第14話 妾宅のシャイロック商会ってどんなとこ!? 祖父母のバイゴッド侯爵夫妻ってどんな人達!? ……うわぁ、私、どん引きです。

その屋敷からは、亡者の呻きが聞こえる。

人々はそう噂する。

あの屋敷は高利貸しで自殺に追い込んだ、債務者達の肉と骨で出来ていると。

風に鳴る木々の梢のあちこちから、恨みをこめた無数の目が、じいっと屋敷を睨んでいると。

石畳が黒々と湿っているときがあるのは、自殺に追い込まれた人々の涙が、地から湧き出したものだと。


実際に人々が亡者を見たわけではない。


それなのに、そういう噂が絶えないのは、それだけの非道を重ねながら、いまだ繁栄しているその一家を苦々しく感じ、理不尽と思い、せめて亡霊話のひとつやふたつでもないと納得できない人間がそれだけ多い証拠だった。


人々にそうまで厭まれる一家の名前は、シャイロック家。

この国最大の商会、シャイロック商会の本家だ。


「なぜ、堕胎薬が減っている!! あれは猛毒だ! 俺が厳重に管理していたはずだ! 答えろ、兄貴!!」


血相をかえて貴賓室に飛び込んできたのは、シャイロック家の次男、エセルリードだった。


悪人ぞろいのシャイロック本家の中で唯一の良心だ。

ゆえに他の親族と見解の相違で衝突することは多い。


貴賓室を私室代わりにしてくつろいでいた、長男のデクスター、そして長女のアンブロシーヌに詰め寄る。劇物庫の鍵を持つのは、シャイロック商会の本家の者達のみだからだ。


シャイロック商会の起源は酒保商人だ。すなわち従軍し、軍と武器や物資を取引する死の商人。毒の類も扱っている。


今の会頭の時代になってからは、貴族相手に高利貸しをおこない、より巨大な商会にふくれあがった。その影響力はハイドランジア本国のみならず、他国にもまたがる大組織だ。


「騒ぐな。シャイロック商会の三子ともあろう者が、これしきのことで取り乱すな。みっともない」


傲然とうそぶく長男のデクスター。


「愛人の私から、本妻様へ、お近づきのしるしに使ったわ。なにか問題あって? 」


鼻で笑う長女のアンブロシーヌ。


〝またか!〟〝まただ!〟


突然、ごおっと風が鳴る。


〝私も〟〝俺達も、そうやって〟〝殺された。毒だ〟


〝奴らはいつもそうやって命を踏みにじる〟


怨霊の声をのせて、部屋をひゅうひゅうと鳴らす。

アンブロシーヌは渋面で乱れた髪を押さえる。

この屋敷では突然風が流れることが間々ある。

古い屋敷ゆえの隙間風なのだろうと皆は思っている。


「愛人? 本妻? 姉さんはなにを言っているんだ?」


混乱している三子で次男のエセルリード。

邪悪な兄姉の二人は、あわれむように善人のこの次男を一瞥した。


「アンブロシーヌは、紅の公爵、つまりヴィルヘルム公爵の愛人になった。昨日からだ。我々は紅の公爵の眷属となった」


「はあ!?」


長男デクスターの言葉に、呆然とする次男エセルリード。言葉の意味がのみこめず、目を白黒させている。長女アンブロシーヌはほつれた髪をかきあげ、艶然と笑う。


「今は妾でもいいわ。私に足りないのは身分だけ。いずれ本妻の座も奪い取ってみせる。今大事なのは公爵の隣に立つこと。この私になびかぬ男などいないもの」


おそろしいまでの自信だった。

金の力で欲しいものをなんでも手に入れてきた環境じんせいが、アンブロシーヌのエゴを、醜悪なまでに肥え太らせていた。悪役令嬢もまっさおである。


「ふふ、なーに、そのうち爵位も金で手に入れてみせる。どれだけの数の貴族が、我々シャイロック商会への借金まみれだと思う。借金返済のあてがない家は、我々の爵位獲得に協力せざるをえない。金を返せぬ貴族にもそれなりに使い道はある。まったく金の力は偉大だ」


高笑いする長男デクスター。

彼もアンブロシーヌと同じエゴの塊である。

金の力を過信し、金に酔いしれる。それを自分の偉大さと勘違いしている。


「シャイロック家が貴族位をもてば、公爵と結婚しても貴賎結婚ではなくなる。そうなれば……」


よこしまな笑みを浮かべる。


「公爵様と私の子が、いずれ正式な公爵家の後継ぎになる。というわけね」


のけぞるように笑うアンブロシーヌ。

日中から無駄に派手な衣装をつけ、どぎつい色彩の洋扇子で口元を隠す。だが、その下卑た本性は隠せていない。グラマラスな美女ではあるが、目立つ色の毒虫のようだ。


貴族と平民が結婚した場合、その子に爵位の継承権はない。

平民の子では貴族になれないのだ。

だが、たとえ後付けでも、その平民の家が貴族になりあがれば話は別だ。


「ふふ、そうだ。我々シャイロック商会は、英雄の紅の公爵の血筋と交じり合い、貴族の中の貴族となるのだ。我々が金と血の力で、貴族平民の上に君臨する日も近い」


傲然とうそぶくデクスター。野望というよりは、あらゆるものの上にたちたい猿山ボス根性だ。


立ち振る舞いこそ洗練されてはいるが、これもまたねめつけるような目つきに、隠しきれない本性がにじみ出ている。


〝貴族! こんな下衆どもが!〟


〝 おまえ達の血は、ドブの下水にも劣る〟


〝おまえ達が近寄れば、ドブネズミでさえ悲鳴をあげて飛び退くだろう!〟


風が怨霊のわめき声をのせ、部屋の書類数枚をつむじの中に舞い上げる。


「シャイロックから公爵の後継ぎだと!? 二人とも気でも違ったのか? ヴィルヘルム公爵は愛妻家だ。そのうえ夫人は懐妊しているんだぞ!? そもそも公爵は密命で、もう二ヶ月も前から隣国に出向いている。昨日から姉さんが愛人だって!? どうやって、この国にいない人間の愛人になれる!?」


常識人の次男エセルリードは、兄姉の正気を疑った。


シャイロック商会は手広い情報網をもっている。

噂にまどわされない真相を知ることが出来る。

国民に真相を伏せてある、公爵の密命の事実も知ることができた。

デクスターとアンブロシーヌの言い分は、妄想にとり憑かれたたわ言にしか思えない。


だが、シャイロック家の血を濃く継いだ、長男と長女は、毒マムシよりもふてぶてしかった。


「ご懐妊? 出来ちゃったなら、流せばいいじゃない。それですべて解決だわ」


「流す? まさか……」


エセルリードは息をのむ。


最初に部屋に入ってきたときは、アンブロシーヌの言った、愛人や本妻が、具体的になにを指すのかわからなかったため、繋がらなかった言葉たち。それを正しく理解し、がたがたと震えだす。


「だから、最初からそう言ってるじゃない。堕胎薬を本妻様のプレゼントに使ったって……」


「バカな……」


青くなってうろたえる弟を小馬鹿にしたように、アンブロシーヌは、フンと鼻で笑う。


「娘が難病で薬代に難儀していた厨房のものがいただろう。おまえが仲良くしていた奴だ。あいつの娘の病にきく薬はな、シャイロック商会でしか扱っていない。最初断ってきたが、娘を盾におどすと、あっさりと折れた。近いうちに公爵邸の厨房に再就職するだろう。アンブロシーヌから夫人への贈り物を、こっそり懐にたずさえ、夫人の料理に味付けするために」


「ロバートか!  なんてことを……!」


悪魔のような二人に、エセルリードは言葉を失った。

自分と仲のいい知人としって、わざとデクスターは、ロバートを選んだのだと直感した。


デクスターの嘲笑がその証拠だった。


デクスターとアンブロシーヌにそそのかされたロバートは、妻にさきだたれ、たった一人の娘も病気にかかり、それでも誠実に生きることを誇りにしていた男だ。懇意にしていたエセルリードは、人のいい彼がどれだけ苦悶し、悪魔の提案にのったか、その場で見ていたかのように感じることができた。


「あの誠実なロバートを……かわいそうに……!」


エセルリードが頭を抱えてうめいた。


〝殺される! 用が済んだらその男も殺される!〟


〝俺達のときのように!〟〝私達のように!〟


〝娘もきっと殺される!〟


〝 ぼくらのように!〟〝 あたし達のときのように!〟


風が騒ぐ。怨霊たちがわめく。窓がばあんとひとりでに開いた。

デクスターは気にもとめず、片手で窓を閉めた。


「あの堕胎薬は実に優秀だ。少量づつならまず検知はされん。麻薬の効果もあって、服用者の心も蝕む」


「……俺達、みんな公爵に殺されるぞ! 公爵は、夫人のために中央の引退までして、夫人の実家のオブライエン領に隠居しようとしている! その条件で受けた密命だ! 兄貴達だって知ってるだろうが! それなのに、そんな勝手に愛人を名乗り、夫人に暴虐をして、ただで済むと思っているのか! 」


エセルリードは我を忘れて叫んだ。

悲鳴に近かった。

恐怖に震えていた。

正気の沙汰ではない。

二人が金の力を妄信し、正常な判断力を失っていると思った。


ヴィルヘルム公爵は金の力で転ぶような人間ではない。

そんな人間が中央の座を蹴るわけがない。

そして公爵は愛妻家のただのお人好しでもない。

敵対勢力には容赦しないのだ。

自分からは仕掛けなくても、手を出してきた人間には、情け容赦なく報復する。


若い頃の公爵にしつこくからんだ酔漢は、大口を開けてあざけり笑っていた口の中に、剣先を突きこまれ、首の後をとおして戸板に縫いとめられた。

公爵を陰湿な手で執拗に陥れようとした政敵は、馬に踏みにじられた死体となって発見された。


〝公爵はきっと奴らを許さないぞ!〟 〝俺達の仇をとってくれ!〟〝無念を晴らしてくれ!〟


〝 殺せ! シャイロック商会を! 〟〝裁け! 裁け!〟


風が窓をがたがた鳴らす。怨霊たちがわきたつ。


「……騒ぐな、エセルリード。外に会話が聞こえたらどうする」


「父さん……」


部屋に入ってきたのは、シャイロック商会を束ねるデズモンド会頭だった。

巌に似た貌は武将のようだった。

顔面が傷だらけなのは、かって海賊たちに捕まり、拷問を受けたからだ。


「こちらが勝手に話を進めたわけではない。きっちりと話はつけておるわ。公爵の父親のバイゴッド侯爵とな。借金の帳消しを条件につけると、二つ返事でこちらの提案に乗りおった」


デスクターとアンブロシーヌが顔を見合わせ、にやにやしている。


「つまりアンブロシーヌは、公爵の父親のお墨付きの愛人というわけだ。公爵は隣国ではなく、このシャイロックの屋敷に滞在していることになっている。提案したのは、侯爵夫妻だ。バイゴッド侯爵夫妻はたいそう公爵夫人を嫌っておってな」


〝またか! またシャイロックを裁けないのか!〟


〝金の力で、人が踏みにじられる!〟


〝誰か奴等を殺してくれ!〟


怨霊たちが絶望に泣き叫ぶ。

部屋を駆け巡っていた風が、ひゅううと悲しげな音をたて、小さくなっていく。


「そういうカラクリか……! どいつもこいつも……!」


エセルリードは歯軋りした。


「さあ、山育ちの本妻様に挨拶してこなきゃあね。私、あなたの旦那さまの妾めかけです。旦那さまは、このところずっと私の家にいらっしゃるから、連絡はこちらで取り次ぎます。仲良くしましょうってね。あの奥様が見たこともないような、豪華な宝石や衣装を身につけてね」


優雅をきどってたちあがった姉を、エセルリードはしんそこ醜いと思った。

そして、自分の身体にも流れるシャイロックの血筋を、心の底から恥じた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


公爵の父母、バイゴッド侯爵夫妻は浪費家で有名だ。

そして意地汚い。

そんなバイゴッド侯爵の人間性は、息子の公爵に領地と爵位を委譲したときのエピソードに如実にあらわれている。


もともと父親のバイゴッド侯爵は二つの領地をもっていた。

侯爵位つきの貧乏なヴィルヘルム領。

伯爵位つきの豊かなバイゴッド領。


父親のバイゴッド侯爵は、以前は高位のほうのヴィルヘルム侯爵を名乗っていた。

そして散々に、本拠のヴィルヘルム領を喰い荒らした。

土地をあちこちに切り売りし、かなりの森林の権利も売り渡した。

高税をかけ、たくさんの逃亡者を生み出した。治水を怠り、街道の整備も放置した。

そして、まともに維持するのも困難になった、でがらしのようなヴィルヘルム領を、さらにしぼれるだけしぼりつくし、侯爵位とともに息子に委譲したのだった。領民の怨嗟の声ごと息子に押し付けて。


そのうえで自分は屋敷中の調度品をたずさえ、もうひとつの領地、豊かなバイゴッド領に移り住んだ。

そして父親はバイゴッド伯爵を名乗ることになった。


爵位こそ落ちたが、美味しいところはなに一つ息子に渡さなかった。


それでいて、高位のほうの爵位を息子に譲ったことに、恩着せがましい態度をとった。

まったくもってクズ人間である。


息子に渡されたのは、名ばかりの侯爵位。

がらんとした、調度品を根こそぎさらわれた広いだけの屋敷。

死にかけた穴だらけの領地、いつ暴発するかわからない不満だらけの領民だった。


最悪の不良物件である。


そして彼は以後、ヴィルヘルム侯爵を名乗ることになる。


やがて、父の爵位を継いだヴィルヘルム侯爵は戦功により、公爵位に格上げされる。英雄「紅の公爵」の誕生である。


ハイドランジア王国には当時分け与えられる土地もなく、王家自体がかなり窮乏していた。

戦功に応じた褒賞を与える余裕などなかった。それではと王女を降嫁させようとしたが、息子のヴィルヘルム侯爵はにべもなく断った。すでにのちの妻、コーネリアを見初めていたからだ。


困り果てたハイドランジア王家と議会は、ヴィルヘルム侯爵を公爵に格上げすることで手をうとうとした。これまたひどい話である。褒賞金さえ、ろくすっぽ出さなかった。


そして、さすがに気がひけた彼らは、バイゴッド伯爵になっていた父親の爵位もついでに引上げた。


まったくもって余計な気づかいである。


そして、息子のヴィルヘルム公爵。

父親のバイゴッド侯爵、という現在の関係が出来上がったのである。


バイゴッド侯爵夫妻の浪費癖は、侯爵位に復位してから、輪をかけてひどくなった。豊かなはずのバイゴッド領でもまかなえなくなり、とうとう彼らはシャイロック商会に借金するようになった。シャイロック商会が虎視眈々とその機会を狙っていたとも知らずに。


やがて借金まみれで首がまわらなくなった父親のバイゴッド侯爵に、シャイロック商会は取引を持ちかけた。息子のヴィルヘルム公爵の愛人としてシャイロックの長女アンブロシーヌを認めてほしいと。そのかわり、バイゴッド侯爵夫妻の借金は帳消しにする。さらにこれからも無償で資金を援助しようと。


業突張りのバイゴッド侯爵夫妻が、大喜びで飛びついたのは言うまでもない。


いっぱしの海千山千を気取るバイゴッド侯爵夫妻だったが、本物の権謀術数を駆使するデズモンド会頭にとっては、ちょろ坊でしかなかったのである。


かくして、隣国で密命の任についているヴィルヘルム公爵の知らぬ間に、シャイロック家との愛人契約が締結された。脱力ものの話だが、やられる方はたまったものではない。息子の嫁が大嫌いだった夫妻は、邪悪な喜びさえ感じてこの下劣な陰謀に嬉々として加担した。


礼儀作法も社交界のルールにも疎く、山育ちで持参金もなかった、息子の嫁に比べれば、資金力をバックにそれなりの教育を受けたアンブロシーヌのほうがマシに思えたのである。


平民ではあるが、シャイロック家が爵位を得るのは時間の問題である。そうなれば、最低の男爵位の、しかも貧乏な嫁の実家などなんの価値もない。そう考えたのだ。


息子の嫁との初顔合わせのときから、ろくに持参金も用意できなかった嫁を彼らは疎んでいた。せめてもの土産にと、山の獣を持参し、弓矢の腕前を披露した嫁を、野蛮人と罵った。社交界のしの字も知らない田舎者と激怒した。


ハイドランジアの英雄となった息子なら、自分達に富と名誉を与えてくれるすばらしい嫁を見つけてきてくれると、彼らは勝手に期待していたのだ。かつてとある事件をきっかけに、幼い息子を冷遇したにもかかわらず。厚顔無恥な人間は、自らの行いを振り返ったりはしないものなのだ。その見当違いな怒りは、すべて嫁に向けられた。


息子の公爵と同じくあたたかく自分を迎え入れてくれる、金はないぶん真心を尽くし孝行しよう。そうすれば、きっと仲良くやっていける。そう期待していた義父母の冷酷な態度に、息子の嫁はひどく傷ついた。山育ちの彼女は人の悪意に慣れていなかった。それでも、弓矢をおき、中央の社交界のルールとやらに慣れれば、きっと義父母も自分を受け入れてくれるだろう、そう信じた。彼女は善人すぎたのだ。


公爵は止めようとした。彼は上流階級の光だけではなく、悪意の闇を知っていた。結果がわかっていた。父母の態度を謝罪し、自分の不明を詫びた。そのうえで、社交界になど顔を出す必要はない、そう強く言い放った。


それが嫁を余計に追い込んでしまった。自分は夫に邪魔ものと思われている、そんな胸の痛みを抱いたまま、社交界に顔出しした。夫が公務で家を留守にしている間に、バイゴッド侯爵夫妻に誘われたのだ。


嫁は無邪気に喜んだ。社交界の勉強をしている自分を義父母が認め、名誉回復のチャンスをくれたと張りきった。すべては義父母の罠とも知らずに。


……結果は最悪だった。目を覆うほどに。

付け焼刃でなんとかなるほど、社交界は甘くなかった。


そのうえバイゴッド夫妻が招待したのは、悪辣をもってして鳴る旧勢力、「赤の貴族」たちの集いだった。

夫妻は率先して嫁をあざ笑った。マナーの欠如を、ダンスの下手さを、絵画や音楽、芸術への理解のなさを、それこそなにもかもを。そして、こんな嫁を押し付けられた自分達がいかに不幸かを声高に訴えた。煽り立てた。貴婦人たちは同情の叫びをあげ、嫁を蔑んだ目で不躾に眺めた。嫁の一挙手一投足のたび、あちこちで嘲笑の声がわいた。


最初は愛想笑いを貼り付けていた嫁は、やがて蒼白になり、びっしょりと汗をかき、がたがたと震えだした。追い詰められたその哀れな様さえも、貴婦人たちの格好の餌食となった。人は群れたときにこそ、その残酷さをあますところなく発揮する。



「ごらんなさい。今度はどんな面白い見世物みせてくれるのかしら」


「まったく、今日は道化いらずですなあ」


「こんな面白い公爵夫人のお話、私、早くお友達たちに教えてさしあげたいですわ」


「話のタイトルは、山のケモノ、公爵夫人に化け、社交界に乱入ですかな」


「そういえば山の臭いがしてくるような」


「入浴の風習もないんじゃなくて」


「あのみっともない着こなし。うちの愛犬でよければ、ドレスの着方を教えてさしあげたいわ」


「動物同士気があうかもしれませんしな。おっと、一緒にされては、愛犬殿に失礼でしたな」


「公爵夫人は咽喉がお渇きのようだ。さあワインを召し上がれ」


「私からはパンを」


「スープはいかが? これなら手を使わなくても口に出来るでしょう?」


次々に嫁に浴びせかけられる食べさしの数々。棘のある会話。

バイゴッド侯爵夫妻の付き合いのある連中が、選りすぐりのロクデナシどもであったとしても、この夜会はパーラーメイド達に長く語り継がれるほど酷いものだった。二時間以上にわたり、よってたかって嫁一人に集中砲火を浴びせかけたのである。


本来、仮にも公爵夫人である彼女に許される所業ではない。

だが、古き血の「赤の貴族」たちにとっては、それ以外の人間はたとえ貴族であっても平民と変わらぬ存在だった。公の場では取り繕っていても、ちょっとしたきっかけでその歪んだ選民思想はあふれだした。


「おまえたち!! なにをしている!!」


公爵が怒声をあげて飛び込んできたとき、彼らは優雅にダンスを楽しんでいた。


舞踏の間の中央に嫁は転がっていた。胎児のように身を丸め、おやゆびを齧り、表情をなくした顔でがたがた震えていた。残飯まみれの嫁のまわりには、わざとらしく添え物の野菜や燭台が並べ立てられていた。嫁の頭には豚の顔がのせられていた。貴婦人達は、公爵の嫁を山のケモノに見立て、料理の一品としてしつらえ、嘲笑ったのである。


生焼けでゴミ同然ということを示すため、厨房から運ばせた豚の臓物と血を浴びせ、さらに生ゴミをぶちまけている最中だった。異臭に包まれた嫁に、近づく遊戯をし、罰ゲームと笑いさざめきながら。


公爵の心に暗い燐火のような思いが産まれたのはこのときだ。


彼は生涯この光景を忘れることが出来なかった。

『妻を失う歴史』においては、それは彼の娘、そしてこの国すべてを巻き込む業火となって燃え盛ることになる。


……嫁は一夜で心を病んでしまった。

何度も夜中に悲鳴をあげて飛び起きた。

躁鬱を繰り返し、神経を病み、山にいる間は健康だった身体もおかしくなった。


怒り狂った公爵は、その場にいた全員に報復しようとしたが、嫁は必死にとめた。

自分が嘲笑されるだけでなく、自分のせいで公爵の立場が決定的に悪くなるとしたら、自分と結婚したことは公爵に不幸しかもたらさない。それは失意の彼女にとってとても耐えられるものではなかった。


旦那と嫁の仲に微妙に亀裂が入りだしたのはこの頃からである。

ありのままでいい、もう社交界に染まってくれるな、そう願う夫。

夫の負担になりたくがないため、社交界の皆に認められる、貴族らしい妻への夢をあきらめられない妻。


お互いを大切に思うが故に、二人の溝は深まっていく。

それでも公爵も嫁もお互いを愛してはいた。


……そのお、だから、そういう関係が絶えたわけではないのですよ。

ずいぶん数は減ったけど。

いわゆる夫婦の夜の関係です。


子供の誕生は嫁の希望だった。

だが、体調不良になった嫁はなかなか妊娠しなかった。


嫁は憔悴し、さらにおかしくなっていく。


バイゴッド侯爵夫妻が、公爵が留守をしているときを狙っては訪ねてきて、後継ぎが生まれないことを、わざとらしく嘆息しては去っていく。彼らは嫁が自ら離縁を申し出ることを期待しているのだが、貴族流の会話は嫁には伝わらない。


子供さえ授かればすべてが好転すると信じた。

期待に応えようと焦る。体調を壊すの悪循環。

取り憑かれたように子供を求める嫁に、公爵も辟易しだす。


別に変な夜的な意味じゃないです。


ありのままの嫁でいてほしい公爵には、貴族の妻をよそおい、子作りに執念を燃やす嫁の姿がつらかったのだ。そこに愛が感じられなかった。彼が厭んだ貴婦人達の生き方の模倣に思えた。彼の知っている妻はもっと生き生きとした愛すべき存在だった。


そして公爵は年々ある思いを強くし、その実現に向け、ひそかに動き出していく。


そんな中、奇跡的に嫁は子供を授かった。

それがスカーレットだった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


そのあたりの事情に詳しいエセルリードにとって、公爵夫人を堕胎させようというシャイロック商会の所業は、悪魔もはだしで逃げ出すものに思えた。


彼は嘔吐しそうだった。自分の中のシャイロックの血を一滴残らずかき出したかった。


「……気分が……悪い」


エセルリードはふらつきながら、屋敷の戸外によろけ出た。


彼には恋仲の娘がいた。マリーというお針子の娘だ。

身分は違うが、いつかシャイロック商会から独立し、二人で新たな店を立ち上げたい。

そんな未来を思い描いていた。


今は気立てのいい彼女の優しい声で、耳奥にこびりついた陰謀や嘲笑のいやな響きを洗い流してほしい、それしか考えられなかった。


だから、気づく余裕はなかったのだ。


自分の姿を窓から見下ろす父デズモンドの目に、冷たい光が宿っていることを。


愛するマリーを取り返しのつかない悲劇が襲おうとしていることに。

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