五月のとある連休。誠一郎は書斎で物思いに耽っていた。

……あの時は言えなかったが、場鳥は俺が父になるって聞いたらどう思うだろうか?

 結局四月の、小林に遮られて以来ミナ子に養子の話を切り出せていない。

 誠一郎は頬杖を突き、パソコンのページを意味もなく上に下にスクロールしてはため息をもらした。

……場鳥が了解してくれたら、家裁に行くとして、戸籍謄本はどうしようか……。

 以前、小林に『場鳥ミナ子という人間の戸籍は神奈川県にはなかった』という言葉を思い出した。

……場鳥って神奈川県民じゃないのか? 本籍教えてくれるだろうか? というか、まず認めてくれるだろうか……?

 誠一郎はもどかしさと、胸にモヤモヤしたものを感じていた。


 連休が明け、とある日の昼。

 医局にて、誠一郎は弁当を取り出そうと、カバンの口を開けた時だった。

「……やはりカバンの中身の配置が……違う」

 カバンの中身を確認したが、今回は何もなくなってはいないみたいだ。

 四月から時々起こってる不自然さに誠一郎は眉をひそめた。

……誰かいじってるのか?

 誠一郎は昨日帰ってきたときのことを思い出した。

 病院から帰ってくると、柏木やミナ子をとっこして、最近小幡がカバンを書斎に運んでくれているのだが、その時だろうか? と誠一郎は黙考した。

 錦野邸は相変わらず、小幡のやりたい放題らしいのだが、最近小幡から司法解剖について質問されることが多くなってきたのを誠一郎は実感していた。

 解剖はどこでやっているの? とか、鑑定書はどこで書いてるの? とか。

 自分の仕事に興味を持ってもらえるのは嬉しいことだが、ご遺体の情報まで聞き出されるのは少々不審に思えてならなかった。

……まさか、小幡さんが俺のカバンを漁っているのか? じゃあ、何で……。

 憶測にすぎないかもしれないが、そういう私見が誠一郎の中で広がっていた。

 それでも小幡に堂々と尋ねることが出来ず、疑念が募るばかりであった。


 とある夕方。都筑警察署の捜査会議室にて。

 先ほど捜査会議を終えた神奈川県警や都筑警察署刑事部の捜査員たちがそれぞれ捜査資料をまとめていたその時だった。

 捜査会議室に一本の電話が入った。すかさず八坂が受話器を取った。

「はい、都筑警察署捜査本部です――えっ! 分かりました! すぐに!」

 八坂の慌てように小林は立ち上がり、背広を着込んだ。

「藤沢市で例の変死体です!」

「すぐに行くぞっ!!」

 小林のかけ声に捜査員たちが立ち上がった。


 神奈川県藤沢市某所。

 引地川河川敷にて、犬の散歩をしていた近所の住人から、八十代と思われる女性の遺体があるとの通報を受け、藤沢警察署の警官が急行。そして遺体の状態と所持品の運転免許証から判断し、小林たちが呼ばれたのであった。

 鑑識員たちによって、今現場保存がされている。

 現場周辺には“KEEP OUT 立入禁止 神奈川県警”と書かれた黄色いテープが張り巡らされていた。

 現場に着いたのがもう夕暮れ時だったため、至るところにスタンドライトやスポットライト、鑑識標識を設置し、鑑識員たちが遺体周辺のゲソ痕や遺品の指紋の採取を行っていた。

 小林は女性の遺体を見るや否やため息をついた。その隣に八坂もやって来て遺体に合掌する。

「この事件……長期戦になりそうだな……」

 小林が呟いた。八坂も遺体の様子を見て目を見張った。

 遺体の右の首筋には小さな傷穴が二つあったのだ。

「八坂、鎌倉医科大に連絡」

「はい!」

 小林に言われ、八坂はすぐさまスマートフォンで連絡をした。

「遺体を鎌倉医科大に運ぶぞっ」

 小林のかけ声に捜査員たちが一斉にはいっ! と叫んだ。


 鎌倉医科大学附属病院の裏口に警察車両が並び、捜査員たちによって遺体が入ったバッグが運び出された。

「では、司法解剖の方、よろしくお願いします」

 小林と八坂は、鎌倉市の監察医である|長谷川正芳“はせがわまさよし”に司法解剖の依頼をした。

「ご遺体ですが、夜分ですので、司法解剖を終え次第刑事さんに連絡入れます」

 長谷川は遺体の入ったバッグを乗せたストレッチャーを押し、病院内へ戻っていった。


 深夜。鎌倉医科大学附属病院地下、解剖室にて、長谷川は手術衣に着替え、事前に撮っていた被害者のCT画像を眺めていた。

「画像ではとくに問題なし」

 そう呟くと、被害者の遺体が横たわっている手術台に歩み寄り、外部に異常がないか、遺体を念入りに見渡した。

 長谷川は眉をひそめ、警察から提出された遺体の情報を二度見した。

……ご遺体は……二十一歳っ? 何かの間違いじゃないのか?

 遺体をどう見ても、長谷川には八十代の老人にしか見えなかったのだ。

……錦野は一体どういう見解を出したんだ……?

 長谷川は困惑しつつ、外傷がないか確認し、手元の人体図に右の首筋の傷穴二つと両二の腕の手形の痣があることを記入していった。

 外部の検案を終え、長谷川は準備していた手元のメスを握った。

「よし。始めるぞ」

 長谷川は遺体の腹部にメスを入れていった。


 同時刻深夜、本日の勤務を終えた八坂は川崎区の東扇島を再び訪れていた。

 今日は一人だった。

 その方が好都合だったのだ。

 八坂は伏し目がちに東扇島の工業地帯の夜景を眺めた。

……先輩には申し訳ないけど、早く突き止めないと。

 八坂は闇夜に隠れながら東扇島に立ち並ぶ工場や倉庫の施設を素早く駆け回った。

……立ち止まっていたら見つかってしまう。

 倉庫の一角を過ぎようとした時だった。八坂は急に足を止め、倉庫の影からそっと通路をのぞき見た。

 外灯の足元で黒いつば付き帽子にパーカーを羽織った青年がタバコをふかしていた。

……どう見ても、未成年にしか見えないが……。

 八坂はしばらく黒い帽子の青年を監視することにした。

 五分ほどがたち、黒い帽子の青年は吸い終えたタバコの吸い殻を地面に落とし、踏みつけると歩き始めた。八坂は静かに後を追った。

 黒い帽子の青年は東扇島のとある製薬工場の敷地の奥の方へ入っていき、スッと姿を消した。

……尾行、バレたか……?

 八坂は製薬工場の立ち並ぶ建物を見渡した。

……ここは……。


 翌朝。都筑警察署捜査本部にて。

 小林の携帯が鳴った。すかさず電話に出ると鎌倉医科大学附属病院の長谷川からだった。

「もしもし、小林です」

『鎌倉医科大の長谷川です。朝にすみません。司法解剖終わりましたので、ご遺体の引き取りお願いします』

「分かりました。すぐに向かいます」

 小林の電話の流れを聞いていた捜査員たちは各々準備し始めていた。

「鎌倉医科大に行くぞ」

 小林のかけ声に、はいっ! と言う捜査員たちの声が響いた。


 夕方。錦野邸に誠一郎が帰宅した。

「ただいま」

「お帰りなさいま――」

「お帰りなさいっ! 誠一郎さんっ!」

 小幡はへつらうように言うと、またもや柏木の言葉を遮り、一早く誠一郎のカバンを受け取ろうとしてきた。

 誠一郎は寸前で小幡の手をよけると、カバンを柏木に渡した。

「お願いします」

 柏木は首をかしげつつ、分かりました。と言い、階段を上がっていった。

 そっと小幡を盗み見ると、初めて面接で会った時のお淑やかさは嘘かと思うくらい、口をへの字に曲げ、不満そうな面持ちだった。

 誠一郎は、見なかったことにしようと無言で自室へ向かった。

 誠一郎は着替えを済ませ、ダイニングルームに入ると、ミナ子が晩ご飯をテーブルに並べているところだった。

 ミナ子の姿を見ると何故か微笑ましく見えてしまう。

「ただいま、場鳥」

ミナ子は振り返り会釈をした。

「お帰りなさい、先生」

……“先生”……か。

 誠一郎は少し、しょんぼりと落ち込みながら席についた。

 夕刊の新聞を読むフリをして、新聞紙越しにミナ子を盗み見た。

 新聞の見出しには『藤沢市にて変死体が発見される。神奈川県警は手口から横浜市で起きている連続変死体殺人事件と同様の犯人と考えている』と書かれていた。

 ミナ子の目が誠一郎の方を向き、誠一郎は肩をびくつかせた。

……見つめているのバレたか?

 誠一郎はごまかそうと、何気なく口を開いた。

「なぁ、場鳥……」

「はい」

 ミナ子は食器を並べる手を止め、誠一郎を真っ直ぐ見上げた。

 誠一郎は意を決したかのように深呼吸をした。

「場鳥は、その……おっ……」

 言いかけたところで、言葉が舌の上で音を失った。

……どうしたっ! 俺! ただ『お父さん、欲しくないか?』って言うだけだっ!

「おっ……」

 まるで|吃音症“きつおんしょう”にでもなってしまったかのように『お父さん』という言葉が出せない。

 誠一郎はもどかしさと焦りと身体中に変な汗を感じた。

 そんな誠一郎の様子にミナ子は当惑な表情を浮かべた。

「先生……? 大丈夫ですか……?」

 ミナ子の言葉にはっ! とした誠一郎はとっさに口走ってしまった。

「おっ、ふろ……一緒に入らないかっ……?」

……アレ? 俺、今なんて言った?

 自分の発言を振り返り、急に全身がぞっとしたのを感じた誠一郎は、恐る恐るミナ子の表情をうかがった。

 ミナ子は、まるで軽蔑するかのような、じとっとした目付きで誠一郎を見ていた。

「あっ! 違うっ! 決してやましいことなんてっ!」

 誠一郎は慌てた様子で必死に弁解しようとするもミナ子の表情は変わらず、とうとう誠一郎は弁解を諦めて肩を落とした。

「すまない、場鳥……。本当はこう言いたかったんだ……」

 誠一郎は静かに深呼吸をし、ゆっくりと口を開いた。

 刹那、ミナ子が手を伸ばし、誠一郎の口を塞いだ。誠一郎は目を見張ることしか出来なかった。

「先生……。背中ぐらいでしたら流しますよ」

「むぐ……?」

 誠一郎から間の抜けた声がもれでた。

「誠一郎さぁん! ご飯食べましょ――?」

 丁度小幡が自分の晩ご飯を持ってきたきたところで、ミナ子が誠一郎の口を塞いでいる場面を目の当たりにし、目を点にした。


 夜。ミナ子は深緑色のお湯で満たされている広い浴槽の隅に体育座りをしてお湯に浸かっていた。その隣には誠一郎が、ご機嫌なのか、恥ずかしいからなのか、それともただのぼせてるだけなのかはさておき、頬を紅潮させてくつろいでいた。

 ミナ子は少々後悔の念を覚えていた。

……同時に入ったら電気代浮くかな?  と思っていたけど……。別に裸見られたって、どうせわたしは子供のままだし……。

 ミナ子は小さく息をもらすと、浴槽

の縁に寄り掛かった。

 時々出歩いていると他の女性たちが目に入り、羨ましく感じてしまう。

 今の自分と同じような少女を眺めては、成長したらスラッと背の高い女性に成長するんだろうな、とミナ子は、自分はこの世界からどんどん置いていかれているという、何とも儚くて切ない気持ちを味わっていた。

 自分も他の人と同じように普通に成長して大人になって、働いて、結婚して、子供を産んで、老後を迎えて、全ての生き物が通る道――死を迎えるものだと思っていたのに、ミナ子に『死』はやって来てくれなかった。

……わたしだって成長して、背が高くなって綺麗になりたかった……。だから先生はわたしを養子にと……。

 やるせない気持ちにミナ子は深いため息をついた。

 そんなミナ子の小さな白い背中を、そっと眺めていた誠一郎はふと、ミナ子の発達しきっていない体付きに違和感を覚えた。

……場鳥は十一才と言っていたが、本当か? まるで小学校三年生、九才ぐらいにしか見えないな……。

「……戦時中は物資なんてちゃんと出回ってませんでしたので、一日三食食べれる日なんてほぼありませんでしたからね……」

 ミナ子の声が浴室内に響き渡った。

 誠一郎はうなづきつつ腕を組んだ。

……そうか。食料不足による低栄養で体の成長が――アレ? 何か会話が成立して――戦時中?

誠一郎は我に帰ると、ミナ子を凝視した。

「場鳥……? 何か言ったか?」

 ミナ子はちらと肩越しに誠一郎を見ると、何故か顔を赤くし、素早く正面に顔を戻した。

「な、何でもないですっ……」

 ミナ子は真っ赤になった顔を両手で覆い、苦し紛れに返した。

……お父さん以外の――初めて見るんだもんっ!

「大丈夫か? 場鳥。のぼせたか……?」

 誠一郎はそっとミナ子の肩に手を置くと、ミナ子がびっくり仰天した表情で誠一郎を見上げて、つんざくような悲鳴を上げた。

「きゃぁぁああっ!」

「えっ! 俺、何かしたかっ?」

 誠一郎は目を丸くし、すぐさま手を引っ込めた。その時、浴室の外からドタドタと激しい足音が聞こえたかと思うと、ドアが勢いよく開き、柏木が何事だっ! と言わんばかりの表情で現れた。

「ミナ子ちゃんっ! どうしたのっ?……まさかとは思いますが、旦那さまっ……! ミナ子ちゃんをっ……」

 柏木が物凄い剣幕で仁王立ちすると誠一郎を見下ろした。

 誠一郎は動揺した様子で、ただ首を横に振ることしか出来ず、口がアワアワして何も言えない。

「一緒に入る。と聞いて、何か怪しいと思ってたんですよねっ!」

 柏木は腕を組んで誠一郎を睨みつけた。

「ち、違うっ! 俺は何もっ――」

「わたくしはそんないかがわしいこと教えた覚えはありませんっ!」

 柏木は誠一郎に弁解の余地を与えず、浴室に踏み入るとミナ子に手を差し出した。

「ミナ子ちゃん、出ましょう」

 ミナ子は両手を顔からどけない。ずっと鼻と口を覆っている。その目元は窮地にでも陥ったように、眉間にシワを寄せていた。

 柏木はミナ子の腕を取ると、引っ張っていこうとした。が、ミナ子は動かない。

 柏木が振り返ると、ミナ子の鼻の下から顎まで赤いものが垂れていた。

 ミナ子の顎から赤い液体がポタポタと浴槽に落ちていった。

 誠一郎と柏木は目を点にした。


 ミナ子は濡れた髪を垂らし、パジャマ姿で、鼻の穴にティッシュを詰めた状態で自室のベッドに座っていた。その表情はどこか呆然としており、虚脱した様子だ。

 ミナ子はため息をつくとうずくまった。

……鼻血を出すだなんて……情けない。わたしの方がいかがわしいことを考えてる、って思われたかな……?

 ふと、脳裏に誠一郎の裸体が……。ミナ子は頭を振った。

……考えるなっ。

 ミナ子は、気持ちを切り替えると、よしっ! と体を起こした。

「髪の毛、乾かそう」

 ベッドから立ち上がろうとした時だった。

 ドアがコンコンと鳴った。ミナ子は肩をびくつかせ、か細い声ではい……と返事をした。

 ドアがゆっくりと開くと、心配そうな表情の誠一郎が入ってきた。手にはドライヤーとタオル、綿棒の入った筒状のケースを持っている。

 ミナ子の顔がひきつった。

……せ、先生かよっ!

 ミナ子はすかさず誠一郎に背を向けた。

「場鳥、鼻血は止まったか……?」

 誠一郎が苦笑いを浮かべながら尋ねてきた。

 ミナ子は誠一郎に見られないように鼻のティッシュを取った。血は流れでなかった。どうやら止まったようだ。

 薄らと血のついたティッシュをゴミ箱に捨てながらミナ子は誠一郎にうなずいて見せた。

「そうか、良かった。場鳥、髪乾かそうか」

 誠一郎はミナ子の隣に静かに座ると、ドライヤーのプラグを壁のコンセントに刺した。

「さあ、そっち向いて」

 ミナ子は少々浮かない表情を浮かべては誠一郎に背を向けた。

「乾かすから、じっとして」

 誠一郎はドライヤーのスイッチを入れると、ミナ子の髪をタオルで拭きながら乾かし始めた。

 するとミナ子が申し訳なさそうに肩をすくめた。

「場鳥? どうした?」

 誠一郎は心配そうにミナ子に尋ねた。

「あっ……その、わたしがのぼせたせいで先生が……」

 ミナ子の脳裏に、誠一郎が柏木にこっぴどく叱られ、いかがわしいことをしようとしている、と誤解されている場面が蘇った。

 柏木に疑われた後、誤解が解けると誠一郎は何度も柏木に謝られた。

「まさか場鳥がのぼせるとはな……」

 誠一郎はゆっくりとミナ子の耳元に顔を近づけると、そっと囁いた。

「私と入ってのぼせたのかな……?」

 ミナ子はカッ! と目をかっ開き、振り返った。

……ななな、何言ってるんだっ!

「すまん、すまん。冗談だよ」

 誠一郎は微苦笑を浮かべた。

 ミナ子はじとっとした目で先生を見た。

 誠一郎の指がミナ子の髪を梳く度に、ミナ子の体中にむずむずとした感覚が駆け巡り、ミナ子は口をきゅっと結び、頬を染めては、また鼻血が出ていないか、時折鼻の下にそっと手を当てた。

「場鳥は髪の毛が太くて、烏の濡れ羽色のようでとてもキレイだな……」

 ミナ子は両手で顔を覆うとため息をついた。しかし、ドライヤーの音で誠一郎には聞こえなかった。

「それにしても、場鳥は石鹸で全身を洗っていただなんてな……。うちにあるシャンプーとかリンスとか、ボディソープとか使って良いからな?」

「はい……」

 ミナ子は静かに返した。

 十分後。

 ミナ子の髪が乾き、誠一郎はドライヤーを片つけると、今度は綿棒を取り出した。

 ミナ子は目をぱちくりする。

「あの……その綿棒は……?」

 ミナ子が恐る恐る尋ねると、誠一郎は自分の膝をポンポンと叩いた。

「耳掻きしてあげるから、横になりなさい」

 誠一郎が微笑んだ。

 ミナ子はただ呆然と誠一郎を見上げた。


「痛くない?」

 誠一郎は綿棒でミナ子の耳を優しくなぞりながら囁いた。

 ミナ子は一瞬体を強張らせたと思うと、しゅんと力が抜け、次第にまぶたが重くなっていくのを感じた。

……ね、眠くなってきた……。

「終わったよ。次反対側ね」

 誠一郎がミナ子の耳元で囁き、ミナ子はうつらうつらしながら寝返りを打った。

「綿棒、入れるよ」

 誠一郎は、ミナ子の耳にそっと綿棒の先を入れた。

 耳の中の表面を優しくなぞられ、ミナ子はまぶたを閉じたり、開いたり。もう眠ってしまいそうだ。

 ミナ子の様子を伺った誠一郎は、ミナ子の耳元で囁いた。

「痛くない……? 気持ち良い……?」

 ミナ子は無言でうなずいた。

……先生の声……好き……。

「なぁ、場鳥……? 教えてくれないか……?」

 誠一郎が静かに言った。

 ミナ子は薄らと目を開け、誠一郎を見上げた。

「場鳥はもともとどこに住んでいたんだ……? 良かったら、教えてくれないか……?」

 ミナ子は一瞬目を見張ったかと思うと、正面を向いた。

……聞いたって、どうせ無駄なのに……。

 ミナ子は静かに言った。

「……東京の浅草区ですけど……」

 誠一郎は目を見開いた後、堪えきれずにほくそ笑んだ。

……浅草区だなっ? よし、場鳥の戸籍を――浅草区……?

 誠一郎は自問自答した。

……“浅草区”なんてあったか……? 台東区浅草のことか……?

 ミナ子はそっと誠一郎を見上げ、誠一郎の困惑している表情を眺めた。

……さて、くつろぐのはお終い……。

「先生」

 今度はミナ子が誠一郎に問いかけた。

 先ほどまでまどろんでいたミナ子が、急にはっきりとした物言いで言ってきたので誠一郎は驚きの表情を見せた。

「ど、どうした……?」

 動揺した声で返すと、ミナ子は誠一郎の、綿棒を持つ手を自身の耳から離し、仰向けになって誠一郎を見上げた。

 誠一郎は固唾を呑み、ミナ子を見つめた。

「先生、おやすみなさい」

 ミナ子がそう言ったとたん、誠一郎は糸の切れた操り人形のようにベッドに倒れ込んだ。

 誠一郎は訳が分からず、目だけをミナ子に向けた。

……場鳥?

 起き上がろうにも体がとても重い。

 ミナ子はそんな誠一郎をよそにベッドから立ち上がると、ベッドの下を漁った。そして、黒ずんだ白鞘の短刀を取り出すと窓に歩み寄っていった。

 誠一郎は次第に意識が遠退いていくのが分かった。

……場鳥っ……!

 沈みゆく意識の中、誠一郎は視界の隅に辛うじてミナ子をとらえると、重い腕を、今まさに窓から飛び降りようとしているミナ子に伸ばした。

「ば、と……りっ……!」

 絞り出すようなか細い声で呼び止めるも、ミナ子は振り返らない。

 ミナ子は窓の戸を開け放ち、枠に足をかけると、肩越しに振り返った。

「……わたしは……養子にはなれません……」

……えっ……? 場鳥……?

 ミナ子の言葉に誠一郎は胸が張り裂けそうになった。

 ミナ子は、暗闇が広がる夜の外に顔を向けると、飛び立ってしまった。

……待ってっ! 行かないでっ!

『お姉ちゃんっ……!』

 突然、脳裏に浮かんだ言葉に誠一郎は呆然とした。

 誠一郎が小学校三年生の頃、横浜中華街で出会ったみすぼらしい姿の女の子とミナ子が、誠一郎の中で重なった。

……あの時の……女の子……。

 誠一郎は失意の果てに腕をどさりと落とすと、ゆっくりと目を閉じた。

……君は“また”行ってしまうのか……?


 深夜、神奈川県藤沢市某霊園。

「腹減った……」

 ワイシャツに学生服のズボンを履いた姿の青年は目をぎょろりと見開き、喉元を押さえては、この喉の乾きを何とかしようと闇夜を見渡す。

「……“獲物”は……どこかにいないか……?」

 牙を剥き出し、辺りを気にするような慎重な足取りで、外灯もなく、真っ暗で、虫と草木の音だけが鳴り響く墓地をさ迷う。

 青年はギリッと歯を食い縛った。

……畜生っ。“アイツら”……騙しやがってっ。“永遠の命”だぁ? ただの“生け贄”じゃねぇかっ! 俺だけはぜってぇ生き残ってやるっ!

 青年は近くの墓石に拳を叩きつけた。すると、墓石にヒビが入りバキッと真っ二つに折れてしまった。

 青年は気に留めることもなく拳のほこりをふっと吹くと、また周りを気にするように歩き出した。

「……また川沿いに行くか。誰かはいるだろう?」

 霊園を出ようときびすを返すと、出入り口の塀の向こうに人影を見つけた。

 青年は足を止めた。

……誰だ?

 塀の影からゆっくりと出てきたのは裸足でパジャマ姿の小さな少女――ミナ子だった。

 青年はニヤリと口角を上げた。

……今夜はついてるぜっ!

 青年はミナ子に、目にも止まらぬ早さで駆け寄っていった。

「頂きぃぃいいっ!」

 両手を伸ばし、ミナ子の腕を掴もうとするもミナ子が忽然と姿を消した。

 ガキはどこへ消えた? と、青年は辺りを見渡す。

「くっそ。どこ行きやがったっ! ガキ!」

「遅い」

 突然背後から子供とは思えない、ミナ子の低い声が聞こえた。

 青年は振り返る間もなく、背中を強い力で押され、前のめりに倒れた。

「うわっ!」

 予想外の出来事に青年は動揺を隠せなかった。

……何だ?……何だっ? あのガキっ!

 青年はやり返そうと膝を突いて起き上がると、肩越しに振り返った。

 背後に視線をやり、一瞬にして空気が凍りつくような感覚に陥った。

……ひっ!

 暗闇の中で赤く光る目が二つ。青年を真っ直ぐとらえていたのだ。

「くそっ! 何なんだよっ? てめぇっ!」

 青年は恨みと畏怖のこもった顔付きで相手を睨むと立ち上がり、赤い二つの目に向かって駆け出した。

「ガキのクセに生意気なんだよっ! 吸い殺してやるっ!」

 青年は拳を構えた。その時、赤い二つの目から何かキラリと光る物が物凄い早さで飛んでゆき、青年の胸に命中した。

 ザシュッ!

「うがぁっ! あぁ……」

 青年は、真っ赤に染まっていく自分の胸に命中した物を見るや否や、地面に倒れ、動かなくなった。

 青年の脇にミナ子が現れると、その場にしゃがみ込み、軽蔑と嫌悪の眼差しで青年を見下ろした。

「……吸血鬼になりたかったら……一回死んで黄泉返りなさい……」

 そう呟くと、青年の口をこじ開け、長く尖った犬歯を、親指と人差し指で不快そうに摘まむと、力任せに引っ張る。

 犬歯を強引に二本引き抜くと、ポイと地面に放り投げた。

「……“エセ”め……」

 ミナ子は深いため息をつき、青年の死体の胸に深々と刺さっている短刀を引き抜いた。

 傷口から血液が飛び散った。ミナ子はさっと血液をよけた。

……わたしは、血は飲まないの。

 ミナ子は血ぬれの短刀を振り払うと白鞘に納めた。

 足早に近くの公衆電話に駆け込み、受話器を取ると緊急通報ボタンを押し、ダイヤルボタンを押した。コールが鳴ると電話の相手が出た。

『こちらは警察です。事件ですか? 事故ですか?』

「あのね……お墓で人が死んでるの。だから早く来て?」


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