ゲームではヒロイン(♀)だったハズなのに、転生したらヒロイン(♂)になってた件について

梅門めじろ

第1話 転生は突然に

 大きく響いた鐘の音に驚き、閉じていた目を開いた。

 眼前にそびえたつ聖堂のごとき学舎は陽の光を浴びてキラキラと輝き、入口へと向かう年若い人々の群れは皆一様に笑顔を浮かべながら迷うことなく歩を進めている。


「お嬢様?」


 耳元で聞こえてきた声に振り向けば、灰色の髪をした隻眼の男が心配そうに眉をひそめている。


「……グ、レイ?」


 自分の目がゆるゆると見開かれるのがなんとなくわかった。

 ―――知っている。俺はこの顔を知っている。

 勝手に言葉を紡いだ唇に驚くより先に俺は目の前の存在に条件反射のように叫ばずにはいられなかった。


「灰色の髪に隻眼、寡黙で従者でイケメンなんて、設定盛りすぎ笑えなーーーーい!」


遠ざかる意識のさなか誰かの慌てた声が聞こえた。十中八九グレイの声だろうけど、声までイケメンだったから聞こえなかったことにする。



◇◆◇◆◇◆



 水の音が聞こえる。大きすぎず、喧しくもない小気味よい音。そう、これは紅茶を注ぐときの音だ。

 ポッドを高く持ち上げて注ぐときのお湯がカップをたたく音。何を言うでもなくじっと見つめる私のために彼がいつもしてくれる少し派手な動作。俺も憧れてこっそりキッチンでやって盛大にお湯こぼしたっけな。


 次いでやってきた茶葉の香りに誘われるように目を開けると、こちらの様子に気が付いたグレイがいれたての紅茶をワゴンに乗せて近づいてきた。


「お目覚めですか、お嬢様」

「目覚めましたけど、今から永眠いたします。おやすみなさい」


 寝起きの心臓に悪い、低くてさわやかな声に思わず返事を返してしまった。

 驚いたように聞き返す声が聞こえたけれど無視を決め込む。俺の寮にはこんなイケメンボイスを持ったイケメンは生息していなかったはずだ。いたら同室の座を巡って血を血で洗う取り合いになっていただろう。

 男子校はいつでも刺激に飢えているのだ。舐めてはいけない。


「あの、お嬢様」

「なにかしら。……え、お嬢様?」


 先ほどから聞きなれない言葉が聞こえる気がして観念して目を開ける。眼前には知らない天井が広がっており、右を向けば見覚えのない大きな窓と開けられて整えられた分厚いカーテン。左を見ればこちらを覗き込む灰色の髪に隻眼のイケメンとワゴンに乗った淹れたての紅茶。その背景には重そうな大きな扉があった。


「え、ここどこ」

「お嬢様は入学式のために王立魔法学園に向かっている際、校門の前でお倒れになりました。ですので、お屋敷に運ばせていただき、四半刻ほど眠っておられました」

「あ、そう。それはわざわざご苦労をおかけしました……。って、魔法学園?」

「はい。お嬢様は本日より王立魔法学園にご入学されるご予定でした。僭越ながらわたくしも従者としてお嬢様とともに入学式に参列させていただくため、馬車に同乗させていただいておりました」


 魔法学園。入学式。従者。そしてイケメン。

 次々に提示される要素が右から左に流されていく。


「少し、一人にしてもらえるかしら」


 頭の中を整理したくてそう呟くと、イケメンは短く返事をして部屋を出て行った。彼が置いて行った紅茶で喉を潤しながら、今の状況を思い浮かべる。

 こうして呑気に紅茶をすすっている間にも、時間は無情に過ぎていく。最初に目が覚めたときには明るかった空も夕焼け色に染まりつつある。


 ベッドの端に移動し、地面に足をつく。

 長い寝巻の裾から細くて小さい足が覗いた。バタバタと動かすと小さい足もバタバタと動く。ぐっと指に力を籠めて丸めれば、小さい足の指も丸まる。


 初めて人間の足を手に入れて興奮する人魚姫のように足を動かしていると、肩口から絹糸のようなものが垂れてきた。

 引っ張ると痛い。ここで目覚める前は日本人らしく黒かった髪が真っ白になっていたのだ。


 驚きのまま立ち上がれば捲れ上がっていた寝巻がすとんと重力に従って落ちる。足首をぎりぎりまで隠す長さで、裾が広がるそのデザインはスカートと呼ばれる衣服であり、もっというなら着ていたのは寝巻ではなくネグリジェだった。

 くるりと回れば追いかけるように裾が広がって閉じる。ついでに絹糸のような銀の髪もふわりとついてくる。かわいい。俺、いまとってもかわいい。


「いや、そうじゃなくてね」


 一人でノリツッコミしないと頭がついていかない。髪の毛はついてくるけど脳みそが追い付かない。

 足裏をやさしく包み込むような柔らかい絨毯を勇ましく踏みしめながら、部屋の中を当てもなく歩き回る。気分は密室トリックの謎を解く探偵だ。


「俺は目覚める前、というかぶっ倒れる前はたしか寮に向かって歩いてたはず……」


 思い出されるのは、夕焼けの空と秋に入って少し涼しくなった風の感触。

 その日もいつも通り授業が終わった放課後、部活で汗を流してる同級生の声を背中で聞き流しながら、自分の寮の部屋に向かって学校の敷地を歩いていた。

 俺が通っていたのは全寮制の男子校で、マンモス校の名前に恥じない大きな敷地面積を有していた。校舎のほかに全学生が生活する寮、購買に学食にちょっとした公園など、端から端まで散歩しようものならセグウェイか自転車か馬がほしくなるような広さだった。

 俺はそこの2年生で、寮生活は中学校の頃を含めてもう5年になるベテラン寮生だった。寮母さんの実年齢から、来客用のお菓子の隠し場所まで寮の秘密のすべてをそこそこ知るベテラン。

 見た目は平凡。スペックも平凡。家柄も平凡のいたって普通のやんちゃでかわいい盛りの男子高校生だった俺は、今やまだ姿は見てないけどきっとすっごくかわいい吹けば飛んでいくような美少女になってしまったようだ。スカートをはいてるから絶対そうである。


「そうと決まれば外見が見たい。鏡を探そう。最初のミッションだ」


 くるくると部屋を歩き回るのをやめて鏡を探すと、ちょうど立ち止まった部屋の隅に大きなクロゼットと鏡があった。

 ひょっこりと鏡に顔をのぞかせれば、そこには目も眩むような美少女がいた。


 ニッと口の端を上げて笑ってみると、鏡の美少女もニッと笑う。手を振ってみると、振り返してくる。控えめに言って、超かわいい。

 長い銀の髪はさらりと腰まで伸びていて売ったら高値が付きそうなほど輝いている。枝毛って知ってる?と思わず問いたくなる。長いまつ毛に縁どられた瞳の色は透き通った緑色で、絶対愛を囁かれるとき翡翠の瞳って例えられるわと笑いがこぼれた。華奢な体に長くほっそりとした手足。すこし胸囲が慎ましすぎる気がしないでもないが、それがまたこの美少女の美を引き立てているから全然許容範囲である。神様が美にポイントを全振りしたのかなってぐらいにかわいい。たぶんこの美少女がほほ笑めば花が咲き誇り、鳥は歌い、世界から争いがなくなり、ご飯が美味しくなる。まだ癌には効かないけれど、もうすぐ効くようになると思う。そのぐらい国宝級に美しいのだ。


「やだあたし、国の重要文化財に指定して保護してもらわなきゃ」


 思わずオカマになるのも仕方ない。だってかわいいんだもん。かわいいは正義。これ常識。


「でもこの顔どっかで見覚えがあるんだよなあ」


 銀の髪に翡翠の目。人形のように美しく、笑えばどんな男でも一コロリな世界に愛された美少女……。


「あ、わかった。ラブラビだ」


 ラブラビ。 

 

それは外界から閉ざされた男子校で彗星のごとく現れ、瞬く間に俺たちの心を奪っていった超鬼畜乙女ゲーム〝ラブラブ♡ラビリンス~この愛を受け取って~”

 その語感の良さと人を愛することの難しさをオーバーキル気味に伝えてくる重厚なストーリー構成に、愛をよく知らない俺たち思春期男子はそれはもう虜になった。

 愛の形は人の数だけあると言わんばかりに、少しルートを外れればやれ監禁だ、やれ心中だ、とままならない人間関係にやきもきしたものである。ある者は絶望で食事がのどに通らずダイエットが成功し、ある者は画面の向こうの恋人からの重い愛に悩んで授業中に涙を零したり、またある者は自分たちが幸せならばそれでいいと悟りを開いて毎夜月に祈りをささげていた。

 とにかく俺たちの青春を奪っていったゲームのヒロインが鏡に映るこの美少女なのだ。


 物語はヒロインであるティスティア・ノイツが王立魔法学園に遅れて入学してくるところから始まる。

 銀の髪に翡翠の瞳。雪のように白い肌に淡く色づいた頬。小鳥のような涼やかな高い声を紡ぐ唇は林檎のように赤く、慈しむように優しく笑う姿はまさしく聖女。

 そんな彼女は生まれた頃から体が弱く、外界から隠されるようにひっそりと生きていた。しかし貴族の子女の結婚適齢期である18歳を控えた15歳のころ、魔力のある人間が通う王立魔法学園に通わなくてはならなくなるのだ。

 そこで彼女は様々な人と関わり、蕾がゆっくりと綻ぶように自分自身を成長させ、卒業と同時に、愛した一人と結婚するのである。

 これが大まかな道筋ではあるが、この非の打ちどころのない最高のハッピーエンドを迎えるためにはいくつもの分岐点を華麗に切り抜けなくてはならないのである。

 無知とは罪である、というように何も知らずに守られて育った彼女は一歩間違えば害悪にもなりうる。その慈しむ眼差しで人を癒すのも彼女であれば、惑わし破滅させるのも彼女である。要は、一歩間違えれば誰も幸せになれないのだ。


 鏡の向こうで無邪気に笑っている彼女の微笑みが魔性の微笑みに見えてくる。


「そういえばどこまで人は残酷になれるのかってひたすら破滅に突き進んでいく選択肢を選ぶ奴いたな……」


 ティスティアの一番悲惨なEndは狂死である。いろんな男に愛を振りまきまくった結果誰の愛も信じられなくなり、否定的な言葉を吐かれる前に物理的に口を閉ざしてしまおうと学園中の人間を惨殺して回るのである。その結果、国が派遣した軍隊によって首を切られ絶命する。泣き叫びながら血に染まる彼女を見て、俺たちは泣いた。1か月は寮内がお通夜状態になった。


「これって俺がティスティアに生まれ変わっちゃったってことなのかな。髪の毛も地毛っぽいし」


 相変わらず鏡の向こうの美少女は俺の動きに合わせてくる。もう認めるしかないのかもしれない。


「……ごきげんよう。私は四大公爵家が一家、ノイツ家の長女、ティスティア・ノイツです。どうぞお見知りおきを」

 

 ゲームの冒頭、遅れて入学してきたティスティアがクラス全員の前で言うセリフを言ってみる。悔しいけど声が同じだった。ゲームで描写されていたように小鳥が鳴くような、涼やかで、澄んだ、きれいな声。 そこには声変わりした俺の渋いイケメンボイスの面影は、ない。


 ティスティア・ノイツ。聖女にも悪女にもなるゲームの主人公。ゲームの主人公のはずだった画面の向こうの女の子。


 この日、俺はゲームのヒロインに転生してしまったのである。


 気が付いたら女の子に生まれ変わっていた俺だったが、特に取り乱したりはしなかった。それは新しい自分のあまりの美しさに一周回って冷静になったからなのか、それとも下腹部に違和感がなかったからなのか。


 どちらともうなずけるが、おそらく後者のほうが比率が大きいだろう。


 改めて言う。下腹部に違和感がない。


「ということは、この体には俺のエクスカリバーがご健在……?」


 聖剣とは、男なら誰しも生まれた時から持っているものである。男の特権であり、男の象徴である。女として生まれたならば決して持つことは許されない聖なる剣。

 そして下腹部のこの安定的な重み。

 まごうことなき、エクスカリバーである。


「いや、待て。ラブラビのティスティアは確かに女の子だったはず……。小遣い出し合って成人向けの追加コンテンツ買って確かめたから、絶対女の子のはず」


 追加コンテンツは値は張ったが、大変満足のする買い物だったとだけは言っておこう。

 自分に言い訳するようにぶつぶつと呟きながら踝まであるネグリジェの裾を持ち上げる。

 ただ自分の体を確認するだけなのに、どうしてこう背徳感がすごいのだろうか。


「いやいやいや、これから毎日お風呂入るんだし」


 これは確認。疚しいことなんて何にもない。

 傷一つない滑らかな小さい手でスカートをたくし上げ、下着を引っ張り薄目で確認する。


 あった。


「……おめでとうございます。立派な男の子ですね?」


 ティスティアは、男の子だったみたいです。



◇◆◇◆◇◆



 ティスティア男の子だったんだ事件から何日かが経った。妙な安堵感とおさまりの良さに俺はご満悦であの後ベットに入り、普通に眠りについた。


 入学式直前に突然倒れたことによりしばらくは自宅療養することになったらしく、俺は暇を持て余していた。することと言ったら朝起きて、運ばれてくる食事を黙々と食べ、外を眺め、また食事をして、お風呂に入って、寝るだけだ。

 正直に言うと、とても退屈である。


 よほど俺が倒れたことに肝を冷やしたのか従者であるグレイは近くを離れないし、離れるときは部屋の鍵を閉めてしまう徹底ぶりである。鍵をぶち破ってまで外に出たいわけでもないため、現状何もすることがない状態である。


「いい家のお嬢様ってもっと礼儀作法とか教養とか、勉強に明け暮れるものだと思ってたなあ」


 ため息まじりに呟いた言葉に返事をする者はいない。仕事があるのかグレイは数刻前に部屋を出て行ったきり帰ってこない。部屋を出入りするのはグレイのみで、ほかの人間がこの屋敷にいるのかどうかすらわからない。

 またため息が零れ落ちる。


 生まれ変わってしまったあの日から俺はティスティアっぽいふるまいを心掛けている。椅子に座るときに足を開かないし、体を洗う石鹸で髪の毛を洗ったりしない。大きく口を開けて笑ったりもしないし、食事中に口を開いたりもしない。誰から見ても女の子だって思われるように気を付けた。

 

「俺が入る前のティスティアはどうだったんだろ。ゲームだとすっごく儚い感じに笑う美少女だったけど、こっちの世界じゃ男の子だもんなあ。意外に木登りとか好きなやんちゃ系だったりして」


 椅子に座りながら窓辺に映る景色を眺める。季節は入学式を控えた時期にふさわしく春真っ只中のようで、庭先に咲く花々は色鮮やかで美しい。温度調整は完璧で暖かいはずなのに、しゃべる人間が自分しかいないこの部屋よりも外のほうが何倍も暖かく思えた。


「……俺、これからどうしよう」


 グレイはいい人だった。朝は優しく起こしてくれるし、作ってくれるご飯は美味しい。声を荒げたりしないし、日がな一日外を眺めているだけの俺に何も言わない。髪の毛を洗う手つきは丁寧で、コルセットが嫌だと控えめに言ってみたら次の日から用意されなくなった。それが仕事だからだとしても、こんな女なのか男なのかよくわからない人間にグレイはとても優しかった。


 この穏やかすぎる生活は長くは続かない。おそらくあと数日したら魔法学園に行かなければならないし、俺の人生は学園に行って卒業した後もまだまだ続いていく。ゲームのシナリオ通りに学園生活が進んだとしても、卒業後は自分の頭で考えて生きていかなければならない。今はかわいいティスティアの体も、どんどん男らしくなって万人がうらやむ筋肉マッチョに変貌するかもしれない。

 考えたって仕方がないことをぐるぐると考えてしまう。何度目かもわからないため息がまた零れ落ちる。


「……お嬢様」


 思考の海におぼれ始めた頭に控えめなノックの音が届いた。いつ開けたって外を眺めることしかしてないのに、グレイは毎回律義に扉をノックしてくる。寮にいた頃は遠慮なしに人が部屋に入ってくることなんて普通だったから、その律義さにここが自分がいた世界じゃないことを痛感させられて寂しさを覚えてしまう。そんなこと誰に言っても仕方がないのに。


「どうぞ」


 声をかければ、失礼いたします、と頭を少し下げながらグレイが部屋に入ってくる。それを視線で追いながら口角を上げて笑顔を作る。


「どうしたの?」

「本日は天気が良いので庭園を散歩されてはどうでしょうか」

「外、出てもいいの?」


 あれほど意識して動かしていた表情筋が勝手に動くのが自分でもわかった。別に外に出なくても、と諦めていたがどうやら自分でも思ってもみないほど外に出たい気持ちは膨らんでいたようだ。

 俺の気持ちを汲み取ったのか、準備してまいります、とグレイはまた静かに部屋を出て行った。


 数分して戻ってきたグレイの手には低いヒールの靴と肩掛け、日傘があった。ベッドに腰かけた俺の足を恭しく手に取って靴を履かせていく。その間にも俺の視線は窓の外から放すことができなかった。


「外は、お好きですか?」

「え?」


 グレイの声に振りかえるとこちらをじっと見つめる彼の目と目が合った。いつの間にか両足は靴を履いており、グレイは片膝をついた状態で俺の様子をうかがっていた。


「先ほどから熱心に外をご覧になられていらっしゃいますので」


 答えない俺を急かすでもなく、そっとグレイが口を開く。低い声が音のない部屋に零れ落ちる。


「よく、わかりません」

「……大変失礼いたしました」

 

 慌てて口をついて出た言葉はいろいろ足りなくて少し焦る。


「えっと、質問の意味が分からないのではなくて、あの、私別にそれほど外が好きなわけではなくて。あ、いえ、別に嫌いとかではなくて。だから散歩にイヤイヤ行くわけではないのですよ。だから、その」

「お嬢様」


 必死に言い訳をするように言い募る俺が哀れだったのかグレイが言葉を遮る。呆れられてしまっただろうか。俺が目覚める前のティスティアはこんなまともに会話もできない馬鹿じゃなかっただろうし。この体は意外に泣き虫なのか視界が徐々にぼやけていく。


「今、ちょうどネモフィラが綺麗に咲いています。もしよろしければわたくしに庭を案内させていただけませんか」


 そっと肩口に肩掛けがかけられる。タッセルのついた少し重めのそれは、今日の朝、グレイが着せてくれた部屋着の淡い色と合っていて、もしかして朝から庭に誘おうと考えてくれていたのかと思ってしまう。


「庭にはさまざまな種類の花を植えています。お嬢様の好きな花を教えてください」

 

 手を引かれて地面に足をつけると、初めて履いたはずのヒールでもきちんと立つことができた。部屋にいるときはスリッパを履いていたから、ヒールのついた靴を履くのはこれが初めてだ。

 促すように引かれる手に従って歩き出す。どうせ鍵がかかっているからと開ける気にもならなかった扉はすんなりと開き、俺は初めて部屋の外に出た。


 コツン、と軽い音が足元から聞こえる。歩くたびに聞こえるその音は、ヒールが地面をたたく音だ。楽しくなってまた一歩、もう一歩と足を動かす。角度によって音が鳴らなかったり、少し大きな音が鳴ったり。気持ちのいい音が鳴るとうれしくなる。足元を見ながら歩くそんな俺の手をゆったりと引いてグレンが誘導する。


「その音、お好きですか?」

「うん。いい音ね。楽しくなっちゃう」


 コツコツ、コツコツ。何歩歩いただろうか。いつの間にか自分の部屋の扉よりも大きくて重そうな扉の前に立っていた。

 グレイがドアノブに手をかける。なんてことない、ドアを開けるその動作がどこか洗礼されていて美しかった。所作が綺麗とはこういうことを言うんだ。


「ねえ、グレイ。今度私に礼儀作法を教えてね」


 扉を開けた先には門に続く一本道とそれに寄り添うように整えられた草木や花壇があった。瑞々しい緑の景色に目を奪われていると、グレイが促すように手を引いてくる。後ろ髪を引かれる気持ちでついていくと玄関の裏側、その奥まったところにある温室にたどり着いた。


「この温室を抜けると森があります。そちらにも遊歩道がございます。どうされますか?」


 そっと開けられた温室の扉をくぐって周りを見渡すと背の高い草木や色とりどりの花、足元に流れる水路、視線の先には小さな噴水があった。初めて見た美しいと心から思える光景に知らず知らずのうちにため息が漏れる。


「綺麗」


 今度は自分の意思で歩き出す。水路の水は透き通っていて冷たそう。手を浸したら怒られるかな。盗み見るようにグレイを見るとニコリともしないけれど優しい目がこちらをみつめていて、思わずそらしてしまう。だめだ、恋に落ちてしまう。イケメンは反則だ。

 誤魔化すように深呼吸をして向き直る。


「ねえ、ネモフィラはどこら辺に咲いているのですか?」


 少しつっけんどんな言い方になってしまったが、気づかなかったのかまた手を取られる。

 数日共に過ごしてきたが彼が俺に触れてくるのは必要最低限で、こんなにスキンシップをする人だとは思わなかった。ゲームの中の彼はいわゆるお助けキャラで、主人公が何をすればいいか迷ったときに話しかければヒントをくれるポジションの人だった。お菓子を作って渡してみたらいいとか、もっと積極的に話しかけたらいいとか、ゲームの進行をより円滑にするための誘導係。その結果、愛が深まろうが破滅に進もうが一切関与しない、見方を変えれば冷徹な人。

 けれどこちらを見つめる目を見れば、血の通わない冷たい人には思えなかった。たしかに一切表情は変わらないし、言葉数が多い人ではないけれど。


 案内された区画はどうやら背の低い花が多く植えられているらしく、小さな花がかわいらしい。しゃがんで優しく触れると、水をあげたばかりなのか細やかな水滴が指を伝って落ちていった。


「綺麗ね。春の花は赤とか桃色ばかりだと思っていたわ」

 

 目のさえる涼やかな青い小さな花。前の俺はこうやって腰を折って花を見るなんてことはしたことがなかったから、なんだか新鮮な気分になる。お行儀悪くしゃがんだまま蟹股で移動したかったが、スカートの裾を踏んで転ぶ未来しか見えなかったので仕方なく立ってはしゃがみ、立ってはしゃがみを繰り返す。


「お嬢様は赤や桃色の花のほうがお好きでしたか?」


 動き回って最後にまたネモフィラの前に戻ってきた俺にグレイが問う。


「どうでしょう。全部綺麗なのでこれが好き、というのは特にありません。ただ」


 どの花も普通に綺麗だし、また見に来たいなあと思うものだった。大事に育てられたんだろうなあとか、誰が手入れしてるんだろうとか気になることはあれど、この花が好き!と猛烈に欲するものはない。


「あなたが見に行こうと誘ってくれたこの青い花が、私はとても好きになりました」

 

 感情なんてありませんと言うように顔色一つ変えないこのイケメンが、俺と話すための口実に使った小さな青い花がなんだかとても愛おしく思えたから。この花がまたこうして二人で歩くきっかけになればいい。俺と話すたびに彼の後ろで隠すように握りしめられる彼の手の理由がいつかわかるといいな。


「だからまた、散歩に誘ってくださいね」


 仕事だから優しくしてくれる人。ひとりぼっちだったティスティアの従者。

 ゲームでは語られることのなかった生きている彼をもっと知りたい、そんな風に思った。

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