翌日、朝。誠一郎が出勤していった数時間後の十時。

「遅いわね……」

「そうですね……」

 柏木とミナ子は玄関フロアにたち、木幡が来るのをかれこれ三十分は待っていた。

「そう言えばミナ子ちゃん」

「はい」

 ミナ子は柏木を見上げた。

「昨日旦那さまとお話しした?」

 ミナ子は目をぱちくりした後、ふぅ、と短いため息をついた。

「話しました。おかげで大昔の記憶が蘇りました……」

 柏木は首をかしげた。

……大昔……?

 そうこうしている内にインターホンが鳴った。ミナ子と柏木がそろって玄関のドアに視線を向けた。

 数十秒が経った。

 一向にドアが開く気配がない。

 イタズラか? と思いつつ柏木が玄関を開けると、木幡が大掛かりなスーツケース一つと、大きなボストンバッグ三つを携えて立っていた。

「あっ! おっはよーございまーす!」

 木幡がニッコリと笑って手を振ってきた。

……その大量の荷物は……何?

 柏木とミナ子はただただ唖然と木幡の荷物を眺めることしか出来なかった。

 木幡は柏木やミナ子をよそに、黙々とスーツケースやボストンバッグを応接間に運び入れて、ふう、と息をついた。

 柏木はすかさず木幡に尋ねた。

「こ、木幡さん? この荷物は……?」

「へえ? だって、柏木さんと場鳥ちゃんって、住み込みなんでしょう? ならあたしも! と思って、荷物持ってきちゃいましたぁ!」

 木幡は最後にえへっ! とつけ加えて、わざとらしく微笑んだ。

 柏木は目頭を押さえて深いため息をついた。

「さて、ミナ子ちゃんにはリビングの掃除ね」

「はい」

 柏木に言われ、ミナ子はリビングへ向かった。

「で……木幡さんには、風呂掃除の手順を教えますので」

「はーい」

 木幡はへらへらと微笑んだ。

……大丈夫なんだろうか?

 柏木は不安から眉間にシワを寄せた。


「木幡さん! そんなのではダメよ! もっと隅までやるのよ!」

「えー! まだ?」

 木幡は広い風呂場の床磨きでもうヘロヘロと項垂れていた。


 午後、ダイニングルームにて。

「二人とも、お疲れ様。お昼にしましょう」

 柏木の呼びかけに木幡はだらだらとテーブルに突っ伏した。

「やっと終わったぁ〜……」

 ミナ子もテーブルについた。

 今日の柏木のまかない料理はサンドイッチだ。

 テーブルにサンドイッチが乗った皿を見た木幡は一瞬しかめっ面を浮かべた。

……これがお昼?

 どうやら木幡はもっと豪華な物を期待していたようだ。

 ミナ子には、柏木特製トマトジュースが置かれた。木幡は目を見張った。

「場鳥ちゃん……それだけ?」

「わたしはこれで十分ですので……」

 ミナ子は冷然とした口調で言うと、いただきます、と合掌しトマトジュースをごくごく飲み始めた。

 柏木も合掌するとサンドイッチを食べ始めた。木幡は内心不貞腐れながらサンドイッチを頬張った。

……医者の家政婦なんだから、もっと華やかだと思っていたのにっ……。


 夜。誠一郎が帰って来た。

「ただいまー……え?」

 玄関フロアを見た誠一郎は目を丸くした。

 何かない限り、木幡は午後の五時で業務終了なのに、困った表情の柏木とともに誠一郎を出迎えているではないか。

「あれ? 木幡さん……どうして……?」

 誠一郎が恐る恐る尋ねると、木幡は笑みを浮かべた。

「あたしも、住み込みで働きまーす!」

「え?」

 誠一郎は開いた口が閉まらず、柏木は憂いを帯びた表情でため息をついた。そしてミナ子の姿が見えない。

 誠一郎は不安になった。

「場鳥は……?」

「ミナ子ちゃんはキッチンです……」

 柏木の返事に誠一郎は胸を撫で下ろした。

 寝室で着替えを済ませた誠一郎は、一階へ降りていくと、ミナ子がいるであろうキッチンをのぞき見た。なんとミナ子は、大きなフライパンに大量のケチャップご飯をひょいひょいと空中に放り投げては華麗に受け止め、炒めているではないか。

 誠一郎はミナ子のフライパンさばきに魅入ってしまった。

……あれ、俺でも重いぞ……。

 誠一郎は一笑するとダイニングルームに向かった。

 ダイニングルームに入ると柏木がテーブルのセッティングをしている。

「旦那さま、もう少々お待ち下さい」

「ありがとう」

 誠一郎はテーブルについた。

少しして、ミナ子がワゴンを押してやって来た。

「失礼します」

 ミナ子は誠一郎の前に、今晩のご飯であるオムライスを置いた。

 綺麗に包まさったオムライスを見るや否や、誠一郎は興奮気味にミナ子に問う。

「場鳥が作ってくれたのかな?」

「はい、そうです」

 ミナ子は抑揚のない声で答えた。

「卵、食べれないのに良く作ってくれたね」

「……母が生きていた頃は時々作って食べたものですので……」

 ミナ子は空を見つめて平然と答えた。

……え? アレルギーがあるのに?

 誠一郎はミナ子の言葉に違和感を覚え、恐る恐る尋ねてみる。

「場鳥は……その、料理習っていたのか……?」

「国民学校は初等科五年までしか修了してないので、習ってはいませんが――家でよく料理をしてたのはわたしなので、基本中の基本は出来ます」

……国民学校って……戦前か?

 誠一郎はミナ子の言葉に不自然さを感じた。

 晩ご飯の準備が出来、ミナ子がダイニングルームから退室しようとすると、木幡が入ってきた。

……他に運ぶものなんて……。

 ミナ子は眉をひそめる。と、なんと木幡が誠一郎の向かいの席に座ったではないか。

 ミナ子と誠一郎は目を丸くした。

……えっ?

「あ、場鳥ちゃん? あたしのご飯は?」

 木幡が平然と言う。ミナ子は少々の苛立ちを覚えた。

「何言ってるんですかっ……? わたしたちは後に食べ――」

 ミナ子が言いかけたところで木幡がええ? と口を挟んできた。

「あたし、誠一郎さんと食べたいの!」

 ミナ子は眉間にシワを寄せた。そこへ柏木が慌てた様子で入ってきた。

 柏木の手はびしょびしょに濡れており、手を拭く隙もなくやって来たに違いない。

「木幡さん! あなたのやるこっ――旦那さま、申し訳ございません」

 柏木は誠一郎に深々と頭を下げた。

「だって、今から明日の下ごしらえをして、ご飯食べたら寝るの遅くなっちゃうじゃない?」

 木幡の言葉に柏木とミナ子は唖然とした。誠一郎は苦笑いを浮かべ、まあ、良いじゃないか。と、一言。

 柏木とミナ子は内心、誠一郎に対しても呆れることしか出来なかった。

……またまた始まった。旦那さまのお人好しが……。


 この時、まさか錦野邸に災厄が訪れようとは、まだ誰しも思っていなかった――。


 四月もあっという間に一週間が過ぎ、とうとう事件が起きた。

 朝、キッチンにて。

「木幡さん、旦那さまのお弁当箱におかず準備しておいて……」

 柏木は少し疲れ気味の声で言った。

「……はーい」

 柏木に指示を受けるも木幡は空返事で、まだ眠たそうに大あくびをし、冷蔵庫へ向かう。

 冷蔵庫の戸を開け、木幡が取り出したのはベーコンと卵と食パンだった。その背後のコンロでは柏木が卵焼きを作っている。誠一郎の昼食の弁当のおかずだ。

 一方ミナ子はダイニングルームで、誠一郎に朝食のトーストとサラダとスープを出していた。その表情はどうも疲弊しきった様子で、ミナ子の目の下にはくっきりとクマが浮き出てる。

「場鳥……? 大丈夫か? いつも以上に顔が青白いぞ」

「そーですね……」

 誠一郎の問いにミナ子は億劫そうに返した。

「そーですね、って……。他人事じゃあるまいし……」

 誠一郎は肩を落とした。

 ミナ子はため息をつき、そっぽを向いた。

……誰のせいだと思ってる……?

 何せ、この一週間はミナ子と柏木にとって大変な一週間だったのだ。

 二日目から早速木幡は持参した荷物を、誠一郎の寝室の隣の部屋に勝手に置くと、客室用のベッドを勝手に移動させ自称自室に運び込んだり、食事を誠一郎と一緒にとろうと――柏木とミナ子が誠一郎の食事を準備している時に、勝手に食材を使って自分の食事を作ってる――したり、シャワールームを我が物顔で長時間使ったり――水道光熱費の使用料が増えた!――、洗濯物を出すだけ出して、使った料理道具は使いっぱなしで放置し、柏木とミナ子が目を離した隙にスマートフォンでゲームをしているわ、化粧直しをしているわ、もう居候の域を越してるようにしか思えない。

 そして柏木とミナ子が一番許せないのが、誠一郎の前では媚を売り、誠一郎を名前で呼んでいることだった。

「誠一郎さ〜ん! おっはよーございまーす!」

 木幡が自作の料理を持ってダイニングルームに入ってきた。ミナ子は眉をひそめる。

「お、おはよう……」

 流石の誠一郎も苦笑を浮かべるしかなかった。そっとミナ子を見ると、目が合った。

 ミナ子はうんざりした眼差しで誠一郎を見つめていた。誠一郎はとっさに目を逸らした。

……これは……疲れてるのを通り越しているっ……。

 誠一郎は内心焦りを覚えた。

 一方柏木は、結局何一つ準備されていない誠一郎の弁当箱を呆然と眺めつつ、ため息をもらすと、自ら惣菜や主菜のおかず、ご飯を詰めた。


「じゃあ、行ってきます……」

 玄関フロアにて、柏木とミナ子、木幡が誠一郎の見送りに来ていた。

 木幡は明るく、行ってらっしゃい! と言い、柏木とミナ子はげんなりした表情で行ってらっしゃいませ、と静かに言った。

 誠一郎はそろそろと出勤していった。

 誠一郎がいなくなったとたん、木幡は伸びをしてそのまま階段を上り始めた。とっさに柏木が引き止める。

「木幡さん、どこに行く気……?」

 木幡は立ち止まると上から柏木とミナ子を見下ろした。

「だってぇ、誠一郎さん出勤しちゃったしー、あたし疲れてるしー、あとよろしくねぇー」

 木幡は冷笑を浮かべると二階に行ってしまった。

「……ミナ子ちゃん……」

 柏木が静かに問う。

「はい」

 ミナ子は柏木に向き直った。

「わたくし……定年退職していいかしら……」

「えっ……」

 柏木の言葉にミナ子は驚きを隠せなかった。

 気を取り直して、柏木とミナ子はキッチンに向かい、ようやく自分たちも朝食をとろうとしたのだが、キッチンのアイランドカウンターに誠一郎の弁当が置いてあるのが目に入った。

「カバンに入れるの忘れた……」

 柏木はこめかみに手を当て唸った。

「わたし……病院まで届けてきますか?」

 ミナ子が恐る恐る言うと、柏木が申し訳なさそうに返した。

「病院の場所、分かる?」

「多分、大丈夫です」

「じゃあ、初めてのおつかいね。帽子忘れないようにね」

「はい」

 ミナ子は“おつかい”という言葉に高揚感を覚え、頬を赤らめた。

 時刻は午前九時。ミナ子は麦わら帽子を被り、弁当箱を包んだ風呂敷を持って玄関フロアに行くと、何故か木幡がいるではないか。

 ミナ子は木幡の横を素通りしようとすると、木幡がスッと足を出してきた。ミナ子は寸前で止まる。

「何でしょうか?」

 ミナ子が木幡を険しい目付きで見上げた。

「誠一郎さんの弁当よねぇ? フフッ、あんた病院の場所分かるのかしら?」

 木幡の嘲笑にミナ子は昂然と言い返す。

「分かります」

 ミナ子は木幡をよけようと進むも、またもや木幡に行く手を塞がれた。

「あたしが行くわ! ガキはおうちで待ってなよ」

 木幡は愚弄するように言うとミナ子から弁当をもぎ取った。ミナ子はものすごい剣幕で木幡を睨んだ。

 また飛び掛かって、引っ掻いてやろうか? そう思ったが、また誠一郎に叱責され、惨めになるのを恐れたミナ子は思い止まった。

「行ってきまーす!」

 先ほどとは打って変わって木幡は明るい声調で言うと、錦野邸を後にした。

 柏木がキッチンの後片つけをしているところにミナ子がとぼとぼと戻ってきた。

「あれ、ミナ子ちゃん……? お弁当は?」

「木幡さんが……行きました……」

 ミナ子はずいぶんと落ち込んだ様子だ。

「ミナ子ちゃん……おいで」

 柏木は膝を突き、手招きするとミナ子が駆け寄った。

 柏木の胸にミナ子は顔を埋め、少ししてすすり泣く声が聞こえてきた。柏木はそんなミナ子の頭を優しく撫でた。

「ミナ子ちゃんが行くはずだったのにね……。嫌よね……」

 木幡が誠一郎の弁当を届けるために外出し、錦野邸は久々に平穏を取り戻した。

 ミナ子と柏木は結局木幡がやるはずだった家事を分担し、こなしていった。

 十一時半になり、錦野監察医総合病院の午前の受付が終わる時間となった。

 受診患者が少なく、診察が早く終われば運良くもうお昼休憩に入れているはずなのだが――。その時、一本の電話の着信音が錦野邸に鳴り響いた。

 玄関フロアを掃き掃除していたミナ子が階段脇の電話に出た。

「はい、錦野です」

『あ、その声は場鳥か? すまない……』

 電話の相手は誠一郎だった。ミナ子は一気に顔をしかめた。

……晩ご飯は木幡と食べるから要らないよ、かっ?

 ミナ子は誠一郎の次の言葉を待った。

『カバンに弁当が入ってな――』

 誠一郎が言い終える前にミナ子は冷淡な態度で即答した。

「木幡さんが持っていきましたが、何か?」

『あっ……えっ? そ、そう……』

 電話の向こうの誠一郎の声が上ずった。

 ミナ子は誠一郎に聞こえないように小さくため息をついた。

「用件が以上でしたら切ります」

 ミナ子が誠一郎の言葉を待たずに受話器を置こうとすると、誠一郎の、待ってくれ! と言う慌てふためいた声が聞こえた。

 ミナ子は呆れた様子で大きなため息をつき、受話器を再度耳元に持っていった。

「何ですか?」

『まだ届いてないんだ。お昼がさ……』

 誠一郎のしょんぼりした声が聞こえた。

 ミナ子は無言でガチャリと電話を切ると、地団駄を踏むようにキッチンへ向かった。

 キッチンは柏木によって綺麗に掃除されており、また使って汚してしまうのが惜しいのだが、ミナ子はシンク下から予備の弁当箱と、角フライパン、冷蔵庫から卵や作り置きしていたおかず、タッパ詰めしたご飯を取り出した。

 ジュワァァアア! と焼く音に誘われ、柏木が洗濯カゴを脇にキッチンをのぞき込んできた。

「ミナ子ちゃん……? どうしたの? 弁当箱なんか……」

 ミナ子は卵焼きを器用に箸で巻きながら答えた。

「どうやら先生はまだ昼食にありつけてないそうです」

 ミナ子の返事に柏木は目を丸くした。

「木幡さんは一体どこで油を売ってるのかしらっ……」

 出来上がった弁当を風呂敷に包み、ミナ子は出かける準備をする。

「ミナ子ちゃん、タクシー呼ぶ?」

 柏木は階段脇の電話機に歩み寄った。

「大丈夫です」

 ミナ子は麦わら帽子をキュッと被りながら返した。

「歩いていくの? ここから病院まで歩くと一時間弱はかかるわよ?」

 柏木が心配そうにミナ子を見下ろした。

 ミナ子は玄関のドアを開け放つと、真っ直ぐ、晴れ渡る空を仰いだ。

「大丈夫です。十分で着いてみせます。行ってきます!」

 ミナ子は元気良く言うと錦野邸を後にした。柏木が手を振って見送った。

「行ってらっしゃ――えっ? 十分っ? ミナ子ちゃんっ?」

 柏木がミナ子を追おうとドアを開けるも、もうミナ子の姿はなかった。

「あら、ミナ子ちゃんって……足早いのね……」


 十一時五十九分。錦野監察医総合病院二階、医局。

 広い部屋に、錦野監察医総合病院に所属する医師たちの机がブロックごとに並んでおり、各々の専門科目の参考書がぎっちりと棚や机の上にところ狭しと並んでいる。

 錦野監察医総合病院は循環器内科、消化器内科、呼吸器内科、一般内科・小児科、放射線科の五科と監察医からなる内科専門の総合病院だ。

 ほとんどの医師たちはお昼を食べに外出しているか、まだ外来で診察中のどちらかで、医局はがらんとしていた。

 今医局にいるのは、昼食をいつも持参している放射線科の、少しクセのある医師、窪と、昼食が届くのを待っている誠一郎だけであった。

 誠一郎は電話でのミナ子の冷然とした様子に混乱していた。

……場鳥はどうしてあんなに怒り口調だったんだ? やっぱり……木幡さんのことだろうか……。

 誠一郎は大きなため息をついた。

 そこへ、昼食を一足先に食べ始めた窪がキャスター椅子に乗ってシャァァアア〜と誠一郎の隣に移動してきた。誠一郎がビクッと肩を震わせた。

「な、何でしょうか……? 窪先生……」

 誠一郎が恐る恐る尋ねると、窪はかけてる太縁の眼鏡をクイッと押し上げた。レンズが反射して、表情が伺えない。

「錦野先生……二月に、導入すると話が出てたCTですがもうそろそろですよね……?」

 窪の抑揚のない独特な口調に誠一郎は毎回身震いするのであった。

……頼むっ! 早く俺の昼食来いっ!

 そう心の中で祈りつつ、この度設置予定のCTことコンピューター断層撮影装置の現在状況を伝える。

「CTですが……今週末の診療が終わったら……業者が取りつけに来ますので……」

 恐る恐る窪に返すと、窪は激しくガッツポーズを決めた。

「ようやく僕もっ、CTデビューだっ!」

 窪はキャッホーイッ! とはしゃぎながら机に戻ろうとした時、突然窓の方を見ては、見てはいけないものを見てしまったような表情でそろそろと指を差した。

「に、錦野先生……?」

 窪の震えた声に錦野はゆっくりと振り返った。

……真っ昼間には“出ない”だろう?

 そう思いつつ窓の外を見るや否や、誠一郎は度肝を抜いた。

「ばっ……場鳥ぃぃいいっ?」

 なんとミナ子が、わずかな幅しかない、窓の下の水切りに立っているではないか。

 誠一郎はすぐさま駆け寄り、窓を開け放った。

「場鳥、どうやってこんなとこにっ? ここは二階だぞ! 危ないじゃないかっ!」

「すみません」

 ミナ子は澄まし顔で答えると、医局内に降り立った。

「先生、持ってきました。どうぞ」

 ミナ子はつんとした表情で、弁当箱が入ってる包みをズバッ! と差し出した。

……おら、受け取れぃ!

 誠一郎は、突然のミナ子の登場に呆然としながら受け取った。

「あ、ありがとう……」

「わたしは戻ります。では」

 素っ気なく言うと、ミナ子はヒョイっと窓の冊子に飛び乗った。すかさず誠一郎がヒョイとミナ子を抱き上げ、床に下ろす。

「窓はダメだ。危ないだろうっ! ここは二階なんだぞ?」

「はい……」

 ミナ子は少々不貞腐れた表情を浮かべた。

「……では、わたしはおいとまします……」

 ブスッと口元を歪めたミナ子は医局の出入り口に向かおうと足を進めると、とっさに誠一郎が呼び止めた。

「ああっ、場鳥。待ってくれ!」

 ミナ子が鋭い目付きで振り向いてきた。誠一郎と、関係ないのに窪までびくついた。

「何ですか……? おひとよ――先生」

 ミナ子が、少女とは思えないドスの効いた声で言った。誠一郎は一瞬たじろいだ。

「今……“お人好し”って言おうとしたよね……?……あ、場鳥? そのっ……天気良いから病院の庭でも歩かないか……?」

 誠一郎は話題を変えようと慌てた様子で聞くと、ミナ子は目をぱちくりし、表情をきょとんとさせた。

「お昼の時間……短くなりますよ……?」

 誠一郎は大げさにうなずいた。

「うんっ、分かってるよっ……」

 完全に蚊帳の外に出された窪はそろりと自分の机に戻り、昼食を再開させた。


 錦野監察医総合病院の庭。

 小綺麗に整備された広い庭のタイルの道を、誠一郎とミナ子が歩いていた。

「実はさ……場鳥に会わせたい人がいて……」

 誠一郎が静かに言うと、ミナ子は麦わら帽子をしっかりと被り直した。

「誰ですか……?」

 ミナ子は眉をひそめ、誠一郎を見上げた。

「ん? 私の父だよ」

 ミナ子の表情が一瞬固まった。

 庭の少し奥の方へ行くと大きな桜の木が一つそびえ立っており、満開の桜の花を風になびかせては花びらがふわふわと空に舞っていく。

 ミナ子は満開の桜の木に心を奪われた。

「キレイ……」

 赤い瞳を輝かせ、ただひたすらに桜をじーっと眺めるミナ子に、誠一郎は微笑んだ。

……場鳥もまだまだお子様だね。

 桜の木の下にベンチが一つ置いてあり、老眼鏡をかけ、本を読んでいる白衣姿の老人――忠明が座っていた。

「親父」

 誠一郎が忠明に向かって手を振った。すると忠明は顔を上げ、立ち上がった。

「誠一郎、どうした?……おや、その子は?」

 誠一郎がミナ子と忠明の間に立った。

「場鳥、この人は俺、私の父の錦野忠明だ。親父、この子が場鳥ミナ子」

 ミナ子は忠明をとらえたとたん、目を見張り、麦わら帽子を目深に被ると会釈をした。

「こ、こんにちは……」

「こんにちは。君がミナ子ちゃん……。誠一郎から聞いてるよ」

 忠明は微笑み、しゃがみ込むとミナ子の顔をのぞき込んだ。ふと、不思議そうな面持ちで首をかしげた。

「おや? ミナ子ちゃん……前に会ったこと――」

 ミナ子は血相を変え、すかさず誠一郎の背後に隠れた。

「場鳥?」

「会ったこと……あるわけないじゃないですか……」

 ミナ子は誠一郎の背後から恐る恐る顔を出し、忠明を見つめた。

 忠明は顎に手を当て、考える素振りを見せた。

「確かにそうか。誠一郎が子供の頃だったもんな……。誠一郎は迷子癖があるからな?」

 忠明はニヤリと誠一郎を見上げた。

「親父……止めてくれ……。恥ずかしいから」

 誠一郎はきまりが悪そうにそっぽを向く。

「では、お父さんは戻ってるから。ミナ子ちゃん、誠一郎をよろしくお願いします」

 忠明は深々とミナ子に頭を下げ、ミナ子も慌てて頭を下げた。

「よろしく、って……場鳥はまだ十一才だぞ?」

 誠一郎は呆れた様子で忠明を眺めた。

「いやぁ、ミナ子ちゃんがどうしても孫に見えてしまってな!」

 忠明は嬉しそうに微笑みながらその場を去っていった。

……孫ってなぁ……。

 誠一郎は小さくため息をつき、微苦笑を浮かべた。

「すまなかったな、場鳥。引き止めてしまって」

「いいえ……」

 ミナ子は大きなため息をつくと、ふらふらと草原に座り込んでしまった。

「場鳥? 大丈夫かっ?」

 誠一郎がすかさずミナ子の元に膝を突き、ミナ子の背中を支えた。

「少し……疲れてしまいました……」

 ミナ子はうつらうつらとまぶたを閉じたり開いたりして、桜の木を一目見ると誠一郎の腕にもたれ掛かった。

「……本当にキレイです……。陽が苦手じゃなかった時に……いっぱい眺めたかった……」

 か細い声で呟くと、ミナ子は麦わら帽子を目深に被り、目を閉じた。

「場鳥?……お昼寝……だよな?」

 誠一郎はふぅ、と息をつくと、ミナ子を抱き上げ、錦野監察医総合病院に戻っていった。

……孫か……。ということは、俺にとっては……娘……?

 誠一郎はミナ子を左腕で抱えると、右手で白衣のポケットを漁った。取り出したのはPHSだ。

 PHSのボタンをポチポチと押し、耳元に持っていった。

 コールが鳴り、電話の相手が出た。

「あ、もしもし、親父? ちょっと良いかな……? 午後の診察代わりに――え? イヤ、場鳥がその……。うん、ありがとう。じゃ」

 電話を切ると、誠一郎は安堵のため息をついた。

「……柏木さんにも連絡しとかないと……」


「あっ! かわいぃ〜!」

 錦野監察医総合病院手前にあるショッピングモールにて、木幡はアクセサリーショップ内をうろついては、ネックレスや指輪を眺めていた。

 自分は今誠一郎の弁当を持っているのを忘れて。

 ふと、店内の時計を見ると午後一時半だった。

……あ、お昼の時間終わっちゃったぁ。

「ま、いっか……。これ良いなぁ」

 指輪を指にはめていると、背後から声をかけられた。

「すみません」

 振り返ると、黒いパンツスーツを着こなした、スタイリッシュな女性だった。

「何ですかぁ?」

 木幡は馴れ馴れしく返した。

 女性は失礼、と言いつつ、黒革の高そうなバッグから名刺を取り出すと、木幡に差し出した。

「Nラボ研究所の所員、伊藤と申します。あなたは……錦野先生のところのメイドさん……ですよね?」

 伊藤が恐る恐る尋ねた。

「まあ、ね。でも、もうすぐでメイドじゃなくてフィアンセになる予定よ?」

 木幡は平然と意地を張ったものの、伊藤には勘づかれているようだ。

 伊藤は呆れたように小さくため息をつくと、木幡の耳元で囁いた。

「あなた……えい……のい……ち、欲しくない?」

 伊藤の言葉に木幡は目を丸くした。

「もちろんタダじゃないけど……」

 伊藤は、綺麗に磨かれた自分の爪を見ながら言った。

「本当にっ? どうすれば良いのっ?」

 木幡は完全に伊藤の話に乗り気のようだ。

 伊藤はフフッとほくそ笑むと、声をひそめて言った。

「錦野先生のぉ……」

 伊藤の依頼話に木幡ははあっ? と声を荒らげた。

「あたしに出来るわけないでしょっ!」

 木幡は伊藤の名刺を捨てようとした。

「あっ、言い忘れてたわ?」

 伊藤が思い出したように続けた。

「お金も……出すわよぉ?」

 ウフッ、と伊藤が一笑する。

 伊藤の嬌笑“きょうしょう”に木幡は内心舌打ちをした。

「それと、念のため」

 伊藤はバッグから新聞紙に包まれた塊を出すと、それを木幡に差し出した。

「何よ? これ……」

 木幡は面倒臭そうに新聞紙の包みを開けようとすると、伊藤が制した。

「ここで開けない方が良いわよ?」

「……」

「じゃあ、よろしくぅ。お金は計画が成功した時に――」


 木幡が去ったあと、伊藤の背後にどこからともなく現れたのはサングラスをかけ、黒いパーカーに、黒いつば付き帽子の上からフードを目深に被り、黒いマスクをした、肌がほぼ見えない青年だった。

「本当にあの女に頼んだの? バカっぽいじゃん、アレ」

 青年は嘲笑う。

「少しは静かにしたら? 山田君?」

 伊藤は腕を組んで山田と呼ばれた青年を睨んだ。

「あの女以外だと“ババア”か“ガキ”しかいないし、良いのよ。それより……」

 伊藤は山田に手を伸ばすとパーカーのフードの中に手を突っ込み、素早い手付きで山田の耳を探り当て、その耳をグィッ! っとつまみ上げた。

「いででででっ!」

 周りにいた客たちの視線が山田に集中した。

 山田は引っ張られた耳を労るように擦った。

「いってぇな! 何だよぉ……?」

 山田が不貞腐れ気味に言うと、伊藤がズイッと顔を近づけ、声をひそめて言った。

「……最後の“一匹”はまだ見つからないのっ? 早く捕まえてきなさいよっ。こっちはまだ“一匹分の”しか確保出来てないのよ? 他のは先にブン取られちゃうしっ……!」

 伊藤はイライラした様子で顔を歪めた。

 山田ははぁ、とため息をついた。

「あのなぁ、オレは“モノホン”じゃないからぁ、結局“人間並み”なのぉ」

 山田はムスッと頬を膨らませた。

「それよりも、あんたの方で追えないのかよ?」

 山田が皮肉を込めた口調で言い返した。伊藤はきまりが悪そうに顔を逸らした。

「“あいつら”逃げ足早くて、位置情報は分かるけど、追えなかったのよっ……。……山田、“あんた”ですって? 私の方が年上だから。調子に乗ってると、“あいつら”と同じにするわよ?」

 伊藤は山田を睨みつけた。

「おぉ、怖い怖い。でも――」

 山田は畏怖の念を抱いた様子で苦笑した。

「“あいつら”を殺ったのは絶対“本物”だぜ……?“あいつら”だって一応“人間離れした”ものだしな……」

「“本物”……? まさかっ……」

 伊藤は驚愕の表情を浮かべた。

「あんたもオレも気をつけた方がいい。いつか“カスパール”と同じ目に遭うかもな?」

「何?“ザミエル”が来るとでも? それともブラド・ツェペシュ? もしくはバートリー・エルジェーベト?」

 はんっ! と伊藤は嘲笑った。

「オレ眠いから戻ってるわ」

 山田はマスク越しに大あくびをした。

「はいはい」

 伊藤が投げやりに返事をすると、山田は跡形もなく姿を消した。


 錦野監察医総合病院、循環器内科入院病棟三階、三〇一号室にて。

……温かい。

 ミナ子は目を開いた。

 何故か見知らぬ、消毒液の臭いが漂う、ベッドが四つ置かれてる真っ白な部屋で眠っていた。

 それにしてもいつもより視界が高い位置にある。

……ここは。

 ふと、顔を上げると誠一郎と目が会った。じっとミナ子のことを見つめていた。ミナ子は目を丸くする。

「お、おはようございます……」

 ミナ子は戸惑った様子で言った。

 誠一郎は大きく目を見開いたのち、安心したように柔らかく微笑んだ。

「おはよう、場鳥。……気分は……どうだ?」

「えっと……すみません。寝てしまい……」

 ミナ子はようやく、自分が今誠一郎に毛布にぐるぐる巻きにされ、抱き抱えられていることを把握した。

「ワォ……」

「場鳥、本当に大丈夫か?」

 誠一郎はゆっくりとミナ子をベッドに下ろした。

「どうしてですか……?」

 ミナ子がきょとんとした様子で誠一郎を見上げると、誠一郎は眉をひそめ、懸念した表情を浮かべていた。

「……?」

 ミナ子は目をぱちくりすると、誠一郎が無言で手を伸ばし、ミナ子の額に当てた。

「っ!」

 ミナ子の顔が一気に赤らめていった。

「……さっきよりは……冷たくないか……」

 誠一郎は静かに手を引っ込めた。

「あ、驚かせてすまない。……驚いたのは私の方だが……。イヤ、つい少し前、心配なことがあってな……?」

 誠一郎は深いため息をついたあと、苦笑を浮かべた。

 ミナ子は首をかしげた。


 一時間半前。誠一郎は、循環器内科の入院病棟の、使われていない三〇一号室へミナ子を寝かせにいった。

 三〇一号室は四人が入院出来るようにベッドが配置されている。その一つを拝借し、誠一郎はミナ子を寝かせた。

「一時間後に戻ってくるから……」

 そう囁くと、誠一郎は腕時計を確認した。

……今は……十二時半か。お昼食べてこよう。

 誠一郎は三〇一号室を後にした。

 医局に戻ると、誠一郎は柏木に電話を入れ、黙々と弁当を食べ始めた。

 午後一時二十五分。昼食から戻ってきた医師たちが、ぞろぞろと医局から出て来て、各自の外来へ向かい始めた。あと五分で午後の外来診察が始まる時間だ。

 誠一郎もいつものごとく聴診器を首にぶら下げ、医局を出たところで忠明と出会った。

「あ、親父。代診、お願いします」

 誠一郎は忠明に頭を下げた。

「分かった、分かった。……ミナ子ちゃんを一度小児科に受診させてみてはどうだ? 貧血かもしれないぞ?」

「うん……」

 忠明の言葉に誠一郎は浮かない表情だ。

……貧血なんだろうか……?

 誠一郎は、初めてミナ子が錦野邸にやって来た日や日中の出来事を思い返した。

……今思えば、場鳥は昼間によく眠くなってるよな。血液検査して鉄分が少なかったら鉄剤処方した方が良いのかな……。

 ふむ、と誠一郎は唸りながら循環器内科入院病棟へ向かった。もう一時半だ。

 三〇一号室前に着くと、病室のドアを引こうとしたところで手が止まった。

 実は、誠一郎にはもう一つ、ミナ子に関して気になることがあった。

……息、してるよな……?

 誠一郎はそっとドアを引くと、病室に入りミナ子の眠るベッドに歩み寄った。

 ベッドで眠るミナ子は午前の時より青白い。

 誠一郎はそっと手を伸ばすと、ミナ子の口元に当てた。

 数分間手を当てておくも、ミナ子の鼻や口からは空気の流れを感じ取れなかった。

……まただっ……。

 誠一郎はベッドの足元に静かに座り込み、項垂れた。

……場鳥は睡眠時無呼吸症候群か?

 ふと、首にぶら下げている聴診器が目に入った。

 誠一郎は立ち上がると、震える手でミナ子にかけてある毛布をよけ、服の襟元のボタンを外していく。

 聴診器のイヤーピースを自身の耳に装着すると、そっと聴診器のチェストピースをミナ子の服の襟元から入れた。

 誠一郎は聴診器のチェストピースを器用にミナ子の左胸に押し当てると心音を確認した。

……。

 心音はしなかった。

「場鳥っ? 場鳥っ! 起きろ! 起きろっ!」

 誠一郎はものすごい剣幕でミナ子の肩を揺さぶった。それでもミナ子は起きない。

……AED必要かっ?

 誠一郎は聴診器を放り投げると、今度はミナ子の首筋に指を当て、脈を確認する。

 ミナ子の肌は生きている子供とは思えないくらい酷く冷たかった。

……死体、みたいだ……。

 ミナ子の脈は確認出来なかった。

「えっ……? 本当に……死んで……る……?」

 誠一郎はふらふらと床に座り込んだ。

 息をしているのも忘れるくらい、誠一郎の心臓は早鐘を打っていた。額や背中に冷や汗を感じた。

……午前、普通に生きていたのにっ……?……普通? 否、前にもあったじゃないかっ。まさか鼓動が止まってるなん思わなかったが……。きっと今回も……。

 誠一郎は立ち上がり、毛布を手繰り寄せるとミナ子をぐるぐる巻きにし抱え込んだ。

……温めたら、起きるだろうか……。


「と、いうことだ。場鳥、もう一度心音を聞かせてくれないか?」

 誠一郎はいつの間にか聴診器を装着しており、チェストピースを構えている。

 誠一郎は真剣な眼差しだ。

 ミナ子は目を丸くし、恐る恐る自身の胸元に視線を向けると、バッ! と両手で襟元を押さえた。

「先生っ……勝手にっ……」

……“その時”に心音、聞こえるわけないだろうっ!

 ミナ子は険しい表情を誠一郎に向けた。

 誠一郎はあっ! と目を見張り、弁解をする。

「えっ! 違っ! やましいことなんてしてないっ!」

 誠一郎は両手を身振り手振り、アワアワと振った。

「帰りますっ!」

 ミナ子はベッド脇のテーブルから麦わら帽子を素早く取ると、病室を後にしようとする。

 誠一郎は慌てて立ち上がり、ミナ子を追った。

「ああ! 場鳥! 分かったから! せてめ背中! 背中から聞かせてくれないかっ?」

 ミナ子が急に立ち止まり、振り返った。

「服の上から、でしたら……」

 誠一郎はミナ子の言葉に大げさにうなずいた。

 二人はベッドに座ると、ミナ子は誠一郎に背中を向け、誠一郎はミナ子の背中に聴診器のチェストピースを恐る恐る押し当てた。

「呼吸してて良いから」

「はい……」

 誠一郎は耳を澄ました。

 ドクン……ドクン……。

……聞こえた……。

 誠一郎は安心した様子で聴診器を離した。

「もう良いですか……?」

 ミナ子が静かに尋ねると、誠一郎はポンポンとミナ子の頭を撫でた。

「うん、問題ない」

 ミナ子が振り返り、恥ずかしそうに頬を染めた。

 誠一郎はふぅ、と安堵のため息をもらした。

……さっきのは、俺の耳がイカれてたのか?ま、良い。場鳥の心音は聞けたし。

「先生……?」

「ん?」

 ミナ子の突拍子のない投げかけに誠一郎は振り向いた。

「お願いですから、わたしが“眠っている時”に絶対に心音はかないで下さい」

 ミナ子は真っ直ぐ誠一郎を見上げて言った。

 ミナ子の曇りのない赤色の瞳の眼差しに誠一郎は息を飲んだ。

……場鳥、君は一体――。

「あと、午後の診察は……?」

 誠一郎の意中を制するかのようにミナ子が言った。

「ああ……。親父にお願いしたよ?」

 誠一郎は落ち着いた様子で返すと、ミナ子は心配した様子で誠一郎を見上げた。

「良いんですか? また……」

「うん。場鳥のことが心配だったから……」

 誠一郎が小恥ずかしそうに微笑むと、ミナ子が呆然とした表情を浮かべた。

 ミナ子は次第に目を潤ませると、ポロポロと涙が溢れ出てきた。

「あぁっ……場鳥、ほら!」

 誠一郎は慌てた様子でハンカチを差し出した。

 ミナ子はありがとうございます、と言いながらハンカチを受け取り、涙を拭った。

「うぇ……ひっく……すみません……」

「あぁ……場鳥、心配されて泣かなくても……怒ってないから」

 誠一郎がミナ子の背中を擦ると、ミナ子は首を横に振った。誠一郎は首をかしげる。

「違います……。父以外に、心配されたの久しぶりで……。すみません。こんなことで泣いてしまい……」

 誠一郎はふぅ、と息をつくとミナ子を抱き寄せた。

 ミナ子は目を丸くし、訳も分からず誠一郎の腕の中に収まった。

「……先生……?」

 恐る恐るミナ子は誠一郎に呼びかける。

「……大丈夫。私は君のことをいつも心配しているよ……」

 耳元で囁く誠一郎の言葉に、ミナ子は温かさを感じた。

……温かい。

「なあ、場鳥……」

 誠一郎が静かに問いかけてきた。

「はい」

 ミナ子も静かに返す。

「君の……お父さんの名前、教えてくれないか……?」

 ミナ子の思考が一瞬止まった。

……お父さんの名前はっ……。

 ミナ子は誠一郎から少々強引に離れた。

「父の名前を聞いてどうするんですか……?」

 ミナ子の表情はどこか固い。誠一郎はまばたきをした。

……聞いちゃ不味かったか……?

 でも誠一郎は何故かどうしても気になってしまっていた。

 誠一郎の脳裏に焼きついてる、横網町公園で見た東京大空襲の犠牲者名簿の『場鳥ミナ子』と『場鳥誠一郎』の名前が。

「もしかして……私と同じ名前か?」

 誠一郎の言葉にミナ子は目を見張ると、麦わら帽子をギュッと被り、足早に病室を去っていった。

「待ってくれ!」

 誠一郎も病室を出てミナ子を追った。

 入院患者のいない病棟に二人の足音だけが響き渡った。

「おい! 場鳥!」

 ミナ子を追って誠一郎が階段の前に着くと、ミナ子の姿はなかった。ただ、階段の踊り場の窓が大きく開いており、風に流された桜の花びらが踊り場の床に舞い落ちていた。

「……場鳥……?」

 誠一郎は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 三階の病棟内や二階の医局、医事課の部屋、一階の外来をくまなく探したが、誠一郎はミナ子を見つけることが出来なかった。代わりにロビーで木幡と出くわした。もう午後の三時だった。


 夕方、誠一郎が帰って来た。

「ただいま……」

「お帰りな――」

「お帰りなさーい!」

 柏木の言葉を遮るように木幡が弾んだ声で言うと、柏木の前に横から入り込むと誠一郎からカバンを奪うように取ると、ささっと階段を上がっていってしまった。

 誠一郎と柏木は首をかしげた。

「どうしたんだ?」

「どうでしょうね……」

 柏木ははぁ、と息をついた。

「あ、場鳥は……戻ってるよな……?」

 誠一郎の問いに柏木はまばたきをした。

「え? はい。今ダイニングルームの準備をしてますが……?」

「そうか……」

 誠一郎はふぅ、と胸を撫で下ろした。

「柏木さん……」

 誠一郎はボーッとした様子で柏木に尋ねた。

「はい?」

「身寄りのない子の養子って……そうすれば良いのかな……?」

 誠一郎の呟きにも似た質問に柏木は目を見開いたかと思うと、グスッと鼻をすすり、目元を指で拭った。

 誠一郎は慌てた素振りでハンカチを探したが、見当たらない。

……あ、場鳥に貸したまま。

「か、柏木さん?」

 誠一郎はポケットティッシュを探し当て、柏木に差し出した。

「すみません……。何だか、嬉しくて」

 柏木はポケットティッシュを受け取ると、鼻の下をティッシュで押さえた。

「旦那さまもとうとう親の気持ちが湧いてきたんですね……」

 柏木の嬉し泣きの言葉に誠一郎は微笑んだ。

「うん」


 木幡は誠一郎からカバンを奪い取るように持っていくと、そろそろと書斎へ向かった。

「錦野先生の仕事の邪魔をしてほしい、だぁ?」

 木幡はショッピングモールで出会った伊藤という女の依頼を小馬鹿にしたように言った。

「あーあ、面倒くさ」

 そう愚痴りながら誠一郎のカバンの中を漁った。

 誠一郎のカバンの中には食べ終わったあとの弁当箱や病院での名札、書類の束が綺麗に入っていた。

 木幡は書類を引っ張り出すと床に広げ、パッと目を通した。

「狭い……心症? 何て読むの?」

 木幡はため息をつき、書類をポイと放り投げた。

 書類はグシャッと絨毯の上に不時着した。

 木幡は構わず書類を眺めたり、更にカバンの中を漁った。が、木幡にはには到底理解の出来ない書類の内容だった。

「んもっ! 全然分かんないっ!」

 と言いつつ木幡は、書類の束から適当に紙を数枚抜き取りエプロンのポケットに忍び込ませると、カバンから出したものを適当に戻したのであった。


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