第17話 幸せな再会なら、気づかなくても、やっぱり幸せ?
皆様、ご機嫌麗しゅう。
私、108回殺された悪役令嬢こと、本編の主人公をつとめさせていただいております、スカーレット・ルビー・ノエル・リンガードと申します。
以後、お見知りおきを。
ただいま、109回目の人生を満喫中です。
花も恥らう、ぴちぴち乳児・・・・・・。
喋れぬ。歩けぬ。立ち上がれぬ。
陸にあがった、ぴちぴち魚のごとき存在です。
正式な名乗りはまだありません。
実は名無しのゴンベ子です。
事情があって、洗礼を受けてないのです。
ふうっ、しばらく出番がなかったせいかな。
久しぶりに娑婆の空気を吸った気分・・・・!
前回のあらすじです。
無理して笑ったら、顔面が引き攣ってしまったの。
ブラッドが、私を笑いものにします。
頭にきたので、力尽くで顔を元に戻したら、今度は反動で、ドスがきいたぶすくれ顔になりました。
据わった目つきでメンチきったまま、表情筋が固まっています。
眉間にむっちゃ皺寄ってます。
いったい、私、どうなっちゃうの!?
ふふっ、でも、大丈夫。人生とはまこと移り行く儚きもの。
諸行無常、栄枯盛衰、ゆえに明鏡止水の心もて、万事にあたらんとす。
こう見えても、108回も殺された人生もちの私です。
こんなピンチぐらい日常茶飯事なのです。
お茶の子さいさい。果報は寝て待て。そのうち、きっと治ると思う。
風は、いい知らせも悪い知らせも運んでくるもの。
人生、つらいことばかりじゃない。
・・・・・・・・・・・
ごめんなさい! やっぱ無理!!
達観してませんでした。やせ我慢です。
いくら108回の人生経験があるとはいえ、私だってうら若き女性の端くれ!!
なにが哀しくて、極道の親分顔、せにゃならんのじゃい!!
これじゃ、主人公をつとめるどころか、おつとめご苦労さま、だよ!
誰か、私を助けに来て!
颯爽とマントをひるがえす白馬の王子様、カモォォオオン!!
「・・・・・ということで、このチビは、間違いなく意識があるって、はっきりした。大人と同じだよ。こっちの言ってる事もわかってるし、何が起きてるかも理解してる」
ぎゃあああっ!ブラッドおおっ! あんた、また余計なことを!
王子様じゃなく、メイド服のスカートひるがえした魔王が来ちゃったよ!
「オレ、血液の流れでわかるんだ」
でたよ! また!
あんたにとって、血液の流れは免罪符かなんかか!
なんでもかんでも、そのひとことで片付けやがって!
だいたい何勝手に急展開かましてんの!?
そういう疑惑はね、もしかして周囲にばれた!?って匂わせながらひいて、次回にはなにごともなかったかのように日常に戻るってのが、セオリーでしょうがっ!!
ばんばん核心にふみこんでくるんじゃあないッ!
くっそお! 前の108回では寡黙な殺し屋だったくせにぃ!!
少年になった途端、リボンしてスカートぱたぱたさせて、ぺらぺら喋る男の娘キャラにジョブチェンジしやがって! そこ、ほんとは私のヒロイン枠でしょっ。人が乳児ってる間に!
私は怒りのあまりじたばたした。
憤懣やるかたなしっ。
それだけでは気がすまず、腹立ち紛れに、想像のなかで、成人したブラッドにメイド服を着せてやった。
もちろん今のブラッドが着てるのと同じサイズのものをだ。
当然リボンも忘れずに・・・・な!
ぷーっ!!
つんつるてんのスカートで、太腿のなかばまで丸出しでやんの!
精悍な陰のある表情で、きっと顔をあげ、
「・・・・・・死にたくない奴は、道をあけろ」
とか渋い声で、決め台詞っぽく、脳内再生してやるもんね!!
もちろん華麗にカーテシーを決めさせながらだ!
対戦相手たちが目を白黒させる様子が目に浮かぶようだ。
どうだ! 悔しかったら、お得意の血液で私の心を読んでみなよ!!
読んでも手も足も出まいが!
わっはっはっ!
と溜飲をさげた私は、現実でも会心の笑い声をたてた。
悪役令嬢の高笑いを、お喰らいあそばせ!
おーほっほっほっほっ!!
「ゲーッゲッゲッゲッーェッ・・・・・・!」
ひええッ!?
なんじゃ、この、身の毛もよだつような声は!
ぶすくれた顔のまま表情筋が硬直しているから、くぐもった変な笑いかたに!!
これじゃ、もう悪役令嬢どころか、悪霊令嬢だよ!
「・・・・お嬢様は、意識があるんですか。私の言ってる事がわかりますか? 」
メアリーが私をのぞきこみながら、おすおずと話しかけてくる。
しまった。アホの子、ブラッドにかまけてる場合じゃなかった。
このままでは、不埒者ブラッドに、私の揺りかご1メートル四方からの所払いの罰をくだす前に、私が島流しの憂き目にあいかねない!!
言葉を完全に解する新生児なんて、あやしさ大爆発だもの!
魔女扱いされても不思議はない!
愛想だ! とにかく愛想をふりまくんだ!
今の私の唯一の武器、天使の笑顔でここは乗り切るしかない!
にたあっ。
「なんか、怒ってらっしゃるみたい・・・・・」
と悲しそうな顔のメアリー。
ちがうよ!!このドスのきいた顔は、顔面の筋肉が硬直してるからなの!!
誤解しないで!!
怒ってなんかないよ! 大好きだよ!メアリー!
私は顔面の麻痺をほぐそうと、必死に両手で頬をこすりたてた。
も、もどらん!!
せ、せめて笑い声を・・・・・・!
「ゲーッゲッゲッゲーェッ・・・・・!」
ぎゃあああ!! こわいっ!
また、もののけ風味な奇怪な笑い声に!!
これじゃ、もう魔女を突き破って、悪霊憑きだよ!!
「・・・・・なにやってんだか」
呆れ顔をしたブラッドが、私の首筋を挟むように指をあてた。
「ほい」
ぽんっという感じで、軽くなにかがはじけたような気がした。
ぽかぽかと身体が温まる。
入浴させてもらっているときのように、余計な力が抜ける。
頬の強張りがほぐれた。
おおおっ! 動く! この顔、うごくぞッ。
「・・・・・・ホワアアア~」
やっとドスのきいた顔から解放され、私は安堵の息をついた。
ありがとう、ブラッド。ごめんね、ブラッド。
お詫びに、脳内の成人ブラッドに、ちゃんと膝丈下のスカートはかせてあげるね。
私は感謝のしるしにブラッドにウインクしつつ、ドスっ娘からドジっ娘に無事に戻れた照れ隠しに、テヘペロを決めた。
「な、こんな事する赤ん坊、絶対いないだろ」
ブラッドの言葉に、お母様とメアリーが目を見開いて頷く。
げえッ!?
ジャーンジャーンジャーン!!
ど、銅鑼の音が聞こえる!!幻聴!?
こんなところにも伏兵が!!
おのれ!! ブラッドおおっ!
二重の罠で私を嵌めるとは!!
さすがはブラッド。
メイド服のスカートの下に暗器を隠し持つ漢よ。
この私に悟らせず、見事な罠をしかけるとは・・・・・
だが、もう油断はしない。
前の108回の人生で、私は常に女王となった。
生き馬の目を抜く苛烈な継承権争いを勝ち抜いた。
そう何度も隙をみせると思うなよ。
「そして、こいつは、隙だらけのアホだ」
むきーっ!! アホの子にアホって言われたっ!
「・・・・驚きました。ほんとうにお嬢様は、意識がおありなんですね」
メアリーが私を覗き込みながら、話しかけてくる。
語尾がかすかに震えている。
・・・・・もう隠せない、か。
私は仕方なく、こくんと頷いた。
「そう・・・・ですか」
メアリーは黙り込んでしまった。
私を抱き上げているメアリーの手の震えが伝わってくる。
放り投げ出されないだけ、まだマシなのだろう。
そうだよね、気持ち悪いよね、こんな新生児。
私はメアリーに伸ばしかけた手を、あきらめて引っ込めた。
「アーウーアー・・・・・」
ごめんね、今まで、だましてて。
でも、私、嬉しかったんだ。
メアリーが、私を本当の自分の子みたいに可愛がってくれて。
私も、自分がほんとにメアリーの子になったような気がしてたよ。
メアリーの亡くなった息子さんの代わりが、少しでも出来れば、そう思ってた。
前の108回の人生で、私は誕生と同時に、お母様と死に別れている。
だから、こんなふうに、母子みたいに甘えさせてもらった思い出は、はじめてだったんだ。
お母さまは尊敬してるし、大事にも思ってる。
でも、〝おかあさん〟って感じたのは、メアリーがはじめてなんだ。
だから、嫌われても、この記憶だけは、ずっと持って行かせてね。
109回目の人生ではじめて手に入れた、私の宝物・・・・・
さよなら、私のもう一人のおかあさん・・・・・
ううっ・・・・・・
「・・・・おい、泣くな。早とちりすんなよ。チビ」
涙を浮かべていた私の額を、ぴんっとブラッドがはじいた。
いたっ、なにすんのっ? 新生児の頭蓋骨は不安定なんだから!!
「・・・・・すてきです!! きっと、私の願いが神様に通じたんです!!」
メアリーが嬉しそうに叫ぶと、ぎゅうっと私を抱きしめて、頬ずりした。
え!? なに!? どういうこと!?
わけがわからず目を白黒させる私に、ブラッドが笑いかける。
「だから、おまえはアホだってんだ」
な、なにをっっ!?
「お嬢様!!! 私、歓びで震えてしまいました! 」
感極まった声をあげ、メアリーが私を胸に抱き寄せる。
わっ!? どういうこと!?
「私、早くお嬢様と話がしたいって! 気持ちを伝え合いたいって! ずっとそう願ってたんですよ!」
むぐっ、苦しい! む、胸でおぼれるッ・・・・!!
「その願いがこんなに早く叶うなんて!! こんな嬉しいことはないです!!、」
再び私に頬ずりするメアリー。む、胸で窒息するとこだった。
いい、の? メア、リー、私の、こと、気持ち、悪く、ない、の?
揺さぶられすぎて、意識がとびそうになりながら、私はメアリーの頬に手を伸ばした。
触れた。メアリーがうなずく。
「大好きですよ。お嬢様! 」
優しいいつもの顔。普段と変わらないメアリーが、そこにいた。
いいの? メアリー。
これからも、私と一緒にいてくれるの?
こんな変な私だけど、前と同じに接してくれるの?
大好きって言ってくれるの?
私も、私も、大好きだよ。
メアリー・・・・・・・
「アアウウー・・・・」
私は泣き顔を見られたくなくって、両手で顔をおおった。
ブラッドが気をきかせて、絹のハンカチを私の顔にかけてくれた。
・・・・・おい、なんだか死んでるみたいだから、やめてくれる?
たしか、東方の国にそんな風習があると、女王時代に、聞いたような聞かないような。
私は、108回も、悪役令嬢としての、女王としての、人生を生きた。
・・・・・辛いことは、さんざん味わった。
悔しさに唇を噛み締めたことも、
怒りを隠して笑顔を浮かべたことも、
別れに拳を握って耐えたことも、
何度も何度もあったはずなのに。
それなのに、どうして、こんなに胸が痛いんだろう。
なんでメアリーを見ると、こんなに懐かしい気がするんだろう。
心が締め付けられる思いがするんだろう。
メアリーに会うのは、この109回目の人生がはじめてのはずなのに。
前の108回繰り返した人生でも、私には乳母だった人がいた。
でも、その人はメアリーという名前ではなかった。
フタリーチナヤ・フストリェーチャという人だった。
ファーストネームなのに長い・・・・・
いくら108回の人生を思い出したとはいえ、私も自我が確立する以前の幼児の頃の記憶はない。
明確に思い出せるのは、せいぜい4歳頃からだ。
だから、私が物心つく前に我が家を辞したという、その乳母の顔は憶えていない。
けれど、その乳母は、とても私に優しかったらしい。
職務をこえて、私に愛情を注いでくれたと、伝え聞いていた。
私と別れる日に、涙を流したと聞いた。
私もまた大泣きし、その人にしがみついて離れなかったと。
そして、その人は私が泣き疲れて眠ったすきに、泣きじゃくりながら出て行ったそうだ。
だから、いつか再会できる日を、心待ちにしていた。
それほどまでに私を愛してくれた人に、どうしても会ってみたかった。
幼児には長すぎる乳母の名前も必死に覚えた。
しあわせの呪文のように、時々こっそり口ずさんだ。
私が六歳のときに、その機会は訪れた。
私は、亡きお母様の面影もその乳母に重ねあわせていた。
心の中で〝私のお母さん〟とこっそり呼んでいた。
その日を迎えることを、胸躍らせて、指折り数えて待っていた。
プレゼントを考えるだけでも、楽しくてしかたなかった。
でも、その人は来なかった。
あとで聞いたところによると、残念ながら、不慮の事故で亡くなったということだった。
寒波がハイドランジアを襲った日だった。
私は意地をはって、夜遅くまでその人を待ち続け、そして体調を崩して数日寝込んだ。
今でも心残りだ。
どの108回の人生でも、私は彼女との再会は果たせなかった。
どんな人だったんだろう。
一度でいいから会ってみたかった。
この109回目の人生では、メアリーが私の乳母になった以上、もう会うことはないのかもしれない。
でも、この世界のどこかにきっと生きている。
だから、108回の感謝をこめて、私は願う。
どうか、その人が幸せであるように。
どうか笑顔でいられますように。
ほほえむメアリーに抱かれながら、私はそう神様に祈った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃、オランジュ商会のブロンシュ号は、ハイドランジア沖に到達していた。
ヴィルヘルム領に最短距離である港を目指し、海上を突き進む。
その船を追うように飛来する、海鳥とは違う鳥影があった。
鳩だ。その足首には、丸めた文書の入った小さな筒が括りつけられている。
迷うことなく、ブロンシュ号の甲板めがけて降下していく。
わかる者にはわかる、驚愕の光景だった。
移動鳩。伝書鳩の上位の存在。
固定された鳩舎でなく、移動する鳩舎に鳩を帰巣させる、驚異の技術を、オランジュ商会は擁していた。
だからこそブロンシュ号を本拠地にしながら、各地の情報をつぶさに知ることが可能なのだった。
「会頭!! 陸の奴らの知らせでさ 」
手紙を振り回しながら航海長が甲板を走ってきたとき、オランジュ商会の会頭、セラフィも足早に上甲板に姿を現したところだった。彼も鳩に気がついたのだ。児童の足の短さを補おうとするかのように、ほとんど走るようにして、航海長の手から手紙を受け取る。
あわただしく小さな手紙を広げ、食入るように丹念に目を通す。
ふーっと息をつき、遅れてやってきたヴィルヘルム公爵を見る。
「・・・・公爵夫人はどうやらご無事のようです。それと新しいメイドが二人ばかり公爵邸に増えたようです。どちらも少女ということです。お心あたりは? 」
そのメイド二人とは、メアリーと女装したブラッドのことだ。
オランジュ商会は、ヴィルヘルム領にも協力者をもつ。
彼らに公爵邸の調査を依頼していた。
その第一報が届いたのだ。
ただ、公爵邸の周辺は現在、シャイロック商会により、封鎖状態だ。
シャイロックが、公爵に依頼されたと、虚偽の権限を振りかざしていることは言うまでもない。
そのため、遠くから屋敷の様子をうかがうことしか出来ない。
残念ながら、調査した者はスカーレットを目撃しなかった。
スカーレットが泣かないことも災いした。
だから、第一報にはスカーレットのことは、まったく書かれていなかった。
「いや、一人は乳母だ。まだ若い娘だったので、メイドと見間違えたのだと思う」
公爵がセラフィの質問に答える。
メアリーの推薦文を書いたのは公爵本人だ。
とある理由ではるばるハイドランジアまで出向いてきたメアリーと偶然出会い、その境遇に深く同情し、かつ人となりを適性であると判断したのだ。
密命を帯びて旅立つ直前のことだ。
上陸次第に迅速に動けるよう、馬の手配等を記した手紙を、セラフィが航海長に渡している。
その手紙を携え、今度はブロンシュ号から、鳩が陸に向けて放たれる。
金属製の足筒にかすかに光をきらめかせながら、鳩は大空に舞い上がった。
空の彼方に消えていく鳥影を仰ぎ見ながら、ヴィルヘルム公爵は、妻の無事と、推薦したメアリーが妻の支えになってくれるよう祈っていた。
我が子を失うという悲しみに直面しながらも、人への思いやりを忘れない強い娘だった。
そして公爵はメアリーに約束したのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「わかった。ジュオウダの魔犬使いに出会ったなら、紅の公爵の名にかけて、必ず奴らを討伐する」
「お願いします。どうか、どうか・・・・・・」
メアリーは公爵に頭を何度も何度も下げた。
かって魔犬使いを追い詰めた公爵に、泣きながら敵討ちを頼みこんだ。
足にすがりつくようにして唇をふるわせた。
本当はメアリーは自分の手で、息子の仇討ちをしようとしていた。
刺し違える覚悟で、クロウカシス地方から、わずかな目撃情報を頼りに、はるばるとハイドランジアまで出向いてきたのだ。
無謀すぎた。
自殺行為だ。
ジュオウダの魔犬使いは、なかば伝説の怪物だ。
いくつもの傭兵団を壊滅させるところを、公爵は目の当たりにしていた。
魔犬は闇にまぎれて動く。
おそろしい跳躍力で、柵や壁や堀を軽々と飛び越え、疾風のように犠牲者の首を狩る。
馬よりも速い速度で、巨大な筋肉の塊が牙をひらめかせる。
その咬合力は、牛の大腿骨を軽々と噛み砕く。
狼をも凌駕するのだ。
人間などひとたまりもない。
そして仲間の魔犬同士で連携して狩りをするのだ。
さらに人の裏をかく。罠などまったく役に立たない。
人の狡猾さと猛獣の力を兼ね備えた化け物だ。
女一人で勝ち目などあろうはずがない。
とても見過ごす事はできなかった。
だから公爵は交換条件を提示した。
ジュオウダの魔犬使いは、足取りを掴んだら用意を整え、いずれ公爵が退治する。
そのかわり、メアリーは乳母として、ヴィルヘルム公爵邸に入ってほしいと。
メアリーは最初渋ったが、もともと利発な女性だ。
それが敵討ちへの最短の道と納得するのに、そう時間はかからなかった。
「悔しいだろうが、魔犬使いはぼくにまかせてほしい。妻のコーネリアと生まれてくる子供を頼むよ。フタリーチナヤ・フストリェー・・・・・すまない」
「フタリーチナヤ・フストリェーチャです。いいんですよ。クロウカシス地方の女性名は長いですから」
名前を全部憶え切れず謝罪する公爵を、彼女はあわてて遮った。
「だから、その正式名とは別に、短い名前もあるんですよ。私もそうです」
彼女はほほえんだ。
「私はメアリーと申します。奥様とお子様の力になれるといいのですけれど」
そして、メアリーは、ヴィルヘルム領に向け旅立ったのだった。
・・・・・・・・・・・
109回目を生きているスカーレットは、まだ気づいていない。
メアリーに対して、なぜ懐かしさを感じるのか。
前の108回の人生において、スカーレットに最初に惜しみない愛情を注いでくれたのは、誰だったのか。
幼いスカーレットが、顔を見てみたい、言葉を聞いてみたいと、切望し続けた相手はメアリーだった。
〝私のおかあさん〟と心の中で呼びかけながら、幸福の呪文代わりに名前を唱えていた人は、今、スカーレットを抱きしめてくれていた。笑いかけてくれていた。
願いはかなった。
108回の人生のたびに、待ち望んだ相手に、スカーレットは再会した。
ただ、そのことをスカーレットが知るのは、まだもう少し先のことである。
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