第2話 雪が解けた日
雪のような人だった。
穢れを知らない銀色の髪に、朝露に濡れた若葉のような鮮やかなペリドットの瞳。すべてに祝福されたように美しい俺の主は、実の親に捨てられるようにしてこの屋敷にやってきたという。
身寄りもなければ金もなかった俺はある寒い冬の夜、その夜をなんとか生き延びるためにこの屋敷に忍び込んだ。手入れされず荒れ果てた庭を横切り、どこか寒さを凌げるところを探していると、わずかに明かりが漏れる2階の窓辺からこちらを見ている少女と目が合った。
(まずい、姿を見られた)
焦る気持ちをなだめつつ、音をたてないように来た道を戻ろうとしたとき、玄関扉が開く音が聞こえた。侵入者を捕まえるための衛兵だろうか。いくら丸腰の状態であれ、許しなく敷地に入ったことの言い逃れはできない。急いで物陰に隠れそっと玄関先をうかがい見ると、先ほど目が合った少女が薄着姿でキョロキョロとあたりを見回していた。
(……俺を探しているのか?)
庭に降り積もった雪に負けないほどの白い肌が寒さに赤く染まっているのが、なぜだかはっきりと見えた。見つからないように先ほどよりも小さくうずくまると、小さな足音が聞こえる。さくりさくりと雪を踏む音。体重が軽いのかほとんど音はしないが、足音を消すという頭はないのか近くを通った少女の足音が確かに聞こえた。
(騒がれたら面倒だ。体は冷えるけど、あの子が諦めて帰るまでここにいるしかないな)
ガタガタと少女に負けず劣らず薄着の体が震える。歯の根が合わずに音が鳴りそうになるのをぐっとこらえていると、雪の上に何か重たいものが落ちる音が聞こえた。不思議に思って顔を少し出してみると、先ほどの少女がうつ伏せで倒れこんでいた。
「……おい、お前。そんなとこで寝たら死ぬぞ」
小声で話しかけるも少女はピクリとも動かない。手近にあった小石を彼女めがけて投げても、身じろぎ一つしない。不審に思って恐る恐る近づいてみても何もしてこない。
「なあ、おいってば」
肩をつかんで仰向けに転がせば、すんなりと軽い体は転がった。遠目で見えたように雪に紛れるような白い肌は林檎のように真っ赤になっており、時折小さな唇から寒い寒いと声が漏れている。慌てて体に触れれば熱があるのか燃えるように熱く、持ち上げた体は紙切れのようにひどく軽い。
自分が侵入者だということを忘れて少女を抱えて必死に玄関口に走った。彼女が出てきた玄関は鍵はかかっていないようだが勝手に入るのは憚られ、いったん彼女を抱えなおして勢いよく扉をたたく。
「おい! 誰かいないのか! おいったら!」
ドンドンと容赦なく叩いていると突然扉が開く。体が傾いて落としそうになる彼女の体を必死に抱き上げて顔を上げると、年老いた男性が驚きで目を見開いていた。
「お前は一体……?」
「おい、この子、熱が出てるんだ! こんな体で外なんて歩くからっ」
脈絡のない俺の言葉を拾い上げた男は慌てて少女を受け取るとどこかへ走っていった。俺は出ていくこともできずにそのまま立ち尽くすことしかできなかった。
◇◆◇◆◇◆
いつのまにか俯いていた視界に影が落ちる。握りしめていた拳をそっと包むように触れてきた手に驚いて顔を上げれば、少女をどこかへ抱えていった男が目じりを和らげて立っていた。
「いつまでもそんなところに立っていないで、お上がりなさい」
幼い子供のように手を引かれて客間に通される。
暖炉の前に椅子を移動させた男に促されて椅子に座ると、暖かい飲み物が差し出された。恐る恐る受け取る俺を見守るようなその目が照れくさくて、急いで飲み物に口をつける。
「……あまい」
「坊ちゃんもそれを飲むときはすこぉし目が優しくなるのです。甘いものは気持ちをほぐしてくれますからね」
俺の肩に厚手の布をかけながら男がうれしそうに話す。震えていた体がゆっくりとほぐれていく。確かに、甘いものは張りつめていた気持ちが和らぐ気がする。俺は改めて男に目を向けた。
くたびれたジャケットに袖を通した男は若くはないけれど、背筋を伸ばした堂々とした佇まいをしていた。けれどそこに威圧感がないのは目元についたいくつもの皺や存外ゆっくりとした所作のせいだろうか。温まった体が眠気を覚えるのに気が付かないふりをして、必死に言葉を紡ぐ。
「あの、あの子は?」
「坊ちゃんでしたら大丈夫ですよ。お体が強くはない方なので、この寒さは堪えたのでしょう。普段は自分から部屋を出ない方なのですが、今日はどうしたのでしょうね」
「あの子、男の子なんですか?」
「ふふっ、内緒ですよ?」
私はもうこの年ですから、お姫様が男の子に見えるのです。そういたずらっぽく言った男の目はどこまでも優しくて、あの子はとても愛されているんだと思った。
どうせこの家には坊ちゃんと自分しかいないから、と空いている部屋を貸してくれた男の厚意に甘えて久しぶりにベッドで眠ることができた。身寄りもなければ金もない俺がこの恩に返せるものは何だろう。そんなことを考えているうちにゆっくりと意識は闇に沈んでいった。
◇◆◇◆◇◆
あの日から俺の生活は劇的に変わった。
その日暮らしで住む場所も食べるものも満足になかった俺を引き取った男は、俺に使用人としての仕事を与えた。知らないことを知っていく毎日は充実していて、目まぐるしく日常が過ぎていく。丁寧な言葉遣いを覚え、美しい所作を学び、お嬢様を守るための戦う術も得た。
薄汚いドブネズミが飼いならされた番犬になり、皮と骨しかなかった未発達の体に肉がついて背が伸びても、お嬢様は何も変わらなかった。
初めて出会った頃に自分から動いていたのが嘘のように、彼女は自分から動くことをしなかった。起床を促せば素直に体を起こすし、食事を出せば口に運ぶ。けれどいつもそこに意思は感じられなかった。
「アレク様、お嬢様はどうして何もお話にならないのですか?」
俺を拾った男はアレク・バートリーと名乗った。使用人である彼が勝手に人を雇ってもいいのか不思議だったが、この屋敷の管理はすべて彼に一任されているらしく、お前は何も心配しなくていい、といつもはぐらかされてしまう。
「坊ちゃんの声のあまりの美しさに我々が惑わされないように、妖精女王が封印してしまったのですよ」
「どうしたら妖精女王に声を返していただけるのでしょうか」
「お前は坊ちゃんのお声が聞きたいのかい?」
「はい。俺、お嬢様とお話してみたいんです。何が好きで、何が嫌いで、どんなことに興味を持つのか。お嬢様のこと、もっともっとたくさん知りたいのです」
そう言うとアレクはいつもの優しい笑みを浮かべて俺の頭を撫でた。
「坊ちゃんのよき隣人に、お前がなることをわたくしは祈っているよ」
お嬢様は喋らない。笑わないし、放っておけば椅子に座ったまま微動だにせず一日中外を眺めて過ごすだけ。意思のない息をしているだけの人形の彼女が、いつか自分の心の赴くままに生きられる日をずっとずっと願っていた。
◇◆◇◆◇◆
寒い冬の日、アレクが死んだ。
寿命だったのか、何か持病があったのかはわからなかったけれど、彼が死んだのだと簡素な手紙が一通屋敷に届けられた。
「この歳ですからね、一度実家に顔を出して来ようと思うのです。留守を頼んでもよろしいですか?」
彼の実家は妹夫婦が住んでいるらしく、もう何年も顔を合わせていないのだと彼は言った。この屋敷には俺がいるから留守を任せることができると。
「坊ちゃんを、よろしくお願いしますね」
思い起こせば彼はいつ頃帰ってくるのかは言わなかった。俺は勝手に一週間ほどで戻ってくると思っていて、まさか彼が死ぬだなんて考えもしなかった。
屋敷の管理は新しく雇った使用人に一任する。
なんの効力もない口約束のような権利の譲渡に異を唱えるものはいなかった。彼が死んで一か月がたっても、お嬢様の両親はおろか、屋敷を訪ねて来る者は誰もいなかった。
「……お嬢様」
いつも通り返ってこない返事に気づかない振りをして、失礼します、と一言添えて扉を開ける。何も移さないガラス玉の瞳がゆっくりとこちらを振り返った。
彼が死んで一か月。彼の弔報を言い出せなかった。
お嬢様にとってアレク様はどんな人間だったのだろうか。大切な人? 親のような人?もし、彼女にとって彼がただ視界の隅で動く生き物でしかなかったとしたら、彼女にとって俺とはなんなのだろう。突きつけられる真実が恐ろしくて、のどは張り付いたように動かない。
「お嬢様」
何も移さない1対のガラス玉。踏み荒らされたことのない雪原のようなお嬢様。
「アレク様が死にました」
俺の心をかき乱したその知らせも、彼女の心を動かせない。
唇は震えず、人形は涙を流すこともしない。この人は本当に生きているのだろうか。ただ息をしているというのは生きていることになるのだろうか。
「アレク様の代わりに今日から俺、いいえわたくしがこのお屋敷を守ります」
俺が死んでもきっとこの人の心は動かない。足跡一つ残せない。
それでもいつの日か彼女の心が息を吹き返したとき、俺が存在したことを知ってもらえるように。
「お嬢様、俺に名前を付けてくださいませんか」
それ以外、もうなにも望むことはない。
◇◆◇◆◇◆
アレク様が死んでも生活は何も変わらなかった。
意思のないお嬢様と使用人の俺。ほかに生きている人間のいないこの広すぎる屋敷の中で、ただ毎日を消費するだけの日々。
そんなある日、王立魔法学園から入学案内が届いた。お嬢様が魔法を使っているところを見たことがない俺は驚いたけれど、彼女の口から何か言葉が漏れることはやはりなかった。
寮生活になる彼女が困ることのないように荷物をつくる。寮の外に出てしまえば彼女は一人で行動しなければならない。従者は校内への同伴はよほどのことがない限り認められていないのだ。
何か温かい言葉をかけられたわけではないし、彼女がどういう風に生まれてこの屋敷に流れ着いたのか何一つわからないけれど、俺はどうしても彼女を嫌いになれなかった。依存しているだけなのかもしれないけれど、ただただ彼女が憂うことなくその生を全うできたらいいと、全うさせることができるように支えるのが己の存在理由だと思ってた。
「お嬢様、ご学友に会ったらごきげんよう、とお声をかけるのですよ。その際に少し口の端を持ち上げて微笑めばもっと仲良くなれるはずです」
「お嬢様、朝と昼と夜。食事はすべて学食でとることになります。必ずわたくしが同伴いたしますのでご安心くださいね」
「お嬢様、学園には大きな図書館があるそうです。面白い本が見つかるかもしれませんね」
「お嬢様」
入学式まで毎日俺は彼女に声をかけた。彼女が何か困ったときに行動の指針となるヒントになればいいと。聞こえているのかどうかもわからなかったけれど、彼女の髪を結っているとき、食事を運んでいるとき、ひざ掛けをかけるときぽつぽつと話しかけていた。
◇◆◇◆◇◆
「お嬢様、お手をどうぞ」
陶器のように冷たい手が重なる。屋敷に迎えに来た馬車に揺られて辿りついた魔法学園は、王立の名にふさわしく厳かにそびえたっていた。自分たちを追い越して歩いていく人々はみな一様に表情を顔に浮かべている。そこから目をそむけるようにお嬢様に視線を向けるとガラス玉の瞳をゆるゆると見開いた彼女がいた。
「……お嬢様?」
つぶやいた声がわずかに震えていた。だって、こんな。まるで生きているように目を見開いた彼女を見たことなんて一度だってなかった。俺の声に反応して彼女がこちらを向く。
「グ、レイ?」
声を出してこなかったからか、注意して拾わなければ聞こえないような声量で彼女がつぶやく。グレイ。グレイ。それは俺の名前だろうか。彼女はずっと俺を『グレイ』と呼んでくれていたのだろうか。
返事をしようとのどに力を入れたとき、彼女はパクパクと必死に口を動かした後、ふらりと倒れこんでしまった。
とっさに抱き上げた体はあの頃よりも少し大きくなっていて、生きているのだと実感した。固く目をつぶり、どんなにゆすっても起きないけれどあのころのような焦燥はない。きっとこの目は開く。そしてまたこの薄い唇が言葉を紡ぐだろう。その時にまた、俺の名前を呼んでくれたらいい、と少しの期待を込めて力の抜けた彼女の体を抱いて馬車に乗りなおした。
◇◆◇◆◇◆
倒れた日から彼女は生まれ変わった。
朝になり起床を促すとまだ寝ていたいとばかりに唸ってくる。その様が微笑ましくて、つい起こすのをやめてしまうことが多くなった。話しかければ返事が返ってくる。ドアをノックすれば控えめにどうぞ、とこたえてくれる。コルセットはきつくて好きではない、とこちらを伺いながら言ってきたときには、屋敷中のコルセットを燃やそうか悩んだほどだ。
とにかくあの日からお嬢様は人が変わったように人間になった。
「失礼します」
仕事がひと段落しお嬢様の様子を見に行くことが増えた。けれど最近目に見えて彼女の元気がなくなってきている気がする。きらきらと輝いていた瞳も、少し粗暴な仕草も、自然に持ち上げられた口元も、日を追うごとに花が萎れるように弱弱しくなっている。日が当たらないところでは花は育たない。温度調節が完璧にされたこの部屋に彼女を害する者はいない。けれどそのせいで自らで生きる力が育たないのだとしたら、それは彼女をただ生かし続けていたあの日々と何も変わらないのかもしれない。
「本日は天気が良いので、庭園を散歩されてはどうでしょうか」
ずっとこの部屋を飛び出して、自由に動き回る彼女が見たかった。この屋敷の中だけでなく、外の広い世界に目を輝かせて笑う彼女はどんなに美しいだろう。枯れない花は美しいけれど、その永遠に意味はあるのだろうか。彼女は永遠を本当に望んでいるのだろうか。
「外、出てもいいの?」
弱弱しい笑みが作り物だったのだと如実に表すように、彼女の顔がほころんでいく。
春先の風が彼女の体に障らないように少し厚手の肩掛けや日傘、靴を持って彼女の部屋に戻ると、ベッドに腰かけた足が楽しそうに揺れていた。傅いてそっと履かせた靴は、彼女に履かれるためだけに生まれてきたかのように一層愛らしさが増す。外に靴を履いて出ることのなかった彼女が転ばないように用意した低めのヒールが地面をたたく音が気に入ったのか、楽しそうに足を動かす彼女が愛おしくて仕方がない。
あの雪の日、必死になってたたいた大きな玄関扉は、成長した体には少し小さく思えたけれど、ドアノブを触る自分の手が震えているのが分かった。彼女は息を吹き返して、自分の意思で外に出ようとしている。数日前には予想していなかったこの奇跡は一体誰に感謝すればいいのだろう。
扉を開けるともう見慣れてしまった光景が眼前に広がる。拾われたころ、手入れが行き届いていなかった門までの一本道は、時間を見つけては手を加えていった。お嬢様の部屋の窓からはあまり見えないが、いつかこの道を彼女が歩く日が来た時のために必死に整備した。
「ねえ、グレイ」
あの日から何度も呼んでくれる名前は、呼ばれるたびに暖かく心に灯る。
「今度私に礼儀作法を教えてね」
何を見て彼女がそれを望んだのかはわからないが、自分を見てそう思ってくれていたのならとてもうれしい。俺を形作ってくれたのはあなたの世話をしていたアレク・バートリーという人なのですよ。いつか彼女と彼の話ができたらいい。やりたいこと、話したいことが泉のように湧き出てくる。それが顔に出ないようにお嬢様に見えないように後ろに隠した手にぐっと力を籠める。
「温室を抜けると森があります。そちらにも遊歩道がございます。どうされますか?」
温室の扉を開ければひょっこりと中を伺うように顔を出す。仕草の一つ一つに幼さが垣間見えて胸を容赦なくくすぐってくる。
「綺麗」
つぶやかれたその一言に救われる気分だ。必死に書物をめくって方々から取り寄せた種を植えた。一年目は大半が枯れ、二年は芽吹いても彩が悪く煩雑な見た目は美しさとは程遠かった。3年目、4年目と繰り返してやっと彼女に見せたいと思える温室が完成した。花々が彼女と出会うまでだいぶ時間はかかったけれど、周りを見て微笑む彼女のその表情だけですべてが報われる。
「綺麗ね。春の花は赤とか桃色ばかりだと思っていたわ」
腰を折って花を眺める無邪気な姿。隣の花を見ようとにじり寄ろうとして慌てて立ち上がる姿。しゃがんでは立って、しゃがんでは立ってを繰り返す幼い姿。部屋着の裾や肩掛けが地面についているのに気が付かないほど熱心に眺める彼女が愛おしくて仕方がない。普通は腰を折って花を見たりはしないのですよ、と教えて差し上げたらどんな反応をするのだろうか。
くるくるとせわしなく歩き回って最後には青い花の前に帰ってきた彼女に問いかけると、困ったように視線をさまよわせながら必死に言葉を紡いでくる。あんなにかたくなに何も映さなかった瞳は、朝露に濡れたように輝いていて意思をこちらに伝えてくる。
「あなたが見に行こうと誘ってくれたこの青い花が、私はとても好きになりました」
あなたの人生があなたの望むものであればいい、と願いを込めて植えたその花を好きだと笑ったその顔が曇ることがないようにこれからもこの花を守っていこうと心に強く誓った。
「だからまた、散歩に誘ってくださいね」
その日、長い冬が終わってようやく春が訪れた。
ゲームではヒロイン(♀)だったハズなのに、転生したらヒロイン(♂)になってた件について 梅門めじろ @umetomeziro
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