十四

 東京都某所、とある施設。

 八坂はミナ子を抱えたまま、ガラス張りの玄関をくぐった。

 八坂を出迎えたのは千葉と数人の白衣をきた職員だった。

「まさかとは思いましたが、この関東圏に“真祖”が二人もいるとは……」

 千葉は関心したように八坂と、抱えられて、気絶しているミナ子を眺めた後、歩み寄っていった。背広の裏ポケットから、八坂と同じく、首に巻いてある機械を取り出すと、ミナ子の首に巻きつけ、カチリと留めた。

「さて、彼女が起きたら――」

 千葉は目を細めた。


 ミナ子が目を開くと、一面ガラスで囲われた隔離室の中だった。

 ゆっくりと起き上がり、市原に引っ掻かれた首や八坂に撃たれたこめかみを押さえた。もう傷は塞がっており、八坂に撃ち込まれた銃弾が近くに落ちていた。ただ、首に変なものが巻かれてある。ミナ子は顔をしかめた。

「……ここは――」

「起きましたか?」

 ミナ子は声のする方を向いた。声の主は八坂だった。

 八坂は部屋の隅に座り込み、警戒している様子でミナ子を見ていた。

 ミナ子は眉を吊り上げると、八坂に飛び掛かろうと立ち上がった。八坂は苦い表情を浮かべ身構える。

……殺られる!

 だが、ミナ子は寸前でため息をつくと、床にくたりと座り込んだ。

……どうしたんだ?

 八坂が首をかしげると、ミナ子が情けなさそうに言った。

「……八坂刑事に止められなかったら、わたしは――」

 ミナ子は膝に顔を埋めると、すすり泣いた。

 八坂は安堵のため息をつくと、四つん這いで、静かにミナ子に歩み寄った。

「すみません。あんな止め方しか出来ず……。チート状態の場鳥さんを、僕には止められないと思って――」

「……“ちーと”とは?」

 ミナ子の質問に八坂は、あぁ、と呟いた。

「無双……ですかね?」

 八坂は顎に手を当て、言った。

「そうですか……」

 ミナ子は肩をすくめた。

「僕からも良いですか?」

 ミナ子は目を擦りながら顔を上げた。

「場鳥さんはどうして……牛乳が飲めるんですか?」

「は?」

 ミナ子は八坂の質問に目をぱちくりする。が、八坂は真剣な表情だ。それもそのはず。吸血鬼なのに血液以外を口にすることが出来れば、八坂にとって思ってもみない朗報だからだ。

 ミナ子は深いため息をつくと、何故、自分は血液以外を食せたのかの経緯を説明した。それは八坂にとって何とも虚しく、切ない話だった。

 まさか、戦後間もない激動の時代の頃に遡るとは思ってもみなかったうえ、ミナ子がもう八十代を越える老人だったとは夢にも思わなかったのだ。

「まあ、牛乳は元をたどれば血液です。トマトは――よく聞きますよね? チョコレートはよく分かりませんでしたが、先日先生に『カーミラ』という吸血鬼の小説を借りて読みまして、作中でカーミラはチョコレートを飲んでいました。読んでて少し、興奮しました……。八坂刑事さんも読んでみては……?」

 ミナ子は真面目な眼差しで八坂を見て言った。八坂は苦笑した。

「興奮……ですか……」

 八坂は改まって正座をすると深呼吸をした。

「場鳥さん、否、“場鳥先輩”と呼ばせて下さい」

 八坂は力強く言った。ミナ子は眉をひそめる。

……先輩?

「場鳥先輩は……苦労されたんですね。ずっと一人で――」

「世間話はもう良いでしょうか?」

 八坂の話を妨げたのは千葉だった。

 千葉が隔離室のドアを開けて入ってくると、ミナ子は顔をしかめ、立ち上がった。

「若造、誰だ?」

 ミナ子が鋭い口調で言うと、千葉は肩を震わせて――笑った。

「はははっ!“若造”ですか。まあ、なんですから、隔離室の外でお話を……」

 千葉はドアの方を手で指し示した。

 場所を変えて、施設内の会議室に千葉、ミナ子、八坂が長テーブルを挟んで対峙していた。

 千葉は改まってテーブルに両ひじを突き、手を組むと、おもむろに話始めた。

「お二人に、厚労省から極秘の依頼があります」

 千葉の様子に八坂は固唾を飲み、一方ミナ子は首をかしげる。

「わたしに関係があるんですか? なさそうなら解放し――」

「錦野誠一郎の医師免許を剥奪するこぐらい出来るんですよ?」

 千葉は嘲るように言った。

 ミナ子は千葉を睨みつけると、押し黙った。

……人質ならぬ免許質かっ?

「続けますよ?」

 千葉はミナ子と八坂を交互に見て、話始めた。

「ことの発端は、去年十月に永見製薬会社からとある新薬の承認申請があったのが始まりです――」


 去年十月。

 本日新薬承認申請のアポイントがあるため、千葉は厚生労働省内の会議室に向かった。

 会議室にはもう製薬会社の社員が待機していた。

「お待たせしました。本日のアポの永見製薬会社さんですね?」

 千葉に気づいた永見製薬会社の社員はシュバッ! と立ち上がった。

「千葉さん! 永見製薬会社の永見良雄と申します。よろしくお願いいたします」

 永見は名刺を差し出した。

「では、お座り下さい」

 千葉に促され、永見は席に着くと早速カバンから新薬に関する資料を出してきた。千葉も席に着き、前もって提出されていた資料を準備する。

「この度、永見製薬会社は全ての内科的傷病に対して効果のある薬を開発しております!」

 永見は興奮ぎみに言った。

「全ての、ということは癌や高血圧にも、ということですか?」

 千葉が資料を眺めながら問うと、永見は力強くうなずいた。

「はい! まだ動物実験段階ではありますが、癌やコレステロール、高血圧、感冒等を患ったマウスにこの新薬を投与させますと数時間も経たない内に身体が正常になりました。どうです? 素晴らしいでしょう?」

 永見はわくわくしたようにハキハキと言った

「ほう……。新薬の成分ですが――」

 千葉は視線だけを永見に向けた。すると、永見は千葉にズイッと顔を近づけ、声をひそめて言った。

「“吸血鬼の心臓”です」

「はい? 吸血鬼?……冗談ですよね?」

 千葉は眉をひそめて問うと、永見は首を横に振った。

「吸血鬼は……存在するんですよ? 千葉さん――」

 そう言うと、永見は何かを含んだ笑みを浮かべたのであった――。


「吸血鬼は存在します。そのアポの時点で、こちらは八坂さんの存在を把握しておりましたので――」

 千葉は深いため息をつくと、続けた。

「ですが、そんな吸血鬼の心臓など得体の知れないものを使った薬なんて、私は絶対に承認なんてさせたくもなくてね。おまけに今年になってから、まるで吸血鬼にでも殺されたような連続変死体殺人事件――。そこで八坂さんが元刑事ということもあったので、神奈川県警に出向させた次第で、捜査をさせていたんですよ」

 千葉は一通り話終えると、椅子の背もたれにもたれ掛かった。

 ミナ子はつまらなそうにテーブルに突っ伏すと、顔だけを千葉に向けた。

 八坂はミナ子のだらけた様子にギョッ! と目を丸くした。

「それで、その製薬会社と変死体事件の関係とは?」

 ミナ子は気だるそうに尋ねた。

「変死体事件と平行して横浜市周辺で未成年者の行方不明者が続出していました――」

「何ですか? その製薬会社は行方不明者を募って人為的に吸血鬼を量産していたと? それで吸血鬼になったそいつらが変死体事件を引き起こしたとでも言いたいんですか?」

 ミナ子は千葉の言葉を遮って、まさかとは思う私見を述べた。

 千葉は表情を変えることなく、真面目な表情でうなずいた。

「私もそう思っています。ほぼ間違いない」

 ミナ子は表情を歪ませた。

「吸血鬼は、死なないとなれないし、死んだからといって、誰でもなれるわけではない――」

「きっと永見たちは違法に行方不明者の遺伝子を組み替えたんだと思います。その吸血鬼の遺伝子の出所は不明ですが……。そこであなた方に依頼です。永見製薬会社の製薬工場に侵入して、行方不明者を探し出すのと、違法実験の証拠を持ってきてほしいのです。まあ、行方不明者は“もう生きてない”と思いますし、数人はあなたが殺ってしまいましたが……」

 千葉はミナ子にそっと目を向けた。ミナ子はそっぽを向いた。

「まあどうせ、自ら進んで吸血鬼になった時点で死んだも同然……。彼らはあなたに殺される運命だった、というだけです――」

 千葉は表情を一つも変えることなくさらっと言うと、ミナ子と八坂を交互に見て、片方の眉を吊り上げた。

「依頼、お願いしましたよ?」


 翌日、朝。横浜市内の大学病院外科入院病棟に誠一郎は入院していた。

 誠一郎は未だ目覚めず、ベッドの脇では柏木が、様子を見に来た忠明に一体何があったのかを説明していた。

 説明を聞いた忠明は項垂れたように椅子に座った。

「ミナ子ちゃんは……人間じゃない?」

 柏木はうなずくと、慌てて付け加えた。

「ですがっ、ミナ子ちゃんがいなかったら旦那さまもわたくしも生きていなかったです――」


 誠一郎は夢を見ていた――。


「お父さんっ! どこっ? うえぇぇええんっ!」

 色んな人たちが行き交う路地の隅で、小さな俺が一人泣いていると、誰かが歩み寄ってきて、こう言ってきた。

「おい、小僧。迷子か?」

 顔を上げると、そこにはミナ子が立っていた。

「ミナ子っ……」

 すると、いつの間にか俺は大人になっており、ミナ子を見下ろしていた。

「ミナ子」

 俺がそう呟くと、ミナ子は背を向け、駆けていってしまった。

「待ってっ! 行かないでっ! お姉ちゃんっ……!」

 そうか、ミナ子は、やはり――あの時の女の子だったんだ……。じゃあ、どうしてあのままの姿なんだ? 君は一体……。

 俺は膝を突き、子供みたいに泣き叫んだ。

「ミナ子っ……ミナ子っ! 俺を置いて行かないでっ! お願いだからっ! 君がいないと俺は寂しいんだっ……」


 そこで誠一郎は目を覚ました。

 目元が涙で濡れていた。


 数日後、誠一郎の病室に小林がやって来た。

「よう、錦野……」

「やあ、小林……」

 誠一郎はベッドに横になっており、元気のない、やつれた様子で返した。

 柏木は小林と入れ替わるように病室を後にした。

 小林はベッドの脇の椅子に、疲れきった様子で腰かけた。

 小林はどうやって話を切り出そうか、うつむいたり、顔を上げたりし、苦笑いを浮かべながらためらいがちに言った。

「……その、何故か錦野の家で起こった事件は警察は把握してないことになってる。まあ、あんな説明の出来ないことが起こったもんな……。ははっ……」

 小林は恐る恐る誠一郎を見た。誠一郎は無表情だった。

「錦野、うちの八坂がすまないっ!」

 小林は深々と誠一郎に頭を下げた。

「今、俺の方で八坂と場鳥の嬢ちゃんの行方を追っているっ。もう少し待ってくれっ!」

「……なあ、小林」

 誠一郎が静かに問いかけてきた。小林がそっと顔を上げると、誠一郎の虚ろな表情が見えた。

「……どうした?」

「ミナ子は……人間じゃないのかもしれない……」

 誠一郎は空を見つめ、呆然とした面持ちで、つい数日前錦野邸で起きた出来事を振り返りながら静かに言った。小林も、そうかもな、と呟いた。

……きっと八坂も……。

 小林は、ミナ子と同じような八坂の赤い瞳や鋭い犬歯を思い出した。

「今回の事件って……結局、何だったんだろうな……? 変死体の犯人は多分ミナ子が……。でも、ミナ子は俺と柏木さんを守ってくれただけなんだ……」

 そう呟くと、誠一郎は肩を震わせ咽び泣いた。

「ミナ子に会いたいっ……」

 小林は無言で誠一郎の背中を擦り、誠一郎にミナ子のペンダントを手渡した。

 誠一郎はペンダントを握り締め、すがるように額に押し当てた。

「今回の連続変死体殺人事件と鎌倉医科大の長谷川先生殺害は被疑者死亡で書類送検。で、連続失踪者殺人事件だが……まだ調べてる」

 小林は静かに言うと、誠一郎の肩をポンポンと叩き、病室を後にした。


 数日後の夜中。退院を明後日に控えた誠一郎はテレビを眺めていた。

 テレビは明日の天気予報を映しており、明日は雨の予報と伝えていた。

……明日から六月か……。

 誠一郎がテレビの電源を切ろうとした時だった。アナウンサーが脇から差し出されたニュースの原稿を受け取り、少々慌てた様子で原稿を読み始めた。

『ここで速報です。先ほど夜十一時半頃、神奈川県川崎市川崎区東扇島の永見製薬会社の工場で爆発が起こりました。現在消防が懸命の消火活動を行っております――』

……東扇島……?

 誠一郎は、以前文字化けしたような文章を、ミナ子が解いたのを思い出した。

……あぁ、ダメだ。何に置いてもう、ミナ子が俺の中にいる。この数ヶ月で俺は随分とミナ子を……。

 寂しい――。

 誠一郎は項垂れ、テレビの電源を切ると、ベッドに横になった。

 翌朝、誠一郎はニュースを眺めていた。

 どうやら昨夜の製薬工場の火事は鎮火され、十数人の遺体が出たそうだ。

 ただ、その遺体は全員未成年と思われる若者で、爆発によるものではなく、心臓をえぐり取られたような死に方だった。

 遺体は被害の少なかった倉庫から発見されたのだ。神奈川県警は殺人事件として捜査し、永見製薬会社の社長に事情聴取をしているらしい。

……小林のヤツ、大変だな。ということは、親父が司法解剖やっているんだろうか? 永見製薬会社って――。

「前に吸血鬼の話をしてたな……」

……吸血鬼か……。ミナ子は……“カーミラ”だったんだろうか……?


 後日、神奈川県警は永見製薬工場の倉庫で発見された遺体と、つい最近起こった連続失踪者殺人事件を関連付けた。

 というのも、どちらの事件とも、発見された遺体は横浜市周辺で行方不明者として、親が届け出を出していたこと、例の掲示板にアクセスしていたという共通点があったのだ。

 神奈川県警は、永見製薬会社が、理由は定かではないが、家出したいと切望する未成年たちを集めては誘拐して殺人、死体損壊というおぞましい事件を起こしていたと発表した。

 証拠に、永見製薬会社を家宅捜査したところ、連続失踪者殺人事件の被害者と製薬工場の倉庫で見つかった失踪者たち全員の顔写真や名前、生年月日、身体情報が記されたリストが出てきたのだ。

 ただ、この度の連続失踪者殺人事件や未成年誘拐及び殺人、死体損壊で逮捕された永見製薬会社の社長永見良雄と、その妹伊藤こと永見浩美は連続失踪者殺人事件は否認し、どうして心臓をえぐり出すという死体損壊を行ったのかは頑として黙秘した。

 その真犯人や理由を知るのは厚生労働省の千葉と、ミナ子と八坂の、ごく限られた人物のみに止まった。


 東京都某所、とある施設の会議室に千葉、ミナ子、八坂が長テーブルについていた。

「やはり、永見たちは違法に遺伝子操作をしていたみたいですね。まさか本当に吸血鬼を量産していたとは……。現代の技術があればそんなことも可能になってしまうんですね……? 末恐ろしいですねぇ……」

 千葉は、ミナ子と八坂が、永見製薬会社の工場から証拠として持ち帰った書類を、憎たらしそうに眺めていた。

「このリストだけは警察に渡るようにしてますよね?」

 千葉は書類の中から顔写真つきの、人体実験被験体リストをミナ子と八坂に見せた。八坂が素早くうなずく。

「これで我々の仕事は終わりました。後は、何故こんな悲惨な事件が起きたのか? その理由すら教えてもらえない警察に任せて、永見たちを処罰してもらいましょう」

 千葉は少々嘲るように笑いながら言うと、一息置いて続けた。

「さて――」

 千葉はミナ子と八坂を交互に見た。

「場鳥さん、八坂さん、あなた方の仕事は終わりました――」

 千葉の言葉にミナ子と八坂は身構えた。

……用済みになったら殺す、というのか?

「こちらとしては、八坂さんを隅から隅まで調べましたが、結局何故お二人が吸血鬼になったのか、その理由は分からずじまいでしてね? この研究所に置いといても維持費だけがかかってしまう――。なので、これよりお二人を監視下から外そうと思います」

 千葉のあっさりとした物言いにミナ子と八坂は目を見開いた。

「本当ですかっ! じゃあっ……」

 八坂は声を弾ませ、首に巻きついてる機械に触れた。

「勿論、それも外します。が、我々が要請を出したら、また協力して下さいね?」

 千葉は作り笑いを浮かべた。八坂は千葉の笑みにブルッと肩を震わせた。

 ミナ子と八坂の首の機械が外され、千葉は話を続けた。

「さて、八坂さんは外見が成人済みですし、戸籍上まだ生きているという扱いなので良いのですが、問題は――」

 千葉はミナ子に目を向けた。ミナ子も状況を把握しているようで、虚ろな表情でうつむいている。

「場鳥ミナ子さん、あなたは外見が小学生で除籍済みです」

 そう言いながら千葉は持っていたファイルから一枚の用紙を取り出し、テーブルに置くとミナ子と八坂の前に差し出した。それは古い、手書きの何かの書類のコピーだった。

 ミナ子はそっぽを向き、八坂はその書類に目を向けた。

……これはっ……。

 八坂は目を見張った。

……改めて見ると、切ない……。

「要するに場鳥さんが一人で……フフッ、もう死んでいますが、生きていくのはほぼ無理ですね?」

 千葉は鼻で笑いながら言った。ミナ子は歯をギリッと噛み締め、千葉を睨んだ。

……言ってくれるな、若造。

 しかし、ミナ子にとって千葉の言葉は痛いほど理解していた。

 誠一郎に拾われるまでの七十五年間のごみ溜めのような裏路地での生活を、ミナ子は思い出した。

 あんな苦しい思いはしたくない。だとしても、もう誠一郎の元には帰れない――。

 ミナ子はため息をついた。

「どうします? 錦野さんに連絡を取って、迎えに来てもらいますか?」

 千葉は軽々しい口調で言った。すかさずミナ子は首を横に振った。隣で見ていた八坂はえっ! と声をもらした。

「良いです……。前の生活に戻るだけですので……」

 ミナ子は静かに返すと、立ち上がった。

「もう、良いですよね? わたしはおいとまします」

 ミナ子は背後の窓をガラリと開け放った。外は雨だった。そのはずだ。もう六月も中旬だった。

 ミナ子は振り返ることなく窓から雨の降る外へ飛び去ってしまった。

「あ……」

 八坂は心配した様子でミナ子の背を見送った。

「行っちゃった……」

「そうですか……」

 千葉は短いため息をつくと、書類を八坂に差し出した。八坂は首をかしげつつ書類を受け取った。

「八坂さんは神奈川県警に戻るんでしょう? でしたら、それを錦野さんに――。あと、場鳥さんに会ったら伝言をお願いします。もし必要があれば私から法務省の友人に頼んで、戸籍を新しく作りますよ? と」

 八坂は呆然と千葉を見つめた後、こくりとうなずいた。

……錦野先生や小林先輩に謝らないと……。僕には責任がある。

 八坂は書類を握り締めた。


 数日後、八坂が都筑警察署を訪れると、もう捜査本部は解散された後だった。

 今回の連続変死体殺人事件と連続失踪者殺人事件、そして永見製薬工場で発見された未成年者誘拐及び、殺人、死体損壊事件はもう幕を下ろしていた。

……一足遅かった……。

 八坂は項垂れると、とぼとぼと都筑警察署を後にした。

 少しして雨が降ってきた。

 雨は次第に強くなり、どしゃ降りになった。

 道行く歩行人たちが慌てた様子で傘を差し始めた。そんな中、八坂は傘を差さずにびしょ濡れで、覚束ない足取りでとある場所を目指していた。

 行ったことはないが、“におい”は知っている。

 八坂がたどり着いたのは都筑区内のとあるアパートだった。

 小林が住むアパートだ。

 小林の部屋の前までたどり着くと、震える手で、インターホンを押した。

 玄関のドアの向こうから呼び鈴の音と、その少し後に足音がして、ドアがゆっくりと開かれた。現れたのは部屋着姿の小林だった。

「八坂っ! おま――」

「先輩っ……」

 八坂は小林を見や否や突然泣き崩れ、小林の足にすがりついた。

「すみませんですたっ、すみませんでしたっ! 許して下さいっ……」

 小林は八坂の様子に眉尻を下げた。

「お前、びしょ濡れじゃないか。 一先ず入れっ」

 小林は八坂の腕を持ち上げると部屋の中に通した。

 室内に通された八坂は、小林からタオルと替えの着替えを受け取った。八坂はそれらを呆然と見つめた。

……先輩のタオルと服……。

 とっさにタオルに顔を埋め、八坂は深呼吸した。

……先輩の柔軟剤の匂い。安心する……。

「八坂……? 大丈夫か?」

 小林の問いかけに八坂は素早く顔を上げた。

「はいっ!」

 脱衣場で着替えを済ませた八坂がリビングに戻ってきた。興味本意に小林の室内を見渡す。

……先輩って、綺麗好きなんだ。

 小林の部屋は掃除と整理整頓が行き渡っていた。

「八坂、座れ」

 小林がキッチンから戻ると、缶ビール二本をリビングの丸テーブルに置いた。

「一先ず、飲め」

 小林は缶ビールを一つ取ると、プシュッ! と音を立ててビールを飲んだ。

 一向に缶ビールを取らない八坂に小林は首をかしげた。

「八坂? お前もビール好きだったよな……?」

 小林が恐る恐る聞くと、八坂は深いため息をつき、おもむろに話し始めた。

「昔は好きでした。でもっ……今は飲めません。僕は……あの時、刺されて死んでしまったんですっ……」

 八坂の言葉に小林は缶ビールをゴトッと落としてしまった。

……え? 今何て?

「先輩っ! 床が!」

 八坂は慌てて缶ビールを立てると、テーブルの布巾を取り、床にこぼれたビールを拭き取った。

 小林は呆然と正面を見つめていた。

……死んでしまった?

 床を拭き終えた八坂は改めて小林の方を向いた。

「僕は今、吸血鬼です」

「えっ!」

 小林は一瞬たじろいだ。

……ということは八坂も吸血するってことなのかっ?

「僕は死後、解剖室で、死体として解剖される寸前に目を開きました」

 八坂は今にも泣き出しそうな表情で身を乗り出した。小林は少し後退りをした。

「僕の主食は血液です。しかしっ! 今は牛乳で代用出来ますっ! ですから、怖がらないで下さい……」

 八坂は肩を落とした。そんな八坂に小林は微苦笑を浮かべた。

……だと思ったよ。錦野、俺のところにもかわいい吸血鬼がいたぞ。

「八坂――」

 小林は身を乗り出すと、八坂の頭をワシャワシャと撫でた。

「今まで大変だったな……」

「先輩っ……」

 八坂は目を潤ませると、号泣しながら小林に抱きついた。

「せんぱぁぁああいっ!」

「うわっ! 気持ちわりぃっ!」


 数日後、小林と八坂は錦野邸を訪れていた。

 今、応接室で誠一郎と柏木の向かいに座っている。

 八坂は間髪入れず誠一郎と柏木に謝罪をした。その後、八坂は誠一郎に、千葉から渡された書類を手渡した。

「そちらは場鳥ミナ子さんの――」

 誠一郎が受け取ったのは古い、手書きの戸籍謄本のコピーだった。

 否――よく見ると、この書類は『戸籍謄本』ではなく『除籍謄本』と右端に書かれていた。誠一郎は自身の目を疑った。

 書類を読み進めると、夫の欄に『場鳥誠一郎』と名前が記されており、その隣に妻『ヨシ子』の名前。夫と妻ともに名前にばつ印がついていた。

 次の欄に目をやると、誠一郎が待ちに待った名前があった。

「ミナ子……」

 ただ、ミナ子の名前にも大きくばつ印が書いてあった。これはその人物が亡くなっていることを意味している。

 『ミナ子』の欄には、『父誠一郎』と『母ヨシ子』、その下には『長女』と記入さており、ミナ子の名前の横には出生日が書いてあった。

「……昭和九年三月十日……」

 次に名前の上の経歴欄に目を通した。

 すぐに目に入ったのが、『昭和二十年三月十日戦時死亡宣告』という文字だった。

 誠一郎は言葉を失った。

 誠一郎は手で目元を覆うと、絞り出すように呟いた。

「ごめん、ちょっと……一人にさせて」

 誠一郎の意を汲んだ小林や八坂、柏木は応接室を後にした。

 誠一郎の中で、今までミナ子に抱いていた違和感という名の謎がホロホロとほどけていった。

……ミナ子は、もう……。

 誠一郎は静かに咽び泣いた。

……俺は最初からミナ子を守れなていなかったんだ……。


 数日後のある日、柏木は誠一郎に引っ越しを提案していた。誰でもあんな惨劇があった事故物件には住みたくはないであろう。それでも誠一郎は頑として、この錦野邸にとどまると言い続けた。

 もしかしたら、ミナ子が帰ってくるのではないか?

 誠一郎はそんな淡い期待を抱いていた。

 時々、ミナ子の寝室を訪れると、ミナ子の部屋はとても綺麗に整理整頓されており、まるで今まで使われていなかったのでは? と思えるほどだった。それが誠一郎に不安を与えた。

 ミナ子は本当は自分の空想の産物なのでは? と。

 唯一、ミナ子が錦野邸に存在していたという証拠――ミナ子のペンダントと、タンスに綺麗に入れられてる、誠一郎が買った――ミナ子はあまり着てくれなくて、アダムスファミリーのウェンズデーよろしく黒っぽい洋服のワンピースを好んで着ていた――洋服に、机の上の麦わら帽子を眺めるのが誠一郎の日課となった。

 小林にペンダントを渡されて以来、誠一郎はお守りのようにずっと肌身離さず持っていた。

 いつかミナ子に再会出来たら、すぐに返せるように――。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る