第22話 今回は前の108回の人生での、お母様視点のお話です。ヴェンデルはお父様の名前です。新キャラじゃありません。
私はコーネリア・マラカイト・ノエル・リンガード・メルヴィル。
この国の英雄、紅の公爵の通り名で知られる、ヴィルヘルム公爵の妻だ。
私はいま、裸足で髪を振り乱し、幽鬼のような姿で廊下を歩いている。
がらんとした公爵邸の長い廊下を、ずるりずるりと足をひきずるように私は進む。
我が子を手にかけようと彷徨う私は、おぞましい殺意に取り憑かれていた。
自分で自分が止められない。
いやだ! そんな事はしたくない!
全力で心は叫ぶ。
なのに自分がおさえられない。
憎悪と殺意に身体がつき動かされる。
まるで悪霊が乗りうつったかのようだ。
「ぜんぶあの子のせいだ・・・・・あの子さえ産まれなければ・・・・・」
呪詛のようなおのれの声に、ぞっとする。
産まれたばかりの子に、なんの罪もない。
なのに、私の不幸の責任を押しつけ、腹いせに殺そうとしているのだ。
十年間待ち望んだヴェンデルとの子。
やっと授かった私たちの絆。
それを私は自分の手で壊そうとしている。
こんなこと、決して許されない。
ほんとうの私は、こんなことを望んでいない!
だが、思いとどまろうとする心の声は、あまりにもか細い。
憎悪の霧が思考を狂わす。
頭が心の邪魔をする。
誰か、私を止めてほしい。
渦巻く殺意に溺れながら、必死に顔をつき出すようにし、心の中で幾度となく叫んだ。
お願い! 誰か私を止めて! 早く、早く
・・・・・・私を殺してもいいから!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・
私をさがし回る、あわてた呼び声が遠くで、むなしく響く。
出産したばかりの母親が、まさか子供を殺すため抜け出したなど、誰も予想できまい。
無駄に広いこの屋敷では、あたりもつけずに人をさがすのは容易ではない。
突然の通り雨が、屋敷の屋根を、さざあっと音をたて、走り抜ける。
弱っていた私の心を壊した、あの日のように。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あの日のことを私は忘れられない。
幾度思い出して、涙を流したことか。
私の夫のヴェンデルが、王命により家を留守にしてすぐのことだった。
彼の父と母、バイゴッド侯爵夫妻が、不意うちで私を訪ね、馬車で乗り込んできた。
私が妊娠八ヶ月めに入ろうとしていたときの出来事だった。
乱暴な蹄鉄と派手な車輪の音に驚き、窓から外を見た私は、馬車の紋章で訪問者が誰か知って青ざめた。窓際の椅子から立ち上がろうとしたが、バランスを崩し、また座り込んだ。膝が震えていた。
よりによって、どうして夫の留守中に、あのおそろしい義父と義母が。
反射的におなかを抱え込んだ。
不吉な予感に、おなかが鋭くキリキリ痛んだ。
嫌な予感は当たった。
それは悪意に満ちた訪問だった。
バイゴッド侯爵夫妻は、門番達を馬用の鞭でうって退け、いきなり馬車で玄関正面に乗りつけた。
必死に押しとどめた彼らを、
「ここは、元々わしの領地だ。領主に逆らうのか。領民の分際で」
と怒鳴りつけ、馬をけしかけた。逃げ惑う老齢の彼らを眺め、大笑いしたという。
あとで話を聞かせてくれた門番の皆さんの背中には、赤いみみずばれがあった。
まともな人間のしわざではない。
逃げたい。会いたくない。
でも、行かなければ。あの人が留守の今、この屋敷の女主人は私だ。
重たいおなかを抱えるようにし、私は二人を迎えに外に出た。
足が重い。
貧乏なうちに取り次ぎの者などいるはずがない。
私自身が対応するしかない。
馬車を降りる義父義母の杖の音が、かつんかつんと鳴り響き、私はすくみあがった。
手が汗ばんでいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かって私は、この義父義母のことを信頼していた。
優しい夫、ヴェンデルのお父様とお母様だ。
つらくあたられはしたが、きっと山出しの私を、立派な公爵夫人成長するよう、心を鬼にして指導してくれているのだと、そう思いこんでいた。
あの悪夢の夜会までは。
その日、義父母はいつになく優しい声で、私を夜会に誘った。
ヴェンデルは公務で屋敷に不在だった。
貴族社会に馴染もうとした努力を認めてもらい、ご褒美で夜会に招待されたと舞い上がった私は、冷水を浴びせかけられたように、立ち竦むことになった。
嬉々としてついていった先には、たくさんの貴族達が、私を待ち受けていた。
この国の旧い血筋、旧貴族「赤の貴族」達ばかりだった。
ハイドランジアに、私たち新貴族「青の貴族」が入る前から、この地の支配者階級だった人達だ。
重い扉がぎいいっと軋み、背後でばたんと閉められた。
歴史あるその古い屋敷は、城の特徴をまだ色濃く残していた。
敵の侵入を防ぐための分厚い石の壁は、内部から助けを求める声も遮断する。
大昔に敵を誘い込み、閉じ込めて皆殺しにした、大きな広間だった。
くすくすという忍び笑いがあちこちで起きた。
私は嵌められたのだ。
お父様の警告がよみがえった。
「「赤の貴族」達は、大昔の狂った価値観の持ち主達だ。旧い血筋の貴族はなにをしても許されると思いあがっている。なかには、紅の公爵様のような方もいるが、用心を忘れてはいけない」
夫のヴェンデルは、
「ぼくの父と母を信用するな。ぼくのいない時に、あの二人が訪ねて来たときは特にだ。その取り巻きにも絶対心を許すな。「赤の貴族」達に招待されたら、ぼくの名前を出して絶対に断るんだよ。人を信じる君の美徳が通用しない相手達だ。一人でついていったら大変なことになる」
しつこいぐらい何度も教えてくれた。
二人の悪い予感は的中した。
私は迂闊にも自分から、袋小路の罠にとびこんでしまった。
今すぐ逃げ帰りたかった。
「赤の貴族」達の笑顔がこわい。
友好的な雰囲気が欠片もないのに、笑顔を浮かべている事がおそろしい。
不気味な仮面の群れに取り囲まれた気がした。
でも、今さら帰れるわけがない。
重い鉄の扉に、大人二人がかりで動かす閂がはめられた。
退路は断たれた。
そして私は仮にも公爵夫人なのだ。
そう勇気をふりしぼり、自らを励ました。
夫の、ヴェンデルの名を貶めるわけにはいかない。
私は恐怖をこらえ、愛想笑いをし、乏しい知識を振り絞り、彼らに話題をあわせようとした。
私は哀れな阿諛追従をし続けた。
彼らにはさぞ滑稽に思えたろう。
料理される動物が媚びをうっているように見えたに違いない。
「赤の貴族」達は、私を馬鹿にし、贄にするためだけに、ここに招待したのだから。
私は甘かった。
「青の貴族」達は、内心はどうであれ、私を公爵夫人として扱ってくれた。
「赤の貴族」達もそこまでひどいことはするまいと、たかをくくっていたのだ。
私の幻想はあっという間に打ち砕かれた。
私のへりくだった態度は、かえって「赤の貴族」達の嗜虐心を後押しした。
どんな扱いをしてもかまわない玩具と判断された。
そして悪いことに、彼らはそんな人間をいたぶり慣れていた。
絶対服従する奴隷や、逆らえない身分の低い人間達を。
「赤の貴族」達は、気まぐれな子供が人形を壊して遊ぶように、私を手酷く扱った。
私が発言するたびに、あざけり笑いがあちこちで湧いた。
動作のひとつひとつが声高に批評された。
私がなにをやっても笑いものにされた。
食べかけのものや、ワインが、私めがけて飛んできた。
当然のしきたりのように、誰もが平然とそれをおこなった。
ヴェンデルが誕生日にプレゼントしてくれたとっておきのドレスが汚された。
少しでも印象を良くしようと、あわてて着てきたもの。
かって彼が無理して買ってくれた高価な贈り物。
似合っている、綺麗だと褒めてくれた思い出の品。
私はそれを着て、彼とはじめてキスを交わした。
そんな私の大切な思い出が、悪意で弄ばれる。
憎悪や殺意ならまだましだった。
他人を貶め馬鹿にするという目的のためだけに、私の思い出が穢された。
元の生地の色がわからなくなるくらいに、汚染されていく。
こんなことになるのなら、せめて違うドレスを着てくればよかった。
かばってくれるはずの舅姑が、率先してみんなを煽る。
救いを求めてすがりつく私の視線を、誰よりも冷たく突き放す。
いつ果てるともしれない侮蔑と嘲笑。
これほどの悪意に囲まれたことはなかった。
彼らは私を貴族の一員どころか、見世物の動物として扱った。
私は懸命に笑顔を浮かべた。
知らぬ間に頬を涙が伝っていた。
涙を流しても笑い続けた。
それしか出来ることが、他に思いつかなかったからだ。
私は無力だった。笑顔は仮面のようにこわばっていた。
せめてドレスだけはかばおうと身を縮めた。
ヴェンデルにどうやって詫びればいいのか。
彼らは私の守りたいものを敏感に嗅ぎつけ、笑いながらドレスを集中的に狙った。
これだけ笑いものにしたのだから、もう彼らも気が済むだろう。
だから、早く解放してほしい。
私に願えることは、もうそれしか残っていなかった。
私の願いはかなわなかった。
どれくらい時間がたったのか。
誰かに背後から、なにかの柄で足をはらわれ、私は無様に床に転倒した。
囃し立てる声が大きくなる。
絶望のなか、私は悟った。
彼らは、他人をいたぶる行為に、飽きることなどない。
私を使って新たな遊びをしようと、なにか準備しているのが視界の端にうつる。
豚の頭とバケツいっぱいの血と臓物が運ばれてくる。
火のついた燭台が集められる。
おもしろい趣向のジビエですな、と笑いあう声がする。
私は心の中で、幼児のように悲鳴をあげた。
もう限界だった。矜持も誇りも無惨に砕け散った。
助けて!!こわい! こわいよ!
私を助けて!
ヴェンデル! お父様!
助けを求めるため、口がぱくぱくと動いたが、声はでなかった。
恐怖で声帯がしびれていた。
私は狩られた動物たちの気持ちを、思い知った。
彼らもきっと、こんな崩れるような絶望と孤独のなか、ひっそり死んでいったのだ。
豚の頭が、私にかぶせられた。
目にどろりと粘液が入り込み、激痛が走る。
血と臓物を浴びせかけられた。
ものすごい臭いで息がとまりそうになる。
それが何度も執拗に繰り返された。
ショックで動けなくなった私を、「赤の貴族」達が楽しそうにいたぶり続ける。
血まみれの私を囲んで彼らが踊る。笑いさざめく。
子供のように残酷に、大人の悪意をぶつけてくる。
踊り狂う影法師が入り乱れる。悪夢はいつまでも続いた。
ヴェンデルとお父様があれほど心配した意味を、私はやっと理解した。
もっと真剣に耳を傾ければよかった。
私は「赤の貴族」達の悪意に無知すぎた。
「おまえ達!! なにをしている!!」
夫のヴェンデルが怒鳴りながら飛び込んできたとき、私は立ち上がる勇気さえ持てず、丸まって身を縮めていた。立てばきっともっとひどい目に会わされる。幼児退行したかのように親指の爪を噛んで、ただ身を震わせていた。
あと少し彼の到着が遅かったら、私はきっと気を失っていたろう。
待ち望んだ彼の声に、私は助けを求め、叫ぼうとした。
ひゅうひゅうとか細い息が漏れただけだった。
ヴェンデルが周りの人間を突き飛ばしながら、駆け寄ってくる。
「コーネリア!!」
私を見つけた彼の声は悲鳴に近かった。
抱き上げられる。
やっと訪れた求め続けていた救いに、涙があふれでた。
私は咽喉が詰まって、ろくに返事さえできなかった。
「・・・・・私、頑張ろうとしたの・・・・・あなたの妻として認められたくて・・・・でも・・・・」
それだけを伝えられた。
「わかっている! 君は誰より立派な、ぼくの妻だ! 君はなにひとつ悪いことはしていない。それを・・・・・!」
片手で私を抱きしめるヴェンデル。刀の鞘がかたかた鳴った。
彼は、怒りに震えるもう片方の手を、刀の柄にかけていた。
この場の全員を斬り捨てる気だった。
目が暗く紅い殺意に染まっていた。
「よくも、ぼくの宝物を穢したな・・・・・! よくも・・・・・!」
激昂のあまり、続く言葉を失っていた。
殺気が広間の喧騒を圧倒した。
さっきまでの嘲笑の渦が嘘のように、しんとあたりは静まり返っていた。
貴族達が、壁に背をつけるように後ずさりしていた。全員の顔がひきつっていた。
怯えた義父母の様子で、私はヴェンデルが本気と悟った。
「やめて! ヴェンデル!! お願いだから、やめて!」
私は両手で刀の柄に飛びついて止めた。
いくら紅の公爵でも、この国の英雄でも、そんなことをしてただで済むはずがない。
この人の忠告を、私は自分の甘さから無駄にした。
そんな私のため、この人の未来を閉ざすなどどうして出来ようか。
私は泣き叫んで、何度もそう訴えた。
刀の柄を全身でおさえ、鞘より抜かせまいとした。
彼は怒りに燃えた目で、幾たびも「赤の貴族」達のほうに足を踏み出しかけ、ついに諦めた。
私はきっと死人のような顔色をしていたはずだ。
ヴェンデルは、彼らを切り捨てるより、一刻も早く私を家に連れ帰ることを選んだ。しがみつく蒼白な私を振り払う決心がつかなかったのだ。
ヴェンデルは私を抱きあげ、彼らに背中を向けて歩き出した。召使いたちがあわてて鉄の扉の閂をはずし、扉を開け放つ。ヴェンデルは一度だけ振り向き、背後の貴族たちをおそろしい目で睨みつけた。それきり二度と振り返らず、その場を後にした。
よほどそのときの彼が怖ろしかったのか、二度と「赤の貴族」達が手を出してくることはなかった。
義父義母をのぞいては。
それが私がこの夜会で得た唯一の成果だった。
馬車の帰路上で、ヴェンデルは私を抱きしめ、謝り続けていた。
家に帰ってからもそうだった。
私の顔や髪を必死に拭った。
自分以外、誰にも私を触らせなかった。
彼の衣服も顔も、私が受けた汚れを受けて、ぐちゃぐちゃになった。
「すまない・・・・! コーネリア! すまない・・・・!」
どんなに謝っても謝りきれないと、誇り高い彼が、声をあげて泣いていた。
そんな彼ははじめて見た。胸が切り裂かれるように痛かった。
英雄の彼を、私の迂闊さが追い込んでしまった。
ごめんなさい。あなたにはなんの落ち度もないのに。
どうか謝らないで。
すべては私の軽率さが招いたことなのに。
だいじょうぶ。私は平気。でも・・・・・
「ごめんなさい。あなたの贈ってくれたドレスを汚してしまった。大切にしていたのに。二人の思い出だったのに。でも、きっと綺麗にするから! 元通りにするから・・・・・!」
声が詰まった。涙がとまらない。
私の宝物だったのに・・・・・!
「コーネリア・・・・! 汚れたのはドレスじゃない。人を信じる君の心を、かけがえのない宝物を、奴らは穢したんだ。 ぼくは、どう償えば・・・・!」
私達は抱きあって、ともに泣いた。
それから時がたち、私は表面上は平静を取り戻した。
だが、私は貴族の集いに出席する勇気が持てなくなった。
貴族と聞くだけで足が震え、一歩も動けなくなった。
何度もうなされ、夜中に飛び起きた。
心が折れてしまった。日に何度も嘔吐した。
心配したヴェンデルは私のそばを離れようとしなかった。
それが余計につらかった。
彼の負担にはなりたくなかった。
ヴェンデルは無理しなくてもいいと、気づかいながらそう言った。
その言葉に、私の胸は痛んだ。
私は平気であると彼に証明しようとした。
貴族の妻らしく振舞おうとした。
言葉遣いを変え、マナーにこれまで以上に気を使った。
ヴェンデルは哀しげに目を伏せた。
私は弓も捨てた。
私の一族、メルヴィル家の先祖には、悪魔がいる。
王家の尖兵として、狙撃による暗殺を請け負っていた、魔弾の射手、魔弓の狩人と呼ばれた怪物が。
メルヴィル家には、彼女から受け継がれた毒矢の技術がある。
秘伝の弓がある。たやすく人の命を射抜けるのだ。
「赤の貴族」たちに負わされた、私の心の傷が癒えることはなかった。
いつかその傷が恨みに変わるのがこわかった。
私に貴族としての素質は皆無だが、弓の才はある。
私の中で眠る怪物が目を覚まし、復讐に走るのではないかと怯えた。
貴族の枠内におさまろうとする私に、ヴェンデルは哀しげに首を横にふった。
君はそのままでいい、そんな君を見るのはつらい、
言葉少なげにそう何度も言った。
二人の間に溝が出来たのはそのときからだ。
ヴェンデルも私も、互いを愛していたことに変わりはない。
だが、見えない皮膜のようなものが、私達の間には生じてしまった。
近くにいるのに、薄皮一枚隔てているようなもどかしさ。
ドレスの汚れは結局落ちなかった。元通りにはならなかった。
いつか子供が出来れば、元の鞘におさまるのでは。
そう期待したが、時間だけが無常に過ぎていった。
幾度かの新緑と落葉の季節を繰り返しても、子宝は授からなかった。
時々義父と義母のバイゴッド夫妻が訪れ、私のことを役立たずと陰口をたたき、妾を迎えるよう勧めた。
そのたびにヴェンデルは血相を変え、彼らを追い払った。
私は泣いた。なにひとつ彼の力になれない自分がもどかしい。
私は彼に迷惑をかけるしかできない。
君が側にいてくれるだけでいい
そう慰める彼の優しさが、胸に突き刺さる。
失意と落胆の日々は突然終りを告げた。
私は妊娠した。
ヴェンデルは手放しで喜んでくれた。
私達は手をとりあい、久しぶりに笑いあった。
幸せな日々が戻ってきた。世界が明るくなった。
私はやっと彼の役に立てたのだ。
彼は私のおなかに耳をあて、胎児の心音を聞き取ろうと真剣だった。
妊娠が判明した直後のことだ。
気が早すぎる彼に、私は声をあげて笑った。
わだかまりは嘘のように解けていた。
私達はまた以前のように、その・・・・・密月の関係にもどった。
もちろん、安定期に入ってからだけど・・・・・
妊娠期の身体をさらすのに最初は抵抗があったが、ヴィンデルの腕は私を逃がしてはくれなかった。
私の身体に負担をかけまいと、薄絹をあつかうように大切に抱きしめる。
そのせいなのか、以前にも増して、その愛撫は優しく巧みだった。
ふるえる私の吐息を、彼の唇がふさいだ。
耳元で囁かれる愛の言葉に、胸が高鳴った。
私達は一晩に幾度も唇と肌を重ねあった。
今までの互いの寂しさを埋めあうように、夢中になって、舌と指をからめあった。
夜はこの屋敷にほとんど人がいなくて良かったと心底思う。
彼の匂いと体温に包まれて目覚める朝が、なんと安らぎに満ちていたことか。
私のおなかが服の上からでもはっきり目立つ頃から、ヴェンデルは仕事で頻繁に家を空けるようになったが、私は微塵も彼を疑わなかった。臨月を迎える二月後まで、王命による遠方の任務で家に帰れない、そう聞かされたときも、やはりそうだった。
「すまない。王命の内容は、わけあって話せない。ただ、これだけは信じて欲しい。出産予定日には必ず帰る。そして、それから先の人生は、君と子供のために捧げよう」
申し訳なさそうにヴェンデルは言った。
名残惜しそうに、何度もキスをし、彼は旅立っていった。
五日ほどは平穏な日が続いた。
厨房に新しい人が一人入ったぐらいだ。
体調が少しすぐれないが、ヴェンデルが不在の不安のせいだろう。
彼が帰るのは、まだまだ先だ。
しっかりしなければ。
そう決意を新たにしていたとき、出し抜けに義父義母が来訪した。
悪夢の夜会の記憶がよみがえる。
冷や汗が額からどっと噴き出した。
「・・・・・あいかわらず、下手な挨拶だこと」
義母は開口一番、私にそう吐き捨てた。
「おまえのような女が、リンガード家の子を孕むなど、おぞましい」
義母の杖がうなり、挨拶で身をかがめている私の下腹部をうった。
私は呆然とした。続く二撃めは、腹をかばって背中で受けた。
老婦人の力だ。たいしたことはない。
だが、何故そんな理不尽な目にあわされなければいけないのか、まったく理解できなかった。
「夫の父親を尻を向けて出迎えるとはな。田舎育ちの無礼者が。下衆の子はやはり下衆か」
強い衝撃が背中に走った。
バイゴッド侯爵に杖で背中を殴られたのだとわかった。
初老といえ、力任せの男の腕力だ。
激痛で息がとまりそうになった。
信じられなかった。
私のおなかにはヴェンデルの子供がいるのに。
そして私のお父様は、下衆呼わりされる人間ではない。
お母様を亡くしてからは、男手ひとつで私を育ててくれた、自慢の優しい父だ。
「こんな礼儀知らずの女。ほんとうにヴェンデルの子を孕んだのか疑わしいわ。留守中に、似合いの下郎でも引きずり込んだのではなくって?」
義母がふんっと鼻を鳴らす。
あまりの言い草に、私はかっとなった。
その言葉は私だけではない。私を愛してくれたヴェンデルも侮辱していると、なぜ気づかないのか。
義父義母への遠慮もふきとび、私はくってかかった。
「私はヴェンデルの妻です! 私たち夫婦が互いを裏切るなどありえません!」
「ふーん。私はヴェンデル様の、公爵様の愛人よ。あなたの愛は一方通行ってことね」
バイゴッド侯爵夫妻に続き、馬車から降りてきた派手な女性が傲然とそう言い放った。
目のやり場に困るような胸元が大きく開いた服。自分の肉体を自慢したいのだとわかった。
とても豪奢なドレスだが、昼間の移動時に着てくる服ではない。貴族のことに疎い私でもわかった。
じゃらじゃらと身につけた貴金属と宝石が下品だった。
けばけばしい毒蛾。それが彼女の印象だった。
「え? 愛人・・・・・?」
ヴェンデルのもっとも嫌いなタイプの女性だ。
私は唖然としていた。彼とこの女性がどうやっても、頭の中で結びつかない。
私の様子を探るような目が、妙に気に障った。
「私は、アンブロシーヌ・シャイロック。はじめまして。お・く・さ・ま」
赤い口端をゆがめ挨拶してきた。
血を塗りたくったような色をしていた。
シャイロック家は私でも知っている。
悪名高い大富豪。その資金力は王家をはるかに凌駕するといわれている。
アンブロシーヌのあざけるその目に見覚えがあった。
あのときの「赤の貴族」達と同じ目・・・・・
他人を見下しきった目だ。
しまってある弓矢がちらちらと脳裏をよぎり、私は蒼白になった。
それは悪魔の誘惑だった。
私が弓矢を封じてからも、ヴェンデルがひそかに手入れをしてくれていたことには気づいていた。
弦さえ張れば、すぐにでも使えるはずだ。
「あなたの愛しい旦那様は、今私の屋敷にいらっしゃるの。出張なんて大嘘よ」
「アンブロシーヌさんのおっしゃる事は本当よ。だって、こんなみすぼらしい家に、いつまでもヴェンデルを置いておけるわけがないわ。あの子はこの国の英雄なんだから」
「下賤な妻では、庭も屋敷も保てぬのも道理か。私が住んでいた頃は、栄華を極めたこの場所が。嘆かわしいことだ」
なにを言っているのだ、この人達は。
この屋敷を領地を荒らしたのは、他ならぬあなた達ではないか。
そしてヴェンデルが私を裏切るはずがない。
「ほんとですわねぇ。質素倹約にも限度というものが・・・・・と、失礼。さすがは公爵夫人。貞淑の鑑ね。私の余っている服でよろしければ、いくらでも差し上げるわよ」
私の格好を上から下まで無遠慮に眺め、アンブロシーヌは、そう笑った。
私は頭に血がのぼった。
領民を重税で苦しめた義父母より、ヴェンデルのほうが遥かにましだ。
彼の高潔な生き方は私の誇りだ。
この人になにがわかるというのか。
「こんな女を夫人などと呼ばないでいただきたい。虫唾が走る。無知な獣にドレスの価値などわからんだろう。息子をたぶらかす小賢しい知恵にだけ長けおって」
「獣だけあって、困ったことに、体だけは人一倍丈夫なのよ。流産でもしてくれればよかったのに」
「ふふ、心配いりませんわ。私もすぐに公爵様のお子を授かりますもの。そうすれば、お二方ともっと仲良くなる理由が増えるというもの。いろいろ融通させていただきますわ」
アンブロシーヌの言葉に、バイゴッド侯爵夫妻が相好を崩す。
なんて醜い笑顔。
シャイロックによる資金援助を期待しているとわかった。
「楽しみだわ。シャイロック家もじきに爵位を賜れるようですし」
「そうなれば、後継ぎも考えねばな。まあ、この女の腹の子は、万が一のときの保険だな」
三人の会話に、怒りのあまり私の視界がぐらつく。
この三人は私を侮蔑し、馬鹿にするためだけに、ここに立ち寄ったのか。
産まれてくる命まで侮辱して・・・・・!
射殺
いころ
してやる。
本気でそう思った。
かんたんなことだ。
たった三回、矢をつがえるだけでいい。
毛皮の保護もない鈍重な人間
あいて
になら、私の矢は一撃で致命傷を負わせることができる。
私を人間扱いしないこの人達。
ならば、私も彼らを人間扱いしない。
彼らは害獣だ。害獣は身を守るため駆除しなければならない。
やってしまおう!!
あなた達が、爪も牙もない獣と侮っている私になにが出来るか、その身で思い知るがいい!
私が弓を取りに屋敷に駆け込もうとした瞬間だった。
ざあっと突然の通り雨があたりをうちすえた。
膨れ上がった殺意を冷まされ、正気に戻った私は愕然とした。
私は今なにをしようとしていた・・・・・!?
「これはたまらん!! いいか! もし産まれてくる子が、後継ぎになりうる男ならまだしも、女だったりしたら、すぐにでも離婚してもらうからな! わかったな!」
捨て台詞を残し、バイゴッド侯爵が馬車の中に逃げ込む。
「私は、男が産まれたとしても、こんな野蛮人の子を孫などと認めませんからね」
ふんっと鼻を鳴らし、侯爵夫人が後に続く。
「おじいちゃんたちも報われないわね。いつまで正気を保っていられるかしらね。お気の毒様」
アンブロシーヌが私にだけ聞こえるよう、去り際に耳元でささやいた。
言葉の意味はわからないが、ぞっとする悪意に満ちていた。
高笑いしながら、馬車の中に姿を消す。
三人をのせ、馬車が動き出す。
けぶる雨音のなか、私はずぶ濡れなのにも気づかず、立ち竦んでいた。
一歩も動けなかったのは、彼らへの反感からでも、怖ろしかったからでもない。
私はあのとき、本気で彼らを皆殺しにしようとした。
自分の中には、やはり怖ろしい悪魔が棲みついていた。
ようやく駆けつけてきた門番のおじいさん達が、あわてて私を室内に運び込むまで、私は茫然として雨にうたれ続けていた。
・・・・・・・・・・
雨に身をさらし続けたせいか、それから私は体調を崩した。
頭が痛い。胸が苦しい。
おなかを打ち据えた義母の冷たい目が忘れられない。
「似合いの下郎を引きずりこんだに違いない」
義父の声が頭から離れない。
「下衆の子は下衆か」
「産まれてくる子が女なら、すぐにでも別れてもらう」
そればかりが頭の中でぐるぐる繰り返される。
苛立ちがとまらない。
おかしい。
「おじいちゃんたちも報われないわね。いつまで正気を保っていられるかしらね。お気の毒様」
あのときのアンブロシーヌの言葉に気をつけろ。よく考えろ。
心の中で警報が鳴り響くのに、頭が考えることを拒否していた。
ひどい酔い方をし、足元がおぼつかないあの感覚だ。
信じて疑わなかったヴェンデルへの疑惑が、不気味な暗雲のように膨らむ。
なぜ旅立つ前に、バイゴッド夫妻に釘を刺してくれなかったのか。
実の親子ではないか。
私がどうなってもいいというのか。
私は彼にとってその程度のものだったのか。
そうならば、彼が愛人を囲ったという話は、本当なのかもしれない。
いや、きっとそうだ。あの優しさは、それを誤魔化すためだったのだ。
ここには私の敵しかいない。
誰も助けてくれない。何故私ばかりがこんな辛い目に。
この世のすべての人間が、私をおとしめ、嘲笑っているかのように思えた。
悪いほうに悪いほうにしか物事が考えられない。
私はなかば狂いかけていた。
後継ぎになれる男子を産むことだけが、自分の救われる唯一の道と思いつめていた。
そして長い出産の苦しみののち、産まれた子が女の子と知らされ、私の中の最後の理性の糸が切れた。
私の怒りと殺意は、生まれた娘にむかった。
娘がすべての苦しみの元凶と思い込んだ。
「こんな娘、殺してやる・・・・・」
手負いの獣のように唸りながら、私は子供部屋に侵入し、揺りかごのなかのわが子に近づいていく。
曲げた私の指は、猛禽の爪のようだった。
通り雨が激しく屋根をうちすえる。
「いけません! 奥様! お腹を痛めて産んだお子様ではありませんか!! 一時の気の迷いで、取り返しのつかないことをなさるおつもりですか!! 」
メアリーが飛びつくようにして私を止めてくれた。
血を吐くような叫びだった。私とメアリーが激しくもみあう。
メアリーは、夫の推薦状をたずさえ、我が家に数日前にやってきた乳母だ。
彼女は我が子を失う哀しみを味わったばかりだった。
まだ10代で、夫とも子供とも死に別れる苦しみは、如何ばかりだったろう。
なのに彼女はいつも笑顔だった。初対面のときからそうだった。
鈍いのではない。優しいのだ。
挨拶もそこそこに、私と私のおなかの子をまず気遣ってくれた。
旧知の間柄だったかのように、私は彼女と打ち解けた。
あの夜会以来、人そのものが怖くなった私が、警戒心なく彼女とは語り合えた。
ひとり寂しく家で過ごしていた私にとり、メアリーの優しさと朗らかさは救いとなった。
ヴェンデルは、きっとそれを見越して、彼女を推薦してくれたのだ。
私は感謝した。
この人になら安心して子供をまかせられる、そう思った。
「メイドの分際で!」
そんな友情まで感じていたメアリーを、私は口汚くののしっていた。
まるで義母が乗り移ったかのようだった。
いったい私はどうしてしまったのだろう。
自己嫌悪で消えてしまいたい。
すべてが私の敵だという強迫観念にとりつかれてしまっていた。
必死に抑え込もうとしているとはいえ、メアリーは私に対して遠慮があった。
対して狂気にとらわれていた私は手加減などしなかった。
小柄なメアリーが私に突き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
衝撃で気絶し、力なくずるずると背中で壁をこすりながら、崩れ落ちてしまう。
雨音がさらに大きく激しくなる。
私は私の子供をもちあげた。
床に叩きつけようとした。
命の危機を察したのか、赤ちゃんが火がついたように泣き叫んだ。
雨音がごおっと強く響く。
やめて! 私をとめて!
神様、お願いです!
どうか私を、今すぐ殺してください!
私の願いに応じるかのように、雷鳴があたりを劈いた。
雷光があたりを白く染めた。
心臓をぎゅうっと鷲掴みにされた気がした。
貧血を起こしたときのように、ふうっと意識が遠のく。
身体がぶるぶると痙攣した。
手足が砂になったように力が入らなくなった。
私は神様が願いをかなえてくれたと知った。
自分が死ぬのだと直感した。
「奥さま!!」
「おやめなさい!」
屋敷に手伝いにきてくれているお爺さん達が、部屋にとびこんできた。
よかった。彼らが目撃者になる。メアリーが私の死と無関係と証明してくれる。
私は、のろのろと腕の中の赤ちゃんを見た。
あの人譲りの紅い髪、紅い瞳。
ヴェンデルにそっくり。
でも、口元と輪郭は私に似ているかも。
雨はあがっていた。
死ぬ間際になり、私に取り憑いていた狂気は、ようやく私を解放してくれた。
赤ちゃんは泣きやんでいた。
愛おしさがこみあげてきて、私は娘に頬ずりした。
私の娘。なんてかわいい・・・・・
神様、願いをかなえてくださって感謝します。
でも、最期にひとことだけ、私に伝える時間をください。
「愛してる。こんな母親でごめんね。幸せになって」
ごめんね。こんな私だけど、あなたのぬくもりを感じながら死にたいの。
お願い、抱きしめさせて。
あたたかい。居心地悪そうにもぞもぞしている。
下手な抱き方でごめんね。
私、まだ母親として初心者だから。
でも、もっと抱きなれれば、きっと・・・・・もっと上手に・・・・・
涙があふれでた。その願いはもうかなわない。
ああ、神様。
どうか、この子とヴェンデルに祝福を。
娘のぬくもりを胸に感じながら、私の意識は闇に沈んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私は死んだ。
白髭と黒髭と茶髭のおじいさん達が泣いている。
自分達の力が及ばなかったせいで、私を殺してしまったと男泣きで号泣している。
私にはわかった。
彼らはヴェンデルに私のことを託された戦士達だ。
そして私を守るため、命懸けで勝ち目のない悪魔達と戦い、人知れず勇敢に散っていった。
私は、彼らの献身も知らず、誰も自分の味方がいないなどと、恥知らずにもすべてを恨んでいたのだ。
私は泣いて彼らの手をとった。
あなた達のせいではないと、誠意を尽くしてくれてありがとうと、懸命に伝えた。
彼らは今まで人知れず私達を守ってくれていたのだ。
領民達が反乱しなかったのは、彼らのおかげだった。
だが、老戦士達は、黙って横にかぶりを振り、拳を血の出るほど握りしめ、悔し涙を流し続けていた。
ヴェンデルが帰って来たのは、私の本来の出産予定日の二日後だった。
嵐で船が出ず、夜を徹して馬で陸路を進んできた彼は、汗と埃にまみれていた。
死後だいぶたっていたが、氷室に安置された私の身体は、生前とまったく変わりなく保たれていた。
硝子細工のような澄んだ氷の柱に囲まれ、安らかに眠っているように見えた。
高価な透明な氷は、おとぎ話の水晶の宮殿を思わせた。
私の死を知ったシャイロックの次男エセルリードが、シャイロック所有の氷室を強制解放させたのだ。私の死因となった毒も、皮肉なことに身体の腐敗をくいとめるのに一役買った。私はひそかに堕胎薬の毒を飲まされていたのだ。それが心臓を弱らせ、私を死に追いやった。私が狂ったのは、含まれた麻薬成分のせいだった。
アンブロシーヌの嘲笑と悪意に満ちた言葉の真意を、私はようやく思い知った。
堕胎薬はあの女の指示だ。そして心を狂わす効果も熟知していたのだ。
誇り高い老戦士達を死に追いやったのも、あの女達のしわざだ。
許せない。なにもかも。
娘を生まれる前から殺そうとしたことも。
私に子殺しの罪を犯させようとしたことも。
優しい戦士たちの誇りを踏みにじったことも。
私に毒を盛ったのは、新しく厨房に入った者だった。
彼は病気の娘のため、信条を曲げ、悪事に加担した。
そして口封じのため、娘ともどもシャイロック商会に殺されていた。
どこまでも救いがない話だった。
「・・・・・コーネリア・・・・!」
可憐な金梅草の花に囲まれた私の遺体の前で、ヴェンデルが絶句し、膝から崩れ落ちた。
彼の手には、ドレスが握りしめられていた。
ついに元通りにならなかった思い出のドレス。
まったく同じものを、彼は旅立つ前に発注していたのだ。
シャイロック商会の次男のエセルリードが、地に額をこすりつけるようにして謝罪していた。
私に毒を盛ったのは彼の友人だった。そして、エセルリードもまた、愛しい人の命を、シャイロックによって理不尽に奪われていた。悲痛のあまり自らかきむしった頬の傷が痛々しい。
彼はなにひとつ悪いことはしていない。
なぜ優しい人ばかりが、涙を流さねばならないのか。
「・・・・・君のおかげで、美しいままの妻に、再び会えた。ありがとう」
ヴェンデルもエセルリードを責めなかった。
ヴェンデルは私の身体に優しくドレスをかけ、そっと口づけをした。
私のほつれ毛を優しく手直しする。
はじめて私達がキスを交わしたあの日のように。
「さよならは言わない。その代わり、ぼくはもう一度君にプロポーズしよう。誓おう。ぼくの伴侶は生涯、君一人だけだ。これからも、今までも。ぼくの人生は君とともに」
それから、横たわる私の傍に座り、ぽつりぽつりと生ある者にするように、語りかけはじめた。
そうやって一晩中、思い出話をしてくれた。
出会ったときのこと。私の故郷の大木のこと。プロポーズしたときのこと。
驚くほど小さな日常の出来事まで、彼は憶えていてくれた。
胸がふるえる。
私はこんなにも彼に愛されていた。
口数が多いほうではなかった。
正直なにを考えているか、わかりづらいときも最初はあった。
無頓着に思えたこともある。変わり者と自分でも言っていた。
けれど、こんなにたくさんの想いを、彼は胸のうちに秘めていた。
いつも私のことを考えてくれていた。
今回の密命も、私の故郷のオブライエン領で余生を過ごすためだった。
私のために中央から引退する覚悟だったのだ。
私ははじめてそのことを知った。
気をつかわせまいと、彼は秘密にしていたのだ。
いつだってヴェンデルは心の中に私を置いていてくれた。
王家は彼の能力を手放したくないから、無理難題を押し付けた。
はるか昔から燻っていた民族紛争。十年かかっても解決は不可能と王家は予測していた。
けれどヴェンデルは命懸けでやり遂げた。
私の出産予定日までに帰宅する。ただそれだけのために時間を大幅に繰り上げてまで。
そんな彼が、浮気などしようはずがない。
涙がとまらない。
ひとり語るヴェンデルの背中が、とても小さく見えた。
「・・・・・ぼくは結局、君を不幸にしか・・・・・できなかった・・・・・!」
ヴェンデルが言葉に詰まった。嗚咽していた。
震える肩を、後ろから抱きしめてあげたかった。
そんなことはない、あなたに出会えて、私は幸せだった。
そう叫びたかった。
だが、もう私にはなにも出来ない。
声をかけることさえも。
哀しい。悔しい。
ヴェンデルに触れたい。娘を抱き上げたい。
もう一度、もう一度、人生がやり直せたら!
愛する人とともに、生きるということが、どれだけ価値のあることか。
それを思い知って、私は泣き崩れた。
私はそれから先のヴェンデルの人生を見た。
スカーレットと名付けられた娘の人生を見守った。
ヴェンデルは私との他愛ない約束をおぼえていてくれ、娘をそう名付けたのだ。
胸が熱い。
私の夫はそういう人だった。
二人の数奇な人生を見守る私は、すぐに異常に気づいた。
娘の人生につきまとう不気味な影があった。
娘と同日同刻に産まれた、人形のように可愛らしい女の子。
だが、その本性は「赤の貴族」達の悪意が子供だましに思えるほどの、底なしの闇だった。
「あははははっ! みんな、みんな、かわいそう!!」
スカーレットの大事な人を何人も謀殺し、気づかないところで、笑い転げる悪魔。
泣き崩れるスカーレットを陰から眺め、えへらと不気味に嗤う。
あまりのおぞましさに私は震え上がった。
それはスカーレットの笑顔を奪うことを生き甲斐とする、アリサという名の化物だった。
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