第15話 あなたの笑顔が大好きです

「あんな恥知らずな人間たちが、俺の家族なんて……! 」


悲痛なうめきをあげ、次男のエセルリードは屋敷の外に飛び出していた。

あまりに非道なシャイロック一家のやり口に、心が折れかけていた。

お人好しの彼は、耳を覆うようにして部屋から逃げ出した。

シャイロックの家族たちと、同じ空気を吸っていたくなかった。


嘔吐をこらえ、よろめきながら、足早に敷地外への門に向う。

罪の意識と自己嫌悪にさいなまれ、目の前がぐらぐらと揺れていた。


「……あ……」


エセルリードは足をもつれさせ、転倒しかけた。

身体を立て直すことにも思い至らず、地面に顔から叩きつけられそうになる。


「若様あ!? あぶないですよ!?」


たまたまシャイロック邸に届け物をしにきた、お針子のマリーが、あわてて駆け寄り、とびつくようにエセルリードを支えてくれた。


「……ふんぬうっ!!!」


掛け声とともに傾いたエセルリードを押し戻す。

あわやのところで踏みとどまれたエセルリードは、呆然とマリーを見た。


「マ、マリー……すまない」


「はあっ、はあっ……いえいえ、どういたしまして」


肩で息をしながら、笑顔でかえそうとしたマリーだが、エセルリードの蒼白な顔に、ぎょっとして目を見張る。


「……どうしたんです。若様。そんなにも青ざめて。まるで亡霊にでも会って来たようですよ」


憔悴しきったエセルリードの顔を、マリーが心配そうにのぞきこむ。

その優しげなスミレ色の瞳を見て、エセルリードの顔がゆがんだ。


「マリー……!」


うつろだったエセルリードの目に焦点が戻る。

迷子が母を探し当てたように、マリーにしがみつく。


「わ、若様!? なにを!? こんなところで、いけません! 」


耳朶を染めて狼狽するマリー。


「亡霊に出会ったぐらいなら、どんなにマシだったろう! 俺の血を分けた家族は悪魔だ! シャイロック家は狂っている! 卑怯で、残酷で、狡猾で……そして俺も……」


エセルリードはひきつった笑みをおしあげた。

そのまなじりには涙が浮かんでいる。


「はは、くそっ、俺も奴らと同じだ。ロバートまで食いものにされているのに、俺がなにをした! 屋敷から逃げだしただけじゃないか! 奴らを止める力も勇気もない。どんなに怒ってみても、泣いてみても、善人ぶっても、俺だって、自分のことばかりだ! 卑怯なことに変わりない! 奴らと一緒じゃないか……」


シャイロック邸の庭で、物悲しく風が鳴る。

エセルリードの乾いた自嘲が、苦悶のうめきが渡っていく。

木々が黒く揺れる。


「若様あ……若様にそんな悲しい笑い方は似合いません……いつものように笑ってくださいな」


その言葉に、マリーに抱きついたまま、エセルリードは慟哭する。


「……無理だ……俺は笑えない。笑い方を忘れてしまった。呪われたシャイロックの血が、流れているのに、どうして笑うことができようか! 俺はもう、恥ずかしくて、死んでしまいたい……」


「若様……」


抱きしめられて戸惑っていたマリーの手が、最初ためらい、やがて意を決したように、そっとエセルリードの背中をなでた。


「なにがあったかは、わかりませんが、エセルリード様はエセルリード様ですよう。ご家族がどうであっても」


エセルリードの名前を呼ぶとき、少し頬を染め、


「エ、エセルリード様の笑顔はとってもあったかいです。他のシャイロック家のかたがたとは、ぜんぜん違います! 」


「だが、だが、俺のなかにも、きっとあの呪われた本性が……!」


「私は無学です。だから言葉ではうまく証明できません。でも、心でそう感じるんです。エセルリード様の笑顔は、とってもいい笑顔だって! だから、エセルリード様はいい人なんです! 間違いないです!」


マリーは力強く言い切った。

理屈ではなく、感情のみを拠り所にした、一途な言葉。

そのひたむきな信頼は、エセルリードの胸に深く突き刺さった。


「マリー、君はいつも俺に救いをくれる……俺は弱い人間だ。ひとりでは重荷に耐えられない。俺とともに歩いてくれ……! 君が隣にいてくれるなら、きっと俺は笑いを忘れないでいられる」


「へ? ほ? あ、あれっ? それって……」


エセルリードの言葉に、マリーはまっかになり、慌てふためく。

エセルリードの言葉はプロポーズそのものだった。


「あ、あのう、おそれいりますがあ。今のってまさか……!」


おそるおそる切り出すマリー。

だが、裸の雛鳥のように震えるエセルリードを見て、マリーは問いかけるのをやめた。静かに決意を固め、にっこり微笑んだ。


「私にはなにもありません。家柄もダメだし、勉強ともお金とも無縁です。出来るのは、エセルリード様のために泣くことだけ。それでもよければ、私でよければ、ずっとずっと、お側に置いてください」


「それでいい! 十分だ。マリー……! 」


感激して押し頂くように両手を取るエセルリード。

その目を正面から見て、マリーは力強く頷く。


「エセルリード様をひとりにはしません。エセルリードさまが、悲しみと苦しみが重くて、たえられなくなったら、私も一緒に背負います。私、ロバみたいに力持ちなんですよう。なんなら、全部私にくださっても、平気で担いでみせます! そのかわり、私は誰よりも近くで、大好きなエセルリード様の笑顔を眺めさせてもらいますね」


ふんっと鼻息荒く宣言する彼女に、エセルリードは思わず笑い出してしまう。


「それです! エセルリード様! その笑顔ですよう! 」


嬉しそうに顔をほころばせるマリー。


「悪い人には、そんな笑顔は出せませんって。私はその笑顔が大好きです」


「……好きなのは、俺の笑顔だけか? それとも、俺自身もか。教えてくれないか」と心の余裕をいくばくか取り戻したエセルリードが笑いかけると、


「もちろん……大好きですよう。エセルリードさま本人も」


はにかんでマリーは小さく呟いた。


「そうか。俺もマリーが大好きで、マリーの笑顔が大好きだ。君の笑顔がみたい。さあ、笑って見せてくれ」


「そ、そういう返しはずるいです……! 急に笑えなんて無理ですよう」


思いも寄らない反撃にうろたえるマリー。


「俺ばかり笑顔を見られるのは割にあわないだろ。俺も誰よりも近くでマリーの笑顔を見せてもらう。それとも俺のそばでは笑えないか? 」


「もう……変でも、笑わないでくださいよう」


観念したマリーがおずおずとぎこちない笑みを浮かべる。

含羞を帯びた初々しい笑顔を、エセルリードは眩しそうに眺めた。


「変なものか。最高の笑顔だ。そして、謝らなければならないんだが……」


ぎゅうっと力いっぱいマリーを抱きしめる。


「……ダメだな。幸せすぎて、笑いがこぼれてしまう……」


「エセルリードさま、私もですよう……! 私もあなたの笑顔が大好きです」


二人は固く抱き合った。

幸せそうに笑いあった。

お互いのぬくもりが二人に勇気を与えてくれた。

互いが相手の笑顔を愛し、それをこれから見守れる幸せを噛み締めていた。


風が息をひそめ、二人を見守っている。

どこかで鳥が哀しげに鳴いた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


そんな二人の様子を、デズモンドは傷だらけの顔をゆがめ、苦々しげに見下ろしていた。窓際から離れ、ふうっと息をはく。


エセルリードの父親であり、シャイロック商会の会頭であるデズモンドは、次男のエセルリードの才能を高く評価していた。長男ではなく、次男の彼に後を継がせるつもりだった。


だが、エセルリードは他人に優しすぎる。

あれではシャイロック商会は託せない。

だから、他の大商家に婿に行かせ、よその荒波の中で、商人の厳しさを学習してもらうつもりだった。


そのためには、あのお針子のマリーは邪魔だ。

妾ならかまわないが、一途なヱセルリードは納得すまい。

やむをえず、デズモンドは二人の仲を裂くと決めた。


「で、俺達はこの金を使って、あのお針子を潰せばいいんだな」


「ちょっと! 取り分誤魔化さないでよ」


テーブルの上の金貨を奪い合っているのは、長男のデクスターと長女のアンブロシーヌだ。


あさましい二人を一瞥し、デズモンドはため息をつく。

大型の金貨はロマリア時代の希少なものだ。だが、エセルリードなら、どんな宝物を前にしても、我を失い振り回されたりはしないだろう。金より人間を上に置くからだ。金に自らが溺れる商人は一流にはなれないとデズモンドは思っていた。

金貨に夢中な二人は、父親の漏らしたため息には気づかなかった。


「潰せとは言っておらん。エセルリードから遠ざけろ、そう言ったのだ。今回の件、非は全面的にこちらにある。多少のピンハネはかまわんが、あの娘にきっちりと詫び金を渡すのだぞ。あとでエセルリードが聞いても、心のわだかまりが残らないだけの金額をな」


エセルリードよりはるかに劣る二人に、あらためて念押しをする。


「わかってるわよ。あのエリーにお金を渡せばいいのよね」


「マリーだ。人の名前を間違えるな……不必要な恨みを残すなよ。まかせたぞ」


一抹の不安をおぼえながらデズモンド会頭が部屋を出て行った後、デクスターとアンブロシーヌは顔を見合わせ、にんまりと嗤いあった。第三者が見たら背筋が凍るような、薄気味悪い笑みであった。


時には利益をめぐっていがみ合う兄妹だが、人を貶める悪だくみをするときだけは、おそろしいほどに息があった。


「とにかくそのお針子に、いいのよね」


「ああ、その後は、何があっても俺達の知ったことではない、そういうことだ」


希少な金貨の輝きに見惚れるデクスターは、その金貨を自分の部屋のどこに飾ろうか迷っていた。

アンブロシーヌは、どんな服や宝石を買おうか算段し出した。

そこにマリーへの思いやりなどひとかけらもない。

あるのは金貨に目のくらんだ自分達の欲望だけだ。


「だったら、なにも金貨を使う必要なんてないわ。みじめな野ウサギには銅貨で十分よ」


「まったく、そのとおりだ」


吐き捨てるアンブロシーヌ、相槌をうつデクスター。

欲望にまみれた二人の顔は、妖怪のように醜悪だった。


シャイロック邸の庭で風が叫ぶ。


エセルリードとマリー、身を寄せ合う二人の恋人に、金切り声で警告する。


〝逃げろ! 今すぐ手をとりあって! 〟


〝この屋敷から少しでも遠くへ! 地の果てまで!〟


〝失うぞ! かけがえのないものを! なくすぞ! 幸せを!〟


〝血を吐いて、嘆き悲しむことになるぞ!〟


〝俺達のように!〟〝私達のように!〟


怨霊たちの鳴らす切ない声。

風にまぎれたその警鐘は、生きている二人には届かない。


そして、悲劇が訪れた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


次の日のことだ。


シャイロック邸に続く林道を、マリーは足早に急いでいた。


顔色が変わっていた。


その手には皮袋が握り締められていた。皮袋の中に詰まった銅貨が鳴る。

シャイロック商会からの手切れ金だ。

マリーの留守の間に、シャイロック商会の使いが、マリーの父親に無理矢理押し付けていったのだ。


居丈高な使者に気圧され、マリーの父親は銅貨を受け取ってしまっていた。身分違いの二人の恋など、どのみち成就しないと内心思っていたこともあった。それになにより貧乏な父親にとって、たくさんの銅貨の奏でる音色は、とても魅力的に聞こえたのだった。


「なんてことを!  私はエセルリード様をひとりにしないって、昨日約束したばかりなのに!!」


帰宅したマリーは血相を変えた。父親に怒鳴ると、銅貨の袋をひったくった。

そして、その袋をシャイロック邸に突き返すため、後ろも見ずに家を飛び出した。


いつも温厚な娘がはじめて見せる剣幕に、うろたえ、ごにょごにょ言い訳する父親の声が、背後に遠ざかっていく。


〝エセルリード様!! マリーは決してあなたを裏切りません!〟


マリーはエセルリードとの約束を違えまいと必死だった。


昨日の泣いていたエセルリードの顔を思い浮かべる。胸が痛い。

そして彼を決してひとりにはしないと、その決意で胸が熱くなる。

誰よりも素晴らしいあの笑顔を曇らせはしない。


エセルリードへの想いだけに突き動かされ、頭がいっぱいのマリー。

だから、いつの間にか背後からつけてくる小さな足音に気づかなかった。


どんっと背後から誰かがぶつかってきたとき、マリーはなにが起きたかわからなかった。


「え……」


ぽかんとして振り向くマリー。


その目にまっさおになって震えている少年がうつった。


ボロボロの服。やせこけた頬。そしてその手には錆びたナイフが固く握り締められていた。

ナイフの先端が血に染まっていた。


「あ……」


一拍おくれ、ずくんっとマリーの身体を痛みが貫いた。

熱した鉄の棒をさしこまれ、身体を内部から炙られた気がした。


急に足から力が抜け、がくんっとよろける。そばの樹の幹に背中をぶつけ、背をこするようにして、ずるずるとへたりこんでしまう。


皮袋がその手から滑り落ち、中身の銅貨数枚が転がり出た。


腰からみるみるうちに広がり、服を染めていく血の赤さを、マリーは呆然と眺めていた。


「どうして……?」


落ちた皮袋にとびつき、胸に抱きしめるようにして後退する少年。

マリーの問いかけに、その動きが止まる。


「これで、やっと妹たちにパンを買ってやれる! もう何日も食ってないんだ! 」


血を吐くような、小さな叫びだった。


「派手なおばさんが教えてくれたんだ……お金をいっぱい持った女の人が、一人でこの道を通るって……だから……!」


ぎりっと唇を噛み締める。追い詰められた者の決死の形相だった。


「そう……そういうこと……」


マリーはすべてを悟った。

脳裏に下品な高笑いをするアンブロシーヌの姿が浮かぶ。


身体の芯から伝わる不気味な脱力感に、自分はもう助からないと直感する。

刃は内臓に達していた。出血が止まらない。


その時向こうから悲鳴が聞こえた。


「大変だよおっ!! 誰か! 誰か、来ておくれ!!」


中年の婦人が、手にしたカゴを取り落とし、叫んだ。


通りがかった彼女は、座り込んだマリーと、血に濡れたナイフをもって対峙する少年を見て、なにが起きたすばやく悟り、周囲に大声で助けを求めた。


なんだあ、なにがあったあ、と遠くから男達の声が応じ、近づいてくる。


男の子の顔は恐怖で血の気を失った。


強盗殺人は重罪だ。いかに子供でも極刑はまぬがれない。

唯一の稼ぎがしらの少年を失うことは、彼の幼い妹たちの飢死を意味していた。


マリーは目を閉じ、そして目をあけた。


「……行きなさい」


「え……」


きょとんとしている少年に、マリーは痛みをこらえもう一度強く


「行きなさい! 早く! その袋をもって! 人が集まる前に!」


そして、少年にほほえみかけた。


「私は平気だから……妹さんたちを助けてあげて」


少年は驚きに目を見張り、そして泣きそうな顔でぺこりとお辞儀をし、林の奥に駆け去っていった。


少年の姿が林の木々の向こうに消え去るのを見届け、マリーはふうっと息をつき、空を見上げた。


梢の向こうの青空を美しいと思った。


「……神様、これでよかったでしょうか……」


痛みで意識がうまくまとまらない。意識が途切れかけ出している。


「私は……人間らしく、生きられましたか……?」


すべての感覚が遠くなっていく。自分のひとりごとさえも遠く聞こえる。


「でも……もう一度、エセルリードさまに……あいたかったなあ……」


ああ、まだダメですよう。意識を失っては……


きっと、今 私、ひどい顔をしている。

苦しんだ顔で死んでたら、エセルリード様が悲しむもの。


だから、笑わなきゃ。もう言葉は残していけないから、せめて笑顔で伝えなきゃ。


エセルリード様が、せっかく私の笑顔を大好きって、おっしゃってくれたんだもの。


ねえ、エセルリードさま……私、しあわせでしたよう。


短い人生でしたけど、たくさんの気持ちをもらえて、私はとても満足です。


エセルリードさまの笑顔がもう見れないことだけは、ちょっぴり残念だけど……


約束はたせなくて、ごめんなさい。

マリーはもう一緒に歩けそうにありません。


でも、ずっとエセルリードさまを見守っていますからね。


ああ、神様、どうかエセルリードさまをお守りくださいよう。 

私が早く死んだぶんまで、傷つきやすいやさしいあの人に、愛を与えてあげてください。


ねえ、エセルリードさま、私、うまく笑えているかな。

私が幸福だったって、ちゃんとあなたに伝わるかな。


ありがとう、エセルリードさま。

さよなら、大好きなエセルリードさま。


マリーは、あなたの笑顔がほんとうに大好きでしたよう。


エセルリードさま……だから、ずっと笑っていてね。


誰よりも幸せになってね。

私の大好きなエセルリードさま……


伝わるかな、私の気持ち。

ねえ、私、ちゃんと笑えてるかな。


あなたの笑顔が大好きです。


あなたに会えて、私はほんとうに……


そして安らかな顔で、ほほえみを浮かべたまま、マリーは息をひきとった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


エセルリードの嘆きは尋常ではなかった。


「俺のなにもかもが……いま……死んだ!! ……俺には、もう……なにもない!!」


ふりしぼるようにひとこと叫んだ後、マリーの亡骸をかき抱いて、それきり一言も発せず、その場から動こうとしなかった。涙を拭おうともせず前を睨みつけ、ぬくもりの消えてゆくマリーの身体を、きつく抱きしめて離そうとしなかった。


知らせを聞いてエセルリードが駆けつけたとき、マリーは眠るように幹にもたれかかっていた。


服を染めた血さえなければ、うたたねでもしているかのように見えた。

その顔は優しげにほほえんでいた。

見たものが誰しもが胸を突かれるほど、穏やかな死に顔だった。


それだけによけいに人々の哀れをさそった。


かたわらでは後悔の叫びをあげて、マリーの父親が泣き崩れている。


「わしがあんな銅貨さえ受け取らなきゃよかったんだ!  欲に目がくらんだばっかりに! わしはほんとうに大事なものを……! わしが馬鹿だった! すまねえ! マリー! すまねえ! 」


地面をかきむしって号泣していた。


事情を察した取り囲む人々は、みな悲しげにうつむいていた。

もらい泣きして、目頭を押さえているものもいた。

身分違いの二人の恋を、ひそかに応援していた者たちも、少なからずいたのだ。

孝行娘で優しいマリーは、みんなに愛されていた。


あたりが哀しみに包まれるなか、それをぶしつけに破る闖入者があらわれた。


「あらあ。みんな集まってどうしたの。野ウサギでも死んでいたのかしら」


その声で人垣が割れる。

シャイロック家の長女のアンブロシーヌが、傲然と歩いてくる。

自分がよけなくても、相手が必ずよけてくれるだろう、そう確信しきった動きだった。

その後ろには長男のデクスターの姿も見える。


アンブロシーヌはマリーの死に顔を見下ろし、ふうんと鼻を鳴らす。


「あら、うちによく来てたお針子じゃないの。ずいぶん安らかな顔をして死んでるのね。おや……」


つまらなそうに言い捨てたあと、マリーの周囲に散乱している数枚の銅貨を目ざとく見つけ、意地悪そうに笑う。


「ああ、銅貨数枚をもらったから、そんな嬉しそうな顔をして死ねたのね。貧乏人はちょっとしたことで幸せを感じられるから羨ましいわ」


あまりの言い草に、その場の誰もが言葉を失った。


そんな酷い言葉を投げかける人間がいるとは信じられず、呆然と見上げているマリーの父親の目の前に、銀貨数枚が投げ捨てられた。


「まだ若いのに気の毒に。あんたが父親か。香典だ。さあ、遠慮せずに受け取れ」


銀貨を放り投げたデクスターが冷笑していた。


デズモンド会頭がもともとマリーに渡そうとしていた手切れ金は、その百倍でもとうてい及ばない金額だったが、そんな事はおくびにも出さない。


「……ふざけるな!! こんなもの……!!」


怒りに歯軋りして、銀貨を投げ返そうとする父親に、デクスターは嘲笑を浴びせかけた。


「別につき返しても構わんが。ところで娘にちゃんと葬式を出してやる金はあるのかな」


父親ははっとした顔になった。


マリーの家は貧乏だった。

だからマリーは働きに出て、懸命に家計を支えていた。

デクスターの言葉は、父親の痛いところを突いたのだ。


「若くして死んだ上、まともに葬式も出してやれないんじゃ、娘も浮かばれまいなあ」


図星だと悟り、デクスターがかさにかかって責め立てる。

年老いたマリーの父親の唇が震える。


「誰かさんが手切れ金を受け取らなきゃあ、娘は死ななくて済んだろうになあ。駄目な父親はまともな葬式も出してやらないおつもりらしい」


その言葉がとどめになった。


父親は何度も手に握った銀貨を投げ返そうとし、何度もためらい、とうとう諦め、銀貨を胸に押し付けるようにして、突っ伏して声をあげて泣き出した。


「マリーは本当に最高の娘だったんだ……!! 俺が全部悪かったんだよう」


その悲痛な泣き声に、その場の誰もが義憤にかられた。

強大なシャイロック商会への日頃の恐怖を忘れた。

怒りに燃えてアンブロシーヌとデクスターを睨みつけた。


もちろん鉄面皮の二人は、そんなこと程度では、びくともしなかった。


「あら、貧乏人でも葬式をするのね。私、貧乏人は地面に穴を掘って死体を埋めるのかと思ってたわ。名前も必要ないような貧乏人に、お墓なんて意味ないじゃない。だいたい……」


アンブロシーヌがあざ笑い、饒舌に侮蔑の言葉を投げつける。


栄養失調の妹達を抱え難儀している少年を探し出し、マリー殺害をそそのかした悪魔は、自らの謀略の犠牲者を目の前にしても、なんの痛痒も感じていなかった。まともな人間のなせる所業ではない。醜く肥えふとったエゴが、他者への思いやりの気持ちを圧迫し、麻痺させていた。


「……黙れ」


それまで黙りこくっていたエセルリードが、ぼそりと呟いた。

小さな声だったが、おそろしくよく通った。

アンブロシーヌに言葉を失わせるほど、重いひとことだった。

デクスターもぎょっとして、にやにや笑いを忘れていた。


エセルリードが瞬きもせず、暗く光る目で二人を睨みつけていた。

目に涙をため、マリーを抱きしめたまま。


「それ以上、マリーの名誉を汚すな。彼女は、俺達の誰よりも、生きるにふさわしい人間だった。それなのに、俺達シャイロックのような屑ばかりが、なぜ生き残っていく……」


さしもの悪党二人も気圧されて、蒼白になってがたがた震えだした。


エセルリードが血の涙を流していた。


いや、エセルリードは自分の右目の下に爪をたて、自ら皮膚をかき破ったのだ。

下まぶたから顎まで狂気の力で顔を引き裂いた。ばりばりと凄まじい音がした。

骨まで達するのではないかと思われたほどだった。

爪あとは肉まで削り取っていた。見る間に顔が朱に染まる。




「俺が……シャイロックの人間だったから……俺と知り合ったばっかりに……マリーは死んだ……! 俺のせいだ……!! ……俺の……!!」


マリーを抱き上げて、ゆらりとエセルリードが立ち上がった。


「ひっ……!」


アンブロシーヌが腰を抜かしそうになる。


「あんたのせいなら、あたしらには関係ないでしょ! こっちに来ないでよ」


それでも悪びれず言い放つのはさすがであった。

だが、語尾の震えは隠せていない。

デクスターにいたっては、恐怖でひとことも発せず、ぱくぱくと口を開閉させていた。


「この恥知らずどもがあッッッ!!!!」


「ひいっ!? 」


「ぎゃっ!? 」


エセルリードの一喝で、ぶざまな悲鳴をあげ、二人は文字通り地面に転がった。


人間の声とはとても思えない大音声だった。

森の梢がざざざっと鳴ったのだ。


もはやエセルリードは完全に別人に変貌していた。

お人好しの気弱な坊ちゃんの面影などひとかけらもなかった。

シャイロックの会頭デズモンドをも上回る異様な人間的迫力があった。


その腕の中のマリーが天使のような死に顔だけに、復讐に燃える悪鬼の形相がよけいに際立った。


マリーを失ったショックが、彼の甘さを一瞬で焼き尽くしてしまった。

そうしなければ生きていけなかった。精神を保てなかったのだ。


「そんな言い訳が通用すると本気で思っているのか。俺が今おめおめと生き残っているのは、なんのためだと思う。シャイロック商会に復讐するためだ。マリーの仇を取らない限り、俺は死んでも死に切れないからだ……!!」


低い低い呪詛のような声だった。


シャイロック邸から渦巻く風が流れてくる。

エセルリードを取り囲むように、びゅうびゅうと鳴り響く。


〝仲間だ!!〟〝おまえも俺達の仲間だ!!〟


〝あたし達も力を貸す!!〟〝我々はおまえを認める!!〟


〝倒せ!!シャイロックを倒せ!!〟


「シャイロックに復讐ですって……!! そ、そんなこと出来る訳ないでしょ!」


アンブロシーヌは毒づいたが、恐怖で歯の付け根があっていなかった。

虚勢が限界を迎えようとしていた。

デクスターはその場からとっくに後ずさりしていた。


「何年かかっても必ずやりとげる。そのあと、俺もマリーのあとを追って死ぬ」


目のすわった弟は、完全に気が狂ったと、アンブロシーヌは恐怖した。

地獄に通じる穴のように暗い目なのに、やけにぎらぎらと輝いているのだ。


急に鳴り響きだした風が二人に吹き付ける。

まるで冷たい亡霊の手で撫でられたような気がし、二人は総毛だった。

たえきれずデクスターが背を向け、逃げるように歩き出す。


「ふんっ」鼻を鳴らしてアンブロシーヌも後を追う。


余裕ぶってはいるが、その顔面は血の気を失っていた。


二人が立ち去った後、エセルリードはマリーをそっと地面に横たえ、キスをした。

そしてマリーに笑いかけた。

明るく見るものの心をうつ笑顔だった。

哀しい笑顔だった。


「マリー……君が大好きだとほめてくれた笑顔を、俺は君にあずけていくよ。……だから、これが、俺の生涯で最後の笑顔だ」


その言葉を最後に、エセルリードは笑うことを一切やめた。

死ぬときまで、彼は二度と笑顔を浮かべることはなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ああっ、お嬢様の笑顔は最高です! 無邪気な天使そのもののほほえみですっ」


喜びの声をあげ、メアリーが私に頬ずりをしてくる。


まあ、この時期の新生児は、ほんとに楽しくて笑ってるわけじゃないんだけどねー。


「アー、ウー、オオー」


なされるがままにほっぺをウエーブされながら、前の108回の人生での学者の話を、私は思い出していた。


無力そのものの赤ん坊の唯一の武器は、ずばり可愛さなんだそうな。

新生児の笑顔もその一つだと説明され、ずいぶん感心したものだ。

意外に策士だな。新生児め。だが、その生き抜く姿勢きらいじゃないぜ。

ここは108回生きた悪役令嬢として負けられないよね。


私はとっておきの笑顔を繰り出した。


どう!? かって並みいる貴族の男達を手玉にとった、ハイドランジアの花と讃えられた、魅力マックスのこの笑顔。


「お嬢様、おしっこでもしたのかしら。なんか変な顔してる……」


メアリーが小首をかしげる。


しまったあッ!! 新生児の顔面表情筋の未発達を甘く見ていた!

むりやり顔の筋肉動かしたから、ひきつった不気味な笑顔になってしまった!

憎い!! この赤子ボディが憎い!!

ちょっと!! 顔面つって元に戻らないんですけど!?


「ああ、おもしろい顔つくれたから、見せびらかしたいんじゃないか? 」


ぴょこっとブラッドが顔をのぞかせ、のぞきこんでくる。

え、もしかして、私、集団さらしもの乙女状態!?


まるで悲劇のヒロイン……!


すみません、やっぱ今の発言取り消します。

やな奴の顔を思い出しちゃったよ。


「アリサってかわいそう。えへっ」


とか声までよみがえりやがった!


ぎゃー!!蕁麻疹でそう!


と、とりあえず 私、揺り籠の中に帰ります! 引きこもらせてください!


「こいつも変顔自慢したいんじゃないか? 立ち上がって見せたいけど、ままならなくていらついてるんだ。俺の妹や弟もよくしてきたよ」


ばたばたする私を見て、ブラッドがそう判断する。


んな新生児いるわけあるかあっ!!

何度でも言ってやる! ブラッド・ストーカー!!

お、ま、え、は、子供の扱いを一からやり直せ。


一歳児から歩行していた自分を基準にするんじゃない!

この「治外の民」のスーパーエリートめが!


え、一歳児で歩行なら普通?

うん。地上ならね。こいつのは樹上だから。


「治外の民」の子供は、バランス感覚を養うため、早くから樹上で生活するんだそうな。


……あんたら、本当はアホ集団でしょ。

突き抜けすぎてて、外から見たらアホに見えないだけで。


そもそもこれは変顔じゃない! 

ス・マ・イ・ル なの!! ちょっとなりそこなったけど……


そうそう。スマイルといえば、前の108回の人生に、まったく笑わない人間が一人いたっけ。

顔面半分傷だらけのすごい顔して、いつもぎろぎろ周り睨んでるの。


シャイロック商会の異端児エセルリード。


次男なんだけど商会に叛旗をひるがえそうとして、5年ぐらい国外に飛ばされてたのよね。


お父様の尽力でハイドランジアに戻ってきたけどさ。


一度シャイロック商会を瓦解寸前まで追い込んだらしい。

顔と同じでむちゃくちゃやるよね。

商人じゃなくて将軍って感じのおっかない雰囲気の人だったもん。


でも、私、なんか嫌いじゃなかったんだよね。

シャイロックの血をひいてるとは思えないほど律儀だったし。


はじめてお父様の引き合わせで出会った頃、私が5歳くらいのときかな。


「~が大好きです」遊びを私はよくしてたんだよね。


大人の人って、子供が「~が大好きです」って言うと、たいてい相好を崩し、笑顔になってくれるんだよね。それが楽しくって、私は会う大人会う大人に、挨拶がわりにそれを言ってまわってたんだ。


私って108回チートなくっても、世渡り上手。


その遊びをエセルリードに出会ったときもやったんだよね。

あんまりにもおっかない顔してるんで、なんとか笑わせようとして


「あなたの笑顔が大好きです」


って言ったんだ。


そしたらあいつ、立ったまま、ぼろぼろと泣き出したんだ。


びっくりしたよ。岩みたいな図体して、目をまっかにして涙こぼすんだもの。


私が目を丸くしていると、なだめようとして頭を撫でてこようとするんだけど、あんな巨体が涙流しながら迫ってくるなんて、よけい不安をあおるわ!!


でも、悪い人じゃないんだろうなって、なぜか思えた。

笑いこそしなかったけど、私の遊びに、いつもでかい身体を縮めて付き合ってくれたし。


この109回目でも、きっとエセルリードは仏頂面してるんだろうな。

まあ、すでに国外に飛ばされているのかもしれないけど。


……フンフンフン。


ん、なんの音?


「やっぱり、こいつ、お漏らししてるわけじゃないぞ」


ブラッドおおおっ!!!

乙女が想い出にふけってるあいだに、あんた、なんてとこに顔うずめてんのっ!?

そこになおれッ!! 不埒者!!


私の揺りかごより50㎝四方の、所払いの刑に処す!!




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