


頷きながら会心の笑みを浮かべるマッツオに、メアリーはまっかになり、それからマッツオの無邪気な笑顔に苦笑し、小さくため息をついた。


「・・・・・む、どうかしたのか?」


「・・・・・マッツオ様は天然の女たらしですね。知らないうちに女難に巻き込まれるかもしれませんから、お気をつけたほうが宜しいかと思いますよ」


「なっ、なんと!? なぜだ!?」


好意をもっている女性に思いもかけぬ言葉をかけられ、マッツオは目を白黒させた。

そのときの会話の詳細を後にあらためて教えられ、顔から火が出る思いをし、のたうちまわりそうになった記憶も、今はただ懐かしい。


彼がメアリーに自分の気持ちを伝えたのは、諸事情により、メアリーが公爵邸を辞した後だ。

任務で寄った公爵邸で、彼女が乳母をやめたことを知ったマッツオは、血相変えて乗合馬車を馬で追った。マッツオ本人は隠していたつもりだったが、紅の公爵は、とっくにマッツオの不器用な恋心を見抜いていて、メアリーの行き先を丁寧に教えてくれた。


青空の緑の丘を駆けくだり、王家親衛隊のど派手な赤青二色の胴甲を身につけたまま、乗合馬車に馬を寄せ、大声でメアリーに愛の告白する巨漢の騎士に、乗客たちは大喝采をおくった。それはまるで舞台の一幕のようだった。


最初は戸惑っていたメアリーも、マッツオの気持ちが本物だとわかると、やがて愛を受け入れてくれた。公爵邸で勤めている間に、マッツオの優しい人柄はよく知っていた。正直惹かれてもいた。


「・・・・・こんなにも心も身体も大きな人が世の中にはいるんだって、はじめて出会ったとき、感動したんですよ。こんな人に愛してもらえる女の人は、きっと世界一幸せになるだろうって」


のちに恥ずかしそうにそう教えてくれた。


「・・・・・私の予感は間違ってはいませんでした」


そう耳を赤くしてつけ加えた。


マッツオとメアリーは互いを深く愛した。

だが、身分違いを気にし、どれだけマッツオが拝み倒そうとしても、メアリーは頑として結婚の申し出を断り続けた。。

平民の彼女と結婚すれば、貴賎結婚としてマッツオは貴族の位を失うからだ。

むろんマッツオはそんなことを気にする男ではない。

恋にのぼせあがり、現実を忘れるほど軽い人間でもない。

すべてを熟考し、腹をくくったうえでの真摯な気持ちをぶつけた。

それでも、戦場で負け知らずのマッツオでも、彼女の気持ちを翻すことだけは、ついに生涯叶わなかった。


「誰よりもあなたを好きだから、立派なあなたの足手まといにだけにはなりたくないのです」


その覚悟を凛として口にするメアリーに、


「・・・・・俺は、そんな大層な人間ではない。おまえが突然いなくなったと考えると、恐ろしくて足の震えが止まらぬ・・・・・残された俺は、一人ではとても生きていけない。そんなちっぽけな人間だ。だから、俺の目の届くところで一生おまえを守っていきたいのだ」


とマッツオは泣きごとを言った。


彼女は驚いたように目を見張り、吹き出した。

それから、はじかれるようにマッツオの胸に飛び込み、背中に手をまわし、顔をうずめた。


「・・・・そんなに思ってもらって嬉しい・・・・今、死んでもいいくらい私は幸せものです。ほんとに幸せ・・・・だから大丈夫です。こんな幸せに背をむけて、マッツオ様を置いて私がどこかに消えるなんてありえません。だけど・・・・そうですね、・・・もし、万が一・・・・私になにかあったとしても・・・・スカーレット様を見て、私を思い出してください。そしてスカーレット様を、お嬢様を、私と思って守ってあげてください」


「スカーレット・・・・・? 紅の公爵殿の娘御のか。しかし、何故・・・・・」


大目玉を見開き、きょとんとするマッツオを見つめ、メアリーは微笑んだ。


「お嬢様の乳母だったおかげで、私はマッツオ様に出会うことができました。ヨシュアも夫も、なにもかも失った私だけど、お嬢様とあなたのおかげで、また人を愛する喜びを知りました。・・・・・愛しています。マッツオ様。あなたとお嬢様の中に、ちっぽけな私の精一杯の愛を残していきます。いなくなっても、私はずっとお二人と一緒です。人は死にます。でも、愛した人達の中で、記憶としてともに生きることは出来ます。去ってしまった私の大事な人達も皆、私にそうやって愛を残してくれました。もと乳母風情が偉そうにと笑うでしょうけど、私が生きた証として、私の代わりにスカーレット様を見守ってあげてほしいんです・・・・・」


メアリーははにかみながら、マッツオの腕の中でそうお願いした。


「笑いなどするものか。そなたの優しさに尊敬を覚えるだけだ。わかった。このマッツオの誇りにかけて約束しよう。だから、あまり不安になることと嬉しいことを交互に言わんでくれ。悲しめばいいのか喜べばいいのか、迷うではないか・・・・・」


メアリーを抱きしめながら、マッツオは誓った。


「・・・・・ありがとうございます。大好きです。マッツオ様。今夜は泊っていってくださいませんか。料理、たまたま少し多くつくりすぎちゃって・・・・・」


マッツオの好物ばかりが用意されていた。たまたまのわけがない。

その心づくしに胸が熱くなった。

雪が訪れる寸前の寂しい季節だった。


ひかえめな彼女が、その夜は珍しく自分からマッツオを求めてきた。

別人のように積極的なメアリーに、マッツオはこらえきれず快楽の呻きをあげ、すぐに不安になった。二人には体格差がありすぎた。無理をしているのではないかと心配し、身を離そうとした。

メアリーは潤んだ瞳で、頬を上気した頬を擦り寄せ、ぎゅっとマッツオに抱きついた。


「……いいの……お願いだから、今夜だけは、私の好きなようにやらせて。ああ、私、あなたの何もかもが好きで、嬉しくって壊れそう……あなたに会えて、愛してもらえて……私、なんて幸せなんだろう……」


その熱情にマッツオの箍がはずれた。


巨躯で潰さないよう注意しながら、マッツオは夢中になってメアリーのしなやかな肢体を貪った。指と視線をからめ、二人は時を忘れて求め合った。小さな歓びの叫びをあげ、幾度もメアリーの脚が空を蹴った。いつもは懸命に抑えようとする喘ぎを、その夜のメアリーは隠そうとはしなかった。マッツオの名を呼び続け、何度も絶頂に達し、その倍の癒しをマッツオに与えてくれた。優しく、激しく、熱く、彼女は武骨なマッツオを潤いに包み込んだ。


感極まって、何千編目になるプロポーズをしようとするマッツオの唇をキスでふさぎ、語らせなかった。しがみついて離れようとしなかった。


……まるで自分の肌のぬくもりを永遠に忘れないでいてもらおうとするかのように。


彼女のはずむ息、首筋をくすぐる髪、白い肌、少女のように小柄な抱きごこち、少し荒れ気味の働きものの手、愛らしく見つめる瞳、そして素晴らしい笑顔。昨日のことのようにマッツオは鮮やかに思い出すことができる。あれから二十年たっても思い出の花は色褪せない。それだけの愛をメアリーはマッツオのなかに残してくれた。 


送り出してもらう朝、朝靄の中で見るメアリーの横顔の美しさにマッツオは身ぶるいした。共にすごした夜をへて、愛しさはさらに募っていた。


つき動かされるようにマッツオは花嫁に贈るヴェールを懐から取り出し、懲りずにまた求婚しようとした。


だが、マッツオの唇をメアリーは背伸びし、指でふさいだ。


「・・・・結婚という形がなくても、私は満足です。・・・・私はあなたに出会えて幸せでした。あなたを愛しています。きっとこの想いは、なによりも確かで、永遠のものだから」


その言葉とともに、いってらっしゃい。またお会いできる日を楽しみにしています、と口にし、あたたかな笑顔を向けてくれた。メアリーはいつもそうだった。別れるときはつらいけど、だからこそ相手の幸せを願い、必ず笑顔で送り出すのが、うちの村の習わしなんです、とメアリーは教えてくれたことがある。


そして、それがマッツオが見たメアリーの最後の笑顔となった。


・・・・・再び出会ったときは、メアリーは氷のように冷たくなっていた。


大雪の日だった。街は煉瓦まで凍りつくような寒さだった。

乗合馬車の乗り場近くで、彼女は突然倒れ、帰らぬ人になった。

乳母として世話をしたスカーレットに逢いに行く途上だった。

野次馬の騒ぎをいぶかしく思ってのぞきこんだ人間が、たまたまマッツオと彼女の知人で、訃報をマッツオに急ぎ届けてくれた。


駆けつけたマッツオは知人宅でメアリーと哀しい再会を果たした。

マッツオは崩れ落ちた。視界が、心が、吹雪のようにまっしろになった。

眠るように横たわるメアリーの死が信じられなかった。ついこの間、送り出してくれた笑顔を見たばかりなのに信じたくなかった。あたためようと懸命にこすっても、必死に呼びかけても、愛する人はもう応えてくれなかった。その体温の冷たさが残酷にメアリーの死を伝えてきた。戦地の経験のあるマッツオは人の死を見紛うことはない。


「・・・・・なぜだ・・・・・!!・・・・・俺を置いていかないと言ってくれたではないか・・・」


どんな敵も殴り倒せると自負していた剛腕を見つめ、マッツオは涙をこぼした。


「俺が、あのとき、おまえを力尽くでも連れていきさえすれば・・・・!!・・・・・なんのために、この腕が・・・・!」


マッツオは苦悶の呻きをもらした。

握りしめた手の皮が破れ、ぽたぽたと血が零れた。

心から愛したメアリーに助けが必要なとき、その両手はなんの役にも立たなかった。

本当に引き留めたかったものを掴むことは叶わなかった。


「・・・・・かわいそうに、こんなに冷たくなって・・・・・雪の中、たった一人で寒かったろう。寂しかったろう。なにが・・・・おまえを一生守りたいだ・・・・大口を叩きながら、俺は・・・・・俺は、肝心なときになにひとつ・・・・・!!・・・・なにひとつ、してやれなかったではないか・・・・!!」


マッツオは慟哭し、天を仰いだ。


マッツオの体温に温められ、メアリーの顔についていた凍りついた雪が氷解した。

彼女のまなじりに水は一瞬たまり、伝い落ちていく。

まるでマッツオへの別れの涙のようだった。

マッツオはふるえる指で水滴をぬぐった。

懸命に笑顔を浮かべ、語りかける。


「・・・・すまぬな。・・・・最後に泣かせてしまうなど男の恥よな。だが、おまえとの約束だけは命にかえても守ってみせる。スカーレット嬢のことはまかせておけ。・・・・だから、だからな・・・・もう泣かないでくれ。・・・俺はおまえの笑顔が好きだった・・・・今までありがとう・・・・・おまえがしてくれたように、俺も笑っておまえを見送ろう・・・・・」


メアリーの頬を撫でるマッツオの震える手が止まった。

もう二度と笑いかけてくれることのないメアリーの横に、無惨に潰された手作りの赤髪の人形が添い寝しているのが見えた。メアリーの倒れていた近くの路上で、馬車の車輪に踏みつけられていたのだという。メアリーがスカーレットの幸せを願って用意した人形だとマッツオは知っていた。嬉しそうに裁縫している姿が記憶によみがえる。思い出の笑顔は明るく鮮やかに、それだけに深く心に突き刺さった。


「・・・・うっ・・・・ぐっ・・・・・ああっ・・・・!」


どんな戦場でも泣きごと一つ言わなかったマッツオがついにこらえきれなくなり、咆哮し、男泣きに号泣した。


・・・・・スカーレットを自分の代わりに見守ってほしい。


その言葉がメアリーの遺言のようになってしまった。


マッツオは生涯その約束を忘れなかった。

かげに成りひなたに成り、敵の多かったスカーレットを守ってきた。

スカーレットが女王に即位しあとは、側近として支え続けた。


メアリーの遺言をスカーレットに話したことはない。

自分の乳母がメアリーと呼ばれていたことさえスカーレットは知らない。

それでいいのだと思う。わざわざ言葉で伝える必要はない。


幼い頃のスカーレットが頻繁に唱えていた〝幸せの呪文〟があった。

メアリーを失って意気消沈し憔悴しきっていたマッツオに、元気になるようにと唱えてくれたときの驚きは忘れない。今も幼きスカーレットとのやり取りをよく憶えている。


メアリーの死後、公爵邸を訪れたとき、マッツオは六歳のスカーレットに抱っこをせがまれた。

子供は鋭敏に自分の味方を嗅ぎわける。

優しき巨人マッツオはどこにいっても子供に群がられるのが常だった。

マッツオの巨腕に抱きあげられたスカーレットは、普段見ることのできない高所からの視界に大はしゃぎだった。その元気いっぱいの様子を見て不覚にも涙が零れそうになった。成長したスカーレットに再会するのを心待ちにしていたメアリーが見たら、どんなに喜んだだろうと思ってしまったのだ。


スカーレットがいぶかしげに見上げる。


「・・・・・どうしてマッツオ、泣いてるの。なにか哀しいことがあったの? 」


「い、いや、これは・・・・・」


涙を指摘されたマッツオは慌てた。あわてて拭おうとしたが、両手はスカーレットで塞がっている。


「あのね、マッツオ、首にぎゅってさせて」


マッツオが答えるより早く、幼いスカーレットは、マッツオの身体にとびつくと身軽によじ登った。

太い首ったまに、ぶら下がるように両手で抱きつき、耳元でささやく。


「・・・・・だいじょうぶだよ。泣かなくても。私の知ってるしあわせの呪文を、マッツオにも唱えてあげる。私、つらいことがあったときは、いつもこの呪文で元気をもらうんだ。フタリーチナヤ・フストリェーチャ・・・・・マッツオの悲しい気持ち、どこかに飛んでっちゃえ」


マッツオの大目玉が驚愕に見開かれた。

それは呪文ではなかった。忘れえぬ人の長い本名だった。


「・・・・・あのね、内緒だけどね。フタリーチナヤ・フストリェーチャって、ほんとは私が赤ちゃんのころの乳母の名前なの。とても私を大事にしてくれたの。もう憶えてないんだけど、別れるとき、私もその人も抱き合って大泣きしたんだって。だから、私、その人のこと、亡くなったお母様みたいに思っているの。名前を唱えると、勇気がわいてくるんだ」


恥ずかしそうにスカーレットが教えてくれた。

マッツオの目から涙があふれだした。


幼子が諳んじるには長すぎる言葉だ。

きっと折に触れてはその名前を唱えてきたのだろう。

はじかれたように、亡くなった恋人の思い出と言葉がよみがえる。

人は亡くなっても、愛した人達の記憶のなかに残る。共に生き続けることが出来る。

メアリーの言葉は真実だった。


「・・・・おまえの残してくれた愛は、たしかに姫のうちにあった・・・・・おまえの想いは、まだ生きている・・・・フタリーチナヤ・フストリェーチャ・・・・・俺が忘れぬ限り、俺達はずっと一緒だ・・・・ずっと・・・・・うむっ!! スカーレット姫、感謝いたす。このマッツオ、たしかにその呪文に勇気をもらいましたぞ」


きっと自分を心配し、メアリーがスカーレットの言葉を借りて励ましにきてくれたのだと、マッツオは思った。


今は泣くべきときではない。

自分にはまだ果たすべき役割がある。

だから、いつかあの世で、おまえに再会したときまで涙はとっておこう。

思う存分みっともなく泣いて、困らせてやるからな。

おまえは呆れるだろうか。それとも、おかえりなさいと笑ってくれるだろうか。


マッツオは心のなかで語りかけると、がばっと面をあげ、スカーレットに笑顔を向けた。


「・・・・フタリーチナヤ・フストリェーチャ。じつに素晴らしい呪文ですな」


「・・・・・でしょ?」


その言葉の意味はわからないながらも、マッツオが元気になったのが嬉しいらしく、幼き頃のスカーレットはにかっと笑った。

マッツオは幼いスカーレットを抱き上げたまま、空を仰ぎ、瞑目した。

血はまったく繋がっていないのに、メアリーの面影がスカーレットの無邪気な笑顔に重なった。

自分の愛したメアリーは今も確かにスカーレットとともにある。

マッツオはそう信じられた。


マッツオは口には出さなかったが、それ以来スカーレットを自分の娘のように思ってきた。

紅の公爵の死後は特にだ。その成長を見守るのが生き甲斐だった。


だが、それも今日で終わりだ。


不気味な鈍痛が再び背筋を走り抜け、マッツオは傷口が開いたことを知った。

背中に生温かい流血の感触が伝わっていく。


スカーレットには隠していたが、さきほど五人の勇士の一人ルディと魔狼ラルフを撃退したとき、深い手傷を負わされていた。壁も天井も地面と同じに駆ける彼らは、室内で戦うとブラッド以上の強敵となった。スカーレットをかばいながら戦うには分の悪すぎる相手だった。さらに同じく五人の勇士のソロモンまで参戦し、智謀でマッツオを苦しめた。かろうじて彼らを戦闘不能に追い込んだが、引き換えに、マッツオは寿命と愛用の鉄球まで失った。

気合で血を止めてきたが、たぶんもう長くはない。

戦士の直感でマッツオは自分の死期を悟っていた。


〝・・・・・今までよくもってくれたな、俺の身体よ。長い間苦労をかけた。礼を言う。そして父よ、母よ、俺に人並み外れた頑健な肉体を与えてくださったこと、心より感謝いたす。あと少しだけ・・・・・俺が最後の務めを果たすまで、どうか持ち堪えてくれ。スカーレット姫に俺の死に顔を見せるわけにはいかん。この方にこれ以上、哀しみを背負わすわけにはいかんのだ〟


心の裡でマッツオは呟いた。

目の前が暗くなりつつある。


柱廊式の縦に長い部屋の突き当たりに二人は辿りついていた。

変色した柱と壁の色が部屋の歴史を物語る。

床にはうっすらと埃が積もっている。

普段は閉ざされているこの部屋を掃除するものはいないからだ。

この部屋の存在を知っているものさえ僅かだ。

足跡が点々とついているのは、マッツオがたまに点検に降りていたからだ。


身体の震えを悟られないよう、マッツオは、そっとスカーレットを肩からおろした。

スカーレットは鋭い。早くしないと致命傷を悟られてしまう。


「・・・・・恐れ入りますが女王陛下。暫くこの松明をお持ちいただけますか。それがし、抜け道へ通じるこの扉を開けますゆえ。くれぐれも落とされぬよう。抜け道は無明の闇です。灯なくば、我ら立ち往生ですからな。某などこの図体ですから、あちこちに頭をぶつけ、どれだけコブだらけになることやら」


真剣な顔で頷き、松明を受け取ったスカーレットにマッツオは笑いかけ、石壁に偽装された扉をひいていく。マッツオの肩の筋肉が隆起する。ごとんっと床が揺れた。僅かなへこみだけが取っ手だ。石を表面に貼り付けている扉はとてつもなく重い。並みの力自慢では寸毫も動かせないだろう。力尽くでこじ開けるしかないこの抜け道への扉こそが、王族守護の最後の要であり、その扉を動かせるものだけが代々王家親衛隊隊長に選ばれてきた。


マッツオの額から汗がふきだした。

いつもは軽々と行えることが、信じられないぐらいにきつい。

生命力が血とともに急速に失われていく。

かろうじて扉は開いたが、マッツオはもはや立っているのがやっとで、不覚にも大きくよろめいてしまった。


「・・・・・マッツオ!? 大丈夫!?」


あわてて駆け寄ってマッツオを支えたスカーレットは、その足元を黒々と濡らすものに気づき、小さく悲鳴を漏らした。マッツオの背中からの流血は足を伝い、血だまりをつくっていた。


「・・・・・マッツオ!! あなた大怪我してるじゃない!!どうして教えてくれなかったの!?」


「・・・・・やれやれ、気づかれてしまいましたな。なに、たいした傷ではございません。少し休憩してから追いつきますゆえ、どうぞ、お先に・・・・・」


マッツオは苦笑し、スカーレットを抱きしめたい気持ちを抑え、万感の思いをこめて背に手をあてた。幼い頃から何度もその背に手をまわし、抱き上げてきた。ずっと自分の娘のように愛おしんできた。その小さなぬくもりと笑顔に、どれだけ救われてきただろう。


「ふざけないで!! 私一人で行けるわけないでしょう!? 女王として命じます!! 離しなさい!! 」


「・・・・おやおや、珍しく女王の名を出して命令されましたな。ですが、断じてその命令だけは聞けませぬ。・・・・フタリーチナヤ・フストリェーチャ・・・どうかスカーレット様に幸せがあるように。・・・・・某、これにておいとま申し上げます」


想いを断ち切る祈りとともに、抵抗するスカーレットを無理やり抜け道へと押しこんだ。

間髪入れず、背中で扉を押し、一気に閉める。

ずんっという重い音が響き、二人の間をぶ厚い扉がへだてる。

マッツオは大きく息を吐くと、扉に背をあずけたまま、ずるずると崩れ落ちた。


「・・・・マッツオ!! 開けて!! お願い!! あなた死ぬ気でしょ!! 開けてったら!! 開けてよ!! ・・・・私も一緒に死なせて・・・・・!!」


スカーレットが泣き叫び、扉を必死に叩いている。

その響きを背中で感じながら、マッツオは微笑み、語りかける。


「・・・・少しだけ他愛もない昔話につきあっていただけますかな。フタリーチナヤ・フストリェーチャ・・・・おぼえておいでか。はるか昔に、姫様がそれがしを慰めようと唱えてくれたしあわせの呪文。あなた様が慕っていた乳母の名前です。実は某、ずっと前からその名前を知っておりました。某が生涯唯一愛した女性でしたからな・・・・驚きましたぞ。姫様の口からその名を聞いたときは」


「・・・・フタリーチナヤ・フストリェーチャが・・・・マッツオの恋人・・・・・・」


言葉を失うスカーレットに、マッツオは穏やかに話を続ける。


「左様で。通俗名はメアリーと言いましてな。こんな某にも浮いた話のひとつくらいはあったのですぞ。彼女は明るくかわいらしく優しかった。某には勿体ないほど出来た女性でした。ずっとスカーレット様のことを、娘を心配する母のように案じておりました。姫様との再会を心待ちにしていた嬉しそうな顔を、今でもはっきり憶えています」


語るあいだにも、隔離された部屋の中にまで煙が漂ってきた。

城全体に火がまわったとみるべきだろう。

老兵達ももう生きてはいまい。

誰にも称賛されぬまま逍遥として使命に殉じたろう。

マッツオは瞑目した。

愛おしんだスカーレットと最後に会話して死んでいける自分は幸せだと思った。


「・・・・不遜ながら、某、スカーレット姫様のことを、娘のように思い、見守ってまいりました。某とメアリーのほんとうの子のように・・・・・」


「私だって、マッツオを、ずっと・・・・・ほんとうのお父さんのように・・・・・!! だから、お願い!! 扉を開いて・・・・!! お願いよ・・・・マッツオ・・・・お父さん・・・・・!!」


マッツオは目を見開き、そして破顔一笑した。


「ははっ・・・・・これは最高のはなむけの言葉をいただけました。ですが、ならばこそ、なおさらこの扉は開けませぬ。親は子のために命を投げ出すものです。おかげで某、あの世でメアリーにようやく顔向けが出来そうです。どうかお慈悲だと思い、この最高の気持ちのまま逝かせてくださらんか」


マッツオの決意が崩せないと悟り、スカーレットは壁の向こうで泣き崩れた。


「・・・・・どうかお泣きくださいますな。某、今、笑顔を浮かべておりますぞ。かつて某は愛する者を一人で死なせてしまった。だが、今度こそ愛する者のために全力を振るえる。なんと幸せなことか。たとえ死にかけでも、今の某は万の兵相手にも負ける気がしませんぞ・・・・・!!」


途切れ途切れになる意識を必死に繋ぎとめながら、マッツオは豪快に笑った。


「生きてください。みなの想いを無駄にしないよう。今だけは、最後の女王として前を向いて毅然とお歩きください。エセルリードを憶えておいでですな? この抜け道の先の川辺から、エセルリードゆかりの者が国外に手引き致します。あいつが死ぬ前にあなた様のために残した備えです。・・・・・そして・・・・そのあとは、どうか、あなたの望む幸せな道を・・・・」


マッツオの言葉が途切れ、その首ががくりと項垂れる。


「・・・・・マッツオ!?・・・・・マッツオ!! 返事して!! マッツオ!!」


スカーレットの泣き声にのろのろと瞼を開き、苦笑する。


「・・・・おお、うっかり眠るところでした。さ、お早く。・・・・某を安心させてください」


苦しそうなマッツオの絞り出す声に、スカーレットは涙にまみれた頬を、冷たい扉に押しつけた。

扉ごしにマッツオの背中のぬくもりを感じ取ろうとするかのように、目を閉じ、身を震わせた。


これ以上自分がここに立ち止まることは、マッツオの命懸けの好意を無にすることになる。

マッツオだけではない。

エセルリードも老兵達も、皆、自分のために散っていったのだ。

その想いを無下にしてただ泣くことは彼女には出来なかった。

スカーレットは哀しいまでに女王だった。


「・・・・・マッツオ、その忠義、女王として、決して忘れません。・・・・・お別れです」


血を吐く想いで別離の言葉を口にし、スカーレットは扉から頬を離した。


「・・・・・さよなら、お父さん・・・・・」


小さな呟きに、マッツオは扉の向こうで嬉しそうに笑った。


「・・・・・さようなら、女王陛下。さようなら、俺のいとしい娘よ」


スカーレットは扉に背を向け、嗚咽を必死にこらえて足早に歩き出した。


「・・・・・泣くもんか・・・・みんな、女王の私のために命を懸けてくれたんだ・・・・・泣いて済むほど、みんなの命は軽くないんだ・・・・!・・・・・私は女王なんだ・・・・!」


唇を噛みしめ、歯を食いしばり、スカーレットは一人、暗い抜け道を進む。

だが、言葉と裏腹に涙はとめどなく流れ、松明の炎に照らされ、哀しげに零れ落ち続けた。


スカーレットの足音が遠ざかるのを確認し、マッツオはよろよろと立ち上がり、スカーレットをより安全に逃がすための最後の仕掛けに取り掛かった。何度も膝をつき転倒しながら、信じがたい不屈の精神力で身を起こす。死んだほうが遥かにましな苦痛にも、マッツオは呻きひとつ洩らさなかった。スカーレットへの想いが死にかけた彼の身体を突き動かしていた。


ようやくすべての準備を終えたときは、視界も定かでないほど、周囲は煙に覆われていた。

自分の命のともしびが消える前に、なんとか事を成せることにマッツオが安堵し、大きく息を吸い込み、両手に握った鎖に力を込めたときだ。

おぼえのある鋭い殺気が、マッツオに突き刺さった。


「・・・・・ようやく見つけた!! 逢えて嬉しいぜ!! マッツオのおっさんよ!! 今度こそ、あんたとサシで決着をつけさせてもらう!!」


部屋にこもってきた熱のせいか空気の流れが発生し、ざあっと煙が流れた。

薄れた煙の向こうで、褐色の肌の野性的な若者が、切れ長の金の瞳をぎらつかせ、歯をむいて笑っていた。ウルフカットにした襟足がたてがみのようになびく。

鉄製の巨大な弓を構え、ぴたりとマッツオに狙いをつけていた。

鉄の弓は普通はひくことさえままならない。

それなのに若者の矢先は微動だにしない。信じがたい膂力だった。


マッツオは最悪の相手に遭遇したことを悟った。

もはや苦笑しか浮かばない。

瀕死の自分にこの男をぶつけてくるとは、運命の神はよほど意地が悪いらしい。


「・・・・ここに来る途中で、ルディと相棒の狼、それにソロモンがぶっ倒れてるのを見たぜ!! おっさんの仕業なんだろ! あいつらに勝てて、とどめも刺さずに見逃すなんて、あんた以外にゃ不可能だからな! さすがだぜ!! だからこそ、俺はあんたにどうしても勝ちたい!!」


褐色の青年は興奮して嬉しそうに叫んだ。


「このアーノルドとの果たしあい、受けてもらうぜ!! むろん正々堂々一対一でよ!!」

 

五人の勇士の一人、闇の狩人アーノルドが不敵な笑みを浮かべ、マッツオに戦いを挑んできた。

 

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