十三

 夜九時。誠一郎たちが帰宅した。

「ただいま、場鳥――うわっ!」

 誠一郎の悲鳴に柏木と木幡が玄関をのぞき見た。

「ひっ!」

「きゃぁ!」

 柏木と木幡がそろって悲鳴をあげた。

 玄関のドアを開けて、いきなり遺体があれば誰でも驚くであろう。

「だ、だだ、誰だ……?」

 誠一郎は恐る恐る、玄関前に倒れてる、首があらぬ方向に曲がった青年に歩み寄った。

 足元に溜まった血痕を踏まないように、誠一郎はしゃがみ込み、手を伸ばすと青年の頸動脈に触れた。柏木と木幡が見守った。

 脈はなかった。

……死んでる。他殺か?

 誠一郎は首を横に振った。柏木と木幡はため息をついた。

 立ち上がろうとした時、誠一郎の目に遺体の口元が鮮明に映った。

……牙……? 連続失踪者殺人事件の被害者たちみたいだ……。

 誠一郎は忍び足でリビングの方へ向かった。柏木と小幡も後に続いた。

「遺体に触らないように……」

 柏木と木幡はうなずいた。

「場鳥……? どこだ?」

 誠一郎は声をひそめて呼びかけた。

 異様に静かな家の中に耳鳴りを感じ始め、心臓の鼓動が次第に早くなっていく。

 誠一郎は固唾を呑んだ。

 リビング前に差し掛かるともう一人の青年が、胸から血を流して倒れていた。一目で死んでいることが分かった。

 青年は死の間際に断末魔をあげたように、目をかっ開き息絶えていた。

「っ! どうして――」

 誠一郎は眉をひそめた。

……どうしてうちに知らない人の遺体があるんだっ! うちが殺人現場じゃないかっ!

 その青年も唇から長い犬歯をのぞかせていた。

……何なんだ? この青年も……。

 遺体をよけ、そのままリビングに入ると、誠一郎は目を見張った。

 リビングの窓が割られ、室内はめちゃくちゃに荒らされていた。

……空き巣にでも入られたのか? 場鳥は無事なんだろうか?

 室内を見渡すと、壁や家具、カーテン、天井、床の至るところに血痕が飛び散りっており、何者かがここで殺り合った後のような、凄惨な状態だった。

 リビングの床のど真ん中で背中に刃物が突き刺ささり、血がだらだらと流れ出ている青年と、髪が白く長い“子供”の二人が横たわっていた。

 誠一郎は我慢が出来なくなり口元を押さえた。柏木はリビングの状態に息を飲み、目を背けた。

 誠一郎にとって遺体は何度も解剖し、血液だって見慣れているはずなのに、殺人の現場を見るのは勿論初めてで、殺された直後の遺体を見るのは誠一郎にとって見るに絶えがたいものだった。

 誠一郎は横たわる二人の遺体にゆっくりと歩み寄ると、顔をしかめた。

「場鳥……?」

「えっ! ミナ子ちゃん……?」

 誠一郎と柏木が白髪の子供に駆け寄った。

 誠一郎が白髪の子供をそっと抱き寄せ、乱れた白髪の前髪をかき上げると、柏木よりも更に年老いた老婆の顔が見えた。

 髪をかき上げた誠一郎の手がびくりと震えた。

「ひっ!」

 柏木が悲鳴をあげた。

「ば、場鳥なのか……?」

 誠一郎は目を凝らし老婆の顔を見つめた。

 老婆はミナ子だと示すように、残忍にもその胸元にミナ子のペンダントが見えた。誠一郎は自身の目が信じられず、言葉を失った。

「どうして……こんな……」

 誠一郎は、まるで連続変死体殺人事件の被害者のように年老いて、冷たくなったミナ子の体を強く抱き締めた。

……一体誰がこんなっ、ひどいことをっ……。強引にでも連れていけば良かった……。

「場鳥……場鳥っ……!」

 誠一郎は後悔の念に、ただ咽び泣くことしか出来ない。

「旦那さま! 救急車を呼びます!」

 柏木は自身のスマートフォンをバッグ取り出すと、すぐさま電話をかけた。誠一郎もスマートフォンを背広のポケットから取りだし、電話をかけた。

「頼む小林……出てくれっ……!」

 長いコールの後にようやく小林が電話に出た。

『もしもし、小林だ。解剖終わ――』

「小林っ、早く来てくれっ! 場鳥が……場鳥がっ! 変死体の被害者のようにっ……!」

 誠一郎は泣き叫びながら小林に訴えた。

『あのお嬢ちゃんがっ? 今どこだっ?』

「俺の家だっ!」

『八坂と行くっ。待ってろっ!』

 電話を切ると、誠一郎はミナ子の体を再度抱き締めた。

「……場鳥」

「だ、誰なのっ? あなたたちはっ!」

 突然柏木がダイニングルームの方に向かって叫んだ。

 誠一郎がそちらに目を向けると、見知らぬ男女五人が立っていた。

「待ってたわよ? 帰ってくるの。錦野先生?」

 伊藤が誠一郎に歩み寄っていった。

 誠一郎と柏木は後退る。

 誠一郎と柏木はリビングを出ようとした。が、木幡が行く手を阻んだ。木幡の手には拳銃が握られており、真っ直ぐ誠一郎に向けられていた。

 誠一郎と柏木は目を見張った。

「小幡さんっ! あなた、この人たちの仲間なのっ?」

 柏木は問いただすように怒鳴ると、木幡はウフッ、と笑った。

「そっ。だってぇ、お金欲しいんだもん」

「さて錦野先生、袋のネズミね? チップはどこっ?」

 伊藤は誠一郎に迫った。

 青年四人を引き連れる伊藤と拳銃を向けてくる小幡に挟まれ、誠一郎は歯を食い縛った。

 自身のカバンが放置されている玄関の方を一瞥すると、誠一郎は伊藤を睨んだ。

「知るかっ! 連続変死体殺人事件をおこしたのも、場鳥をこんなにしたのもお前たちかっ?」

「そーでーすっ! ほぼ、だけど」

 伊藤の隣に立っている山田が面白可笑しそうに言った。

 誠一郎はちらとガラスが割られた窓を見た。

……あそこから出るしか……。

 誠一郎はミナ子をしっかりと抱くと、柏木の手を掴み窓の向かって駆け出した。

「逃がさないわ!」

 木幡が拳銃の引き金を引いた。

 バンッ――!

 リビング内に銃声が響き渡り、誠一郎が前のめりに、ミナ子に覆い被さるように倒れた。

 一体自分に何が起こったのか? 背中に激痛が走り、誠一郎は困惑の表情を浮かべた。

「旦那さまっ!」

 柏木が誠一郎の肩を支えた。

 誠一郎の背中に真っ赤なシミがじわじわと広がっていった。

 誠一郎はとっさに手で口を覆い、ゲホゲホと激しく咳をすると、手や指の隙間から真っ赤な鮮血が飛び散り、ミナ子にかかった。

 誠一郎は自分の真っ赤に染まった手を見るや否や顔を歪ませた。

……鮮血だ。肺をやられた。このまま放っておくと窒息するっ……。

 誠一郎は自分へのやるせなさと不運を呪った。

……こんなところでっ……。場鳥っ。

 誠一郎はミナ子の体にすがり付き、ごめん……ごめんっ……と、嗚咽しながらミナ子に何度も何度も謝罪をした。そんな誠一郎の背中を柏木が擦った。

「旦那さま……」

「さて、“感動の”再会はおしまいよ? 山田、殺っちゃって」

 伊藤は山田に言い放つと、山田たち四人が手の関節をパキッ、パキッと鳴らし、誠一郎たちに歩み寄っていった。

「こ、来ないでっ!」

 柏木は誠一郎を庇うように覆い被さった。

「心配ないわよ? あなたもそのガキのようにしてあげるから」

 伊藤は嘲るように言った。その時だ――。

 シュウ、シュウ……と蒸気が立つようなかん高い、不気味な音が辺りに響き渡り、何かが焼け焦げたような臭いが漂ってきた。

 とっさに山田たちの動きが止まった。

 伊藤は顔をしかめ、室内を見渡した。

「何の音? 何の臭いなのっ? 火事っ?」

 誠一郎はそっと顔を上げると、焼け焦げた臭いをまとった煙が立ちこめるミナ子が目に入った。

……一体、何が……?

 誠一郎は目を見張った。

 ミナ子の肌に飛び散った誠一郎の血液が、吸収されていくように消え、煙が音を立てて立ちこめたかと思うと、萎れていた肌が元の瑞々しさを取り戻していく。

 誠一郎は呆然としつつミナ子を見守った。

 ミナ子の、白くなった髪が次第に元の烏の濡れ羽色に戻っていき――ミナ子の真っ赤な瞳がゆっくりと露になった――。

「場鳥……?」

 誠一郎は、自分が撃たれていることを忘れ、目頭が熱くなった。

 ミナ子はおぼろ気な表情で誠一郎を見上げた。

「先生……?」

「場鳥! 良かったっ……」

 誠一郎はミナ子をきつく抱き締めた。

 ミナ子は一瞬驚いた表情を浮かべた後、顔を綻ばせ、誠一郎を抱き返した。

「ミナ子ちゃんっ! 本当に良かったっ……」

 柏木もミナ子の復活に嬉し涙を流した。

 誠一郎たちの様子を、伊藤や山田たち、木幡は驚嘆の眼差しで眺めていた。

「あれが、永遠の命ねっ?」

 木幡が興奮した口調で叫んだ。

 誠一郎は木幡を振り返った。

……永遠の命……?

 そっとミナ子を見下ろすと、ミナ子は自身の手についた誠一郎の血を、ただじっと眺めては瞳孔がぶわりと広がり真ん丸くなっている。

 誠一郎は不安な眼差しでミナ子を見つめた。

……場鳥……? あの時と同じだ。場鳥が『血のにおい』って呟いた時と――。

「先生……怪我シテル……」

「えっ……?」

 ミナ子の抑揚のない声に誠一郎は畏怖の念を抱いた。

 ミナ子は表情を歪ませると、真っ直ぐ小幡を睨んだ。刹那――。

「ぎゃぁぁあああっ! ううっ……!」

 突然木幡が悲鳴をあげた。悲鳴と同時にメキッ、バキッ! と気味の悪い金属音が響き渡る。

 誠一郎や柏木、伊藤たちは苦しみ悶える小幡に目を向けた。

 木幡は自身の右手を必死に押さえては床にうずくまった。

 木幡の状態を目の当たりにすると、一同は目を丸くし、言葉を失った。

 なんと木幡が握っていた拳銃が、まるで熱を帯びて軟らかくなった鉄のようにぐにゃりと変形し、木幡の右手を文字通り包み込むように握り返しては、木幡の右手がバキッ、ボキッ! と痛々しい音を立てて潰されていった。

 誠一郎たちは慄然とした。

……一体何が……?

 誠一郎はミナ子を盗み見ると、ミナ子がまばたき一つせず、真っ赤な目をギラつかせて小幡を見つめていた。

……場鳥が……?

「場鳥、場鳥っ! 止めなさいっ!」

 誠一郎はすかさずミナ子の視界を手で覆った。

 ミナ子は我に返ったかのように、はっ! と目を見開くと、しゅんと肩を落とした。

「……すみません……」

 ミナ子の落ち込みように、誠一郎はミナ子を抱き締めた。

「俺のために怒ってくれたんだよね……?」

 ミナ子は無言で誠一郎の肩に顔を埋め、静かに泣いた。

「ちょっとっ! ボヤッとてないでっ、助けなさいよっ!」

 木幡が激痛に息を切らしながら伊藤に怒鳴った。

 伊藤はあぁ、と呟くと、山田に顎で指示を出した。

 山田はほくそ笑むと、小幡に歩み寄っていった。

「あたしも、あのガキのようにしてくれるんでしょっ?」

 木幡は痛さに表情を歪めつつ、声を弾ませて言った。

 山田は木幡の元に膝を突くと、木幡の肩をガッチリと掴んだ。そして、ニヤリと口角を上げると、唇から長く尖った犬歯が見えた。

 木幡はごくりと固唾を呑んだ。

 伊藤や誠一郎、柏木が小幡と山田の様子を見守った。

 山田は木幡の首に口を近づけると、木幡の首に噛み付き、血液をじゅるるっ! とすすり始めた。

 誠一郎と柏木は自身の目を疑った。

……吸血鬼っ……?

 山田は吸血するのを一向に止めず、小幡の体に変化が起きた。

 木幡の髪が毛先から白くなり始め、肌が水分を失っていくようにシワが刻まれ始めた。

 ようやく小幡も自分の異変に気づき、山田から離れようともがいたが、山田の腕力ではびくともしない。

「やめてぇっ……」

 木幡の声はしわがれた老婆の声だった。

 誠一郎と柏木はただ呆然と眺めることしか出来ない。

 木幡は断末魔をあげたかと思うと、床に倒れ、動かなくなった。

 山田は立ち上がると、大口を開けて笑った。

「あははっ! 残念っ。オレは“モノホン”じゃないから人間を吸血鬼にすることなんて出来ないんだよねぇ? ごちそうさまでしたぁ!」

 誠一郎は眉をひそめた。

……変死体の正体は……これだったのかっ!

「さて、余興は終わりよ」

 伊藤が冷たく言い放つと、山田たちが誠一郎たちに歩み寄っていった。

「きゃぁぁああっ!」

 柏木は悲鳴を上げた。

 誠一郎は山田たちを睨み、口走った。

「ちくしょうっ……」

「そいつら、殺っちゃって!」

 伊藤のかけ声に、山田たちが飛びかかってきた。

 誠一郎と柏木は目をぎゅっ! とつぶった――。だが何も起こらなかった。

 誠一郎がそっと目を開けると、目の前にはミナ子が仁王立ちしており、ミナ子の前に山田たち青年四人が床にのびていた。伊藤は度肝を抜いたように呆然と立ち尽くしている。

……え? 何が……?

「二人に近づいたら、今度こそ殺します」

 ミナ子は山田たちに言い放つと、先ほど殺した、青年の背中から短刀を回収し、山田たちに向かって刃を向けた。

「イッてぇな……」

 山田は首を擦りながらゆっくりと起き上がった。

 ミナ子は短刀を構えた。

「さっきとおんなじように、殺ってやらぁ!」

 山田は叫ぶと、ミナ子に駆けていった。ミナ子も山田に駆けていき、短刀で素早く刺しに掛かった。

 誠一郎と柏木ははらはらと動揺しながらミナ子を見守ることしか出来ない。

 寸前で山田に短刀をよけられ、ミナ子は更に山田の懐に入り込み短刀を突き立てようとした。

 山田は体をよけ、ミナ子がそのまま過ぎようとしたところガシッ! と山田に首根っこを鷲掴みにされ、持ち上げられた。

「っ!」

「場鳥っ!」

「ミナ子ちゃんっ!」

 誠一郎と柏木ははっ! 息を飲んだ。

 ミナ子は顔を歪ませながら山田を睨みつけた。

「離せっ!」

 ミナ子は脚をばたつかせ、山田に向かって投げやりに短刀を振った。

「そんなんじゃ、オレなんて殺れねぇぜ?」

 山田は嘲笑うように言うと、ミナ子から短刀を奪った。

 誠一郎は嫌な予感がした。

……止めてくれっ!

 山田は短刀の刃をミナ子に向けた。

 ミナ子も状況を把握し、自身の首を掴む山田の手をガリガリと引っ掻いた。

「離せっ……!」

 山田はははっ! と笑うと、ミナ子の胸に短刀の刃を突き立てた。

「ああっ!」

 ミナ子が苦痛の声を上げた。

「止めてくれっ!」

 誠一郎は懇願するように叫んだ。

「ミナ子ちゃんっ!」

 柏木が泣き叫んだ。

 短刀の刃が全てミナ子の体に入り込み、ミナ子の腕から力が抜け、ぶらんと垂れ下がった。

 山田はミナ子の首を離すと、ミナ子の体は床にドサッと落ちた。

 誠一郎と柏木は絶望した。

 決して、自分たちを守ってくれる唯一の人を失ったからではない。大切な人をまた失ったことに絶望したのだ。

 誠一郎と柏木は静かに涙を流した。

「手こずらせやがって……。お前たち! さっさと起きなさいよ!」

 伊藤は腕を組み、床でへばっている三人の青年たちを蹴り上げると、青年たちを叩き起こした。

 青年たちは頭や首を押さえ、ゆっくりと起き上がった。

「くっそ、あのガキ……」

 市原が愚痴った。

「あのガキは俺が殺ったぜ」

 山田は自慢げに言うと、市原たちとともに誠一郎と柏木に歩み寄った。

「嫌! 来ないでっ!」

 柏木は誠一郎を庇うように、覆い被さった。

 山田や市原たちは誠一郎と柏木を強引に引き離した。

「旦那さまっ!」

「柏木さんっ!」

 手を伸ばそうにも、もう届かない。

 青年の一人が誠一郎の首根っこを掴み、尖った犬歯をギラつかせ、顔を近づけてきた。

……殺されるっ!

 誠一郎は覚悟し、目を固くつぶった。

 突然、顔に液体が付着したのを感じ、誠一郎が目を開くと、青年の頭が勢いよく血を吹き出しながら、首元から吹き飛ばされていた。

 誠一郎や、柏木、伊藤たちは呆然とその状況を見ることしか出来ない。

 誠一郎は、青年の首の向こう側に、短刀を構えたミナ子をとらえた。

……場鳥っ!

 ミナ子は目をかっ開き、口角をニヤリと上げ牙を剥き出し、狂気じみた表情でただ正面を――獲物を――真っ直ぐ見つめていた。

「イヒヒッ!」

 ミナ子は嘲るように笑い、首を切断した青年の体を粗雑によそに蹴り上げると、短刀を勢いよく、ヒュバッ! と飛ばした。

 短刀の刃先は柏木を捕らえていた青年の胸に深く入り込み、直撃する。

「うぅっ!」

 青年は呆気なく倒れた。

 山田と市原は額に冷や汗をかいた。

……コイツッ、心臓を刺したのにっ、化け物めっ!

 山田は心の中で愚痴った。

 ミナ子は誠一郎と柏木の前に立ちはだかった。

 山田と市原は一瞬たじろぎ、舌打ちをすると金属製の鉤爪を指にはめ、ミナ子に駆けていった。

「このガキっ!」

 山田と市原はミナ子を挟み撃ちにし、交互に攻撃を仕かけた。

 指先の鉤爪を構え、ミナ子を引き裂こうと素早く腕を振るう。

 ミナ子は山田たちの攻撃を手で弾き、体をくねらせてよけるも、一瞬の隙を突かれ、山田に背後から羽交い締めにされた。

 ミナ子は表情を一つ変えることなく、澄まし顔で肩越しに山田を睨んだ。そこへ市原が突進し、ミナ子の首元を深く引き裂いた。

「もらったぜっ!」

 市原は勝利を確信した。

 ミナ子の首筋には深く割れた傷が出来、血が飛び散った。

「場鳥っ!」

 誠一郎が叫んだ。

 ミナ子の首から吹き出す血とともに鎖の切れたペンダントが血溜まりの床の上に落ちていった。

 ミナ子は構うことなく目の前の市原を、首筋から大量の血を滴らせながら狂気の笑みを浮かべ、真っ直ぐ見た。

 石原の顔がひきつった。

……このガキ、まだっ!

 ミナ子はフッ、と一笑すると、ミナ子の乱れた髪が次第に伸び始め、山田と市原は顔をしかめ、素早く距離を取った。

 ミナ子は髪の毛を、メドゥーサの髪の如くなびかせ始めた。

 

 小林と八坂は車のパトランプを点灯させ、店や住宅の明かり、街灯、行き交う車のライトで照らされている夜の街中を猛スピードで、誠一郎の家に向かって走らせていた。

「先輩! 錦野先生は、場鳥さんが変死体のようになった、と言ってたんですよねっ?」

 八坂は、小林の荒い運転に気を動転させながら聞いてきた。

「ああっ! もしかしたらまだ犯人が近くにいるかもしれねぇっ!」

 小林は更にアクセルを踏んだ。

 車が一気に加速し、体がシートにのめり込んだ。

 夜の静けさが漂う、閑静な住宅街の一角にある錦野邸に着くと、小林は車の鍵を閉めることすら忘れ、錦野邸の玄関に駆けていった。

「先輩! 待って下さい!」

「八坂、おせぇぞ!」

 小林は八坂を叱咤した。

「先輩、庭の方から室内をのぞいて、状況を把握しましょうっ?」

 八坂は辺りを警戒したように、少し怯えた表情で小林を見つめた。

……僕の“本能”が、危ない、って言ってるんだ!

 八坂の意見に小林は一旦深呼吸をして、そうだな、と呟いた。

 小林と八坂は静かに庭の方に回ると、ガラスが割れた窓が目に入った。割れた部分から、室内の明かりがカーテン越しに見えた。

「泥棒……か?」

 小林は割れた窓に歩み寄った。

「どうで――先輩! 伏せてっ!」

「えっ――」

 八坂が小林に駆け寄って、小林の体を地面に押し倒した。

「うわっ! 八坂! 何だ――」

 窓から何か、ドッジボール大の黒い物体がものすごい早さで勢いよく飛び出してきた。

 八坂に押し倒されなかったら、小林は直に体に食らっていたであろう。

 黒い物体は八坂の頭上を越えて、地面に落ちた。

「何だ……?」

 小林と八坂が恐る恐る近づくと、カーテンの隙間からもれ出る明かりに、“それ”が照らされて浮かび上がっていた。

 小林と八坂はそろって悲鳴をあげた。

「うわっ! この顔って……市原良太?」

 二人の足元には、断末魔をあげたような死に顔の、市原の頭が血まみれで転がっていた。

「中は一体どうなってるんだっ?」

 小林は窓の下からそっと室内をのぞき見ると、窓ガラスに飛び散った血痕が目に入った。

「市原のか……? 八坂?」

 小林は振り返り、八坂を肩越しに見た。八坂は目を見開き、恐ろしいものでも見てしまったかのように窓の方を見つめている。小林は再度窓の方を向き、室内を眺めた。

 そこにはおぞましい光景が広がっていた。小林はゾッとした。

「……何だこれっ……。髪の毛……?」

 室内の壁や、床、ソファーが大量の真っ黒な毛みたいなものに覆われており、むわっと、鉄のような生臭い臭いが漂っていた。

 小林は思わず手で鼻と口を覆った。その時、背後に何十人もの白い防護服姿の人たちがどこからともなくやって来て、小林と八坂の後ろに並んだ。

 小林は目を見張る。

「何だっ? お前らっ!」

 

 リビング内はミナ子の大量の髪の毛が、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされ、血が雨のようにポタポタと滴っていた。

 そんな中、柏木は誠一郎をしっかりと抱き抱えてうずくまっており、誠一郎は口から鮮血を吐き出しながら、朦朧とした意識の中、柏木の腕の隙間から状況を眺めていた。

 こんな惨劇の状況の中、誠一郎の脳裏に何故か『医者』に関する諺がよぎった。

 よく『医者の不養生』とか、『トマトが赤くなると医者が青くなる』とか、『医者を殺すにゃ刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい』と聞くが――。

 誠一郎は痛みに苦虫を噛んだように表情を歪めた。

……雨……? 降ってるよ……血の雨が……。

 誠一郎は、リビングの中央で立ち尽くすミナ子に目を向けた。

 ミナ子の足元には、ミナ子の髪の毛で体を無惨に、バラバラに切断された山田と市原の四肢や胴体が、髪の毛と血溜まりの中に転がっていた。

 伊藤はと言うと、ミナ子の髪の毛に体を縛られ、身動きが取れない状態でもがいている。

 ミナ子はそんな伊藤に、グリム童話の『ラプンツェル』も顔負けの長い髪を引きずりながら歩み寄っていった。

 伊藤は恐怖に顔を強張らせ、ミナ子の髪から逃れようと必死に体を動かした。

「く、来るなっ!」

 その時ミナ子が、“動力源を失った”人形のように膝から崩れ落ち、肩で激しく息をしながら髪の毛の中にうずくまった。

「……うぅ……」

 ミナ子は体を震わせながら胸元に手を持っていった。だが、目的の物がなく、深刻な表情を浮かべては、何かに耐えながら自身の髪の毛と血で覆われた床を激しく叩いたり、探ったりする。

「……お父さん……お父さン……」

 ミナ子は何かに怯えたように呟いた。

 誠一郎は、ミナ子が何を探しているのか、すぐに悟った。

……ペンダントは……。

 ミナ子は我慢が出来なくなったのか、諦めたかのようにガクリと頭を垂れた。

「……オ腹、空イタ……」

 ミナ子の呟きに伊藤はゾッとした。

 先ほどの木幡のように自分も吸い殺されるのでは? と。

 ミナ子はゆっくりと顔を上げると、伊藤をまるで獲物を見るような目付きで見つめ、獣のように四つん這いで伊藤に迫ろうとした。

……ダメだ。場鳥……。

 誠一郎は必死に手を伸ばし、ミナ子を止めようとする。

「ば、とりっ……。だめ……だっ」

 誠一郎は呼吸困難の中、振り絞るように言う。

 ミナ子を引き止めようとする誠一郎に気づいた伊藤は口角を上げた。

「ほらっ! あんたの後ろにっ、血の滴ってる人間がいるわよっ!」

 伊藤の言葉に柏木は誠一郎を、より一層強く抱き寄せた。

「嫌っ……。旦那さまはっ、だめっ!」

 柏木は怖気た表情でミナ子を見つめ、首を横に振った。

 ミナ子がゆっくりと振り返った。

 柏木は肩をびくつかせ、背を向けると誠一郎を自身の体で隠した。

 ミナ子は更に振り向き、体をビクンッ! と反応させると、音を立てずにそちらの方へスルッと、滑らかな動きで獲物に近づくように移動していった。

 誠一郎は目だけをミナ子に向け、ミナ子の行動を見つめた。

……場鳥、何を見つけたんだ?

 ミナ子の向かう先には、干からびて横たわる木幡の死体があった。

 誠一郎は目を見開いた。

……ダメだっ! 場鳥っ!

 誠一郎は声を振り絞った。

「ば、とりっ……!」

 ミナ子が木幡の死体の腕を持ち上げた。

「場鳥っ……!」

 ミナ子は木幡の腕を顔の前に持っていくと、口を大きく開け、鋭い犬歯を露にした。

「ミナ子ぉぉおおっ!」

 誠一郎は力強く叫んだ。

 ミナ子の動きが止まり、誠一郎と柏木の方に視線を向ける。

 誠一郎はため息混じりに言った。

「そんな“干からびた”のは止めなさい……。俺のをあげるから……」

 柏木は誠一郎を険しい表情で見下ろした。

「旦那さまっ! 襲われま――」

「良いじゃないか……。ミナ子にとってようやくまともな“食事”が――っ!」

 誠一郎は激しく咳をし、気道を上がってきた血を吐き出すと、苦し紛れに微笑んだ。

 誠一郎は柏木に支えられて上体を起こすと、自身の血まみれの手をミナ子に差し出した。ミナ子は首をかしげ、微動だにしない。

「おいで……ミナ子……」

 誠一郎は震える声で言った。するとミナ子は木幡の腕をドサリと落とし、四つん這いで物音立てずに誠一郎の元へ駆け寄った。

 ミナ子の目は誠一郎の血まみれの手に夢中だ。

 誠一郎と柏木は固唾を呑んだ。

 ミナ子は舌舐めずりすると、誠一郎の手をしっかりと掴んだ。とたん、誠一郎は腕をびくつかせた。それでもミナ子の掴む力は強く、全くもって動かせない。

 ミナ子は誠一郎の手に口を近づけると、舌を伸ばし、ペロリと誠一郎の手の血液を舐めた。その様子を目の当たりにした誠一郎と柏木は、恐れるどころか、おっ! 舐めたっ! と言わんばかりに目を見開いた。

 ミナ子は一心不乱に誠一郎の手を舐め回す。

 誠一郎は口をきゅっと結び、次第に頬を染め始めた。

……く、くすぐったいな……。

「あー……美味しいか……?」

 誠一郎は恐る恐るミナ子に尋ねた。

 ミナ子はうんともすんとも返さず、ただ誠一郎の手を舐め回す。

……美味しい、ということか? なら良いんだ。

 誠一郎はふぅ、とため息をついた。

 しばらくミナ子に手を舐められ、誠一郎の手は“綺麗”になっていった。

……血が……。

 誠一郎に不安がよぎった。

 ミナ子は今、誠一郎の背広の袖に染み込んだ血をしゃぶっている。

 誠一郎はミナ子の次の行動を見計らった。

……次は噛まれて、吸血されるかもしれない……。

 誠一郎は無意識にミナ子から手を離そうとした。だが、ミナ子の掴む力が強く、びくともしない。

 ミナ子が口を開け、鋭い犬歯を誠一郎の手に突き立てたようとした。誠一郎が覚悟を決めた、その時――。

「止めろっ! 場鳥ミナ子っ!」

 窓から突然八坂が入ってくると、素早く拳銃を構え――発砲した。

 バンッ!

 リビング内に二度目の銃声が響き渡った。

 ミナ子はこめかみから血を流しながら床に倒れていった。

「いやぁぁああっ! ミナ子ちゃんっ!」

 柏木が悲鳴をあげた。

「ミナ子っ!」

 誠一郎はミナ子に手を伸ばすも届かず、呆然と八坂の方に目を向けた。

……ミナ子を撃った……。

「八坂っ! お前! 何故拳銃なんかっ。何故発砲したっ!」

 八坂の後から、ものすごい剣幕で小林が乗り込み、八坂に掴みかかろうとすると、それと同時に玄関や他の窓から防護服を着た人たちが入り込んできた。

 防護服の人たちは用意周到にハサミを取り出し、ミナ子の髪をジョキリ、ジョキリと切っていき、誠一郎や柏木、伊藤を錦野邸の外へと連れ出した。あっという間の出来事だった。

……待ってっ。待ってくれっ! ミナ子がっ!

 誠一郎は家に戻ろうとするも、柏木と防護服の人に制された。

「旦那さまっ」

「家に入らないで下さい」

「でも、ミナ子がっ……!」

 そこへ、丁度救急車がやって来て、柏木を伴って誠一郎は強引に搬送されてしまった。

 錦野邸前で救急車を呆気なく見送った小林は八坂に歩み寄った。

 リビング内は防護服の人たちが髪の毛や血痕、木幡の遺体やバラバラの遺体の処理や採取をなれた手付きで淡々とこなし、伊藤に事情を聞いている。そんな中、八坂はミナ子を抱っこしていた。

「……八坂。お前、何を企んでる……」

 小林が八坂を睨みつけると、八坂は申し訳なさそうに、うつむいた。

「すみません、先輩……。僕はまだ厚労省の“人間”なんです……」

 そう呟くと、八坂はミナ子を抱えたまま、窓から飛び去っていった。

「八坂っ!」

 小林がすかさず追いかけるも、もう八坂の姿はどこにもなく、ただ暗い住宅街の夜空しか見えなかった。

 錦野邸では小林が応援を呼ぶ前に、防護服の人たちに跡形もなく証拠を隠滅されてしまっていた。

 一人残された小林は、リビングで血液が付着した、鎖の切れたペンダントを見つけると、そっと背広のポケットに入れた。


 大学病院に搬送された誠一郎は緊急手術を受け、一命を取り留めた。

 病室のベッドで眠っている誠一郎の脇で柏木はただ、祈るように両手を握り締め、額を押しつけた。


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