第10話 108回の人生の記憶すべてを思い出したといっても、私の見ていないところで起きていた事は範囲外なのです。愛も悪意も悲しみも。

これはスカーレットの108回生きた人生のうちの1つ。

その中の、彼女の知らないところで起こった出来事。


………… ………… …………


冬の街の石畳は冷たく、吐く息が白く曇り、顔のまわりにまとまりつく。

粉雪さえちらついていたが、公爵邸の迎えを待つメアリーの心はあたたかだった。

〝もうすぐお嬢様に会える!〟

そう思うだけで笑みがこぼれてくる。


公爵家の新しい執事は、メアリーが懇意にしていた人物で、その口ききで今回の再会が実現した。


辻馬車の順番待ちをする人々から一歩離れたところで、メアリーは馬車の到着を今か今かと心待ちにしていた。


〝お嬢様もさぞ大きくおなりでしょう。あれから五年もたつもの〟


思い出しているのは、一年間自分が乳母として育てた、リンガード家の一人娘、スカーレットのこと。


別れてからもう五年もたつ。そのスカーレットがメアリーに会いたがっている、なんとか都合がつかないかという打診の手紙をもらったとき、喜びに胸が高鳴った。小躍りしたあと、手紙を抱きしめ、感動の余韻にひたった。


よく懐いてくれた子だった。


契約期限がきれ、公爵邸を辞すとき、しがみつかれ大泣きされた。


メアリーから引き剥がされまいと、胸元の服をぎゅっと握りこんで離そうとはしなかった。


利発な子だった。滅多に泣き喚いたりしなかった。

それが火がついたように「ママ・・・・・! バイバイ、ダメ! ママ・・・・!!」

とおぼえたばかりの言葉で泣き叫んだのだ。


胸をナイフで引き裂かれる思いがした。


母親の公爵夫人を亡くしたぶん、職をこえた愛情を注いだつもりではいた。


産後すぐに公爵夫人は錯乱し、娘のスカーレットを殺そうとした。そして心臓発作で急死した。


メアリーは公爵夫人を制止しようとし、二人は激しくもみあっていた。本当ならメアリーはあらぬ疑いをかけられ、罪に問われるところだった。それがそうならず、逆に信用をかちとり乳母役を続行させてもらえたのは、複数の使用人たちが目撃者になって証言してくれたからだ。


彼らは一様に「はやく子供部屋にいかないと、公爵の子供が殺されるよ」という声だけの男の子の警告を耳にし、室内に駆け込んできたのだ。


不思議な話だった。

きっと息子のヨシュアの霊が守ってくれたのだと、メアリーは感謝した。


実母に殺されそうになったスカーレットがあわれだった。

だから、せめてそのぶんの愛情を肩代わりせねばと思った。

見返りを期待していたわけではなかった。

なのに、こんなにも、このお嬢様は、自分を母のように慕ってくれていたのだ。


相手にまごころが通じていた、嬉しさがおさえきれなかった。


お嬢様がこんな取り乱すほどに泣いているのに、こんな感情を抱くのは不謹慎とはわかっていた。


だが、愛おしさがこみあげて止まらない。

ずっと抱きしめていたかった。


私だってどんなに……! どんなにかお嬢様のことが……!


いっそさらって逃げようかと思ったほどだった。

身をきられるほど別離が辛かった。


実子のヨシュアを失った哀しみを、どれだけスカーレットの存在が埋めてくれてたことか。


彼女に乳をあたえ、寝息をきき、泣き声におろおろし、ともに笑う。

そんな日常の繰り返しが、いつしか心の傷を癒してくれていた。

ともに歩んだ暦の数だけ、愛情は深くなった。

そしてヨシュアの代わりとしてではなく、スカーレット自身をわが子のように感じるようになっていた。


周囲が言葉をつくし、なだめすかしても、スカーレットは決してメアリーから離れようとしなかった。

だから、泣き疲れて眠ったすきに、メアリーはスカーレットの額に軽くキスをし、彼女に無言の別れを告げた。


公爵邸をあとにし、我が家の帰路につく途上、二人の思い出が次々によみがえって、乗合馬車の座席に突っ伏して声をあげて慟哭した。馬車の外を流れる木々の緑が、木漏れ日が、すべてのことがきっかけになって胸の奥の思い出を刺激した。他の乗客に迷惑だし、自重せねば、とはわかっていたが、こらえることはできなかった。


そして、スカーレットの人生に幸多きことを神に祈った。


……………  …………… ……………。


もうすぐ、そのスカーレットに再会できる。

そう思うだけで寒空の下でも心が浮き立った。


〝きっと可愛く利発に成長されているわ〟


メアリーは六歳になったスカーレットを脳裏に思い描いていた。


あの見事な紅色の髪をどうしているだろう。くくっているだろうか、下ろしているだろうか、自分に編みこませてもらえたらどんなに嬉しいだろう。


そして、鞄の中から、手製の小さな人形を取り出し、何度目かの検品をした。

スカーレットの土産にと持参したものだ。

色とりどりの鮮やかな衣装をまとった人形の髪の色は赤だった。

それはスカーレットの友人にと、メアリーが心をこめて縫製した人形だった。


今は縫製の仕事で身をたてているメアリーの腕前はたしかで、その出来栄えは見事だった。


「お嬢様が、この子を受け取ってくれると嬉しいのだけれど」


メアリーの生家の地方では、子供の安全を祈願し、母親が手作りの人形をプレゼントする風習がある。守り人形だ。もちろん、そんなことを伝えられはしない。公爵令嬢に対して出すぎた真似になる。だが、そっと想うことぐらいは許されてもいいだろう。


「……どうか、が誰よりも幸せになりますよう。誰からも愛されますよう。人生が喜びと希望にあふれますよう」


伝わるまじないの言葉を口にし、目を閉じて思いをこめ、人形に頬ずりした。


「……ねえ、ずいぶん可愛いお人形ね。それ、私にも、ちょうだい」


突然、声をかけられ、はっと顔をあげると、金髪の巻き毛の愛らしい女の子が、じいっとこちらを見上げていた。蒼い目が人形を追っている。上質の服を着ている。その女の子そのものが人形のように思えるほど整った顔立ちをしていた。あたりに親らしき人間はいない。迷い子だろうか。


「ちょうだい」


戸惑うメアリーに、ぐいっと女の子は広げた片手を突き出してきた。


「ごめんなさい。これは私の大事な人への贈り物なの。あげられないのよ」


メアリーが謝ると、女の子はふうんと言って手を引っ込めた。

後手に手を組み、なにやら思案しているようだったが、今度は両手を広げにっこりする。


「じゃあ、ぎゅってして」


「え……」


メアリーは躊躇った。物騒なご時勢だ。誘拐犯と間違われてはたまらない。


「あなた、迷子なの? お父様やお母様は? 」


「ここで待ち合わせてるの。パパはもうすぐ、ここに来るよ。ママはね。お星様になったんだって」


無邪気にこたえる女の子に、メアリーは、つと胸をうたれた。

聞いてはいけないことを聞いてしまった。罪悪感で胸がいっぱいになる。


「でも、アリサね、さびしいんだ。おねえさん、ママに似ているの。アリサ、ほんとは、ママとさよならしたくなかったんだ。ねえ、ぎゅって抱っこダメ? 」


ママ、バイバイ、ダメ……!


そう泣き叫んでいたスカーレットの声をメアリーは思い出した。

スカーレットと同じ年恰好であろうこの子の姿が、スカーレットと重なる。


公爵邸の迎えももう間もなくくるだろう。この子の親がくるまで、この場所から動かないでなら、あらぬ誤解を受ける心配もあるまい。


「いいですよ。一緒にパパを待ちましょう」


メアリーはにっこりと笑い身をかがめ、その女の子を抱き上げようと手をのばした。


「ありがとう!! 」


金髪の女の子は嬉しそうに背伸びし、メアリーの首の後ろに両手をまわした。


……ちくりと鋭い痛みが、メアリーのうなじの、盆の窪あたりを刺した。


「……? 」


虫だろうか。疑問に思う間もなく、ぐにゃりと視界がゆがむ。

身体を支えていられず、路面に手をついてしまう。


「ちょっ……ちょっと待っててね……貧血……? 」


ひどく酩酊したようだ。意識がぐらぐらと揺れ動く。

気持ちが悪い。吐き気がする。意識がまとまらない。


「抱っこ」


女の子が笑い声をたてる。

再び両手でメアリーの頭を抱き寄せる。

崩れそうな身を支えるのに必死で、メアリーは自分がなにをされているのかさえ気づかなかった。


また、ちくりとうなじに痛みが走りぬけた。


メアリーは薄雪のつもった路面に膝をついてしまった。

肩から鞄のかけ紐がずれ、鞄が石畳に落下し、中身をぶちまけた。


「……あ……人形……」


のろのろと手探りで石畳をまさぐるが、メアリーの目はもう見えていなかった。音も聞こえていなかった。

すべての感覚がうつろだった。

だから金髪の女の子が、小さな毒針を投げ捨てたことも、それがちゃりんと小さな音をたてて石のつなぎ目に消えたこともわからなかった。


「ごめんね。でも、あなたと、あなたのお腹の中の子はね。どうやってもスカーレットの味方をやめないの。だから、早く退場してね」


女の子はくすくす含み笑いをしながら、奇跡的に人形に向けて伸ばされていたメアリーの指先から、人形をひったくった。


「あなた、妊娠してるのよ。初期すぎて自分では気づかなかったでしょ。でも、もうあなたもお腹の中の子もおしまい。延髄に猛毒を二回も刺してあげたんだもの。ああ、その子の名前はフローラっていうのよ。


そしてアリサと名乗った金髪の女の子は、人形をぶら下げたまま、くるりと踵を返した。

なにごともなかったかのように、その場を後にする。

二度と後ろは振り返らなかった。


ハミングしながらとことこ歩む女の子の愛らしい姿に、すれ違う通行人達が笑みを浮かべる。白いぶかぶかの外套から、ちょこんと手足が出ているさまは、まるで天使が地上に降りてきたようだった。


「娘への守り人形か。たしかクロウカシス地方の風習だったかしらねえ」


そして女の子は歩きながら、ひとりごち、メアリーから奪った人形を、そっと頬に押し当てた。


さくらんぼのように可憐な唇が言葉をつむぐ。


「……どうか、スカーレットが誰よりも不幸せになりますよう。誰からも憎まれますよう。人生が悲しみと絶望にあふれますよう」


ぽいっと無造作に放り投げた人形が、行きかう馬車の車輪に踏みつけられ、ずたずたに引き裂かれた。手足がちぎれ飛ぶ。


「あははははっ!! みんな! みんな! かわいそう!!」


女の子は哄笑した。

そして暗い歓びの残り香を愉しむかのように、えへらと口端を歪めた。


……… ……… ………。


メアリーは身を丸くして地面に倒れていた。

心配して声をかける人々の声も、野次馬のざわめきも、もう認識することはできなかった。

皮膜がかかったように目の光は曇り、瞳孔になにも映してはいなかった。


だが、彼女の唇は幸せそうな笑みを浮かべていた。


スカーレットと過ごした初夏の木漏れ日を思い出していた。


鼻先にとまったテントウ虫に不思議そうな顔をしているスカーレット。

そのきょとんとしている顔がおかしくって笑ってしまった自分。


〝はじめて、げっぷを出させた日、這い這いした日、掴まり立ちをした日、みんなみんな憶えていますよ。全部かけがえのない宝物です〟


想像の中で、メアリーはスカーレットに再会を果たしていた。

思い出話に花を咲かせていた。


渡された人形を嬉しそうに胸に抱きしめ、スカーレットははにかみながら、耳元でそっと囁いてくれるのだ。


「……ねえ。みんなには内緒で、お母さんって呼んでもいい? 」


粉雪が頬にかかるなか、メアリーはほほえんだ。


ゆっくり閉じられたそのまなじりから涙がひとすじ流れ落ちた。


「……スカーレット……わたし……の……むす……め……」


そしてメアリーは呼吸をやめた。


………… ……… ………。


公爵邸では幼いスカーレットが、来るはずのない待ち人をずっと待ち続けていた。

約束の時間はとうに過ぎていた。

涙をため、唇を引き結び、窓から外を睨みながら、五年ぶりに再会する人のために用意した贈り物をかたわらに、いつまでもいつまでも立ち尽くしていた。

外は吹雪きだし、ごうごうと風があたりを鳴らしだしていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ありゃあ、一緒に寝ちまってるよ。風邪ひくぜ」


部屋にすうっと入ってきたブラッドが苦笑した。


赤ん坊のスカーレットを寝かしつけようとしたのだろう。

揺れる籐椅子に腰掛けたまま、メアリーも一緒に眠りこけていた。


スカーレットはもとより、メアリーまで疲れきっているのか、口の端から揃いも揃ってみっともなく涎をたらしていた。


「ははっ、おんなじ寝顔してら」


幸せそうに眠りこけている二人を起こさないよう、そおっと毛布をかけると、ブラッドは部屋の安全を確認し、足音を殺したまま、部屋から出て行った。


窓からの木漏れ日が、やすらかな寝息をたてるスカーレットとメアリーを、優しく包み込んでいた。


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