第36話 「血の贖い」を使う魔犬。化物の狡猾さと、男達の誇りが、戦場で激しく交錯するのです

王家親衛隊の休むことない波状攻撃を喰らい、魔犬ガルムは満身創痍に見えた。

おぼつかない足取りは、沈みゆく巨大船を思わせた。

そこにとどめの一撃を加えようとマッツオが拳を握り、駆け出そうとしていた。


最初に異音に気付いたのはお母様だった。


「・・・・・矢音?どこから?」


いぶかしげに眉をひそめる。

なんか吐き気と寒気がする、とぼやいていたブラッドもはっと顔をあげた。


「ずっと向こうから矢が飛んでくる!!なんだ、この飛距離・・・・・・!!」


どずんっと鈍い音がした。

戦場で何度も聞いた、矢が肉に命中する音だった。

槍と槍の攻撃の間隙に、鋭い風切り音をたて、一本の矢が割り込んだ。


魔犬ガルムの身体が、はねるように大きくびくんっと痙攣した。


「・・・・・・これは!?」


お母様が驚愕して息をのんだ。

王家親衛隊の射手組もだ。

魔犬ガルムの首筋に深々と矢が突き刺さっていた。


この場にはハイドランジアの弓の最精鋭がそろっている。

その彼らをもってしても魔犬ガルムの頑丈さには散々に苦しめられた。

至近距離の矢をはじく魔犬ガルムの体表を、姿も見せぬ遠方より放った矢で貫く。

それがどれだけ至難の技か、彼らはよく知っていた。


驚きはそれだけではなかった。


魔犬ガルムの生気を失い、ぐったりした毛皮のようになっていた毛が、ごうっと逆立った。

死体に邪悪な命の息吹が吹き込まれた。

身体の内側から、みるみるうちに硬質な筋肉の線が膨れ上がってくる。

性質の悪い悪夢の中にいるようだった。

再び邪悪な眼光が凝集し、にいっと嗤うのを見て、私は背筋が寒くなった。

そして、さらに・・・・・・奴の緑の目が真紅に輝いた。

恐ろしいほどの殺気の嵐が渦巻く。

いや、血煙りまでも体躯にまとって!?

これはブラッドと同じ・・・・・・!?


「そんな・・・・・どうして、あいつが「血の贖い」を・・・・・!?」


ブラッドが衝撃に呻く。


「いかん!!全員、警戒せよ!!一度退け!!」


総毛だってマッツオ隊長が顔色変えて絶叫したが、もう遅かった。

竜巻が王家親衛隊の頭上に荒れ狂ったようだった。

一瞬で槍がへし折られ、屈強な騎士達が馬ごとなぎ倒された。

騎馬が密着するほどの陣をとれる有能さが逆に仇になった。

互いが互いにぶつかり合い、王家親衛隊は一瞬で総崩れになった。


「バカな・・・・王家親衛隊が一瞬で・・・・・!!ぐぬッ!怯むなあッ!!不確定要素は戦場が習い!!これしきで崩れては、たった三人であの怪物に挑んだブライアン殿達に笑われようぞ!!」


それでも驚愕を瞬時にのみこみ、懸命に立て直そうと鼓舞する。

王家親衛隊も見事にそれに応じようとした。

人間相手なら、どんな強敵相手でも十分に反撃の体勢を整えられたろう。


だが魔犬ガルムの行動速度は、人間の比ではなかった。

奴は王家親衛隊の頭上を地面のように走り、とどめの後ろ足で蹴散らしながら跳躍した。


紅目になったこいつは正真正銘の化け物だった。

信じがたい身の軽さと飛距離は、魔狼ラルフを彷彿とさせた。

しかもラルフより遥かに巨大だ。

あまりに高く跳躍しすぎ、頭上の梢の中に巨躯が消えた。

枝がばきばきと粉砕され、葉が飛び散った。

心臓の凍りそうな沈黙を一拍おき、私達のすぐ側の樹上がはじけとび、魔犬ガルムが飛び出してきた。

赤い霧をまとわりつかせ、殺戮の悪魔が垂直に急降下してくる。


「ちっ・・・・・!!」


お母様が弓をかまえ、マッツオ隊長が鉄拳を握り締める。

そしてブラッドが・・・・

あれ?ブラッドはどこ?


「・・・・頭上とったぜ!!木のぼり含んだ身軽さなら、「血の贖い」なしでもオレのがはるかに上なんだよ!!」


宙高い魔犬ガルムのさらに頭上で、メイド服のスカートがたなびいた。

ブラッドが、スカートの下にごそごそと手を突っ込みながら舞い降りてくる。


あんた、いつの間にそんなとこに移動してたの!?

それにしても、スカートめくれて脚の付け根まで丸見えだよ。

はしたないなあ・・・・・・


「そんなにチビスケを口にしたいなら、前菜がわりにこいつを喰らいな!!スパイスをたっぷり利かせた特別製だぜ!!」


ブラッドの手から布袋がとび、空中で上に首をねじって噛みつこうとした魔犬ガルムの顔面で白煙が炸裂した。刺激物がふんだんに配合されている、生石灰主成分の極悪な目潰し兼鼻潰しだ。

鼻腔と目の粘膜を焼く劇物に、さきほどのたうちまくった魔犬二匹と同じように、魔犬ガルムも顔を振り立て苦悶する。


「性悪犬め!!見下すばかりじゃなく、ちっとは首元にも注意したほうがいいぜ!!」


ブラッドの目的は目潰しではなかった。

魔犬ガルムに生じたわずかな隙こそ、ブラッドが真に欲したものだった。


縄の輪が、ふわりと魔犬ガルムの首にかけられた。

いかに頑丈といえど、刺激物が目に飛び込めば生物としての反射で目をつぶらずにはいられない。

その一瞬の隙をつき、ブラッドは両手いっぱいに広げた輪の中に、魔犬ガルムの首を通すことに見事に成功した。まるで軽業師のように鮮やかな手並みだった。舞い落ちる木の葉が賞賛の紙吹雪に見えた。

私は、魔犬二匹の死体にかけられていた縄がいつの間にか解かれ、消えてうせていた事にようやく気がついた。


息をのむ早業。

「血のあがない」の強力なインパクトで忘れていたが、「108回」でのブラッドの本来の持ち味は、どんな死地からも生還する卓越したサバイバル能力だった。


「気づかなかったろ!!首輪の味をたっぷり堪能しな!!」


ブラッドは魔犬ガルムからは、縄の輪が見えないよう、一拍遅れて樹上から縄が落下するよう仕組んでいたのだ。念入りにスカートまで膨らませて目隠しにしてだ。軽業というより、奇術だった。


私達に襲いかかる寸前で、魔犬ガルムの巨躯が、空中でがくんっと急停止した。


「性悪犬が悪さできないよう、ちっとばっかり、リードの長さは短くしといたぜ!!」


縄の首輪から伸びたその先は、頭上の極太の枝にくくりつけられていた。

びいいんと音をたてて縄が突っ張り、魔犬ガルムは首つりで大樹にぶら下がる形になった。

魔犬ガルムの巨重で大きくしなったが、太い枝はなんとか持ちこたえた。

四肢が凄まじい勢いで宙を蹴るが無駄だった。

投げ縄結びされた縄が、魔犬ガルムの体重で、めりめりと首に食い込んでいく。

唖然として見守っていた王家親衛隊から歓声がわきおこった。


「・・・・・よっと!!うまくいったな」


ブラッドは身軽に着地すると、私達のそばに二回バックステップして戻ってきた。


「なんと、見事な。これは予想以上だ。思わず見惚れたぞ」


マッツオ隊長が手放しで賞賛するが、ブラッドは軽くほほえんで受け流した。


「格好つけてああは言ったけどね。今は「血の贖い」が使えないから、小細工に頼るしかないだけさ。正面からあの化物とやり合ったら瞬殺されちまうからな。小細工ついでに、勝手にあんたらの持ってきた酒甕借りたぜ。あれの中身、魔犬の弱点なんだろ」


くいっと親指でさし示した幹の根元に、子供ひと抱え分ほどの小さな甕があった。

ああ、さっきお母様が飲ませてもらってたお酒のことね。

ほんと、いつの間に・・・・・・


「あいつはこれぐらいじゃ、くたばらないよ。すぐ脱出してくる。だから、ちょっくら今のうちに一発かましてくらあっ!!」


ブラッドの目が真紅に輝き、血煙がぶおんと身体の周囲を覆った。


あ、あんた・・・・・・・・


「・・・・・心配そうな顔すんな。休んでる間にだいぶ回復できたよ」


そのほほえみは私を気遣ってのものだった。

わずかな休憩しかしていないのに失血分など回復しているはずがない。

それでも、守る者がいるなら、ブラッドは無理をおしてやってのける。

わかっていた。ブラッドがそういう奴だってことは。

だから、私も無理して微笑して応じた。

視界がぼやけた。

肝心なときになんの手助けもできない自分の非力が悔しい。


マッツオ隊長と親衛隊員達が息をのむ。


「その現象は、あの魔犬と同じ・・・・・・」


「うん、「血の贖い」ってんだ。自分の血と引き換えに、身体能力を底上げする技だよ。かき集めたオレの残りの力、全部振り絞ってるからね。一発こっきりの大勝負!!あとは頼んだぜ。騎士の大将!!」


マッツオが答えるよりも早く、ブラッドは地を蹴っていた。


首が絞まるのもかまわず、宙釣りになった魔犬ガルムが激しく身をねじりだした。

錐先を木材にねじこむように、回転が速度を増していく。

まるで竜巻を思わせた。

ぶら下がったままでは、ブラッドにいいようにサンドバックにされる。

だから回転して的を散らし、防御を兼ねているんだ!!

そしてもちろん真の狙いは・・・・・!!

魔犬ガルムを束縛した縄が右回転、左回転と目まぐるしくよじられ、回転と重量の負荷にたえきれず、ぎちぎち軋みながら、外側からぷちぷちとはじけていく。


「しまった・・・・!!こいつ、もう脱出を・・・・・!!」


縄の繊維があっという間に劣化し、まっぷたつに千切れ飛んだ。

蒼白になったブラッドの姿が、巨大な牙の閃きに挟み込まれた。

べきばきと骨が噛み砕かれる音が響いた。


ブラッド!!!いやあああっ!!!


私は悲鳴をあげた。

その場の全員の表情が凍りついた。


折れる寸前まで下に湾曲させられた枝が急な解放に大きくはねあがり、梢と梢がぶつかりあい、派手にざわめき、木の葉が四散し、そして・・・・


ぽんと私の頭に手がおかれた。


「・・・・わりい、チビスケ泣かしちまったか。よく見てみな。あいつが噛み砕いたのはオレじゃない」


無傷のブラッドがすまなさそうに私を覗きこみ謝った。

目の色は元の優しい黒色に戻っていた。


あ、あんた、まさかあれ・・・・・・・!!


魔犬に咥えられたブラッドを指差し、震える私の指先を見て、気まずそうに片頬をかく。


「・・・・・そっ、血桜胡蝶でつくったオレの幻。敵を騙すにはまず味方からってね。例の酒甕、幻の中に置いてきたんだ」


たしかに足元の酒甕はなくなっていた。

舞い落ちる木の葉のした、ブラッドが、にやっと笑った。


「・・・・よう、わんころ。その酒はオレのおごりだ。遠慮なく、浴びるほど飲むがいいさ」


なにが起きたかわからず度肝を抜かれている親衛隊の目の前で、魔犬ガルムに噛み砕かれたブラッドの分身が薄くなり、紅い蝶の群れのように四散し消えた。


ブラッドは目潰し、首くくりの先に、もう一段罠を仕掛けていたのだ。


「罠ってのは何重にも張るもんなのさ。今頃気づいたって遅いんだよ!!」


魔犬ガルムが噛み砕いたのは、ブラッドではなかった。

オランジュ商会が用意した、魔犬封じの酒甕だった。

あの音は骨じゃなく、堅い甕が押し潰された音だったんだ。

牙に打ち抜かれた酒甕は木端微塵に砕け散った。

中身の蒸留酒が巻き散らかされ、ガルムは至近距離で顔からまともにそれを浴びた。


あ、も、もったいない。

お母様も私と同じ気持ちだったらしく、小さな悲鳴を喉の奥でもらした。

そう、私が泣いているのは、このお酒がもったいないから。

断じてブラッドが心配だったからではない!!


「なんと。猿のように身軽で、魔術師のように不思議で、獅子のように勇猛なわらしよな」


「おほめにあずかり、光栄です」


マッツオ隊長の称賛に、ブラッドがスカートの両端をつまみ、軽く身を屈めて返礼した。


今さら女の子らしいふりしても、マッツオにはたぶん性別ばれてると思うよ・・・・・・・


オランジュ商会の秘策の酒の効果は劇的だった。

魔犬ガルムが火がついたように吼え狂い、周囲の立ち木に処かまわず身体をぶつけだした。

ぐるぐる回転しながら出鱈目に暴れまわる。

牙と爪が嵐のように閃き刃となって、かすめた場所の幹をえぐり取った。

だが、攻撃は闇雲であり、まったく私達とは無関係のところで荒れ狂っていた。


こいつ、私達がどこにいるか、わからなくなっている!!


「オランジュ商会の伝言によると、この酒は、魔犬の目と耳と鼻の認識を一時的に狂わすそうだ。まさかここまでの効果があるとは思わなかったが・・・・いや、感心している場合ではないな。おぬしのつくった時間、無駄にはせん!!」


ウォークライをあげ、マッツオ隊長が、地面を揺らして突進する。

巨体に似合わぬおそろしい加速だった。

岩が急斜面を転がるさまを思わせた。

 

「見事な技の返礼に、俺の全力の拳を見せてやろう!!最強の王家親衛隊を束ねるその意味を、しかとまなこに焼き付けよ!!!」


マッツオ隊長の引いた拳が握り締められ、ぎりぎりと軋む。


「くらえ!!怪物・・・・!!これが!!騎士の魂をこめた拳の威力ッッッ!!!」


踏み込んだ地面がぼこんっと足形に陥没した。

吼え声とともに、溜めに溜めた拳が解き放たれた。

蹴り足の後ろがえぐれ、落ち葉と土が、低空飛行の鳥が水面に残す軌跡のように、後ろにはねあげられ尾をつくる。


おそろしい勘で迎撃しようとした魔犬ガルムの鼻先に、カウンター気味に拳が吸い込まれる。

分厚い城壁に槌が激突したときと同じ鈍い重い音がした。

接触点の空気が爆発したかのように、魔犬ガルムの顎が跳ね上がった。


おおおっ、と王家親衛隊がどよめく。

あれだけの攻撃をものともしなかった魔犬ガルムの巨体が、王家親衛隊のトライデントを受けたときよりも遥かに大きく跳ね飛ばされた。

ぶつかった木を背中からなぎ倒しながら、地面に叩きつけられぶざまに這う。

折れた若木がその上にとどめとばかり落下した。


「おぼえたか、魔犬よ!!我が拳音は、天国の幼子と先輩の涙を晴らす鎮魂の鐘だ!!これが騎士の誇りよ!!この一撃を、犠牲になった無垢な魂と偉大なる先輩達にささげよう。残された遺族の悲痛を想像したことがあるか!!おだやかな日常の幸せを砕いた罪、許し難し!!その無念の叫びに応えるため、俺の拳は存在する!!俺はそう拳に誓ったのである!!」


マッツオ隊長は両拳をふりあげ、月に雄叫びをあげた。


あんたのパンチは騎馬の槍突撃より強いのかよ!!!

だいたい騎士道って、普通剣に誓って、でしょう!!

拳に誓いを立てるってなんなのよ


相も変わらない人外っぷりに、私は驚きを通り越し、あきれ果てた。


「立ち上がるまでは待ってやる。それが貴様にかけるせめてもの騎士の情けだ!!戦いはまだ始まったばかりだ!!きさまに殺された犠牲者たちの哀しみは、まだまだこんなものではないぞ!!」


マッツオは倒れている相手に追い討ちしない。

それを知っている私は、歯がゆくてばたばた暴れ回った。


とっとと情け容赦なく追撃かましなさいよ!!

そんな奴にまで騎士道適用しなくていい!!

あんたは最強クラスなのにお人好しすぎるの!!

だから・・・・だから「108回」では、最後まで私を守って死んじゃったのよ!!


「・・・・・先輩ってブライアン老たちのことかな」


「天国じゃなく地獄で鬼と酒盛りしていそうだよな」


「わしらの唾つけた獲物を横取りしおってって、かえって悔し涙流しそう・・・」


「あんなパンチ捧げられちゃ、鎮魂どころか逆に対抗意識で蘇ってきそうだよな」


王家親衛隊の皆は、こそこそ囁き合っている。

マッツオ隊長の強さに全幅の信頼を置いているので、なかば勝利を確信していた。


ちょっと、みんな気を抜いちゃダメだって!!

いくらマッツオの常人離れした拳でも、そいつが一撃でのされるなんてありえない!!


「おまえたち、俺本人を前に、ひそひそ話とはいい度胸だ・・・・おおっ!?」


身体の上の木をはねのけるようにして、魔犬ガルムがのそりと起きあがった。


ほら、言わんこっちゃない!!


ダメージなど微塵も感じさせない悠然とした動きに、全員に緊張が走る。


「ふむ、渾身の騎士魂をこめた拳を受けて、平然とおきあがってくるとは・・・・・そうでなくてはな!!では、第二幕開始といこうか・・・・・お?」


ぶおんと振り下ろされたマッツオ隊長の剛腕が、盛大に空振った。


「なんと!?」


「え・・・・」


「あ・・・・」


歴戦の親衛隊が、隊長を筆頭にまるで痴呆のように立ち尽くしていた。


魔犬ガルムは誰もがまったく予想しなかった行動をとった。

くるりと背を向けるなり、一目散に後方へ逃げ出したのだ。

それまで決して引くことのない不死身と獰猛さに散々苦しめられた王家親衛隊達は、完全に虚をつかれた。魔犬ガルムの逃走方向が、警護していた私達と反対方向だったこともあり、たやすく包囲の突破を許してしまった。


逃げる?あれだけ執念深く私をつけ狙った、あの怪物が!?ありえない!!


「逃がすな!!」「追え!!」


あわてて王家親衛隊が魔犬ガルムのあとを追う。


度重なる激戦で手傷を負ったか疲労が激しいのか、魔犬ガルムは尾を丸めよたよたと脚をひきずっていた。懸命に離脱をはかるも、蝸牛のように動きは鈍い。悠然と見えたのは緩慢な身のこなしだった。


「・・・・・不利になると逃げをうつとは卑怯千万!!最後まで怪物らしく戦わんか!!」 


激昂したマッツオ隊長をはじめ、全員が鬼の形相で一斉に襲いかかった。

騎士道を貫く彼らにとって、非道を尽くしたうえ逃走する、魔犬ガルムの卑劣さは到底許せるものではなかったのだ。義憤にかられ追撃する彼らは完全に陣を崩してしまっていた。魔犬ガルムの動きがあまりに鈍いので、騎乗せず徒歩のままだった。


魔犬ガルムの目はオランジュの魔犬封じの酒で塞がれている。

だが、にいっと嫌な嗤いかたをしたのが、口唇のめくれでわかった。。


「だめだ!!みんな、さがって!!誘われてる!!罠だ!!」


ブラッドが警告の叫びをあげたときには、もう遅かった。


王家親衛隊全員が、魔犬ガルムめがけ、雪崩をうって押し寄せてしまっていた。

それまでの負け犬の演技をやめ、再び本性を現した魔犬ガルムが、傲然と身を起こす。

凄まじい勢いで地面を踏みつけた。

地がたわんだ。

魔犬ガルムを中心に王家親衛隊の重量が集中していた地べた一帯が、ぼこんと一気に陥没した。

密集していた王家親衛隊たちは残らず崩落に巻き込まれた。


「おまえたち、危ない!!」


落下しながら、魔犬ガルムが、めくらめっぽうに牙を閃かせる。

部下を両手で突き飛ばしたマッツオが、魔犬ガルムともつれ合いながら、頭上からの土砂の直撃に呑みこまれた。直前で身をひるがえした魔犬ガルムは、土石の奔流をかわし、穴の底に無傷で降り立った。


「た、隊長!!」


「馬鹿な・・・・!!岩盤を踏み抜いただと!?」


想像を絶する反撃をくらった王家親衛隊達が、悲鳴と驚愕の呻きをもらす。

突然足元をすくわれる形で落下したたため、全員が暗渠の底にまともに叩きつけられ、土砂になかば埋もれ、身動きが取れなくなっていた。


穴の底のいたるところで炎がちろちろ揺らめいている。


「ロマリアの焔の残り火だ・・・!ここは、ガルムがさっき進んできた地下空洞だ!もろい箇所の真上に、わざとみんなを誘い込んだのか!!皆の重さも利用して、全部計算づくで、うち崩しやがった!地面に倒れたのも、目と鼻が使えないから、皮膚感覚で地下空洞の位置を確認するため・・・・・!ここまで追い詰めてたのに!!化物め!!」


ブラッドが歯軋りする。


いくら魔犬ガルムでも、地盤を掘り進むなどはさすがに出来ない。

あいつはさっき土中の天然のほら穴を通って移動してきた。

そのときの空洞の位置を覚えていて、罠として使用したんだ・・・・!!

なんて奸知に長けた化物・・・・!!


そして私達は、魔犬ガルムのさらなる恐ろしさを思い知ることになった。

度数の高いオランジュ商会の酒は、ロマリアの焔の残り火でたやすく引火した。

奴の足元から上方に向け、一斉に火列が幾条も走った。

体中に浴びた酒が、ぼんっと音をたてて、全身炎に包まれた。

魔犬ガルムは微動だにせず、嬉しそうに目を細めた。


「・・・・・まじか!魔犬封じの酒が燃えちまう!!これが奴のほんとうの狙いかよ!!」


ブラッドが唸る。


魔犬ガルムの感覚器官を潰していた酒が、あっという間に炎に変わり、消えていく。

「ロマリアの焔」で焼き殺されかけた直後に、平然と自爆に近い打開策を取る魔犬ガルムに、冷静なお母様まで気をのまれて立ち尽くしていた。


魔犬ガルムの目が、炎の中で不気味に紅く輝きを取り戻す。

私を認識して、にやりと嗤った。

潰されていた感覚がよみがえったんだ・・・・・!!


支えの隊長を失い、呆然自失としている王家親衛隊を尻目に、魔犬ガルムは穴から這いでようと、前脚をへりにかけた。全身からぱちぱち爆ぜる音がするのに、炎を消そうともしない。眼光とぞろりとした牙が、穴の縁からせり上がってくる。


お母様が矢をつがえる。

ブラッドが、残った力を爆発させようとふうっと息を吸い込む。

疲労困憊しているのに、無理に笑顔をおしあげる。


「あいつは「血の贖い」を使い続けている。そう長くは身体がもたないよ。穴から出さないよう時間稼ぎすれば、勝ち目はあるさ。やるしかないね」


ブラッドの哀しい強がりに、お母様が優しい目でうなずく。


「・・・・・ええ、私が矢を放つタイミングにあわせてね」


魔犬ガルムの隙をうかがう二人の間に緊迫した空気が張り詰める。


勝ち目なんかあるはずない。二人とも私を守って死ぬ気だ・・・・・・・!!

やめて!そんなことしなくていい!

私はみんなを殺してまで生きたいとは思わないよ!!


だが、這い出ようとする魔犬ガルムの前進が急停止した。

突然ものすごい力が後方から加わり、魔犬ガルムの巨躯をのけぞらせたのだ。

前肢の爪が、がりがりと地面をえぐりながら、魔犬の体は逆に後ろにさがっていく。

 

「・・・・・我らを地獄にいざなっておいて、おのれだけ地上に這い出る気か。許さん」


穴底から、ぬっと生えた太い腕が、魔犬ガルムの後ろ脚を、砕けんばかりに握り締めていた。

暴れる魔犬ガルムの前脚が空転し、下顎をぶつけながら、再び穴の中に引きずり落とされる。

なにが起きたか、もうわかった。

こんな無茶苦茶が出来る人間は一人しかいない。


王家親衛隊達の曇った表情が拭われ、歓びの雄叫びがあがる。


穴底の土砂をざあっと押しのけ、マッツオ隊長の鋼の巨体が現れた。

土まみれの貌の中で大目玉が爛々と輝く。


「地中からの登場と、何度もよみがえるのは、なにも貴様の専売特許ではないぞ!!おまえ達、罠の一つや二つで何を呆けておる!!罠にはめられたら、罠ごと敵を喰い破らんか!!もう休憩は十分であろう?ここからは我らが攻める番ぞ」


マッツオ隊長に渇を入れられ、稲妻にうたれたように、一瞬で隊員達全員が戦士の貌を取り戻す。


「・・・・この化物の狙いは公爵令嬢だ!!逃げよ!!そのための時間は、なんとしてもつくってみせる!!王家親衛隊の名にかけて!!」


執念でなおも穴から這いでようとする魔犬ガルムを阻止するため奮闘しながら、マッツオ隊長が叫ぶ。

一撃、二撃、三撃と空を切り裂く拳音と衝撃音が、魔犬ガルムの背中で炸裂した。

さしもの魔犬ガルムも四撃目で耐えかね、私への追跡を諦め、振り向くと、マッツオ隊長の肩口に噛みついた。


「そうだ!!それでよい!!我ら騎士に背中を向け、我らの守ろうとする者を追うなど、断じて許さん!!人間の信念で、その獣の執念打ち砕いてくれる!!」


マッツオ隊長が大きく息を吸い込み、全身に力をこめた。


「うんぬううん!!」


筋肉がめりめり膨らんでいく。


「はあっ!!!」


ぶちぶちぶちっと凄い音がした。


王家親衛隊は従士を連れない。

その胴甲は、ひとりで脱着できるよう前面を4か所と肩上を短い革帯と金具で固定し、さらに腰に頑丈な革のベルトを巻いて装着される。マッツオ隊長は筋肉の膨張で、その革を止め具ごとすべて内側からはじきとばしたのだ。じゃらんっと音をたて、首周りの鎖帷子が後に続く。胴甲と紐でつながっていた胴着も破けとんだ。


マッツオ、鎧代わりの胴甲を、手も使わずに、上半身の筋肉を膨らませて、とっぱずしちゃったったよ!!!

戦場の激務に耐えられる頑丈なつくりなんだけどなあ。

でも、それ王家からの高価な支給品でしょ、いいの?


王家親衛隊の幾人かが浮かべた苦笑とひそひそ話で、マッツオが、王家よりの恩賜の品々の常習的なデストロイヤーであることを、私は知った。


「はじまったよ、隊長の悪い癖・・・・・」


「昂ぶると、あれやらなきゃ、気が済まないんだよな・・・・」


はじめてどころか、もう恒例行事なのね・・・・あきれた・・・・


牙を振りほどこうともせず、マッツオが不敵に嗤う。


「・・・・その鎧はくれてやる!!引き換えにきさまの牙は封じたぞ!!」


装甲に魔犬ガルムの牙がつき刺さった状態で、するりと胴甲から抜け出る。


う、空蝉の術!?忍者ですか、あんたは!!


くるみの殻から中身がとびだしてきたように、腕甲はつけたままの逞しい裸の上半身がむきだしになる。

奇想天外の方法で牙に鞘をかぶせられた魔犬ガルムが、焦って首を振り立て、前脚を振り回すが、胴甲は容易に牙からはずせず、前脚の爪も、マッツオの拳でたたき落とされた。


「させん!!男はもともと身体ひとつよ!!あとは譲れぬ思いさえあれば、拳ひとつで戦える!!とくと味わえ!!天かける我が拳を!!ふんぬッ!!」


天駆けるって・・・・・とうとう拳本体まで、空に飛んで行っちゃったよ。


気合とともに魔犬ガルムの身体に鉄拳がめり込む。

大太鼓を叩くような鈍い音が、どどどんっと連続した。

がはあっと魔犬ガルムが苦悶の呻きをあげる。


「隊長に遅れを取るな!!」


「おおっ!!」


奮戦に勇気づけられ、身体の上の土をはねのけた騎士達が、次々に戦列に復帰し、ガルムめがけてとびかかっていく。

彼らは勇敢で職務に忠実だった。

でも、武器も大半は土に埋もれてしまった状態だ。


「早く・・・・・逃げよ。恥ずかしながら、そう長くはもたんかもしれん・・・・・」


拳を振るいながらマッツオ隊長が苦笑する。

私にはわかった。

王家親衛隊の猛攻をもってしても、魔犬ガルムにはダメージは与えられても、致命傷は与えられない。

そして息の音とめない限り、あの化物は決して止まらない。

今は押されていても、魔犬ガルムが地上に放たれるのは時間の問題だ。

マッツオほどの強者でも奴は殺せないんだ。武器の鉄球の不在が痛すぎる。


でも逃げるったって・・・・・この怪物から身を守れる場所なんて・・・・・!!


牙を封じられても傍若無人に暴れ回る魔犬ガルムの、癇に障る暴風のような呼吸音を耳にしながら、頭を抱えた私ははっとした。


ぜい音・・・・・・!!

あの無敵の怪物が!!

呼吸が乱れている!?

呼吸回数が異常に多い!!


「血の贖い」で復活する前の、肺の損傷による呼吸困難とはまた違う。


これは・・・・・そうだ、「108回」で閲覧した記録にあったじゃないか。

魔犬ガルムは心臓の問題で長くは生きられなかったって。

魔犬使いも、本気になったガルムを見たとき、狼狽して制止しようとしていた。

きっと心臓に負担が掛かり過ぎるからだ。

心臓に異常がある犬は過呼吸になると、そう話を聞いたことがある。


「血のあがない」まで使う鬼神のような無双ぶりに念頭から消し飛んでいたけど、あいつ、欠陥品じゃないか!!ブラッド!!あんたのさっきの強がり、多分正解よ!!


「オオオオオオッ!!アオオオオオッ!!オアアアアアッ!!」


まくしたてる私の言葉に、ブラッドの目がみるみるうちに鋭くなり、穴ぐらの底で暴れる魔犬ガルムに、じいっと意識を集中する。


「チビスケの言うとおりだ。あいつ、心音に異常がある。舌もチアノーゼで紫色だ。「血の贖い」の副作用で、血液もどんどん減ってる。嘘から出たまことだったな。心臓が限界に近い。このまま消耗させれば、たぶん心臓が耐え切れず止まる・・・・・・・なあ!!騎士の大将!!」


やっぱり!!

お母様、ブラッド、王家親衛隊との連戦で、無敵に見えたあいつのメッキはとっくに剥がれおちてたんだ!!


ブラッドの呼びかけと説明に、マッツオ隊長は目を見張り、そしてにやりと嗤った。


「聞いたか、みな!!我らの奮戦は無駄にはあらず!!倒そうと思うな!!ヒルのようにまとわりついて、奴の体力を極限まで消耗させろ!!それで奴はくたばるそうだ!!」


その頃には落下した殆どの騎士が、再び穴底戦線に戻っていた。

さすがは鍛え抜かれた王家親衛隊であった。

どおっと湧き立つと、イナゴの群れのように、魔犬ガルムに取りつきだす。


「なっ!?」「わっ!?」「なんだっ!?」


勢いをえて飛びかかった騎士たちの何人かが、目測を狂わせ、穴の底に頭から突っ込んだ。

動揺が騎士たちに走りぬける。

魔犬ガルムの姿が一瞬だが二重にぼやけたのだ。


「やばい。あいつ、血桜胡蝶まで使えるようになってきてる・・・・!!」


ブラッドが総毛立っていた。

血桜胡蝶。

ブラッドがガルムを手玉に取った、幻の分身を作りだす技だ。


なんて性悪な化物!!

こちらが幾ら新しい手を苦心してひねり出しても、嘲笑うようにさらに上回ってくる。

王家親衛隊は善戦しているが、魔犬ガルムを消耗しきらす前に、奴に振りきられることになるだろう。

彼らだからまだ拮抗状態に持ちこめているのだ。

並みの騎士団なら、足止めさえ出来なかった筈だ。


なんでよ!!もうひと押しなのに!!

それで奴を倒せる筈なのに!!


私は深呼吸して昂ぶりかけた気を鎮めた。

今は「108回」で私が最期を迎えたときと違い、こんなにも頼もしい味方たちが揃っているじゃないか。誰ひとり私を守ることを諦めていないのに、守られてる本人の私が真っ先に白旗あげてどうするんだ!!こんな体たらくじゃ過去の私に笑われちゃうよ!!


あきらめるのは死んでからでも出来る!!

生き残るため、落ち着いて考えるんだ!!


ブラッドは切り札の「血の贖い」をもう使えない。

お母様の毒牙もない。

女王時代の私の居城でもあれば、直角の高い石壁、冷たい水をたたえた堀と、奴の心臓に負担をかけられるものは、いくらでも揃っているのに。

 

〝冷たい水!?〟


あ、あるじゃないか!!

公爵邸の敷地には、四方を広い冷たい水に囲まれた逃げ場所が!!


「108回」で幼い頃の私が園丁のおじいさんに脅かされた、大きな犬が溺れて幽霊が出ると言われた場所。水練達者なブラッドが、繁茂した水藻に足をとられ、溺死しかけたところが!!

あそこに消耗したガルムを誘い込めば、確実に奴の心臓を停止できる。


私の考えを血液のチート技で読んだブラッドが唸った。


「そうか・・・・・あの池か!!あそこなら小舟で真ん中に漕ぎ出しさえすれば・・・・」

「アオッ」


うん、これだけ狡賢い魔犬ガルムも、新生児を貪り食う欲望には、冷静さを失う。

池の中だろうと、必ず私を全速力で追ってくるだろう。

冷たい水と絡みつく藻。

重い胴甲をつけたうえ、ガルムはお母様の毒牙で片足の指も欠損している。

それに王家親衛隊との戦いの疲労、追跡の全力疾走も加味すれば・・・・・

並の犬と変わらないあいつの心臓は、その負担に絶対耐えられない!!


きっと倒せる!!

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