朝七時。ミナ子は誠一郎を起こしに、誠一郎の寝室へ向かうも、ベッドはも抜けの殻だった。

……あれ? もう起きて――否、違う。

 ベッドを見ると、眠った形跡がなかったのだ。

 昨日、誠一郎が使ったあとベッドメイキングをして、シワ一つない状態のままだった。

 ミナ子は寝室を後にすると、今度は書斎へ向かった。もしかしたらソファーで寝ているかもしれないからだ。

 書斎の前に着くと、静かにドアをノックした。

「先生、おはようございます。……返事がない。ただのシカバ――って、わたしには言えないか……」

 はぁ、とため息をつくと、ミナ子はドアを開け放った。

「失礼するっ。小僧っ!“生きてる”かっ?」

 誠一郎はというと、何度掃除、整理整頓をしても一週間で散らかってしまう部屋の奥の、机の上のノートパソコンを目の前に、突っ伏していた。

「……先生?」

 恐る恐る散らかった物を踏まないように誠一郎の元に歩み寄ると、その手元には書き殴ったメモ書きがあり、ミナ子はそれに目を通した。

……療……? 違う。養……子。養子?

 ミナ子は目を見張った。

……誰を……?

 ミナ子は不審に思いつつ誠一郎の肩を揺さぶった。

「先生、起きてください。もう七時越えてます」

 すると、誠一郎がムクッと顔を上げた。

 誠一郎の額には袖のシワのあとがくっきりとついていた。

「先生、おはようございます」

 誠一郎は寝ぼけ眼でミナ子をとらえると、突然目を丸くし、目の前のメモ書きを急いで手繰り寄せ腕の下敷きにした。

「おっ、おはよう……」

「おはようございます。もうすぐで朝食が出来ます」

「う、うん……」

 ミナ子が書斎を出ると、誠一郎は大きなため息をついた。

「見られちゃったかな……?」

 ボソッと呟くと、手元のメモ書きを眺めつつ、ミナ子が出ていった後のドアを見つめた。

……どうして場鳥は……俺を“小僧”と呼ぶんだ……?

 朝支度を終えた誠一郎がダイニングルームにやって来ると、食卓には朝食が並んでいた。

……もう運び終えたあとか……。

 テーブルにつくと案の定、後から木幡が自作の朝食を持ってきて誠一郎の向かいに平然と座った。

「おっはー! 誠一郎さん!」

 木幡の品のない挨拶に誠一郎は苦笑いしか出来ない。

「お、おはよう……。柏木さんと場鳥は?」

「へ? あぁ、あの二人はまだキッチンですよぉ?」

 そう答えると、木幡はいただきますすら言わずに食べ始めた。

 誠一郎は内心ため息をついた。

……三ヶ月持つんだろうか……?

 

 錦野監察医総合病院の外来。

 誠一郎は診察室で物思いに耽っていた。

 というのも、先ほど診察した八十代の男性患者、立川のちょっとした話だったのだが、誠一郎には感慨深い内容だった――。


 看護師に次の患者を呼んでもらい、立川が杖を突きながら診察室に入ってきた。

「おはようございます。立川さん」

「おはようございます。今日はいつもの薬を、とね」

 立川はふぇっ、ふぇっ、ふぇっ! と笑うと椅子に腰かけた。

「じゃあ、まず胸の音を聞かせてくださいね」

 誠一郎は立川の耳元で少し大きめに言うと聴診器を構えた。

「服、上げますね?」

 看護師が立川の耳元で言いつつ、シャツを上げようとする立川の手を手伝った。

 誠一郎は立川の心音を聞き、うなずいた。

「うん、変わりないですね。ではまた同じ薬を処方しますの――」

「先生」

 突然立川が静かに問いかけてきた。

「はい」

 誠一郎は電子カルテへの打ち込みを止め、立川の方を向いた。

「先生の祖父母さん方は空襲で亡くなられたのですか……?」

 立川の質問に誠一郎は目を見張った。

……空襲って……。

「七十五年前の……東京大空襲のことでしょうか……?」

 誠一郎が恐る恐る問い返すと、立川の表情が一変した。

「はいっ」

 今までまったりとしていた立川の表情は真剣そのものの眼差しを浮かべ、真っ直ぐ誠一郎を見ていた。

「先生が先月十日に横網町公園にいるのをお目にかけまして。もしかしてと思ったんです」

 誠一郎は申し訳なさそうにうつむいた。

「すみません。私ではなく、ある人の付き添いで……。私は全くもっての部外者で……」

 誠一郎の返事に立川は目を点にした後、あはは……と苦笑いを浮かべた。

「これは失礼しました。とんだ勘違いをして……」

 立川も申し訳なさそうにうつむいた。

「あ、気になさらないで下さい」

 そこから立川の当時の話を聞く流れとなった。

 立川が言うには、自分は戦争孤児だということ。

 当時国民学校初等科六年だった立川少年は東京に住んでいた。

 その頃は太平洋戦争の真っ最中で父は陸軍として出兵し、家には体の弱い母と二人暮らしだった。

 戦争中ともあり生活はギリギリの状態で、当時立川少年は十二才でありながら体格は現代の小学校中学年くらいの身長と体重しかなかったらしい。

 その話を聞いた時、誠一郎はふと、ミナ子のことが頭に浮かんだ。

 十一才と言いつつ身長は、それこそ立川と同じく今の小学校中学年の身長しかない。

 初めてミナ子を見た時、誠一郎はてっきりミナ子は小学三年生くらいだと思っていたほどだ。

 話を戻して。

 三月十日の明朝、その時立川少年は寝ていたらしいのだが、突然の轟音に飛び起き、外を見ると東京の町は火の海と化していた。

 立川少年は母を連れて近くの防空壕に逃げようとするも、逃げ惑う人々や決死の消火活動を行う人々、空から降り注ぐ焼夷弾を目の当たりにし、立川少年は諦めかけた時だった。母が逃げ惑ってた人の一人の男性に懸命に何かを頼んでいるではないか。

 男性は立川少年を見や否や、立川少年を抱え込むとその場を逃げていった。

 その時は一体何が起こったのか、立川少年には理解が出来なかった。

 男性は立川少年とともに近くの防空壕に逃げ込むと空襲が終わるのをひたすら待った。

 それ以降母と会うことはなかったとのことだ。

 立川少年を連れて逃げた男性は母に、自分は体が弱くて逃げ切れない。だから息子だけでも連れて行ってくれないか? そう頼まれていたのだ。

 立川はそのままその男性の養子になり、名前を森と改め、戸籍上死亡扱いされずに温かく迎い入れられたが、中には戦時中に親を亡くし戦争孤児として施設や遠縁に預けられた孤児も少なからずいた。

 遠縁に預けられた孤児たちは、立川のように温かく迎えられた者もいれば、その家の厄介者として扱われ、労働者としてこき使われる者もいた。

 施設の孤児たちは自分の身元すら分からないまま養子として出される者が多く、大半の孤児たちは戸籍上死亡扱いとなって別の戸籍で生きているのが今日の現状であった。

 自分はどこの誰なのか? それを突き止めるため何年も費やした知り合いもいた、と立川は言っていた。

 立川は養父の死後、姓を立川に戻したという。ただ、そこまでの道のりも大変だったと、立川は語った――。

 誠一郎は立川の話を振り返り、大きなため息をついた。

……もし、犠牲者名簿の『場鳥ミナ子』という人物が生きていたとしたら、今年で八十六歳か……。俺の知る場鳥ミナ子は本名なのか、偽名なのか……。

 午前の診察を終えた誠一郎は、いつも通りがらんとした医局で弁当を食べようと、カバンから弁当を取り出そうとした時だった。

……んっ……まただ……。

 誠一郎は最近カバンの中に違和感を感じていた。

……またカバンの中の物の配置が違う。

 否、配置が違う、の問題ではなかった。

 誠一郎のカバンの中は乱雑に物を入れられた形跡があった。

……柏木さんが弁当を入れた時に動かした? 否、今までそんなことなかったのに……。

 タイトルに『狭心症の初期症状から経過』と書かれた書類をペラペラとめくると、首をかしげた。

……これもページがところどころないな……。

「何でだ……?」

 昨日帰ってきた時のことを思い出そうと腕を組んで考えようとしたところで、シャァァアア~とキャスター椅子に乗って窪がやって来た。

 誠一郎は肩をびくつかせた。

「な、何でしょうか……? 窪先生……」

 恐る恐る窪に尋ねると、窪は太縁眼鏡のブリッジをグイッと押し上げると、レンズをキランと光らせた。

「錦野先生……とうとう今日ですね」

……今日? 何がっ?

 誠一郎は不審に思いつつ首をかしげた。誠一郎の様子に窪ははぁ、とため息をついた。

「CTですよっ! とうとう今日ですねっ!」

 窪は眉間にシワを寄せ、誠一郎を凝視した。

……あ! CT今日か。帰るの遅くなるって言ってないな。

 誠一郎はようやく理解した。

「ちゃ、ちゃんと私も立ち会いますから……」

 誠一郎は窪をなだめるように言った。


 錦野邸の二階のバルコニーで柏木は洗濯物を干していた。

 洗濯かごの中は何故か、誠一郎の衣類より木幡の奇抜い衣類の方が多かった。

「もう……木幡さんの物が多いっ! 自分のは自分で干しなさいよ……」

 柏木は木幡への不満をもらしながら、木幡のミニスカートをバサバサと広げてハンガーにかけると、物干し竿にかけた。

「旦那さまも一体何を考えているのやら……」

 ふと、柏木の脳裏に朝の記憶が蘇った。

……旦那さまのカバンの中……今日もぐちゃぐちゃだったわね……。何か急いでたのかしら……?

 そう思いつつ、誠一郎のワイシャツをかけたハンガーを物干し竿にかけようとした時だった。

 錦野邸の前の歩道を挙動不審そうに小走りする奇抜な私服を着た人物が目に止まった。

……えっ? 木幡さん?

 柏木は洗濯物を干す手を止め、すぐさま一階へ降りると、応接室に向かった。

 柏木は木幡に応接室の掃除を頼んでいたのだが――応接室のドアを開け放つと、誰もおらず、掃除すらされていなかった。

 柏木は深い落胆のため息をついた。その時、階段脇の電話機が鳴った。すかさず受話器を取ると電話の相手は誠一郎だった。

『あ、柏木さん? すみません。今日帰るの遅くなります』

「今日何かございましたか?」

 柏木は電話の上の壁にぶら下げてあるカレンダーを眺めたが、今日はとくに用事というものはない。

『今日診療が終わったらCTの機械を設置しないといけなくて……』

「夜食持っていった方がよろしいですか?」

『どうしようかな……。何時間かかるか分からないから、お願いしようかな。じゃあ、お願いします』

「わかりました。サンドイッチ作りますね」

 受話器を戻すと、柏木は壁かけ時計を眺めた。

……まだ二時だから……ミナ子ちゃんにお願いしましょう。

 柏木はキッチンへ向かった。


 木幡は錦野邸から少し離れたところの大通りに出ると、スマートフォンに届いたメールの画像を頼りに目的の喫茶店を探した。

「ここら辺かなぁ……?」

 目的の喫茶店をなかなか見つけられず、同じところを行ったり来たりし、ようやく目的地を見つけた。

「あ、見つけた」

 木幡はフフっと笑みを浮かべた。

……これでお金がもらえるだなんて。

 数日前から誠一郎のカバンからくすねた書類がちゃんとバッグに入ってるかどうかを確認し、小幡はニヤリと口角を上げた。

 喫茶店に入ると、店内をキョロキョロと見渡し、奥の窓際の席に目的の人物を見つけた。

……あ! いたっ!

「伊藤さんっ!」

 木幡は伊藤に駆け寄ると、断りもなく、スマートフォンをいじっている伊藤の向かいにドカッと座った。

 伊藤はスマートフォンから視線を外すことなく口を開いた。

「持ってくるの早かったわね? あなたから連絡をくれたってことは、何か面白そうなデータでも持ってきたのかしら?」

 伊藤は煽るように言うと、ちらりと視線だけを木幡に向けた。

 木幡は大きくうなずくと、バッグをがさごそと漁り、誠一郎のカバンからくすねた書類をテーブルに並べた。

「これ、どうかしらぁ?」

 木幡も負けじと挑発するように言ってみた。

 伊藤はスマートフォンをテーブルに置くとどれどれと、並べられた書類を眺めた。

 興味津々に眺めていた伊藤の表情がだんだん険しくなってきた。木幡は首をかしげた。

「どうかした?」

 木幡が問いかけると、伊藤は大きなため息をつき、首を横に振った。

「これのどこが面白いデータなのかしら?」

 伊藤は罵るように言うと、書類を突き返し、木幡に顔をグイッと近づけ、静かに言った。

「私が求めてるのは……解剖に関するデータなのよぉ?」

 伊藤は木幡の口調を愚弄するかのように真似ながら言った。

 『解剖』という単語を聞いたとたん、木幡は目を丸くし、声をひそめた。

「解剖って……どういうこと……?」

 木幡の質問に伊藤はきょとんとしたあと、肩を震わせ|嗤笑“ししょう”した。

 喫茶店の店員や他の客がちらりと伊藤に視線を向けた。

「あははっ! あなた、自分の雇い主のこと全然分かってないのねぇ……」

 伊藤は笑い涙を指で拭いながら言った。

 小馬鹿にされた木幡は苛立ちを感じ始め、顔を紅潮させた。

「お金とぉ、“あれ”が欲しいなら、次はうまくやってよねぇ?」

 そう言うと伊藤はスッと立ち上がり、喫茶店を後にした。

 一人残された木幡は下唇を噛んだ。

……バカにしやかってっ……。良いじゃない。やってやるわよっ!

 木幡は腕と脚を組んで、次の作戦を考えるのであった。


 錦野邸に戻ると、案の定柏木にこっぴどく叱られた。


 都筑警察署の捜査会議室で小林と八坂は、鑑識の|米田“よねた”から、連続失踪者殺人事件の被害者橋本や飯塚、安田のパソコンやスマートフォンの解析結果を聞いていた。

「橋本さんの他に、飯塚さんと安田さんにも例の掲示板にアクセス履歴があった」

 小林と八坂はやはり、といったように眉をひそめた。

 米田は続けた。

「それと残念だが、この“文字化け”の投稿の出所は海外のサーバーを通していて分からなかった。あとこの“文字化け”の文字を解読ソフトで復元を試みたが、“?”しか出てこなかった。……これ、本当に文字化けなのか?」

 米田が疑いの眼差しを小林と八坂に向けた。当の小林と八坂はまばたきをし、互いを見た。

「じゃあ、中国語はっ?」

 小林の提案に米田は首を振った。

「俺もそうだと思って中国語出きる人に聞いたけど、意味不明って言われたぞ?」

 小林はため息をついた。

「どういう意味なんだ……?」

「先輩、諦めてはいけません。もしかしたらこの暗号が分かる人がいるかもしれません。他の人にも聞いてみましょう」

 八坂の前向きな言葉に小林はふっ、と微笑むと、そうだな! と返し、八坂の背中をバシバシ叩いた。

「よし、片っ端から聞くとするかっ!」

「はいっ!」

 小林と八坂は捜査会議室を後にした。


 午後三時、ミナ子はランチボックスを持って錦野監察医総合病院の玄関前に突っ立っていた。

 前回は窓から入ったから人目を気にしなかったが、誠一郎に、窓から入ったと知られるとまた注意されると思い、ミナ子は挙動不審になりつつ、錦野監察医総合病院の玄関をくぐった。

 玄関をくぐるとすぐに待ち合いがあり、脇に受付窓口がある。

 午後だからだろうか、老人患者とその付き添いの人がまばらにいるだけで、とてもまどろんだ雰囲気だ。

 ミナ子は麦わら帽子を取ると、恐る恐る受付に歩み寄った。

 受付には若い女性が一人ついており、何か作業をしている。

 ミナ子はその女子事務員に釘付けだった。

 綺麗にお化粧をし、髪を暗めの茶色に染め、事務員の制服をきっちりと着こなしている。

 ミナ子にとってその女子事務員が精彩を放っているように見えた。

……良いな……。

 ミナ子は気を取り直して女子事務員に声をかけた。

「すみません……」

「あ、こんにちは。小児科の受診ですか?」

 事務員がニコニコしながら尋ねてきた。ミナ子は首を横に振った。

「あの、錦野先生にこれを……」

 ミナ子は事務員にランチボックスを差し出した。

「これを……錦野先生に?」

 事務員は少々困った表情を浮かべている。

「錦野先生、呼びますか?」

 どうやら事務員はミナ子を不審に思っているようだ。ミナ子は目を泳がせた。

……すぐに帰りたいんだけど……。

「い、良いです。わたし、帰りま――」

 言いかけたところで、奥の外来の方から場鳥っ! と呼ぶ声が聞こえた。

 ミナ子が恐る恐る声の方を向くと誠一郎が駆け足でやって来るではないか。

……あ、遅かったか。

 ミナ子はそろそろと顔を背けた。

「場鳥が来てくれたのか。ありがとう」

 誠一郎はミナ子に目線を合わせると、ミナ子の頭を撫でた。ミナ子は顔を紅潮させた。その傍ら事務員が微笑ましそうにその光景を眺めていた。

 がらんとした待ち合いの長椅子にミナ子が座って待っていると、誠一郎が自販機で買ってきた牛乳パックを渡してきて、その隣に座った。

「今日、診療終わったらCT――あ、検査をするための機械を入れるんだ。それで時間がかかると思ってね」

 誠一郎は缶コーヒーを開けた。

「新しい機械を導入するのは大変ですよね」

 ミナ子はパックの付属のストローを挿すと牛乳を飲み始めた。

 ミナ子の様子に誠一郎は舌を巻いた。

……場鳥って本当に十一才か? 十一才とは思えない発言だな。

「なあ、場鳥」

「はい……?」

 ミナ子は恐る恐る誠一郎を見上げた。

 誠一郎は真剣な眼差しでミナ子を見てはうつむいたり、顔を上げたりを繰り返し、コーヒーをイッキ飲みすると、ふぅ、と息をつき、ようやく口を開いた。

「場鳥は、その……おとうさ――」

「よう! 錦野っ!」

 誠一郎は声の方を向いた。

 誠一郎の言葉を遮ったのは、小林だった。

「小林。どうした?」

 小林の隣には見知らぬ若い刑事がいた。

「その人は……?」

「あ、こいつは今月から新しく来た八坂だ」

 小林が親指で八坂を指すと、八坂が誠一郎に会釈した。

「八坂守と申します。この度神奈川県警捜査一課に出向しました。よろしくお願いします」

 誠一郎はスッと立ち上がった。

「錦野誠一郎です。横浜市の監察医をやっています。よろしく」

 誠一郎も八坂に会釈をした。

「因みに錦野は小、中、高校、同じ学校の同級生なんだ」

 小林の言葉に八坂は驚いた表情を見せた。

「そうなんですかっ!……そちらのお子さんは……錦野先生の娘さんですか?」

 八坂は誠一郎の影に隠れているミナ子に視線を向けた。

「あ、もしかして、この子が場鳥ミナ子ちゃん? へぇ、本当にお嬢ちゃんだな」

 小林はミナ子の脇にしゃがみ込むと、ニパッと笑った。

「やあ、こんにちは。お嬢ちゃん」

 当のミナ子は誠一郎の白衣の裾をめくって顔を隠した。

「どうした? 場鳥」

 誠一郎は目を点にしながらミナ子を見下ろした。ミナ子は白衣の裾から目元だけを出し、誠一郎を睨み上げていた。

 誠一郎はぎょっ! と、肩をびくつかせる。

……何で刑事が自分のことを知っているんだ? とでも言いたいのかっ?

「先輩、怖がられてますよ?」

「あれ、怖かった……?」

 八坂の指摘に小林は申し訳なさそうにごめんね、と言いながら立ち上がった。

 ミナ子はそっと誠一郎の背後から顔を出すと、小林と八坂を見上げた。

「……場鳥ミナ子です……。どうも」

「“場鳥”ということは錦野先生の娘さんではないみたいだね」

 八坂は進み出ると、屈み込み、ミナ子を見下ろした。ミナ子は眉をひそめ八坂に目を向けた。

「先生の元に置いてもらってるだけです」

 ミナ子が鋭い口調で言うと、八坂は何かを含んだように口角を上げた。その唇から犬歯がちらりとのぞいた。

「君、錦野先生に何もしてないよね?」

「八坂?」

 八坂の問いに小林は首をかしげ、ミナ子から離そうとすると、ミナ子もキッ、と歯を見せ、八坂を睨んだ。

「そう言う八坂刑事さんも、小林刑事さんに何もしてませんよね……?」

「場鳥?」

 誠一郎は場鳥の肩に手を置いて、制した。

 ミナ子と八坂の睨み合いに、誠一郎と小林は気まずさと焦りを覚えた。

……この二人、犬猿の仲なのか?

「それで小林、どうしたんだ?」

 誠一郎がこの状況を紛らわそうと小林に問いかけた。

 小林はそうだった、と呟き、背広のポケットからメモの紙切れを出した。

「錦野、これなんて書いてあるか分かるか? 今色んな奴に聞き回っててな?」

 誠一郎は紙切れを受け取ると、書いてある内容に一通り目を通した。


『保"之由宇千由宇。久呂伊止礼尓千己ー止乎機天末天。介伊多伊八於伊天伊介。加奈加"和介尓加和散機之加和散機久比加"之於宇機"之末××××××……』


「文字化け……?」

 誠一郎の呟きに小林は首を横に振った。

「文字化けでも中国語でもないらしい」

「あ、場鳥はどうだ?」

 誠一郎はしゃがみ込むとミナ子に紙切れを見せた。

「わたしですか……?」

 ミナ子は目をぱちくりすると紙切れをのぞき込んだ。

 少し眺めたかと思うと、ミナ子は誠一郎にこそこそと囁いた。ミナ子の話を聞いた誠一郎は目を丸くした。

「へぇ! そういうことか!」

 誠一郎は感心した様子でミナ子を見た。

「えっ! 分かったのかっ?」

 小林は慌てた様子でミナ子に尋ねた。ミナ子は小さくため息をつき、紙切れを指差した。

「これはカタカナの元となった漢字です」

 小林と八坂が紙切れをのぞき込んだ。

「最初の文字の“保”は“ホ”。それに濁点が付いてますので“ボ”だと思います」

 小林と八坂がうんうん、とうなずいた。

「それで、読むとどうなるんです?」

 八坂がミナ子に問いかけると、ミナ子はじとっとした目付きで八坂を見上げた。

「音にすると……“ボシユウチユウ。クロイコートヲキテマテ。ケイタイハオイテイケ。カナガワケンカワサキシカワサキクヒガシオウギシマ××××××……”」

「「東扇島っ!」」

 小林と八坂がそろって叫んだ。

「ありがとうな、お嬢ちゃん。いくぞ! 八坂」

「あっ! 先輩っ、待ってくださいっ!」

 小林と八坂は足早に病院を後にした。

 玄関を出る間際、八坂は一瞬振り返りミナ子を見た。

……僕と同じ……。でも牛乳を飲んでた……。

 小林と八坂を見送った誠一郎とミナ子は互いを見て首をかしげた。

「何だったんだろうな?」

「どうでしょう……。ですが、何も起きないことを祈ります」

 ミナ子は疲れた様子で呟いた。

「なあ、場鳥。……“ボシユウチユウ”は何だ?」

「“ボシュウチュウ”じゃないでしょうか……?」

「募集中? 何のだ……?……それにしても、よく知ってたな。カタカナの成り立ちなんて」

 誠一郎の言葉にミナ子はきょとんとした。

「国語の授業でいっちばん始めに習いませんか?」

 誠一郎はミナ子の発言に目を点にした。

「え? 漢字の成り立ちで、“木”とか“川”とかは聞いたことあるけど……カタカナは最初からカタカナだろう?」

「……時代の流れって恐ろしいですね……」

 ミナ子の憂いを帯びた呟きに誠一郎は苦笑した。

「場鳥の歳で言う言葉じゃないと思――」

「先生、わたしは帰ります。牛乳、ありがとうございました」

 ミナ子は誠一郎の呟きを遮るように言い、牛乳を飲みきると近くのゴミ箱にパックを捨てた。

「あ、ああ。夜食ありがとう。気をつけて帰れよ?」

 誠一郎はミナ子を見送ると、自分は医局に戻っていった。

……あぁ、言いたいことがあったのに……言えなかったな。


 午後五時。本日の外来診察が終わり、受付窓口のシャッターが下ろされると、電気が消された。

 誰もいなくなった待ち合いや、放射線科以外の外来は薄暗く、非常口の緑色の電気だけが点灯しており、しんと静まり返っている。

 二階の医局では帰り支度を終えた医師たちがぞろぞろと立ち上がる。

「錦野先生、窪先生、お先です」

 そう言って次々に医局を後にしていった。

 もう医局には誠一郎と窪しかいない。

 これから医療機器メーカーの業者が来てCTの機械を搬入、設置をするのだ。その立ち会いのために誠一郎と放射線科の窪が居残りしている。

「もうそろそろ裏口に行きますか?」

 窪は平素を装ってるつもりだが、鼻息が荒く、興奮している様子だ。

「そ、そうですね……」

 誠一郎は微苦笑を浮かべた。

……CTの設置ってどのくらいかかるだろうか?

 午後五時半になり、誠一郎と窪は病院裏口の、いつも司法解剖の遺体を運び込む裏口前に立っていた。そろそろ業者が来るはずだ。

 少しして、メーカー業者のロゴが入ったワゴン車とその後ろにトラックがやって来た。

 誠一郎たちの前に止まると、ワゴン車の方からメーカーのスーツ姿の社員とエンジニアと思われる作業員数人が降りてきて誠一郎に挨拶をした。

「お待たせいたしました、錦野先生。ではこれから放射線科の方にCTを設置しますのでよろしくお願いします」

 エンジニアたちがトラックから下ろした、CTの大きな機械が入ってるであろう、厳重に梱包された大きな木箱や内部の機器がまだ丸出し状態の巨大なドーナツの形をしたガントリという機械を数人で押し、裏口から病院内へ入っていった。

 窪が先導し、エンジニアたちは段ボール箱を放射線科の、設置予定の部屋に運び込んでいった。

 窪が部屋の入り口で眺めてる中、エンジニアたちが黙々とCTの機械の組み立て、設置を進めている。

 誠一郎も入り口から室内をのぞき込んだ。

「錦野先生、終わったら電話しますので、医局に行ってて良いですよ?」

 窪はいつもより高い声調で言った。眼鏡で目元は見えないが、口元は先ほどからにんまりと上がっており、興奮してるに間違いない。

「分かりました……。では、私は……医局で待ってますので……」

 誠一郎は窪の様子に微苦笑を浮かべ、一人医局へ戻っていった。

 薄暗い廊下を進み、階段を上ると二階の廊下に出た。無論ここももう薄暗い。

 誠一郎は固唾を呑みながら足音を立てずに忍び足で医局を目指した。

……やっぱり暗いのは苦手だな……。

 周りが薄暗いと何故か神経が研ぎ澄まされて、耳が敏感になる。

 ここは誠一郎の祖父の代からある病院だ。初めの頃は入院治療もしていた。勿論亡くなった患者だっている。

……今まで“見えた”ことはないが、出来れば遭遇したくはないな。

 医局に着くと、すかさず電気を点けた。

 天井の蛍光灯がパチンッ、と音を立てて医局内を照らした。無論誰もいない。

 誠一郎はため息をつき、自分の席に座るとミナ子が持ってきてくれたランチボックスを出した。

「窪先生には悪いけど……いただきます」

 誠一郎はサンドイッチを無言で食べ始めたのであった。


 一時間後。

 突然医局の内線電話が鳴り、誠一郎は肩をびくつかせ、慌てて受話器を取った。

「はいっ、錦野ですっ!」

『錦野先生? 窪です。どうされました? 声なんか張り上げて』

 窪の声に誠一郎はドッと力が抜けていくのを感じた。

「あぁ……窪先生。何でもないです、はい。設置は終わりましたか?」

 誠一郎がぐったりした声で問うと、窪は落ち着き払った声で言ってきた。

『“今日の分”は終わりました。続きは明日になります』

「あっ……。今日中には終わらないんですね……?」

 恐る恐る尋ねると、受話器の向こうから窪の、一段と調子を落とした声がした。

『明日……休日出勤します……』

「お願いします……」

 誠一郎は静かに受話器を電話機に戻した。


 午後六時半。神奈川県川崎市川崎区東扇島の東公園にて。

 太陽が沈みきって辺りは薄暗く、海の向こう側に見える工場や鉄塔、水産、物流の大型倉庫の建物などから発せられる、点々とした無数の淡い水色のライトに神秘的なものを感じる。

 東扇島は物流や工業に特化した人工島だが、昼間は公園で人々が楽しんだり賑わいを見せるレジャー施設としての一面もある。

 小林と八坂は東公園から臨む夜景を眺めていた。

「聞き込みをしてみたものの……」

「有力な情報はありませんでしたね……」

 小林と八坂はそろってため息をついた。

 少しの沈黙が続き、ふと、八坂が口を開いた。

「何か、黄昏ますね……」

「ん? あ、ああ……」

「先輩……」

 滑るように八坂が小林の後ろに立った。

「どうし――っ!」

 小林が言いかけたところで八坂が小林の腰に腕を巻きつけ、後ろから抱き付いてきたのだ。

「や、ややや、八坂っ?」

 突然のことに小林の声が上ずった。

 自分より少し背の高い青年に抱きしめられた小林は、一体何が起こっているのか、状況を把握しようと八坂の腕を振り払おうとするも、八坂の腕はビクともしない。

……コイツッ! 俺よりひょろいクセに強いだとっ?

 小林はだんだん顔が熱くなっていくのを感じた。

「八坂っ? どうしたっ? 俺にはそういう趣向はっ――」

「先輩、静かに……」

 八坂に背後から耳元で囁かれ、小林は自然と口を閉じた。

「っ……」

 八坂はちらりと振り返り、何かを確認するとふぅ、と息を吐いた。

「先輩?」

「……ん?」

 八坂は小林の肩に顎を乗せた。

「今夜は僕のこと……お持ち帰りしてくれませんか……?」

「はあっ?」

 小林は八坂の言葉に度肝を抜くと、勢いよく振り返った。

「お前何言ってっ――」

 小林は言葉を失った。

 八坂のうちひしがれたような、哀愁漂う赤い瞳に小林は魅入ってしまったのだ。

「……八坂……?」

「先輩……」

 八坂は絞り出すような声で言うと、小林の肩に顔を埋めた。

 小林はただ黙って突っ立っていることしか出来なかった。

 少しして、耳元からすすり泣く声が聞こえ、小林は目を丸くすると、そっと腕を上げ、八坂の頭をポンポンと撫でた。

「“お持ち帰り”は……出来ないが、相談には乗るぞ……」

「先輩……。うぅっ……」


 東京都某所、とある施設。

 八坂は少し清々しい面持ちで、ガラス張りの玄関をくぐった。

 八坂を待ち受けていたのは厚生労働省職員の千葉とこの施設の職員数名だった。

「今日は川崎にいたみたいですが、何か進展はありましたか?」

 千葉の問いに八坂は嫌悪の表情を浮かべつつ、答えた。

「“いました”よ。東扇島には千葉さんの求める答えがあると思います……」

「と、いうことは……そろそろですね」

 千葉はニヤリと口角を上げた。

「その時が来たら、八坂さん? あなたにも手伝ってもらいますからね? 全面的に。警察より早く突き止めて下さいね」

「はい……」

 八坂は力のない声で返したのであった。


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