第28話 変化

【微ネトラレ注意】


 桐崎 七也による魔法の実在の公表に始まる混乱は、世の中を180度ひっくり返してしまった。

 しかし、こと月野学園とその学生たちの間では混乱は収束しつつあったと言えただろう。

 教員の多くと学生の全員が魔法使いとしての素質を持っているという情報は、学生の間に派閥と差別を生まなかった。

 いい意味で、それまでの人間関係を変えなかったのだ。


 もっとも――。


「おはよう、花梨」

「あ、おはようございます。桐崎くん」


 春日野 花梨の周囲は除いての話だったが……。


 全ての記憶を失った花梨は、母親の絵里子の計らいで月野学園への通学を続けていた。

 花梨の友人はみな優しかった。

 花梨も、何も覚えていないなりに彼らに感謝をしていた。

 だが、その関係性が以前のそれに戻ることは、もう二度とない。


「総也くん……」


 総也の後ろを歩いていた真理亜が目を伏せる。

 彼女もその精神性を大きく変貌させた内の1人だった。

 以前のように、どこにいても人目をはばからずに総也に引っ付くことはなくなった。

 その空気感を一言で表すなら、彼女は憂いを帯びた。

 その瞳に差した翳りが、より彼女の美しさを引き立たせていたのは皮肉の一言だった。


「よっ、花梨!」

「おはよう、春日野さん」


 義人と修が花梨に朝の挨拶をする。

 彼らも今まで通りに……いや、それ以上に花梨と親しくしていた。

 記憶を失った花梨に対して、努めて優しく接するように気を遣っているようだった。

 それに対して、総也は花梨とよそよそしくなってしまっていた。

 元の距離感が近すぎたのだ。

 もう元のようには接することができなかった。


「おはようございます。お二人とも」


 花梨が柔らかく義人と修に微笑みかける。

 それは、先ほど総也が花梨に挨拶した時に見せたのと全く同じ笑顔だった。

 全く、同じだった。

 その様子を、総也はあいまいな笑みを浮かべて見守っていた。


「……」


 席に座りながら、真理亜はその総也の儚い笑顔から眼を逸らす。

 真理亜は自分自身の内面に目を向けた。

 少し前の自分なら、総也が花梨のことを見ているというそれだけで容易く嫉妬心を抱いていただろう。

 真理亜は良い意味でも悪い意味でも落ち着いた。

 今は、この程度のことで動揺することはない。

 その一方で、真理亜は自分が果たして総也に相応しい女なのかどうかについて自問する機会が増えた。


(私は、総也くんを裏切った――)


 総也が真理亜を裏切ったことで心を痛めたように、真理亜もまた総也のことを裏切ってしまったと深く後悔をしていた。

 否。

 それは裏切りですらなかった。

 総也は、最初からカケラも真理亜のことなど信頼していなかったのだから――。


(私は、総也くんが止めてくれていなければ、間違いなく未来さんを殺していた――)


 総也は、悪い意味で完璧なまでに真理亜の人間性を信頼していた。

 未来が総也をレイプしたと知ったならば、真理亜はありとあらゆる手段を用いて未来のことを殺そうとしただろう。

 真理亜には確信があった。

 何せ、自分のことだ。

 自分が一番よく分かる。


 その底の浅い人間性を、総也は完全に看破していたのだ。

 だからこそ、彼は真理亜に手枷を嵌めた。

 魔法を使わせないよう、彼女の力を封じたのだった。

 あの枷は、総也の真理亜に対する信頼の形の象徴だった。


 周囲の時間がゆっくりと停滞しているようだった。

 世界に自分一人しかいないかのようだった。

 隣にいるはずの総也がどこかとても遠い存在に思えてならなかった。

 真理亜は、彼の信頼を追い求めた。

 彼の承認を渇望した。

 今は、彼の愛よりもそれが欲しかった。求めていた。

 そのことが、無限に彼女のことを苛んでいた。


「真理亜……どうした? 大丈夫か?」


 愛する人から眼を逸らしたまま俯いていた真理亜のことを、総也が心配そうに覗き込む。

 その瞳には深い愛情が込められていた。


「大丈夫ですよ。少し生理が重いだけです……」

「そうか。無理するなよ。辛かったらすぐに保健室に行け、な?」


 心配そうな視線のまま、総也が真理亜を見つめる。

 その深い愛情は、しかし一方的なものでもあった。

 そのことが、さらに真理亜を苛んでいた。


 あの事件以来、総也は真理亜のことを今まで以上に大切に扱うようになった。

 そこに彼の深い愛情があったことは疑うべくもない。

 だが、同時に彼は、真理亜を裏切ってしまったという贖罪に囚われているようでもあった。

 そのことが、さらに真理亜を苛んでいた。


「――っ!!」


 真理亜が己の唇を強く噛む。

 どうすれば、彼の信頼を得られるのだろう?

 どうすれば、彼は自分のことを認めてくれるのだろう?

 今まで彼の愛を求めていただけの真理亜にとって、信頼を求めるという行為は難しすぎた。


 総也も総也で、真理亜のことで気に病んでいた。

 あの事件以来、真理亜の雰囲気が変わったことに気づかない総也ではない。

 だが、彼女が愛以上に求めているものがあるということに彼は気づけなかった。

 総也は、ここに来て真理亜のことを侮っていた。

 今こそ羽化をしようとしていた真理亜のありのままを受け入れられず、総也は彼女のことをただ自分の贖罪の対象として見ていた。

 総也は、真理亜が今までと同じく底なしの愛を求めていると思い込んでおり、それに報いることこそが自分の為すべきことだと思い込んでいた。


 噛み合っていたはずの歯車は、徐々にきしみ始めていた。


 朝が終わり、昼が終わり、その日の魔法の実習の時間がやってきた。


 ここ数日で一気に才能を開花させたものが2人いる。

 1人はもちろん総也だ。

 精神的なショックは魔法使いの力を覚醒させる。

 総也は、七也の血という本来持ち合わせていたポテンシャルをここに来て最大限に発揮させていた。

 電磁力を扱わせたら、学園で彼の右に出る者はいなかった。

 それ以外にも、あらゆる魔法の分野において、彼は好成績を収めていた。


 そして、もう1人は意外にも花梨だった。

 記憶を失ったことが、皮肉にも魔法を学ぶことにおいてはプラスに働いたのだ。

 今までの人生で獲得してきた常識やしがらみといったものから解放された花梨は、生来の勘の良さによって柔軟に魔法を習熟していった。

 彼女は、特に何か新しいものを生み出すことにおいて才能を発揮していた。

 花梨は1日の中で、魔法を扱っている時だけ楽しそうな笑顔を浮かべるのだった。


 しかし、このことはさらに総也と花梨の間の溝を深めてしまうことになる。

 今まで総也が持っていた、勝手に抱いていた「日常の象徴」としての花梨の姿は、最早どこにもありはしなかった。

 記憶を失い、魔法の才能を開花させた花梨は、総也にとって手の届かない存在と化していた。

 席が隣でありながら、彼と彼女は会話をすることが極端に減少していた。


 その日の実習でも、総也と花梨は抜群の成績を収めていた。

 だが、彼らが実習中に目を合わせることはついぞなかったのである。

 そして、総也のそんな様子を、真理亜は悲しげに見つめていたのだった。


「体調は大丈夫か?」


 実習終了後、そんな真理亜に総也が話しかける。

 その瞳には、変わらぬ愛情が刻まれていた。

 真理亜の心は悲鳴を上げた。


「いえ、朝と変わりありません。よくもありませんが、耐えられないほどではないです」


 どこか憔悴した表情で真理亜が答える。

 そのことが、総也をますます心配させた。


「送っていくよ。玄関先でいいよな?」

「……ええ」


 そして、総也が真理亜の手を取る。

 真理亜は、そんな愛する人の手を、控えめに握り返した。

 ――今までの真理亜だったら、間違いなく腕を絡めて胸を押し付けていたような場面である。

 その真理亜の様子の変化に総也は戸惑いを隠せなかった。

 彼女が何を求めているのか、彼にはまるで分かっていなかった。


 結局、真理亜を家に送り届けるまでの間、2人はぎこちない会話をするのみだった。

 別れ際にキスの1つすらしなかった。


********************


 真理亜が生理の間はもちろんとして、生理が明けた後でも、真理亜と総也は身体を重ねることがなかった。

 そのことは、ますます総也を混乱させた。

 彼女の求める愛の形が分からなくなっていた。

 だが、真理亜が求めてこない以上は、彼は無理に彼女を抱くことはなかった。


 しかし、そのことは逆に真理亜を苦しめていた。

 真理亜も真理亜で、総也とどう接していいかが分からず、言外に彼からのアプローチを待っていたのである。

 抱かれれば、気持ちは一時的には楽になっただろう。

 快楽に身を委ねれば、一時だけでも彼女の気持ちは晴れたはずだ。

 しかし、そんな「逃げ」すらも総也は許してくれなかった。


 真理亜はますます精神的に追い込まれていった。


 事件が起きたのはそんな時である。


********************


 ある日の朝、総也と真理亜が一緒に登校をしてくると、教室はいつも以上にざわついていた。

 何やら、花梨を囲んで女子たちが会話の花を咲かせている。

 席が隣の総也は、必然その内容が耳に入った。


「え~! いや、いくらなんでもあいつはないでしょ~。絶対別れた方がいいよ~」

「うーん。でも、彼にはとてもよくしてもらってるから……」

「確かに最近はそうみたいだけどさー。あいつ、本性はただのエロ男だよ? 絶対やめた方がいいって~」

「そ、その……告白はすごく真摯にしてもらえたし、断るのはちょっとかわいそうかなって……」


 総也は耳を疑った。

 その内容は、まるで花梨が誰かと付き合いだしたかのような内容だったからだ。


「なぁ、おい……」


 総也は思わず女子たちに話しかける。

 すると、花梨を囲んでいた女子たちは、どこか気まずそうな表情をしたまま花梨の下を離れた。

 その様子が、ますます総也の予感を確信へと変えていく。


「か、花梨……? おまえ、誰かと付き合い始めた、のか……?」


 会話の内容は、どう考えてもそういう類のものだった。

 総也は、頭がクラクラするのを自覚しながらも花梨にそのことを問いただす。


「え? あ、あはは。バレちゃいましたか……」


 花梨は、隣の席のクラスメイトに対して、恥ずかしそうに赤面してみせた。

 その反応に、総也は頭を金槌で殴られたかのような衝撃を受ける。

 総也と付き合っている当の真理亜でさえも、その事実には息を飲むのであった。

 だって、あの花梨が、総也にベタ惚れだったあの花梨が、他の男と付き合い始めたのだ。

 それは恋敵たる真理亜をして衝撃を受けさせる展開だった。


「だ、誰が相手なんだ……?」

「あ、えへへ、それはね……」


 と、花梨が口を開こうとした刹那――。


「おう、おはよう、総也。それに来音さん」


 ニコニコとした満面の笑みで、総也の親友の義人が彼に話しかけてくる。

 一抹の嫌な予感がよぎった。

 そして、彼の嫌な予感は外れたことがない。


「紹介するぜ。俺の彼女の春日野 花梨だ!」


 義人はニシシと笑みを浮かべながら花梨の肩を抱き寄せてみせた。

 その様子に、当の花梨は恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに頬を朱に染めたのだった――。

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