第16話 海の上でも物語は動いているのです。お父様はついに陰謀に気づきます。あれ? 今回、私の出番なし?

嵐の海を抜けたあとは、おそろしいほどの快晴が広がっていた。

生き抜くことができた幸運を、神に感謝したくなる青空だ。


オランジュ商会所有の船、ブロンシュ号は白波を蹴立てて、矢のように海原を突き進む。

海風の恩恵をはらみ、白帆が嬉しげに鳴る

頼もしい三本の帆柱のフォアマスト、メインマスト、ミズンマストはどんな風を受けてもゆるぎはしない。帆柱にするために300年前から選ばれ、育てられた樹から削りだされたものだ。そこにとりつけられた長大な横棒のヤードが、プレースに引っ張られて転回し、その下に台形に広がる横帆に風をいっぱい受けようとも、その反動にも決してたじろぐことはなかった。


最高の追い風だ。船の帆は総動員され、自然の力の後押しを享受していた。

船首のスプリットスルも横いっぱいに帆風をはらみ、まるで勇者のつきだした盾のようだった。あらゆる障害や攻撃をはねのけるかのような心躍る光景だ。


船を動かす風の力は、まさに海神の加護だった。

帆船に加速を与える巨大な自然の力は、人の身から仰ぎ見れば圧倒的だ。


「東へ、もうちょいか……進路変更、舵右回転二ぃ !! 」


航海長が、後部甲板から下に向けて怒鳴る。海風にも負けぬでかい声だ。

セラフィとともに、足止めされていた公爵に声をかけた男だった。


浅黒く筋肉質なその姿は、どちらかというと、マストにアスレチック遊具のようにかけられたシュラウドを猿の速さで上り下りし、ヤードからヤードに身軽に飛び移る軽業を演じるのにふさわしく見えた。だが、彼はこの船の命を預かる航海長だった。


「あいよ! 進路変更、右回転二 ご案内!! ずいぶん慎ましやかですなあっ 」


くぐもった銅鑼声で操舵手が復唱で応じる。舵輪をまわす。

操舵手のあやつる舵輪は、甲板上ではなく、船の内部にあるので、くぐもって聞こえるのだ。


「お嬢が順風満帆でドレスアップしてるときには、上品に上品にだ。まして、公爵サマもお乗りあそばされてるんだからな。 当て舵はまかせる!! 」


帆を全開で張ったブロンシュ号を女性にたとえ、航海長は軽口をたたく。


「まかせるって!! こちとら、甲板下につめっぱなしで外が拝めないんですがねえっ」


操舵士は文句を言うが、その口調には笑いが含まれていた。勘と経験で当て舵をし、見事に航海長の要望に応える。


本来は小さな伝達口まで航海士が行き、下方に指示を呼びかけるのだが、航海長、操舵士ともに自他ともに認めるでかい声の持ち主たちで、気心も知れているので、安全な航海のときはこれで済ましてしまうのだ。


「……舵輪というのか。面白いものを見せてもらった。すばらしい船と船乗りたちだ」


感心しながら、スカーレットの父親の公爵が、甲板上にあがってくる。

彼は今まで操舵手が舵輪をあやつる様子を見学していたのだ。


「ハイドランジアじゃあ、ほとんど見たことがないでしょ」


紅髪の公爵に、航海長が、歯をみせて親しげに笑いかける。


「この船は最低限度の人員で船がまわせるよう、いろいろ工夫されてるんでさあ。おかげでロープだらけなもんで、口の悪い連中は、マリオネット姫なんて言ってまさあ」


旧知の人間に対する気安さで航海長が話しかける。

彼は、嵐の海で酔いひとつ見せなかった公爵に、すっかり感心していた。

海の男達は、自分が認めた相手には心を開く。


嵐の海は地獄だ。波音はまるで雷のように轟く。どんな巨大な船も、木の葉のように縦横にふりまわされる。風のおそろしい悲鳴が耳をつんざく。はてのない波しぶきと揺れと風が延々と続く。


揺れといってもただの船揺れではない。船が没するのではないかと思われるほど、ぐんっと海面が近付く。船が宙に投げ出されるのではないかと思うほど、ぶわっと海面が遠ざかる。その連続だ。


もしも甲板上にいるのなら、マストにしがみつくだけでは気が済まず、縄でがちがちに自分を固定したくなるだろう。それでも安心できず震えながら神に祈ることになる。


そのうえ何度も何度も嫌というほど甲板を波が通り過ぎる。すべてを洗い流さなければ気がすまないとでも思っているかのような執拗さだ。巻き込まれ、さらわれれば、間違いなく海の藻屑になり果てる。


波しぶきは霧のように、船全体にまとわりつき、覆い尽くす。だが霧と違い、人間をたやすく吹き飛ばす破壊力をもっている。潮のにおいと、目に入る海水の痛み。まるで自ら白煙を吹いているかのような船を前に、海はうねる。巨大な生き物が獲物をひきずりこもうとうごめくように。


そんな嵐の中の航海に平然とし、船酔いひとつ見せないこの公爵は、不思議なものを見慣れた船乗りたちにとっても、とびぬけて奇異な存在だったのだ。ちなみにお供のバーナードは船酔いにより今も身動きとれないでのびている。船乗りでなければそれが普通だ。公爵が異常すぎるのだ。その紅い髪と瞳の外見、英雄であるということもあいまって、迷信深い彼らは、公爵をなにかしらの超越者ととらえたのだ。


航海長はそこまで迷信深くはなかったが、一目置いたことに変わりはない。そのうえ、公爵は、この船と船乗りの価値を理解し、てばなしで賞賛した。公爵という高位の人間がだ。海の上とこの船を誰より愛するこの航海長にとって、悪い気がしようはずがない。


なので彼は公爵と話をするとき、常に上機嫌だった。

公爵の質問にも親身になって受け答えする。


「たしかに見たことがないな。ハイドランジアでは、長い棒を操舵手が横倒しさせるようにして、船の方向を変えている。あの名称はなんといったっけな。ホイップ……」


「ホイップスタッフでさあ。まあ、舵輪つってもロープと滑車を使ってるってだけで、舵板を動かすって原理には変わりはないんですがね」


各種索具の点検を終え、磨き砂を甲板にばら撒きだしている水夫たちを眺めながら、航海長が言う。


「さすがはオランジュ商会の伝説のブロンシュ号だ。いろいろ驚かせてくれる。乗せてもらえて光栄だ。おかげで妻の出産に間に合いそうだ」


公爵の言葉に、航海長が、へえと呟いて目を細める。


「……あなたは、やはり知っていたのですか。この船のことを」


後部甲板よりさらに一段高い最後部甲板から、オランジュ商会会頭のセラフィが、小さな身を乗り出すようにして、こちらの話に入ってきた。


「オランジュ商会のはじまりの船。先代の時代、悪天候のなかでのオレンジ輸送で財を築いた幸運船だろう。オランジュ商会の会頭の持ち船といえばそれしかない。他の船がみな諦める中、その船だけは嵐をつっきり、誇らしげに白い帆をはためかせたという。ゆえに船乗りたちは、おそれと敬意をこめ、その船をブロンシュと……白の女性名を冠してそう呼んでいると聞く」


「こちらの事情もよくご存じのようですね。ボクたちの誘いにあっさり乗ったのは、勝算があったからだったのですね」

セラフィが苦笑する。


「さすがに見も知らぬ船に運命を託すほど酔狂ではないよ。妻の出産の瞬間に立ち会えるかどうかが、かかっているんだからね。コーネリアは初産なんだよ」


医療の発達していないこの世界において、出産はかなり危険をともなう。公爵が血相変えて嵐の海を突っ切ろうとしたのもそのためだ。


実際はシャイロック商会の仕組んだ堕胎薬の影響で、予定より二週間も前の早産だったため、この時点ですでにスカーレットは誕生している。そして、「治外の民」の長の子であるブラッドがメイド姿に女装し、シャイロックの魔の手から彼女を守り、公爵夫人の産後も治療してくれるという、予想の斜め上の展開がおきているのだが、さすがにこの場の誰もそんな事態には気づきようがなかった。


公爵の言葉に、セラフィがうなずく。

それでこそと呟き、そして話を続ける。


「この船は、オランジュ商会に残されたほぼ唯一の財産です。あとは数か所の港湾施設だけです。シャイロック商会との競争に敗れ、ほとんどの財産は差し押さえられました」


「オランジュ商会の先代が亡くなった隙をつかれたんだったっけな」


セラフィは悔しげに唇を噛んだ。


「父が亡くなったとき、ボクはまだ幼子でした。父は……いえ、この話は後でいたしましょう。母は父を亡くした衝撃で、あとを追うようにして亡くなりました。父はもともと天涯孤独の身で、ほかに親族もいませんでした。混乱がおさまったときには、オランジュ商会はシャイロック商会によって、人も財産もほとんどを奪い尽くされていたのです」


セラフィは今も児童だが、この幼子というのは、ものごころつく前を示している。

異様の天才である彼は、もう少し早く自分が生まれていたら、オランジュの力になれたのにと、常に悔しく思っていた。


航海長も苦々しげにうなずく。


「残ってくれたのは、創業時から父と運命をともに歩んできた船乗りたち。そして、オランジュ商会のはじまりのこのブロンシュ号だけでした」


「ぼくをこの船に誘ったのは、ぼくの後押しを期待してのことか。それともシャイロックへの復讐か」


静かに問いかける公爵に、セラフィは悪びれることなく頷いた。

海風が髪をもちあげ、目があらわになっている。


「紅の公爵の名前は大きい。資金援助などはなくても、その名前が背後にあるだけで、商人にとっては大きな武器になります。でも、それだけじゃない。公爵、ボクたちオランジュ商会とあなたは共闘できる。そう確信していたからです」


セラフィの言葉に公爵の目が鋭くなる。


「どういうことだ」


「その前にひとつお聞きしたい。あなたがシャイロック商会と手を結んだという噂はまことですか」


「いや……父上、バイゴッド卿はシャイロックと懇意にしているが……?」


戸惑い気味の公爵に、セラフィは真剣なまなざしを向ける。


「ボクらオランジュ商会は、権利は失ってもかってのツテは残っている。いちはやく各地の情報を知ることができるのです。・・・・・・・あなたが密命を帯びて旅立ってすぐのことです。シャイロック家の長女アンブロシーヌが、公爵邸に乗りこみました。愛人として本妻に挨拶しにきたと言ったそうですよ。これからはシャイロック邸に公爵は滞在するから、今後あなたへの連絡はシャイロック邸によこすようにと、そう公爵夫人に宣言したのです」


話を聞くにつれ公爵の形相がかわっていく。


「その場には、バイゴッド卿も立ち会っていたそうですよ。公爵夫人は一も二もなく、アンブロシーヌの言葉を信じざるをえなかったでしょうね」


ヴィルヘルム公爵の目が、暗い紅の色に染まる。

彼が敵を容赦なく叩き潰すと決意したときの瞳の色。

紅の公爵の異名のもととなった、見るものを震え上がらせる目だ。

聡明な彼は、今の話で、すべての事態と陰謀を理解したのだ。


「それを身重のコーネリアに言ったのか……」


瞳と同じく声も静かだった。

大地震の予兆の地鳴りのとどろきのようなおそろしさがあった。


「……やってくれたな。シャイロック商会。それと父上、バイゴッド侯爵。よくもぼくのいない間に、好き勝手してくれた」


公爵は父親を卿ではなく、侯爵呼ばわりした。すさまじい彼の怒りがうかがえた。


「もう一つ悪い知らせがあります。あなたのかっての腹心の部下。今は隠居しているハイドランジアの三戦士が、消息を絶っています。なじみの酒場にも長い間、顔を出していないそうです。おそらくこの世にはもうおられますまい」


公爵の目が見開かれた。衝撃の色が走り抜ける。


公爵はハイドランジアを離れるにあたり、公爵夫人を陰ながら護衛するよう、かっての部下たちで信頼を寄せる三人、ボビー、ビル、ブライアンに後事を託した。年老いたとはいえ選り抜きの猛者たちだ。なによりもこの三人はおそろしく用心深く、諸事に通じていた。どんな敵に負けないし、不測の事態にも対応できる。だから安心していた。

それをひそかに始末できる敵となると容易ならざる相手だ。


「ここ二月ほどの間に、ハイドランジアと国境沿いで、三匹の巨大な獣の目撃例が相次いでいます。そして、せむしで片目の老人が、シャイロック商会と接触したと」


「……ジュオウダの魔犬使いか……!!」


記憶の底からぼこぼことわきあがってくる名前があった。

公爵は歯軋りするようにしてうなった。

髪の毛が逆立っていた。


「……コーネリア……!」


公爵は妻の名をつぶやき、恐怖で汗ばんだ手を握り締めた。


つぶされた片目をおさえ、憎悪に燃えた残りの目でこちらを睨んでいた男の顔が、公爵の脳裏によみがえる。十年以上前、三戦士とともに苦戦のすえ追い詰めるも、あとわずかのところで取り逃がした相手だ。


もし、あのときの相手がさらに力を蓄えていたとしたら、三戦士の敗北も十分にありえる。

そしてそれは公爵夫人の身辺警護がゼロになることを意味していた。

それどころか・・・・・・


「……ボクも魔犬に襲われたことがあります」


セラフィが自ら前髪をもちあげた。

いつも隠れている額があらわになる。

おそろしく巨大な疵のひきつれがそこにあった。


「父は冷酷な商人でした。成功をおさめてからは、このブロンシュ号の仲間たちでさえ、距離を置くような冷血漢に変わり果てましました。でも、父は……」


セラフィの顔がゆがんだ。

いつもの取り澄ました顔でなく、年相応の表情があらわれる。


「父はボクを魔犬からかばって亡くなったんです。笑って、生きろと言い残したそうです。そして、ブロンシュの仲間を頼れと・・・・父は・・・・父は・・・・」


身を震わすセラフィを航海長はやさしく見守る。


「オランジュの大将は、最後の最後にもとの大将に戻ったんでさ。商人でなく、船乗りの心意気をもって、笑って死んだんだ。妻と子を守るため、命を投げ出した。だったら、俺たちブロンシュ号の連中は、大将の忘れ形見を守らなきゃならねぇ。その心意気に応えなきゃならねぇ」


航海長はうながすようにセラフィに笑いかけた。

水夫たちも手をとめ、熱いまなざしをセラフィに向けていた。

その視線に後押しされ、セラフィは顔をあげた。


「魔犬使いをやとったのは、シャイロック商会でした。ボクは奴等が憎い! それが、ボクがあなたに手を貸す、ほんとうの理由です。ボクは……」


セラフィの目が熱を帯びていた。

ふだんは前髪で隠している激情と表情があふれでた。


「……ボクは父の仇を討ちたい!!」


海風がセラフィの決意を後押しするように、ごうごうと鳴った。

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