108回殺された悪役令嬢。すべてを思い出したので、乙女はルビーでキセキします。
第21話 お父様が留守のあいだ、お母様を託した、三戦士ってどんな人達? 老兵たちは道半ばで散ります。けれど、その願いは、きっと無駄ではないのです。
第21話 お父様が留守のあいだ、お母様を託した、三戦士ってどんな人達? 老兵たちは道半ばで散ります。けれど、その願いは、きっと無駄ではないのです。
公爵が密命を帯びて旅立ったその夜に、時間は少しさかのぼる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その三人の老戦士は、まるで三つ子のようにそっくりだった。
日がすっかり落ちた街道には、人っ子ひとりいない。
だが夜目がきく彼らは、灯りももたず、悠然と歩みを進める。
かってこの地を支配したロマリア文明の築いた道は、あまたの行き来する人々と幾年の風雪にさらされても、なおもしぶとく健在だ。この老人たちと同じだった。
「夜風が気持ちいいのう」
「まったくじゃ。どうじゃい。家で迎え酒など」
「やめとけい。おまえ達と家呑みなどすると、夜があけるわい」
老戦士達は、その半生を戦場で過ごしてきた。
祝い事に酒、仲直りの証に酒、哀悼に酒、彼らはなにかというとすぐ酒を飲む。
酒で憂さをはらい、血と鉄と怒号にみちた戦場を故郷とする。
それがこの老戦士達の生き方だった。
背はそれほど高くないが、碁盤のようにがっしりした体躯が、長い外套ごしにさえわかる。
はちきれんばかりの質量が、上背以上に彼らを大きく見せていた。
クズリのように抜け目なく手強い印象だ。
それでも風格があるのは、生き抜いた歳月によるものか。
ぶ厚い布地の外套は、頑丈なブーツの足首近くまであった。
外套というより、マントの形状に近い。
まるで、てるてる坊主のような塩梅だが、切れ目があり、手足の出し入れは自由なのだった。
見る人間が見れば、外套には、雨よけの油が丹念に塗りこまれているのに、気づくだろう。
戦場は野外で就寝することも多い。彼らはこの外套にくるまって眠る。
外套は寝床であり、服であり、防具なのだ。
それを平時でも愛用するほどの、生粋の戦士達だった。
老戦士たちは、蓬髪を無造作に後で束ね、顔の下半分はこわい髭で覆われている。
並んでいると同じ顔にしか見えない。
ただ幸いなことに、三人の髭と髪の色は、それぞれ黒と、茶と、白の見事な三色であり、誰が誰かはっきり区別がつくのだった。
老戦士たちは、ほろ酔いで上機嫌だった。
「いやあ、久しぶりに少し酔ってしまったのう」
黒髭のボビーが、ぶうっとふいごのような息を吐く。
けれど足元はいささかもふらついていない。
この三人をほろ酔いにするために、酒場は酒樽をひとつ空ける羽目となった。
化物じみたウワバミ爺さん達であった。
「若殿から、奥方様を託されたぞ。手をとって、わしを頼ってくださったのじゃ」
と茶髭のビルが嬉しそうにうなずく。
思い出したのか、感極まって、目に涙を浮かべる。
「若殿が頼ったのは、おまえではない。わしをよ」
黒髭のボビーが聞きとがめ、ぐるりと振り返る。
「なにを抜かすぞ。この老いぼれが。耄碌め」
茶髭のビルが歯をむいて笑い、黒髭のボビーが顔色を変えた。
「老いぼれ耄碌とは、よう言うた。わしが老いぼれかどうか、その身で確かめい!」
黒髭が掴みかからんばかりの勢いで詰め寄る。
「おう! 言うたぞ! やれるものなら、やってみい! 返り討ちにしてくれようぞ!」
一触即発の雰囲気でいがみ合い出した黒髭と茶髭に、黙ってみていた白髭がため息をつく。
「やめんか。若殿は、我ら三人を見込んだからこそ、大事な奥方様を託されたのだ。若殿の信頼は裏切れぬ。我ら一丸となり、奥方様を守りぬくべし。仲違いなどするでない。ハイドランジア三戦士の名がすたるぞ」
リーダー格の白髭のブライアンの言葉に、黒髭と茶髭が、顔を見合わせ相好を崩す。
「まったくその通りよ。三戦士の名にかけて」
「我らが力を合わせる限り、どんな敵にも、遅れはとらぬぞ」
ばんばんとお互いの肩を叩き合い、がははと笑う。
長い間、ともに戦場を生き抜いた戦友だ。
三人の強さは横並びであり、それゆえに我が事のように互いの言動が理解できる。
口喧嘩するのは遠慮不要の竹馬の友だからだ。
なんだかんだで気心が合う間柄なのだった。
三戦士が若殿と慕うのは、ヴィルヘルム公爵。
紅の公爵と呼ばれるスカーレットの父親だ。
そして彼らは、ハイドランジアの三戦士の異名をとる、歴戦の古強者達であった。
黒髭のボビー、茶髭のビル、白髭のブライアン。
王家親衛隊を長年務め上げた三人は、ヴィルヘルム領の出身者だ。
もともとは人格者で知られた「先々代」のヴィルヘルム卿の部下であった。
その縁で、三戦士は、かっての彼らの主君の孫の、紅の公爵と、軍事行動を共にする事が多かった。
公爵に惚れこんでいる彼らは、王家親衛隊の中核でありながら、いつの間にか公爵の直属部下のような立ち位置に、ちゃっかりとおさまっていたのである。十年前の魔犬討伐といい、それで抜群の戦果をあげるため、王家も苦笑いして黙認せざるをえなかった。
三戦士は今は引退し、悠々自適の生活をおくっている。
とはいえ、引退を申し出た理由が、「王家親衛隊の隊長に、一騎打ちで負けるようなった」なのだから、その実力はまだまだ健在だった。王家親衛隊はハイドランジアの最強部隊だ。
中でも親衛隊長の実力は傑出していて、副隊長以下では歯が立たない。
その隊長とやり合い、三本のうち一本は奪取するのだから、彼ら三老人の引退を聞いた王家は慌てふためいた。王家の手駒の最強と渡り合う戦士達が、三人そろって、公爵のもとに走ってはたまったものではない。引きとめたが、頑固な彼らは首を縦にふらない。
結局、王家は渋々と引退を了承したが、三人がヴィルヘルム公爵の家臣になることだけは、断固として拒否し続けた。公爵の屋敷の敷地内に立ち入ることも禁止された。
ボビー、ビル、ブライアンは憤慨しつつも王家の決定に従った。
紅の公爵は、王命で領地を留守にしがちだ。
公爵の父親、バイゴッド侯爵の暴政の爪あとは、今も公爵の領地ヴィルヘルムに残っており、領民達の恨みも深い。
留守中に叛乱をもくろむ不逞の輩が出たのも、一度や二度ではない。
ハイドランジアの英雄である公爵は、否応なく目立つ存在だ。
比例して内外になにかと敵が多い。
ヴィルヘルム領の顔役である三戦士たちは、屋敷の外で不満の押さえ役にまわり、公爵の力になる道を選んだのだ。
彼らが睨みをきかせている間は、シャイロック商会でさえ、ヴィルヘルム領に介入できなかった。
宮廷では無爵の戦士だが、彼らはこの地の隠れた実力者だった。
紅の公爵は、そんな彼らを心から頼りにしており、全幅の信頼を寄せていた。
だからこそ、出産をひかえた愛する妻を、安心して彼らにまかせたのだった。
「のう。産まれてくるお子も、若殿のように、馬闘術を使えるようになるかのう」
黒髭のボビーが目をしばたかせ、問いかけてくる。
馬闘術とは、ヴィルヘルム領の領主に代々受け継がれてきた、人馬一体の武術のことである。
馬は巨大な筋肉の塊だ。生み出す筋力は人間の比ではない。
その運動エネルギーを特殊な身体操作で乗り手に伝達し、長棒による武術として使用するのが馬闘術だ。
長棒には、鉄条が巻きつけられており、先端は鉄で覆われている。刃とうちあっても切り飛ばされることはない。
馬のパワーが加算された、その破壊力は桁はずれだ。
一撃で鎧をへしゃげさせ、大剣をへし折り、兵士たちをおが屑のように吹き飛ばす。
紅の公爵が戦場で無敵を誇ったのは、この馬闘術があったからこそだ。
一撃一撃の威力が、騎兵の最強突撃技のランスチャージに匹敵するのだ。
局地戦の劣勢を単騎でひっくり返し、敵を恐怖させ、死にかけていた味方に活力を与える。
英雄の名は伊達ではないのだ。
「う~む、どうじゃろ。バイゴッドの孺子
こぞう
は使えんかったし・・・・」
茶髭のビルが不安げに首をかしげる。
彼ら三老人にとっては、壮年のバイゴッド侯爵も小僧扱いなのだった。
「あやつのいいところは、若殿を世に残したことぐらいじゃしな」
くそみそ扱いもいいところだった。
馬闘術は、天賦の才と胆力と名馬、その三つがそろってはじめて可能な神技だ。
はねあがる馬上で両手を離し、馬と心と呼吸を一つにし、弓矢飛び交う戦場で、精緻な肉体操作を平然とこなすことが必須なのだ。
誰でも彼でもできるものではない。
事実、バイゴッド侯爵の代で、あやうく継承は途絶えるところだった。
運よく先々代が健在であり、紅の公爵が幼い頃から才をあらわしたため、奇跡的にひとつ飛ばしの継承が可能だっただけだ。
ヴィルヘルム領主のお家芸をあわや潰しかけたバイゴッド侯爵を、三老人は侮蔑しきっていた。
自分たちの故郷をむちゃくちゃにされた恨みもあった。
「・・・・・あんな馬鹿殿は、リンガード家の誇り高い血筋に二度と産まれんわい」
白髭のブライアンの評価も辛辣だった。
「まあ、膿を出したからには、リンガード家はあと300年は安泰じゃわい」
渋面で吐き捨てる。
「生まれるお子は、きっと若殿と同じく、馬闘術の達人になるに決まっとるわい! そして、そのお子が成長した暁には、わしが初陣にお供する。戦場の習いをご教授さしあげねば」
「ふざけるでないわ! この白髭が! 」
「黒髭も白髭もひっこんどれ! それは、わしの役目じゃ! 」
三人の老戦士が額をぶつけあうようにして、互いに仲良く権利を主張しあう。
罵り合っていたが、目は笑いあっていた。
彼らがどれだけ公爵の子の誕生を心待ちにしているかわかる、ほほえましい光景だった。
「・・・・・ひひっ、残念ながら、おまえ達の願いが、かなうことはないわなぁ」
引き攣るような耳触りな笑い声が、三人の心地よい喧嘩を中断させた。
瞬時に警戒の体勢で身構えた三戦士。
眼前の暗闇から、ゆらりとせむしの老人が現れ出た。
「なぜなら、おまえ達は、ここでくたばるからのぅ」
と邪悪な貌で嘲笑する。
潰れたもう片方のぶんまでぎらつく片目を見て、老兵達が唸る。
「・・・・・ジュオウダの魔犬使い・・・!」
「憶えていてくれたとは、光栄だわい。じゃが、やはり耄碌したのう」
と侮蔑する魔犬使い。
「なんじゃと・・・・・」
普段と違い、戦闘時に挑発に乗るような老戦士達ではない。
だが、ジュオウダの魔犬使いの言葉の端々には、看過できない悪意がしたたっていた。
「耄碌は耄碌じゃ。わしのかわいい子、ガルムに・・・ほれ、背後を取られるまで気づかんのだから」
「なっ・・・・・!」
「ビル!! 後じゃあっ!!」
振り向いた茶髭のビルが息をのみ、白髭のブライアンが叫ぶのが同時だった。
雄牛のような体躯の魔犬が、硬玉のような目で見下ろしていた。
歴戦の自分達に気配を感じさせず、それだけの巨大な化物が背後にまわりこんでいたという事実に、三人は戦慄した。かって公爵とともに魔犬使いを追い詰めた三人だったが、こんな化物のような魔犬は見た記憶がない。
魔犬の牙がひらめいた。
巨大なあぎとが、コマ落としのように降ってくる。
胸の悪くなる獣臭が、つんとした。
「わしの雇い主が、公爵邸にちょっかい出すのに、おまえらは邪魔だとよ」
魔犬使いが嗤う。
茶髭のビルの頭が、噛み合わせる牙の音に呑み込まれる。
「はっ!! まずは一人じゃ。わしの傑作ガルムにかかれば、なんと他愛もない」
あざ笑う魔犬使い。が、その笑みが途中で強張る。
「・・・・・耄碌はどっちかのう。ハイドランジアの三戦士を甘く見るでない」
茶髭のビルの不敵な笑みがあらわれる。
魔犬ガルムの牙は閉じきる前に止まっていた。
茶髭のビルは篭手をはめた両腕を顔の前にかざし、魔犬の牙を受け止めたのだ。
「それにのう。そんな企みを聞かされて、黙って死んでやると思うたか」
「介者剣術か・・・・・!!」
魔犬使いが唸る。
介者剣術は、刃の一撃を避けず、わざと防具で受け止めることで、相手の動きを封じ、至近距離で敵を刺し殺す戦場流である。荒々しく単純だが、それだけに強力だ。三戦士の篭手は特別製で、内部には小さな鋼のプレートがびっしり縫いこまれている。鋭い刃にもひけは取らない。
「学習せんのう。わしらに散々、この手で痛い目見せられたのにのう」
「でかした! ビル! 」
「わしらは、剣術
やっとう
でなく、もっぱら片手鎌
こちら
じゃがな」
茶髭が笑い、白髭と黒髭が、外套の内側に手を入れ、片手鎌を引っ張り出す。
刃の部分に異様な厚みがある。両手剣や鎧とぶつかっても壊れないつくりだ。
三戦士は携帯用の砥石を懐に、鎌の切れ味を維持しながら、戦場で暴れまわるのだった。
茶髭のビルが食い止めている魔犬ガルムめがけて、鎌を振りかざして二人が殺到する。
「・・・・・・ちっ」
舌打ちした魔犬使いが立ち塞がる。
その手から、投擲用のナイフが放たれる。
銀条が続けざまに閃く。
「ふんっっ」
疾駆する白髭ブライアンが避けようともせず、突撃しながら外套を一振りする。
金属音が響き、ナイフが弾き飛ばされた。
外套は生地の内部に鎖帷子を縫いこんである。
なまじの矢では貫通できないほどの防御力がある。
そして、
「邪魔じゃ! 退
の
けい!」
「・・・・・がっ!?」
白髭ブライアンが、外套を素早く脱ぎ、引っつかむと、魔犬使いに叩きつけた。
高い防御力の重みある外套は、刃対策の武器にもなる。
小刀を取り出し襲い掛かろうとした魔犬使いの視界が遮られる。
そのまま外套で顔面をしこたま打ち据えられ、吹き飛ばされる。
「獲った!!」
「くたばれ!」
魔犬ガルムの左右両脇から、老戦士二人が鎌を閃かす。
見惚れるような稲妻の素早さだった。
狙いは魔犬の頸動脈だ。
「うおっ!!」
「なっ!?」
二人の鎌は空を切った。幻のように魔犬ガルムが消えうせた。
ぼきぼきっという妙な音がした。
なにが起きたかわからず、とんっとんっと、たたらを踏んで二人が止まり、呆然とする。
「上じゃあ!! ぼっとするでないわ!!」
茶髭のビルの声が頭上から落下してくる。
どんっと地面にぶつかる。
慌てて見上げた、白髭ブライアンと、黒髭ボビーが凍りつく。
今の刹那になにが起きたか理解した。
魔犬ガルムは口に咥えたビルを人形のように放り出し、跳躍して鎌をかわしたのだ。
その信じられない神速と高度に、老戦士達は戦慄した。
翼でも生えているのか。
猛獣どころか、まさに魔物だ。
「このくそ爺いどもが!! 本気で殺せ! ガルム!!」
身を起こした魔犬使いは、憤怒で顔が歪んでいた。
額から血を流して怒鳴る。
いまだ空中にある、魔犬ガルムの身体が、数倍にめりめり膨れ上がったようだった。
転がるように飛び起きた茶髭のビルが、二人の盟友にささやく。
「左腕がやられた。見てみい。もう使い物にならんわい。化物じゃ」
あまたの刃を受け止めてきた篭手が、ぼろ屑のようになって垂れ下がっていた。
露出した左腕の肘から先は、すでに原型を留めていなかった。
妙な音はビルの腕が噛み砕かれた音だったのだ。
「一咬みでかよ。やれやれ。まいったの」
鋭く一瞥し、白髭ブライアンが、わざとらしくため息をつく。
「これは命捨てねばならんかの。もう一樽くらい空けとけばよかったのう」
「若殿の奥方様と、お子の命を守っての討ち死にじゃい。酒はないが花は咲く。捨てたものではないぞ」
黒髭ボビーが髭をしごく。
「違いないわい。悪くない死に花じゃ」
三戦士は笑いあった。
「生まれてくるお子に、じ
・
い
・
として、いいところを見せねばの」
「はじめての、じ
・
い
・
稼業として、不足ない相手じゃわい」
「犬ころめを酒の肴代わりに、咲き誇ろうかい」
勘の鋭い彼らは、魔犬ガルムとの実力差をはっきり認識した。
もう生きては帰れない。
「わしとボビーで奴の動きを止める。片腕なくても、肉なら幾らでもあるわい。ブライアンがとどめ役じゃな」
眉ひとつ動かさず、茶髭のビルが提案し、三人は頷きあって、拳を高く掲げぶつけ合った。
「さらば腐れ縁の友よ」
「あの世でまた呑み比べしようぞ」
「では、ぱっと死に花咲かそうかい」
ふっきれた笑いの三戦士を、落下してきた魔犬ガルムの巨影が襲った。
風が渦巻く。
激しい激突音が連続した。
三人と一匹はひとつの塊となり、疾風と化して地面を転げまわった。
魔犬は圧倒的な嵐だった。歴戦の三戦士が、まるで非力な子供のようだった。
それは絶望的な戦いだった。
あたりが静寂を取り戻すのに、さして時間はかからなかった。
黒髭ボビーは、右手で魔犬の片脚を抱え込み、左手で鎌を地面に突き刺していた。
鎌は地にうちこまれた楔となり、魔犬の動きを封じていた。黒髭の目はうつろだった。首筋がぱっくりと噛み裂かれていた。だが、最後まで友の勝利を疑わなかった彼の死に顔は穏やかだった。そして、意志をなくしてなお、自分の与えられた役割に殉じ続けていた。
茶髭ビルの、右肩は無惨に噛み砕かれていた。両腕は骨が露出するほどぼろぼろだった。
鎌が持てなくなった彼は、おのれの身体そのものを、魔犬ガルムの牙止めに使った。息をひきとるその瞬間まで、彼は勇気ある自己犠牲をやめようとしなかった。すべては友の一撃に繋ぐために。彼の顔もまた穏やかだった。
そして白髭ブライアンは、片手鎌を両手で握り締め、両足を踏ん張り、咆哮した。
戦友たちが命がけで作ってくれた機会に応えるべく、鬼の形相で渾身の一撃を、魔犬ガルムの心臓めがけ叩き込んだ。
狙いはあばら三枚と呼ばれる、前足の付け根の横。四脚の哺乳類の急所だ。
熊の毛皮さえ、あっさり貫く威力の斬撃だった。骨に切り込む勢いがあった。
異様な衝撃が跳ね返ってきた。
予想外の出来ごとに、ブライアンの目が見開かれる。
「馬鹿な・・・・・」
呆然と呟く。
鎌の刃の先端が欠けた。
かろうじて鎌の柄は離さず済んだが、一撃で手が麻痺した。
生物の皮膚の感触ではなかった。
よく目を凝らすと、毛皮の色が少し違っている箇所がある。
「胴甲
どうよろい
じゃと・・・・・!!」
気づいたブライアンは、おのれの迂闊さに歯噛みした。
戦友たちの捨て身が犬死だったと悟ったのだ。
毛皮を貼り付けて偽装しているが、魔犬は防具を身につけていた。
それも多分、板金を内部に留めたブリガンディンだ。
知っていたら、せめて目だけは潰せたものを!
「世の中には、心臓を止める技を使う化物もおるからのぉ。その対抗策じゃて。まったくの無駄死と悟れたか? おまえの仲間達も滑稽よのお。笑顔なぞ浮かべて死におって」
白髭ブライアンの悔しさに歪む顔を目撃し、魔犬使いは上機嫌だった。
魔犬ガルムは、咥えたビルの死体を、立ち尽くすブライアンめがけ、振り回した。
鈍器と化したビルの死体をぶつけられ、ブライアンはよろめいた。
一瞬だが、意識がとんだ。
はっとしたときには、もう遅かった。
魔犬ガルムの牙が、ブライアンの猪首を横から咥え込んでいた。
咄嗟に両篭手と鎌の柄を添えるようにガードしたが、桁外れの咬合力は、それごとくわえ込み、めきめきと粉砕をはかる。
「ガルムよ。食い千切る必要はないぞ。ここからはお遊びよ。ゆっくり噛み砕き、恐怖を味あわせてやれい」
犬は本気で戦うとき、首を激しく振り、肉をちぎりとろうとする。
それすらする必要がないと発言し、魔犬使いは老戦士を愚弄したのだ。
足元に転がるビルの死体を蹴りつける。
「ひひっ、ハイドランジアの三戦士だと。笑わせる。前座にもならなんだんのぅ」
「おのれぃ・・・・・! 戦士の死を穢すか!」
歯軋りするブライアンを、さらに嘲弄する。
「戦士なぞどこにおる? 哀れな老人達の骸なら転がっておるがの。おお、そうそう。死ぬ前に、いいことを教えてやろう。わしにおまえ達を殺すよう頼んだのは、シャイロック商会よ。公爵夫人を堕胎させるのに、おまえらが目を光らせてると邪魔なそうな」
ブライアンの目が怒りに燃える。
目だけで人を殺せるような殺気を叩きつける。
魔犬使いはたじろぎもしなかった。
ひひひっと邪悪な声をたて、背後をちらりと見る。
「わしらに任せれば、今すぐに、公爵夫人を腹の子もろとも食い殺してやるのにのぅ。ガルムは子供の柔らかい肉が大好物での。一度は腹の中の赤子を食らわせてやりたいのぅ。さぞ喜ぶじゃろうて」
「この外道が・・・・・!」
憤怒で火をふきそうだったブライアンの目が、恐怖に見開かれる。
魔犬使いの背後の闇から、新たな魔犬二匹が、ぬうっと現れたのだ。
ガルムほどではないが、それでも仔牛ほどの巨体だ。
「戦力差が理解できたか。では、絶望にのたうちながら死ね。近いうちに、公爵の子もそちらに行くだろうて。あの世で、待望の子守をするがよいわ」
噛み砕く力が一気に加わった。
肩を濡らすのは、魔犬の涎か、己の血なのか、もはや区別がつかない。
異音と激痛の中、ブライアンは懸命にあがき続けた。
〝死ねん! こいつらを残しては死ねん! ビルとボビーに顔向けできん! 若殿の奥方様と、生まれてくるお子のためにも! せめて一太刀・・・・! 大殿! わしに力を・・・・!〟
願いが空しく、頑丈な鎌の柄が、まず砕けた。
両篭手に牙が食い込んで行く。
牙の先端が首筋に押し当てられた。
ガルムの目が不気味な喜悦をたたえて、にいっと底光りする。
瀕死の獲物の抵抗を楽しんでいた。
魔犬使いに唯唯諾諾と従っているだけではなく、この魔犬には邪悪な意志がある。
ブライアンは戦慄した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「・・・・・おじい。おじいったら! 起きてってば 」
スカーレット姫さまの呼びかけで、わしは目を覚ました。
いかん。姫さまを膝にのせたまま、つい寝こけてしまっていたらしい。
無数の戦場を駆け抜けたわしも、もう年かのう。
「すみませんのう。姫さま」
頭をかきながら、謝るわしに、膝の上の姫さまは優しく笑った。
「おねむなら、私がひざまくらしたげるよ」
「なんともったいない。ですが、もう少し大きくなられたら、お願いしますわい」
不覚にも目頭が熱くなったわい。
若殿譲りの、目の覚めるような赤髪と紅い瞳。
まだ幼いのに、大殿のおもかげが見える。
「泣いてるの? おじい、かなしい事あったの?」
気遣わしげにわしを見上げ、背伸びして指で涙を拭ってくれる。
「かなしかったら、むりしないで、泣いていいんだよ。涙がとまるまで、私が、ぎゅってしてあげる」
首に手をまわし、ぎゅうっと抱きしめてくれる。
密着した姫さまの頬が、わしの顎髭に埋まる。
痛いだろうに、小さなお手の力をゆるめようとしない。
鼻の奥が、つんとする。
かわいらしく利発な、わしらの希望の花じゃ。
「これは歓喜の涙ですわい。姫さまの膝枕のお申し出が、嬉しすぎましてな。うんと長生きせねばならん理由ができましたわい」
「うん! 約束だよ。おじい達も、私が大きくなるまで、ぜったい長生きしてね。ゆびきり!」
そして、なんと心優しい姫さまじゃ。
リンガード家の良いところが、すべてこの姫には受け継がれている。
守りぬけてよかった。
心からそう思う。
約束しますとも。わしらが安心して、姫さまをおあずけできる、立派な殿方が現れるまで。
わしらはずっとお側で、姫さまを守り続けますわい。
その日まで、死んでも死にきれんわい。
今きった胸の十字に誓って。
幼い姫さまと約束の小指をからませながら、わしは相好を崩した。
もう二本の小指が横から伸びてくる。
おお、ボビー。ビル。腐れ縁の戦友たちよ。
おまえたち、そこにいたのか。ちゃっかり約束に加わりおって。
なんじゃ、二人とも、そのだらしない笑顔は。
そんなに姫さまが好きなのか。
わしも、きっと同じような顔しとるんじゃろうなあ。
おまえらとは腹が立つほど気が合うの。
ああ、姫さまが笑っておられる。
かわいいのう。かわいいのう。
わしら三人の孫みたいなものじゃ。
若殿のお子の初陣のお供をする願いは叶わなかったが、わしらには新しい夢ができた。
見たいのう。姫さまの花嫁姿。
きっと、息をのむほど美しかろうなあ。
生きたいのう。その日まで。
だが、なまじの男には、姫さまは、くれてやらんぞ。
わしらの自慢の姫さまじゃ。
わしらが納得する男でないと。
わしらの眼鏡は少々厳しいぞ。
なにせ、姫さまは、わしらの希望じゃ。
一番の宝物を託すのじゃから。
それまでは、わしら三人が、ずっと姫様をお守りして・・・・・・
「・・・・ずっと・・・お守りしますぞ・・・・姫・・・・さま・・・・約束・・・・」
ごきりと首の骨の砕ける音がした。
すでに酸欠で意識の朦朧としていたブライアンは、その音を遠くで聞いた。
「ひひっ、なにが約束よ。耄碌じじいが。酸欠で幻でも見たか」
魔犬使いが嘲笑した。
三戦士は散った。
街道での死闘は、当事者以外、誰の目にも触れることなく終わった。
魔犬達に死体がひきずられていく音が、むなしく響く。
だが、老戦士達の死は無駄ではなかった。
思わぬ形で、スカーレット達を窮地から救うことになる。
だが、それが明らかになるのは、まだ先の話。
今はただ、道の先には、無明の闇が広がっていた。
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