ダイニングルームにて、誠一郎の意向で三人で朝食をとっていた。

 とくに会話というものもなく穏やかに過ぎるはずだったのだが、誠一郎が新聞を読み始めた瞬間、向かいに座るミナ子が目を見開いて、じっと新聞を凝視する。

 ミナ子の動揺した様子に誠一郎と柏木は新聞の一面に目を向けた。

 見出しには『河川敷の焼死体は殺人と断定。犬歯を抜かれており、検視の結果、心臓を一突きにされ、なおかつ心臓を抜き取られていた。神奈川県警は殺人として捜査する方針だ』と書かれていた。

「場鳥? この事件がどうかしたか?」

 誠一郎の問いにミナ子は肩をすくめ、首を横に振った。

「何でもないです……」


 昼。誠一郎は都筑警察署に昨日の司法解剖結果を持っていった後、錦野監察医総合病院に戻っていた。

 がらんとしている医局で昼食をとっていると、医局事務員の女性が恐る恐るやって来た。

「錦野先生……」

「ん?」

 誠一郎は口をモゴモゴさせながら事務員を見上げた。

「永見製薬会社の方がお見えなんですが、院長先生がまだ外来で……」

「ちょっと待ってて」

 誠一郎は昼ご飯を口に掻き込んだ。

 昼ご飯を食べ終え、歯磨きをすると誠一郎はすぐさま応接間へ向かった。

「すみません、お待たせしました」

「錦野先生!」

 永見製薬会社の男性社員がシュバッ! と立ち上がり、深々とお辞儀をした。三つ揃いのスーツが印象的だ。

「どうぞお座りください」

 誠一郎はソファーを指し示した。男性社員は誠一郎にペコペコしつつ座った。誠一郎も向かいに座った。

 男性社員が名刺を出してきた。誠一郎は両手で名刺を受け取る。男性社員は永見良雄という名前だ。

……この年で製薬会社の社長か……。社長直々に宣伝しに来るとは……。

 永見製薬会社は神奈川県に本社や製薬工場を構える大手製薬会社だ。錦野監察医総合病院も薬剤に関してはお世話になっている。

 誠一郎は名刺を眺めつつ、手前のテーブルに置いた。

「今日はどう言ったご用――」

 誠一郎が言いかけたところで、永見はカバンから資料を取り出した。

「先生! まだ実験段階なのですが、永見製薬は今、全ての内科的傷病に対して効果のある薬剤を作っております!」

 永見は興奮ぎみだった。誠一郎は内心はぁ? と首をかしげた。

……全ての内科的傷病に対して効果のある薬剤? あり得ない。何か? 高血圧にもコレステロールにも癌にも効くって言いたいのか?

 誠一郎は永見に胡散臭さを覚え、呆れた表情を浮かべた。

「まだ実験段階ですが、もうすぐでで試作品が出来そうなんです! もし出来た暁には、何卒よろしくお願いいたします!」

 永見はははっ! とお辞儀をした。誠一郎は困惑しつつうなずいた。

「そうですか……」

「あとは、厚労省の申請が通れば良いんですがね?……因みに先生は……吸血鬼の存在を信じますか?」

 突拍子のない永見の質問に誠一郎は目を丸くしてた。永見は何かを含んだ表情だ。

……吸血鬼? そう言えば……。

「どうでしょうね。ヨーロッパの方では二〇〇四年に遺族が墓を掘り返して遺体の――」

 誠一郎は今言った自身の言葉に引っ掛かかりを感じた。

……心臓を抜き取った……。焼死体の心臓、なかったな……。まさか、な。


 午後、外来の患者の人数もだいぶ減ってゆき、誠一郎は診察室でのんびりと参考書を読んでた。すると胸ポケットのスマートフォンがブーッ、ブーッ! と震えた。すかさず誠一郎は電話に出た。

「もしもし、錦野です」

『錦野、小林だ』

 電話の相手は小林だった。

「どうしたんだ?」

『お前、吸血鬼がどうたらって言ってただろ? あながち間違えてないかもしれない』

 小林の言葉に誠一郎ははあ? と顔をしかめた。

……永見さんと言い、小林まで……。

「根拠は?」

『殺害された“吸血鬼さん”の胃の内容物の血液、五件目の二十代女性の変死体のDNAと一致した』

「マジかよっ!」

 誠一郎は目を丸くして勢いよく立ち上がった。

『おまけにその変死体の傷の形状、“吸血鬼さん”の犬歯と一致した。あと最近ニュースにもなっていたが、若い連中の失踪続いてただろ? その“吸血鬼さん”だが、その失踪者の一人だった。あと聞いて驚くな? 焼死体の顔復元したらそいつも失踪した奴だった』

「そ、そうか……。これから大変だな……」

 誠一郎は心の中で、ご愁傷さまと言った。

……まさかこんなに一致するものがあるだなんて……“吸血鬼さん”は本当に……吸血鬼か?

『あーあ……連続変死体殺人事件と焼死体と“吸血鬼さん”殺人と失踪が繋がっちまったよ……。あ、じゃーなぁ……』

 小林は力ない声で言うと電話を切った。

「“吸血鬼さん”か……。久々にブラム・ストーカーが読みたいな……。レ・ファニュも良いな……」


 夜、ダイニングルームで誠一郎は夕刊の新聞を読んでいた。

 新聞の見出しには『別の連続殺人事件発生! 共通点は犬歯を抜かれるなど、心臓を鋭利な刃物で一突きによる殺害方法。前回の焼死体と今回の殺人は、横浜市で相次ぐ失踪者だったとのこと。そして連続変死体殺人事件と何らかの形で繋がっていると神奈川県警は発表した』

……小林も大変だな……。

 誠一郎は内心小林のことを心配した。

「先生、お待たせしました」

 ミナ子が晩ご飯を持ってやってきた。

「ああ、場鳥。ありがとう」

 誠一郎は新聞をテーブルの脇に置いた。ミナ子はちらりと新聞の見出しを盗み見た。


 深夜、誠一郎と柏木が寝静まったあと、ミナ子はベッドの下に手を入れ、漁り始めた。取り出したのは黒ずんだ白鞘の短刀だ。鞘から刀身を引き抜くと、刃には薄らと血液が付着していた。

 刀身を鞘に戻し、ミナ子は立ち上がった。

……『エセ』の臭いがプンプンしやがる。

 ミナ子は表情を歪め、部屋の窓を開け放つと、ふわりと飛び降り、闇夜に消えていった。


 翌日、朝。ダイニングルームにて誠一郎は、柏木が持ってきた朝食を食べていた。

「柏木さん、場鳥は?」

「まだ起きてないんです……」

 柏木はうつむき、短いため息をついた。

「……そうか……。そろそろ考えようか……」

 誠一郎の呟きに柏木は不安を覚えた。

……まさか旦那さま、ミナ子ちゃんを追い出すっ?

 一方、当のミナ子はベッドでぐっすりと深い“眠り”についていた。


 誠一郎が錦野監察医総合病院に着くや否や、胸ポケットのスマートフォンがブーッ、ブーッと震えた。

 車を駐車し電話に出ると、相手は小林だった。嫌な予感がした。

『錦野! 頼みがあるっ!』

 小林の声は焦ってるようだ。

「司法解剖だろう……? 変死体? それとも“吸血鬼さん”と同じ――」

『両方だっ!』

 小林の言葉に誠一郎は言葉を失った。

……両方……?

 誠一郎は病院裏口に向けて駆け出した。

 数分も経たない内に病院裏口に警察車両が入ってきた。誠一郎は困惑した表情を浮かべては裏口の前で待っていた。

……司法解剖を一気に二人とは……。前代未聞だ。

 誠一郎の前に警察車両が止まると、小林がすぐさま降りてきては誠一郎に駆け寄った。

「すまねぇ! 錦野。また変な通報があってな……。前回と言い今回も……」

 小林は声をひそめた。

「通報者の声が、何度聞いても子供の声っぽいんだよな……。おまけに公衆電話だし」

 小林は困り果てたようで、額に手を当てた。

「子供? それにしても……まさか“両方”だとは……」

 捜査員たちが、準備された二台のストレッチャーにそれぞれ遺体の入ったバッグを乗せた。

「小林、運ぶの手伝ってくれないか?」

「おうよ!」

誠一郎と小林はストレッチャーを押しつつ病院内へと入っていった。


 錦野監察医総合病院地下の解剖室前にて。

「お、おい! 錦野! 俺もかよっ!」

 小林は誠一郎と同様、青緑色の手術衣と頭にキャップをつけていた。

「当たり前だろうっ? 一人で“二人”も対応出来ないぞっ?」

 誠一郎は少々怒ったような表情を見せた。

「俺はっ、解剖室に運ぶ際にこれ着た方が良いと思って借りただけで! 解剖には立ち会わんぞっ!」

 小林は手術衣を急いで脱ごうとした。その腕を、誠一郎がガシッと掴み制する。

「小林……たまには俺の苦労も知ってくれよ……?」

 誠一郎は疲れきった笑みを浮かべ、小林を見つめた。そして、渾身の力を込めて小林を解剖室内へ引っ張っていった。

「止めてくれぇぇええ! 俺、内臓はちょっと!」

「水死体ぐらいは見たことあるだろうっ?」

「水死体と一緒にするなっ! うぎゃぁぁああ!」

 解剖室の前の、誰もいない薄暗い廊下に小林の悲鳴がこだました。

 誠一郎によって強引に解剖室に連れてこられた小林は、マスク越しにむすっとした表情を浮かべ、誠一郎の隣に立っていた。その手には人体図が描かれた用紙をつけたボードとシャープペンシルだ。

 誠一郎と小林の前と後ろに、それぞれ遺体が横たわる手術台がある。

 誠一郎はまず、変死体の方に取り掛かっていた。

「外見は、八十代の女性に見えるけど……」

「所持品の免許証では三十代女性だ」

 誠一郎の呟きに小林が静かに返した。

 誠一郎は変死体の周りをぐるっと一周した。

「目立った外傷は両方の二の腕、外側の内出血と右側首筋の傷穴二つだけ……」

 誠一郎はちらりと小林を見た。

「小林、俺が言ったことを記録してくれよ?」

「き、記録ぅ?」

 小林は慌てた様子で人体図前側の二の腕に斜線でうっ血部分と、首のところに点々と、傷があることを記入した。

「争ったような感じはないな……今回も一方的にやられたと言ったところか?」

 小林は変死体をちらちらと眺めながら呟いた。

「首筋の傷穴の距離が……」

 誠一郎は解剖器具を乗せたワゴンからメジャーを持ってくると変死体の首筋の傷穴に当てた。

「三・五センチ」

「三・五センチだな?」

 小林は人体図に書き足した。

「じゃあ、解剖に移るぞ」

 誠一郎の言葉に小林は固唾を呑んだ。

 誠一郎はワゴンからメスを取ると、変死体の腹部を切開していった。その隣で小林はボードを衝立代わりにして上からのぞき込んだりボードで目元を隠したり、びくびく震えていた。

「やっぱり……」

 誠一郎は呟いた。

 予想通り、切開していったところからほとんど血液が滲み出てこない。今回の変死体も全身の血を抜かれている状態だった。

「変死体については、内側に異常は……ないな」

 一通り、変死体の内部を確認し終えた誠一郎は、遺体の腹部を縫合し、元通りに戻した。

「さて、問題なのは……」

 誠一郎と小林は背後に並ぶ手術台に目を向けた。

 誠一郎はゴム手袋を新しい物に変え、棚から新しいメスやメッツェンバウム、胸骨切開用電動ノコギリ、開胸器等をワゴンに乗せ、もう一つの遺体が横たわる手術台へ押していった。

 もう一つの手術台には未成年と思われる青年女性が横たわっている。頭の脇には犬歯と思われる、異様に長い歯、二つが入ったペトリ皿がある。

 誠一郎は“吸血鬼さん”と同じような遺体の周りをぐるっと一周した。

「外傷は左胸部の刺し傷一つ」

 誠一郎の言葉に小林は新たな人体図の左胸に線を一本記入した。

 次に誠一郎は遺体の口を開けた。

 ペトリ皿に歯があるのだ。無論この遺体の犬歯の部分はぽっかりと空いていた。

 誠一郎はペンライトで口内を照らし、のぞき見た。

「歯茎に出血のあとがある。この遺体も、死ぬ間際に抜かれたみたいだな……」

 そう呟きつつ、誠一郎はペトリ皿の歯二つを両手に持つと、遺体の、ぽっかりと空いた犬歯の部分に当てがった。

「小林、メジャーで測ってくれないか?」

「あ? ああ」

 小林はステンレスワゴンからメジャーを取り出すと遺体の犬歯の距離を測った。

「えっと……お! 三・五センチだ」

 小林はメジャーを戻すと、人体図の用紙の隅に三・五センチと殴り書きした。

「そっちの変死体の首筋の傷穴と一致したな」

「あと、これも」

 誠一郎が取り出したのは検査用綿棒だ。 

 綿棒の先で傷穴周辺を擦りつけ、試験管に入れると蓋をした。

「検出出来るかは分からないが、もし噛んだとしたら唾液がついてるはず。科警研で調べられるだろ?」

「おうよ。任せとけ」

「じゃあ、解剖に移ろうか」

 誠一郎は歯をペトリ皿に戻すと、ステンレスワゴンからメスを取った。

「では、開きます」

 誠一郎の言葉に、小林は目一杯深呼吸をした。

 誠一郎は遺体の胸部中心に真っ直ぐメスを入れた。その瞬間、プツリ、プツリと血が滲み出てきた。

 遺体の胸骨が露になると、誠一郎は左胸の皮膚をめくり、肋骨を確認した。

「四番と五番の肋軟骨に傷がついてる……」

 誠一郎は小林に視線を送った。当の小林はボードで顔を隠しつつ、記入している。誠一郎は内心ため息をついた。

……水死体の方も結構なものだと思うんだが……。

「小林、ちゃんと見てるのか?」

 誠一郎の言葉に小林は肩をびくつかせた。

「ももも、勿の論!」

 小林はボードを退けると、大袈裟に遺体の胸部を見下ろした。その目は少し泳いでいた。

……ぬぉぉおおっ! 真っ赤だ! 真っ赤だっ! 目がおかしくなりそうだっ!

「ずっと血液とか赤色を見続けていると残像が見えるから床とか、手術衣を見た方が良いぞ」

 誠一郎は胸骨切開用電動ノコギリをワゴンから取り出しながら言った。

「そ、そうか……」

 小林は小さくため息をついた。

 誠一郎は派手な音を立ててる電動ノコギリを構えると、遺体の胸骨中心に刃を押し当てた。胸骨正中切開だ。

 無事に胸骨正中切開を終えると、開胸器を胸骨に固定し、胸骨をどんどん押し広げていった。そして露になったのが胸膜に被われた心臓と肺だ。

 メッツェンバウムを用いて胸膜を切開、剥離し、心臓を露にした。

 誠一郎と小林は遺体の胸部内をのぞき込んだ。

「心臓まで達してるな……」

「“吸血鬼さん”たちの犯人は一撃必殺だよな……。こりゃ、犯人は大の大人だろうな?」

「……かも知れないな」

 誠一郎は小林の問いに返しつつ、腹部の切開に移った。

「錦野はよくそんなこと出来るよな! ホント尊敬するぜっ!」

 いつの間にか、小林は遠く離れたところからボードを盾に、誠一郎を見守っていた。

 誠一郎は今、露になってる遺体の腹膜をメッツェンバウムで切開していた。

「小林、胃の内容物を見るんだよな? 胃切開するぞ……?」

 誠一郎はじとっとした目付きで小林を見つめた。

「えっ! ちょっ!……俺、はらわたが一番苦手っ……」

 小林は怯んだ犬のように裏返った声で、か細く言った。

「小林……それでよく警察官になったよな? ちゃんと記録出来なかったらお前のせいだからね?」

 誠一郎の脅しのような言葉に小林は深呼吸をし、牛歩の如く歩み寄っていった。その様子に誠一郎はため息をつく。

「……よし、始めてくれ……」

 小林が生気のない声で言った。

 誠一郎は遺体の消化器官を確認した。

「消化器に損傷はなし」

 再びメスを握ると、胃の表面を切開していった。

 切開した胃を慎重に開くと、中身は赤黒いドロッとしたゆるいゼリー状の物体で満たされていた。

「そそそ、それが、変死体の血液かも? ってか?」

 小林が声を震わせながら言った。

「それについては科警研で調べてくれ」

 誠一郎はワゴンからスポイトを取ると赤黒い物体を吸い取り、試験管に移した。

「そ、それにしてもっ、フツーの食べ物は食べてないんだろうか?“吸血鬼さん”たちは……」

「ん?」

 小林の言葉に誠一郎はふと、遺体の胃の中を見つめた。

……確かに……通常の食べ物が見当たらない……。まさか……本当に吸血鬼?


 司法解剖を終えた誠一郎と小林は遺体の入ったバッグを乗せたストレッチャー二台と共に解剖室を後にした。

 病院裏口から出ると、太陽はもう高いところにあり、数時間近く解剖をしてたということに気付かせてくれた。

「待たせたなぁ……」

 小林がげっそりとした様子で、病院裏口に待たせていた捜査員たちに声をかけた。

 遺体の入ったバッグ二つを乗せた警察車両は錦野監察医総合病院を後にしていった。

 誠一郎はふぅ、と息をつくと病院内へ入っていった。その様子を、黒いパーカーに帽子、サングラスをかけた黒ずくめの青年が遠くから見ているのも知らずに……。


「ミナ子ちゃん」

「はい」

 ダイニングルームで、昼食を終えた柏木がミナ子に話しかけた。

「午後は旦那さまの書斎のお掃除良い?」

 “書斎”と言う単語に、ミナ子の顔がひきつった。

……あの、一週間で“元に戻る”書斎を……。

「……わ、かりました……」

 ミナ子は昼食の後片つけを柏木に託し、掃除機を手に二階の書斎へ向かった。

……掃除機か……。書斎終わったら廊下もかけておこう。

 ミナ子は書斎のドアをゆっくりと開けた。

「……失礼しま――」

 書斎のあり様にミナ子は口をへの字に曲げると、地団駄を踏むように室内へ入った。

 数日前に床やソファーに積み上げられていた分厚い医学書や参考書、中には仕事と絶対に関係なさそうな文庫本、走り書きのメモ書きを、もしかしたらまだ使っている可能性があるので、本の背表紙や角を合わせてテーブルの上に置き、メモ書きは机の上にそろえて置いた。なのに、もう“前の状態”に戻っていたのだ。

……もう汚い……。

 ミナ子は深いため息をつくと、掃除機を壁に立てかけ、床に山積みになってる医学書や参考書をテーブルの上に乗せた。

 医学書や参考書の角をそろえようと、本の側面を両側から押さえ、真っ直ぐにすると一ヶ所だけぽっかりと隙間があり、ミナ子は体勢を低くして、隙間の正体を拝んだ。

 ハードカバーの分厚い本と本の間に手帳サイズの本が挟まっていた。

 ミナ子は上に重なってる参考書を持ち上げ、小さな本を取り出した。

 その小さな本のタイトルは『カーミラ』と記された文庫本だった。

「カーミラ……?」

 ミナ子は参考書を元に戻し、ソファーに乗る物を隅に移動させると、座り込み、本を読み始めた。


『――やがて二本の針で、同時に胸を深々と刺し貫かれるような感覚に目を覚ま――』


 ミナ子はゆっくりと本を閉じた。

 肩をぶるぶると震わせては、胸元のペンダントを必死に握り締め、何かに耐えているかのようだった。

……オ腹、空イタ……。


「おかえりなさいませ」

「ただいまぁ〜……。今日も疲れた……」

 夕方、誠一郎が帰宅した。それをミナ子が出迎えた。

「柏木さんは?」

「今お風呂の準備をしてます」

「そうか」

 誠一郎がミナ子の横を通り過ぎようとした時だった。

 背広を引っ張られ、誠一郎は振り返った。

「……どうした? 場鳥……」

「先生……」

 誠一郎を見上げるミナ子の瞳孔が異様に大きく、まるで獲物を目の前にした猫の目のようだ。

「場鳥?」

「……の……に……い」

「えっ……?」

 ミナ子の口角から涎が垂れていた。

「場鳥、ヨダレが垂れてるぞ?」

 誠一郎の言葉に、ミナ子ははっ! と我に帰った。

「す、すみません……」

 ミナ子は深刻そうにうつむきながら胸元のペンダントを握った。

 誠一郎はミナ子の様子に苦笑いを浮かべた。

「君も疲れてるみたいだな。今日は早く寝なさい」

「……はい。あ、先生」

 ミナ子に引き止められ、誠一郎は振り返った。

「どうした?」

「これ……借りても良いですか……?」

 ミナ子はそろそろと背後から一冊の文庫本を差し出した。誠一郎はかがみ込み、本を眺めた。

「これを、読むのか……?」

 誠一郎は驚いた表情でミナ子に尋ねた。ミナ子はコクコクとうなずいた。

 その本とは『カーミラ』のことだった。


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