六
四月とは新年度の始まり。警察学校を卒業した新米警察官たちはそれぞれ所轄の警察署や交番へ。警察署からは、推薦され引き抜かれた刑事たちが警察本部に配属されていく。
そして小林率いる神奈川県警捜査一課四係にも新しく“職員”がやって来た。
朝八時。捜査会議が始まる一時間前の都筑警察署の捜査会議室に起床してきた捜査員たちが各々朝支度を終え、ちらほらと来始めた。
小林は新しく配属されてくる“職員”のために捜査資料を用意していた。その表情はどこか嬉しそうだ。
……新人の名前が知っている奴と同じ名前だが、まさかな?
その時、捜査会議室の観音開きのドアが開いた。
その場にいた捜査員たちが一斉に出入り口を見た。
「失礼しますっ! 本日より、厚生労働省から出向しました! 元警視庁捜査一課刑事の八坂守と申します! よろしくお願いしますっ!」
元気良く敬礼をし、挨拶してきた今時風の、小林より背の高くスラッとした青年八坂を、小林は目を丸くして凝視した。
八坂の首には何か機械のようなチョーカーみたいな物が巻きついている。
……何で東京都民が、神奈川県警にっ?
小林は少し戸惑いを見せながら八坂に歩み寄った。
「朝から元気だな。八坂、お前……東京の人間なんだから、警視庁行けよなぁ?」
小林は八坂をからかうように言った。
「えぇっ! 小林先輩ヒドいじゃないですかっ! 僕はちゃんと厚労省から正式にここに出向したんですよ?」
八坂は微苦笑を浮かべながら言った。しかし、とても浮き浮きしてるようだ。
「二年ぶりだな……」
気を取り直して小林が呟いた。八坂は大きくうなずく。
「はい。あの時の合同捜査は今でも忘れられません。先輩とバディを組めて本当に良かったですっ!」
八坂は白い歯を見せ笑った。何故か八坂の犬歯は異様に長く、瞳が赤かった。
……八坂って、そんなんだったか……?
小林は内心不審に思いつつ、そんな八坂の肩をドンと押した。
「止めろって、恥ずいなぁ。……それより、ホシ追っかけてて刺されたって聞いてたけど……元気そうじゃないか! それに厚労省から出向いたって? もう警視庁じゃないのか?」
小林の質問に八坂は後ろめたそうにうつむいた。
「えっと……その……。すみません。詳しくは言えなくて……。まあ、この通りピンピンしてますよっ!」
八坂は自身の胸をドンと叩いた。
「ま、厚労省だろうがそんなのもうどうでも良い。お前は今日から神奈川県警捜査一課の一員だ」
小林はニッと歯を見せて笑った。八坂は目を潤ませ小林にガバッと抱きついた。
「せんぱぁぁああいっ! 一生付いて行きますっ!」
「うわっ! 気持ちわりぃっ! 他の奴らが見てるぞっ! てか苦しいっ!」
小林は八坂の背中をバシバシ叩いた。
少しして。
小林は一呼吸置くと、早速今担当している事件の概要を八坂に説明した。
「ことの発端は、今年の一月に横浜市内で変死体が発見された。変死体は全身の血を抜かれて、尚且つ、記者たちには言ってないが、変死体は老化現象を起こしていたんだ。一月中で変死体は五件も発生し、司法解剖で殺人と断定され、俺らは連続殺人事件として捜査をしている。そして二月に入って、新たな殺人事件がおきた」
小林は捜査資料をめくった。八坂も続いて資料をめくる。
「最初は鶴見川河川敷の焼死体で、住まいは川崎区の無職、飯塚直也十九歳。二件目が緑区の刺殺体、住まいは緑区高校生、安田智樹十七歳、通称“吸血鬼さん”」
「吸血鬼さん?」
八坂が目を点にして小林を見つめた。
「解剖した時にちょっとな」
小林は資料に目を戻し、続けた。
「この二人はともに所持品は一切なし。この二つの刺殺事件は当初別物の事件と考えていたが、飯塚さんも安田さんも各区の警察署に失踪届けが出されている失踪者だった。それに殺され方も、二人とも同じく胸を一突きで、死ぬ間際に犯人に犬歯を抜かれた形跡があることから、これも連続殺人事件と見ている。理由は分からないが、飯塚さんは尚且つ心臓を切り取られ、焼かれているがな……」
小林は一息つくと、資料の次のページにまわった。
「そして二月二十六日の午前二時半頃に一本の通報があった」
八坂は捜査資料に釘付けとなっていた。
「……“通報者は名乗らず、ただ住所を言うと電話を切った”……。絶対怪しいです、この通報者。それに安田さんの時の通報者の声と声紋が一致したって、絶対怪しいです」
八坂は確信したと言わんばかりに小林を見た。
「電話を受けた署員によると、子供のような声だったらしい。まあ、俺も録音を聞いたが、子供の声にしか聞こえなかった……」
小林は録音を聞いた時のことを思いだし、一瞬身震いをした。
「こちらは警察です。事件ですか? 事故ですか?」
『あのね……人が二人死んでるの。だから早く来て?』
「あなたのお名前は?」
『場所は港北区菊名×××××……』
「港北区菊名×××××……ですね? あなたのお名前は?」
『……』
ここで通報者は電話を切った。
……てか子供が真夜中に公衆電話から通報するか? 普通っ!
「まあ、それで菊名駅前交番の警官がその住所に急行したら変死体、住まいが港北区の金子ひろ子三十一歳と、刺殺体、安田さん同様胸を一突きされ犬歯を抜かれてた、住まいが旭区の高校生、橋本奈々十六歳を一緒に発見したってことだ」
「金子さんと橋本さんはどうしてこんな夜中に……」
八坂は捜査資料に添付されてる写真を眺めた。
添付写真には、ランニングウェアを着ている金子の変死体が写っていた。
……金子さんは夜のランニング中だったのか。
対して橋本は学校のジャージ姿だ。
……夜の散歩?
「金子さんにはスマホとか家の鍵とか所持品はあったが、橋本さんは刺殺事件被害者同様所持品なし。因みに橋本さんは親によって一月末に失踪届けが出されていた」
小林が資料をめくりながら言った。
「二つの連続殺人事件が重なりましたね……」
八坂が呟いた。
「ああ。それだけじゃないぞ? 金子さんの首筋の傷から橋本さんのDNAが検出されたんだ。まあ、安田さんの司法解剖の時点でもう変死体事件と刺殺事件は繋がってると睨んでたんだが。刺殺体の胃の内容物が、変死体事件の被害者のDNAとも一致したからな」
小林の言葉に八坂は目を見張った。
「胃の内容物って……もしかして、血液……ですか……?」
八坂は恐る恐る尋ねると、小林は感心した様子でうなずいた。
「ああ。よく分かったな」
「いいえ。さっき吸血鬼さんと……」
八坂は照れ臭そうに頭を掻いた。
「司法解剖の結果、橋本さんの胃の内容物が金子さんの血液だと判明し、二つの連続殺人事件は完全に繋がった事件として県警は捜査方針を固めた。そして、今に至るってわけだ。三月は特に何も起きなかったから、事件はあと犯人を捕まえるだけだと思いたいんだが……。実際のところ証拠も全くもってない。頼りの綱は……通報者だろうか……?」
小林は深いため息をつくと、捜査資料を閉じた。
「先輩、絶対犯人を捕まえましょうっ!」
八坂の激励に小林は目をぱちくりすると、ふっ、と笑った。
「そうだな。これから捜査会議だ。寝るなよ?」
「寝ませんって!」
八坂は苦笑いを浮かべたのであった。
誠一郎は錦野監察医総合病院のとある一室を借りて、今面談をしていた。
「お名前を教えて下さい」
誠一郎が尋ねると、向かいのソファーに座る黒に近い茶髪で清潔感のあるお淑やかな若い女性が答えた。
「小幡美樹です。よろしくお願いします」
木幡は優雅に会釈をした。
「すまないね。こんなところで面談なんかして」
誠一郎は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいえ、そんなことありませんよ? 錦野さんはお医者様なんですね。因みに……ご結婚は……?」
木幡の妙な質問に誠一郎は首をかしげつつ、独身です、と答えた。
「あ、木幡さんは……子供は好きですか?」
今度は誠一郎からの突然の質問に木幡は目を丸くした。
「子供? 好きですが……お子様いらっしゃるんですか……?」
木幡が恐る恐る聞いてきた。誠一郎はあぁ、と首を横に振った。
「今預かってる子がいてね。私の子ではないよ」
誠一郎の返答に木幡はふぅ、と胸を撫で下ろした。
「そうでしたか」
「じゃあ、明日九時からよろしく。詳しい業務については明日、柏木さんから聞いて」
「はーい! こちらこそよろしくお願いしまーす!」
木幡は急に気が抜けたように間の抜けた口調で言った。誠一郎はん? と首をかしげた。
翌日、朝。今日は、誠一郎は休診日なのだが、いつも通り起きてきたのでミナ子は内心驚いていた。
……今日何かおこるのか?
そう思いつつ、ミナ子は柏木とともに、誠一郎が待っているダイニングルームへ朝ご飯を運びにいった。
ダイニングルームに着くと、誠一郎は時計をちらちらとせわしなく眺めた。
「旦那さま、木幡さんは九時ですよね?」
柏木がコーヒーカップを誠一郎の前に置きつつ尋ねる。
「ああ、そうなんだ。だから木幡さんが来たらよろしく」
「かしこまりました」
誠一郎と柏木の会話を小耳に挟んだミナ子はさらりと聞き流すのであった。
九時を回った。それでも木幡はやって来ず。柏木は玄関前を行ったり来たり。誠一郎は玄関横の応接間でソファーに座り込み、ひたすら待った。
ミナ子が紅茶を応接間に運びにいったところでピンポン、とインターホンが鳴った。とたんに誠一郎がビシッと姿勢を正した。
「失礼します。紅茶です」
ミナ子はカップを誠一郎の前のテーブルに置いた。
「あぁ……」
誠一郎はというと、上の空の返事で、入り口をじーっと見ている。
柏木が玄関のドアを開けると、金髪の長い髪をカールにした、ニーハイブーツにミニスカート、上着に毛皮のようなコートを羽織った、爪が長くてカラフルな格好の若い女性が立っていた。
「おっ邪魔しまーす!」
奇抜な女性がニコッと微笑んだ。
柏木は目を見張った。
……え? 誰?
「えっと……」
柏木は少々困惑気味に声をもらした。
「あれ? 錦野さんから聞いてなかった? あたし、今日からお世話になる木幡美樹でーす!」
木幡は柏木の脇を、我が物顔で突き進み、客人用のスリッパを勝手に履くと錦野邸に入ってきた。
「ちょっとっ……!」
「わー! すごーい豪邸じゃん!」
柏木の制止も空しく、木幡は玄関フロアを舐め回すように眺めた。
柏木はげっそりした表情で振り返り、ミナ子は応接間の入り口から木幡のことを、厄介そうな奴が来たと言わんばかりにじーっと見つめた。
「えっと、木幡さん? 旦那さまがお待ちです。こちらへ……」
柏木は戸惑いつつ応接間の入り口を指し示した。
「はーい!」
木幡は会釈すらせず応接間に入ってきた。
「あら、あなたが居候さんね?」
入り口のところにいたミナ子に気づき、木幡はミナ子の髪をワシャワシャと撫でた。
ミナ子はキッと木幡を睨み上げ、ぐしゃぐしゃになった髪を縛り直した。
ソファーに座る誠一郎に気づいた木幡はとたんに猫を被ったように姿勢を正し、誠一郎の向かいに座った。
「すみません、遅れてしまって……」
「い、いや……」
誠一郎は木幡の外見の豹変ぶりに当惑しつつ、返した。
「さあ木幡さん、二階から始めるわよ!」
二階の廊下にて、柏木とミナ子と、自前で持ってきた、メイド喫茶でよく見るミニスカートのメイド服を着た木幡がいる。
柏木が木幡に掃除機を差し出した。
「先ずは二階の絨毯の掃除機がけ、お願いします」
「はーい」
木幡は薄っぺらい返事で掃除機を受け取った。木幡の浮かれ気味に柏木は、大丈夫だろうか? と内心ヒヤヒヤした。
「ミナ子ちゃんは旦那さまの書斎の片付けね」
「はい」
ミナ子が書斎に向かおうとすると、突然木幡がえぇっ! と声をもらした。ミナ子はぎょっとし、振り返った。
「場鳥ちゃんが書斎? あたしも書斎が良い!」
……はい?
ミナ子は、コイツ何言ってんだ? というように首をかしげた。
「だってご主人様の部屋でしょ? あたしがいやりたい!」
「ちょっと、木幡さん!」
柏木の癪に障ったらしく、木幡に一喝入れようとすると、ミナ子が分かりました、と呟いた。
目を点にする柏木と、嬉しそうにやったね! と声を上げる木幡を、ミナ子は交互に見た。
柏木はミナ子にそろそろと歩み寄った。
「ミナ子ちゃん……何か心配だわ」
柏木がミナ子の耳元で囁いた。
「それで彼女が満足するのであれば、良いじゃないんでしょうか? 彼女には“現実”を見せてあげましょう……」
ミナ子は我関せずといった具合に言いつつ、続ける。
「ですが、先生の大切な物もあるので、それについては注視しておきます」
柏木は驚嘆の眼差しでミナ子を見つめた。
……ミナ子ちゃん、大人ねぇ。確かに、あの部屋を見たら木幡さんも……。
ミナ子は木幡を伴い、書斎へ向かった。
ミナ子が書斎のドアを開けると、木幡の顔が一瞬ひきつった。
……そうなると思ってたよ。
ミナ子は心の中でフッ、と一笑した。
「木幡さん、では絨毯の掃除――」
ミナ子が言いかけたところで、木幡がはあ? と声をもらした。どうやら誠一郎の書斎がこんなに散らかっているとは思っていなかったのだろう。
「ガキが何偉そうな口叩いてんのぉ?」
木幡の変貌ぶりにミナ子は眉をひそめた。
「ねぇ、そのペンダントどうしたの? 盗んだの?」
木幡がせせ笑う。
ミナ子は木幡を睨み上げた。
「違います。あなたには関係ありません」
怒りを含んだ口調でミナ子は返した。すると木幡の表情が歪んだ。
「偉そうに!」
ミナ子の胸元に素早く手を伸ばすと、ペンダントを強引に引き千切り、ミナ子を押し倒した。
あまりの出来事にミナ子は動転し、その場に尻餅をついた。
「アクアマリンかしら? いくらで売れるかなぁ?」
木幡はペンダントを舐め回すように眺めた。
「……か……せ……」
ミナ子が力のこもった声で呟いた。
「は? 何言ってんのか聞こえなーい」
木幡はミナ子を小馬鹿にしたように言い、わざとらしく耳に手を当てた。ミナ子には我慢の限界だった。
わなわなと体を震わせ、ミナ子は立ち上がった。
「返せって言ってるんだよっ!」
声を張り上げて怒鳴ったかと思うと、ミナ子は木幡の右腕に掴み掛かり、手の甲を引っ掻いた。
「キャー! 痛いっ! 何すんのよっ?」
木幡がつんざくような声で叫んだ。
「どうしたのっ?」
「どうしたっ?」
木幡の悲鳴を聞き、柏木と誠一郎が急いでやって来た。
誠一郎と柏木は木幡の腕を見て驚愕した。
木幡の手の甲には鋭い爪で引っ掻かれたあとがあり、血がたらたらと流れ出ていたのだ。
「場鳥ちゃんが突然っ! あたしのこと、いきなり引っ掻くだなんて酷いっ!」
当のミナ子は誠一郎と柏木を動揺した様子で見つめた。
「ダメじゃないか場鳥!」
誠一郎は木幡に歩み寄り、手の傷の具合を診た。
「手当てをしよう。場鳥、出なさい」
誠一郎は険しい口調で言うと廊下を指差した。ミナ子はただ呆然と立ち尽くすことしか出来ず、柏木に引かれる形で書斎を出た。
誠一郎はミナ子を一瞥し、勢いよくドアを閉めた。
「ミナ子ちゃん、行きましょう……」
柏木に手を引かれ、ミナ子はただ無言で歩いた。その表情は虚脱した様子だった。
「うちの場鳥がすまない……。あ、座って」
誠一郎はソファーの上で散乱している本や参考書を床に置きながら木幡を手招きした。
木幡は顔をひきつらせつつ、ソファーに座った。
「もう、びっくりしましたぁ……。いきなり引っ掻いてくるんだもの……」
木幡は酷く落ち込んだ様子だ。
誠一郎は机の引き出しを漁り、ガーゼと消毒液を取り出した。
「散らかっててすまないな……。さあ、手当てをしよう。じっとして」
誠一郎は木幡の隣に座った。木幡が右手を差し出した。
「少ししみると思うが、我慢してくれ」
「はーい」
誠一郎はガーゼに消毒液を染み込ませると、木幡の手の甲の傷を優しく拭いていった。
木幡の腕が一瞬ブルッと震えた。誠一郎はとっさに拭く手を引っ込めた。
「ああ! すまない。痛かったか?」
「いえ……その……」
木幡は頬を赤く染め、うつむいた。明らかに恥じらってる様子だ。
「くすぐったくて……」
「あっ……あとは、乾かせば大丈夫だ」
「ありがとうございます。ご主人様!」
木幡は左手で手の甲を撫でつつ言った。その左手から銀色の鎖がちらりと見えた。
「木幡さん……そのネックレスって……?」
誠一郎が木幡の左手を指差した。木幡はあぁ、と呟き、ポケットに入れた。
「鎖が切れちゃったんですよぉ。お店に行かないとなぁ……」
木幡ははぁ、とため息をついた。
「……良かったら……見せてくれないか?」
「へ?」
誠一郎の言葉に木幡は目を点にした。
「古くて、デザインもダッサいですよ?」
「見せて?」
誠一郎は笑みを浮かべ、手を差し出した。木幡は渋々ポケットから取り出し、誠一郎の手に乗せた。
誠一郎は手に乗せられた物を見るや否や、複雑な心境に陥った。
……場鳥の……ペンダントじゃないか……。
「ね? レトロでしょう?」
木幡はクスクスと笑った。
「そう……だね……」
誠一郎は苦笑しか出来なかった。
「時間はかかるかも知れないけど、知り合いに頼んで直してもらうから……」
「本当ですかっ? ありがとー! ご主人様!」
木幡の陽気な様子に誠一郎は内心疑念を抱いた。
ミナ子の部屋のベッドにミナ子と柏木が腰かけていた。
「いつも大人しいミナ子ちゃんなのに……どうしたの……?」
柏木が穏やかな声で問うと、ミナ子は肩を落とし、首を横に振った。
「もう、良い……です」
そう呟きつつ、ミナ子は柏木の胸に抱きついて、グズった。
「うえぇ……先生は人を見る目がないよ……」
ミナ子の嗚咽に柏木は眉尻を下げることしか出来なかった。
……旦那さまは何でもかんでも受け入れちゃうから……。
柏木はミナ子の頭を優しく撫でた。
「でもね、ミナ子ちゃん? 旦那さまはミナ子ちゃんを見る目はあったみたいね!」
ミナ子は呆然と柏木を見上げた。柏木は破顔した。
……先生は、見る目ないよ……こんなわたしまで受け入れるんだから……。
ミナ子は小さくため息をついた。
昼。
「じゃあ、明日から本格的に、よろしく」
錦野邸での家事業務の説明が終わり、木幡が帰宅準備をする。
誠一郎と柏木が見送りにやって来た。
「あれ? 柏木さんは帰らないの?」
木幡が興味津々に聞いてきた。
「わたくしは住み込みですので」
柏木は冷然とした態度で返すと、そうなんだぁ、と木幡が呟いた。
木幡が帰宅し、ようやく錦野邸は平穏を取り戻した。
玄関のドアが閉まったのを確認した柏木は、戻ろうとする誠一郎の前に立ち塞がった。
誠一郎を見上げる柏木は剣幕した表情だ。怖気が誠一郎を襲った。
誠一郎はごくりと固唾を呑む。
柏木は深呼吸をすると仁王立ちした。
「旦那さまは! 本当に見る目がありませんねっ! 今度から、家政婦を雇う時はわたくしにも履歴書を見せてくださいませんかっ!」
柏木は詰問と中傷を続けざまに言う。
「あなたはお人好し過ぎるんです! ミナ子ちゃんに謝ってらっしゃいっ!」
流石の柏木。子供の頃から世話になってる誠一郎は頭が上がらず、ただただしゅんと肩を落とすことしか出来なかった。
「す、すみませんでした……」
誠一郎は目を泳がせながら謝ると、足早に二階へ上がっていった。
書斎に入った誠一郎は机の引き出しから工具箱を取り出し、木幡から取り返したペンダントを机の上に置いた。
夜、誠一郎は恐る恐る、ミナ子の部屋のドアをノックした。
「場鳥、私だ。今良いだろうか?」
返事はなかった。
以前夜中にミナ子がいなくなったのを思い出し、誠一郎は胸騒ぎを覚えた。
「場鳥……? 入るぞ?」
そっとドアを開けると、前と同じように暗闇の中に赤く光る瞳が二つ浮かび上がっていた。
「場鳥……その……すまなかった……」
誠一郎が力なく言うと、赤く光る瞳がまばたきをした。流石の誠一郎も、もう驚かなかった。
「場鳥……電気、点けて良い――」
「嫌です」
ミナ子の返事は即答だった。
誠一郎は説得を試みた。
「だがこのままだと見えないと思うが……」
「わたしには関係ありません……。見えてますので」
……見えてるって、夜行性か……?
ミナ子の返答に消沈するも、誠一郎は気を取り直して続けた。
「んん……暗いと私が見えない。点けても良いだろうか……?」
返事はなく、バサバサッ! と音がしたと思うと、赤い二つの瞳が見えなくなった。
誠一郎はドア横のスイッチを手探りでパチンと押した。とたんに電気がパッと点き、室内を照らした。
ベッドを見ると、かけ布団が盛り上がっていた。
誠一郎は微苦笑を浮かべ、ベッドに歩み寄った。
「場鳥……?」
誠一郎はベッドの足元に座り込んだ。
「……君は拗ねるほど、お子様なのかな?」
誠一郎が挑発するように言うと、かけ布団がもぞもぞ動き、ミナ子がそろりと頭を出した。
「……子供じゃないです。憤慨ですね」
ミナ子が鋭い目付きで誠一郎を見上げた。
「憤慨だなんて……難しい言葉、よく知ってるんだな……」
誠一郎は苦笑しつつ、ミナ子の痛い視線に後ろめたさを感じた。
「場鳥……その、すまなかった。私は人を見る目がないというか……誰でも受け入れてしまうところがあってだな……その……」
誠一郎はうまく説明出来ず、もどかしさから頭を抱えた。そんな誠一郎にミナ子ははぁ、と短いため息をつき、誠一郎の隣に正座した。
「要するに……」
ミナ子が静かに言うと、誠一郎を見上げた。誠一郎はミナ子から発せられるだろう非難の言葉に眉をひそめ、身構えた。
「器が大きい、といったところでしょうか」
「え……?」
ミナ子の予想外の言葉に誠一郎は呆気にとられた。
「先生はどんな人でも無条件で平等に接してると思います。まあ、お人好し、とも言えますが……」
「結局はお人好し、か……」
誠一郎はあはは……と自嘲した。
「イヤ、実はさ……子供の頃に助けられてさ……」
「助けられた……?」
ミナ子が尋ねると、誠一郎は天井を見上げては追憶に浸った。
「確か……私が小学校の時の夏休みだろうか? 何で行ったのか覚えていないんだが、親父に初めて横浜中華街に連れてってもらったんだけど……私はどうも迷子癖があってなぁ……迷子になってしまったんだ」
誠一郎は恥ずかしそうに微苦笑を浮かべた。
「そーですか」
ミナ子は興味なさげに返す。誠一郎は続けた。
「それで、路地の隅で泣いてたら声をかけられたんだ」
「そーですか……」
「同じくらいの年か、一つ上か……そうだな……今の場鳥と同じくらいの少し大人びいた女の子に声をかけられたんだよ。『おい、小僧。迷子か?』って」
すると今まで無関心そうにしてたミナ子が佇まいを直した。
「髪が長くてボサボサで、みすぼらしい格好をしていた女の子だった。最初は、何だ? この小汚ない女子は? って思っていたけど、その女の子が私の手を引いてくれて、一緒に親父を探すのを手伝ってくれたんだ。不思議だったよ……。その女の子、私の親父の場所を知っているかのようにすらすらと歩いていって、あっという間に親父の元に連れてってくれたんだ。ホント、不思議な子だったな……」
誠一郎は穏やかに深呼吸をした。
「先生は……その女の子を覚えていますか……?」
ミナ子の突然の質問に誠一郎はうむ、と考え首を横に振った。
「初めて会った時の場鳥みたく、髪が長くてみすぼらしい格好でぼろ切れを頭に被せてた以外は……。イヤ……目が――」
言いかけたところで、誠一郎は口をつぐんだ。
「……何でもない。だが、そんなことがあったから外見で人を判断したくないと思うようになったんだ」
誠一郎はニコッとミナ子に微笑んだ。
「そうでしたか……」
「あ、そうだ」
誠一郎は何かを思い出したようで、ポケットに手を入れ、何かを取り出した。
「場鳥、どうぞ」
誠一郎が差し出したのはミナ子のペンダントだった。ミナ子は目を見開き、誠一郎を見上げた。
「場鳥、すまなかった。君一人だけを責めてしまった。場鳥にとって大切な物なのに……」
誠一郎は深く頭を下げた。
「あ……ありがとう……ございます……」
ミナ子はペンダントを胸に抱え、深く息をついた。
「あと三ヶ月待ってくれないか? それで決めるから……」
誠一郎が懇願するように言った。
「試用期間ですか……?」
ミナ子が尋ねると、誠一郎は驚いたよう目を丸くした。
「よく知ってるな……。本当に十一才か?」
「……子供じゃないです……」
ミナ子はふん! とそっぽを向いた。
七十五年前。
ミナ子は、父を横網町公園に埋葬してもらえるよう、父の亡骸を絶望と悲しみにさいなまれながら荷台に乗せ、横網町公園へ運んだ。そして、一人で生きていくために焼け野原や瓦礫と化した家々から金になるものを集めては生計を立てていた。その時に黒く煤けてしまった白鞘の短刀を見つけた。
金品を持って東京を離れると、ミナ子は神奈川県に入った。
新しい衣服を調達し、空腹を満たすため総菜屋やパン屋で食料を買う。しかしミナ子は何故か食べ物を飲み込めず、吐き出してしまった。どれを食べても同じでお腹が満たされない。
きっとこれは火事場泥をした罰だ。
当時のミナ子はそう思っていた。
何も喉を通らず、空腹でふらふらと横浜の町に身をひそめていると、上空から身の毛のよだつ音が響き渡った。爆撃機“ばくげっき”だった。
その時は日中で、町行く人たちはすぐさま自宅や近くの防空壕に隠れた。ミナ子も近場の公園の防空壕に入れてもらい、少しした後にドオォォオオンッ! と地面に響き渡るような轟音がした。空襲が始まったのだ。
防空壕に身を潜める人たちは泣き叫び、お経を唱える者もいた。
……早くっ、早く終わってっ!
祈るように怯え、震え、空襲が終わるのを待った。
爆撃機の音が遠ざかり、ミナ子が防空壕を出ると、横浜の町は東京のように火の海で、破壊された建物の瓦礫でいっぱいだった。
……もう空襲には遭いたくないっ!
ミナ子は必死に横浜の町を駆け、被害のないところを目指した。
しばらくして戦争が終結し、町は少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
もうお金がないミナ子は生きていくために夜な夜な飲食店などの残った残飯を漁っては店の従業員に怒られ、怒鳴られ、殴られ、蹴られ、挙げ句の果てに通報され、警察に連行されては逃走を繰り返していた。
たとえ喉を通らないものだとしても、いつか食べられるものがあると信じて残飯を漁った。
その頃には町も大分元通りの姿に戻りつつあった。
その頃にようやくミナ子は、自身が食せる食べ物、飲み物を見つけた。それが牛乳、チョコレート、トマトジュースだった。
ミナ子はくすねる物をこの三つに絞り、横浜の夜の町を徘徊した。
今から三十五年前。
その頃にはもう、自分は人間以外の何かになってしまっていることをミナ子は悟っていた。
東京大空襲から三十年あまりが経ったというのに何故自分は子供の姿のままなのだろうか。ミナ子はもう五十代を迎えてるというのに。
中華街の住人の話から、中国には僵尸という、死体が黄泉返った妖怪がいると聞いて、ミナ子は絶句した。
まさか自分も……?
キョンシーとは、死後、死体が腐敗することなく、何らかの原因で動きだし、人間の血を吸ったり、人食をする妖怪だ。
ミナ子は、そのキョンシーから伝って欧州の方で伝承されいる吸血鬼という存在も知った。
その年のとある夏の日。
学校が夏休みに入ったのだろうか、子連れの観光客たちで横浜中華街の路地は賑わっていた。
ミナ子は中華街の薄暗い店の裏路地で蒸し暑さに耐えながら身をひそめていると、近くで泣きわめく少年の声がした。
人々で賑わう異国情緒溢れる路地の隅でわんわんと少年がうずくまって泣いてるのが見えた。
ところ狭しと立ち並ぶ雑貨屋や食事処を行ったり来たりする人たちが好奇の目で少年を見ては立ち去っていく。
出来れば人間に近寄りたくない。襲ってしまうかもしれない。その心配からミナ子もその場を立ち去ろうとした時だった。
「お父さんっ! どこっ? うえぇぇえんっ!」
少年がどうしても、父を探して泣き叫ぶ自分に見えてしまったのだ。
ミナ子は意を決して、足元に落ちてたボロボロの布巾を広げ、頭に被せた。日除けだ。そして恐る恐る少年に歩み寄り、一言。
「おい、小僧。迷子か?」
そう声をかけると少年がゆっくりと顔を上げ、ミナ子を凝視した。その後、ゆっくりとこくんとうなずく。
ミナ子は深呼吸をすると手を伸ばし、少年の手を掴むと立ち上がらせた。
少年の手はミナ子にとってじんわりと熱く感じた。
ミナ子は無言で少年の手を引き、“におい”をもとに少年の父を探した。
端からしたらみすぼらしい格好の女の子としっかり着飾った男の子、相反する子供二人が一緒に歩いているという、不思議な光景に見えただろう。
未だにグズっている少年にミナ子は尋ねた。
「小僧、名前は……?」
「……誠一郎……」
少年は涙声で答えた。
「誠一郎……。わたしのお父さんとおんなじ名前だね……」
ミナ子が肩越しに言うと、誠一郎の表情がいくらか明るくなった。
「きみのお父さんも誠一郎なの……?」
「うん……」
「きみも迷子なの……?」
誠一郎の問いにミナ子ははいっ? と眉を吊り上げ、振り向いた。
「わたしは違うっ!」
「ご、ごめんなさい……」
誠一郎はしゅんと肩を落とし、落ち込んだ。
「良いよ、別に……」
ミナ子はため息混じりに言った。
路地で賑わう人たちをかき分けて歩いて進んでいると、男の声で、誠一郎! どこだっ? と言う声が聞こえた。
「お父さんっ!」
誠一郎はミナ子の手を離し、すかさず駆け出すと声の主の男に駆け寄った。
「誠一郎! どこ行ってたんだ? 心配したぞ!」
「ごめんなさいっ……」
誠一郎の父が誠一郎の小さな手をしっかりと掴んだ。その光景にミナ子は羨ましさを感じた。
「あの子が連れてきてくれた!」
誠一郎はミナ子を指差すと誠一郎の父がミナ子に会釈をした。
「ありがとう、お嬢ちゃん。誠一郎を連れてきてくれて」
「べ、つに……」
ミナ子は絞り出すように言うと、すかさず来た道を素早く駆けていった。
「待ってっ! 行かないでっ! お姉ちゃんっ……!」
誠一郎の引き留める声も虚しく、人々の賑わいに掻き消された。
ミナ子は日の当たらない裏路地に入るとしゃがみ込んだ。
「うぅ……ひっ……」
何故か涙が出てきた。
何故自分だけこんな思いをしなければいけないのだろうか。
独りは寂しい――。
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